文化領域論

(No.196 ~ No.228)

休止のお知らせ

● 昨日の街頭記者会見
昨日(8月1日)、新宿で山本太郎さんの街頭記者会見がありましたが、私はこれを見て驚いてしまいました。最初の質問者が自ら言うには、中卒で、刺青をしていて、デリヘル譲を送迎する車の運転手をしていたとか。そして、彼が叫ぶ。「皆、泣きながら仕事してるんだ!」確かに想像を絶する環境にある。こういう人たちからも消費税をむしり取っていいのか。消費税は撤廃すべきだと、改めて感じ入った次第です。

 

● 認識論から見た“れいわ新選組
人間は、どのようなステップで世界を認識するのか。まず、親に教えられる。やがて、学校へ行き教育を受ける。受動的にテレビを見たり、新聞を読んだりする。そこで、完結してしまう人もいる。しかし、主体的に情報を得ようとする人もいる。具体的には、読書とネットがその手段となるでしょう。

 

・家庭教育
・学校教育
・マスメディア
・主体的情報取得(読書、ネット)

 

しかし、人が世界を認識する手段は、もう一つある。“経験”です。実は、これが大きいのではないでしょうか。上に記したデリヘル譲の送迎をしていた男性、強烈な経験だったはずです。それが、「泣きながら仕事をしているんだ!」という言葉につながる。彼は、それを直接経験しているから、彼の認識は確固たるものとなっている。

 

戦後の日本には、戦争を“経験”している人たちが少なからずいた。その経験は、家庭教育などの場を通じて、子供に伝えられたに違いありません。戦争というのは、日本国民全体に共通する“経験”だった訳ですが、その経験者は急速に減少している。反対に、現在の日本においては、“貧困”という過酷な“経験”に直面している人たちが増えている。しかし、貧困というのは、個別的だと思うのです。貧困には、様々な態様があるので、なかなか社会問題として把握しづらい。そのような個別の“経験”にスポットライトを当てたのが、“れいわ新選組”だという見方もできるように思います。

 

● お勧めYouTube動画
「2019参院選後の日本 民意を読む」(3) 白井聡 京都精華大学専任講師
2019.07.31  1:37:54
https://www.youtube.com/watch?v=nDrkCwWg4KA

 

コメント・・・57分経過時点で紹介される若者の話には、驚きました。また、反共主義を唱える連合主流派と、連合主流派に従属している立憲民主党、国民民主が、共産党と手を組めるはずがない。つまり、市民連合が主導してきた野党共闘というは、所詮夢物語で、実現可能性がないのではないか。

 

連合(反共主義) - 立憲民主・国民民主 -×- 共産党

 

● “れいわ新選組”から教わったこと
“れいわ新選組”をきっかけに、このブログでは政治、経済について検討することになりました。特に、このブログでMMTだとかマクロ経済について取り上げるとは、思ってもみないことでした。結果、私の国家観も鍛えられたように思います。

 

しかし、私が“れいわ新選組”から教わった最も重要なことは、大衆を愛するというメンタリティです。一般大衆というのは、勉強もせず、視野は狭く、自分勝手だ。え~い、世の中、どうなったって構いやしない! 良くないとは分かっていても、私は、そういうメンタリティを持っていました。しかし、太郎さんの演説を聞き続けるうちに、「大衆とは、愛すべき存在だ」という心境に変わってきたのです。

 

例えば、太郎さんがこう言う。
「皆さん、この国で一番偉いのは、誰か知っていますか?」
すると、女性の声が聞こえる。
「私たち!」

 

それはそうなんですが、そこまで大きな声で言わなくても、と思ったものです。それは、当たり前のことなのですから。

 

別の日、太郎さんがこう言う。
社会保障費が、4兆円も削減されているんですよ」
「ふざけるなア~!!!」
そう叫んでいる、私がいた。

 

「私たち!」と叫んだ女性と私の間に、どれだけの違いがあるのか。結局、私自身、愚かな大衆の一人に過ぎない。そして、太郎さんの演説に聞き入り、大声で反応している人たちというのは愛すべき人たちなんだと、そう思えるのです。

 

このブログでは、横光利一の「時間」という小説を取り上げたことがありますが、この作家も、同じようなことを考えていたのかも知れません。そして、あのカントも。

 

● 政治と芸術
学者というのは、自分の専門分野を決めて、そこから出て来ようとしない傾向にある。政治学者は、経済を語ろうとしない。同様に、経済学者は政治を語ろうとしない。専門が違うと言えばそうなのですが、それでは現在の“山本太郎現象”を分析することはできない。もっと、総合的に検討すべきだと思います。

 

その点、学者でない私は、自由に物事を考えることができる。例えば、政治と芸術。人間は、動物に触発されて芸術を生み出した。それは次第に集団化され、シャーマニズムに至る。これが政治の原点ではないでしょうか。シャーマニズムは様式化され宗教となり、宗教国家を形成する。ヨーロッパで、宗教を乗り越えようという試みがあり、近代国家が誕生する。

 

これらの流れは、ずっとつながっているに違いない。“れいわ新選組”の街頭演説会には、ミュージシャン、作家、映画監督、落語家などの文化人が参加したし、そこには熱狂があった。どこか、ロック・コンサートに似ている。つまり、政治と芸術というのは、つながっているに違いない。私はそう思っているのですが、そのようなことを体系的に説明した人というのは、いるのでしょうか?

 

● 休止のお知らせ
せっかく皆様にお読みいただいているのに残念ですが、お読みいただくに足る原稿を書くためには、私自身、知識を補充する必要があります。よって、このブログの更新は、しばらく休むことに致します。

 

暑い日が続きますが、何とか乗り切って行きましょう!

YouTubeのお勧め動画

今回は、私が参考にしているYouTubeの動画を紹介致します。


▶ 「没落について」 中野剛志 グローバル資本主義を超えて
インターネットTV 超人大陸 27:50  2018年10月13日

(ロックイン)
https://www.youtube.com/watch?v=OoduEx7tl2k

 

山川コメント・・・この国に希望はない。絶望から始めよう。


▶ 「日本の緊縮運動と反緊縮運動~グローバリズムを巡る日本の局地戦」
藤井聡氏 グローバル資本主義を超えて
インターネットTV 超人大陸 39:25  2018.11.24

(反緊縮 & 反グローバリズム
https://www.youtube.com/watch?v=MheM3X3HLPg

 

山川コメント・・・藤井氏は、チャンネル桜にも出演している典型的な右派。私は左派なので、藤井氏とは外交・安全保障政策などは一致しない。但し、藤井氏の経済政策には賛同している。番組中、藤井氏は「反緊縮&反グローバリズムのマスメディアや政党が存在しない」と発言している。但し、この番組の収録後に発足した”れいわ新選組”が掲げている政策は、正に「反緊縮&反グローバリズム」だと思います。また、藤井氏は「サヨク&緊縮」の人々にも言及しています。私は彼らを「緊縮左派」と呼んでいますが、昨今、緊縮左派の側から”れいわ新選組”に対する批判が出ており、腹立たしい限りです。

 

▶ 日本の未来を考える勉強会
よくわかるMMT(現代貨幣理論)解説 2019年4月22日
講師 中野剛志氏  1:01:14
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

 

山川コメント・・・MMTに関する分かり易い説明動画。


▶ 三橋TV第111回 絶望の向こう側のチャンスを 2019.07.08

(認識共同体、経路依存性)
https://www.youtube.com/watch?v=xZeGnPqYnH4

 

山川コメント・・・一度、動き始めた人間集団というのは、なかなかその進路を変更できない。これが「経路依存性」。選挙後に突然、党首が「生まれ変わった」と言って、改憲勢力との連携を模索するような国民民主党は論外としても、せめて立憲民主党には、「経路依存性」から脱却し、消費税減税に踏み込んでもらいたい。多分、無理でしょうけれども。また、野党共闘を推進して来た市民連合にも、同様のことが言える。従来の野党共闘では、結局、与党を倒すことはできなかった。新しい道を模索すべきだと思います。小沢一郎氏も同じ。2大政党制というのは、結局、無理な話だった。過去や現在を肯定する右派のメンタリティというのは、一つの政党(自民党)に集約される。他方、現状の変革を求める左派のメンタリティは、複数の方向性を指し示す。だから、左派(野党)というのは一つにまとまり難い。結局、小選挙区制というのは、右派(自民党)に有利な制度なのだと思います。ところで、国民民主と自由党の合併は、結局、何だったのですか? 小沢氏の弁明を聞いてみたいものです。

 

▶ 安冨歩の街頭演説 at 堺市役所前
2019.07.28公開(7/20収録) 49:21
https://www.youtube.com/watch?v=AikqxnCWjPg

 

山川コメント・・・政治と芸術が交錯する異空間。安冨氏は、見る側(学者)の人間から、見られる側の人間(アーティスト)に変容したのではないか。知性を極めた人間が、芸術に到達したのではないか。演説を進めていく過程において、安冨氏の意識レベルは低下する。安冨氏は、表層意識から無意識の領域に入り込み、やがて心の中に潜む小さな女の子が顔を出し、彼女が涙を流す。文化人類学的な見方をすると、このような心のあり方は、古代のシャーマニズムに似ている。だから、聴衆は癒されるのだ。興味は尽きない。

 

以 上

 

 

祝 太郎党首の誕生!

“れいわ新選組”を応援してこられた皆様、いかがお過ごしでしょうか?

 

選挙の終盤にかけて、「れいわ祭り2」が新橋で開催され、翌日「新宿センキョ」があり、現場におられた方々はもちろん、ネット中継でご覧になった方々も、随分と盛り上がったのではないでしょうか。投票日の直前には「不正選挙」が話題になり、マジックで記載した方が良い、いや、マジックでは消される可能性があるので鉛筆が良い、などという情報がネット上に溢れ返りました。これが日本の選挙かと思うと、情けない限りでした。

 

投票日を迎えた深夜0時、ネット上での情報は一斉にストップ。同日の夜8時から開票速報。太郎さんと支援者、それにメディアの関係者がホテルに集結し、明け方まで中継がありました。結果、舩後さんと木村さんが当選し、太郎さんは落選。

 

悲喜こもごものコメントがネット上に溢れ、しかし、それらも直ぐに収束した感があります。寄付金を集めろ、ボランティア登録をしろ、ポスターを貼れ、から始まって、ハガキを書け、ツイッターを埋め尽くせ、と矢継ぎ早に指示を飛ばして来た「山本太郎事務所」も、今やその声を潜め、何となく虚脱感に覆われているのは、私だけではないような気が致します。そして、落選し、議員宿舎を追われる太郎さんは、現在、引っ越し準備にてんてこ舞いのようです。

 

ここまでの活動を「れいわ新選組の第1章」だとすると、これは一体何だったのか。

 

事の発端を作ったのは、2大政党制を目指す小沢一郎氏でした。小沢氏は、今回の参院選をターゲットとして、まず、立憲民主党に歩み寄った。小沢氏と枝野氏は、私的な会食を重ねるまでの仲になった。しかし、小沢氏のオリーブの木構想に枝野氏は乗らなかった。しびれを切らした小沢氏は次善の策として、国民民主党に接近した。そして、両党の合併交渉が進展していた最中の4月10日、太郎さんは一人で“れいわ新選組”の旗揚げ記者会見に臨んだのでした。

 

この記者会見は、とてもユニークなものでした。4月1日に発表された令和という元号をひらがなで表記し、新選組とつなげる。太郎さんは、この記者会見で既に“れいわ新選組”の理念、政策、そして集まった寄付金の額に応じて、その後の活動の規模を決めていくという戦略まで発表しています。団体名、理念、政策、そして戦略に至るまで、どれも良く出来ている。少なくとも、私には出来過ぎのように思えました。これは周到な準備をしているに違いない。そればかりか、一流の学者などによって構成されるブレーンが背後に控えているに違いない。そう思ったものです。

 

しかし、候補者の選定段階に入りますと、必ずしも周到な準備がなされていなかったことが露呈して来ます。例えば、大西つねき氏によると、朝、れいわ新選組から電話が掛かって来て、その日の昼、大西氏は四谷の事務所で太郎さんと15分程度の面談を行う。その場で候補者として決定し、大西氏は直ちに選挙用の写真撮影に臨んだ。その日の夜、街頭記者会見の場で、大西氏が候補者として紹介された。候補者の選定作業が土壇場までもつれていたことは、他の候補者も異口同音に語っています。公示日になっても届出は遅れ、タスキも間に合わなかった。

 

結局、綿密な計画というものは存在せず、言葉は悪いですが、行き当たりばったりの出たとこ勝負だった訳です。更に、いつまでたっても私が想定していたブレーンは登場しませんでした。ブレーンなど、最初からいなかったのです。

 

太郎さんは街頭演説会において、自らの経歴のようなことはあまり話しません。しかし、聴衆とのやり取りなどがきっかけで、話が太郎さんの過去に及ぶこともあります。どうも、こういうことだったらしい。

 

2011年の3月11日に大震災と原発事故があり、太郎さんは政治問題に目覚め、反原発運動に傾倒していく。太郎さんは、兎に角動き回って、様々な人びとの意見を聞いて回った。この時期太郎さんは、あちこちの友人やら知人の家を泊まり歩いていた。言ってみれば、ホームレスだった。2013年に国会議員となり、議員宿舎への入居が決まる。この時太郎さんは、「家があるって、素晴らしい!」と感動する。これは、本人がそう言っています。

 

国会議員になった後も太郎さんは、年末になるとホームレスのための炊き出しに参加し続けた。年末になると役所が閉まるので、行政による福祉関係のサービスが停止する。だから、炊き出しを行うということのようです。これは私の想像ですが、多分、そういう場で、太郎さんはロスジェネ世代の人たちとか、ネットカフェに寝泊まりする人びとに出会ったのではないか。

 

福島の問題は福島の人たちの、沖縄の問題は沖縄の人たちの声を聴く。そして、障害者の抱える問題については、障害者の声を聴く。今回当選された木村英子さんを「私にとっては、先生みたいな人」と言っていましたが、これは誇張でも何でもなく、太郎さんの本音なのだろうと思います。

 

このように太郎さんは、徹底して、大衆の、特に大衆の中でも困難に直面している人々の声を聴き続けて来た。それが太郎さんの自信の源泉になっているのではないか。だから国会において、一流大学出身の与党議員や官僚を相手にしても、「自分の方が現場を知っている、当事者を知っている」という自負があるのではないでしょうか。

 

もう一つ、太郎さんの成長の軌跡を示す話があります。太郎さんは、反原発から始めた。しかし、辻説法をしていても、原発の話だと聴衆が関心を示さない。原発の話よりも、働き方、労働問題の方が、聴衆の喰いつきの良いことに気付く。地域にもよるでしょうが、多くの聴衆にとっては、原発問題よりも、日々の仕事に関する話題の方が身近です。更に、辻説法を続けていくと、労働問題よりも、お金の問題に聴衆が関心を持っていることに気付く。今から2年程前だと思いますが、このことに気付いた太郎さんは、松尾匡先生の著作に接し、MMTに出会う。こうして、現在の“れいわ新選組”の経済政策が練り上げられて来た訳です。

 

太郎さんの肌感覚は、国会という現場が持つ背後の構造をも照射したのだと思います。そこに働く議員たちの心理と、その背後にある事情を解き明かしていく。自民党の若手議員だって、本当は楽しくないはずだ。本当は国家国民のために仕事をしたがっているに違いない。返す刀で、野党議員の怠慢にも太郎さんの観察眼は及ぶ。

 

他の野党は、自民党とその議員を批判しますが、太郎さんの批判の矛先は、更にその奥にあるシステムに向かっている。確かに、先日の“れいわ祭り2”だったでしょうか、「小泉、竹中とんでもない!」という大合唱がありましたが、これにしても、どこか笑えるような余地がある。

 

仮に現在の自民党議員を蹴落としたとしても、その後には、同じような自民党議員が出てくるに違いありません。金太郎飴と同じことです。従って、本当の改革を行うためには、自民党やその議員たちが従っている思考原理、政治的なシステム自体を変えなくてはならない。そのためには、相手の立場に立って考えてみる必要がある。他の野党議員も、そのことに気付いてもらいたいものです。

 

結局、太郎さんという政治家を育てたのは、困難に直面している日本の大衆なんですね。そういう人たちの声を沢山聴いて来たから、太郎さんは自信に溢れている。そうでなければ、4億円もの寄付なんて、集められるものではありません。そして、そういう太郎さんだからこそ、日本の大衆は太郎さんの言葉に共感するのだと思います。私も含めて。

 

頭の固い人たちは、未だに太郎さんを左翼だとか、保守だとか、左派ポピュリズムだとか言う訳ですが、そんなことは太郎さんにはまるで関係がないのです。太郎さんの思考原理というのは、“みんなに忖度”なんです。

 

以上が、私が見た“れいわ新選組第1章”の本質です。

 

結果、舩後さんと木村さんが当選し、太郎さんは落選した訳ですが、上記のように考えますと、この結果は、大成功だったと思います。何しろ、政党要件までクリアしたのですから。

 

なお、次の衆院選には、少し間があります。次は、出たとこ勝負ではなく、もう少し綿密な計画を練っていただきたいものだと思っています。

”れいわ”の雑談

起承転結に至らない、もう少し些末な事柄を書きたくなることもあります。という訳で、今回は、雑談にお付き合いいただきたく、宜しくお願い致します。

 

*太郎さんの大宮街頭演説会

行って来ました。デジカメの充電はバッチリだったのですが、充電を完了したことに安堵し、バッグに入れ忘れてしまったのです(泣)。写真付きで、「緊急レポート! れいわ新選組@大宮!」という大それたタイトルまで考えていたのですが、この原稿は幻と消えました。

帰宅後、復習がてらYouTubeで確認したところ、太郎さんがこう言います。

「4兆円の社会保障費が削減されているんですよ」

すると、間髪入れず、ダミ声が聞こえる。

「ふざけんなァ~!!!」

これ、私なんです。写真は撮れませんでしたが、ツメ跡を残せたようで、ちょっと嬉しい。

 

*安冨さん

「今時、絵を描くのは、無文字社会の人々と、子供と、天才だけだ」という話があります。そう言えば、安冨さんも絵を描いている。

 

MMT

アメリカで積極的にMMTを主張されているステファニー・ケルトン教授が来日されています。日本のメディアは、未だに「異端の経済学」という論調で取り上げているようですが、そろそろ、そういう態度は改めた方がいい。MMTケインズ経済学の流れを組むもので、事実を説明しているものです。MMTについては、次の3種類の人種が存在する。

1)理解している人。

2)理解していない人。

3)理解したくない人。

厄介なのは、3)の人たちです。理解する能力があり、本当は理解している。しかし、これを認めてしまうと、自分の出世に影響してしまう財務省の人たち、また、これを認めてしまうと過去の自分の発言の過ちを認めざるを得なくなる「緊縮左派」の学者たち。どちらも、厄介です。

 

MMTを基礎とする国家観

強い政府を作って、政府が財政支出と、税の徴収によって、マネーストックを調整する。同様に、政府が企業の供給力と個人の購買力を調整する。一般的な言い方をすれば、需要と供給の関係を調整するということです。そして、私が前回の原稿に記した通り、特に労働や実質的な価値と関わりのない所有権や財産権に合理的な制限を付けていく。私は、そういう国家を形成すべきだと考えています。これは、太郎さんや大西つねきさんの考え方と、大差はないと思います。そして、このような国家は、原則として土地に関する私的所有権を是認するので、資本主義の枠組みの範囲内にあると思います。このような国家を形成することができれば、共産主義である必要はない。私はそう思うのですが、共産党の人たちは、それでも共産主義の方が良いと考えるのでしょうか? 機会があれば、聞いてみたいものです。

 

ホッブズの国家観

かつてヨーロッパでは、カトリックプロテスタントが争い、加えて貴族や諸侯同士の戦いもあった。戦乱の世だった。そこで、それらの集団よりも強い集団を形成する必要があるとホッブズは考えたのです。「お前ら、戦争はやめろ!」と言って仲介しようとした者が、「余計なお世話だ」と言われて、反対にやっつけられてしまうようでは、元も子もありません。だから、カトリックよりも、プロテスタントよりも、貴族よりも、諸侯よりも強い集団を形成する必要があった。それが、ホッブズが想定した国家だと思います。更に、政府は、国民を代表し、諸外国との交渉に臨まなければいけません。他国が攻めてきた時には、国民を防御するために、自衛権を行使しなければなりません。そういう国家像こそが、ホッブズが名著リヴァイアサンに記したものだと思います。

 

現在の日本は、どうでしょうか。現在の自民党政権は、大企業にへつらっています。アメリカは日本に対して軍事的な侵攻はしないものの、経済的な搾取を仕掛けて来ます。このようなアメリカに対して、毅然とした態度で向き合い、国家国民の利益を防御する。それが本来の政府の役割ではないでしょうか。

 

衰退しつつあるアメリカは、日米同盟に疑問を持ち始めている。その意味で、トランプ大統領というのは、日本が対米自立を目指す上で、好ましい相手ではないでしょうか。日本にとって、大きな分岐点が近づいているのかも知れません。

 

参院選

参院選の投開票日が迫ってきました。台風が近づいているようなので、必要な方は、期日前投票もご検討いただきたく。太郎さん、大宮でも言っていましたが、政権奪取を目指すそうです。1年以内には、次の衆院選が、そして3年後には次の参院選があります。太郎さんの”仁義なき戦い”は続くのです。私としては、折角、ややこしいメンバーが揃ったのですから、参院選の結果に関わらず、全員が”れいわ新選組”のメンバーとして、活動を続けて行ってもらいたいと思っています。

 

*おかげさまで3周年

突然、スーパーのチラシのような表題で恐縮ですが、このブログ、今月の1日で、3周年を迎えることができました。掲載した原稿は、原稿用紙換算で3千枚は超えると思います。お読みいただきました皆様、いいねボタンを押していただきました皆様、読者として登録していただきました皆様、本当に有り難うございました。また、ブログ運営元の「はてなブログ」さんにも、感謝申し上げます。

 

参院選の結果が出た後、次回の原稿をアップする予定です。どうか皆様、山本太郎率いる”れいわ新選組”を宜しくお願い致します。

 

以上

"れいわ新選組"とロックの所有権

今日は、朝から落ち着かないのです。

 

その話の前に、前回の原稿「安冨さんの馬選挙」と題したものですが、この原稿をアップした7月11日、期せずして安冨さんご本人も原稿を公表されていました。

 

やすとみ歩はなぜ馬で選挙をするのか?
http://anmintei.blog.fc2.com/blog-entry-1078.html

 

これを拝見しますと、どうも安冨さんが馬にこだわるには、深いワケがある。そこまでの事情を私は知らなかったのですが、しかし、もっと動物(馬)と触れ合おう、という結論部分は私と共通しており、私が安冨さんを支持する気持ちに変わりはありません。また、先日、品川で開催されました「れいわ祭り」における安冨さんの演説には、感動しました。曰く、サイバー攻撃核兵器の時代にあって、もはや武力による国防は成り立たない。国防のために真に有効な手段は、世界中の子供たちを大切にすることだ。その通りですね。

 

但し、私は馬に限定することなく、人間はもっと動物と触れ合うべきだと考えており、この点は変わりません。例えば、トルコには地域に居住する猫(地域猫)を援助する社会的システムがある。インドにはサルと共存する街がある。これは、サルを神の使いだと考える宗教的な理由もあるようですが・・・。従って、将来誰かが、馬以外の動物を連れて選挙活動を行った場合でも、多分、私は支持するでしょう。ゾウにまたがった候補者が、都心で選挙演説を行う。想像しただけで、ワクワクしませんか!

 

ところで、最近、このブログを更新することを負担に感じるようになって来ました。このブログに掲載している原稿は、本を読んだり、YouTubeを見たり、その他、世の中で起こった出来事などに触発されて、私が考えたこと、感じたことを記している訳ですが、例えば、“れいわ新選組”が立ち上がって以来、「世の中で起こる出来事」のスピードが速すぎて、このブログがそのスピードに着いて行けないのです。

 

例えば1週間ほど前に、“れいわ新選組”が新橋SL広場で街頭演説会を開催した時、そのオープニング・アクトとして、沖縄民謡を歌われた女性がおられましたが、彼女は“あすなろ”さんという方です。彼女は、沖縄の辺野古反対運動に参加され、築地の“女将さん会”に寄り添い、路上で結婚式を挙げ、こよなく民謡を愛しておられる。私はあすなろさんの歌う民謡が好きで、そんなことも書きたいと思っていた訳ですが、“れいわ新選組”の猛攻は止まらない! 私のブログは、追いつかない!

 

思うに、このブログは一応、従来型の起承転結というスタイルを意識してきた訳ですが、そういう文章の書き方自体に、問題があるのではないか。何か、もっと楽に書けるスタイルが存在するのではないか。そんな気持ちもあって、今回の原稿は、あえてスタイルを壊してみることにしました。

 

話は飛びます。と言いますか、ここから本題に入ります。

 

現代社会におきましては、貧富の格差が拡大している訳ですが、そもそも、人間社会における財産権とは何か。そういう疑問がある訳です。

 

狩猟・採集を生業としていた時代、人びとは大した財産を持っていませんでした。そして、狩猟・採集によって得られた食物は、比較的平等に分配されていた。原始共産制だった訳です。

 

人口が増えて、狩猟・採集のみに頼って生きることが困難になると、人びとは、農耕・牧畜を始める。すると、農耕を行うための土地、牧畜を行うための家畜が、人間にとって重要な財産となる。人びとは定住を始め、武力や宗教によって、生活を共にする集団の規模を拡大した。やがて、諸侯、貴族、殿様などが土地を所有し、平民は労働を提供するというシステムが出来上がる。

 

その後、ヨーロッパにおける一揆、暴動、戦争、革命などを経て、土地の私有財産制というものが考えられる。当時の思想家として、ジョン・ロック(1632-1704)がいます。まず、誰も手を付けていない荒れ地があったとして、その荒れ地を耕した者が、その土地の所有者となるべきだ、ということ。そして、土地の所有権には制限を付けるべきであって、ロックは自分で耕せる範囲の土地だけ、その所有権を認めようと言っている。

 

-人が耕し、植え、改良し、開墾し、その産物を利用しうるだけの土地が、彼の所有物なのである。-
(出典:統治二論/ジョン・ロック岩波書店

 

イギリスのような狭い島国でも、昔は、誰も手を付けていない荒れ地があったのでしょう。これはこれで驚きですが、ロックの説には、何か惹かれる所があります。その本質を考えてみますと、所有権と労働が結び付けられている点です。荒れ地であっても、例えばリンゴの木があって、それを収穫できる可能性はあります。しかし、これを耕して畑にすれば、荒れ地だった時の十倍以上の収穫を期待することができる。だから、荒れ地を開拓することは良いことであって、そういう良いことをした者には、所有権を認めようということですね。昔の日本でも、例えば北海道を開拓した者には、その土地が与えられたのだろうと思いますが、これはなかなか良い制度だと思います。

 

ロックの説には、もう一つ魅力がある。それは、所有権に制限を付けようという発想です。昔のこととは言え、土地の広さにも限度がある。大体、一生懸命耕した土地から農作物を収穫すれば、家族の皆が食べていけるだろう。だったら、その程度でいいじゃないか。ロックは、そう考えた。また、ここで注意すべきことは、農作物という実質的な価値を基準として、制限が課されているという点だと思います。整理してみましょう。

 

1. 所有権とは、労働の対価として与えられるべきである。
2. 所有権には、実質的な価値に照らして、合理的な制限が加えられるべきである。

 

ロックの説に従えば、上記2点のテーゼが導き出されると思います。現代の資本主義は、こういう大切な原理を忘れてしまっている。例えば、カルロス・ゴーン氏の年収は、表に出ているものだけでも10億円程度あった。お前は知らないのか、それがグローバルスタンダードというものだ、という論調もありますが、私はそうは思いません。グローバルスタンダードというのは、相対的な判断基準であって、ここはロックが言うように絶対的な価値基準で考えるべきではないか。すなわち、ゴーン氏は10億円に見合うだけの労働を提供したのか、というのが1点。そして、実質的な価値、すなわちゴーン氏一家が暮らしていくのに必要な金額はどれ位なのか、ということです。何も、ベルサイユ宮殿を借り切って結婚式を挙げる必要など、どこにもない。

 

土地の面積には、限度がある。土地から収穫される農作物にも限度がある。人間が食料として消費する農作物の量にも限度がある。他方、貨幣によって蓄積される富には、限度がない。ここに、現代の貨幣経済の問題があるのだと思います。

 

では、どうすればいいのか。簡単です。(太郎さんの口調が移ってしまいました!) そもそも、ロックが述べたように、特に「自らの労働に基づかない所得」には、「合理的な制限」を加えればいいのです。例えば、大企業の役員の報酬だって、1億円あれば十分ではないでしょうか。それだけあれば、家族ともども、十分に食べていける。これは、そういう法律を作れば実現できると思います。株式の売買によって得られた所得というのは、労働の対価ではありません。これには高い比率での所得税を課せばいい。そもそも人材派遣業というのは、人材を紹介した時だけ、紹介手数料を払えば十分ではないでしょうか。実際には、派遣社員の給料を派遣会社がピンハネしている。そんなものは、禁止すべきだと思います。

 

もう一つ。MMT(現代貨幣理論/Modern Monetary Theory)から導かれる国家経済の運営について、思い出す必要があります。すなわち、政府は企業や個人から成る国民経済という領域が保有する貨幣の量、すなわちマネーストックを調節することができる。このマネーストックを増やそうと思えば、財政支出を行なえばいいし、逆に、減らそうと思えば税金を徴収すれば良い。この調整機能によって、マネーストックを適正に維持すると共に、緩やかなインフレを維持することが可能になる。

 

もう少し考えますと、政府には他にもできることがあります。すなわち、企業は商品を供給する側であり、反対に個人は商品を購入するという関係にある。企業には供給能力があり、これは個人の購入能力とバランスする必要がある。政府は上に記した通り、財政支出、税の徴収という能力を使って、この供給能力と購入能力とをバランスさせることが可能なのです。

 

政府・・・財政支出/税の徴収・・・企業の供給能力を調整
政府・・・財政支出/税の徴収・・・個人の購買能力を調整

 

この調整能力によって、目標とするインフレを達成することが可能なはずです。そして、政府が上記のような機能を発揮するためには、政府が企業よりも強い立場にあって、必要だと判断した場合には、大企業の政治的圧力に負けず、法人税を徴収できなければならない。すなわち、政府が大企業よりも強い立場になければ、上に記した経済政策を実現することはできません。現在の自民党政権では、大企業 → 経団連 → 自民党 という関係にあるため、大企業側から必要な税の徴収ができていないのです。それどころか、法人税の減税を繰り返している。

 

上記の通り、政府にはしっかりと国家経済を運営するための役割を果たしてもらいたい、消費税を廃止し、必要に応じて(デフレ脱却後)、法人税増税などの施策を打ってもらいたいと考えた場合、それができる主要な政党、政治団体というのは、“れいわ新選組”と日本共産党しかないのではないか。

 

私は、生まれてこの方、共産党に投票したことはありませんが、次の参院選では、比例は山本太郎氏、選挙区では共産党の候補者に投票しようと思っています。(私は、東京都在住ではないため、野原ヨシマサ氏に投票することはできません。)

 

ちなみにMMTを推進する左派のグループとして、薔薇マークキャンペーンという運動がありますが、次の参院選候補者の中で、反緊縮政策に賛同しているとして薔薇マークを認定された候補者は全部で48人いますが(7月12日現在)、そのうち23人が共産党の所属です。そもそも、MMTというのは国家主義との相性が良く、反グローバリズムであるとも言えます。すると、共産党との親和性が高い。但し、薔薇マークの認定を受けている共産党の候補者は、比較的、若い人が多い。共産党の幹部クラスの方々にも、是非、積極的にMMTを検討してもらいたいと思います。

 

さて、先ほどから時計が気になっているのですが、何故かと言うと、本日、18時30分から、太郎さんと野原さんの街頭演説会が大宮で開催されるのです。大宮って、近所なんです。デジカメの充電も完了したようです。そろそろ、出掛けます!

"れいわ新選組" 安冨さんの馬選挙

このまま40年たったら皆さんは生きていけなくなる、と前川喜平さんが呟き、消費税を廃止しなければロスジェネ世代が死ぬ、と山本太郎さんは言っています。私もそう思います。私たちが生きている現在の社会は、間違っている。間違いだらけだと思います。では、どうすればいいのか。

 

この問題について、短期的な対策を示しているのが、“れいわ新選組”の「緊急政策」です。消費税廃止とか、原発即時禁止が謳われているやつですね。これらについて太郎さんは、自分が総理になったらすぐにやる、と言っている。但し、“れいわ新選組”がもう少し長期的なビジョンを示している点も見過ごしてはなりません。それは、とても本質的な問題です。この点を主に語っているのが、安冨さんと辻村さんということになります。

 

現在、安冨さんは氏名を記載したタスキを掛けて、馬を連れて、都心だとか北海道を行脚されています。すなわち・・・

 

トランスジェンダーの、
・大学教授が、
・馬を連れて、
・選挙活動をしている。

 

・・・ということになる訳で、ちょっとシュールな感じがしますが、そもそも前衛的な文化というのはシュールなものです。デンマークだったでしょうか、人魚姫のブロンズ像があって、観光スポットになっている。しかし、冷静に考えれば、上半身が人間で下半身が魚というのも、かなりシュールではないか。

 

さて、上記の安冨さんの行動ですが、多分、政治学者も経済学者も、説明することができない。しかし、文化論者である私には、痛い程よく分かる。

 

まず安冨さんは、両親から価値観を押し付けられて育った。例えば、子供の頃、安冨さんがアレルギーか何かの原因で鼻をグズグズさせていると、「そんなことでは、立派な兵隊さんになれない」と母親から叱られた。そして、両親の価値観を裏切ることをひたすら恐れて育った安冨さんは、エリートになった。しかし、それでは自分が何かの役割を演じているに過ぎないと感じた。そこで、両親の反対を押し切り、離婚に踏み切る。離婚と同時に、両親との関係を遮断する。その後、女性装を始め、初めて何かの役割を演じるのではなく、本来の自分を発見するに至った。

 

エリートとしての役割が大学教授で、女性装というのがトランスジェンダーの外形につながる。

 

「立派な兵隊さんになる」という集団的な価値観がある。そして、そこから自立できなかった両親がいて、その両親が価値観を押し付けることによって、安冨さんの中にコンプレックスが生まれる。そのコンプレックスから自らを解放していくという、自立した個人としての物語があった訳です。この物語はあくまでも安冨さん個人に帰属するものですが、こういう経験をされる方というのは、実は、少なくない。両親は、若しくは大人は、子供の権利を侵害してはならない。子供を守る。それを政治の基本原理にすべきだ。更に、学歴というのも差別であって、この差別をなくしていくべきだと考える。安冨さんは、個人的な体験をこのように昇華していく。

 

そして、馬が登場する。馬には角も牙もない。馬は平和な動物だし、人間を癒す能力を持っている。そのことを皆に思い出してもらいたい。そういう趣旨で、馬を連れて歩いている。安冨さんはあくまでも馬にこだわっているようですが、私の解釈としては、必ずしも馬である必要はありません。例えば、クジラやイルカだって、ヒーリング効果を持っている。連れて歩くことはできませんが・・・。

 

全ての芸術は、人間が動物に触発された所に起源がある。馬を連れて歩くという行為は、もう一度、原点に立ち返って、すなわち動物と触れ合うことによって文化を再構築しよう、という主張を意味しているのだと思います。

 

古代人は、動物の所作を真似て、踊るようになった。現代日本においても、古い神社では、鶴の格好をして巫女さんが踊るという儀式が残っています。また、古代人は動物の鳴き声を真似て、歌うようになった。

 

動物に触発された古代人は、想像力を身に付けた。そして、多くの物語を作ってきた訳です。これが、民話であり、童話の起源となった。鶴は人間に恩返しをし、桃太郎は3匹の動物を家来として従え、浦島太郎は亀に乗って竜宮城へ行った訳です。現代でもスタジオ・ジブリの作品に、動物は沢山出てきますね。“猫の恩返し”という作品があって、ここでは主人公の女子高生が猫になってしまう。

 

また、狩猟・採集を生業としていた古代人は、狩りの成功を祈って、壁画を描いた。この呪術的行為が、絵画の起源となった。

 

このように、動物を真似る、想像する、食べるという行為が、それぞれ音楽、文学、美術の起源となった。だから人間は、もう一度、動物との関係性を回復させるべきではないか。そうすれば、きっと新しい芸術が生まれるに違いない。安冨さんがそこまで考えているかどうかは分かりませんが、少なくとも直観的に、安冨さんは人間と動物の関係の重要性を理解されているはずだと思います。

 

では何故、それが選挙活動なのか、という問題が残ります。これは、リミット・セッティングだと思います。現実的な、日常的な領域と分割するための境界というものが、文化には必要なのです。将棋を指すには将棋盤が必要で、相撲を取るには土俵が必要で、ボクシングをするためには、リングが必要です。どれも、日常的な空間と、ある文化的行為との間に境界線が引かれている訳です。リミット・セッティングというのは、本来、心理学上の用語ですが、文化を考える際、私はこれを流用しています。もし、選挙とは関係なく、安冨さんが馬を引いて歩いたとすると、そこに意味を発見することは困難となるでしょう。選挙期間中だけ、選挙活動として行うから、そこに意味を見いだすことができる。

 

すなわち、安冨さんの馬選挙は、これを政治活動だと捉えるとその効果には疑問がありますが、これを前衛芸術だと解釈した場合には、傑作だと言えるのではないでしょうか。ジョンとヨーコのベッドインに負けず劣らず、面白い!

 

余談ですが、私は、現代的な課題を解決するためには、古代人のメンタリティを回復させる必要がある、と考えています。そして、最近の原稿において、古代人のメンタリティとは何か、多少なりともその輪郭は見えて来たと思っております。しかし、思えば古代人のメンタリティを体現している人間というのは、現代にもいるのではないか。それは、子供たちです。彼らは無邪気で、好奇心が強く、先入観を持たない。だとすれば私たち大人は、子供たちから学ぶべきではないか。そんなことを考えますと、安冨さんに対し、とても共感が沸いて来るのです。

 

そもそも、現代人は人間に興味を持ち過ぎる。人間にばかり興味を持つから、自分と他人の差異に気を取られることになる。現代人は、もっと動物と触れ合うべきだし、動物に関心を向けるべきだと思います。例えば、あなたが動物の沢山いるサバンナで10日間暮らしたとします。ゾウを見れば、鼻が長いと思う。キリンと出会えば、その長い首に驚く。つまり、差異を認識する訳です。その後で、1人の人間と出会ったとする。そういう場面を想像してみましょう。その時あなたは、その人間とあなた自身との類似点に注目するはずです。あ、私と同じ人間だ、という訳です。その時あなたは、その人間が男だとか女だとか、その人間の学歴がどうだとか、社会的な立場どうだとか、肌の色がどうだとか、国籍がどうだとか、そういうあなたとの差異には、注目しないのではないか。そんなことは、どうでもいい。同じ人間だと認識する、そういう感覚こそが大切なんだ。

 

そういうことを伝えたくて、安冨さんは馬を連れて歩いているのではないか。ちょっと、深読みかも知れませんが。

反序列主義としての”れいわ新選組”

<候補者一覧>

山本太郎・・・参議院議員
はすいけ徹・・・・(元)東電社員
やすとみ歩・・・・女性装の東大教授
木村英子・・・全国公的介護保障要求者組合・書記長 (他)/特定枠2
三井よしふみ・・・(元)コンビニオーナー
野原ヨシマサ・・・沖縄創価学会壮年部/東京選挙区
辻村ちひろ・・・環境保護NGO職員
大西つねき・・・(元)J.P. モルガン銀行資金部為替ディーラー
ふなご やすひこ・・・難病ALS当事者/特定枠1
渡辺てる子・・・(元)派遣労働者・シングルマザー

 

※ 氏名の表記は、れいわ新選組のHPに準じています。

 

私は、木村さんが登場した際には感涙にむせび、野原さんが登場した折には椅子から転げ落ち、ふなごさんの会見を見て腰が抜け、太郎さんが比例に回り、ふなごさんと木村さんが特定枠からの出馬と聞いて、卒倒したのでした。(注:若干の誇張表現が含まれています。)

 

太郎さんは、“れいわ新選組”を立ち上げる前から「街頭記者会見」と称した辻説法を行って来ました。太郎さんのシンパを集めるのではなく、支持者を拡大するのが目的だったため、事前に開催場所は告知されず、聴衆の数も限定的だったのです。太郎さんはそういう地道な努力を積み重ねた後、“れいわ新選組”を立ち上げ、勝負に出た訳です。

 

太郎さんが東京選挙区から立候補した場合、当選はほぼ確実だと見られていました。また、比例から出た場合でも、1人は当選するだろうという調査結果もあります。しかし、特定枠に2人立てた場合、太郎さんはどうなるのか。落選する可能性が高いというのが、専門家の見方ではないでしょうか。

 

私が思ったのは、障害者支援が大切なのは分かるけれども、消費税廃止も大切だ。そして、消費税廃止を訴えるためには、太郎さん自身が当選する必要がある。その前提で考えれば、障害者の候補者は1名にして、この方だけを特定枠に入れる。そうすれば、太郎さんが当選できる可能性も高まる。論理的に考えれば、そういうことだと思います。しかし、換言すれば、これが凡人の発想なのかも知れません。それでは、ワクワク感が生まれない。感動が生まれない。捨て身の戦法で、自身の議席を賭けて、勝負に出る。そうやって、世の中を変えていく。やはり、太郎さんは大物だと言わざるを得ません。

 

また、事の重要性、緊急性ということも考えますと、現にふなごさんや木村さんのように今を生きることに多大なご苦労をされている障害者の方々が沢山おられる。その方々に手を差し伸べることと、消費税の問題とどちらが大切なのか。結論は、言うまでもありません。そして、私は自らの稚拙さを恥じたのでした。加えて、太郎さんは更に先を見据えているに違いありません。すなわち、次の衆院選です。

 

さて、前回の原稿では主に“融即律”ということを軸に、古代のメンタリティについて記しました。やすとみさんは、東京に馬を連れて来ると言っていますが、これも古代人のメンタリティを象徴している一つの現象だと思います。そもそも文化とは、古代人が動物に触発された所を出発点にしている。これが、私の文化論のベースです。また、辻村さんは環境保護ということを言っている。これも、狩猟・採集を生業をとしていた古代人にとっては、当然のメンタリティだと言えます。人間による環境破壊も、その起源は、人類が農耕を始めた時点まで遡ることができる。森林を切り開いて、人類は畑を作った。これが環境破壊の起源だと思うのです。

 

もう一つ、古代人のメンタリティとしては、“類化性能”ということがある。これは、異なる複数の事柄を観察した時に、直観的にそれらの類似点を認識する心の働きのことです。民俗学者折口信夫氏が述べたことですね。古代人は、そういう心理的な機能を持っていた。反対に現代人は、物事の差異を認識しようとする。これが“別化性能”と呼ばれるものです。

 

私は、“別化性能”の弊害は、現代人が序列によって社会を認識しようとしている点にあると思っております。これを本稿では“序列主義”と呼ぶことにします。子供の運動会ですら、勝敗を決め、順位を決しようとする。学校ではテストの点数で順位を決め、会社では役職によって序列を決める。現代の社会は、ほとんど序列によって成り立っている。そこに問題があると思うのです。これに反旗を翻そうという試みが、“れいわ新選組”であると思います。

 

やすとみさんは、子供を叱るなと言っておられる。これは、大人が上で子供が下という序列を否定している。木村さんが国会議員になろうとされているのは、健常者が上で身体障害者が下という序列に対するアンチテーゼだと思います。三井さんは、コンビニの本部が上でオーナーが下という序列に異議を申し立てている。公明党の党首と同じ選挙区での立候補を決めた野原さんは、宗教団体における序列に加え、沖縄 対 東京という対比を提示している。テルちゃんこと渡辺てる子さんは、もっとストレートに金持ち対貧乏人という序列にノーを突き付けている。

 

そのように考えますと、ふなごさんと木村さんを特定枠に指定し、代表である太郎さんが一般枠から出馬するということは、政治団体としての“れいわ新選組”内部における代表と一般メンバーの関係を逆転させるという、圧倒的な序列主義に対する異議を意味している。

 

もう一つ。“れいわ新選組”の候補者には、「当事者」が多い。このことは何を意味しているのか。そもそも、人間は記号を通じて認識していますが、現代人が直面している記号は複雑化し、その量も膨大となっている。そしてそのことが、ある部分では、現代人の認識能力を低下させている。例えば、厚生労働省では膨大な賃金統計を取って、更にインフレ率を算出し、実質賃金が上がっているのか否か、そういうことを算出してきた訳です。(統計不正の問題が発覚して、厚労省は最新のデータを公表していないものと思われますが、学識者の説明によれば、実質賃金は低下しているようです。)すなわち、そのような膨大な記号の蓄積である統計データと、例えばテルちゃんの次のような言葉のどちらに説得力があるか。

 

「私は、一袋27円のモヤシが29円になったのを見て、青くなってんですよ!」

 

間接的な記号、情報、データを見るよりも、より直接的な事象をみるべきだ、という主張が成り立つのであって、ここではそれを“直接主義”と呼ぶことにしましょう。“れいわ新選組”は、社会の諸問題の当事者を候補者として集めた。このような立場をある程度普遍化すれば、“直接主義”と呼んでいいと思います。

 

例えば、現代人であれば、どの地域にどのような種類のイノシシがどれだけ生息しているか、そういうデータを持っています。他方、古代人は、目前の森林にイノシシがいるのかいないのか、匂いや些細な音によって、認識していた訳です。

 

このように考えますと、古代人のメンタリティは、次の式によって表現することができる。

 

古代人のメンタリティ=融即律 + 反序列主義(類化性能)+ 直接主義

 

“れいわ新選組”は、現代社会において、どれだけ古代人のメンタリティを回復させることができるのか、そういう社会実験をやっているものと思われますが、私は、その立場を強く支持しています。