文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 252 憲法の声(その19) 宗教と憲法

 

ホッブズは、人間の能力には大差がないから、人は皆平等だと考えました。しかし、そうでしょうか。本当は、能力に差があったとしても、人は平等なのではないか。

 

最近問題となっている人権侵害の事例というのは、その根源に“平等”という意識の欠如があるのではないか。セクハラ、パワハラ、Domestic Violence、外国人技能実習生に対する差別、全てそうだと思うのです。順に言いますと、男が偉い、上司が偉い、父親が偉い、日本人が偉い、という意識が根底にある。すなわち、問題の根源は人間の内心にある。この人間の内心に関わる問題について、例えばロックは明確に平等を説いた。しかしそれは、ロックが宗教家だから、そうできたのではないか。

 

一方、我が国の憲法なり法律なりというものは、国民の内心にまでは踏み込まない。そもそも、憲法が保障する自由には、“権力への自由”と“権力からの自由”とがあって、人間の内心というのは、“権力からの自由”に該当します。よって、思想、良心、信教などについては、自由が保障されている。そこには、国家権力が手を付けないんだ、ということになっている。それはそれで、素晴らしいことだと思います。私自身が何をどう考えているのか、そういうことに国家権力に介入して欲しくはない。誰もが、そう思う。しかし、何らかの権力が人々の内心に介入しない限り、セクハラ等の事象はなくならない。

 

人びとの内心にまで入り込む宗教。そして、そこまでは入り込まない憲法と法律。

 

どちらが正しいのか。もし、完全に正しい宗教というものが存在するのであれば、その正しい宗教によって人々の内心をコントロールすることにより、問題は解決できる。しかし、そのような完全に正しい宗教というものは、人類史上、存在したためしがない。すると、人々の内心には立ち入らない憲法や法律というシステムの方が、まだましだということになる。

 

では、頻発する上記のような問題に、私たちはどう対処すれば良いのか。正確には記憶しておりませんが、何かの本で、こんな話を読んだことがあります。昔、白人は何の疑問も持たずに黒人を奴隷として酷使していた。しかし、ある黒人奴隷が自らの境遇を小説に書いたというのです。それを読んだ白人たちは、やっと自らの過ちに気付いた。小説というのは、人々の内心に入り込む。少し青臭い言い方をしますと、村上春樹のように意味の分からないポストモダンの小説ではなく、本当は起承転結があって、人々の心を揺さぶる小説が求められているのではないか。

 

別の方法としては、憲法とは別に、日本人の心に響く平等を訴える宣言のようなものを作るという方法もある。アメリカには独立宣言があり、フランスには人権宣言がある。何か歴史的な出来事と関連づけて、例えば“日本・人権宣言”のようなものを作るという方法だってある。馬鹿馬鹿しい論議だと思われるかも知れませんが、例えば、8年前の3月11日に、日本は大変な災害と原発の事故を経験した。1945年には広島と長崎に原爆を投下された経験だってある。こういう史実に基づいて、反原子力兵器、反原発に関するステートメントを出す。そうすれば、日本は他国から尊敬される国になるはずです。残念ながら、自民党政権がやっていることは、その真逆ですが・・・。(日本は核兵器不拡散条約に加盟せず、東日本大震災の後にも原発を輸出しようと躍起になってきました。ことごとく失敗したようですが)

 

もう少しハードルは高いと思いますが、憲法の前文を書き換える、という方法だってある。現在の日本国憲法の前文は、敗戦直後に書かれたということもあって、平和主義中心の記述となっています。それはそれで意味のあることだとは思いますが、もう少し、人権保障、自由、平等ということについて触れてもいい。例えば、今から国民レベルで論議を開始して、10年後の改正を目指すとか。しかし現実には、こういう論議というものが、一向に出て来ない。このようなことも、憲法学者の怠慢ではないかと思ってしまう理由の1つです。

 

ただ、こういうことを言いますと、憲法学者の側からは「現実はそんなに甘くない!」という反論の声が上がりそうです。敗戦後70年余、憲法学会における最大のテーマは9条にあった。憲法学者は、真面目に勉強をすればするほど、反戦という方向に向かった。戦争はいけない、9条を守れ、ということで護憲派というグループができた。そこで、護憲派 vs 改憲派の戦いが始まる。改憲派の中心的な勢力は、戦前の国家神道体制に戻そうという勢力で、自民党がこれを後押ししてきた。そして、長く自民党政権が続き、護憲派は危機感を募らせた。憲法論議を行なえば、日本を戦前の体制に戻すことになってしまう。よし、ここは改憲論議を封印しよう、ということで、憲法学者を含め憲法の話はなるべくしない、という暗黙の了解ができてしまったというのです。

 

そういう間隙を突いて、自衛隊憲法に明記しようという(私に言わせれば極めて危険な)改憲論議が持ち上がっている。

No. 251 憲法の声(その18) 神なき時代の平等主義

 

憲法の声”と称して連載しております本稿ですが、ちょっと困ったことになりました。例えば推理小説であれば、真犯人は最後に分かる。これが途中で分かってしまうと、読者の興味は消失します。本稿にも同じような事情があって、日本国憲法に込められた理念やその原理は誰が発明したのか、その最大の功労者は誰だったのかという謎があって、その謎が最後に解ける。そういうことを想定していたのですが、どうやらこの問いが解けてしまった。それは、ジョン・ロックだった。

 

マルティン・ルターから始めた本稿ですが、その後、ジャン・カルヴァンを経て、トマス・ホッブズについて記述した。ここまでは順調だったと思うのですが、ロックに至って、本稿は立ち止まってしまった。ロックの思想はあまりに広汎で、不思議で、示唆に富み、手応えがある。私はまだ、ロックの思想を充分には理解していない。そう思えるので、ロックに関する論考を終了できずにいる。

 

哲学の世界では、“批判的継承”ということが言われる。これは、まず先駆者の思想があって、その枠組みなり構造を継承しつつ、“但し、ここは違う、むしろこう考えるべきだ”という批判を加える。ただ、大枠は変わらないので継承者だ、という訳です。確かに哲学には紀元前のギリシャから続く歴史がある。世界中の人々がそこに参加して、考え続けている訳で、そう簡単にオリジナルなものは出てこない。結果、“批判的継承”というスタイルにならざるを得ない。ただ、そこにどれだけオリジナルなもの、価値のある発想を付け加えることができるか、そして、誤っている事柄をどれだけ除去できるかという点で、思想家の功績は評価されるべきだと思います。

 

ロックも先駆者たちの影響を受けている。一つには、ギリシャ哲学のエピクロスがいて、ロックは子供の頃からプロテスタンティズムの影響を受けている。更に、ホッブズリヴァイアサンの影響もあったに違いない。しかし、それらのどれをも凌駕し、昇華し、オリジナリティと総合性に溢れる思想を築き上げたのがロックだと思うのです。

 

ロックの認識論は、カントによって批判的に継承された。しかし、カントはロックを超えたのか、はなはだ疑問であると言わざるを得ない。ロックは経験論を提唱した。これは、生まれたての赤ん坊の心は白紙であって、その後の経験によって心の中に観念が生ずる、というものでした。しかし、その真意は、だから人間は自由なんだ、だから人間は、少なくとも赤ん坊の状態においては平等なんだ、ということを言おうとしたのではないか。

 

これに対してカントは、“アプリオリで思弁的な理性”というようなことを言う。例えば、三角形の2辺の長さの合計は、残る1辺の長さよりも長い。そういう経験に基づかない理性というものがある。カントはそういうことを言った訳ですが、実は、同じようなことを既にロックが指摘している。

 

文献16の著者である冨田氏は、よほどカントが嫌いなようで、例えば、次のように述べています。

 

“カントが『純粋理性批判』の中でロックは「狂信」に道を開いたというのを、自身の見解を持ち上げるための噴飯ものの発言であると、私は思っています。”

 

どうやら冨田氏は、カントはロックを超えていない、と考えているようです。冨田氏の影響もあって、なんだか私もカントが嫌になってきました。

 

ちょっと話が脱線してしまいましたが、いずれにせよロックの認識論はカントを経て、その後のパースにまで影響を及ぼしています。何も知らずにパースを読んだ私は、すっかり驚いてしまったのですが、今にしてみると、明らかにパースの記号論はロックの影響を受けている。例えば、ロックは“固性”ということを述べていますが、同じことをパースも言っています。

 

そして、ロックの政治論は、その後のアメリカの独立戦争フランス革命を思想的に支えた。これは複数の文献がそう述べています。そして、ロックの思想は、巡りめぐって日本国憲法を貫く原理を示した。そう、日本国憲法を貫く原理というのは、元をただせばロックの思想にあったのです!

 

そして、ロックの宗教論や政治論はどういう構造になっているのか、ということを考えるのですが、ちょっと前回の原稿にも書きましたが、それは“平等”ということから出発しているように思えます。キリスト教徒も他の宗教の信者も、平等である。(但しロックは、無神論者だけはダメ、と言っていますが) 男と女も平等である。親と子も平等である。子供の頃は仕方がないが、子供が成人すれば、親でも子でも平等だとロックは述べている。これはとても大事なことだと思うのです。民主主義という言葉は、一般国民と権力者とが平等なんだ、ということだけを述べている。これに対して、ロックはもっと広汎に、男女も平等、親子も平等と主張しているのです。このようなロックの主張を、私は“平等主義”と呼びたい。そもそも、○○主義という言葉は無数に存在するのに、何故、“平等主義”という言葉がないのか。これは、文化的な欺瞞ではないか。これは日本国憲法についても言えることだと思います。日本国憲法には、国民主権、すなわち民主主義については明記されている。しかし、平等主義に関する記載はほとんどない。これは改善すべきだと思います。そもそも憲法とは、権力を拘束するためのものだから、民主主義だけを記載しておけば良い、という論議があるのかも知れません。しかし、それは違う。そこが憲法に記載されていないから、21世紀の日本人は今頃になって、やれセクハラはいかん、パワハラもダメ、親の子供虐待もダメだ、などという論議をやっている。そんなことは17世紀にジョン・ロックが指摘しています。

 

平等主義を出発点に考えますと、憲法に記載すべき事項も簡単に分かります。

 

まず、権力者の象徴として、“王様”という概念を設定しましょう。そして、王様から虐げられている“平民”がいる。歴史を見れば、そういう構図があったことは明らかです。そこでまず、王様と平民は平等だと考えてみる。すると、最初に考えるべき事柄は、平民の権利を守ろうということではないでしょうか。平民にだって、生きる権利がある。財産を持つ権利だって必要だ。そこで、人権保障という概念が生まれる。

 

次に、そもそも理不尽な命令ばかりを下す王様には退場願おうということになる。そして、王様に代わって権力を持つ者は、平民が選挙によって選ぼうということになる。更に、権力は必ず腐敗するので、権力というのはいくつかの機関に分けて持たせようという発想になる。これが、権力分立。

 

最後に、外国人とは言え、同じ人間だということもある。よって、外国人にも生きる権利なり、その他の人権があることになる。だから、自分たちの方から戦争を仕掛けてはいけない。そして、平和主義が生まれる。すなわち、憲法に書くべき事項というのは、次の4つだと思います。

 

1. 平等主義
2. 人権保障
3. 権力分立
4. 平和主義

 

憲法の教科書に書いてあるのは3つの原理ですが、“権力分立”が漏れていることが分かります。本稿を始めた頃、私は日本の憲法学者を尊敬していましたが、だんだん、嫌になってきました。確かに彼らは、東京大学の法学部を卒業しているかも知れない。彼らは、いつ誰がどういうことを述べたという知識は十分に持っているのでしょう。でも、それがどうしたというのでしょうか。本物の思想家というのは、そこにオリジナルな考えを付加し、批判的に継承していくべきではないのか。憲法学者の怠慢が、今日的な状況を招いた一因になっていないでしょうか。

 

そう言えば、こんな言葉がありました。

 

天は人の上に人を造らず。
 人の下に人を造らず。

 

言わずと知れた福沢諭吉の名言です。確かに、いい言葉だと思います。しかし、これは福沢のオリジナルではなく、ロック思想の日本語版だと思います。ロックの後継者が出版した本を読んだ福沢が、ロックの思想を日本に紹介したものです。控え目に言って、ロックは福沢の百倍は偉大だと思います。

 

別の観点から言えば、福沢諭吉もロックと同じ限界を持っている。ロックは全知全能の、そして人間をも作り出した絶対的な神という概念を措定して、神の下に人間は平等であると説いた。上に記した福沢の言葉も同じで、主語は“天”になっている。キリスト者が少ない日本において人々の理解を得るために、“神”とは言わずにあえて“天”という曖昧な言葉を主語にしたのだろうと思います。すなわち、“神”なり“天”なりという抽象的な概念を措定した上で、人間の平等を説いている。そこに限界がある。そのような概念に依存することなく、何故、人間は平等なのか、若しくは、何故、人間は平等であるべきなのか、誰もが納得できるロジックが必要ではないでしょうか。

 

そして、同じ限界が日本国憲法にもあるのではないか。憲法14条1項にはこう書いてあります。

 

「すべて国民は、法の下に平等であって・・・(以下略)」

 

しかし、何故、そうなのか? 何故、そうあるべきなのか? そこの説明がない。私たちは、もう一度ロックの平等主義に立ち返って、そこから現代的なロジックを再構築すべき時期に来ているのではないでしょうか。

 

文献16: ロック入門講義/冨田恭彦ちくま学芸文庫/2017
文献17: 統治二論/ジョン・ロック/加藤節訳/岩波文庫/2010

No. 250 憲法の声(その17) 憲法原理の出発点

 

憲法の教科書を読みますと、日本国憲法には次の3大原理があると記されています。

 

1. 基本的人権の尊重
2. 国民主権
3. 平和主義

 

また、自由、平等、平和の3要素を挙げる例も見かけます。民主主義は国民主権と同義だとしても、立憲主義には人権保障と権力分立という考え方が含まれています。これらの分類は、同じように見えて、実は少しずつ違う。では、憲法を支えるこれらの原理の中で、最も根本的な原理は何だろう、との疑問が沸いてきます。

 

「それは、自由だ!」と仮定してみる。しかし、では、人間は何故、自由でなければならないのか。私は自由をこよなく愛していますが、世間を見渡しますと、そうでもなさそうな人たちも少なくない。例えば、自由よりも規律や名声を重視している人たちもいます。昨今の国会中継などを見ますと、官僚の皆さんが自由に発言しているとは、とても思えない。どうも自由から出発しても、その先に発展していかないんです。

 

では、「平和だ!」という前提に立ってみる。しかし、何故、平和が良くて戦争がいけないのか。戦争とは、敵も味方も戦死者を出す。これはいけない。何故、いけないのか。それは人々に人権があって、戦争とは人権を侵害するからいけないんだと思うのですが、では、人々には何故、人権があるのか。このように考えますと、平和ということも、考え方の出発点にはなりえないように思うのです。

 

やはり、考え方の出発点には「平等」ということがあったのではないか。

 

例えば、日本にも戦国時代があったように、ヨーロッパには宗教戦争の時代というものがあって、これはホッブズが言った万人が万人の敵となる“自然状態”だった。そして、権力を持つ王様や教皇はほとんど戦場に行かず、傭兵や一般市民ばかりが死んで行ったに違いない。これはおかしい。そこで、「平等」という考え方が発生した。

 

王様も、教皇も、市民も平等だ。こう考えますと、自由とか人権という考え方が生まれる。平等なんだから、非合理な命令に従う必要はない。すなわち、市民には権力者からの非合理な拘束を拒絶する権利があるはずだ。権力側に非合理な命令を下させてはならない。そのためには、権力分立が必要となる。自国民のみならず、他国民だって人権を持っている。だから、戦争はいけない。

 

このように、平等ということを出発点に考えますと、憲法を貫く諸原理に発展させて考えることができると思うのです。

 

では、人間は何故平等なのか。

 

この問いに対する回答については、本稿が扱った対象の中で最も古いものは、マルティン・ルターが提唱した“万人祭司”です。まず、全知全能の神がいる。それに比べれば、カトリック教会における役位など、たかが知れている。皆、同じ人間ではないか。いかがでしょうか。これには、かなり説得力があるように感じます。

 

次に、ホッブズがいて、彼は、人間の知力、体力に注目した。そして、大差はないというのがホッブズの見解だった訳です。何をもって大差と言うかという問題はありますが、人間の知力や体力に差異があるのも事実です。世の中には、天才的な物理学者がいて、他方、私のように微分積分も理解できないような者もいる。強靭な肉体を持つプロレスラーがいる一方、私のような腰痛持ちもいる。この点に限って言えば、ホッブズの説は、少し弱いように感じます。

 

そしてジョン・ロックですが、彼は当時、ロバート・フィルマーという人が唱えていた王権神授説を徹底的に批判することによって、平等ということを説いた。フィルマーの王権神授説とは、王様はアダムの子孫である、だから偉いんだ、というものだったようです。そもそも、聖書によればアダムとイヴしかいなかった訳で、そうであれば全ての人類が彼らの子孫ではないのか、などと思ってしまいますが、私はこのような神学論争に加わるつもりがない。しかし、ロックは違った。そもそも、アダムの方がイヴよりも偉かったという根拠はない、ということも含めて、徹底した主張を展開したのです。ロックの主張のポイントは、全ての人間は神が作ったものだから同じなんだ、平等なんだ、ということだと思いまが、かなりルターの説に近い。

 

しかし、無神論者の私としては、ちょっと困ってしまう。それでは、神という概念を措定しない限り、人間が平等であるということを論理的に証明できないのだろうか、という問題が生じてしまう。何かいいアディアはないものか、と思案しているのですが、ちょっと思いつきません。

 

多分、無神論という前提に立って、それでも人間は平等だと考えたのは、後世のマルクス主義なのだろうと思いますが、結論は、先送りさせてください。このブログは、16世紀から始めて、まだ17世紀に達したところですので。20世紀の思想を理解している方々にしてみれば、歯がゆいのだろうと思いますが・・・。

 

ただ、現時点で言えるのは、全知全能の神、天地を創造した絶対的な神という概念を措定したキリスト教があったからこそ、平等という概念が生まれた。そして、平等という概念が、その後の憲法原理を作ったのではないか。このことは、言えるのだろうと思うのです。例えば、ヒンドゥー教や仏教をどんなに推し進めても、憲法原理に辿り着くことはないと思うのです。

No. 249 憲法の声(その16) ロックの観念論

ジョン・ロックは、私たちが日常的に見たり認識したりしている物、すなわち経験的対象のことを観念であると定義づけました。そして、この経験的対象を分解していくと微小な粒子やその集合体から成り立つ“物そのもの”が存在すると考えたのです。

 

心 - 観念/経験的対象 - “物そのもの”

 

すなわち、私たちの心があって、心が見ている物がある。更にその先に粒子状の状態がある。この粒子状の状態(“物そのもの”)をプラスして考える。これがロックの観念論の特徴のようです。このような考え方を“粒子仮説”と呼ぶようですが、その概略であれば、半世紀ほど前に私が学習した、中学生レベルの物理学の知識をもってしても、理解することができます。例えば水であれば、2つの水素原子(H)と1つの酸素原子(O)が手をつないでいる。H2Oということになります。これが微小な空間の中で、ぶつかりあっている。加熱すると、そのぶつかり方が激しくなるので、水は膨張する。

 

ロックの時代の物理学がどの程度発達していたのか分かりませんが、少なくとも現代においては、“物そのもの”について研究する学術分野は物理学であって、哲学の仕事ではありません。よって、厳密にロックの観念論について理解する意味も、あまりないような気がします。ここは、ざっくりと行きましょう。そこで、以下のイメージ図に基づいて、簡単に考えてみます。

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まず、心の内側と外側とに分けて考える。そして、心の内側には感覚、心象(記憶、想像力)、そして概念などが存在する。心の外側には、粒子状態の“物そのもの”が存在する。ここまではいいと思うのですが、ロックは更に複雑なことを言い出すのです。心の内側と外側の双方に存在する“基礎的観念”というものを想定したのです。簡単に言うと、時間と空間の中に物が存在し、物はある空間を独占的に占有しており、それは人間によって認識される。大体、そういうことをロックは考えたのです。

 

また、心の中に戻りますと、人間が持つ観念というのは特殊観念、抽象観念に分類できる。例えば赤ん坊は、まず母親を認識するだろう。その後、赤ん坊の目前には父親とか、叔父さん、叔母さんなど複数の人物が登場する。皆、顔を持ち、2本の腕を持ち、言葉を話し、服を着ている。これは、どう考えても似ている。そこで、この似ている彼らのことを赤ん坊は、人間であると認識する。この類似点、共通点を認識する能力のことを、ロックは“抽象”と呼びました。まず、母親を認識する。これは個別の“特殊観念”である。それが抽象されると“人間”になり、更に抽象を進めると“動物”になる。

 

私は少し前の原稿(類似性と差異)において、逆のことを述べました。すなわち、古代人はまず、自分たちを取り巻く世界を眺めた。そこで、自発的に動く生き物として動物を認識し、自発的には動かないが生きているものを植物とし、元々生きていない物を鉱物として認識したのではないか。すなわち、私の考えたモデルは最初に複数の要素があって、そこから類似性を認識するに至る。ロックの場合は反対に個別(母親)の観念から抽象し、人間、動物という観念に至る。類似性を認識するという点は、両論に共通していると思うのですが、総体を分割する、すなわち全体から個別へと向かう私の説と、個別から全体へ向かうとするロックの説とでは、正反対だということになります。どちらの説も正しいのではないか、という気がします。

 

次に、ロックは単純観念と複合観念ということを考えます。単純観念というのは、一つの要素に起因する観念のことです。例えば、レモンという単純観念がある。そして、ジュースという単純観念もある。この二つの観念をプラスすると、レモンジュースという複合観念が生まれる。

 

レモン(単純観念) + ジュース(単純観念) = レモンジュース(複合観念)

 

人間の心は、このように複合観念を作り出す能動的な能力を持っている。但し、この能力は外的元型(上の例であればレモンとかジュースのこと)から拘束を受ける。例えばレモンは酸っぱいので、甘いレモンジュースという観念を作ることはできない。

 

更にロックは、様態ということを考える。これは、物事のあり方のことですが、これも単純なものと混合されたものを考える。例えば、漁師が海で魚を採ってくる。これは、単純様態だと思います。これを特定の場所で売買する。そして、混合様態として魚市場が成立する。

 

魚を採る(単純様態) + 魚を売買する(単純様態) = 魚市場(混合様態)

 

このように人間の創造的な観念形成によって混合様態は生まれるのであり、ロックはそこに人間の自由を想定したのです。

 

多くの場合、人間は職業なり役割を持っていて、その生きている狭い範囲でしか、物事を考えない。その職業なり役割を全うするために必要な概念が生まれ、言葉が生まれ、必要がなくなれば、それらの概念や言葉は消えていく。しかし、この混合様態は何らかの制約を受けるものではなく、そこには限りない可能性が秘められている。だから、仮説を立て、チャレンジしてみるべきではないのか。ロックは、そう考えたのでした。人間には自由がある。考えろ、やってみろ、そうすればもっと幸せになれる可能性がある。そういうメッセージをロックは持っていたのだと思います。

 

“物そのもの”についての研究は物理学に任せるとしても、ロックが提唱した上記のメッセージには、現代においても、全く色あせることのない普遍性がある。そしてロックは、認識論から統治論へと思考の翼を広げたのではないでしょうか。

No. 248 憲法の声(その15) ロックの経験論

 

ブログの更新、諸般の事情により、大分間が空いてしまいました。申し訳ありません。

 

さて、少し論点を整理しましょう。ルターとカルヴァンは、概ね、宗教論に終始していました。しかし、ホッブズから突然、複雑になる。これには、次のような事情があったようです。

 

すなわち、当時は宗教戦争が吹き荒れ、科学の世界も行き詰まっていた。そして、ギリシャ語で書かれた「著名な哲学者の生涯と学説」という本が、ラテン語に翻訳され出版された。これを契機に、古代ギリシャの思想に関心が集まったというのです。(文献16)

 

ホッブズ古代ギリシャの哲学者、エピクロスの影響を受けたようですが、ロックも同じだったようです。まず、古代原子論というのがあった。これは、物質というのは分解していくと、原子に行き着くという考え方です。紀元前からそういうことを考える人がいたというのは、驚きです。最初に誰が言い出したのかは分かりませんが、レウキッポスから、デモクリトスエピクロスへと継承されたようです。ロックもこの考え方を踏襲します。してみると、次のように記載できる。

 

神話 → キリスト教 + ギリシャ哲学 = 立憲主義、民主主義

 

また、ホッブズやロックの主張点は、概ね、3つのジャンルに分類できそうです。(ホッブズが数学に興味を持ち、ロックが医者だったという事実は省略します。)

 

・宗教論
・認識論
・政治論

 

宗教論の説明は不要かと思います。次の認識論については、そもそも人間とは何か、特に、個々人が世界をどのように認識しているのかという問題で、私はこれを認知、認識、思考の3要素に分けて考えています。これから述べるロックの経験主義、カントの理性主義なども認識論に含まれます。

 

政治論には、政治権力、人権、社会契約論などの要素が含まれます。ホッブズについて、分解してみると、次のようになります。

 

ホッブズの場合
宗教論・・・カトリックへの批判
認識論・・・感覚について など
政治論・・・あたかも一つの人格を持つかのように機能する群衆(リヴァイアサン

 

ロックの場合は、相変わらず王権神授説を唱える論敵がいて、真っ向からぶつかったようです。代表作とも言える「統治二論」の前半は、王権神授説に対する批判に終始しています。次に認識論の分野でロックは、「人間知性論」という文献を出版しています。ロックはこの問題を死ぬまで考え続けたようです。そして政治論について、ロックは前述の「統治二論」の後半でこれを展開しています。

 

ロックの場合
宗教論・・・王権神授説への批判
認識論・・・人間知性論、経験論
政治論・・・統治論

 

これで、少し整理がついたのではないでしょうか。本稿は「憲法の声」というタイトルであって、最終的には、様々な思想や史実を経て、日本国憲法が出来上がるまでのプロセスを記述することを目標としています。よって、主眼は政治論ということになりますが、私自身は認識論にも興味がある。宗教論は卒業ということで、今後とも認識論と政治論を中心に進めていきたいと思います。

 

古代原子論を継承したロックは、まず物は原子によって構成される、というところから出発します。原子とは小さな粒子ですから、人間が肉眼によって、これを観察することはできません。この、観察することが困難な状態の原子の塊をロックは、“物そのもの”(things themselves)と呼びました。

 

さらにロックは、“物そのもの”の1次性質として、形、大きさ、固性、運動、静止などの要素があると考えました。ただ、それだけでは、人間は“物そのもの”を認識することができません。そこでロックは、“物そのもの”には色、味、熱さ、冷たさなどの要素を伝える能力があるのだと主張します。ロックは、この能力を2次性質と呼びました。更に、2次性質と呼ばれる能力によって、“物そのもの”は人間の感覚器官に働き掛ける。この作用のことをロックは“触発”と呼びました。

 

“物そのもの” → 触発 → 人間の感覚器官

 

このようにして、人間によって知覚される事柄がある。元来、“物そのもの”には色も味もない訳ですが、人間は明らかに色や味を知覚する。それは、“物そのもの”とは異なりますが、人間は心の中で、その対象物を認識する。この心の内側に発生する事柄をロックは、Ideaと呼んだのです。このIdeaをどう和訳するかという問題がある訳ですが、文献16は、「観念」と表記しています。観念と言うと、大変分かりづらいと思うのですが、これは私たちが日常的に認識している状態の物体のことで、“経験的対象”と言った方が分かり易いかも知れません。そして、最後に“心”が観念を知覚する訳です。

 

“物そのもの” → 触発 → 人間の感覚器官 → 観念 → 心

 

現代風に言えば、若しくは私流の言い方をすると、上記の事項がロックの考えた認知システムということになります。

 

ちなみに、ロックの提示した認知システムは、ヒュームを経由して、カントに継承された。そして、カントが記したのが「純粋理性批判」だそうです。こういう基礎知識を持たずに、いきなり「純粋理性批判」を読んでも、理解できなくて当然だったのかも知れません。ロックの用語と、カントが用いた用語を並べてみましょう。

 

ロック・・・物そのもの・・・触発・・・観念
カント・・・ 物自体 ・・・触発・・・表象

 

こうしてみますと、“表象”という言葉の意味も、よく理解できます!

 

ロックが生きた時代は、例えば「人は自らの罪を悔い改めなければならない」ということが、生得原理、すなわち人間が生まれて来る段階で認識されていると考えられていたそうです。これに対して、生まれてくる時点で、人間の心は白紙であるとロックは考えた。そして、白紙の状態である心の中に様々な観念が生じるその原動力について、ロックは“経験”であると主張した。経験は更に2つに分類される。一つは、感覚。他方は、“反省”と訳されていますが、これは思考と言い換えても良いと思われます。

 

複数の観念を統合したり比較したりすることによって、知識が生まれ、知識に基づいて思考することによって原理が発見される。概ね、ロックはそのように考えたようです。

 

(観念 + 観念 = 知識) → 原理

 

ところで、人間が生まれて来る時、その心は本当に白紙でしょうか。皆様は、どうお考えになりますか? 実は、ロックの経験論は、ユングの「元型論」と真っ向から対立するように思われるのです。

 

集合的無意識とは心全体の中で、個人的体験に由来するものでなくしたがって個人的に獲得されたものではないという否定の形で、個人的無意識から区別されうる部分のことである。”

 

そしてユングは、集合的無意識の内容として“太古から存在している普遍的なイメージ”を元型と呼んだのです。

 

一早く神話に注目したユングは、世界の神話を調査した。すると、異なる地域の神話であっても、共通するイメージが登場することに気付いた。そのイメージをユングは元型と呼び、個人的無意識よりも深い所に、集合的無意識が存在すると考えた。この集合的無意識が、実は人間の心理に多大な影響を及ぼしている。

 

概ね、元型と集合的無意識に関するユングの主張は上記の通りですが、では、何故、人間は地域や民族を超えて、同じようなイメージ、すなわち元型を持っているのか。その理由について、ユングは遺伝によると述べているのです。すなわち、ユングによれば、人間は生まれながらにして、元型というイメージを持っていることになります。

 

ロックが正しいのか、ユングが正しいのか。

 

実は人間というのは、深い所でつながっている。私は、永年そういうイメージを持ってきたのです。そう簡単に、ユングを否定する訳にはいかない。

 

では、こう考えてみてはいかがでしょうか。すなわち、人間というのは意識の深い所で、共通するイメージ、すなわち元型を持っている。そして、元型が集合的無意識を作り出す。しかし、元型というのは遺伝によって伝播するのではなく、人間社会が作り出してきた文化によって伝播し、共有される。

 

すなわち、ロックの経験論は正しく、ユングも大筋においては正しい。

 

文献16: ロック入門講義/冨田恭彦ちくま学芸文庫/2017

No. 247 憲法の声(その14) 類似性と差異

 

民俗学折口信夫氏は、人間の認識能力について、咄嗟に類似点を直観する「類化性能」と、反対に差異を認識する「別化性能」の2つがあり、古代人は類化性能によって世界を認識し、現代人は別化性能によって認識すると考えた。

 

古代人・・・類化性能・・・類似点を認識する
現代人・・・別化性能・・・差異を認識する

 

また、文化人類学の領域において、古代人は他の動物を尊敬していたという報告がある。

 

まず古代人が、彼らを取り巻く世界について、どのように認識しようとしていたかを考えてみます。百科事典も、図鑑もない時代です。世界には自分たちと同じように、自発的に動く生き物がいる。これは、動物として認識しよう。また、自発的には動かないが生きているモノがある。これは、植物。もともと、生きていないモノもある。これは、鉱物としよう。古代人は、まず、大雑把に身の回りの存在をこのように認識しようとしたに違いないと思うのです。それは、彼らにとって、重要なことだった。動物と植物は食料になる可能性があるが、鉱物にその可能性はない。いや、むしろ認識すること自体が、とても重要なことだったのかも知れません。

 

上記のように大雑把にグループ分けをする際には、例えば動物であれば「自発的に動く」という類似点に注目することになります。古代人は、自分たち人間も動物だと考えた。同じ動物の鳥は空を飛べるが、自分たちは飛ぶことができない。だから、鳥を尊敬した。また、動物は食べることができるので、往々にして彼らは食人という習慣も持った。すなわち、人間と他の動物との間に、差異を認めなかった可能性すらある。

 

無数の要素が存在する現実世界を認識するための第一歩は、上記のようにグループ分けをすることだったはずだと思うのです。

 

では、現代人はどうでしょうか。例えば、トヨタ自動車のHPを見てみると、まず、大分類としてコンパクト、セダン、SUV、ミニバンなどのグルーピングがなされている。これは、そこにカテゴライズされるべき車種の類似性に着目している訳です。そして、コンパクトという項目には、アクア、ヴィッツ、パッソなどの車種が紹介されています。他の自動車メーカーのHPも、概ね同じような構成になっています。

 

次に、購入者の立場になって、考えてみましょう。クルマを買おうと思う人は、まず、大分類の中で、どのタイプにしようかと考える。しかし、古代とは違って、現代社会においては既に大分類がなされている訳で、自分で考える必要はありません。そして、例えばコンパクトに興味がある場合、トヨタ車の中でそこに列記されているアクア、ヴィッツ、パッソなどを比較検討することになる。この段階では、各車種の差異に注目することになります。更に、ホンダのフィットなども候補になる可能性があります。そして購入者は、厳密に差異を認識しようとする。価格は、燃費は、スタイルは、とチェックすべき項目は少なくない。十分に差異を認識すると、今度は、順位を付けることになります。2台も3台も購入する訳ではありません。少なくとも、自分が購入すべき第一順位のクルマはどれなのか、判断を迫られることになります。

 

現代人の日常においては、同じような場面が無限に存在します。就職先を選ぶ場合から、コンビニで弁当を買う場合まで、現代人は常に差異を認識するよう強制されていると思います。直観的な認識から感情的な反応まで、現代人が重要視しているのは、差異だということが分かります。例えば、現代においては既に生物の分類というのは完成されているので、新種を発見しようとする人は、ひたすら生物の差異と向き合うことになります。

 

すると、どういうことが起こるか。まず、私が“身体系”と呼んできた共感を求めるメンタリティ。まず、共感を求める。しかし、相手が共感しなかった場合、すなわち差異を表明した場合、その感情は反感へと変質します。

 

次に、そもそも差異を前提とした“競争系のメンタリティ”ですが、差異の認識は、人間社会における序列を構成することになります。このように考えますと、私が繰り返し否定してきたこの“競争系のメンタリティ”というのは、実は、人間の認識方法という根源的な所にルーツのあることが分かります。例えば、紙に二つの円が描かれていたとしましょう。現代人ならば、ほぼ間違いなく、どちらの円の方が大きいか、認識するのだろうと思います。では、古代人ならどうでしょう。これは、想像する以外に確認方法はありませんが、もしかすると類似性に注目して、“2つとも同じ形をしている”という類似性に着目するのかも知れません。

 

昨今、日本と韓国は互いに批判し合い、対立しています。政権を維持するためには、両国とも仮想敵国の存在を必要としている、という事情もありそうです。しかし、これが古代だったらどうでしょうか。「お互い、同じ人間じゃないか」。そう思う可能性が高いと思います。もしも現代人が、古代人のこのメンタリティを回復することができれば、世界平和も夢ではありません。それどころか、差別、イジメ、貧富の格差など、現代社会が抱える諸問題を一気に解決できる可能性すらある。よって、これはとても重大な問題だと思うのです。

 

やはり、認識論こそが本質的な問題ではないでしょうか。そこで、哲学中辞典で認識論という項目に当たってみると、次の記述がありました。

 

“学術の著しい高度化のなかで、専門分化が進行し総合性の確保に困難が生じ様々な問題が生まれている。こうした状況においては、学際的研究を含めて専門領域間の交流連携が求められるとともに、総合性確保についての認識論的検討が必要となる。”

 

残念! 学問の分野においても“差異”が過度に認識された結果、専門化、分化が進み、総合性が失われている。例えば、ジョン・ロックは医者の資格を持ち、認識論や政治論の論文を書き、ニュートンと交際し、イングランド銀行の設立に貢献した。これ位オールマイティーな知識を持っていたからこそ、物事の本質に迫ることができたのではないでしょうか。(但し、ロックの時代、病院というものは存在せず、医療は、薬屋とか床屋が片手間に行なっていたそうです。それはそれで、困ったことではありますが・・・。)

 

もう少し、哲学中辞典の頁をめくってみますと、次の記述もありました。

 

“問題状況が巨大化複雑化し、しかも多様で膨大な情報に取り囲まれるという今日の知的状況の中で、認識論も新しい問題に直面している。”

 

こちらも、私がかねてより指摘してきた事項だと思います。特に、人間自身が複雑な社会、経済システムを構築したため、当の人間が認識できる規模を超えてしまったのではないか、というのが私の問題意識でした。こちらも、重要な課題だと思います。

 

<認識論における現代的な課題>
1. 現代人は、過度に差異を認識するため、そこから競争、序列、敵対関係などが誘発される。
2. 現代の社会的環境は、巨大化、複雑化した。そのため、人間が認識することが困難な状況が生まれている。

 

1番目の問題(差異認識)について、日本国憲法は、これを抑制する規定を置いています。平和主義(前文、9条)、法の下の平等(14条)などが該当します。他方、2番目の問題(認識の困難性)に関する規定はありません。こちらは、日本国憲法の制定時以降に生じた問題かと思われますし、そもそも、憲法と直接の関係はなさそうです。(認識論の立場から言えば、政治家や役人は嘘をついてはいけない、という規定があっても良いかも知れません。)

 

上記2つの問題があることが分かりましたが、ではどうすれば良いのか。最近、立憲民主党は”多様性を認め合う”ということを、しきりに主張しています。これは、世界的な傾向だと思いますが、解決に向けた一つの方向性を示すものだと思います。今更、現代人に差異を認識するなと言っても、それは無理です。そこで、差異を認識しても、その差異を受容しろ、というのがかかる主張ではないでしょうか。

 

その他、現時点で抜本的な解決策を私が持っている訳ではありません。今回は、問題点の指摘に留まりますが、このような問題意識を前提として、本稿、“憲法の声”を書き進めていきたいと思っております。

 

文献15: 哲学中辞典/尾関周二 他編/知泉書館/2016

No. 246 憲法の声(その13) それでも真理は存在する。

 

本を読んでおりましても、なかなか、すぐには分からない。しかし、いろいろ当たっておりますと、ストンと腑に落ちることがあります。

 

文献14によりますと、ヘーゲルは次のように考えていた。

 

“矛盾の発端は、「自由」でありたいという各人の欲望の本性にあるが、自由を実現するためにもっとも合理的な方法は、各人が各人の自由を相互に承認しあうことにあると、やがて人々は気づくにいたる。もちろんこの自覚は、少しずつしか進まない。が、それでも人間の社会は、事実として徐々にそのような社会制度の実現へと動いてきた。そして、ヘーゲルによれば、このプロセスの最後の展開が、フランス革命に象徴される市民社会なのである。”

 

簡単に言うと、ヘーゲルは人間の社会というものは必ず良い方向に進化する、と考えていた。それにしても、それがフランス革命とは、驚きます。現在の黄色いジャケットの抵抗(Yellow Vest Protest)のあり様をヘーゲルに見せてあげたい位です。

 

また、文献15におきましてヘーゲル歴史観は、次のように述べられています。

 

“観念史観の典型をなすヘーゲルは、アジア的、ローマ的、ゲルマン的という三段階を通って絶対的理念が実現されていくと見る。”

 

やはりヘーゲルは、人間社会の歴史は良い方向へと、言わば一直線に進むと考えていたようです。ヘーゲル歴史観が、“進歩主義”と呼ばれる所以です。

 

これは流石に、私でも賛同できない。そこでヘーゲルは、ポストモダンの思想家たちにとっては、批判すべき対象、すなわち悪役となった。フランスの哲学者リオタール(1924~1998)は、1984年に出版した「ポストモダンの条件」の中で、次のように述べた。

 

“西洋近代は、学問が発展し真理へ近づくことによって人間性と社会の在り方もますます進歩していくという「大きな歴史の物語」を掲げていたが、そのような真理と進歩の物語を信じた近代はもう終わったのである。”

 

上記の引用箇所が、言わばポストモダンと呼ばれる時代の開幕を宣言したものだった。つまり、リオタールが敵視していたのは、ヘーゲルだった!(ここで腑に落ちたのです。)

 

さて、私のような者が、偉大な哲学者を批判するのもいかがなものか、と思わないでもありませんが、率直に言って、ヘーゲルもリオタールも間違っている。

 

まず、ヘーゲル進歩主義についてですが、そのように歴史は動かない。人間の社会、歴史、文化というものは、あたかもダーウィンが唱えた進化論のように、様々な方向へ向かう種が出てきて、一部は人々によって選択され生き残り、そうでないものは死滅していく。こういう構造を持っているのであって、“進歩主義”ではなく、正解は“進化主義”であるべきだと思います。

 

次にリオタールですが、進歩主義を批判する点は私も同感ですが、だからと言って真理までも否定してしまうのは違う。2度に渡る世界大戦、マルクス主義の失敗。確かに、人類はいろいろ挫折を経験した。しかし、だからと言って真理の存在を否定するのは、敗北主義に過ぎない。それでも真理は存在するのだ、ということで、本稿の主題に入りましょう。

 

まず、真理とは何か、ということになります。こういう時、やはり哲学中辞典(文献15)は便利です。

 

1) 対応説・・・知識や言明は、実在と一致しているとき真、そうでなければ偽である。
2) 明証説・・・私たちがきわめて明晰判明にとらえることはすべて真である。
3) 実用説・・・観念は、それを信じることが生活にとって有益である限りにおいて「真」である。
4) 整合説・・・他の言明と一致し、矛盾しないこと。

 

いろいろありますが、簡単に言えば、「間違っていないこと」が真理だと考えられているようです。但し、もう少し真理を動的に捉える考え方もあるようです。文献15には、次のような記述もあります。

 

“特殊な時代・社会に実際に獲得される真理は相対的なものであり、その批判的蓄積によって客観を完全に捉える絶対的な真理に接近することができる”

 

こちらの方が、私のイメージに近そうです。“真理とは、仮説として登場し、検証され、歴史の中で修正され、体系的に理解される普遍的な原理のことである。”これが私の考える真理の定義です。

 

このように考えますと、哲学の中で重要な位置を占める“認識論”の構造について、一応の理解が成立すると思うのです。これは、認知、認識、思考という3つのステップで考えることができるのではないか。

 

哲学用語辞典に「認知」という項目はありませんが、「認知科学」という項目はあります。この認知という概念は、比較的新しいものではないでしょうか。例えば、ホッブズは“リヴァイアサン”という大著を「感覚について」という項目から始めている。これは何を意味しているかと言うと、人間はまず、感覚によって外界を知覚する、だからそこが出発点なんだ、ということです。もちろん、それはホッブズの時代なりの考え方でしかない。しかし、この考え方は、感覚によって知覚されるものが“記号”である、という発想に発展し、パースが記号学を確立した。そして、パースの記号学を、今、人口知能の専門家たちが学習している。記号学については、既に述べましたので、ここでは繰り返しません。もし、ご興味のある方は、このブログの右上にあるキーワード検索の機能を使うと、関連する原稿が出てくるはずです。

 

次に、認識というステップに移る。認識については、文献15に的確な説明があります。

 

“認識は現象から本質へ、さらにより深い本質へと接近していく無限の過程であり活動である。”

 

ただ、そう言ってしまうとこれで認識論全体の説明になってしまうかも知れません。人間が真理に近づこうと努力する際、まず、認知ということがあって、次に、対象を観察する、実験する、比較する、関連づける、体系化する、というようなプロセスがあると思うのです。この段階では、正に、対象の本質を探っている訳で、このような働きを認識と呼んで良いと思うのです。ちなみに、先に記した事例の中で、観察、実験、というのは、ロックの“経験主義”においても述べられている事項です。ロック以前の時代においては、人間がオギャーと生まれてくるその時点で、既に何らかの観念のようなものを持っていると考えられていたようです。これに対し、ロックは、赤ん坊は白紙で生まれてくる、と主張した。そして、人間はその後の経験によって、観念などを獲得する、とロックは考えた訳です。これが、“経験主義”と呼ばれる考え方で、私も賛成です。

 

そこで、3番目のステップとして、思考ということがある。これは、私が論理的思考と呼んできたものであって、理性という言葉に近いものだと思います。論理には、3段論法、演繹、帰納、そしてパースが提唱したアブダクションがある。特に、このアブダクションこそが何かを発見する時のロジックなのです。まず、驚くべき現象がある。しかし、仮にAという事項が真実だとすれば、係る驚くべき現象の理由を説明できる。このような場合に、Aという仮説は真実であることになる。簡単に言えば、これがアブダクションですが、これも完全なロジックということにはならない。そこで、アブダクションによって立てられた仮説が本当に真実なのか、ということは、その後、個々の事例に照らし、すなわち帰納法によって検証すべきだ、ということになる。そこで検証された事項は、すなわち、真理である。だから、真理は存在する、というのが私の考え方です。

 

憲法上の概念に照らして、考えてみましょう。民主主義ということがある。これは、正しく機能する場合も、そうでない場合もある。民主主義はナチズムに加担したし、最近ではポピュリズムという弊害を招くことが指摘されている。しかしよく考えてみれば、民主主義が正しく機能するためには、いくつかの条件がある。例えば、民衆に正しい情報が提供されること。フェイク・ニュースが流行り、毎月勤労統計のデータが改竄されるような社会において、民主主義が機能するはずがありません。更に、教育も重要だ。加えて、ある程度の経済的な余裕も必要だと思います。長時間労働で睡眠時間が5時間という環境にあって、人間は正しく思考することはできない。但し、上記の条件で十分なのか、それとも他に必要な条件があるのか、そういうことは未だに検証されていないのではないでしょうか。すると、この口当たりの良い民主主義という言葉も、本当はまだ仮説に過ぎないと言える。

 

他方、権力は腐敗する、というテーゼを考えますと、これは既に実証されている。現在の日本政府など、現在進行形でこれを実証している。すると、権力というのは分散させた方が良いことになる。立憲主義ですね。こちらは、検証済みの真理である、と言える。少し、整理してみましょう。

 

認知・・・記号学
認識・・・経験主義
思考・・・理性主義、論理学

 

このように、真理というものは、確実に存在する。だから、私たちは敗北主義に陥る必要など、どこにもないのです。2度の世界大戦があった。しかし、それを未然に防ぐことのできる原理は、必ずあったはずだ。その原理を発見できなかったのは、当時の仮説が間違っていたからに他ならない。マルクス主義が敗北した。それは、マルクス主義が間違っていたか、それを柔軟に修正する努力を怠ったからではないのか。考えることを止めてはいけない。真理は、必ずどこかに存在するのだから。

 

文献14: はじめての哲学史竹田青嗣西研有斐閣/1998
文献15: 哲学中辞典/尾関周二 他編/知泉書館/2016