文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 134 集団スケールと政治の現在(その8)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5.民族・・・天皇制、宗教国家

日本の新左翼の団体に反天皇制運動連絡会(“反天連”)という組織があります。毎年かどうかは分かりませんが、反天連は8月15日に靖国神社近辺において、天皇制に反対するためのデモを行っています。当然、右翼団体も駆け付けて、デモの妨害行動に出ます。この様子もYouTubeにアップされているのですが、その混乱状況というのは、相当なものです。デモ隊がいて、警護するために機動隊が取り巻いている。通りすがりの一般市民や野次馬もいる訳で、現場は騒然となります。

私が見た画像では、中年から初老位の右翼数人が、ジュラルミンの盾を持った機動隊に突進していくんです。当然、跳ね返されます。それでも、また掴みかかっていく。また跳ね返される。しかし、機動隊が別の右翼に気を取られた隙を見て、機動隊の隊列を潜り抜けたりする。それでも多勢に無勢ですから、すぐに右翼の男は取り押さえられてしまう。そんなことを延々と続けるのです。

もし、一神教の信者であったなら、そこまで過激な行動に出ることはない。仮に、天皇陛下よりも上位の神という存在があったなら、日本の右翼のメンタリティというのは、もっと別の形を取るのではないか、と思うのです。

もう一つ思うのは、右翼のメンタリティというのは、ロジックを否定している。仮にロジックを肯定してしまうと、そもそも宗教(神道)は成り立たない。結果として、右翼は自らの立場や考え方を説明する言葉を持たないのではないか。絶対的な存在としての神を持たず、自らの心情を訴える言葉も持たない人間に何ができるか。それは、“行動”をおいて他にない。だから、本物の右翼というのは、行動するのではないでしょうか。三島由紀夫も同じだと思います。三島も何度か、みずからの立場を説明しようと試みたように思いますが、結局、ロジックに行き着くことはなかった。三島が行きついたのも行動だったのです。

どうやら、私と致しましては、これにて右翼の心情を読み解くことができたように思います。

さて、右翼をもう少し大きな枠組みでとらえると“保守”ということになります。その特徴を箇条書きにしてみましょう。
 ・アニミズム、呪術、祭祀、宗教など、歴史や伝統文化を重んじる。
 ・ロジックを否定する。
 ・最終的には行動、武力で解決しようとするタカ派的な傾向がある。
 ・集団スケールで考えた場合、民族という単位を重視する。
 ・日本においては、天皇制を重視する。
 ・日本においては、日本の歴史や伝統文化に否定的な中国、韓国を嫌悪する傾向がある。

一般に保守系の人々は、その国を支配している外国の勢力に対して反発します。民族の独立を目指す訳です。してみると、現在の日本を陰ながら支配しているのはアメリカなので、日本の保守系の人たちは、アメリカに反発するのが自然の成り行きのはずです。しかし、そうはなっていない。この不自然な現象を指摘する憲法学者もいます。ただ、上記のように考えますと、アメリカが日本の歴史や伝統文化を否定することはない。それをやっているのは、中国や韓国です。だから、中国、韓国に嫌悪感を持つ。そういう構造になっているのではないでしょうか。

ついでに、ネトウヨについても考えてみましょう。一つの傾向としては、次の仮説が成り立ちます。まず、帰属集団からの疎外ということがある。多分、組織集団からも疎外されている。すると、更に大きな“民族”というスケールに行きつく。ネトウヨは、だから中国と韓国を毛嫌いしているのだと思います。ただ、本物の右翼と違って、彼らは決して自ら行動を起こしはしない。なんとなく、ネットを通じて、遠くから見ている。そこら辺は、ディタッチメントの現代っ子という感じがします。しかし、本音としては、他者とのコミュニケーションや、帰属集団における一体感を求めているはずです。(自民党からお金をもらってやっている人は別ですが・・・。)

帰属集団から疎外された結果、血縁集団に戻るケースもありますね。これが、引きこもりとか、パラサイト・シングルなどと呼ばれる人たちの現状ではないでしょうか。

思えば、一つの民族が、同一の創世神話と宗教を信じて一つの国家を形成していれば、世界はもっと平和になっていたはずです。しかし、人類は民族というスケールを上回る集団を作ろうとしてきた。

フェアネスということ

今回は通し番号無しの、すなわち非公式な原稿となります。

さて、北朝鮮からのミサイルが我が国の上空を通過し、民進党からの離党ドミノが止まらない中、安倍総理は28日に召集予定の臨時国会の冒頭で、衆議院を解散するのではないかと報道されています。多分、多くの人々が予想する通り、与党が大勝し、野党が敗北するでしょう。

野党の連携につきましては、小沢一郎氏が呼び掛けている“オリーブの樹構想”が現実的だと思います。しかし、民進党にとっては、共産党がネックになる。共産党と連携すると支持母体である連合や党内の保守派が離れていく可能性がある。かと言って、共産党を巻き込まないと自民党に勝てない。そういうジレンマにあるのだろうと思います。しかし、この問題を解決しない限り、民進党が二大政党制の一翼を担うことは困難ではないでしょうか。従って先般の代表選で、前原氏、若しくは枝野氏が大きな決断をすべきだったのではないか。すなわち、引き続き連合の支持を得たいと思っている右派と、政策によって無党派層を取り込もうとする左派に分党する。少し遠回りにはなっても長い目で見れば、その方が国民のためになったのではないでしょうか。決めるべきことを決めない。だから、安倍総理に足元を見られる。

そんなことを含め、つらつらと考えていたところ、“フェアネス”という言葉が浮かんで来ました。記憶を辿りますと、私がこの言葉に出会ったのは、アメリカの独禁法の勉強をしていた時のことでした。(日米で法律の構成はかなり異なっています。アメリカでは、独禁法と言うよりは競争法、Competition Lawと言った方が一般的かも知れません。)概略は、こんな感じだったと思います。

アメリカは、自由の国だ! 規制なんか、要らない。個人も企業も自由に競争をして、利益を追及していい。但し、自由に競争をするためには、一つだけ前提がある。それは、各人がフェア(公正)に競争するということだ。アメリカは、不公正な競争については、断じて許さない。

私は、上記の考え方を支持しています。“遊び”について検討した際に述べたことと、ちょっと重複するかも知れませんが、ルールを守らなければ、ゲームは成立しない。例えばサッカーの試合において、審判が見ていなければ手を使ってもいい、と考える選手がいたとします。すると、サッカーの試合は途端につまらなくなってしまう。仮にボクシングの試合で、相手を蹴とばしてしまう。そんなことがあれば、その時点で、その試合はストップです。ルールがなければ、そしてルールが遵守されなければ、ゲームというものは成立しない。

スポーツの世界だけではありません。例えば、株式などを取引するためには、証券取引所という機関が必要です。しかし、仮に“東京証券取引所では、インサイダー取引が多い”ということになったら、どうでしょう。誰も、東証で取引をしなくなってしまう。そんな、一部の不正を働く人だけが儲かるような機関を使う人はいない訳です。証券取引所だったら、大阪にも、香港にも、シンガポールにもある。従って、各証券取引所においては、公正に取引が行われていることが、とても大切なんです。そのため、日本にも証券取引等監視委員会という強力な機関があって、日々の取引を厳しく監視しています。

正義と言うと概念が大き過ぎて、一体、何が正義なのかという哲学的な論議になってしまいそうですね。しかし、フェアネス、公正さ、と言えば、上の記述で概ね説明できているように思います。

 

フェアネス、それは民主政治の前提条件である。私としては、そう言いたいのです。

 

冒頭に記しましたように衆議院が解散された場合、投開票日は、10月22日、又は29日だろうと言われています。既得権を有する多くの支持団体が自民党を応援するでしょう。その活動量に定評のある創価学会の婦人部が、公明党を応援するでしょう。そして、与党が大勝するでしょう。そうなったとしても、それが現在の日本の民主主義の選択である訳で、私に異議はありません。

しかし、森友・加計学園の問題は別です。これは、安倍政権のフェアネスに関わる問題であり、北朝鮮からミサイルが飛んで来ようが、選挙の結果がどうなろうと、必ず真相を明らかにしていただきたい。一国民として、そう思います。

特に加計学園の問題につきましては、その設置を認可するのか否か、その最終判断が文科省の設置審において、10月末に下される予定になっています。仮に、認可するということになれば、愛媛県今治市によって96億円が加計学園に支払われる可能性が高まります。ご案内のこととは思いますが、この金額は建設費の水増しなど、不正に算出されている可能性があります。他方、認可しないということになれば、加計学園は校舎等の工事費192億円の損失を被る可能性があります。10月下旬に投開票日を設定するということは、この文科省判断から国民の目をそらそうという目論見があるように思えてなりません。

No. 133 集団スケールと政治の現在(その7)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5.民族・・・天皇制、宗教国家

 

参考文献(文献1)によれば、現在、各宗教団体は苦境に立たされているようです。まず、血縁としての仏教がある。「〇〇家の墓」とあるように、仏教団体は血縁を基礎とした葬儀を取り仕切ってきた訳ですが、近年では宗教色を排除した葬儀が人気を博している。散骨なんかもそうですね。葬儀の形態というのは、多様化、簡素化が進んでおり、これは仏教団体の活動量の縮小を意味している。次に、地縁としての神道がある。居住年数の長い者は、氏神様への信仰も厚いが、人員の移動、都市化が進むにつれ、その信仰が薄れていく傾向にある、とのことです。

上記の理由に加え、帰属集団の弱体化が進むにつれ、若者の宗教離れも起こっている。宗教団体というのは組織的に運営されていると思うのですが、それを若者が嫌っている、若しくは組織に適合できない若者が増えている、というのです。更に、宗教の重要な役割の一つに病気の治療ということがありますが、今は、病気になれば大半の人が病院へ行く。結果として多くの宗教団体で、信者の高齢化という問題が起こっている。

あと10年もすると日本の宗教団体の状況は、一変しているかも知れません。歴史的に見ましても、現代という時代は、大きな変化点にあるような気がします。

さて、組織集団よりも大きな集団として、“民族”を挙げることができると思うのです。日本で言えば、聖徳太子の時代まで遡ることになります。当時は、武力集団としての豪族がいて、ある程度の官僚組織もあった。また、大陸との交流もあり、聖徳太子は自分たちの民族で、まとまるべきだと考えたのだろうと思います。宗教国家の誕生です。そして、その頂点に君臨したのが天皇でした。

天皇制というのは、今日におきましても神道(宗教)の側から、そして右翼(政治)の側から、熱狂的に支持されています。彼らの主義、主張とはどういうものか。私なりに検討してみたのですが、どうも彼らにはロジックの積み重ねというものは、なさそうなんです。それどころか、ロジックというものを否定しているんですね。全てのロジックは、自己弁護に過ぎない、と言っている人もいます。では、彼らを支えているものは何か。それは、メンタリティではないか。

では、右翼の人たちのメンタリティについて、そのモデルを以下に提示致します。なお、1番から5番までは、No. 129の記事に掲載致しました昭和の暴走族に関する記述と同じです。

1.帰属集団からの疎外
2.新たな帰属集団の結成
3.伝統的な価値観を踏襲
4.集団と個人の依存関係
5.敵と味方を識別して集団で戦う
6.大義のために命を掛ける

安倍政権の閣僚の大半が加入していることで有名になった日本会議ですが、その中枢メンバーに影響を与えたと言われる三島由紀夫の自決事件を例に、上記のモデルを説明させていただきます。

(疎外という言葉には、マルクス主義実存主義が固有の定義をしているようですが、ここでは集団に帰属できない、集団との良好な関係を維持できない、という一般的な意味でご理解ください。)

まず、帰属集団からの疎外ということですが、もちろん暴走族と天才三島とでは、事情が異なります。三島は1925年生まれですから、終戦の年には、二十歳前後だったことになります。当然、彼の友人、知人たちの多くが戦争で命を失った。このことは三島にとって、ショッキングな出来事であったに違いありません。そして、三島はそれらの死んで行った仲間たちから疎外された、ということが考えられます。その後、三島は日本の文壇という帰属集団に属した訳ですが、三島の理解者は少なかった。若しくは、誰もいなかった。三島にしてみれば、周囲の作家や編集者が馬鹿に見えたのかも知れません。

そこで、三島は別の帰属集団として“楯の会”を結成し、自衛隊の真似事のような行動を開始する。この時点で、既に三島は死を覚悟していたのではないでしょうか。楯の会が採用した伝統的な価値観というのは、忠臣蔵や2.26事件にならったものと思われます。楯の会は、その構成員の帰属意識と貢献活動に依存し、その構成員は盾の会のメンバーであることによって、自らのアイデンティティを維持しようとした。三島は、自衛隊を敵として設定し、その市ヶ谷駐屯地に突撃した。そして、大義としての天皇陛下に命を差し出し、割腹自殺を図った。

三島が何故、そのような行動に出たのか。繰り返しになりますが、それをロジックで説明することは困難です。しかし、同じようなメンタリティを持った右翼の人たちというのは、現在におきましても、確実に存在します。このように見てきますと、右翼の人たちにとって天皇陛下は、自らの命を差し出すことさえできる大義として、唯一無二の存在だということが言えます。

(参考文献)
文献1: 社会学入門/盛山和夫 他 編/ミネルヴァ書房/2017

No. 132 集団スケールと政治の現在(その6)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体

血縁でもない、顔見知りでもない人々が構成する集団。これを歴史的に見ますと、武力集団というものがあった。聖徳太子の時代には、豪族と呼ばれる集団があった。戦国時代には、武士の集団があった。但し現代においては、広域暴力団位しか残っていないと思います。現代にも息づく組織集団の典型は、やはり職業別の団体と宗教団体ということではないでしょうか。

戦後の事情を考えてみますと、共産党社会党がまず、労働組合に着眼したという仮定が成り立つと思います。資本家から搾取されている労働者階級を解放せよ、というのがマルクス主義な訳で、左翼政党が労働者の集まり、すなわち労働組合をその支持母体として想定したのは、自然の成り行きだったように思います。反対に、自民党(当時は自由党民主党 他)などが、企業の経営者、農村、漁村にその支持基盤を求めた。この時代の政治勢力の構造は、確かに右と左だった。

しかし、この仕組みは、どうもおかしい。ある人が役人になる。すると、労働組合への加入が強制されている。「はい、あなたが就職したお役所には、〇〇系の組合があります。よって、あなたの支持政党は△△党になります」ということです。職業の選択と政治的な思想は、本来別のはずです。しかし例えば、共産党系の組合に加入すると、半ば強制的に赤旗を購入しなければならない。そんなこともあったように聞きます。現在どうなっているのかは知りませんが、慣例は残っているのではないでしょうか。

一方、左翼系の組合に辟易した経営者が、今度は、反共産党系の組合を作り始める。いわゆる御用組合ということですが、彼らの主張は、次のようなものでした。「共産党系の組合がデモをすると、企業の業績が下がる。業績が下がると賃金も下がる。だから、共産党と戦わなければならない」。ちょっと、奇妙な三段論法ですね。この手の組合の特徴というのは、組合の役員を降りて職場に戻る人たちが、必ず出世する。してみると、こういう組合の役員というのは、会社と裏で連携していて、労働者の賃金をほどほどに抑えているのではないか、という素朴な疑問が出てくる訳です。

このように、労働組合が政治活動を行うということに関しましては、右も左も、問題があると思います。労働組合の役割というのは、団体交渉権を背景に、労働者の権利を守る。他に何かするとすれば、例えば、被災地に支援金を送るとか、社会福祉的な活動をしていれば良いのではないかと思います。

ちなみに、ネットで“政党の支持団体”というキーワードで検索してみますと、概略、次の情報が得られました。

自民党
 ・財界団体・・・経団連など
 ・業界団体・・・日本医師会など
 ・宗教団体
 ・組合系・・・農協、漁協
 ・政治思想系・・・日本会議

民主党(ママ)
 ・労働組合・・・連合
 ・宗教団体
 ・業界団体
 ・その他

こうしてみますと、自民党民進党も“組織集団”をその支持基盤としていることが分かります。しかしそれでは、例えば自民党の政策は経団連の利益を保護しているのではないか、民進党の政策は連合の利益を追及しているのではないか、との疑問が沸いてきますね。ここに、既得権保護、癒着、しがらみと呼ばれる批判の理由がある。現に自民党法人税率を下げていますし、2015年だったと思いますが労働者派遣法を改正(改悪!)して、企業が望めば、いつまでも非正規従業員を正規従業員に変更しなくても済むようにしています。また、民進党の前代表である蓮舫氏は、原発ゼロに向けた日程を前倒ししようとしたのですが、連合の反対にあって、断念したという話もあります。

しかし、文化論の立場から少し長い目で見てみますと、このような状況は、そう長くは続かない。続くはずがないと思うのです。近代のメンタリティというのは既に弱体化し、現代の、特に若い層のメンタリティは、ポスト・モダンに移行している。ディタッチメントをキーワードとするこのメンタリティによって、帰属集団が成り立ち難い現状にある。帰属集団が弱体化していて、それよりも一つ大きなユニットである組織集団が、強固に継続し得るかと言えば、答えはノーだと思います。例えば会社に行って、そこには昔の親分も子分もいない。人間関係は、希薄になっている。例えば、職場にあるのはタイムレコーダーとパソコンなんです。フランチャイズであれば、職場にあるのは、業務マニュアルだと思うのです。つまり帰属集団が弱体化した今日において、組織集団というのは、そのシステムだけが残り、そこには義理も人情もないんです。現在の組織集団というのは、あたかも内容物の失われた空っぽのコップのようなものだと思うのです。

従って、既存の政党がいくら組織集団(支持団体)に働きかけても票は集まらない。ポスト・モダンの有権者は、もう既得権保護、癒着、しがらみの政治にあきあきしている。そういう人たちが、無党派層というマジョリティを形成しているのではないか。支持団体の既得権を保護するのではなく、これからは “個人”に対して政策を訴えていく。そうあるべきだと思いますし、現に、そういう萌芽が出始めている。少し期待も含めて、私はそのように現在の政治状況を見ています。

No. 131 集団スケールと政治の現在(その5)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団

No. 129の原稿におきまして、私が偶然、浅草の三社祭に出くわした経緯を記載しました。気になったので、ちょっとネットで調べてみました。三社祭は3日間開催されますが、合計で180万人程度の人出があるようです。そんなに大規模な祭だったんですね。全く知りませんでした。しかし、もっと驚いたのは、三社祭が別名“刺青祭”とも呼ばれていることです。首から上を除き、ほぼ全身に刺青を入れた男たちが、神輿の上に乗っている。そんな写真がネット上に流布されています。三社祭に参加する神輿の数は、100基程度だそうですが、その過半数暴力団系だそうです。浅草の近辺には、暴力団の事務所なども多数あるそうです。また、ほぼ全身に刺青を入れている女性たちの写真も沢山ありました。これにも驚きました。それらの写真には、何か、言いようのない違和感を覚えます。

私たちは、普段の生活では、全身に刺青を入れた人たちをみる機会はありません。そして、刺青の起源は、古代にある。そんな古代から脈々と継承されてきた文化に接する機会も、そう多くはない。それが、三社祭においては、ある意味唐突に登場する。そこに違和感を覚えるのだろうと思います。ただ、刺青は外国人などにも人気で、それを見るために三社祭を訪れる見物客も少なくないそうです。

フンドシ一丁で、全身の刺青を開示している人たちの画像は、YouTubeにも沢山アップされています。それらを見ておりますと、周囲の人たちの注目を集めていることに、ご当人たちもまんざらではないようです。むしろ、写真撮影などには、積極的に応じているようにも見えます。

昭和の暴走族と同じようにまず、まず、“疎外”ということがあって、暴力団が生まれるという仮説が成り立つかも知れません。いろいろな面で、社会から疎外されていると感じる。そこから、生きている実感や連帯感を求めて、暴力団に加入する。但し、暴走族の場合と少し違う可能性もある。暴走族と言っても、その加入理由は千差万別かも知れません。ただ、一つの典型例としては、高校に行っても面白くない、ということがあると思うのです。これは、個人のベースで疎外されている。一方、暴力団に加入する誘因としては、個人ではなく、その人が属している血縁集団なり、帰属集団の単位で社会から疎外されているのかも知れない。

この疎外の問題というのは、結構、大きな問題かも知れません。この問題を扱っている文学作品などは、探せば沢山ありそうです。しかし、ここでは先を急ぎましょう。

三社祭の例で言えば、それぞれの神輿を支えているのが、顔見知りの範囲、すなわち帰属集団ということになります。そして、それが100基集まって、三社祭が構成されている。この単位を“組織集団”と呼ぶことに致します。例えば、神輿1基だけでお祭りを開催しても、盛り上がらない。だから、帰属集団が集まって、より大きな祭祀を開催しようというのは、自然の成り行きだと思います。

歴史的に考えますと、武力衝突というのも組織集団が構成される誘因になったと思います。例えば、集団Aが集団Bを攻撃する。この時、集団Bが集団Cと手を組めば、集団Aに対し、優位に立つことができる。だから、帰属集団というのは、更に大きな組織集団を構成しようとする。現に、昭和の暴走族でも抗争が激化した結果、関東地方で活動していたいくつかの暴走族が連帯して、関東連合という組織を作ったそうです。全盛期は、1000台位が集まったという話もあります。

宗教関係で言えば、仏教など多神教の団体もこの組織集団の位相に該当すると思います。お釈迦様の教えに従うという意味では、各宗派とも同じだと思うのですが、多くの宗派はその宗祖の教えなり、逸話を信仰の対象としているのではないでしょうか。仏教系の宗祖というのは、ちょっと思い描いただけでも、空海最澄親鸞法然日蓮などのビッグネームが思い浮かびます。

組織集団が構成された理由としては、近代以降の大量生産ということもあると思います。中世の家内制手工業であれば、血縁集団、せいぜい組織集団で仕事が回っていた。しかし、産業革命が起こり、大量生産が可能となり、日本でも財閥が中心となって規模の大きな会社組織が生まれる。現代の私たちにとって、最も典型的な組織集団と言えば、官僚組織と会社ではないでしょうか。

顔見知りばかりの帰属集団にあっては、そのリーダーが物事を決めていけばいい。しかし、見ず知らずの人たちが沢山いるということになると、それなりの秩序が必要となってくるのではないかと思うのです。その秩序とは、階級制であったり、ある程度合理的なルールであったりということになるでしょうか。

歴史的に考えますと、人間の社会というのは、時を経て、少しずつ集団のスケールを大きくしてきた。そして、この組織集団という規模の集団を形成するに至った時、政治の原型のようなものが生まれたのではないでしょうか。

No. 130 集団スケールと政治の現在(その4)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。

もう10年以上も前のことですが、年末にクルマで首都高速を走っていた時、暴走族の集団に行く手を阻まれたことがあります。何やら後方から爆音が聞こえて来る。ルームミラーには、クルマの間を縫って迫って来るバイクの一団が見える。改造したバイクが1台、2台と私を追い越して行く。すぐに5台、6台とバイクの数は増え、気が付くとバイクの集団が私のクルマを取り囲んでいました。バイクの後部座席に座った少年が、私に向かって何かを叫んでいる。彼は、手にこん棒のようなものを持っていました。窓を開けると、どうやら左の端に寄れと言っているようでした。私は、ウインカーを出してクルマを寄せたのですが、その直後、何十台というバイクが脇をすり抜けて行ったのです。そして、瞬く間に2本の車線は彼らに塞がれてしまいました。しかし、本当に困ったのはそれからでした。何しろ、車線を塞いだ彼らは、爆音を響かせ、蛇行運転を繰り返すのですが、走行速度は20キロにも満たない程度なのです。暴走族なんだから、もう少しスピードを出さないものかな、などと理不尽な思いに駆られたのを思い出します。遠くにパトカーのサイレンが聞こえましたが、私が直面している現場に警察は一向にやって来ない。そのうち、後部座席に座っていたある少年が、バイクを降り、歩き出しました。見ればパンツ一丁で、靴すら履いていません。覚せい剤でもやっていたのでしょうか。その少年は両手を上げ、踊るような仕草をしていました。バイクに乗った仲間たちが、彼をからかっているようでした。結局、そんな状況が小一時間程続き、分岐に差し掛かったところで、幸い私は彼らとは別の方角に向かうことができたのです。

YouTubeを見ておりますと、昭和の暴走族を取材した番組がいくつかありました。私の興味を引いたのは、ある暴走族の集会の模様です。特攻服に身を包んだ現役のメンバーが、腰の後ろに腕を組み、整列している。皆、髪はリーゼントで、ハチマキをしています。そして、数人のOBが、気合を入れるんです。OBがどんな発言をしていたか、ちょっと箇条書きにしてみます。

- お前ら、もっと気合いを入れて走れよ。
- 走ってて、オマワリや他の族と出会っても、ビビんじゃねえぞ。
- 俺らはよう、喧嘩するために集まってんだ。
- 俺だって人間だからよう、殴られれば痛えよ。でもよう、俺は今では先輩たちに何度もヤキを入れてもらって良かったと思ってるよ。
- お前ら、もっと狂えよ。
- お前ら、死ぬ気でやれ。

集会の最中に、OBは現役のメンバーを拳固で殴ったりします。これに対して、現役のメンバーは“押忍”と応えます。

場面が変わり、ある現役メンバーがこう言います。「暴走族に入って、良かった。本当の友達ができたから」。

さて、昭和の暴走族というのは、随分、特殊な集団のように見えます。しかし、歴史的に見れば、意外とそうでもない。実は、こういうメンタリティというのは、ある普遍性を持っているのではないか。私が注目したのは、暴走族OBの発言の中の、最後の2つなんです。「お前ら、もっと狂えよ」「お前ら、死ぬ気でやれ」。これって、“葉隠”が言っている「武士道は死狂ひなり」と似ていないでしょうか。

葉隠”については、このブログのNo. 85に記載しましたので、ここで詳述は致しません。その趣旨は、いざという時、どうしようかと逡巡していては、タイムリーに行動できない。だから、狂っていていいのだ。狂え、そして命を差し出せ。それが“死に狂い”だ。“葉隠”とはそういう考え方で、武士道の基礎をなし、あの三島由紀夫にも強く影響を与えたものです。

まさか、高校を出たて位の昭和の暴走族OBが“葉隠”を読んでいたとは思えません。しかし、その発言には“葉隠”に通じるメンタリティの萌芽がある。但し、“葉隠”の域には達していない。何が足りないかと言うと、誰のために死ぬのか、という視点が欠けていると思うのです。暴走族集団のために死ぬのか。それは、命を差し出すための大義としては、あまりに小さい。命を差し出すためには、もっと大きな何か、もっと偉大な誰かが必要ではないか。例えば、三島由紀夫にとって死ぬための大義、それが天皇ではなかったのかと思うのですが、この点について述べるためには、本稿をもう少し進める必要があります。

とりあえず、ここでは、昭和の暴走族がどういう心理状態にあったのか、考えてみます。まず、既存の帰属集団からの疎外、ということがあった。高校へ行ってもつまらない。勉強もよくわからない。寂しい。生きている実感がない。そこで、同じように感じている仲間を集め、新たな帰属集団を作る。その帰属集団は、伝統的な価値観を踏襲する。集団はその遵守を強要し、構成員は体を張って、その要請に応えようとする。そこに、集団と構成員の依存関係が醸成される。集団の結束を強めるためには、何かの行動を起こす、誰かと戦う必要がある。戦うことによって、結束力は強まり、仲間意識が醸成される。生きている実感を得るためには、その行動、戦いは危険である必要がある。この行動をこのブログ流に言い換えますと、“敵と味方を識別して集団で戦う”ということになります。

1.帰属集団からの疎外
2.新たな帰属集団の結成
3.伝統的な価値観を踏襲
4.集団と個人の依存関係
5.敵と味方を識別して集団で戦う

No. 129 集団スケールと政治の現在(その3)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。

もう少し、帰属集団について考えてみます。

今は大阪に住む友人のMさんから、連絡がありました。東京に行くついでがあるから、久しぶりに浅草で飲もうということになりました。約束は雷門に13時でしたが、早目に到着した私は、人出の多さに驚きながら、喫煙所を探しました。しかし、なかなか見つからない。5月21日のことでしたが、とても暑く、汗が噴き出して来ました。私は、煙草の吸える喫茶店を探して、一息つくことにしました。カウンター席に座って、アイスコーヒーを飲みながら、店の女店主と世間話をしました。聞けば、その日は年に一度の“三社祭”で、人出が多いとのことでした。

時間通りに雷門でMさんと落ち合い、私たちは、居酒屋を探すことにしました。しかし、どこも満員なのです。そのうち、私はあることに気づきました。どこの店にも、揃いのハッピを着た一団が陣取っている。捩りハチマキをしている人も少なくありませんでした。間違いなく、彼らは朝から飲んでいる。仮に、2人分の席が空いていたとしても、とても入って行けるような雰囲気ではありません。十数軒見て回ったところで、私たちは諦めて、上野に移動することにしました。再び、人込みでごった返す雷門の前を通って、地下鉄の駅を目指したのです。歩行者天国となった目貫通りには、何台かの神輿(ミコシ)がうごめいて見えました。フンドシ姿のおっさんなども、目に止まりました。私は、一刻も早く、その場を立ち去りたいと感じました。

揃いのハッピを着た一団の人々、彼らが日本の伝統的な帰属集団だと思うのです。

村落共同体などと言えば、日本の田園風景が目に浮かび、そこはかとないノスタルジーを感じます。しかしその実態は、そう甘いものではないような気がするのです。確かに、道で擦れ違う人は、全て縁者か知人で、挨拶をする。例えば、農作業は互いに協力する。漁村であれば、協力して市場を運営する。困ったことがあれば、助け合う。そういう、互助会的な機能があったのだろうと思います。しかし、帰属集団としての村落共同体がその威力を発揮するのは、祭りと冠婚葬祭ではないでしょうか。このブログの言葉で言えば、“祭祀”ということになります。

日本の伝統的な帰属集団のあり方を想像してみますと、例えば、その帰属集団を保護するための神社を共同で所有している。そもそも、神社の建立費用も、その帰属団体によって負担されている。費用を支出した人たちの名前は、石碑か何かに記録されており、その集団の結束力を示している。神輿なども共同所有していて、それは神社の境内の片隅にある建物に保管されている。祭りには揃いのハッピを着て、積極的に参加しなければならない。結婚式にも独自のしきたりがあり、それは厳格に遵守されなければならない。結婚前の同棲などはもっての他で、今どきのデキちゃった婚などをすれば、すぐに後ろ指を指されてしまう。

葬式となれば、仏教が出てくる。その昔、戸籍は完備されていなかった。そのため、役所に代わって戸籍を管理するのが、お寺の役割だった。お寺の側としては、顧客の囲い込みが必要な訳で、そこから檀家制度という、なかなか逃げられない仕組みができたのではないでしょうか。

つまり、アニミズム、呪術、祭祀、宗教へとつながる一連の精神史があると思うのですが、それを支えてきたのが、帰属集団ではなかったのかと思うのです。宗教の関係者の側からすれば、帰属集団こそ、その信者を獲得するためのターゲットだったのではないか。

ちょっと余談になりますが、こんなことを考えておりますと、フーテンの寅さんのことを思い出します。寅さんの心情としては、葛飾柴又にある帰属集団に、自らも帰属したいと願っていた。しかし、寅さんは帰属集団の価値観に反して、定職についておらず、結婚もしていなかった。そのため、結局、葛飾柴又の帰属集団は、寅さんを受け入れない。妹のサクラが、なんとか寅さんと帰属集団の関係を取り持とうとするが、結局それは叶わず、寅さんは旅に出る。こういう物語なんだと思います。しかし、映画を見て涙していた昭和の庶民というのは、明らかに葛飾柴又の帰属集団の側ではなく、寅さんの側にシンパシーを感じていたんですね。平たく言えば、故郷を失って彷徨い始めた昭和の庶民の心情を、寅さんは良く表現していたのではないか。

脱線ついでに、もう一つ。最近、芸能人や政治家の不倫問題が頻繁に報道されています。私と致しましては、そこまで厳しく追及しなくてもいいじゃないか、もっとプライバシーに配慮すべきではないかと感じます。確かに不倫というのは、配偶者に対する裏切り行為であり、これは非難すべきことだと思います。民法にも、そう書いてあります。しかし、最近の報道を見ますと、その底流には“許せない!”という感情が見て取れます。それは、昔の“村八分”を支えた感情と同じではないか。もっと寛容であっても良いのではないか。あの人は不倫をした、だから許せない。そういうことばかりを言っていると、確実に、私たちの社会は息苦しくなると思うのです。