文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 71 小川国夫/葦の言葉(その5)

前回から引き続き、小川氏の講演内容について、検討します。

〇 講演内容/美しい葉
ロシア人には共通した、言わば肉体化された観念を構成している昔話がある。
「正しいとされる考え方は、人は来世の永遠の生命を信じるということなんで、特にすぐれた聖者だけが、まだこの世にあるうちに、つまり現世で天国を見ることができるということなんです。その聖者には価値の革命が起こる- たとえば虫が喰った葉っぱでもいいんですが、人には想像もできないくらいに美しく輝いて見えるんですね。これは、そういう聖者がいたという昔話です。その状態は天国ではないまでも天国的であって、聖者はさらに歩みを進めて天国に入りたいと願う。ということはこのうらぶれた現実から死ぬのを願うということです。つまり、キリーロフはこうした聖人譚といいますか、昔話を身をもって実際に演じてみせるわけです。
ただ一つ、いにしえの聖人譚と違うところは、キリーロフは聖者ではないということです。聖者でもないのに聖者の幻想に陥った、だからキリーロフは狂っていることになってしまう」。

コメント: “肉体化された観念としての聖人譚”というのは、集合的無意識だと思います。そして、集合的無意識に従って、キリーロフは自殺を遂げる。もちろん、キリーロフというのは、小説の中の登場人物な訳で、実際には存在しません。しかし、それだけ集合的無意識の力というのは強いんだと、小川氏は言っています。そして、小川氏はキリーロフのことを狂っている、と述べていますが、その理由についての説明はありません。

小川氏の講演内容は、以上です。今回のシリーズを書いてみて、私としては、多くのことを考えさせられました。一つには、言葉が時空を超えるということ。40年も前の小川氏の講演が、今、こうして私に影響を及ぼしている訳です。

もう一つは、小川氏の講演内容が、やはり分かりづらいということもあります。キリーロフは何故、狂っていると言えるのか。小川氏はその理由について、聖者でもないのに、聖人譚を演じたからだと言っていますが、では、キリーロフは何故、聖者ではないのか。そうやって考えるのが、ロジックではないでしょうか。批判するつもりはありませんが、つまるところ、カトリックの洗礼を受けている小川氏としては、無神論者となったキリーロフを肯定する訳にはいかなかったという事情があると思うのです。このことを突きつめて考えると、宗教というものは、ロジックを否定するということです。ロジックを否定する、だから、人々を隔絶してしまうのではないか。小川氏は、自らに厳しい人で、純粋に宗教や文学と向き合った人です。真偽のほどは分かりませんが、若い頃に芥川賞の受賞を辞退したという逸話があります。そんなに立派な人なんです。しかし私は、小川氏を本当に理解することはできません。小川氏と私の間には、決して超えることのできない大河が流れている。それが、宗教だと思うのです。

そして、一番大切なことは、集合的無意識と直観の関係です。桜の話は、集合的無意識だけで説明できる。日本人は、そういう美意識を持っているから、桜を愛するということです。しかし、キリーロフの自殺は、それだけでは説明できません。桜を見るような軽い気持ちで、自殺はできない。キリーロフには、やはり直観が働いたと見るべきだと思います。いずれにせよ、集合的無意識と直観は、互いに関連し、作用しあっているのだと思います。

蛇足ながらもう一つ。今回の原稿には、小川氏の他にも秋山さんや編集者の方々が登場しました。これらの方々は、皆、お金よりも大切な目的をもって、生きて来られたように感じます。それでいいんだな、と思うのです。人間、「こんにちは!」と元気に言いながら、この世に生まれて来る。そして、身体保存行為と、種族保存行為と、文化によって構成される人間社会にデビューする訳です。そんな人間社会の中で、先の2つは程ほどに行いながら、文化に関わり、集合的無意識に参加し、やがてひっそりと「さよなら」と呟きながら、人間社会から去って行く。それが、“文化で遊ぶ”ということの意味なんだろうと思うのです。

 

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No. 70 小川国夫/葦の言葉(その4)

私の所属していた文芸サークルが主催した小川氏の講演の原題は、「物の威力」というものでしたが、「永遠の生命」と改題され、講演集「葦の言葉」の巻頭に掲載されました。当然、当時も読みましたが、正直に言いますと、良く分からなかった。それが、今回、読み返してみると、良く分かるんです。

これから、小川氏の講演内容とそれに対する私の解釈を記してみますが、そのためには“集合的無意識”とか“直観”という言葉を用いることになります。これらの言葉の意味につきましては、主としてこのブログのNo. 57 ~ No. 61に掲載致しました“心のメカニズム”というシリーズに記載しております。まだお読みでない方は、ご参照いただけますと幸いです。

なお、小川氏の講演録には、パラグラフ毎に“小見出し”が付されています。まず、講演要旨と“小見出し”を記載し、続いて私のコメントを記すことに致します。

〇 講演要旨/食物と言葉、物質と霊
戦争の原因には、食物を生み出す源泉である土地の問題が絡んでいる。しかし、キリストは物の所有を否定する考え方を説いた。この教えは実現不可能であって、不条理だけれども、人間にとって必要なものである。つまり、物がそれだけ強い力をもって人間をしばっているということ。

日本の歴史に徴してみると、お百姓の水争いというものがある。渇水の時、人は地霊を発明し、神に頼む。宗教の源には、そういうことがある。その根っこには生産形態が関わっている。そこには心と物の関わり方がある。そういう地霊とか呪術への執着は、容易なことでは否定できない。

コメント: 原題の“物の威力”というのは、上記の通り、土地や水などの“モノ”について、その重要性を説こうとしたものと思われます。呪術については、このブログでも検討済みですが、小川氏の言う通り、私もこれを否定することはできないと思います。

〇 講演要旨/桜と早乙女、蝉丸の歌
ある民俗学者によれば、桜の“サ”はコメを意味する。そして、“クラ”というのは置き場所を意味する。よって、サクラとは、コメの置き場所という意味である。実証することは困難だが、かつて、米倉の傍らに桜の木を植える習慣があった。そして、桜の咲き具合によって、秋の収穫量を占っていた。桜という花を日本人ほど美しい花だとして慕う民族はない。「私どもが一つのものを美しいか、醜いかということを決める、ごく自然と思われる感情が湧いてくるのさえも、私ども個人的な判断ではない、先祖から一つの感情の流れといいますか、そういうものを受け継いでいるんで、それをほとんど本能的な、私どもの美に対する反応であるというふうに受け取っているんじゃないか、そういう問題を感じます」。

早乙女という苗字の<早>は、米を意味している。そして、乙女というのは娘のことで、早乙女というのは、飢餓への恐れがつのった時の、地霊に捧げた娘さんだったこともあるのではないか。この種のことは、世界共通であって、私どもの文学に強い力を及ぼしているに違いないと、最近感じる。

「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関」という蝉丸の歌がある。この「これやこの」という言葉の意味については、地霊や呪術と同じように言霊を信じていた時代に、言葉を発するはじめに、祈りとしての、あるいはお祓いとしての言葉を使っていたのではないか。その痕跡が、「これやこの」ではないか。このように、一語の起源をたずねてゆけば、そこには、優に一つの歴史がある。あるいは、いくつもの物語が含まれている。

コメント: 日本人が何故、かくも桜を愛しているのか、興味深い説明がなされています。しかし、これは“集合的無意識”そのもののことではないでしょうか。日本人に固有の集合的無意識があって、それが私たちに桜を愛させている。そうだとすれば、集合的無意識というものは、相当強い力を持っていることになります。なお、春の桜の咲き具合と、秋の収穫量を関連づけて考えるというのは、文化人類学が説明しているところの“類化性能”と呼ばれる未開人の心の働き(No. 33)だと思います。こういうことが、今回は、面白いように良く理解できました。

〇 講演要旨/ボードレールの言葉、永遠の生命
「想像力とは、哲学的方法の外にあって、事物の奥底の秘密な関係、対応、類似を認識する、神聖ともいうべき能力である」とボードレールは述べている。想像力は、決して論理では分からないものを突きとめる。そのことを「哲学的方法の外にある」と言っている。桜と豊作を結びつける感情は、私どもの民族感情をさかのぼっていけば、いわれがあったと想像できるし、そういうことが、桜に限らず沢山ある。私どもは、想像力を簡単に直感というふうに呼んでいる。

ドストエフスキーの小説「悪霊」において、スタブローギン(主人公)がキリーロフに「永遠の生命を信じるか」と尋ねる。これは、キリスト教の洗礼を受けるときに牧師に尋ねられる言葉でもある。無神論者となったキリーロフは、現世の永遠の生命を信じる、と答える。埴谷雄高の言葉を借りれば、「意識の総転覆」というものが、文学者の内面にはある。

コメント: これは正に、文学の世界から見た“直観”に他ならないと思います。まさか、あの時の講演で、小川氏は“集合的無意識”と“直観”について述べていたのです。このブログでも、この問題を縷々検討した来た訳ですが、なんという符号でしょうか。ユングならずとも、シンクロニシティではないかと疑いたくなってしまいます。

 

No. 69 小川国夫/葦の言葉(その3)

講演は、秋山さんが先でした。結構な人数が集まり、秋山さんって流石だなと思ったことを記憶しています。秋山さんの講演が終わると、聴衆がぞろぞろと会場を出て行ってしまい、小川氏に失礼があってはいけないと私は大変焦ったのですが、入れ替わりで、同じ位の人数が入ってきたのでした。お二方とも、話は大変難しかった。しかし、その時の私は、それどころではありませんでした。講演終了後に懇親会を予定していて、その段取りのことで頭が一杯だったのです。

いつの間にか小柄で口ひげをたくわえた男性がいて、小川氏の傍らを離れないんです。後で分かったのですが、その方は筑摩書房の編集者だった。秋山さんの傍にも、同じように男性が付き添っている。こちらはちょっと大柄の人で、小沢書店の方ということでした。

懇親会は、「神田川」という小料理屋の2階でした。階段を上がると、料理の用意が整った会場の片隅で、2人の1年生がなんと弁当を食べているんです。
「お前ら、失礼だぞ!」
私は、そう怒鳴りつけたのですが、それでも彼らは、昼間に食べる時間がなかったのだから仕方がない、と言って食べるのを止めない。私は、近くの小部屋に彼らを追いやったのでした。

そして懇親会が始まり、お酒が回ってくる。私は、小川氏にいくつかの質問を試みました。良く言えば、それは小川氏から何かを吸収したい、学びたい、という情熱の現われでもあったのですが、今にして思えば、私は単に頭でっかちで世間知らずの若造だったんですね。そして、遂に、こう尋ねたのです。
「先生は、神の存在を信じておられるということでしょうか?」
小川氏は、困ったような顔をして、ちょっと虚空を見つめるような目になりました。
「そういうことじゃなくて」
そう言ってから、少しの間があって、こう言ったのです。
「内的要請があるんです」
小川氏の厳しい表情は、それ以上の会話を拒否しているように見えました。私も、それ以上は尋ねませんでした。これが、私が小川氏と交わした最後の言葉なんです。
この言葉の意味を補足するような小川氏の文章が、残っています。引用してみましょう。
「先ほど私は二十歳のころのノイローゼの話をしましたけれども、ノイローゼで人間性というのは得体が知れない、先行きどうなってしまうのか解らないというような恐れといいますか不安を私は味わったんで、その不安の中で、福音書というものが私を支えてくれたことを、今思いだすんです。おそらくそういうところから発想が起こったんでしょうけれども、どうも私は楽観論をとれないんです。不安は尽きない、混乱がある、闇がある。しかし、だからこそそこにますます値打ちを現わす一つの教えがあると、それがキリスト教であると、そういう風に私は今のところ理解しているんです」。

やはり、極限状態まで行ってしまうと、人間というのは弱いものだ、何か頼れる存在が必要なんだ、それが神であり宗教なんだ、ということだと思います。しかし、それと同時に、今私が思うのは、信仰を持つか否かという問題は、個人的な体験に依存する部分が大きいのではないか、ということです。小川氏には小川氏の経験があって、「内的要請がある」と思うに至った。一方、私は私なりにつらいことも経験してきましたが、内的要請があるとは思わないのです。その違いは、個人的な経験の相違に由来しているのであって、互いに相手を非難することはできない。

やがて懇親会も終わり、小川氏を見送ったのですが、その際にも、筑摩書房の方が付き添っておられた。結局彼は、私の前では一言も発することがありませんでした。小川氏は、その晩、藤枝まで帰ると言っていましたが、筑摩書房がどこかに宿を手配していたのかどうか、それは分かりません。

その場は散会となったのですが、小沢書店の方からお誘いいただき、秋山さんと一緒に新宿へ繰り出すことになりました。小さなお店で、私たちは肩を寄せ合うように座って、朝まで飲んだのです。途中、別の席で飲んでいた人が、秋山さんに挨拶に来られました。見ると、当時は新進気鋭の芥川賞作家、高橋三千綱氏だったのです。秋山さんがいて、出版社の方がいて、芥川賞作家がいる。それが、二十歳の私が垣間見た、文壇という輝かしくも魅惑的な世界だったのです。新宿で見た朝日が、やけに眩しかったのを覚えています。

ということで、この話は終わりそうなもんですが、続きがあるのです。その時の小川氏の講演内容が、翌年出版された小川氏の講演集「葦の言葉」に収録されたのです。出版元は、もちろん筑摩書房なんです。

 

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No. 68 小川国夫/葦の言葉(その2)

ある日、文芸サークルの先輩がこう言ったのです。
「昔さあ、うちのサークルで小説家の講演会を主催したことがあるんだ。早稲田祭の時なんだけど。そう言えば、君、秋山さんと面識があるんだっけ?」
どことなく先輩の口調が、他人事のような感じなんです。それが気にはなったのですが、私としては小川氏の顔が瞼に浮かんだんです。
「小川国夫さんとか、呼べますかね?」
「大丈夫なんじゃない」
軽い感じで、先輩がそう答えます。文芸評論家としての秋山さん、小説家の小川氏、この2人の講演会を早稲田祭(大学祭)で開催する。荒唐無稽なアイディアに思えたのですが、小川氏に会うことができれば、聞いてみたい話は山ほどある。サークルメンバーの間でも、なんとなく期待感のようなものが高まってくる。考えても埒があかないので、とにもかくにも秋山さんに相談してみよう。私は、そう決心したのでした。

ちょっと記憶が曖昧なのですが、その時は、秋山さんのご自宅にお邪魔したように思います。
「次の早稲田祭で、秋山さんとどなたか小説家の方をお呼びして、講演会を開催できないかという話をサークルの中でしているのですが・・・」
私がそう切り出すと、秋山さんは軽く頷きました。
「で、小説家は誰を呼びたいと思っているの?」
「小川国夫さんなんかは、どうかと思っているのですが・・・」
もちろん、私は緊張していました。秋山さんと小川氏がどういう関係なのか、私には全く知識がなかったのです。
「いいんじゃない」
秋山さんは、ちょっと嬉しそうにそう言いました。後から分かったのですが、秋山さんは小川氏と仲が良かったのです。そして、私としては、秋山さんが小川氏に話を通してくれるかと期待していたのですが、秋山さんは要領を得ない私に、ちょっと強い口調でこう言いました。
「君が電話すればいいんだよ。小川さんの電話番号は、筑摩書房に聞いてごらん」
当時、小川氏の本は主に筑摩書房から出版されていたのです。
筑摩書房、教えてくれますかね」
ちょっと尻込みしている私に、秋山さんはたたみかけるように言いました。
「大丈夫さ。ちゃんと事情を説明すれば、教えてくれるよ。それから、小川さんに話す時には僕の名前を出してもらっていいから」
そういう経緯で、なんとなく私が前面に出ることになってしまったのです。もう後戻りはできない。なんとかするしかない。大学2年、丁度20歳になったばかりの私は、そういう立場になってしまったのです。しかし、私のバックには秋山さんという強い味方がいる。

秋山さんの言う通り、筑摩書房は小川氏の電話番号を教えてくれました。そして、私は意を決して、ある日の昼下がり、小川氏に電話したのです。
「申し訳ありませんが、主人はちょっと休んでおります」
電話口には奥様が出られて、そう言います。プロの小説家というのは、凄いもんだな。きっと、昼間は寝ていて、夜、仕事をしているのだろう。そう思った私は、別の日に、今度は夕方の時間帯を狙って電話をしました。しかし、再び、奥様が出られて同じように言うのです。これはもう、小川氏は、昼夜反対の生活をしているに違いない。そう確信した私は、別の日の夜、電話をしたのです。今度は、小川氏が電話口に出てくれました。私は、懸命に依頼事項を説明しました。もちろん、水戸黄門が印籠を示すがごとく、「秋山さんにはご了解をいただいております」とその点を強調したことは言うまでもありません。すると、小川氏は了解してくれたのでした。

早稲田祭の当日、私たちのサークルでは、二手に分かれて秋山さんと小川氏を迎えに行きました。私は小川氏を担当し、東京駅から早稲田までお連れしたのです。そして、喫茶店に腰を落ち着けるなり、小川氏は不機嫌そうな表情で、私を見ながらこう言ったのでした。
「あなたの情熱には、負けました」
小川氏は昼間寝ていたのではなく、居留守を使っていた! 私はやっと、そのことに気づかされたのでした。

No. 67 小川国夫/葦の言葉(その1)

小川国夫(1933~2008)という小説家をご存じでしょうか。

小川氏は、1933年に静岡県藤枝市に生まれます。小さな宿場町だった藤枝市ではありますが、1879年頃教会が創立され、フランス人の宣教師がやって来ました。そんな環境もあって小川氏は1946年頃、終戦直後ということになりますが、カトリックの洗礼を受けます。1950年、小川氏は東大の国文科に入学しまが、在学中の1953年、フランスのソルボンヌ大学へ私費で留学します。慣れ親しんだ、若しくは尊敬していた宣教師の方々にフランス人が多かったのではないでしょうか。そんなこともあって、フランスを近しく感じていたのかも知れません。この頃、すなわち小川氏が20歳の頃ですが、重いノイローゼに掛かってしまったそうです。後年本人が述懐するに、ゴッホの絵に出てくる様な渦巻模様が見えたそうです。本人は、分裂病であったと自己診断しています。1956年、23歳の小川氏は帰国しますが、東大へは戻らず、執筆活動に入ります。1960年、都内にあった自宅を引き払い、生まれ故郷の藤枝市に移住します。1965年、32歳の時にデビュー作となる「アポロンの島」を執筆し、翌年頃から商業雑誌に登場します。1986年、53歳の時に「逸民」という小説で、川端康成文学賞を受賞し、以後、いくつかの賞を得ています。2008年、80歳で他界します。天寿を全うしたと言えるでしょう。

私が小川氏に興味を持ったきっかけは、ゴッホでした。まず、ゴッホに興味を持ったのです。そして、本屋へ行くとゴッホについて記した本があって、その作者が小川氏だった。そんな経緯だったように記憶しています。このブログでもしばしばゴッホが登場しますが、私のゴッホに関する知識の一部は、小川氏の文献に依拠しています。

 

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さて今回は、少し個人的な話にお付き合いください。

私は、早稲田大学の法学部に入ったのですが、法律に興味は持てず、ロックバンドに情熱を傾けていました。そうは言っても、ギターで飯を喰える訳がない。それは分かっていました。当時、ロックと私の間には、三つの壁が立ちはだかっていたのです。一つには、言葉の問題。私の憧れていたロックは、全て英語でした。2つ目には、地理的な問題。当時、ロックの本場はイギリスでしたが、私は日本を出たことすらありませんでした。3つ目には、世代の問題。ジョン・レノンミック・ジャガージミ・ヘンドリックスも、皆私よりも上の世代なんです。どうしても超えることのできない3つの壁。それにも増して、ギターの才能がないことは、自分が一番良く分かっていたのです。さりとて、サラリーマンになるのも嫌だった。そのように消去法で考えていくと、小説家になる以外、私にとって人生を切り開く道はない。大学に入りたての私は、そう思っていました。

そこで私は、ロックバンドを続ける傍ら、文芸サークルに加入しました。そこでは、同人誌を出し、読書会もやっていましたが、メインの活動は飲み会でした。そうこうするうちに、私は、文芸評論家の秋山駿(1930~2013)氏と面識を持つようになりました。(秋山さんは先生と呼ばれることを嫌っておられ、“さんづけ”で呼んでいましたので、このブログでもそうさせていただきます。)当時、秋山さんは「内部の人間」などの文芸評論を多く出版すると共に、群像などの文芸誌にも執筆されており、言わば現役バリバリの批評家だったのです。三島由紀夫に絶賛されたこともありました。まあ、私にとっては雲の上の存在だった訳です。そんな秋山さんですが、当時、早稲田の文学部で、非常勤講師をされていたのです。そこで、秋山さんが講義をしている教室に忍び込む。後ろの方に座って、講義が終わるのをじっと待つのです。講義が終わると、潮が引くように文学部の学生が教室を出て行きます。その流れとは反対に、やおら秋山さんの元に近づいて行って、「秋山さん、こんにちは!」と元気良く声を掛ける。この方法を私は、兄から教わったのでした。

早稲田での講義が終わると、秋山さんは次の仕事まで小一時間程、時間が空いていたんです。そこで、文学部の校舎を出て地下鉄東西線の駅に向かって歩いて行くと、途中にパブのような店がある。そこへついて行って、雑談をする訳です。そんなことが何回かありました。
「君、外は寒いだろう。だから、これが欲しくなるんだよ」
秋山さんがそう言って、ウイスキーの水割りを指さしたことがありました。いつも、ホワイトホースだったように記憶しています。確かに外は寒いけれど、温まるなら熱燗の方がいいのにな、とか思いながら、私も同じものを飲んでいました。

ある時、震えあがってしまったこともありました。
「君、“私”というのは不思議なもんだろう」
そう言われたのです。秋山さんが、“私”とは何かを考え続けておられることは知っていたのですが、実は私は、何がどう不思議なのか分かっていませんでした。もちろん「はい!」と元気良く言ってうなずきましたけれども。

こんなこともありました。一緒に東西線に乗っていた時のことです。混雑していて、二人とも立っていたのですが、私は三島由紀夫の「午後の曳航」について、質問したのです。
「君は、どう思うの?」
そう言われたので、私は自分なりの解釈を説明しました。すると秋山さんは、私の胸を指さしてこう言ったのです。
「君、それでいい!」
秋山さんは、にっこり笑って、竹橋かどこかの駅で降りて行かれました。もちろん私は、天にも昇る思いでした。すいません。ちょっと脱線し、自慢話になってしまいましたね。

No. 66 ジミ・ヘンドリックス/バンド・オブ・ジプシーズ(その3)

奇跡的と言っても過言ではない即興演奏を披露したジミとそのバンドは、その直後、1970年1月28日、今度はマジソン・スクエアー・ガーデンでコンサートを開きます。しかし、2回目の奇跡は起こりませんでした。ジミの身体的なコンディションは、最悪だったそうです。直前に粗悪なドラッグを服用したに違いない、と証言する人もいます。とてもギターを弾ける状態ではなかった。そして、ステージ上でジミは、こともあろうにバンドのメンバーの悪口を言い始めたそうです。批判の矛先は、特にドラムのバディ・マイルスに向けられたようです。そして曲の途中で、ギターの弦が切れてしまう。「俺たちは、もうこれ以上、一緒に演奏をすることはできない」。ジミはそう言って、ステージを降りてしまった。なんともあっけない幕切れでした。

バンド・オブ・ジプシーズの解散理由については、ジミとバディ・マイルスのバンド内における主導権争いだった、とする説に信憑性があるようです。メジャー・デビューを果たしてからのジミの音楽活動は、わずか4年に過ぎませんが、そのキャリアを通じて、ジミと対立するだけの強固な音楽的才能を持っていたのは、バディ・マイルスだけだった。バンド・オブ・ジプシーズの音楽的な成功には、この2人の才能のぶつかり合いが必要だったのだろうと思います。それは、ジョンとポールの個性がぶつかりあって、後期のビートルズが傑作を生み出したのと良く似ています。

ジミの次のバンドには、ベースのビリー・コックスが居残り、ドラムにはイギリスからミッチ・ミッチェルが呼び戻されます。そして、このバンドは再びエクスペリエンスと名乗ります。また、このバンドは1970年5月30日にカリフォルニア州バークレーでコンサートを開いており、その時の演奏はCDなどで聞くことができます。この時の演奏は、相当、いいんです。例の“マシンガン”も演奏しています。かなりの出来なんですが、比較すると、私としてはバンド・オブ・ジプシーズに軍配を挙げたくなります。また、同年8月にはイギリスのワイト島で開催されたフェスティバルにも参加しています。この時の演奏も相当いいんです。いいんですが、スタジオでレコーディングされた曲を3人のメンバーで演奏しており、ちょっと楽器の数が足りない。本来であれば、リズム・ギターを加えるべきだったように思います。

1970年9月18日、ジミはロンドンのホテルで急逝してしまいます。原因については、自殺説、マフィアによる暗殺説などもありますが、単なるドラッグのやり過ぎだったのではないでしょうか。モニカという美しい女性と一緒だったそうです。享年27歳。

ところで、ジミとマイルス・デイビス(1926~1991)に関するエピソードを紹介致しましょう。ただ、どの文献に書いてあったのか記憶がないため、半分、私の想像だと思ってください。ちなみにマイルス・デイビスとは、ジャズの歴史を創造し、かつジャズの枠組みを超えて活動した黒人のトランぺッターです。

即興演奏を理論的に追及していたマイルスですが、ジミの演奏に心酔していました。なんとか、ジミを自分のバンドに入れたい。少なくとも、一緒にプレイしたいと切に願っていたのです。そのため、マイルスはジミを自宅に招き入れます。そこで、一緒に時間を過ごす訳ですが、なんとジミはマイルスの奥さんに手を出してしまう。マイルスも当然、そのことに気づくのですが、黙認したようです。そして、リビングのテーブルの真ん中に、ある楽譜を置いて、ジミと奥さんの2人を残し、マイルスは自宅を出ます。その楽譜には、マイルスがジミと共演するためのアイディアが記されていたのです。しかし、ジミは楽譜が読めなかったので、マイルスの願いはかなわなかった。この時のマイルスの奥さんですが、マイルスの“ソーサラー”というアルバムのジャケットに写真が載っている人だったと記憶しています。なんという尻軽女でしょうか。マイルスがその後、離婚したことは言うまでもありません。

ジミの女性関係についてのエピソードをもう一つ。「宗教を生みだす本能」(文献1)から引用します。「ミラーは、音楽の能力は脳の健康状態を如実に表していると指摘する。そこで多くの女性は、わが子の父親として音楽の才能のある男性を好み、音楽の才能を発現させる遺伝子が広まった。ロック・ギタリストのジミ・ヘンドリックスは“何百人というグルーピーと性関係を持ち、同時にふたり以上の女性と長期間にわたって交際し、知られているだけでアメリカとドイツとスウェーデンに三人の子供がいる”」。

こうしてみると、ジミ・ヘンドリックスとは、人類史上稀に見る偉大なシャーマンだったのではないか、と思えてきます。(シャーマニズムについては、このブログのNo. 18)音楽の才能に長けて、努力もした。ある時は、スタジオに18時間もこもったそうです。また、楽譜が読めなかったからこそ、理論や音階に頼らず、自由な演奏ができたのではないでしょうか。そして、ジミがトランス状態に入ることをドラッグが助けたことには、疑いの余地がありません。ジミが異常な程、女性にモテたのは、単に彼がミュージシャンでカッコ良かったからではないと思うのです。そういうミュージシャンは他にもいます。それだけではなく、シャーマンとしてのジミの非凡な才能が、女性を惹きつけたに違いありません。意識を低下させ、トランス状態に入り、非現実的な空間を作り出す。それこそがシャーマニズムの本質で、そこに女性たちの本能が呼応した。そう考えた方が、自然だと思うのです。

(参考文献)
文献1: 宗教を生み出す本能/ジェームス・D・ワトソン/NTT出版

 

※ 都合により、1週間程度、ブログの更新を休みます。

No. 65 ジミ・ヘンドリックス/バンド・オブ・ジプシーズ(その2)

ジミが率いたエクスペリエンスも、猛烈に働いたようです。当時はライヴがバンドの主たる収入源だったそうで、エクスペリエンスも多くのステージやツアーをこなしたようです。そして、御多分に洩れず、彼らもドラッグとは切っても切れない関係に陥ってしまいます。

こんなエピソードが残っています。1968年1月3日、エクスペリエンスのメンバーは、スウェーデンストックホルムでコンサートを開催します。その晩、ジミとベースのノエルは2人の女の子をナンパし、ホテルのバーで飲みます。そして、女の子たちを彼らの部屋に誘ったのですが、断られます。そうなると、彼らにはもうドラッグしかすることがなかった。錯乱状態になったジミは、ホテルの部屋を滅茶苦茶に破壊しました。そして、同室だったノエルと殴り合ったそうです。騒ぎを聞いて駆けつけた警察官に彼らは連行されます。警察は、ジミが手から血を流していたため、まず、病院へ連れて行きました。数針縫ったそうです。その晩、ジミはストックホルムの留置所で一晩過ごしたそうです。

同年、エクスペリエンスは“エレクトリック・レディランド”というスタジオ録音のアルバムを発表します。これは、録音技術を駆使して、音がステレオのスピーカーの左右を行き来するなど、ジミが好き放題にやったという印象のアルバムです。当時、スタジオの近くに小さなクラブがあって、エクスペリエンスのメンバーは、新曲をそのクラブで披露して楽しんでいたそうです。とりわけ、彼らが録音したての“ヴードゥー・チャイルド”を演奏した時、クラブは大いに盛り上がったそうです。それは、そうですよね。羨ましい限りです。

“エレクトリック・レディランド”の成功もあって、やがてジミはエクスペリエンスのメンバーを増やしたいと考えるようになります。いろんな音が欲しかったのでしょう。しかし、メンバーを増員するという話をベースのノエル・レディングはジミから聞かされていなかった。彼がそれを知ったのは、メディアの人間からだったようです。前々から嫌気の差していたノエルは、エクスペリエンスを脱退します。それを機に、1969年6月、エクスペリエンスは解散します。

ジミは予定通り、メンバーを増員して、新たなバンド“ジプシー・サンズ&レインボーズ”を結成します。1969年8月に開催されたウッド・ストックでトリを務めたのは、このバンドなんです。ウッド・ストックでジミが演奏したアメリカ国家は、歴史的な名演だったと言われています。ジミは通常のギターの音だけでなく、フィードバックをはじめ様々な効果音を使いますが、この時のライヴ映像などを見てみると、全ての効果音を完全にコントロールしていたことが分かります。ポアリングという技法で絵画を作成していたジャクソン・ポロックが「そこに偶然はない」と言っていましたが、ジミも同じなんです。雑音だとか、ハウリングのように聞こえる全ての音を、ジミは意図的に出していたんです。正に、そこに偶然はなかったと思います。

但し、“ジプシー・サンズ&レインボーズ”の試みは、失敗に終わります。多人数のメンバーをコントロールする実力がジミにはなかったとか、新規加入のメンバーの実力が不足していたという説もあります。

ジミが自分のバンドを失った丁度その頃、ある裁判の判決が出ます。当時、ジミはワーナーというレコード会社と契約していました。しかし、かつてジミは「次のレコードはキャピトルから発売する」という誓約書にサインしていたのです。ジミは敗訴し、急遽、アルバム1枚をキャピトルから発売しなければならなくなったのです。ベースは、ジミが兵役に行っていた頃からの旧友で黒人のビリー・コックスに決まります。(彼はレインボーズにも参加していました。)問題は、ドラマーでした。エクスペリエンス時代からのメンバー、ミッチ・ミッチェルは、たまたまその時期、母国のイギリスに帰国していたのです。そのため、ジミの窮状を見かねたセッション仲間で黒人のバディ・マイルスが、ひと肌脱ぐことになったのです。こうして、黒人3人による“バンド・オブ・ジプシーズ”は、偶然の結果、1969年10月に誕生しました。

バンド・オブ・ジプシーズ
ジミ・ヘンドリックス・・・ギター&ボーカル
バディ・マイルス・・・ドラム&ボーカル
ビリー・コックス・・・ベース

1969年12月31日、バンドはフィルモア・イーストのステージに立ちます。気つけ薬代わりに、ジミが何らかのドラッグを服用していたことは間違いありません。

2曲目で、ジミはスタンド・マイクに近づき、こう言います。

「まずは、新年おめでとう。そして、1千万の人々に思いを馳せて欲しい。もし、我々が今年の夏を乗り切れたらの話だが。我々は、今もなお続いている不愉快な状況にある人たちにこの曲を捧げたい。シカゴとミルウォーキーで闘っている全ての兵士に。そしてもちろん、ベトナムで闘っている全ての兵士に。“マシンガン”という曲だ」。

ジミが静かにイントロのフレーズを弾き始める。そして、ギターに呼応し、バディ・マイルスの叩くスネヤドラムが響く。タカタカタッ。その音は、正しくマシンガンの発射音に聞こえる。そして、ジミがこんな風に歌うのです。

奴らが俺に、お前を殺させる。
奴らがお前に、俺を殺させる。

その瞬間、ロック・ミュージックという文化は、とてつもない緊張感と共にそのピークを迎えたのだと、私は思っているのです。