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文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 78 村上春樹の「少し前の作品」を読む(その3)

本件作品のサブのストーリー・ラインは次の通りです。

仲の良い5人のグループから絶縁されてから、1年が経過した頃、多崎つくるには灰田という男の友人ができる。やがて灰田は多崎つくるのマンションに泊まり、2人は深夜まで話し込むほど、親しくなる。ある晩灰田は、彼の父親の経験を語る。1960年代の末期、大学紛争における愚かしい出来事を目の当たりにした父親は、休学届を出して放浪の旅に出る。そして、下働きをしながら大分県山中の温泉で暮らしている時、緑川という男に出会う。緑川は灰田の父親に「このあたりのどこかにピアノが弾ける場所はないだろうか」と尋ねる。父親は緑川を連れて、中学校の音楽室に案内する。緑川は、ショルダーバッグから小さな布の袋を取りだし、それを注意深くピアノの上に置き、「ラウンド・ミッドナイト」を弾いた。優れた演奏だった。父親は、緑川と夕食を共にする。緑川は「実を言うと俺は死期を迎えている。おおよそあと1か月の命しかない」と告げる。但し、病気を患っている訳でも、自殺を考えているのでもないと言う。ある人にそう言われたのだと緑川は説明する。

やがて、灰田は理由も告げず、多崎つくるの前から姿を消す。

それから15年程が経過し、多崎つくるは、緑川がピアノの上に置いていた布袋の中味について想像する。「その中に入っていたのはホルマリン漬けされた彼の6本目の左右の指だったのではあるまいか? 彼は何らかの理由があって、成人したあとにそれを手術で切除し、瓶にいれて持ち歩いていたのだ。(中略)もちろんそれはつくるの勝手な想像に過ぎない」。

以上が、サブのストーリー・ラインです。これらのストーリー・ラインから読み取れることは、限定的です。例えば、この作品の前半は、多崎つくるが5人組から絶縁された理由は何か、ということに焦点が当てられ、その理由は、なかなか明らかにされません。これは、推理小説の手法だと思われます。やっとのことでその理由が明かされると、それは、白根柚木(シロ)が、多崎つくるにレイプされたと嘘をついたからだ、と説明される。しかし、では何故、彼女はそんな嘘をつかざるを得なかったのか。そう考えるのがロジックです。この点、作品の終盤で、申し訳程度の説明がなされます。五人グループにおいては幸福な時期があったが、人はそれぞれに違った速度で成長していくものだ。従って、五人グループがやがて解体されることは必然である。「シロの精神はおそらく、そういう来るべきものの圧迫に耐えられなかったのだろう」とされています。しかし、レイプという凄惨な被害を受けた彼女の気持ちは、まず、犯人に向けられるはずです。それを、仲の良い友人を犯人に仕立てあげるというのは、現実的には、納得できるものではありません。仮に、五人グループの来るべき破たんを怖れていたのであれば、自ら身を引くとか、他に方法はいくらでもあったのではないでしょうか。まして、この作品の中では、柚木(シロ)が何故、レイプされたのか、また、その後、何故絞殺されてしまったのか、その因果関係は説明されていません。唯一の説明は、黒埜恵理(クロ)が「あの子には悪霊がとりついていた」と述べるにとどまります。つまりこの作品は、ロジックではない、因果関係すら説明されない世界を描いている、と言う他はないのです。ましてや、サブのストーリー・ラインでは、緑川というピアニストが6本指だったのではないかという推測が述べられますが、荒唐無稽であるとしか、言いようがありません。

上記の通り、本件作品は、ロジックや因果関係によって、理解することはできないのです。

さて、次のステップに進む前に、ご紹介したい本があるのです。河合俊雄という人が書いた「村上春樹の『物語』 夢テキストとして読み解く」(文献1)という本なんです。本の帯には「ユング研究の第一人者」と書かれています。そう言えば河合俊雄、どこかで聞いたような名前なんです。ネットで確認すると、やはりこの人、河合隼雄の息子さんなんですね。

私が興味を持った点のみを要約してみます。

人間の自己意識というものは、時代と共に変遷している。それは、仮に以下の3時代に区分できる。

・プレモダン(前近代)
・モダン(近代)
ポストモダン(近代後)

プレモダンの意識・・・物や自然の側に主体がある世界観。束縛が強いだけにそこに生きている人は守られてもいたし、何をすべきかが基本的に明らかであった。例えば結婚も、主に家族や部族によって決定される。

モダンの意識・・・個人を束縛してきたものとの戦いとそれからの解放。自由を獲得すると同時に、自分に責任を負う。確立された意識は、他者とのつながりを求めると同時に、自分で自分を見るという自己意識を形成する。道徳心の内在化。

ポストモダンの意識・・・もはや解放されるために闘う相手を必要としない。必然性はなく、全てはいわば恣意的で交換可能である。葛藤や罪悪感がないので内省に乏しく、また主体性が希薄である。

そして、村上春樹の小説に登場する人物は、ポストモダンの意識を持っている、というのがこの本の主張なんです。なるほど!

(参考文献)
文献1: 村上春樹の「物語」 夢テキストとして読み解く/河合俊雄/新潮社/2011

No. 77 村上春樹の「少し前の作品」を読む(その2)

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」ですが、このタイトル、長いですよね。この先は、“本件作品”と呼ばせていただきます。

さて本件作品ですが、結構な分量もあり、かつ曖昧模糊としていて、ちょっと掴みどころがありません。こういう場合は、まず、その構成要素に分解してみる必要がありますね。では、どういう要素に分解するかという問題ですが、私としては、次の4項目を考えています。

1. ストーリー・ライン
2. 登場人物の経歴と言動
3. 夢
4. 文体

上の方がマクロで、下の方がミクロということになります。また、本件作品の世界は、ユングと言うか、ユング派の河合隼雄の世界に極めて近い。そこで、上記の4項目を分析心理学の階層に当てはめてみると、次のように仮定することが可能なんです。

1. ストーリー・ライン ・・・ 意識
2. 登場人物の経歴と言動・・・ 個人的無意識
3. 夢         ・・・ 集合的無意識
4. 文体

各項目について、簡単にご説明致します。まず、“ストーリー・ライン”ですが、ここには作家の表層にある意識が反映されていると思います。しかし、ご案内の通り、作品の本質を見るためには、あまり役に立たない。それはあくまでも表面上のことで、真実はもっと深いところにある。しかし、多少はこれを説明しないと、本件作品をお読みでない方には、何の話か全く分からない。よって、最初に“あらすじ”のようなものを簡単に説明したいと思います。(これはあくまでも本件作品の表層であって、いわゆる“ネタバラシ”にはならないと思います。)

次に、登場人物の経歴と言動ですが、ここには解釈が可能なヒントが隠されていると思うのです。よって、ここの分析が本稿の主眼になろうかと思います。

3つ目として、“夢”というのがあります。ここまで深い所に入り込んでしまうと、ほとんど心理学の専門分野であって、何らかの解釈を導き出すことは、ほぼ不可能、若しくは極めて困難です。また、そこから何かを感じる読者と、そうでない読者が存在するはずです。よって、この領域については、皆様が本件作品をお読みになって、ご判断いただきたいと思うのです。

最後に“文体”ですが、いくつかのサンプルを見て行けば、本件作品が注目しているディテール、若しくは作家が何を見ようとしているのか、分かるかも知れません。但し、文章がうまいか下手かという話は、読者の個人的な感覚による部分が大きいので、そこには入り込まない予定です。

本件作品には、大別すると2つのストーリー・ラインがあります。まずは、メインの方からまとめてみましょう。

高校のクラスには、男3人、女2人の仲の良いグループがあって、主人公である多崎つくるは、そのメンバーだった。5人は、いつも一緒に行動していた。それはあたかも「乱れなく調和する共同体」のようだった。多崎つくるを除いて、他のメンバーの名前には、色彩に関する言葉が含まれていた。
・赤松 慶(あかまつけい)・・・男・・・アカ
・青海悦夫(おうみよしお)・・・男・・・アオ
・白根柚木(しらねゆずき)・・・女・・・シロ
・黒埜恵理(くろのえり) ・・・女・・・クロ
上記の4人は、アカとかアオなどと互いを色彩名で呼びあっていたが、多崎つくるだけは「つくる」と呼ばれていた。やがて、多崎つくるは大学2年の時、理由を告げられることなく、他の4人から絶縁される。以後、多崎つくるは「ほとんど死ぬことだけを考えて」生きていた。絶縁されてから、約7か月が経過したある晩、多崎つくるは夢の中で、ある女性から肉体と心の一方のみを差し出す、と言われる。しかし、多崎つくるが欲しいのは彼女の全てであって、どちらか一方だけを選ぶことはできない。その夢から覚めた時、多崎つくるは死を希求するのを止める。

大学を卒業した多崎つくるは、鉄道の駅をつくったり維持したりする仕事に就く。36歳になった多崎つくるには、2つ年上の恋人、沙羅が現われる。3回目のデートで二人は関係を持つ。しかし、4回目のデートで沙羅は、多崎つくるの誘いを断る。そして、多崎つくるに対し、かつてのグループメンバー4人と会うことを提案する。「そろそろ乗り越えてもいい時期に来ているんじゃないかしら?」と沙羅が言う。

多崎つくるは、まず、青海に会いに行く。彼は、トヨタ、レクサスのディーラーに務めている。2人は、公園のベンチに腰かけて話す。多崎つくるが、16年前に絶縁された理由を尋ねると、青海は「シロはお前にレイプされたと言った」と述べる。しかし、多崎つくるがそんなことをした事実はなかった。また、青海は白根柚木が6年前にマンションの自室で絞殺されたと告げる。

多崎つくるは、次に、赤松に会いに行く。彼は、企業教育を代行する会社の代表取締役として、経済的な成功を収めている。別れ際、赤松は自分にゲイの傾向があることを告白する。それに対して、多崎つくるは「そういうのはとくに珍しいことじゃないだろう」と応える。

多崎つくるは、街で偶然、沙羅が中年男と腕を組んで歩いている所を目撃してしまう。

多崎つくるはフィンランド人と結婚している黒埜恵理に会うため、ヘルシンキを訪れる。恵理(クロ)は2人の子供をもうけ、夫と共に陶芸をしながら家庭生活を営んでいる。彼女はこう言う。「私のことをもうクロって呼ばないで。呼ぶのならエリって呼んで欲しいの。柚木のこともシロって呼ばないで。できれば私たちはもうそういう呼ばれ方をされたくないから」。また、エリは多崎つくるが柚木(シロ)をレイプなどしていないことは知っていたが、精神的に深刻な問題を抱えていた柚木を守るためには、多崎つくるを切るしか方法がなかったと述べる。また、柚木がレイプされたのは事実で、その後、流産したという事実を告げる。そして柚木を指して「あの子には悪霊がとりついていた」と述べる。多崎つくるが恋人、沙羅との関係を打ち明けるとエリは、「ねえ、つくる。君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと。私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかも知れないよ」と述べる。

帰国した多崎つくるは、沙羅に電話し、「それで、君には誰かほかに好きな人がいるのかな?」と尋ねる。沙羅は、三日後に返事をすると答える。沙羅の返事を聞く前に、本件作品は終わる。

長くなりましたので、今回は、ここまでと致します。

No. 76 村上春樹の「少し前の作品」を読む(その1)

インターネットのニュースを見ていたら、気になる記事が2つありました。1つは、村上春樹の新作「騎士団長殺し」が本日発売されたとのこと。たまたま、このブログで村上春樹の作品を取り上げようと思っていた矢先に、新作が発表された訳です。ここでこれから取り上げようとしている作品は、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」なので、「なんだ、最新作ではないのか」とがっかりされる方がおられるかも知れません。但し、私としては、少しラッキーだった側面もあります。作品を批評するには、作品の中味に触れない訳にいきません。最新作だと、そのネタバラシのようなことになってしまうのが、気になるところです。しかし、前作になったということで、遠慮なく論評させていただくつもりです。気になったもう一つの記事は、1歳4か月の女児が、悪霊払いとも言われていますが、実質的には虐待によって、死亡したという記事です。21世紀の日本でも、実は、そういうことが起こるんですね。

さて、このブログでは既に横光利一武田泰淳の小説を取り上げていますが、どちらも結構昔の人なんですね。ここらで、現代の小説についてもやってみたいという気持ちから、今回は、村上春樹の作品を解体、いや読解してみようと思った訳です。但し、これがなかなか手強い。村上作品というのは、結構、スラスラ読める。難しい漢字もあまり出て来ない。しかし、読み終わった後で、「これって、一体何?」という違和感と言うか、虚しさのようなものを感じる。ハルキストと呼ばれる熱烈なファンが多いのは事実ですが、一方、アンチ村上春樹という人も少なからずいるようです。このような現象の理由も、少し考えてみたいと思っています。

もう一つ。現在の日本では、「作家論」が中心であって、「作品論」は少ないように感じています。作家論とは、作品のみならず、その作者の私生活などを含めて、研究の対象とするものです。現代文学理論という本(文献1)には、このような記載があります。

「文学研究の主流は、『実証主義的文学研究』といわれるものであった。研究の中心は、何よりも作者の伝記的事実に関心を集め、実生活の細部を探り出すことであった。伝記的情報を蓄積すれば作家の本質をつかむことができると考え、作品の意味は、作家の伝記的事実の中で解き明かされたのである」。

私は、上記のような考え方には、賛成しかねるんです。例えば、人種差別が行われていた時代のアメリカでは、優れた芸術作品があっても、その作者が黒人だった場合、その作品は黙殺されたのではないでしょうか。私は、黒人のミュージシャン、マイルス・デイビスを尊敬していることもあって、つい、そのようなことを考えてしまうのです。また、仮に取るに足らないような、平凡で、つまらない人生を送っている人がいたとして、しかし、その人が芸術的に優れた作品を作ったとします。その作品は、正当に評価されるべきではないでしょうか。折り合いのつかない現実、実生活というものがあって、自由を体現できるのは、作品の中だけだ、という人も少なくない。このような場合を念頭に置くと、私としては、作者と作品というのは、基本的には、分けて考えるべきだと思うのです。しかしそのためには、作品を評価する手法が確立される必要があります。そういうことができないだろうか、というのも、この原稿の隠れたテーマである訳です。

私のように考えたかどうか分かりませんが、文献によれば、前述の「実証主義的文学研究」の次に、「作品論」が登場します。

「作家の時代の次に到来したのは、作品そのものへの注目の時代であった。1950年代にアメリカを中心に確立する『新批評』(ニュー・クリティシズム)である。作者から切り離された作品は、独立性を勝ち得ることにより、その自律性が声高に宣言される。作者の伝記的事実をはじめ、あらゆる作品外の情報は切り捨てられ、一つの閉じた世界としてテクストが精読された」。(文献1)

なるほど、そうだなあと思う訳ですが、文献1によれば、ニュー・クリティシズムの後に「読者の時代」というのが到来したそうです。

「読者とは、文学作品を読み次世代へバトン・タッチするだけの受動的な役割を担っている者ではない。読者とは、何よりも能動的存在であり、読む行為により、積極的に文学作品の具体化に関わっているのである。文学作品とは、それ自体で成立する客体ではなく、読者の読みにより、初めて姿を現わす何かなのである」。

こうなってくると、私にもちょっと分かりません。とりあえず、私の立場は、「作家論」ではなく、「作品論」であるということにしておきましょう。

(参考文献)
文献1: 現代文学理論/土田知則 他/新曜社

No. 75 雑感とブログタイトル変更のお知らせ

武田泰淳の「ひかりごけ」には、人肉喰い(カニバリズム)に対する強烈な嫌悪感という集団の無意識を背景として、全人格が否定される個人(船長)が描かれていました。今どきそんなことはない、と思われる方もおられるでしょうか。確かに、最近はカニバリズムについての話は聞かなくなりました。しかし、出来事の本質は、今でも変わらないと思うのです。例えば、最近こんな話がありました。福島から避難してきた子供が、避難先の学校でイジメを受けているというのです。放射能に対する恐怖感という集団の無意識があって、想像力の不足した人たちが、特定の個人を攻撃する。性的なマイノリティーの人たちを最近ではLGBTと言うようですが、これらの人たちも差別を受けている。アイヌ民族の人々も、未だに差別を受けていると感じています。本質的には、皆、同じメカニズムが働いていると思うのです。

ひかりごけ」という作品は、武田泰淳という作家の直観が、集団の無意識を真っ向から否定した作品であると言えます。

少し戻って、小川国夫の「葦の言葉」では、ドストエフスキーの小説、「悪霊」に登場するキリーロフという人物が、ロシア人にとっては肉体化している観念である聖人譚に従って自殺する、ということが述べられていました。ここでは、集団の無意識がキリーロフの直観を支配していた。

このように、人間の直観と集団の無意識の間に存在する緊張関係というものが、浮かび上がってきたように思います。

こうしてみますと、このブログで扱ってきた私の文化論、芸術論は、No. 57に掲載致しました“芸術を生み出す心のメカニズム Version 3”というチャート図に集約されますが、一応、完成したように思います。

多少の充実感と共に、何だ、そういうことだったのか、という虚脱感もあります。文化とか芸術と言っても、それで天国へ行けたり、人間の存在理由が分かったりすることはありません。そして、このブログをどうするかということを思案した訳です。まとめの記事を書いて、終わりにするという選択肢もあります。しかし、それでは7か月も掛けてこのブログを書き、ニヒリズムに到達して終わることになってしまいます。(ニヒリズムは、到達点ではなく、出発点であるべきだ、というのが私の持論でした。)

そこで、ブログタイトルを変更して、もう少し続けてみることにしました。新たなブログタイトルは、「文化で遊ぶ」というものを予定しています。

「遊ぶ」という言葉は、少し不謹慎に聞こえるかも知れません。しかし、いい加減に遊ぶという意味ではありません。文化によって人間の存在理由が分かったりするようなことはないけれども、それでも人間には文化が必要なんだ、それで遊ぶのが人間なんだ、という気持ちを込めて、このタイトルにしたいと思うのです。

今後の記事の掲載予定ですが、当面、文学のフィールドで記事を掲載していきたいと思っています。但し、今後はもう少し肩の力を抜いて、やっていこうかなとも思っています。

No. 74 武田泰淳の「ひかりごけ」を読む(その2)

この作品を読んで、まず、読者の脳裏に強烈な印象を残すのは、第2部、すなわち洞窟のシーンではないでしょうか。登場人物が一人、また一人と死に、残った者がその肉を食べて生き延びる。言うまでもなく、人肉喰いに対する言いようのない嫌悪感というものは、現代に生きる日本人に共通する無意識であり、価値観です。それらに真っ向から挑むシーンが、ここで語られる。しかし、やがて私たち読者は、ある問いに向き合わされる。極寒の知床半島で、飢餓と向き合うという極限状況の中で、それは許されないのか? もし、自分だったらどうするだろう? 自らそう尋ねてみる読者の方もおられることと思います。そして、船長は「我慢している」と述べます。一体何を我慢しているのか、そんなことは分からないとも言います。当事者としては、確かにそうでしょう。空腹や寒さを我慢している。助かるあてのないことを我慢している。しかし、第三者である私からしてみれば、暖かい部屋で、コーヒーを飲みながら今、こうして原稿を書いている私の眼からすれば、根源的には、生き延びたいと願う本能と、人肉を食べることから生ずる嫌悪感との相克について、船長は我慢していたのだと思います。そんな船長の心情を察すると、簡単に彼を責めることはできない、という思いに行き当たります。

第3部の法廷におけるシーンでは、検事から容赦のない批判の言葉が船長に浴びせられます。そして船長は再び、「私は我慢しています」と述べる。この言葉は、第2部でも述べられているのですが、その意味は、少し変化しているように思います。もちろん、人間存在の矛盾や罪深さについて“我慢している”という意味では同じなのですが、法廷で述べられるこの発言には、極限的な状況を経験していない検事やその他の人々から裁かれるという理不尽さについても、“我慢している”という意味が付加されていると思うのです。

ここまでで、半分程度はこの小説を理解できたと思うのですが、ラストシーンで検事、裁判長、弁護士、傍聴人に至るまで、人々の首の後ろに光の輪が現われるということの意味は、まだ、分かりません。そこで、作家がこの作品に潜ませたストーリー・ラインを読み解く必要が生じます。そのきっかけは、第2部から始まるのです。八蔵が西川にこう述べる。「おめえの首のうしろに光の輪が見えるだ。(中略)昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首の後ろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと」。

つまり、首の後ろに光の輪が現われるということは、その人が人肉を喰った、もう少し普遍化すると、その人が罪人であることを象徴しています。従って、ラストシーンで人々の首の後ろに光の輪が現われるというのは、それらの人々が罪人であることを意味している。では、明らかに人肉を喰ったことのない検事や裁判長が、どんな罪を犯したというのでしょうか。その意味を読み解くには、中学の校長がヒントになると思うのです。第1部から校長の発言を引用します。

「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやってきたんですからね。全く凄い奴がいますよ」
彼はそう言って、おかしくてたまらぬ風に、笑いを吹き出しました。

極限状況の中で苦悩した船長の心情について、この校長は何も理解していないんです。この校長には、想像力というものが不足していると思いませんか。だから作家は、第3部において、船長役を演ずる役者が、この校長に似ている必要があると述べているのだと思います。つまり、そんな無自覚な校長だって、その本質は船長と何ら変わらないのだと、武田泰淳は主張している。もう少し、普遍化してみますと、人肉喰いという集団の無意識が嫌悪する行為があって、しかし、やむを得ない状況の下、それを行ってしまった船長がいる。誰も、彼を否定することはできない。しかし、想像力が欠如した無自覚な人々が、船長を非難する。船長の全人格を否定する。もちろん、裁判の判決を書くのは裁判官ですが、その他の人々も心の中で、船長を断罪している。集団の無意識がそういう愚かなことを引き起こすんだ、そして、誰もがその加害者になり得るんだ、ということを武田泰淳は表現していると思うのです。

そして、この作品の最大のクライマックスは、エンディングではなく、第1部に描かれていると思うのです。“話し手”が校長に案内されて、“ひかりごけ”を見に行くシーンです。辺り一面に、普通の苔が生えている。それらの苔は、普段は光らない。しかし、何かのはずみで、光り出す。その光は、人肉を喰った人間の首の後ろに現れる光の輪と良く似ている。つまり“ひかりごけ”とは、罪深く、愚かな私たち人間を象徴している。作家の直観が、このシーンを生み出したとしか、言いようがありません。

武田泰淳の「ひかりごけ」は、新潮文庫で読むことができます。ご興味のある方は、是非、お読みください。

No. 73 武田泰淳の「ひかりごけ」を読む(その1)

前回の原稿で、「異類婚姻譚」という集合的無意識を背景とした、“鶴女房”という昔話を取り上げました。その延長線上で、もう少し新しい、集合的無意識を背景とした小説について検討しようと思ったのですが、そこで思いついたのが、表題の「ひかりごけ」だったという訳です。これは武田泰淳(1912~1976)の短編小説で、戦時中、難破船の船長が食人を行うという実際の事件を題材としています。この食人に対する嫌悪感というものは、普遍的で、集合的無意識に該当するのではないか、というのが私の見立てです。しかし、私の集合的無意識に対する解釈が拡大しつつあるのも事実で、言葉本来の意味を逸脱するかも知れません。そこで今後は、集団の無意識とか、集団の価値観と呼ぶことに致します。

さて、「ひかりごけ」ですが、これが当初の想定を超えて複雑で、難解なんです。様々な伏線が張られ、登場人物の発言は抽象化され、もしくは何かを象徴している。しかし前回同様、ストーリー・ラインに分解し、集団の無意識、作家の直観をキーワードにこの作品を解体することが可能ではないか。そういう気構えで、挑戦してみます。

この作品は、3部構成になっています。最初は、小説のスタイルで書かれており、話し手が羅臼を訪れ、この奇妙な事件を知るまでの経緯が記されています。そこで、事件の概要までが明らかにされます。その上で、事件の生々しさを排除するという目的で、また「上演不可能な戯曲」であるという前提のもと、第一幕が洞窟の中、第二幕が法廷のシーンという形で進行します。ストーリー・ラインを読み解くために必要最小限の要素をピックアップしたつもりなのですが、“あらすじ”が少し、長くなってしまったことはご容赦ください。

(あらすじ)
話し手は、9月に知床半島羅臼を訪れる。
中学の校長に案内され、“ひかりごけ”を見に行く。校長は「何の警戒心も反感も起こさせない、おだやかではあるが陰気でない人物」である。2人は「洞窟というよりは、奥に行くほど急にすぼまる、山腹のへこみ」へやって来る。「岩壁も地面も濡れて、水滴をしたたらせる。緑色のこけが、岩肌にも地面にも生えていますが、光る模様もない」ということで、2人はなかなか“ひかりごけ”を発見できない。あきらめかけたその時、「投げやりに眺めやった、不熱心な視線のさきで、見飽きるほど見てきた苔が、そこの一角だけ、実に美しい金緑色に光って」見える。結局、光の反射の加減や見る角度によって、苔が光って見えるのである。「何だ、みんなそうだったんですね」と校長が言う。そして帰り道、校長が“事件”について、語り出す。「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやってきたんですからね。全く凄い奴がいますよ」と言う。話し手は、校長に紹介されたS青年と会い、彼が編纂した「羅臼郷土史」を譲り受ける。その郷土史に、“事件”の記述があった。

大東亜戦争酣たりし昭和19年12月3日早朝、急務を負いし船団「暁部隊」は、知床経由、小樽港に向け根室港を出帆した」。郷土史の事件に関する記述は、このように始まっている。間もなく天候が急変し、嵐となる。船団は7隻~9隻で構成されていたが、その中の一隻、第五清神丸の機関部が故障し、難破してしまう。第五清神丸には、船長以下、7名の船員が乗っていた。海が荒れていて船を陸地に着岸させることができなかったので、まず、泳ぎの達者な青年が胴体にワイヤーを括り付け、陸地に辿り着き、追って他の船員もそのワイヤーにつかまりながら、陸地まで泳いで渡った。陸地に着いた一行は、励ましあいながら、歩き出し、山小屋に辿り着く。但し、何人の船員が小屋に辿り着いたのかは、判然としない。その小屋は、漁民が春はウニ、夏はコンブを採取するために宿泊し、冬は打ち捨てられているものだった。幸い、小屋の中には、マッチと手ごろな燃料が置かれていた。

船長が羅臼から21キロ離れたルシヤに姿を現したのは、航海から2か月後、昭和20年2月3日である。同年5月上旬、ウニ採集のため訪れた漁民が、リンゴ箱に詰められた人骨を発見し、事件が明るみに出る。船長の自白によれば、小屋に辿り着いたのは、彼と西川青年の二人だけであった。やがて、西川青年が死に、船長はその死体を食べた。しかし、「羅臼郷土史」の作者であるS君の「想像」は、異なっていた。S君によれば、西川青年と船長は、遂に発見されることのなかった3名の死体を食用に供し、最後に船長が西川青年を食べる目的で、殺害したとのこと。

戯曲の部 第一幕
登場するのは、以下の4名。
船長
船員西川
船員八蔵
船員五助

小屋は解体し、暖を取るための薪にしたため、一同は、洞窟の中にいる。
体力の弱った五助が「おらが死にたくねえわけはな。おら、おめえたちに喰われたくねえからだ」と述べる。間もなく五助は死亡し、船長と西川がその死体を食べる。八蔵は、生前の五助と約束したため、五助の死体を食べない。八蔵が西川にこう述べる。「おめえの首のうしろに光の輪が見えるだ。(中略)昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首の後ろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと」。やがて、八蔵が死に、その死体を船長と西川が食べる。洞窟の中には、船長と西川の2名だけが残される。船長に殺されるのではないかという恐怖感から、西川は眠ることができない。西川に気持ちを尋ねられた船長は、次のように述べる。「おめえは自分で、何が一体せつねえだかわかったか、寒いのがせつねえだか、腹がへるのがせつねえだか、それとも仲間の肉を喰ったのがせつねえだか、助かるあてのねえのがせつねえだか、わかっか。わかるめい。わかるはずはねえだ。なあんもかんも入れまぜでせつねえだべ。何がせつねえのか、わかんねえくれえせつねえだべ。俺だってそうよ。俺だって、何を我慢してんのかわからねえくれえ、我慢してんのよ」。西川は、船長に喰われないよう海に身投げしようとするが、船長はこれを押しとどめ、殺害し、死体を食べてしまう。

戯曲の部 第二幕 法廷の場
脚注において、船長の顔が、筆者を洞窟に案内した、あの中学校長の顔に酷似している必要があると述べられている。
検事は、次のように述べる。「三名の被害者は、それぞれ程度の差こそあれ、人間的反省、人間的苦悩を示して死亡したのに反し、只一人被告のみは、最後まで、何ら反省も苦悩もすることなく生き残った。あまつさえ、犯罪発覚後も、平然としてその罪を後悔する様子が見えない」。検事に心情を述べるよう指示された船長は、こう述べる。「私は我慢しています」。以降、検事の尋問と船長の回答は嚙み合わない。やがて、船長はこう述べる。「あなた方と私は、はっきり区別できますよ。私の首のうしろには、光の輪がついているんですよ。よく見てください」。脚注に、こう記される。(検事の首のうしろに光の輪が点る。次々に、裁判長、弁護士、傍聴の男女にも光の輪がつく。互いに誰も、それに気づかない。)船長が、「見て下さい。よく私を見て下さい」といって、物語は終わる。

No. 72 物語を解体する

先日、明け方に目が覚めてしまいました。ぼんやりしながら、少し水を飲み、ベッドに腰かけて煙草に火をつけました。何故か、「鶴の恩返し」のことを考えているのです。それに関連した夢でも見たのでしょうか。そこは、はっきりしません。結局、あの物語は何を語っているのだろうか。子供だったら、どうだろう。可哀想な鶴の物語ということでしょうか。多分、今でも絵本の読み聞かせでこの物語に接し、泣き出してしまう子供もいるのではないでしょうか。それだけ、この物語にはインパクトがあると思うのです。

物語の原型では、老夫婦ではなく、青年の元に鶴がやって来て結婚することになっています。このパターンの物語は、通常、“鶴女房”と呼ばれています。このように、人間と人間以外の存在が結婚するという話は、異類婚姻譚と言います。この話については、このブログのNo. 11でも検討しました。その際の私の結論は、妻と死に別れた男性が、自らを慰めるために作った物語である、ということでしたが、何か、釈然としない。

翌朝、それとはなしにネットで調べていると、偶然、面白い記事を見つけました。Wikipediaの“異類婚姻譚”という項目を見ると、関敬吾という人の説が記載されています。すなわち、異類婚姻譚は世界中に存在し、その共通する構成は次の通りであると。ここでは、例示の方を引用させていただきます。

1.動物を助ける。
2.動物が人間に化けて訪れる。
3.守るべき契約や規則がある。
4.富をもたらす。
5.正体を知ってしまう。
6.別離

なるほど。“鶴女房”もまさにこの通りだなあ、と私は感心したのです。

しかし、ここには6つの項目が記載されているので、いわゆる起承転結ではありません。例えば、“桃太郎”であれば、起承転結で説明がつきます。

起・・・桃から桃太郎が生まれる。
承・・・桃太郎が、丈夫で力持ちの少年に成長する。
転・・・鬼が村人に悪さをする。
結・・・桃太郎が鬼をやっつける。

一体、何が違うのでしょうか。そこで、もう一度、異類婚姻譚の6項目を眺めてみる。すると、これらの項目は、物事の原因に関わる項目(以下“原因系”といいます)と、その結果に関わる項目(以下“結果系”といいます)に分類することができるように思ったのです。例えば、動物を助けるのは良いことですね。だから、その結果として富を得る。動物が人間に化けて現れる訳ですが、いずれ正体がばれてしまう。守るべき規則を破ってしまうから、別離が訪れる。原因系をアルファベットの大文字で、結果系を小文字で表わして、6項目を並べてみると次のようになります。

A → B → C → a → b → c

なんと原因系と結果系が、アルファベットの順番通りに並ぶではありませんか! ちょっと、“鶴女房”に置き換えて、記載してみます。

A 青年が鶴を助ける。
B 鶴が人間の女性に化けて、青年を訪れ、二人は結婚する。
C 鶴は、機織りをする場を決して覗かないでくれと頼み、青年は承諾する。
a. 鶴が織った反物を売り、青年は裕福になる。
b. 青年は、鶴が機織りをしているところを覗き、鶴の正体を知ってしまう。
c. 鶴は大空へ飛び立ち、二人に別離が訪れる。

確かに、アルファベット順なんです。そして、この物語には、3つのストーリー・ラインがあることが分かります。例えば、A → a. だけを見れば、動物を助けると、いいことがありますよ、という教訓めいた話であると解釈することも可能です。3つのストーリー・ラインがあるので、少なくとも3種類の解釈が成り立つんですね。

桃太郎の場合は、ストーリー・ラインが一つしかありません。だから、起承転結が成り立つ。しかし、“鶴女房”には3つのストーリー・ラインがあるので、起承転結とは異なる構成になっている。また、複数のストーリー・ラインを持たせることによって、話が立体的になっているんだと思います。例えば、円錐の物体がある。真上から見ると、それは円形です。真横から見ると、三角形に見える。このように、“鶴女房”という物語は、見る角度によって、異なる解釈が可能となるように構成されているのです。

もう一度、上記“鶴女房”の6項目を眺めてみましょう。何か、足りないと思いませんか? これだけでは、絶対に子供は泣きません。この物語の中核的なイメージを構成する、鶴が自らの羽を抜いて機を織るという行為が抜けているのです。この自傷行為があるから、感動が生まれる。何故、抜けているのか。それは、関敬吾という人が説明した構成は異類婚姻譚の一般論で、“鶴女房”の自傷行為は、この物語に固有のものだからではないでしょうか。そして、この自傷行為は、物語の作者の直観によるものだと思うのです。もちろん、“鶴女房”は、永年語り継がれた物語であって、その作者は複数人いることと思います。しかし、いつか、誰かの直観が働き、この自傷行為が生まれたのではないでしょうか。では、自傷行為を上記の6項目に挿入してみます。

A 青年が鶴を助ける。
B 鶴が人間の女性に化けて青年を訪れ、二人は結婚する。
C 鶴は、機織りをする場を決して覗かないでくれと頼み、青年は承諾する。
直観・・・鶴は自らの羽を抜き、機を織る。
a. 鶴が織った反物を売り、青年は裕福になる。
b. 青年は、鶴が機織りをしているところを覗き、鶴の正体を知ってしまう。
c. 鶴は大空へ飛び立ち、二人に別離が訪れる。

いかがでしょうか。これでようやく、“鶴女房”の構成をまとめることができたように思います。直観に基づく自傷行為は、丁度、原因系と結果系の中間に位置しており、以降、物語はたたみかけるように、結果系へと進展していくんですね。物語の構成として、いかがでしょうか。私には、ここに究極的な形があるように思えてならないんです。

さて、このブログの前回までの原稿で、芸術を構成する重大な要素として、直観と集合的無意識があるのではないか、ということを述べてまいりました。この原則は、“鶴女房”にも当てはまると思うのです。異類婚姻譚というのは、集合的無意識の現われであって、そこに直観に基づく自傷行為が加わり、この傑作が誕生したのだと思います。この2つの要素を理解すれば、物語や小説の本質を見ることができるのではないでしょうか。例えば、“鶴女房”の本質は、次のように述べることができます。“鶴女房”とは、人間に変身した鶴が自らの体を傷つけることによって、夫に尽くした献身の物語である、と。