文化認識論

(世界を記述する。Since Oct. 2019)

文化認識論(その16) 積み残したいくつかの論点

起承転結を意識して、それなりの分量で記述したいと思うことと、そこまではいかない小さな論点というものがあるようです。しかし、この小さな論点の中にも重要な問題が含まれている場合があるように思います。今回は、現時点で積み残しとなっているいくつかの論点について、述べることに致します。

 

まず、前回の原稿で紹介致しました「文化的進化論」という文献ですが、この文献が指摘しているポイントは「文化的な争点ではなく、99% 対 1%を対立軸とした政治状況を作るべきだ」という点にあります。この「文化的争点」とは、例えば妊娠中絶の可否だとか、同性婚の可否、LGBTの人権問題などを指しているように思えます。そのような争点で戦っているのが、現在のアメリカにおける政治状況である、と筆者のイングルハートは考えている。しかし、緊急性の高い争点は、そこではない。あくまでも貧富の格差であって、そこにスポットライトを当てるべきだ。そして、問題の本質を誰もが認識できるようにすれば、民主主義の下では必ず99%が勝てる。

 

この指摘は日本の政治状況にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか。確かに様々な対立軸があって、どれも重要ではあります。しかし、最も重要なのは富をいかに分配するか、貧富の格差をいかに解消していくか、という点にある。そして、この問題に直結するのは、税制であり、実質賃金の上昇であり、雇用形態だ、ということになる。消費税は撤廃し、法人税を元の税率に戻す。実質賃金を上げる。非正規労働という雇用形態を見直す。残業代はちゃんと払う。そういう取り組みが、重要だということになると思います。

 

この点、実はイングルハートと同じことを経済学者の松尾匡氏も述べている。松尾氏によれば、マルクスの主張には正しかったこともそうでなかったこともあった。ただ、現状は99% 対 1%の戦いになっていて、これはマルクスが述べた階級闘争と同じだ、ということになる。

 

この問題、繰り返しになりますが、最も率直に取り組もうとしている日本の政党は、“れいわ新選組”だと、私は思います。立憲民主や国民民主ではない。彼らは、税制について正しい認識を持っていない。

 

日本の現状に照らして言えば、「右翼と左翼は戦うな」ということではないでしょうか。右と左が戦うと、本当の争点が見えなくなる。上と下で、99% 対 1%で、階級闘争をおこなうべきだ、ということではないでしょうか。

 

2番目の論点として、Basic Income(以下「BI」)という問題がある。これはシンギュラリティがやって来て、ほとんどの仕事をAIがこなし、人間は仕事を失う。そうであれば、国民全員に月々、一定額を支給すれば良い、という考え方のことです。但し、イングルハートはBIに否定的な見方を示しています。人間の中には、仕事に人生の意味を見出すような人が少なくない。仕事をせず、ただ金銭をもらっても、生きがいを見つけられない人がいる、というのです。山本太郎さんもBIには、否定的な見方をしています。日本の状況を見ていると、仮にBIを導入すると、政府は「金を渡しているのだから、後は自己責任で」と言い出しかねない。困っている人それぞれに対して、例えば安価で住宅を提供するとか、きめの細かい施策が必要だと太郎さんは言っている。

 

BIと言ってもいくつかのパターンがある訳で、新自由主義者が主張するBIというのは、大体、月々7万円程度を支給するというものです。しかし、それと同時に雇用保険も年金も廃止してしまえ、というもの。月々7万円で、暮らしていけますか? 私は無理です。そんなBIなら、現状の方がまだましだと思います。

 

3番目の論点。イングルハートは、私たちに残された時間は18年だと述べている。日本の場合を考えますと、例えば、日米FTAの問題がある。これは今年の4月から交渉が開始され、年内に妥結するリスクがある。原発だってある訳で、大地震がやって来ないという保証はどこにもありません。日本に限って言えば、18年もの猶予期間は残されていないように思います。にもかかわらず、約半数の国民が政府を支持している。これはもう絶望的です。

 

そもそも「進化論的近代化論」によれば、人間の価値観は生育期に決定されるのであって、その後の変化は少ないとのこと。従って、人間集団を見た場合、その集団の価値観が変化するためには、世代交代が必要であって、そのためには概ね40年は掛かる。更に、オルテガに言わせれば、大衆の愚かさは、死ぬまで治らない。

 

すると、私たちが助かる道は、2つしかないように思うのです。そもそも文化というのは、生物の進化に似ているという説に従えば、18年以内に日本で文化の「突然変異」を起こすという道。2つ目は、他国で、特にアメリカの政治状況の変化に期待するという道。ちなみに、今年の11月に予定されているアメリカの大統領選ですが、マイケル・ブルームバーグという元ニューヨーク市長が民主党から立候補するようで、トランプに勝つのではないかという下馬評がある。ただ、このブルームバークに日本が期待できるかと言う点は、悲観的な論調が多い。

 

4番目の論点。オルテガのヨーロッパ中心主義は時代遅れで、既に、その意味を失っている。これは、時間の経過とともに生じた現象だと言えると思うのですが、ただ、オルテガは私の認識論に通ずるようなことも言っているのです。これは、「大衆の反逆」の中のある注釈なのですが、抜粋してみます。

 

(5) 精神の自由、すなわち知的能力は、伝統的に分離しえなかった諸概念を分解する能力によって計られる。概念を分解するのが、それらを融合するよりもずっと大変であることは、ケーラー(1887~1967。ドイツの心理学者。主著『類人猿の知能試験』)がチンパンジーの知能の検査で証明している。人間の悟性は、いまほど分解する能力をもったことはない。

 

私は、現代人の認識方法を「記号分解」と命名し、記号を用いて物事を分解して認識する点に特色があると述べてきた訳で、この考え方と上記のケーラーの説は一致しています。このような記述に出会ったことは、私にとって重大な発見で、心強く思うものです。また、オルテガは特に科学者に対する批判の中で、専門化が進み過ぎて、全体を見失っているという批判を加えています。つまり、総合性を回復させるべきだ、と主張しているのです。この点も、私の主張に合致します。

 

オルテガについて、もう少し調べてみたい。特に、その主著である「個人と社会」という本は、読んでみたいと思って本屋に行ったのですが、「その本は、既に流通していない」とのことでした。その後、オルテガ全集の中で「個人と社会」を収録している巻だけ購入できないか、と問い合わせたのですが、オルテガ全集自体、既に絶版になっているとのこと。残念!

 

5番目の論点。そもそも、上に記したような絶望的な状況下にあって、それでも政治について述べることにどれだけの意味があるのか。最近は、絶望のあまりツイッターやブログを止めてしまう人も少なくないようです。気持ちは、良く分かります。この点、現時点では、社会契約論から、次の箇所を抜粋させていただきます。

 

- 自由な国家ジュネーヴの市民として生まれ、主権者たる人民の一員として、私の発言が公共の政務においてどんなに微力であろうと、投票権をもつというだけでも、政務を研究する義務を負わされている。-  ルソー

 

文化認識論(その15) 私たちに残された時間

結論から言いますと、私たちに残された時間は、あと18年です。これは、私が主張していることではなくて、アメリカの政治学者であるイングルハートが「文化的進化論」(文献1)という本の中で述べているのです。文献1には「あと20年」と記されていますが、この本が執筆されたのは2018年で、既に、それから2年が経過している。よって、18年ということになります。

 

何も、地球が消滅するとか、太陽が爆発するとか、そういう話ではありません。地球上に暮らす普通の人々が、普通の幸せを追求できる社会を維持するためには、あと18年以内に人類が正しい決断を下す必要がある、ということなのです。

 

文献1はかなりボリュームのある本なので、その一部のみを紹介致します。そもそもこの本は、以下の世界的な調査結果に基づき執筆されています。

 

・世界価値観調査
・ヨーロッパ価値観研究

 

調査の期間は、1981年から2014年で、調査の対象となった国は105か国に及ぶそうです。膨大なデータを下に、統計的な処理を加えて、分析している。よって、これは科学と呼べるものだろうと思います。但しオルテガは、科学者というのは専門分野に閉じこもりがちで、彼らこそ「大衆的人間」だと指摘しており、私もその意見に賛成です。よって、この本に書かれていることが本当に正しいのか否か、それは自ら吟味して、判断する必要があるように思います。

 

まず、文献1は「進化論的近代化論」について述べています。概要は、次の通り。

 

1)人間の価値観は主に生育期に決定され、その後の変化は少ない。

 

2)生育期に自らの生存が脅かされていると感じた人は、自らの生存を維持するために必要な「物質主義的価値観」を持ちやすい。人間の生存を脅かす事柄とは、飢餓、疫病、戦争などである。

 

3)「物質主義的価値観」は、以下の傾向を持つ。
・宗教を重視する。
出生率は高い水準で維持される。
・集団内の規範が尊重される。
・よそ者を排除する。
・強力な指導者を求める。

 

4)生育期に自らの生存に不安を感じなかった場合、その人は、「脱物質主義的価値観」を持ちやすい。

 

5)「脱物質主義的価値観」は以下の傾向を持つ。
・脱宗教化(世俗化)が進む。
出生率が低下する。
・男女平等、LGBTへの理解などが促進される。
・暴力行為の発生率が下がる。
・国のために戦おうという意欲が減退する。
・環境問題への意識が高まる。
・よそ者や新しい意見に寛容になる。

 

生存に対する安心感のレベルは、人間の生育期に影響を及ぼすので、社会、経済環境の変化が生じてから、人々の価値観に変化を及ぼすまでには、タイムラグがある。すなわち、新たな社会環境が発生してから、その環境下で価値観を育んだ人が成人するためには、20年が必要で、更に、新しい価値観を持った人々が社会で影響を持つようになるためには、更なる時間が必要となる。例えば、第2次世界大戦が終結したのが1945年で、戦後生まれの人が成人したのは1965年。ただ、この時点では戦後生まれの人は少数派でしかないことになります。

 

また、人々の価値観の変化は、上記のような「生存に対する安心感のレベル」だけで決まるものではなく、各国や地域に根差した文化の影響がある。これらの文化は、一度その方向性が決まると、ひたすらその方向に向かおうとする性質(経路依存性)があるので、変化し難い。

 

「進化論的近代化論」の概要は、以上の通りです。確かにそういうことはあるかも知れないと、私も思います。この説によれば、世代によって価値観が異なる理由を説明することができます。なお文献1によれば、マルクスマックス・ウェーバーなどの古典的近代化論においては、科学的知識が普及すれば、宗教的価値観が低下すると考えられていた。しかし、実際にはそうなっていない。あくまでも「生存に対する安心感のレベル」が向上した場合に、世俗化が進む。

 

また今日、世界の政治、経済に対してその存在感を増している中国なども、いずれ民主化されるのではないか、との期待を持つことができます。例えば、「脱物質主義的価値観」を持つ世代が、やがては中国の政権の中枢に進出して来る。それらの人々は、自ら民主主義的な価値観を持っている訳で、その方向に持って行こうとするに違いない。

 

すなわち、世界中の子供や若者たちの「生存に対する安心感のレベル」を向上させれば、やがて、世界は平和になる。そう思う訳ですが、世界はそう簡単ではない。

 

文献1によれば、第2次世界大戦終結後、大国間における戦争は発生しておらず、世界各国において、経済的な発展があった。ところが、1980年代になるとイギリスのサッチャーアメリカのレーガン(そして、日本の中曽根)らが新自由主義を推進し始めた。その結果、グローバリズムとも相まって、格差の拡大が始まり、貧困層が拡大した。すると、人々の価値観が退化し、すなわち「物質主義的価値観」が復古し、ナショナリズムと排外的な政策を標榜する政党が登場するようになった、というのです。

 

そこで、富める1%と99%の戦いが始まる。しかしながら、状況を正しく認識していない人々が、例えば、アメリカではトランプに投票してしまう。文献1は、独裁主義的なポピュリスト政党への支持層について、「年長世代、低学歴者、男性、信仰を持つ層、民族的多数派」に集中していると述べています。

 

そして、人工知能が社会や経済を席捲する時代がやって来る。シンギュラリティ(技術的特異点)については、既にこのブログで述べた通りです。すると、格差は更に広がる。これ以上格差が拡大し、人々の仕事がなくなれば、普通の人々が普通に生きていくことが困難となる。このような事態を回避できるのは、政府の力をもってする以外に道はありません。政府、すなわち国家の力をもって、富の再分配を行う以外に方法はないのです。99%の人々が、状況を正しく認識して、正しく行動する以外に、危機を回避する方法はない。

 

文献1は、次のように述べています。

 

「必要なのは、現在の主な経済対立がこの99%対1%であると認識することに尽きる。」

 

(参考文献)
文献1: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/山﨑聖子(訳)/勁草書房/2019

文化認識論(その14) オルテガと三島由紀夫

調べてみますとオルテガ(1883 - 1955)と三島由紀夫(1925 - 1970)が生きた時代は、30年程重複しています。そして、どちらも近代に身を置きながら、中世的な文化に注目し、来るべき現代を見据えていた。その点に注目するならば、この二人には共通点がある。しかし、考えていたことは、少し違っていたように思います。

 

古代・・・狩猟・採集
中世・・・農耕・牧畜
近代・・・工業化
現代・・・情報化

 

まず、オルテガの方から考えますと、彼は「貴族」ということを言っている。これは、大衆に対する反対概念として提示している訳ですが、彼の主張を見て行きますと、必ずしも、中世に実在した貴族を肯定している訳ではない。抽象的な概念として、自律的に思考し努力する人が貴族であるとし、オルテガはこれを肯定しています。しかしオルテガは、貴族の世襲制を否定しているのです。

 

例えば、努力して名声を勝ち得た人がいたとする。中世のヨーロッパ社会においては、その人の子孫が皆、貴族としての階級を構成する訳ですが、オルテガに言わせれば、偉いのは努力をした最初の一人だけであって、その子孫ではない。従って、貴族という階級を設けるのであれば、努力して名声を勝ち得た人の父母や祖父母を貴族として認定すべきではないか。オルテガに言わせれば、そういう制度が中国にあって、そちらの方がいいと述べている。

 

では、オルテガは近代をどう見ていたのか。そもそも、人々には人権というものがある。それが発見されたこと自体は、否定しない。しかし、民主主義に基づき、選挙で選ばれた人が必ずしも努力家であるとは限らない。むしろ、政治家というのは愚かな大衆に過ぎない。そのような大衆が支配する社会というのはいかがなものか、とオルテガは考えている。つまり、オルテガは民主主義に支えられた近代の社会制度についても、疑問を提起している訳です。

 

すなわちオルテガは、中世的な社会制度も近代の社会制度も、その双方を否定している。

 

次に、三島由紀夫の場合を考えてみます。まず、三島は病弱だった幼少期に、祖母に連れられて歌舞伎や能を鑑賞したと言われています。このような経歴から、中世的な文化に惹かれていったことは、想像に難くありません。三島の文体の秘密も、ここら辺にあるような気がします。また、三島文学の特徴は、ある美しい何かがあって、それが滅びて行くところにある。それは登場人物であったり、金閣寺だったりする訳ですが、ここら辺の美意識というのは、日本の伝統から来ている。桜は散るから、美しい。そういう美意識が日本文化の伝統の中にある。そもそも、言葉というものは伝統そのものだとも言えます。三島は伝統、換言すれば「時間」の中に生きたとも言える。

 

そう言えば、三島と同時代を生きた川端康成は、ノーベル文学賞の受賞に際し「自分の文学は日本の伝統に支えられている」というようなことを言っていました。川端も三島も、日本の伝統を重んじていたのです。

 

このように考えますと、三島は中世的な文化を肯定していたことになります。そして、伝統を破壊する近代については、これを否定した。

 

中世と近代の双方を否定したオルテガ。中世を肯定して、近代を否定した三島。この二人の本質的な相違点が、ここにある。但し、「大衆の反逆」からの次の引用箇所などを読みますと、オルテガと三島は、似たような人間観を持っていたとも思うのです。

 

- 創造的な生は、厳しい節制、偉大な徳性、尊厳の意識をかきたてる絶えざる刺激を前提とする。創造的な生はエネルギッシュな生であり、それは、人が次の二つの状態のいずれか一方にあるときにだけ可能である。つまり、自ら支配するか、あるいは、だれかが支配し、われわれが完全な支配権を認めている人の支配する世界に住んでいるか、いいかえれば、支配しているか、服従しているか、この二つである。しかし、服従するとは我慢することではなく -我慢するとはいやしくなることである-、それとは逆で、支配する人を尊敬し、その人の命に従い、その人と連帯責任を負い、その人の旗のもとに熱意をもって加わることである。 - (P.187)

 

そして、三島が選んだ「その人」とは、日本の天皇陛下だった。

 

ところで三島の死については、それが政治的な死だったのか、文学上の死だったのか、という論議がありました。吉本隆明は「政治的な死」だったと述べていたように記憶しています。随分と馬鹿なことを言うなあと、呆れてしまったのを覚えているのです。ただこの問題、未だに時々考えるのですが、最近はちょっと違った意見に傾いて来ました。

 

三島の心の中を想像してみますと、3つの領域があったのではないか、と思うのです。一つには、文学の領域。これは当然ですね。そして、二つ目としては、政治の領域。当時の時代背景を考えてみますと、60年安保と70年安保というのがあった。これは日米安全保障条約の改定を契機とした、強烈な学生運動だった訳です。三島はこれらの左翼的な動きを同時代に生きる文人として、見ていたはずです。三島が自決したのも、正に1970年だったことを考えますと、三島が政治的な事柄に注目していたことは、間違いありません。そして、文学的な領域とは個人的なものであり、政治的な領域とは、反対に社会的であると言えます。この相反する2つの領域の狭間で、三島は苦悩していたのではないか。ただ、それは三島に限ったことではないように思います。誰にでも公私の別というものがある。

 

そして、三島はこの相反する2つの領域を統合するような結節点を措定していたように思うのです。それが「行動」ということです。すなわち三島の死とは、政治的な領域と文学的な領域の接点である「行動」という領域において、決行されたのだと考えるべきだと思うのです。

 

三島は自ら「行動学入門」という本を出していますが、その背景には、武士道としての葉隠れや陽明学の影響を見て取ることができる。

 

文学的領域・・・個人的
政治的領域・・・社会的
行動・・・・・・個人と社会を結ぶ領域

 

人間とは「状況内存在」であって、個人は社会や国家と隔絶した所で生きて行く訳にはいかない。この点、オルテガは次のように述べています。

 

- われわれが生きているというのは、われわれが種々の特定の可能性の環境のなかにいる、というのと同様である。この環境を、≪状況≫と呼ぶのが普通である。生はすべて、≪状況≫つまり世界の内部に自己をみいだすということである。というのはこれが≪世界≫という概念の本来の意味だからである。世界は、われわれの生の可能性の総計である。したがって、世界はわれわれの生を現実にとりまくものである。 - (P.43)

 

やはり、オルテガと三島の人間観というのは、共通項を持っている。

 

さて、上記の通り人間は「状況内存在」なので、時間的、空間的な制約の中で生きるしかない。その意味で、誰しも限界を持っている。そしてこの限界は、天才と呼ばれた三島にもあった。

 

三島の文学は、日本の伝統を基盤としていたのであって、これは多分に中世的だと言える。そして、三島の政治的な主張は、まず、日本はアメリカから自立しろという点にあって、目指すべき国家の形というのは、天皇を中心とした、言わば明治憲法に示されているような国家像だった。更に、三島が傾倒した武士道も、その起源は中世にある。どこまで行っても、三島の思想は中世的だと言えると思うのです。それのどこが悪い、と言う人もいるでしょうが、この点、私の認識論に照らして言えば、三島の認識方法というのは「物語的思考」に留まっている点を指摘したいと思うのです。三島はあくまでも時間の流れに従って、伝統や言葉を守ろうとした。そして、「美しいものは滅びなければならない」というテーゼに行き着く訳ですが、何故、そうなのかということを論理的に説明することができなかった。「何故」、それを説明するのが論理であって、テーゼそれ自体で論理を構成することはできません。これは中世的な文化の特徴であって、論理に至らない。

 

三島は何故、自決したのか。これは現代においても、多くの人々にとって謎となっている訳ですが、それは三島自身が論理的に説明していないので、誰にも分からない訳です。この点が三島の限界であると、私は思います。

 

余談になりますが、そもそも武士というのは、人殺しを職業とする人たちの呼称です。斬るか斬られるか。そういう緊張感の中に生きていた訳で、死に対する恐怖と戦うのが、彼らの人生だった。そのような恐怖に打ち勝つため、逆説的に、いざという時は迷わずに死んでしまえ、というのが武士道だと思います。葉隠れの中には、「只今がその時、その時が只今」という言葉がありますが、そういう思想なのです。このような思想によって、現代に生きる私たちが救われるかと言えば、そんなことはない。私は誰かを殺したくはないし、誰かに殺されたくもない。そんなことには、関わりたくもない。現代人であれば、嫌、中世の人々だって、本当はそう思っていたはずです。だから、どうすれば殺し合いや戦争を止めることができるのか、という所から出発したのがヨーロッパの思想であって、それが日本国憲法を貫く平和主義につながっている。

 

このように述べますと、私が三島を全面的に否定しているように感じる方もおられると思いますが、そうではありません。私は、三島の政治的な思想と行動学を否定しているのであって、彼の文学作品までを含めて否定しているのではないのです。芸術作品とは、完成した瞬間に作者の手を離れる。作品と作者とは別物だと私は考えています。例えば、極悪人が美しい絵を描いたとする。その絵は極悪人が描いたものだから悪い絵だ、と言えるでしょうか。そんなことはありません。美しい絵というのは、それだけで芸術上の価値があるのであって、作者の人格とは離れた所に位置するものです。そもそも、極悪人や犯罪者の心の中にだって、美しい部分がないとは言い切れません。皆様には、是非、これからも三島の文学作品に接していただきたいと思う次第です。

 

話をオルテガに戻しましょう。

 

「大衆の反逆」におけるオルテガの最大の功績は、民主主義がベストではないことを指摘した点にあると思います。民主主義と言えば、聞こえが良く、今日においてもその悪口を言うのは、通常、憚られます。しかし、民主主義というのは政治的な権力を愚かな大衆に与えることです。愚かな大衆は、愚かな政治家を選びます。現在の日本の総理大臣を見れば、これはもう疑う余地がありません。中世の君主制ファシズムに比べれば、民主主義の方がベターではある。しかし、民主主義といえども、それはベストの選択ではない。では、ベストの選択は何かというと、未だ人類はその答えを見つけていない。

 

最後にオルテガの限界について、述べておきたいと思います。

 

結局、世界はどういう方向に向かうべきなのか。この問題について、オルテガはヨーロッパ中心主義的なことを考えていた。かつて、ヨーロッパは世界を支配していた。そして、ヨーロッパの思想家たちは、「理性」を持っていた。しかし、残念なことにアメリカがその地位についてしまった。アメリカは国土が広く、人口も多い。従って、国境を超えることなく人や物を移動させることができる。このような経済的な利点を持っているから、アメリカが強くなったのだ。そうであれば、ヨーロッパの小国は合体し、アメリカに対抗すべきだ。

 

オルテガは、概ね、上記のように考えていたようです。実際ヨーロッパは、EEC、EC、EUと、その連携を深めて来た。このように集団を大きくすべきだという発想は、カントの影響があったものと推測されます。しかし、集団というのは大きくすれば良いというものではありません。実際、現在ブレグジットが進行中です。20年程前でしょうか、自動車業界では「600万台クラブ」という言葉が流行っていました。これは、年間生産台数が600万台を超えないと、その自動車メーカーは生き残れない、ということを意味していました。ところが最近では、「1千万台の壁」ということが言われています。これは、年間生産台数が1千万台を超えると、企業のガバナンスが効かなくなるという意味です。人間の集団というのは、小さすぎても、大きすぎてもダメなんだと思います。

 

また、この点は三島にも共通していますが、オルテガの視界には「古代」が入っていない。世界の思想家たちが、無文字社会の文化、古代の文化を意識するようになったのは、やはりレヴィ=ストロースが「野生の思考」(1962)を発表した後なのだと思います。これによって、ヨーロッパ中心主義は木端微塵に吹き飛ばされたのです。

 

ランダムに読書を続けていると、思わぬ発見をすることがあります。これも楽しみの一つです。

 

文化認識論(その13) オルテガ/大衆の反逆

久しぶりに読みごたえのある本に出会いました。それはスペインの哲学者オルテガ(1883-1955)の著書、「大衆の反逆」です。(以下「本文献」と言います。詳細は末尾) 本文献の執筆は1930年なので、第一次世界大戦が終わり、第二次世界大戦が始まる前ということになります。今から約90年前ですが、特に大衆とは何かという点については、鋭い指摘があり、今日の日本の状況を驚く程、言い当てているように思えるのです。90年という時間的な差異があり、かつスペインと日本という地理的な隔絶があるにも関わらず、大衆と呼ばれる一般人の特質には共通点がある。この点、驚きを禁じえませんでした。

 

大体、哲学者の書く文章というのは、分かりづらい。何故、こうも持って回ったような言い方しかできないのか、と腹立たしく感じる訳ですが、本文献も例外ではありません。オルテガは、あの三島由紀夫に影響を及ぼしたそうですが、三島はオルテガを誤読していたのではないか、という指摘が本文献の訳者によってなされています。確かに、本文献を読み進めて行きますと、三島の世界観に通ずるようなところがある。この点もまた、私にとっては驚きでした。

 

さて、本文献にはどういうことが書いてあるのか、ざっくりとまとめてみましょう。

 

かつてヨーロッパでは、それなりの人物が世の中を統治していた。この「それなりの人」をオルテガは「貴族」と呼んでいます。それが、近代になり工業が発達し、民主主義が台頭した。すると、貴族に代わって大衆が世の中を支配するようになった。かつては支配されていた大衆が、世の中を支配するようになったということが、本文献のタイトル「大衆の反逆」につながっている。そして、オルテガは徹底した大衆批判を行う。

 

簡単に言うとそういうことが書いてある訳ですが、これでは良く分かりません。もう少し詳しく見て行きたいと思います。シンプル志向の私としては、この本を読み解くために、次の5要素に分解するのが良いだろうと思いました。すなわち・・・

 

1. 「貴族」とは何か
2. 「大衆」とは何か
3. 何故、大衆が支配するようになったのか。
4. 大衆支配は、何をもたらしたのか
5. では、どうすれば良いのか

 

いかがでしょうか。では、順に見て行きましょう。

 

1.「貴族」とは何か

 

・自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人である。(P.9)

・高貴であるということは、かれを著名にするもととなった、なみなみならぬ努力のあったことを意味する。したがって高貴な人とは、努力する人、または卓越した人ということに相当する。息子が貴族であったり知名だったりするのは、たんなる恩恵である。息子が知られているのは、父が自分自身を有名にしたからである。それは、親の七光りによって有名なのである。(P.74)

・貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、自ら課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である。(P.75)

・高貴な人間は、本当に自分が完全だと感ずることができないのだ。(P.81)

世襲≪貴族≫は、生を使用し努力することがないために、その人格がぼやけたものになっていく。(P.121)

 

2.「大衆」とは何か

・大衆とは、みずからを、特別な理由によって -よいとも悪いとも- 評価しようとせず、自分が≪みんなと同じ≫だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。(P.9)

・自分になんら特別な要求をしない人である。生きるとは、いかなる瞬間も、あるがままの存在を続けることであって、自信を完成しようとする努力をしない。いわば波に漂う浮き草である。(P.9)

・今日、われわれの目撃している大衆はいかなる時代よりも強力ではあるが、伝統的な大衆とは違って、自己の内部に閉じこもっており、満ちたりたと信じ、なにごとにもなんぴとにも従属しないのである ― 一言でいえば、不従順になったのである。(P.77)

・かれらの心の根本的な構造は、閉鎖性と不従順さでできている(P.78)

・大衆的人間は自分が完全であると思う。(P.81)

・生得の、魂の密閉性が、自分の不完全さを発見するための前提条件、つまり、他人との比較を不可能にしてしまうのである。比較するとは、しばらく自己から離れて、隣人のところに身を移すことである。(P.81)

・愚か者は終生そうであって、抜け穴がない。(P.82)

・愚か者は死ぬまで治らない(P.82)

・大衆は(中略)大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(P.91)

・科学者は大衆的人間の原型だということになる。(P.135)

・科学が進歩するためには、科学者が専門化することが必要である。(中略)つまり、研究の領域をせばめなければならなかったために、科学者が、しだいに科学の他の部門との接触を失い、ヨーロッパの科学、文化、文明という名に値するただ一つのものである宇宙の総合的解釈から離れてきた点が、重大なのである。(P.136)

・今日、政治、芸術、宗教、生と世界の一般問題について、≪科学者≫や、またそのあとに控えた医者、技師、金融家、教師などが、いかに愚かな考え方や判断や行動をしているかを、だれでも観察することができる。私が、大衆的人間の特徴として繰り返しあげた、≪人のいうことを聞かない≫、高い権威に従わないという性格は、まさに、部分的な資質をもったこれらの専門家たちにおいて、その頂点に達する。かれらは、今日の大衆による支配を象徴しており、また、大衆による支配の主要な担い手である。(P.140)

 

3. 何故、大衆が支配するようになったのか。

・十八世紀には、すべての人間は、たんにこの世に生を享けたという事実に基づいて、なんらの特殊な資格なしに、基本的な政治的権利を所有しているのだということを、いくつかの少数派の人々が発見した。これが人権とか市民の権利と呼ばれるものだが、厳密にいえば、全ての人間に共通なこれらの権利だけが、実在する唯一の権利であることも、かれらは指摘した。特殊な能力に由来する他の一切の権利は、特権であるとして弾劾された。(P.19)

・民主主義のおかげで生じた、すべての人を平等化する諸権利は、憧れや理想から、無意識の欲求や前提に変じてしまった。(P.20)

・文明は、進歩すればするほど複雑になりむずかしくなる。今日、文明の提出している問題は、ものすごくこみいっている。それらの問題を理解しうるほど知能の発達している人の数は、日一日と少なくなる。(中略)問題の複雑微妙さと知能とのあいだのこの不釣り合いは、もしなんらかの対策を講じなければ、しだいに大きくなり、文明の根本的な悲劇となる。(P.109)

 

4.大衆支配は、何をもたらしたのか

・理想を実現する途方もない能力はおびただしくもっていると思っているのに、いかなる理想を実現すべきかわからない、そういう時代にわれわれは生きているのである。万物を支配しているが、自己の支配者ではない。自分の豊富さの中で、途方に暮れている。結局、現代の世界は、かつてないほどの資産、知識、技術をもっているのに、かつてなかったほど不幸な時代である。(P.47)

・サンディカリスムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押し付けるタイプの人間が現われたのである。(P.86)

・大衆的人間は、議論をすれば、途方に暮れてしまうだろうから、かれの外にあるあの最高の権威を尊重する義務を本能的に嫌うのである。したがって、ヨーロッパの≪新しい≫事態は、≪議論をやめる≫ことである。(P.87)

・野蛮とは、分解への傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団がはびこる時代である。(P.90)

 

5.では、どうすれば良いのか

・思想を持つとは、思想の根拠となる理由を所有していると信ずることであり、したがって、理性が、すなわち理解可能な真理の世界が存在すると信ずることである。(P.87)

アインシュタインが、その鋭い総合に到達するためには、カントとマッハに没頭することが必要であった。(P.141)

・ヨーロッパは一つの規範の体系をつくりあげ、その有効性と豊かさが何世紀にもわたって証明されてきた。これらの規範は最善のものではなく、最善とはほど遠いものである。しかし、他の規範が存在せず、姿を見せないあいだは、これが決定的な規範であることは疑いない。この規範を凌駕するためには、どうしてお新しい規範が生まれなければならない。ところが、大衆的民族は、ヨーロッパ文明という規範体系を老朽したと宣言する決意をしたが、これに代わる体系を創造する能力がないので、なにをしてよいかわからず、ただ時間をつぶすために、とんぼ返りをしているのである。(P.171)

・国家は、人間が血のつながりによって決定される自然社会から逃れることに憧れるときにはじまる。血の代わりに、ほかの自然原理をなんでもいいからとりあげてみよう。例えば、言語である。本来、国家はいくつもの血といくつもの言語の混合されたものである。それは、あらゆる自然社会を越えたものである。それは混血的であり、多言語的である。(P.200)

・われわれが国家と呼ぶ現実は、血縁関係で結びつけられた人間たちの自発的な共生関係ではない。もともと離れて暮らしている集団が共同して生活することを強制されるときに、国家が始まる。この強制は、むきだしの暴力ではなく、分散したいくつもの集団に提示された、推進的な計画、共通の課題を前提としている。なによりもまえに、国家は、一つの行為の計画であり、共同作業のプログラムである。それは、いっしょになにかをするようにと人々に呼びかける。国家は、血縁関係でも、言語的統一体でも、地域的統一体でも、居住地の隣接関係でもない。それは物質的、惰性的な、与えられた、限定されたものとはまったく違う。それは、純粋な運動 -なにかを、みんなでいっしょにやろうという意思- であり、そのおかげで、国家という観念は、なんらの物的な条件で制約されないのである。(P.213)

・いまやヨーロッパ人にとって、ヨーロッパが国家観念に変換しうる時機が到来している。それを信ずることは、十一世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりも、はるかに現実味がある。西欧の国民国家は、その真の本質に忠実であればあるほど、確実に一つの巨大な大陸国家に結晶していくことであろう。(P.236)

 

引用部分は、以上です。少し長くなってしまいましたが、例えば、オルテガの国家観(P.213)などには、ちょっと感動してしまいます。私としては、オルテガの意見に賛成できる部分も、そうでない部分もあります。ただ、今は、極上の素材を揃え終えた調理人のような気分なのです。引用部分を素材として、これから調理に取り掛かりたいと思っています。

 

<本文献>
大衆の反逆/オルテガ著/中公クラッシックス/寺田和夫訳

 

憲法に異議あり!

最初に述べておく必要があると思うのですが、私は、日本国憲法がとても好きです。特に、その第12条を肝に銘じております。

 

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

素晴らしいじゃありませんか! ここに憲法を制定する。この憲法は、日本国民の自由及び権利を保障するものだ。しかし、人間は不完全だ。完全なものなど、作れるはずがない。この憲法でさえ、例外ではない。そして、長い人類の歴史は、自由と権利に対する侵害の連続だった。だから日本国民は、その自由と権利を守るために、絶えることなく、努力し続ける必要がある。それは自由と権利を守るために課せられた日本国民の義務である。憲法は、そう言っている。私には、そう聞こえるのです。

 

憲法というのは、桐の箱に入れてしまっておくような宝物ではありません。神棚に奉っておくものでもありません。それは、常に日本国民の疑問と論議に晒し、進化させて行くべきものだと思います。

 

そこで今回は、日本国憲法について私が考えている問題点を3つ程、述べたいと思います。

 

第1に、象徴天皇制について。右翼の方々は、日本には2千数百年の歴史があると言います。しかし、天皇制には、もっと長い歴史がある。古事記や日本書記は、文字によって書かれていますが、未だ、文字が存在しなかった時代というのが、日本にもありました。遅くとも3万年前には、ホモサピエンスが日本列島に到着している。そして、文字を持たない人々は、現代に生きる我々とは異なる方法で、自然や野生動物を認識していたのです。その認識方法、自然や野生動物との関わり方というのは、シャーマニズムと呼ばれる文化形態をとっていたのだろうと思います。

 

まず、文化を共有する人間集団がある。やがて、この文化共同体が存亡の危機に瀕する。すると、リーダーが登場する。リーダーは、文化共同体の利益を願って、共同体を代表して、神に祈りを捧げる。邪馬台国におけるリーダーは、卑弥呼だった。そして、日本国におけるリーダーが、天皇だったのではないか。このポジションは世襲によって承継され、今日に至っている。

 

天皇制の起源というのは、このようにとても純粋だったはずです。しかし、この代表者が祈りを捧げるという儀式は、やがて政治を生み、権力闘争を引き起こし、次第に汚されていく。その典型例が、戦時中の国家神道だと思います。天皇制の政治利用という訳です。

 

これらの経緯を総合して考えますと、私は、象徴天皇制については、支持する立場を取りたいと思います。日本人が国家というスケールの集団を認識しようとした時、その象徴として天皇陛下がおられる。それは、文化論、認識論、双方の立場から有益なことだと思います。また、「民主的で強い国」を目指そうと考えた場合、天皇制を持っている国の方が強い。グローバリストだろうが、アメリカ政府だろうが、日本の天皇陛下にだけは、手を出すことができない。

 

また、天皇制の政治利用は、これを排除すべきだと考えます。例えば皆様は、新たに選任された総理大臣が、天皇陛下から何か賞状のようなものを受け取っている、そういう場面を動画や写真で見たことはありませんか。これ、憲法に書いてあるのです。

 

第6条 ① 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

 

こういうことをするから、総理大臣というのは偉い人なんだと、国民が誤解する。また、このような儀式は、ヨーロッパの王権神授説とイメージがダブってしまう。すなわち、王権(総理大臣の権力)は、神(天皇陛下)が授けたものだ、という訳です。

 

また、いわゆる「恩赦」についても、止めた方がいい。

 

第7条 六 大赦、特赦、減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。

 

本来、刑の軽重というのは、法律で決まっている。それを天皇が軽減するということに、合理的な理由は見受けられません。むしろ、法的な平等を損なうことになる。そもそも、この「恩赦」も、実際には内閣が決めているはずです。内閣が決めたことを天皇が追認するというのが実態だと思われ、これも天皇の政治利用の一種だと思います。

 

第2の問題点として、憲法81条を挙げたいと思います。

 

第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 

例えば、国会が憲法に違反する法律を制定した場合、最高裁は「いやいや、その法律は憲法に違反しているから無効ですよ」と言って、その法律を無効にする権限を持っているのです。これを「違憲審査制」とか、「違憲立法審査権」などと呼びます。なるほど、これは素晴らしい。こういう権限を持っているから、裁判所は国会を牽制できる訳だ、三権分立とはこうして成り立っているんだ、と思うのですが、現実は違う。皆様は、最高裁が国会の暴走を止めたという事例をご存じでしょうか。私は、知りません。例えば、2015年に制定された安全保障関連法(戦争法)など、典型的な憲法違反の立法だと思うのですが、最高裁は口を開かない。

 

その背景には、「統治行為論」という学説がある。これは、国会なり政府が決めた高度に政治的な事柄について、裁判所は口を挟んではいけない、とする考え方なのです。そもそも、国会議員というのは、国民から直接選挙で選ばれている。その、国民の意向を反映した国会が決めたことを、わずか数人の裁判官がひっくり返すのは民主主義に反する、という考え方なんです。この「統治行為論」に基づいて、日本の最高裁は、「違憲立法審査権」を行使しない訳です。著名な憲法学者も、この「統治行為論」を支持しており、私も、半信半疑ながら、そう理解してきました。

 

しかし、ちょっと待て!

 

それでは、三権分立はどうなるのか。国会が暴走した時、最高裁がそれを止めないで、一体、誰が止めるのだ! ・・・と、最近は思い直した次第です。そもそも、憲法81条に明文規定がありながら、学説ごときによって、その運用を決するというのは、最高裁もどうかしている。「統治行為論」を採用するのであれば、正々堂々、憲法を改正してからにしていただきたい。

 

加えて、現在は小選挙区制が採られており、おおよそ3割の票を獲得した政党が、政権党となる。残りの7割は、政権党を支持していない訳です。従って、残る7割の国民の声を代弁して、最高裁は「違憲立法審査権」を行使すべきだと思います。

 

第3の問題点ですが、これは憲法に定められた裁判所の人事に関する規定です。

 

第6条 ② 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 

第79条 ① 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。

 

結局、最高裁の「長たる裁判官」と「その他の裁判官」というのは、内閣が決めているんです。(内閣人事局でしょうか)簡単に言えば、最高裁の人事権というのは、内閣が握っている訳で、出世したいと思う裁判官は、内閣の意向に沿った判決を下す訳です。下級審の裁判官も、事情は同じです。多くの裁判官は、いつかは最高裁に行きたいと思っているに違いありません。そういう裁判官は、政府に都合の良い判決を下そうとする。

 

こんなことで、司法の正義が貫けるはずがありません。日本では、国会や政府を相手にした場合、公正な裁判は期待できないのです。日本には、最初から三権分立というシステムは存在しなかったのです。

 

裁判官の任命制度ですが、例えば、弁護士、検察、裁判官などによって構成する「指名委員会」を設置して、そこで最高裁の裁判官を任命するなどの方式が考えられます。そうすれば、裁判官は内閣の意向を忖度することなく、公正な判決を下すことができるのではないでしょうか。

 

憲法を巡る論点は、他にも沢山あります。例えば、現在の参議院衆議院を同じ仕事を行っている。しかし、予算や条約に関する決議は、衆議院の決定が優先されることになっています。これでは、参議院の存在意義がありません。参議院には、衆議院とは異なる役割を付与すべきではないかという論議があるのは、当然の帰結だと思います。

 

1946年に制定された日本国憲法。以来、73年もの間、改正されたことはありません。それは日本国民が問題から目を背け、課題を先送りし続けて来た結果です。そんなことで、私たちの自由と権利が守られるはずがありません。

 

民主的で強い国

来年の4月には、日米FTA第2段階の交渉が始まります。フルパッケージで日米FTAが締結されると、すなわち、ISDS条項や為替条項を含む条約が締結されると、この国に生きる普通の人々が、生きていくことさえ困難な時代がやって来る。農薬まみれや遺伝子組み換えた食品が、その旨の表示さえなく、スーパーやコンビニに出回ることになるでしょう。癌を始めとし、多くの病人が出る。加えて、医薬品の値段は高騰し、国民皆保険すら解体されるかも知れない。病人とホームレスが急増し、必然的に自殺者も増える。これが、すぐそこまで来ている日本の近未来図です。

 

戦後、日本の民主主義を守ろうと努めて来た左翼の皆様に対し、尊敬の念と共に、申し上げたい。あなた方は、敗北したのです。

 

戦後の左翼運動というのは、「民主的で弱い国」を目指して来た。その背景には、軍国主義はダメだ、全体主義は嫌だ、という発想があったと思います。勢い、国家権力というのは弱い方がいいということになる。経済政策でも、緊縮財政を容認して来た。ところが、「弱い国」というのは、グローバリストたちにとって、格好の餌食となる。

 

象徴的な論点として、憲法9条があります。戦後の左翼運動は「戦争反対! 9条を守れ!」ということに主眼が置かれて来た。しかし、本当にそれで良かったのか。言うまでもなく、9条2項には、戦力の不保持と交戦権の放棄が定められています。それでいいんだ、無抵抗主義で行こう、という崇高な理念を持っている人もいる。しかし、多くの国民がそこまで達観できるはずがない。また、日本が戦力を持たない、若しくは戦力を持つことに消極的だということは、米軍の日本支配を容認することにつながって来た。そして、米軍による日本支配と、冒頭に記した日米FTAの問題を切り離して考える訳にはいきません。アメリカ政府は、日本に対する軍事的支配力を背景として、日米FTAの締結を迫って来ている。率直に言えば、日本の左翼は、アメリカに象徴されるグローバリズムに(結果として)加担してきたことになる。

 

加えて、護憲派と呼ばれる左翼運動家たちは、「憲法の話をすると、憲法改悪につながる危険があるので、憲法の話はするな」と主張して来た。(この点は、“護憲的改憲”を主張している憲法学者小林節氏がそう述べています。)そこで、憲法論議はタブー視されることとなり、我々日本の庶民の視界から、憲法が消えてしまった。この罪は重い。更に、改憲論議が進まないので、勢い、解釈改憲という欺瞞が横行し、結果、内閣法制局憲法を解釈するという、許しがたい行為が慣例化してしまった。憲法を定めるのは、主権者である国民のはずです。それを役人ごときが解釈を捻じ曲げていいはずがない、というのが私の立場です。

 

憲法学を歴史的に見ても、現在の国連憲章からしても、国が軍隊を持ってはいけない、という発想はありません。何故なら、どの国だって自国を防衛する権利があるからです。禁止されているのは、他国に攻め入ることなのです。従って、日本だって、軍隊を持つことは許されてしかるべきなのです。

 

このような問題意識に立ちますと、憲法9条は改定して、日本は自衛隊を軍隊として規定すべきではないのか、ということになります。繰り返しますが、軍隊と言っても、あくまでも自国を防衛することがその設置理由であって、他国に攻め入ることが許されていいはずはありません。

 

先般、アフガニスタンの支援に人生を掛けて来た中村哲医師が殺害されるという悲痛な出来事がありました。これは、日本がアメリカとの集団的自衛権を認めたから起こった事件であり、憲法とは関係がないと思います。

 

では、どうすれば良いのか。私は、次のように考えます。

 

1. マルチ商法と癒着している嘘つきの安倍政権には退場してもらう。

 

2. 国民的大論議を繰り広げた後、憲法9条を改正する。

 

3.自衛隊を軍隊として位置付ける。

 

4.集団的自衛権は、認めない。・・・集団的自衛権というのは、一般に、小国が集まって大国に対抗することを意味しています。しかし、現在の日本はアメリカに隷従しており、アメリカという大国の指示に従って、日本の自衛隊が活動する目的で、集団的自衛権を認める法律(安全保障関連法、別名、戦争法)が制定されている。これは、日本の防衛と関係がありません。

 

5.自衛隊は、日本の領土、領海、領空が攻撃された場合のみ、防衛することができる。・・・個別的自衛権

 

6.自衛隊は、日本が攻撃された場合のみ反撃を行うことができる。・・・専守防衛

 

7.自衛隊の防衛能力は、現在、世界6位の実力を持っている。これ以上、補強する必要はない。よって、9条を変えた後でも、自衛隊の規模は拡大しない。歯止めとして、軍事費はGDPの1%以内に限定する。

 

8.自衛隊の目的は、専守防衛である。よって、原則として、他国を攻撃する武器は持たない。すなわち、他国を攻撃する「核兵器」は持たない。むしろ、核兵器の不拡散に関する条約(NPT)に加盟する。

 

9.自衛隊に関する文民統制シビリアンコントロール。すなわち現在も過去も軍人ではなかった者が、自衛隊を統制する。)を定める。

 

10.現在、日本には軍隊がないことになっており、仮に自衛隊員が戦時下に敵兵や民間人を誤射してしまった場合でも、刑法(殺人罪など)が適用されることになる。かかる不合理を回避するため、戦時中の行為に適用されるべき法律を作る。

 

いかがでしょうか。このような9条改憲であれば、左翼の人も右翼の人も、納得していただけるのではないかと思うのですが。(核武装すべきという右翼の人とは相容れないことになりますが)

 

私が何故、今、憲法の話をするかと言えば、理由は2つあります。1つには、自民党改憲を主張していることです。この機に乗じて、憲法論議を盛り上げるべきではないか。

 

2つ目の理由ですが、アメリカ政府が韓国や日本から米軍を引き揚げる可能性があるということです。ご案内の通り、アメリカの国力は衰退しています。最早、「世界の警察」の役割を担うだけの国力がありません。そこでトランプは、自国第一主義を唱えている訳です。

 

しばらく前に、北朝鮮がミサイルを発射して、緊張感の高まった時期がありました。その際トランプは、「中国に責任を果たしてもらいたい」ということを仕切りに言っていました。その背景として、アメリカは北朝鮮を制圧するつもりがない、ということだったように思います。

 

あまりに複雑かつ大きな問題なので、私にもどうなるかは分かりません。しかし、アメリカ軍が日本から撤退するという可能性は、ゼロではない。これは十分に起こり得ることではないか、と思います。すると、日本は自力で自国を守っていかなければならなくなります。これはリスクでもありますが、大きなチャンスでもあると思います。すなわち、心ある日本人の悲願だった「日本独立」も夢ではないということです。

 

そろそろ私たち日本人は、この国をどうしていくのか、本気で考えるべき時期に来ていると思います。そして私は、今日までの左翼が主張して来た「民主的で弱い国」という思想を脱却し、「民主的で強い国」を目指すべきだと思っている訳です。

 

右翼と左翼とトリックスター

経済学者の松尾匡氏が、その著書(文献1)の中で、次のように述べておられました。

 

- 世の中を「タテ」方向に切って、「ウチ」と「ソト」に分け、「ウチ」に味方するのが「右翼」で、世の中を「ヨコ」方向に切って「上」と「下」に分け、「下」に味方するのが「左翼」だということです。(中略)世の中の「ウヨサヨ論議」がたいてい噛み合わないのは、これが原因だと思われます。-

 

私は、こういう話に出会うと、感心してしまいます。幸いこの話、松尾氏自身が図解入りで公開しています。是非、ご覧ください。(最初は分かりやすいのですが、ホリエモンが出て来る当たりから、段々、難しくなって来る。余談ですが、松尾氏の経済論もかなり難しい。)

 

松尾匡 用語解説 右翼と左翼
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html

 

このブログのタイトルにもありますように、私の主たる関心の対象は、文化論と認識論ですが、この右翼と左翼の話は、認識論の範疇にあり、興味が湧いて来るのです。少し考えてみたいと思います。

 

まず右翼。彼らの認識ステップを考えてみましょう。

 

Step 1: 彼らはまず、国籍、民族、性別などの区分によって、自分のアイデンティティを認識する。
Step 2: 自分のアイデンティティと他者(ソト)のアイデンティティを比較する。
Step 3: 比較検討の結果、自分と他者との関係を判断する。すなわち、敵か味方か、どちらが強いか、序列はどちらが上か、自分にとっての損得はどうか。
Step 4: 敵に対しては攻撃的な態度を取り、味方には共感する。他者の序列が自分より上であればへりくだり、そうでなければ侮蔑する。自分にとって利益になるように行動する。

 

このように考えますと、これらの認識ステップは、本物の右翼(三島由紀夫一水会の方々など)のそれではなく、いわゆる似非右翼、対米従属右翼、ヘイトスピーチを行う団体やそのメンバー、ネトウヨなどの特質を表わしているように思います。(本物の右翼のメンタリティというのは、武士道から来ていると思いますが、この点は、本稿では触れないことにします。)

 

例えば、対米従属右翼というのは、日本よりもアメリカの方が強いと思っている。だから、従属するのは仕方がないという発想になる。彼らの思想的なポジションからすれば、憲法9条の問題にしたって、戦力不保持、交戦権の放棄などは容認できないはずですが、自衛隊を9条の2として記載するという現在の自民党の妥協的な改憲案に賛成したりする訳です。

 

ヘイトスピーチを行う団体は、本来、戦うべき相手はアメリカだと思いますが、アメリカは日本より強いので、文句を言わない。反対に韓国は日本よりも下だと思っているので、嫌韓を主張する。

 

そこそこ株式投資をしている70代の人たちは、消費税によって自分たちの年金が支えられていると思わされ、安倍政権や消費税の増税に賛成したりする。

 

このような認識方法というものを改めて考えてみますと、とてもシンプルだと思います。犬の喧嘩だって、弱い方が尻尾を巻いて逃げる。ほとんど、動物の本能と変わりがないように思いますが、これが現在の日本のマジョリティではないでしょうか。グローバリストも同じだと思います。今だけ、金だけ、自分だけ、というメンタリティなのです。

 

そして、この認識パターンの特徴は、あくまでも「自分」を出発点として、他者や外界を認識している。ということは、例えば日米FTAの問題など、「あなた自身に関わることですよ、あなたにとって大変な不利益になりますよ」ということを教えられれば、きっと彼らも反対に回ると思います。(ちなみに、ここに記した認識方法は、本ブログにおいて「記号分解」として記述されてきたものです。)

 

では、左翼の認識パターンについて考えてみましょう。世界を横に切って、下にシンパシーを感じるのが左翼です。

 

例えば、話題の「桜を見る会」の問題ですが、招待状に振られた60番という番号は、これは安倍夫妻が推薦したことを表わしている。そして、60番の招待状がマルチ商法ジャパンライフの社長に届けられた。安部総理から招待状を受けるような人であれば、きっと信用できるに違いないと思ったある“おばあさん”が、ジャパンライフに騙されて、老後のために貯蓄した財産の大半を失ってしまった。聞けばこのおばあさん、15の時から働き詰めだったそうです。きっと、中学卒業と同時に働き始めたに違いない。畑仕事をやっていたのだろうか? 冬の寒い時期には、きっと両手に“あかぎれ”を作っていただろう。そんなことを考えていますと、沸々と怒りが込み上げて来ます。

 

安倍晋三、ふざけるな! 国会の予算委員会に出て来て説明しろ! 官僚よ、嘘をつくな! シンクライアントであれば、安倍の招待者リストは、復元できるに決まってるだろ!」

 

このように思って私の血圧は上がるのですが、これが左翼の認識パターンではないでしょうか。右翼の場合はあくまでも「自分」から出発して認識する訳ですが、左翼の場合はそうではない。あくまでも時間の経過に沿った物語を想像し、物事を認識する。認識の出発点は、「自分」ではなく、認識しようとする対象(上の話では“おばあさん”)ということになります。(このような左翼の認識パターンは、このブログで「物語的思考」と呼んできたものです。)

 

何故か私の場合、想像力というものに歯止めがありません。人間を離れ、例えばクジラにまで想像力が及ぶ訳です。クジラはあの巨大な体を使って、低重波を発する。その到達距離は6千キロにも達し、これは太平洋の東から西にまで届くような距離だ。これは凄い。最大のシロナガスクジラの全長は、35メートルにも及ぶ。これはとても貴重な生き物だ。クジラを食べるなどけしからん。そう思うので、私は捕鯨に反対なのです。この問題をネトウヨの人に持ち掛けたら、どうなるでしょうか。多分、彼はこう言うでしょう。

 

「その話、俺には関係ないよ」

 

やはり、松尾匡氏が指摘したように、右翼と左翼というのは話が噛み合わない。噛み合わないので、話が前に進まないのです。

 

私たちが生きている現実の世界も、実は、神話や小説に描かれる“物語”と似ているのではないか。嫌、正確に言えば、現実の世界を神話や小説が写し取っている。そして多くの場合、物語には起承転結がある。

 

現在の日本の政治状況を考えてみますと、まず、安倍晋三という空っぽの世襲議員が総理大臣になった。これが、「起」です。何しろ、空っぽなので、次々に問題が発生します。戦争法の制定、種子法廃止、水道の民営化、モリ・カケ・サクラに日米FTA。これらが「承」ですが、一向に「転」がやって来ない。いわば、起承転結ではなく、「起承承承」なのです。これではやり切れない。

 

ただ、現在の日本のように閉塞した時代というのは、過去にもあった。そして、そのような状況を打破し、物語を前に進めて来た人がいるのです。ゲーム・チェンジャーと言っても良いと思いますが、ここではトリックスターをご紹介したいと思います。

 

誠に恐縮ですが、ここで話が心理学に飛びます。

 

分析心理学のユングは、世界中の神話を研究するうちに、人類に共通するいくつかのイメージが存在すると考えた。このイメージは、神話のみならず人々の夢に出てきたり、深層心理に刻まれていたりすることをユングは発見する。そしてユングは、これらの人格に関するイメージを「元型」と呼んだのです。

 

元型にはいくつかのタイプがあり、グレート・マザーとか老賢人が有名ですが、その中に「トリックスター」というものがある。これは、異なるものを結合したり新たな意味づけをもたらしたりする道化的な人格を意味しています。色々な物事から自由でありながら、それらを揺るがし、異なるコンテクストを繋げる。そういう人格なのです。(参考:放送大学 人格心理学講座 大山泰宏氏)

 

例えば、中世のヨーロッパには王様がいて、王様はお城に住んでいた。王様に呼ばれて、道化師はお城の中へ入る。そこで、芸を披露して王様を楽しませる。またある時は、ストリートで大道芸を披露し、庶民を楽しませる。王様に対する皮肉を言って、観衆を笑わせたりする。そういう人格のイメージが、トリックスターだと言える。

 

そして、何故、そのようなイメージを人々が深層心理に持っているかと言えば、現実にそういう人間がいて、閉塞した社会状況を変えて来たからではないか、と思うのです。対立関係にある双方に働き掛け、既存のルールを揺るがし、物語を前進させる。すなわち、物語に「転」をもたらす。それがトリックスターであって、それは人々が心の奥深い所で待ち望んでいる希望なのではないか。

 

実は誰もが知っている「水戸黄門」もトリックスターの表象だと言える。大体、悪代官と越後屋が、「お主も悪よのう」などと言いながら悪事を企んでいる。そして、町娘が危機に陥ったりする訳です。そこで、水戸黄門が登場し、助さんが「この印籠が目に入らぬか!」と言って、物語は「転」を迎える。それまでのルールや秩序は一層され、ハッピーエンドを迎える訳ですが、仮に、水戸黄門がお城の中に籠っていた場合、物語は成立しません。お城の城壁を超える所に水戸黄門トリックスターたるゆえんがあると思います。

 

このようにトリックスターというのは、空間的な、社会的な、あらゆる境界を超えるのです。そして、物語に転機をもたらす。それは私たちの希望であり、社会を変革させる原動力でもある。右翼的なパターンで認識している人も、左翼的な方法で認識している人も、心の奥底には、トリックスターという共通するイメージを持っている。私はこの原稿で、そのことを記したかったのです。

 

<参考文献>
文献1:これからのマルクス経済学入門/松尾匡 橋本貴彦/筑摩選書/2016