文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 190 ”共感力”という考え方

 

相変わらず、政治や行政の世界では理不尽な出来事が続いています。私などは、腹が立って仕方がありません。一つ言えるのは、財務省では“内部統制システム”が機能していない、ということです。また、組織のトップに立っている人間のレベルがあまりに低い。あんな人たちの給与や退職金のために、私たちの税金が使われるのかと思うと、がっかりしてしまいます。現代日本の組織では、やはり、上司におべっかを使う人間が出世する仕組みになっている。誰か頭のいい人に、「人格判断基準」のようなものを作ってもらいたいものです。上司のご機嫌を取る能力や記憶力だけではなく、その人の人格を測定する方法なり基準を作る。そして、人格の優れていない人は出世できない。そういう仕組みはできないものでしょうか。

 

さて、私の血圧が上がる前に、本論に入りましょう。

 

記号学のパースは、言語などの記号を理解するためには、それなりの素養が必要だと考えた。そこで、“解釈思想”という概念を提唱しました。英語では、the interpretative thought of a sign という表現です。翻訳の難しさもありますが、この言葉にはちょっと違和感があります。それは、むしろ素養や能力に関わるものであって、思想ではないと。何かいい言葉はないかと考えていたのですが、“共感力”と言ってみてはどうでしょうか。記号を理解するための素養や能力と同じように、文化を理解し、そこに共感を覚え、参画していく。そういう力が文化を支えている。その力を“共感力”と呼びたい。(私の造語です。)

 

例えば、私は今まで、石に興味を持ったことがなかった。そのため、日常的なフィールドに存在する様々な石を見過ごしていた。危うく、石と石に関する文化の素晴らしさに気付くことなく、一生を終えるところだったのです。すると、この“共感力”というのは、私たちの人生に多大な影響を及ぼしているに違いない。

 

実は、私には同じような経験がもう一つあります。少し前にライオンに関するシリーズ原稿を掲載させていただきましたが、当時、私はYouTubeで様々な動物に関する動画を見ておりました。すると、もののはずみで“猫”に関する動画に行き当たったのです。私は、今まで猫に興味を持ったことはありませんでした。猫がどんなことを考えながら暮らしているのか、そんなことを考えたことはなかったのです。しかし、YouTubeの動画を見ておりますと、飼い主たちが、想像して、猫の気持ちを代弁するようなコメントを書いておられる。「お腹がすいた」とか、「遊んで欲しい」というようなたわいもないものです。しかし、それらのコメントには、飼い主さんたちの愛情が表現されているんですね。なるほど、猫の飼い主というのは、こういう気持ちで、猫に接しているのか。そういうことが分かってくる。例えば、捨てられた子猫を拾ってきて、育てようとする。そういう人たちの優しさが、伝わって来るんです。私は今まで、自ら率先して猫に触ってみたことなど、一度もありませんでした。しかし、先日、あるコンビニの前に野良猫がいた。子供たちが、野良猫を撫でている。遠目にそんな光景を見ていたのです。子供たちが立ち去ったあと、私は恐る恐る猫に近づき、その背中を撫でてみたのでした。野良猫は、左程、私に興味を持った風ではありませんでしたが、嫌がる風でもなかった。猫を撫でると、こんな感じがする。それは些細なことですが、何か、貴重な経験でもある。そんな気がしました。

 

石の例と同じで、私は身近に存在し続けて来た何かを、見ていなかった。気づかずに生きてきた。もしかすると、まだ他にもそんな“何か”が沢山あるのではないか。そんな風に思うのです。

 

では、共感力はどのように培われ、どのように発揮されるのか。石の例で、考えてみます。

 

まず、準備段階。ある文化を受け入れるための、心の準備段階というものがあるのではないか。私の場合は、3年程前に、金剛峯寺を訪ねていた。そこで、例の岩の写真を撮っていた。なんとなく、その印象が残っていた。ただ、それだけでもないような気もするのです。その後、西伊豆にある“黄金崎クリスタルパーク”という所で見た、ガラス工芸が影響しているのかも知れない。そこには、ガラス工芸に関する芸術作品が展示されているのですが、透き通ってはいないガラスの素材を立方体にしただけの作品があった。まだ、形も機能も付与されていない、ただドロドロとしたガラスの素材その物が展示されていたのです。これが何故か、私の心に響いた。それは、石に似ていないこともない。

 

第2段階として、“閃き”がある。ブログに写真をアップしながら、ああ、この岩は素晴らしい、と閃いた訳です。但し、上記の準備段階がなければ、この“閃き”は訪れなかったものと思います。

 

第3段階として、自分とのつながりを考えることになる。ガラスの場合は、ハードルが高い。私には、ガラスに関する知識がない。ましてや、ガラスを加工するとなると、高価な設備も必要となるに違いない。他方、石ころであれば、そこら辺の河原とか、海岸で拾えるのではないか。

 

第4段階としては、あとは石に関わる行動を取ることになります。石に働き掛ける。それは正に、文化に参加するということを意味している。

 

共感力というのは、特に、2次性の文化(物と自然)において、要求されるように思います。

 

但し、「この石って素晴らしいよね」と誰かに共感を求めた場合、それは“感情”という1次性のカテゴリーに陥ることになります。

 

また、「君の持っている石よりも、僕の持っている石の方がいいよ」と考えれば、それはマウンティングというエゴイズムに貶められることになります。

 

私はこの石が好きだ、という孤高の感覚を受け入れる自信と覚悟。それが、大切なんだと思います。

 

それにしても、石の他にも、世界には木がある。土もある。水もある。そして、それらと私たちは、文化を通してつながっている。やはり、まだ私が気づいていない“何か”は、この世に沢山あるに違いありません。

No. 189 自然と結ぶ力

今回の原稿も話が飛びそうなので、一番言いたいことを最初に記しておきます。石には、私たちの心と自然を結びつける力がある。そして、その力は私たちの心を癒す。

 

昔、チャーリー・ワッツローリング・ストーンズのドラマー)が面白いことを言っていました。

 

「ドラッグには、心をハイにさせるアッパーと、逆に心を落ち着かせるダウナーというのがある。やがて、その双方を交互にやるようになる。変な話だよね。」

 

なるほど。私などは、それは文化も同じかも知れないと思う訳です。文化にも、心を熱狂に向かわせる1次性のものがあり、反対に心を落ち着かせる2次性のものがある。そして、石を巡る文化は、2次性の典型ではないか。

 

前回の原稿を書いた頃から、私は石に惹かれ始めたのですが、すると街を歩いていても、新たな発見があるのです。あちこちに、石がある。例えば、20数年に渡って通い続けている駅前の蕎麦屋があるのですが、そこの駐車場の隅に立派な岩があったりする。その岩に、今まで私は全く気付いていなかった。一体、私は何を見て60年以上も生きてきたのか、とあきれてしまいます。興味がなかった。関心がなかったから、その岩に気付かなかった。工事現場の片隅に石が山積みになっていたりする。立派なお宅の庭にも、無造作に石が置かれていたりする。生垣の隙間からそんな石を眺めたりしている訳ですが、これはもう不審者と疑われても仕方がありません。

 

石についてまったくの素人である私に石を語る資格があるのか、という気もします。玄人の方からは、「このトーシローが!」とお叱りを受けそうですが、ご容赦ください。

 

さて、石と人間の歴史を考えてみますと、それは文字通り石器時代まで遡ることになります。鋭利に尖った黒曜石を矢の先に付けたり、木の棒の先端に石を括り付けて斧にしたりしていた訳です。これらは機能を持っておりますが、それだけではなかったような気もします。無文字社会のイワム族には、ある石を大切に保管している人がいました。弥生時代の日本でも“玉”と呼ばれる石を加工したものが、普及しています。石には、人の心を癒す何かがあるに違いない。宝石などは、古今東西、女性たちの心を惹きつけています。

 

そう言えば、以前、私はベルギーのグラン=プラス広場に行ったことがあるのですが、妙に気持ちが落ち着いたことを覚えています。この広場は教会だとかホテルなど、数百年の歴史を持つ建物に取り囲まれているのですが、それらの全てが石づくりになっている。広場の地面も全て石畳になっているんです。すると、多少のことがあったって、人間の社会というのは存続していくんだ、という確信のようなものが心の中に湧き上がって来るのです。今までも、長い間続いて来た。だから、これからも続いていくに違いない、という感覚なんです。そういう安心感というものが、見渡す限りの石から伝わって来る。

 

日本に目を移しましても、お地蔵さんが沢山ある。都会ではあまり見かけなくなりましたが、ちょっと地方へ行けば、そこら中の田舎道にお地蔵さんが立っている。お地蔵さんを作った人の気持ちを推し量ってみますと、あまり仏教の教義などに関心はなかったのではないか。特に昔のことであれば、仏教に関する情報も極めて少なかったに違いありません。してみると、仏教的な意義というよりは、むしろ石を削るという行為の中にこそ、本質的な意味が込められていたのではないかという気がしてきます。石を削る。それは大変な作業だろうと思うのですが、完成した時の喜びもひとしおではないでしょうか。ある石と自分との間に強固な関係性が確立される訳です。

 

現代の日本におきましても、石に関わる文化は、盛んなようです。“水石”と呼ばれるジャンルがある。これは、石を台座などに据えて、楽しむスタイルを指すようです。調べてみますと、全日本愛石協会という団体まであります。この教会は、定期的に水石の展覧会を開いているようです。

 

中国に起源があるのかも知れませんが、「一生一石」という言葉がある。ネットで調べたのですが、残念ながらその正確な意味は分かりませんでした。「生涯を掛けて、たった一つの石を慈しむ。それ程、人生というのは儚いものではあるが、それで良いのだ」ということでしょうか。

 

蛇足かも知れませんが、記号原理で考えてみます。

 

この場合、石が記号です。そして、石が指し示す対象とは、自然であり、永遠だと思うのです。石は私たち人間よりも遥かに長い時間、存在し続けている。それは、多分、私たちが死んだ後にも存在し続ける。そのような石の確固たる存在を一言で表現するには、“永遠”という言葉が相応しいのではないでしょうか。

 

ある石があって、その石と私との関係性を考えてみる。これが意味ということです。しかし、残念ながら、私はどの石とも関係性を持っていない。ほとんどの場合、誰だって事情は同じだと思うのです。生まれた時から、特定の石と何らかの関係を持っている人というのは、ほとんどいないと思います。すると関係性、すなわち意味を作り出さなければならない。記号原理で言えば、“意味創出型”ということになります。そこで、石と関係性を持ちたいと願う人は、石に働きかけることになります。ある人は、石でお地蔵さんを作る。その他にも、石を所有する、磨く、水を掛ける、水に漬ける、台座に載せる、写真を取るなど、様々な方法が考えられます。すなわち、人間の方から働き掛けないと石との関係性は生まれない。

 

対象・・・自然、永遠
記号・・・石
行動・・・石に対する働きかけ
意味・・・自然、永遠とのつながり。心の平穏

 

いずれにしても、生涯を掛けて慈しむべき、たった一つの石。そんな石に巡り会いたいものです。

石と文化

前回の記事に添付致しました写真についてですが、金剛峯寺のHPを確認した所、同じような写真が掲載されていました。やはり、これは高野山金剛峯寺における庭園ということで、間違いなさそうです。

 

それにしても、いかがでしょうか。そこには、物と自然に関わる圧倒的と言っても過言ではない、文化の姿が見て取れます。掃き清められた地面に配置された岩の数々。それらはあたかも海上に浮かんでいる島々のように見えます。まず、大自然があって、そのミニチュアを作る。そこに1つの文化の類型を見ることができます。

 

そして、写真の中央に写っている白っぽい岩。ブログ上では少し見にくいかも知れませんが、右下の方は明らかに材質が異なっている。いくつかの層があって、それが歪められ、他の材質に接続されている。多分、何万年という歳月が層を生み出し、大地のエネルギーがそれらを歪め、そして地球の熱が異なる材質を接続した。そんな風に想像することもできます。大自然のダイナミズムが、この岩に凝縮されている。そういう見方をしていますと、ちょっと感動してしまいます。

 

あの岩自体は、自然の産物であって、人が作り出した芸術ではありません。しかし考えてみますと、2次性の芸術、すなわち美術というのは、まず、自然の素晴らしさがあって、それを模倣するところから出発している。自然の方が本家本元なんですね。そんなことを考えていますと、「あの岩が欲しい!」という、とんでもない欲望に駆られてしまいます。

 

ちょっと話が飛躍してしまいましたので、このブログの現在の立ち位置を補足させていただきます。

 

1次性の文化というのは、動物を真似る所から始まって、歌う、踊る、着飾る、という現象を生み、それが祭りに発展する。しかし、年を重ねるに従い、私自身は1次性の文化に対する興味を失いつつある。そして、3次性の文化というのは、動物を敬うところから出発し、人間に想像力を喚起し、思考という能力を与えた。いくつかのステップを経て、一部の人間は論理的に思考するようになった。しかし、現在の日本の政治状況に象徴されるように、現実の世界では1次性のメンタリティと3次性のメンタリティが激しく対立していて、論理的に考えれば考える程、腹が立って来る。そういう怒りに満ちたメンタリティにも、私は、疲れてしまった。平穏な心の状態というのを求めている。そこで、2次性、すなわち“物と自然”に回帰したいと願っている。

 

話を元に戻しましょう。あの岩が欲しい、と思ったところからです。あの岩の値段がどれ程なのかは分かりませんが、そもそも金剛峯寺というりっぱなお寺の庭にある訳で、私が購入できるはずはありません。そもそも、私にそんな資金力はありませんし、マンション住まいなので、岩を置く場所だってないのです。

 

しかし、物は考えようです。そもそも、あの岩を買ったとしても、私はいずれ死んでしまいます。そして、私が生まれる前からあの岩は金剛峯寺のあの場所に、置かれていたのではないでしょうか。すると、所有するという固定概念にとらわれる必要はない。私は、あの岩の写真を持っている。それだけで、十分かも知れない。

 

そもそも、人間と物との関係は、次の3種類だった。

 

物に機能を付与する。
物に願いを込める。
物に何かを象徴させる。

 

現在の私の心理状態からしますと、私は、岩とか石に機能を求めている訳ではない。願いを叶えて欲しい訳でもない。残るは“象徴”ということになります。

 

そこで、例えば、次のようなことを考えたのです。石ころを集めてみる。そこら辺に落っこちているものでいい。ただ、隣の駐車場にあるような石では、私と石との間に関係性が生まれない。そんな石に何かを“象徴”させることはできない。意味が欲しい。では、どこか旅行に行って、その際、一つだけ石を拾ってくる。そうすれば、その石は旅の思い出だとか、旅先という“場所”を象徴することになる。

 

もちろん、石にも良し悪しがあるのだろうと思う。しかし、その審美眼は、いくつもの石を見ていれば、自然と養われてくるのではないか。拾ってきた石は、木の板に並べて置くとか、どこかの棚の一角に並べてみてもいい。そして、時折、眺めてみる。ただ、石の数が増え続けるのは困る。石の数は、最大でも7つ位がいい。それぞれの石は、常に私の審美眼によって評価される。そして、8つ目の石がランクインした場合、どれか一つの石が廃棄されることになる。廃棄の場所は、隣の駐車場で十分だろう。これなら、お金もかからない。これって、趣味として成立しないだろうか。

 

そんなことを考えながらDamselさんのブログ(1023.blog.so-net.ne.jp)を拝見していたところ、水草水槽というのが出ていました。水槽の中に石や木片を入れて、水草も入れる。こちらは、りっぱな趣味として成立しています。最終的には、魚も入れるのでしょうか。出来上がるのが、楽しみです。

論理性と怒り

今、怒っている日本国民というのは、かなり多いのではないでしょうか。言うまでもありません。政治と行政の問題です。

 

本日も国会中継があり、私も見ておりましたが、事態の解明は一向に進みません。森友や加計の問題については、既にご存知のことと思いますので詳述は致しませんが、私としては、これでほぼ“詰み”だと思っていたのです。

 

まず、森友学園。これは、財務省から森友学園側に「口裏合わせ」の依頼をしていたことが判明しました。この点は、財務省も認めています。ということは、8億円の値引きの正当性が失われたことを意味していると思います。本当は、そんなにゴミはなかった。そのことを財務省も知っていたから「口裏合わせ」を行ったと考えるのが、ロジックというものです。しかし財務省は、未だに言い逃れをしているようです。更に財務省は、野党議員が要求する資料も一向に開示しない。国民に対して説明責任を果たそうという姿勢は、全く感じられません。

 

次に加計学園。こちらは2015年4月2日の官邸における面談について、愛媛県の作成した備忘録が発見され、県知事もその信憑性を是認しています。更に本日の国会で、今治市の職員が同日、官邸を訪問したことも確認されています。今治市の職員は、当時、出張旅費を請求する関係もあって、面談の事実を証する書面を作成しており、その一部は開示されています。今治市は、官邸を訪問したと言っており、その議事録が愛媛県から発見された。それでも政府は、その面談が行われたこと自体を認めようとしません。

 

仮に、政治家が正しいことをしようとしていたとして、その政治家の意向を察して官僚が行動したとする。これは“忖度”と言って良い。しかし、誰かの意向をおもんばかって公的文書の改ざんという違法行為を行った場合、これを“忖度”とは言わない。

 

政府側関係者は、一体、どのような価値観や原理に基づいて行動し、発言しているのでしょうか。権力者のエゴイズムだけで、現在の政治状況を説明できるのか、私には確信が持てません。ただ、一つ言えるのは内部告発やリークによって、真相究明が進んでいるということです。驚くような情報や文書が、連日報道されていますが、その大半は内部告発やリークに基づくものだと思うのです。ということは、様々な組織内において、自らの良心に基づいて行動されている方々がおられる、ということを意味している。そして、それらの人たちは、自らリスクを負い、メディアなどに情報を流している。相当、思い悩んだ末の行動ではないかと察します。このように考えますと、現政権というのは、本当に罪なことをしている。日本国民を分断し、一部の人々には過酷な判断を迫っている。良心の呵責に耐え兼ねて、自ら命を絶ってしまった人もおられる。

 

このような現象を、少し離れた所から見てみますと、現在の日本社会においてロジックで物事を考えている人たちというのは、皆、一様に怒っている。本日の国会におきましても、野党の方々は、本当に怒っていました。毎週末になると、国会前や官邸前に1万人を超える規模の人々が集まり、安倍政権に抗議している。ついでに言えば、私だって、怒っているのです。説明責任を果たせ、と叫びたくもなります。

 

しかし、この論理的に物事を考える人たち、私の言葉で言えば3次性のメンタリティを持った人たちということになりますが、これらの人たちというのは、怒り続ける運命にあるのか、という疑問も沸いて来ます。ロジックで考える。すると、どうあるべきか、という物事の形が見えてくる。しかし、現実は多様であって、リクツ通りに事は運ばない。結果として、心の中に怒りが芽生える。

 

そう言えば私などは、いつも何かに怒りながら生きてきたような気がします。とても幸福な人生であったとは、言えません。

 

話は変わりますが、パソコンの待ち受け画面に飽きてきたので、マイピクチャーの中味を見ていたところ、次の写真が発見されました。

 

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撮影時期は、2015年4月頃です。場所は、高野山金剛峯寺だったように記憶しています。(記録はないので、違っていたら申し訳ありません。)引退記念で観光旅行に出掛けた時に私が安物のカメラで撮影したものです。

 

ここには、人間の煩わしい感情も、3次性がもたらす怒りもありません。あるのはただ、“物と自然”(2次性)と静寂だけです。例えば、写真中央に位置する白っぽい岩をご覧いただきたいのです。もちろんこの岩自体は自然の産物であって、芸術ではありません。しかし、素晴らしいと思うのです。

トップの責任

自衛隊イラク日報の存在が確認され、財務省森友学園側に口裏合わせの依頼をしていたとのNHK報道もありました。もう、官僚の不祥事については枚挙にいとまがありません。この国は、いつからそんな2流国になってしまったのか。

 

当然の流れとして、トップの責任問題も浮上しています。例えば、(元)理財局長の佐川氏。確か3点程の理由に基づき、とりあえず20%の減給3か月という処分が下されました。私が記憶している理由の1つには、「国会答弁で丁寧さを欠いた」というものがありました。これは驚きです。そんなことで、懲戒処分が下されるのか。これはあり得ません。そういう曖昧な理由を付けて、真実を闇に葬ろうとしているとしか思えません。反対に、もし「公的文書の改ざんを指示した」という理由であれば、減給程度の軽い懲罰では済まされないと思います。この点、佐川氏の改ざん指示を示唆するメールが存在すると、大阪地検がリークしたようですが・・・。

 

元来、トップが取るべき責任とは何か。私は、政治家とか官僚に適用される法律については分かりませんので、民間企業に適用される法律を中心に、以下に述べます。

 

そもそも、民間企業においても、不祥事というのは、昔から絶え間なく発生してきました。そして、不祥事が発覚するとほとんどの社長が「自分は知らなかった」と言うんですね。考えてみれば、当然のことです。「これから不祥事を起こします」と社長に報告する馬鹿はいません。

 

民間企業の不祥事にもいくつかのパターンがあります。最近多いのは、セクハラ、パワハラ。それから、会社のお金をくすねてしまう横領というのもあります。しかし、世間を騒がす大事件というのは、大体、社長が利益最優先なんです。営業利益率を上げろ、売り上げを伸ばせ、とそればかりを言うんですね。すると、出世したいと願っている従業員は、法律ギリギリの方法で利益をあげようとする。場合によっては、法律に抵触してでも会社の業績に貢献しようとする。大体、法律を厳密に遵守しようとすると、コストがかかる。もしくは、利益が増えない。

 

ひと度、大事件を起こしますと、その会社の株価が下がって株主が大損害を被る。そこで、不祥事を起こした会社の株主には、その会社の取締役や監査役に対し、損害賠償請求を求める権利が認められています。これが、株主代表訴訟というものです。取締役や監査役が敗訴すると、会社が被った損害額を役員個人が会社に補填しなければなりません。当然、その額は天文学的な数字になる訳で、一時期、上場企業の役員は震え上がったものです。

 

それでも、不祥事はなくならなかった。そして、裁判になると社長以下、異口同音に「私は知らなかった」と主張するのです。この責任感の低さには、法律家も裁判所もあきれてしまったのです。

 

そこで、大和銀行ニューヨーク支店事件と呼ばれる株主代表訴訟において、画期的な判決が出たのです。そもそも銀行の業務というのは、顧客と直接対面する従業員と、後方で作業をする従業員とに分担されているのですが、問題の支店ではそうなっていなかった。そこで裁判所は「リスク管理体制の大綱(基本方針)は、取締役会が決めるべきだ」と判示したのです。つまり、取締役会で決議されたリスク管理の基本方針が妥当であり、かつ、それが適切に運営されていた場合、取締役等の責任は免除される。そうでなかった場合には、全ての取締役と監査役は連帯して会社に対し賠償責任を負うべきだ、ということです。別の言い方をしますと、「知らなかった」という言い訳は認めない。不祥事が起こらないように、制度をしっかり作りなさい。そして、その制度をきちっと運営しなさい、ということになります。

 

その後、法曹界での議論があった訳ですが、上記判決の考え方が良いだろうということになりました。そこで、商法の一部を切り離して会社法を制定する際、大企業には一定の事項を取締役会で決議することが義務づけられたのです。前述の判例では「リスク管理」という言葉が用いられておりましたが、会社法の方はコンプライアンスなども含め、もう少し幅の広い範囲で規定すべき事項が決められました。これが、会社法における内部統制システムということになる訳です。以後、大企業の取締役や監査役に対しては、「内部統制システム構築責任」が課されることになったのです。会社法が施行されたのは平成18年ですから、もう12年も前のことになります。

 

財務省の文書改ざん事件に関し、麻生大臣は「知らなかった」(?)そうですが、私などからしてみますと、まだそんな議論をしているのか、と思ってしまいます。多分、官僚の仕事には、民間の業務以上に法律上の拘束があるのだろうと思います。いろいろな仕事の手順自体が、法律に定められているのかも知れません。しかし、それでも不祥事が後を絶たない現状を考えますと、会社法の例にならって、大臣や官僚のトップに対しても「内部統制システム構築責任」のような責任を課すべきではないかと思います。

No. 188 人間と動物

全ての思想は、エゴイズムに疑問を投げ掛けるところから始まる。日本国憲法の3原則に照らして考えてみます。まず、平和主義。これは人間集団のエゴイズムを抑制しようとしています。次に、基本的人権の尊重。これは、国家ならびに国民の一人ひとりに対して、エゴイズムの抑制を求めている。そして、国民主権。これは、独裁者のエゴイズムを否定している。やはり、日本国憲法は素晴らしい。

 

ところで、人間も動物もエゴイズムを持っていて、その性質は本質的に同じである、というのが前回の原稿の趣旨でした。では、記号原理はどうか。動物の方は、人間ほど複雑ではないにせよ、同様の認知・行動システムを持っているのだろうと思います。例えば、子猫を観察してみると良い。彼らは大きな目をキョロキョロと動かして、身の回りの事物に注意を払っている。それは、音であったり、臭いだったりすることもあります。例えば、彼らの目前にボールを転がしてみる。子猫は必ず反応するでしょう。

 

動くもの、匂いのするもの、生きているものなどが、記号として動物の眼前に現われる訳ですが、その記号が指し示す対象というのは、食料とか自分に危害を加えそうな生物だとか、いくつかの類型に分類することが可能だと思います。

 

では、動物は心的領域論で指し示したような心の領域(1次性~3次性)を持っているでしょうか。答えは、NOだと思うのです。

 

1次性・・・動物は、他の動物を真似て歌ったり、踊ったりしない。

2次性・・・動物は、他の動物を食べるために道具を作り出したりはしない。

3次性・・・動物は、他の動物を敬ったりしない。

 

従って、動物を動かしているのは、記号原理とエゴイズムだけだということになります。言葉の定義にもよりますが、私が心的領域論で述べたような心というものを動物は持っていない。こんなことを述べますと、ペットを可愛がっておられる方の反発を招くでしょう。しかし、ペットが飼い主の指示に従ったり、飼い主に甘えてくるのは、飼い主が餌を与えてくれるからではないでしょうか。飼い主の指示に従い、飼い主との間に友好的な関係を築いた方が、そのペットの生存確率は格段に向上するはずです。

 

他方、人間には心がある。

 

動物・・・記号原理 + エゴイズム

 

人間・・・記号原理 + エゴイズム + 心の領域

 

人間と、人間の作り出す世界というのは、上記の3要素によって構成されているのではないでしょうか。例えば、物理学者であれば、世界は元素によって成り立っていると言うかも知れません。しかし、文化論の立場から言えば、上記の3要素ということになります。

No. 187 ライオンの生態から考えるエゴイズムの3類型(その4)

早速ながら、ライオンの生態から考えられたエゴイズムの3類型について、これらが人間にも当てはまるのか、考えてみましょう。

 

<帰属集団のエゴ>

 

ライオンと同じように、人間も各種の集団を形成し、その集団の利益のために働いています。例えば、今、話題の官僚組織。大体、官僚というのはその属する省庁の利益を優先すると言われています。例えば、予算。これを確保するために、前年度に取得した予算は、何としても使い切ってしまう。年度末が近づくと道路工事が増えるとは、よく言われることです。国家全体の利益ではなく、省庁の利益が優先される。そのため、予算を確保するために、省庁間で熾烈な戦いがあるのだろうと思うのですが、これはライオンのプライドが縄張りを守るために戦っているのと、そっくりです。もちろん、そういう官僚ばかりではないと思いますが・・・。

 

企業でも、事情は同じです。部門間で争ったり、派閥同士で争ったりしています。そして、業績が悪化すると、リストラと称して立場の弱い人たちを切り捨てます。これも、ライオンと同じではないでしょうか。

 

<序列闘争に関する個体のエゴ>

 

ありとあらゆる人間集団において、序列が決まっていて、個人は自分の序列を維持、向上させようと躍起になっている。私の目には、そう見えます。

 

最近、「マウンティング女子」という言葉があるようです。これは何かと「私の方が幸せよ」というアピールをしてくる女性を指すようです。「ボスママ」というのもある。こちらはPTAの会合などで、ボスに君臨している母親を指すようです。メンバーは、ボスママに嫌われないよう、ボスママが身に付けているモノより高価なものは身に付けないなど、注意が必要らしい。これはもう、メスライオンの世界よりも厳しいかも知れない。

 

序列闘争というのは、もちろん女性の集団に限ったことではありません。官僚組織でも民間企業でも、細かく役職が分類されています。これは、人間のエゴイズムをうまく利用した制度だと思います。例えば、会社の廊下の角などで、二人の人間が出くわすことがあります。すると、瞬時に判断して、序列が下の人間が道を譲るんですね。序列というのは、そこまで組織の中に浸透している。

 

こちらは特にライバルだと思っていない友人から、妙に絡まれたりすることもあります。これも序列闘争ですね。学歴、知識、経験などをこれ見よがしにひけらかしてくる。こういう人間って、はっきり言ってサイテーだと思いませんか? 若いうちならまだしも、ある程度の大人になれば、他人との比較や社会的な地位など、相対的な評価基準ではなく、自らが決する絶対的な評価基準、価値観を確立すべきだと思います。ただ、そうできている人というのは、かなり少ないというのが、私の実感です。もっと人間を磨け、と言いたくなってしまいます。(自らの反省も込めて!)

 

大体どこの企業でも、成果主義実力主義などと言っていますが、現実は違います。優秀な部下を抜擢すると、上司の無能さが目だってしまうというのが、世の常です。だから、仕事ができる優秀な人というのは、概して、煙たがられ、出世しないようになっているのです。現役サラリーマンの方で、出世したいと思っておられる方がいましたら、私からワンポイントアドバイス。あなたは上司に対し、次のようなスタンス取るべきです。「私は、バカではないので、そこそこ仕事はできます。しかし、あなたには遠く及びません」。

 

この序列闘争というのは、思いの外、多大な影響を人間社会に及ぼしている。家族集団も、その例外ではありません。社会生活を営んでおりますと、必ずと言って良い程、人間関係上の問題に直面します。そして、それらの多くが、この序列という問題に端を発しているような気がします。

 

<遺伝子のエゴ>

 

男も女も、自らの遺伝子を残すために、より有利な条件を求めてパートナーを探します。この点も、ライオンと全く変わりません。

 

一般に、パートナーとなる女性の数を増やせば、男は何人でも子供を作ることができる。反面、女性が生涯を通じて産める子供の数には限度がある。よって男というのは生来、浮気性で、反面、女性は子育てに協力してくれそうな男性を求める、などと言われています。本当にそうなのか、私には分かりません。ただ、生物学的に言いますと、一夫一婦制がいいのか、はなはだ疑問があるようです。これでは、精子精子の間における競争が生じない。だから、弱い精子も生き残り続ける。結果としてどういう問題が起こるかと言えば、妊娠しづらくなる。乱婚制を取っている動物で、こういう問題は、起こりません。いずれ、婚姻制度を見直すべき時代がやって来るかも知れません。

 

話が脱線してしまいました。本能と呼んでも構いませんが、エゴイズムのレベルにおいては、人間もライオンも何ら変わらない、というのが本稿の趣旨です。