文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 157 消えた実体、意味の喪失

前回の原稿で、記号論に関する検討には一区切りつけるつもりだったのですが、そうもいかないような気がしてきました。記号論の前身である言語学まで含めますと、その歴史は古代ギリシャにまで遡るようです。またソシュールの後には、チャールズ・パース(1839~1914)という人がいて、複雑な理論体系を構築したようです。ちなみに、パースは「人は、記号である」というところまで行き着いたようです。何だか難しそうですね。更に、パースの後には、以前の原稿で「何かが記号であるのは, それがある解釈者によって何かの記号として解釈されるからである」という言葉を引用させていただきましたチャールズ・モリス(1903~1979)がいます。

さて、前回の原稿で提示致しました人間の認知、行動に関わる概念モデルですが、本当にそうだろうか、という疑問も沸いてきました。便宜上、再度、掲載致します。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

まず、古代人が獲物に向かって石を投げるまでのプロセスを考えてみます。

 

実体・・・足元に“石ころ”が転がっている。
記号・・・“石ころ”だという言葉と同時に、その機能を理解する。
意味・・・自分と獲物の距離、“石ころ”の機能、自分が空腹であることなどを判断する。
反応・・・獲物に向かって、“石ころ”を投げる。

 

上記の場合、うまく当てはまっているようです。次に、伝統的なお寿司屋さんの例で考えてみましょう。

 

実体・・・寿司屋の大将
記号・・・熟練の技で握られた寿司、美しい皿、季節の花などの添え物
意味・・・大将の技、女将さんのもてなし。高額の支払いなど。
反応・・・満足感をもって、寿司を食べる

 

上記の場合も、うまく当てはまるようです。財布の心配さえなければ、ということではありますが・・・。では、回転寿司の場合は、どうでしょうか。

 

実体・・・無し
記号・・・パネルにタッチして、注文する。
意味・・・無し
反応・・・寿司を食べる

 

多くの場合、回転寿司では作っている人の顔は見えません。パネルにタッチして注文すると、寿司がおもちゃの電車に乗ってやって来るような店もあります。考えてみますと、このように「記号があって、それに反応する」という、ただそれだけで完結するケースは、決して少なくないような気がします。例えば、シューティング系のゲーム。記号としての敵が画面に現われ、それを攻撃する。マンガも同じだと思います。多くの場合、そこに実体と意味はありません。ピコ太郎の動画を見て、真似をして踊るイバンカさんの娘なども同じです。古い所では、怪談などもそうだと思います。そもそも、幽霊というのは実体がない。よって、怪談というのは作り話なんです。しかし、それを聞いて「キャー、怖い!」などと反応する。そもそも、エンターテインメントと呼ばれるジャンルの構造というのは、そういうことになっているのかも知れませんが、現代において、この傾向は確実に強まっている。

 

その理由を考えてみますと、一つには大量生産によって、商品やモノの作り手の顔が見えなくなったこと。二つ目としては、グローバル化に伴って、言語以外の記号(マーク、ロゴなど)が増えたこと。三つ目としては、ハイテク化、ネットの普及によって、現代人が触れる記号の総量が爆発的に増加した、ということが考えられます。結果として、実体と意味が失われ、ただ記号に反応するという人間社会が生まれつつある。

 

本当にそれでいいのか疑問を禁じ得ませんが、ここでいいとか悪いとか言っても、それこそ意味がないような気がします。ただ、この実体と意味の喪失という現象は、すぐそこまで来ている人工知能とバーチャル・リアリティによって、更に、急速に、確実に進展するでしょう。

 

最近、ネットに出ていたのですが、ある青年が、AKB系のアイドルに入れ込んで、貯金の1千万円を使い果たしてしまったそうです。アイドルというのは、記号です。少なくとも、記号の総体だと言えます。彼女たちは、芸名を付けて、歌い、踊り、笑顔を見せてメッセージを発信しています。それは虚像であって、現実の少女の姿ではありません。しかし、記号化されたアイドルに夢中になって、その青年は“意味”を考えることができなくなった。この場合の意味とは、自分と、そのアイドルの実体、そして記号として発信されるメッセージの相関関係のことです。その青年は、実体を見ることなく、意味も考えずに、ただ記号に反応してしまった。

 

しかし、そのアイドルの実体とは何か、という疑問もあります。一人の少女を分解していきますと、究極的には、それを記号で表わすことが可能なのかも知れません。彼女は言葉、すなわち記号によって考えています。彼女の好きなもの、嫌いなもの、身体的な特徴、これらも全て記号化することが可能でしょう。

 

このように考えますと、冒頭に引用しましたパースの言葉が、身に染みて来ます。

 

「人は、記号である」

No. 156 記号に関する試論

前2回の原稿(~基礎知識)では、極力私の意見は抑えて、一般に言われていることを忠実に記載したつもりです。しかし、どうもこれでは良く分からない。そこで今回は、私なりの記号についての考え方を記載させていただきます。

 

まず、ソシュールの理論の基礎は言語学、コミュニケーション体系にあるのであって、記号全般について検討するには適さないのではないか、ということです。例えば、言語学を野球に例えてみますと、いくら野球の研究をしたとしても、スポーツ全般のことは分からない。それと同じではないか。すなわち、“記号”というのは言語よりも範囲が広い。“意味”となると、更に対象範囲は拡大すると思うのです。だから、言語学をベースにいくら記号や意味について考えても、結論には至らないのではないでしょうか。

 

まず、No. 154の記事で紹介致しましたソシュールが前提とした“記号”の定義について、振り返ってみます。

 

記号   =  知覚される図形や音  +  意味
シーニュ =  シニフィアン     +  シニフィエ

 

そもそも、これが違っているのではないでしょうか。記号とは、上の図式でシニフィアンとして記載されている「知覚される図形や音」そのものであると考えた方が良い。何故ならば、“意味”という概念は、記号よりも広いからです。よって、シニフィアンこそが記号である、というところから出発してみたいと思います。(実際、学者の中にも、シニフィアンを記号と呼んだ人もいるようです。)私が、提示したいモデルは、次の通りです。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

一目見て分かる通り、これは人間同士のコミュニケーションのみを対象とする概念モデルではありません。むしろ、人間が環境を認知し、行動に移すまでのプロセスを示していると言えます。少し、具体例を挙げてご説明致します。

 

私が歩いていて、交差点に差し掛かったとします。信号機が赤い色を表示しています。物理的に存在しているこの信号機が “実体”です。私は、「赤信号だ」という言葉を胸の中で呟きます。この赤信号という言葉が“記号”です。この記号は、対象である信号機の機能を意味しています。すなわち、「信号機とは、自動車や歩行者の通行を規制することによって、それらの通行の円滑化を図ると共に、安全を確保する」という機能を持っている訳です。そこで私は、今、交差点を横断するのは危険であるという“意味”を抽出します。そして、その意味に従って、私は立ち止まるという“行動”(反応)に出る訳です。

 

もう一つ、時計の例で考えてみましょう。まず、時計という物理的に存在している“実体”があります。時計の針が、夜の8時を指していたとします。これも“記号”ですね。私は、自分の置かれている状況と記号の関係などから“意味”を抽出しようとします。そう言えば、ビールが飲みたいな、飲んでもいい時間だな、と思う訳です。そこで、晩酌という“行動”(反応)を取ることになります。

 

人間同士の例も考えてみましょう。あなたは、バーで飲んでいます。隣に異性が座っています。この異性は、実在する人物という意味で“実体”ということになります。その異性があなたの膝に手を置いたとします。(この例、前にも使いましたね!)あなたは、その異性の行動に何らかの意図を感じます。従って、その異性の行動は、“記号”であることになります。あなたはちょっとドギマギしながら、あなた自身と、実体であるその異性と、異性のとった行動について考えるはずです。それが“意味”だと思うのです。例えば、あなたとその異性との関係が、今後、恋人同士に発展することをあなたが望んでいるような場合、あなたは異性の手の上に自分の掌を重ねるかも知れません。例えばあなたが既婚者で、そういうことは困る、という場合もあり得ます。この場合、あなたはさり気なく席を立つかも知れません。これが、“行動”(反応)ということになります。

 

ソシュール記号論の文献を何冊か読んで、そこから抽出した私にとっての“意味”が、上記の概念モデルであると言えます。現代の記号論というのは、もっと複雑で、記号の分類などを研究し続けていえる人も少なくないのだろうと思います。しかし、文化を考える立場から言えば、上記のモデルで一応の決着がついたような気がします。すなわち記号とは、物の機能や人の意図と深く結びついている。そして、人々は記号を通して、自分と外界とのつながり、すなわち意味を考えて来た。そういう歴史がある。記号なくして、人々は外界を理解することはできないし、外界と自らを結びつける意味を抽出することもできない。現代に生きる我々の場合は、既に、ほぼ100%の外界は記号化されている。他方、古代人の場合には、何か新たな実体に遭遇する度、それに名前を付け記号化すると共に、そこに意味を探してきたのではないでしょうか。例えば、夜空に稲妻が走る。しかし、彼らには意味が分からない。疫病が流行って、人がバタバタと死んで行く。その意味も分からない。イナズマとか、死とか、その現象に名前を付ける、すなわち記号化するところまではできても、その先の意味を見つけることができない。そんなところから、アニミズムが生まれたのではないでしょうか。

 

このように考えますと、前述の実体、記号、意味、反応という人間の認知、行動に関わるシステムは、人間が如何に文化を産み出してきたのか、ミクロで見た場合、その基本構造を示しているようにも思うのです。

No. 155 記号論の基礎知識(その2)

前回の原稿で述べましたラングについて、ソシュールは、次のように述べています。

ラングは「言語能力の社会的所産であると同時に, 個々人におけるこのような能力の行使を可能にするために社会集団によって採用された, 不可欠な慣例の総体でもある」。(文献1)

 

また、ソシュールはラングの他にも個人的な声の質とか、個人的な言葉の選び方の傾向なども言語を考える上での重要な要素だと考え、これをパロールと名付けました。そして、ラングとパロールを合わせて考えることによって浮かび上がってくる言葉の全体的な姿をランガージュと呼んだのです。(文献2)

 

ランガージュ(全体的な姿)= ラング + パロール

 

以上の検討結果から、ソシュールは言語について、2つの原則を導き出しました。1つ目は、「言語記号の恣意性」ということです。これは、ある果物のことをリンゴと呼ぼうがアップルと呼ぼうが、その果物と呼び名の間には特段の原則はない。つまり、あるものをどう名付けようが勝手である、という意味です。2つ目は、「線状性」です。これは、言語を文字で表記した場合には、必ず一本の線のように並ぶ、という意味です。話し言葉にしても、人間は同時に2つの音素を発音することができませんので、それを文字にした場合には、必ず線状になります。なんだか、難しそうなことを色々述べて来た割に、これらの原則は、当たり前のことのように感じます。但し、ソシュールが評価されている理由は、言葉や言葉が意味する内容がいかに曖昧であるか、それを証明した点にあるものと思われます。

 

(余談にはなりますが、この線状性の問題については、次のような説もあります。「近代文明全体は活字の書体の線状モデルに支配されており、そして、われわれの現代世界が新しい形の感性の出現を体験しているのは, 多くの新しい(電子的, 視覚的)記号がもはや線状的にではなくて, 空間的・包括的にわれわれに到達しているからなのだ」。やはり、私たち人類は、新たな時代を迎えつつあるのかも知れませんね。)(文献1)

 

こうして振り返ってみますとソシュールは、コミュニケーションが成立するための条件など、言語学に興味を抱いていたことが分かります。しかし、私たちは言語によって、考えたりもします。必ずしも、言語はコミュニケーションだけを目的としたツールではありません。更に、私たちが生活していく上で、例えば横断歩道があり、信号機がある訳で、これらも記号として機能していることは明らかです。そこで、ソシュール以後の学者は、記号というものをもっと広い範囲で考え始めたようです。例えば、記号をその発信源別に考えてみますと、人間の他にも自然現象や動物も記号を発信している。このように記号を広く解釈するのが最近の傾向だと言われています。(文献1)このような発想を発展させますと、遺伝子の研究、動物記号論、動物の体内でのコミュニケーションを研究する内部記号論などに繋がっていくようです。

 

ところで、記号が表わすその“意味”とは、何でしょうか。この問題に関しましては、言葉が、特に文章となった場合、その意味は無限大に拡大します。よって、その意味がどういう体系になっているのか、これを万人が納得するような説明はなされていない、ということになっています。但し、単語の発音をその最小限の単位である音素に分解できたように、意味を最小限の構成要素(意味素)に分解することができれば、いずれは説明が可能ではないか、という説もあるようです。

 

現代の記号論におきましては、“機能としての記号”という問題も研究対象となっています。例えば、椅子がある。これは座ることができるという意味を持っている記号であるとも言えます。ファッションも、見方によっては、記号であると解釈できます。

 

例えば、あなたが気になる異性とバーで飲んでいたとしましょう。仮にその異性が、あなたの膝に手を置いたとします。この異性の行為をあなたの膝は、感知しています。このような異性の行為は、あなたにとって記号でしょうか。もし、あなたがそこに何らかの意味を読み取るのであれば、この異性の行為は記号である、ということになります。

 

チャールズ・モリス(1903~1979)という人の言葉を引用させていただきます。

 

「何かが記号であるのは, それがある解釈者によって何かの記号として解釈されるからである」。

 

(参考文献)
文献1: 記号論入門/ウンベルト・エコ/而立書房/1997
文献2: ソシュールのすべて/町田健/研究者/2004

No. 154 記号論の基礎知識(その1)

 

言葉も記号の一種なので、記号論記号学)は、言語学を含めた学術分野の一つだと言えます。しかしこれが相当、難解なんです。その理由は、この学問が相当長い歴史を持っているにも関わらず未だに完成されていない、という点にあるように思われます。記号論において、最も有名で多くの文献に登場するのは、スイス人言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)だと思われます。しかしソシュールは、もう100年以上も前の人なんですね。だから、大変な功績を残したことは間違いないようですが、その後、いろいろ批判もされています。では、ソシュールを超えて、定説と呼ばれるに相応しい説を唱えた人がいるかと言えば、ちょっと見当たらない。加えて今日の記号論においても、解明されていない問題がある。例えば、意味の問題。「意味とは何かというのは現代の言語学でも非常に難しい問題で、誰もが認める意味の定義というのはまだ提出されていません」(文献1)更に、どの言語でも必ず時間の経過と共に変化することは分かっていますが、「現代言語学でも、コトバが変化する必然性の理由についての解明はできていません」(文献1)ということなんです。

加えて、抽象概念を扱っているせいか、言葉の定義が曖昧であるような印象も受けます。フランス語から日本語への翻訳の問題もあります。例えば、シニフィアンというフランス語が、“能記”と訳される。えっ、“能記”って何? 私などは、そう思ってしまいます。

そこで、今回の原稿では、記号論の基礎知識を、極力、分かり易く紹介したいと思います。

まず、記号とは何か、という話から始めてみましょう。記号とは、知覚される図形や音と、それらが指し示す意味から成り立っています。これを数式になぞらえてみます。なお、下段の表記は、フランス語です。

記号   =  知覚される図形や音  +  意味
シーニュ =  シニフィアン     +  シニフィエ

言葉には、話し言葉と書き言葉がありますので、“知覚される図形や音”の例としては、文字の“猫”(図形)と、発話される“ネコ”(音)があります。そして、これらのシニフィアンが、動物の猫を意味(シニフィエ)している。これが、記号だということになります。逆に言えば、意味を持たない図形や音は、記号ではないことになります。

ところで、同じ日本人でも言語に用いる音は、微妙に異なっているようです。方言を聞きますと、その傾向は顕著ですね。しかし、同じ日本人同士として会話が通じるためには、最低限、相手の人が発話した音が“ア”なのか“イ”なのか、判別できなくては困ります。そこでソシュールは、ギリギリ判別可能な発音の集合を“音素”として定義しました。例えば、日本語におきましては、英語のように“L”と“R”の発音を区別していません。よって、日本語においては、これらの発音は同じ“音素”に含まれることになります。他方、英語において、これらの発音は、別の音素に区分けされます。外国語を聞いたり話したりするのが難しいのは、そもそも使われている音素が違うからなんですね。ちなみに、日本語において使用されている音素は20個くらいで、英語だとその倍くらいあるそうです。日本人が英語を苦手とする理由は、覚えなくてはならない音素の数が多いからだ、とする説もあります。

次に、意味(シニフィエ)について考えてみましょう。そんなの簡単だ、と思われるかも知れません。では、日本語で“朝”と言った場合、あなたは何時から何時までの間を想定されるでしょうか。この答えは多分、人によってバラツキがあると思うのです。例えば、“花”と言っても、サボテンなどでは“花”のような“実”のようなものもある。このように、現実の世界には、境界が曖昧な事柄が多いのです。そこで、形容詞を使って“白い花”などと言ったりしますが、厳密に言えば白にも色々あります。従って、言葉によってある実態を100%正確に記述することは、不可能だと言わざるを得ません。

ところで、コミュニケーションを目的として言葉(記号)を使用する場合には、ある条件が必要となります。例えば、日本語で話しかけた場合、聞き手も日本語を理解できる能力を持っていることが必要となります。日本語を理解できるということの意味には、まず、個々の単語の意味が分からなければなりません。また語順など、文法的な知識も必要です。でも、それだけではないのです。例えば、Aさんがタバコに火を付けようとしました。そこでBさんが「子供がいるよ」と言ったとします。現代の日本人であれば、それは「子供がいるから、タバコを吸うのは止めてくれ」という意味だと理解するでしょう。しかし、昭和の時代であれば、子供がいようが女性がいようが、タバコを吸うことは許容されていました。フーテンの寅さんなどを見ますと、大人たちはどこでも平気な顔をしてタバコを吸っています。すると、昭和の時代に生きていた彼らには「子供がいるよ」と言っても、その真意は伝わらない可能性がある。そこでソシュールは、「ある個別言語を使うすべての人々が共通にもっている、同じ文が同じ事柄を表すようにするためのしくみ」を“ラング”と呼んだのです。

(参考文献)
文献1: ソシュールのすべて/町田健/研究社/2004

No. 153 記号の時代としての現代

 

少し話が遡りますが、どうも現代人の関心事は、“記号”にあるような気がしてなりません。また、現代という時代を読み解くために、私は便宜上、“中間文化”という概念を提示させていただきました。これは、精神文化と物質文化の中間に位置するという意味で申し上げたのですが、では、その中間文化の実質は何にあるのか。それは、“記号”ではないか、という発想があったのです。もしかすると、文化を分解していくと、その最小単位は“記号”に行き着くのではないか。だとすれば、“記号”が分かれば文化も分かる。そんな希望も抱いていたのです。

 

現代社会の街並みというのは、記号に溢れている。また、インターネットを開きまと、まずYahooだとかGoogleポータルサイトが表われると思うのですが、そこはほぼ100%、記号によって構成されています。そもそも、コンピューターというのは電子信号を利用して稼働している訳ですが、これも記号です。最近、ユルキャラなどと言われる着ぐるみが流行っていますが、これも記号ですね。

では、“記号”とは何か、という話になる訳で、今、私は「記号論入門」(文献1)という本を読んでいるのですが、75頁まで来たところで、未だに記号の定義についての説明が続いているのです。最も簡略に記載された記号の定義は、次の通りです。「他の何物かの代わりになる何物か」。これでは良く分かりませんが、この話は後日に譲ることにさせていただきます。

 

さて、このブログでは何度か、古代人と現代人の類似性について指摘させていただきましたが、古代人の関心事も現代人と同様に、記号にあったのではないかと思うのです。言葉という記号のシステムを作りつつあった古代人は、動物や植物に名前を付けていった。狩りに出かけた先で、オオカミの匂いを感じる。これは危険を意味している。これも記号の一種です。ある時、村の長老が「オオトカゲと巨大な蚊が結婚して生まれたのが、我々の祖先だ」と言うと、その部族はオオトカゲ・グループとして、他のグループと識別される。これがトーテミズムですが、この識別システムも、結局のところオオトカゲという記号に依拠している。

 

精神文化と言いますか、各時代の人々の関心事を考えてみましょう。古代人の関心事が、“記号”だとすると、中世の人々は想像力により記号を体系化し宗教を作った。やがて、ニーチェダーウィンが宗教を否定し、近代思想は民主主義という理想を掲げた。

 

古代・・・記号
中世・・・宗教
近代・・・民主主義 (国民主権基本的人権の尊重、平和主義)
現代・・・???

 

ここで言っている民主主義というのは、多様な人間同士、共に生きようとする近代の人々が生み出した思想のことです。しかし、いつまでたっても、理想的な民主国家というのは実現しない。例えば、最近アメリカの教会で銃の乱射事件があり、26人が死亡するという事件がありました。これに対してトランプ大統領は、「犯人は精神疾患を患っていたという情報がある。これは銃規制の問題ではなく、精神疾患の問題だ」と述べていました。私は、この大統領は、どこかの開発途上国の代表者ではないのか、と思ってしまいました。言うまでもなく、現代社会において精神疾患を患っている人間というのは、高い比率で存在する訳です。これをゼロにするのは、銃を規制するよりはるかに困難です。アメリカでさえ、こんなレベルにしかない。

 

宗教と民主主義を失った現代人には、何もなくなってしまった。いや、現代人は古代人と同じように、記号に向き合い始めたのではないか。そうだとすると、現代人は、新たなスタートラインに立っているのかも知れません。例えば、こんなイメージで捉えることができる。私の眼の前に螺旋状の階段がある。私の正面に古代人が立っていて、今、正に階段を上り始めようとしている。同じく、私の正面に現代人が見える。彼も同じ階段を上っている。しかし、現代人は古代人よりも3段階、上に位置している。

 

例えば、現代人は民主国家という全体像を示すジグソーパズルを並べている。しかし、それを完成させるために必要な、あと2つか3つのピースが見つからない。そんな風に考えることもできます。それとも、かつて近代思想が宗教を否定したように、民主国家という概念自体を否定し、更に上を行くような価値観が生まれるのかも知れません。

 

(参考文献)
文献1: 記号論入門 (記号概念の歴史と分析)/ウンベルト・エコ/而立書房

No. 152 こんな本があったとは!

 

昨日、バスに揺られながら、いつもの本屋に向かっていました。窓の外には、夕暮れ時の街並みが見えています。ラーメン屋の看板がある。自動車ディーラーのネオンが光っている。道路標識が見える。ああ、なんということでしょう。この世は、記号に充ちている!

ところで、個別の文化を考えてみますと、それは明らかに進化している。そんな例は、いくらでもあります。例えば、絵画の歴史を振り返ってみますと、それは壁画から始まり、やがて絵の具や画布が発明される。やがて、人々は遠近法を発明し、外界をそっくりキャンバスに写し出すことに成功した。そういうことをやり尽くしてしまうと、今度は、画家の印象を強調するような技法が生み出される。これが、印象派の仕事です。更に次のステップで、画家は外界の対象物から離れ、自らの心象を描こうと試みる。これが、抽象絵画ということになります。明らかに進化している。

ジャズの世界で言えば、帝王マイルス・デイビスビバップと呼ばれるスタイルを学ぶところから始まった。やがて彼は、クール、モード、エレクトリック、ファンクと、次々に新しいスタイルを生み出していった。

また、文化というのは、集団によって保有されているとも言えます。上の例で言えば、あのゴッホだって、一人であのスタイルを確立した訳ではありません。スーラが発明した点描画という技法に着想をえて、点ではなく、短い線で描くというスタイルを確立した。あのマイルス・デイビスだって、最初はチャーリー・パーカーから、ビバッブを学んだんです。もっと言えば、トランペットという楽器にも長い歴史があるはずで、その楽器がなければ、マイルスはあのような音楽を演奏することはできなかった。そして絵画は、それをみる人がいるから、文化として成立している。それを聞く人がいなければ、音楽だって成立しない。

では、集団にとっての文化とは、どういうものなのでしょうか。ある意味それは、人気投票に似ているのではないか。カップラーメンを例に考えてみましょう。スーパーへ行くと、無数のカップラーメンが売られている。消費者は、それぞれの好みに応じて、どれにするか吟味する訳です。そして、大量に売れる商品は生き残り、そうでない商品は消えていく。例えば、カップヌードルというロングセラーの商品がありますが、これは今日まで多数の支持を得て、勝ち残ってきた訳です。逆に、例えば私が好きだったとんこつ味の“めんこく”という商品がありましたが、いつの間にか消えてしまいました。他にも、消えていった商品は無数にあるでしょう。すなわち、文化というのは、選挙と言いますか、常に人気投票という厳しい選抜試験に晒されているのではないでしょうか。この原則は、商品に限ったものではなく、例えばハロウィンという文化だって、そこに参加する人がいなくなれば、消えていきます。このように考えますと、文化が生き残るか否かという問題は、ダーウィンの進化論に似ているのではないか。適者のみが生き残る。適者生存ですね。そして、突然変異によって、進化する。動物の進化は、遺伝子の突然変異によって発生しますが、文化の場合は天才の出現によって、進化するのではないか。例えば、ゴッホマイルス・デイビスのような・・・。

そんなことを考えながら、本屋へ着いた訳ですが、驚いたことにこんな本があったんです。

 

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私よりも先に、私よりも本格的に、そんなことを考えている人がいたんですね。世界は広い!

No. 151 記号化する若者たち

前回の原稿で、文化には精神文化、物質文化、そしてその中間に位置する中間文化があるのではないか、と述べました。(「中間文化」というのは、私がそう言っているだけで、学術用語ではありません。)このように考えますと、私たちは朝起きてから、夜、眠るまで常に文化の中にいることが分かります。人間というのは、自らが作り出した文化の中で生きて、文化の中で死んでいく。そういう動物なんですね。

 

さて、文化を3種類に分けて考えますと、見えてくることがあります。まず精神文化ですが、これは中世の宗教において一つの頂点を迎え、それが近代に入って哲学や自然科学によって否定され、遂には民主主義に至る。その要諦は、日本国憲法に書いてある。言ってみれば、もう70年も前に、完成してしまったんですね。その後も思想だとか文学の世界で、色々な人たちが様々な意見をのべたり、作品を作ってきた訳ですが、日本国憲法の3原則を超えるような価値観というのは、未だに生み出されていないのではないか。若い人たちは、そのことに気付いているのかも知れません。

 

次に物質文化ですが、その発展にも、一定の限度があるような気がします。例えば、冷蔵庫は家に1台あればいい。電子レンジだって同じですね。確かに現代のスーパーマーケットには、食品が溢れていますが、そうは言っても我々日本人が食べる量には、限度がある。そして、私たちは既に必要なモノを概ね、手に入れてしまった。

 

このように考えますと、今、最もエキサイティングに発展しているのは、中間文化なのではないか。典型例として、絵画というものがある。現実に存在する自然だとか、動物や人間の姿を表したものが絵画な訳ですが、やがて物質文化の産物としてカメラができる。ひとたび、飽きられてしまったような気がしますが、デジカメなるものが登場し、ネット上のインスタグラムにアップするという楽しみ方が生まれる。更に、これが動画に発展し、こちらもYouTubeにアップできる。昔の人物画は、漫画やイラストとなり、大量に創作される。このブログのように文字による情報も、今やネットに溢れています。1975年頃、近代という時代が終わり、ポストモダン、すなわち現代という時代が幕を開けたものと思われますが、現代という時代が育んでいる中間文化は、ネットに依存している比率がとても大きい。

 

現代の若者たちは、既に、中世に生まれた宗教を信仰していない。近代思想も持たない。モノに執着しない。極端に言えば、彼らは最早、人間にすら興味を持っていないのではないでしょうか。彼らは、多分、インターネットに象徴される中間文化の中で、その居場所を探している。そんな気がします。そして、そのためには、自らを記号化し、記号化された自分を演じているのではないか。例えばTwitterを始めるためには、自らのハンドルネームとアイコンと呼ばれる象徴的な写真が必要です。もちろん、これらも記号です。ハロウィンに参加して楽しむためには、ゾンビとかピエロの格好をして、他の人たちとは区別され、目立つようにしなければなりません。これが、記号化だと思います。例えば、体にタトゥーを入れる。これも自らの身体を他人のそれとは区別する、すなわち記号化が目的なのではないでしょうか。

 

信仰も思想も持たない、モノにもあまり興味のない彼らが、自らのアイデンティティーを確立する最も手っ取り早い方法が、記号化だと思うのです。そう言えば、Lineのスタンプなんてものも流行っていますね。

 

この自らを記号化するというメンタリティは、古代人に通ずるものです。狩猟、採集を生業としていた古代人も、今風に言えばコスプレをしていました。装飾品を身にまとい、入れ墨も好んでやっていたようです。

 

私は、ゾンビの格好をしてハロウィンを楽しんでいる若者たちを批判するつもりはありません。遊んだらいいと思います。遊びの中からこそ、新しい文化は生まれるのです。彼らだって、翌日には真面目に学校や職場に行っているのでしょう。ただ、古代人のメンタリティ、その本質は「感覚」にあると思うのですが、それだけというのは、ちょっと寂しい気が致します。