文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 92 ポストモダンよ、さようなら!

昨日、アメリカの原子力空母、カールビンソンとその一団が朝鮮半島に向けて出発したというニュースがありました。その後、北朝鮮がこれに強く反発しているという情報もあります。小心者の私は、このニュースが気になって仕方がありません。アメリカがシリアへミサイルを発射したということもありますが、距離的にシリアは遠い。しかし、北朝鮮となると話は別です。とにかく、近い! 何かが起これば、日本にミサイルが飛んで来る可能性がある。

アメリカが保有する最新型のミサイルで、北朝鮮の核施設をピンポイントで攻撃し、それで紛争が終結すれば良いのですが、どうもそうはいかない。北朝鮮は一部の軍事施設を地下に隠し持っているようですし、ミサイルの発射台も移動式のものを開発している。従って、軍事衝突が起こった場合、それが長期化し、全面戦争に発展する危険がある。

北朝鮮のミサイル技術がこれ以上発達すると、核弾頭を搭載したミサイルがアメリカ本土に届いてしまう。アメリカにとって、これはもう他人事ではなくなっている。それに、カールビンソンまで展開して、成果なしでは済まされないような気がします。例えば、カールビンソンが引き上げた直後に北朝鮮が核実験でも行なおうものなら、これはもうトランプ大統領のメンツが丸潰れということになります。アメリカは用意周到な国なので、そのような事態が生ずるとは、考えられません。結果、アメリカの側に譲歩の余地は少ない、と言えます。

一方、北朝鮮側は、国家の維持、発展というよりは、金正恩個人が生き延びることを目的としているような気がします。仮にアメリカの軍事的脅威に屈した場合、北朝鮮国内での統率が乱れ、金正恩が失脚するリスクが生ずる。そうしてみると、北朝鮮の側にも、譲歩の余地は少ない。加えて、中国は北朝鮮に対する影響力を失いつつある。

私は、専門家でも預言者でもないので、今後どうなるのかは分かりませんし、無責任な発言は控えたいと思うのですが、状況が相当、切迫していることに間違いはなさそうです。

では上記の現実に、私という個人はどう対処すれば良いのか。そう思うのですが、どうも私に関与できることは、何もない。私どころか、日本政府ですら、重要な意思決定に関与できる可能性は低い。多分、日本政府は軍事衝突が勃発した場合、韓国内の日本人をどう救出するか、北朝鮮から難民がやって来た場合にどう対処するか、既にシミュレーションは実施済みでしょう。しかし、決定的な意思決定について、その権限を持っているのは、トランプ大統領と金正恩の二人だけなのかも知れません。しかし、その決定には、私たち日本人の誰もが多大な影響を受ける。

このような時に、ポストモダンだとか、ディタッチメント(detachment/分離、無関心)などと言ってはいられないような気がします。

確かに、現実は遠のいてしまったと思うのです。カールビンソンって、私の想像を絶する程、巨大なんでしょうけれども、現実に、それが北朝鮮近海を目指して、今も北上を続けている。そこから戦闘機が飛び立ち、またはミサイルが発射される可能性がある。このように遠くに感じられる現実を認識するには、どうすれば良いのでしょうか。それは、想像してみる以外にないと思うのです。想像力を回復し、遠ざかってしまった現実を引き戻す努力が必要なのではないでしょうか。

随分前のことですが、こんなことがありました。

その晩、私は都内でお酒を飲んで、電車で帰宅する途中でした。降車駅の手前に踏み切りがあって、先頭車両がそこに差し掛かる辺りで、列車は急ブレーキを掛け、続いてガタンという衝撃がありました。ここまで言えば、何が起こったのか、大概の方は想像がつくのではないでしょうか。

降車駅はすぐそこにあるのですが、列車はなかなか動きません。暑い最中のことだったように記憶しています。エアコンも止まり、誰かが窓を開けました。多くの人たちは、黙りこくっていましたが、談笑している人たちもいました。時折、むせかえる社内に笑い声が響いていました。20分程停車した後、やっと列車は動き始めました。丁度踏切を通過する時、私はいたたまれない気持ちになりました。列車の床の鉄板一枚を隔てたその場所で起こったことを想像していたからです。しかし、その瞬間にも談笑は止まらないんです。笑っている人たちがいたんです。

翌日の朝刊の地方欄に、小さな記事が載りました。踏切近辺で、飛び込み自殺があったとのこと。亡くなられた方は、確か、30代の男性だったように記憶しております。

今日、インターネットでこのような記事を見つけました。「福島第一原発事故などの影響で、福島県から避難した児童生徒へのいじめは、2016年度だけで129件にのぼる」とのことです。

ディタッチメント(無関心)というメンタリティが、人々の想像力を低下させているのであれば、私たちはそろそろ、そのようなメンタリティを卒業すべき時期に来ていると思うのです。

No. 91 ポストモダン/ 遠い現実、近づくエンターテインメント

“希望”というのは、いい言葉ですよね。私の記憶では、ジョン・レノンも希望を失うな、と言っていました。これは近代思想の時代のメンタリティと深い関係があるように思うのです。例えば、ジョンは、世界を平和にするという“希望”を持っていた。その“希望”を実現するために様々な活動をして、結果、アメリカのFBIと移民局を敵に回すことになった。仮に、奴隷のような状況に置かれている人であれば、“希望”を失っては生きていけない。しかし、現代の日本において、“希望”なんていうものは、うっかり持たない方がラクなのかも知れません。

例えば、クルマが欲しいと思う。しかし、クルマを購入して維持していくためには、相当なお金がかかる。それだけのお金を稼ごうと思ったら、大変な仕事量をこなさなければなりません。それは、嫌だ。では、いっそのこと、「自分はクルマを欲しがっていない」ことにしよう。そんな若者が増えているのではないでしょうか。これが、ポストモダンに共通するメンタリティであるような気がします。もう少し普遍的に言えば、ポストモダンの世代というのも、本音では、共同体や他人、現実世界とのつながりを求めているのではないかと思うのです。しかし、それは遠い存在で、なかなか手を伸ばしても届かない。それでは、関係性の構築というのを望まない、あきらめてしまった方がラクだ、という心理状態にあるのではないかと思うのです。

人間は、生まれてきてまず“感覚”という心的機能を獲得する。そして、現実世界における経験を重ねることによって、意識(思考)なり、個人的無意識(感情)という心の領域を獲得していくのだと思うのですが、現実世界との関わりが希薄になると、心の領域も拡大していかないのではないでしょうか。だとすると、ポストモダンのメンタリティというのは成熟せず、“心の課題”に辿り着かないと思うのです。これらの前提が正しければ、ポストモダンのメンタリティは、近代的な意味での“芸術”を産み出さない。

以前、村上春樹の小説を取り上げて、「作家が直面している“心の課題”が見えない」というようなことを申し上げましたが、その理由がここにあるように思います。すなわち、ポストモダン世代の村上春樹という作家は、近代の芸術家が抱えていた“心の課題”というものを持っていない。

このように考えますと、ジョン・レノンも、ジミ・ヘンドリックスも、ジャニス・ジョップリンも、私が愛したロック・ミュージシャンたちは、皆、近代のメンタリティを持った人たちだったことが分かります。しかし、時代は変わった。時代のメンタリティが変わった。だからもう、あの頃のロック・ミュージックというのは、出て来ないんですね。

ところで、北朝鮮がミサイルを発射し続けています。在日米軍がターゲットだ、などと主張していますので、もしかすると日本の国土に着弾する危険もあります。その場合の被害規模について、シミュレーション結果に関する記事がありました。これが、現実だと思うのです。しかし、そのような現実に対して、私たちにできることはあるでしょうか。多分、ないんです。現実世界というのは、どんどん私たちから遠ざかっていて、もう、ほとんど手の届かない所へ行ってしまったように感じます。一方、エンターテインメントは、どんどん私たちに近づいている。最近は、You Tubeのコンテンツも充実しています。スマホのゲームアプリというのも、相当数にのぼるのではないでしょうか。エンターテインメントというのは、大体、仮想現実だと思うのですが、そちらの方がリアリティを持って私たちに近づいてくる。

こんな時代に、どう対処すれば良いのでしょうか。そんなことを考えます。

結論を言えば、以下の3つの条件を守ること。あとは、エンターテインメントで遊んでいれば良い、というものです。

第1条件は、日本国憲法に記された基本的な理念については、その理解に努めるということ。前にも述べたかも知れませんが、近代思想というのは、音楽や文学の世界で結実した訳ではないと思うのです。その最大の成果物は法律、とりわけ最高法規である日本国憲法にあるのではないかと思うのです。憲法と言うとすぐに9条の論議になり、左翼思想と結びつけて考えられがちですが、日本国憲法には個人の尊重(13条)や思想及び良心の自由(19条)などの重要な規定があります。私が呑気にこんなブログを運営していられるのも、それは憲法によって、言論の自由が保障されているからだと思うのです。

第2条件は、国政選挙には行くということ。選挙で投票したからと言って、すぐに現実世界が変わる訳ではありません。しかし、選挙で投票するということは、すなわち現実世界に手を差し伸べようとすることだと思うのです。最近は、ポピュリズム大衆迎合主義)などと言って、民主主義の正当性を疑うような論議もありますが、それでも独裁政治よりは民主主義の方が何倍も素晴らしいと思うのです。

第3条件は、原発の問題から目をそらさないということ。原発から生み出される汚染廃棄物の処分方法は、未だに確立されていないようです。あの福島で起こった事故を見るにつけ、これは人類の手には負えないなと率直に思うのです。先般、アメリカの政治家が「日本がその気になれば、すぐにでも原爆を作ることができる」というようなことを言っていました。日本は原発の技術を持っているので、それを転用すれば原爆も作れる、という意味だと思います。しかし、日本は原爆なんて持たなくても良い、と私は思うのです。積極的に反原発の活動をしている訳ではありませんが、この問題からは目を離さない、問われれば「私は原発には反対です」と答える。そういう気持ちだけは、明確に持っていたいと思うのです。

いかがでしょうか。私の場合、上記の3条件をクリアすれば、あとはエンターテインメントで遊んでいれば良い、と思っているのです。

No. 90 ポストモダンと無文字社会のメンタリティ

ポストモダンという時代においてマジョリティを占める心の機能は“感覚”で、それは無文字社会においても同じだった。だから、両者には親和性があると思うのですが、この点をもう少し考えてみます。

神話、民話、童話などを総称して、このブログでは“物語”と呼んできましたが、そういうものは、今でも沢山あります。マンガやファンタジー小説、それに映画ではハリーポッターとかアナと雪の女王などがヒットしました。無文字社会における“呪術”については、現在でも誕生月別、血液型別、星座別などの占いが盛んです。ファッションについても、最近はコスプレなどと言って、突拍子もない格好をした若者がいますが、これも未開部族の戦士などと、どこか似ています。

その程度のことであれば、気に留めるまでもないかも知れません。しかし、このブログのNo. 15にも記載したのですが、マレー人においては“アモク状態”と呼ばれ、イワム族では“アムック”と呼ばれるケースがある。「かれは、休みなく飛び跳ね、武器を取り、狂ったように走り出し、出会った人々に見境なしになぐりかかっては殺してしまう」と報告されています。これって、現代の通り魔殺人に似ていないでしょうか。そして、殺人犯は決まって、「人を殺してみたかった」「誰でもよかった」などと言います。日本で最初に通り魔殺人が発生した時には、マスコミも大騒ぎしたような記憶があります。しかし、最近では、決して珍しいことではなくなったような気がするのです。アメリカでも、銃の乱射事件が後を絶ちません。感覚を頼りに生きている人間に、共通した現象ではないかと思うのです。最早、殺人事件の被害者ですら、交換可能な時代になった。

また、モラルも低下しているように思います。宗教国家の時代にあっては、共同体が個人に目を光らせていた。近代思想の時代にあっては、ロジックによって正しいことと、そうでないことを判断していた。それが、“感覚”に依存する社会になり、人々を制御する心の機能というものが、麻痺し始めている。最近になってようやく、人々はそのことに気づき始めたように思うのです。セクハラ、パワハラはいけないことだ、と教育を始めた。もちろん、教育するのは良いことだと思いますが、どこまで効果があるのか疑問でもあります。

今、世界的にうつ病が蔓延しているそうですが、これも“感覚”に依存する人々のメンタリティと無関係ではないと思います。

このように考えますと、現代を生きる我々には、自らの身を守るリスクマネジメントが必要だと思います。

無文字社会の文化を順に考えて行きますと、“呪術”の次は“祭祀”ということになります。それは熱狂的で、最終的にはトランス状態にまで至っていた。そんな文化が、現在もあるでしょうか。確かに、今日でもライブハウスやコンサートホールが沢山あって、人々は熱狂しているようにも見えます。しかし、トランス状態にまでは至らない。コンサートが終れば、人々は翌日の学校や仕事のことを思い出し、青白い顔をして家路を急ぐ。

ここまで来てやっと、ポストモダン無文字社会の相違点が見えてきました。現代に生きる我々は、地球が回っていることを知っている。雷や地震があっても、何故それらの自然現象が発生するのか、そのメカニズムを知っている。だから、トランス状態になる必要はないんです。音楽に熱狂すると言っても、それはエンターテインメントとして楽しんでいるに過ぎず、どこか冷めているんだと思うのです。全存在を掛けて三日三晩踊り続け、トランス状態になって精霊の声を聴く必要があった未開人と現代人の違いがここにあるように思うのです。

このように考えますと、同じ“感覚”に依拠してはいるものの、ポストモダンのメンタリティというのは、かつて人類が経験したことのない、まったく新しい心理状態であると言えそうです。だとすれば、ポストモダンの人々が無文字社会のメンタリティを希求したとしても、そこに救いはないことになります。

No. 89 ポストモダンと情報

前回までの原稿で、“近代思想の時代”がいかに幕を下ろしたのか、そこまでは整理できたように思いますが、ポストモダンから今日に至るまでの時代性については、必ずしも検討し切れていないと思うので、ここにフォーカスして、もう少し考えてみます。なお、ポストモダンという言葉に厳密な定義はありませんが、ここでは大雑把に言って1975年以降で今日に至る時代区分、というイメージでご理解ください。

さて、この時代に生きる私たちのメンタリティに強い影響を及ぼしているのは、情報ではないかという気がします。特に、インターネットやスマホがもたらす情報量の急激な増加、という問題があると思うのです。グローバリズムの進展に伴って、外国の情報まで私たちの元へ沢山届くようになった。仮にこれを「横の拡大」だとすると、「縦の拡大」というのもある。これは情報のデジタル化によって過去の情報が良い状態で保存される、という意味です。本もそうですし、音楽もそうですね。例えば、1960年代には、ビートルズローリング・ストーンズなどという特集番組が、ラジオで流されていました。当時、有名なロックバンドって、この2つ位しかなかったんです。今にして思えば、古き良き時代ですね。今ではどうでしょうか。メジャーデビューを果たしているロックバンドというのは、数百、いやもっとあるかも知れません。一方、ビートルズのCDがなくなるかと言えば、そんなことはない。今でも売っている。リマスターなどと言って、むしろ当時よりも音質が良くなったりしているんです。文化というのは、正に積み木のようなもので、過去のものがなくならない。従って情報量というのは、増え続ける一方なんです。どう考えても、情報が多すぎる。この情報過多という現象に、私たちの心はどう対処しているでしょうか。

情報処理・・・仕事でもそうですが、多すぎる情報に、いちいちロジックで対処することはできない。現在は、そういう時代だと思います。例えば、会社で使っているパソコンに、新しいアプリケーションが導入される。時には、OSがバージョンアップされる。そんな時、いちいち説明書など読んでいる時間的な余裕はない。そこで活躍するのが、“感覚”だと思うのです。PCに抵抗感のない若い人は、なんとなくいじっているうちに、そのシステムを理解してしまう。

情報選択・・・多すぎる情報に対処するため、人々は自分に必要な情報とそうでない情報を取捨選択している。特に、共同体から分離されている人たちは、それに代わる何かを探しているような気がします。それが、特定のアイドルグループだったり、スポーツチームだったりする。すると、そういう人たちは、その情報ばかりを集めるようになる。傍から見ていると、いかにも視野が狭い。そして、“オタク”などという、この手の人たちを揶揄するような言葉が生まれたのではないでしょうか。

情報遮断・・・取捨選択するのも大変だということになると、情報を受け取りたくない、と思うこともある。例えば、もう新聞は読まないとか、テレビは見ない、という人たちも増えているのではないでしょうか。そういう気分が高まり過ぎると、“引きこもり”という現象が生まれる。

ポストモダンのメンタリティを持って生きている人たちというのは、かなりシンドイ状況に置かれているのかも知れません。こうなってくると、上に記しました“情報遮断”というのはお勧めできませんが、情報を選択して、周囲からオタクと言われようがどうしようが、自分の好きなジャンルを見つけて、その中でエンジョイしていくのがいいような気がします。

No. 88 共同体と個人(その5)

“近代思想の時代”と“ポストモダンの時代”を明確に区分けすることはできませんが、おおまかに言うと、その移行期は1975年から1990年頃だったような気がします。関連する世界的な出来事を記してみます。

1973年・・・ベトナム戦争終結
1976年・・・文化大革命終結

1989年・・・ベルリンの壁崩壊
1991年・・・ソビエト連邦崩壊

1975年に10歳だった人は、今年で52歳ですか。概ね、ここら辺の年齢以下の人たちは、ポストモダンの世代であると言えるかも知れませんね。

では、ポストモダンのメンタリティについて、考えてみましょう。キーワードは、ディタッチメントです。英和辞書で調べてみると、次のような意味がありました。

detachment
・分離、孤立、距離を置くこと、超然、無関心
・〔論理〕切断。命題の前提条件と結論の間が論理的に一貫しない(欠けている)こと

なるほど。論理的な欠落、という意味もあったんですね。しかし、こう記してみると、随分、寂しげな意味なんですね。共同体との関係が分離され、孤立し、無関心で、非論理的な精神のあり様、それがポストモダンのメンタリティなんです。一つの典型例を考えてみましょう。

A君は、1990年に生まれました。父親はサラリーマンで、スポーツに関心があります。家庭で、政治の話などはしません。お友達親子なので、親子間の対立はありません。A君には反抗期というものがありませんでした。高校はそこそこの進学校で、大学にも進みました。A君は、そこそこの企業に就職します。A君は、ポケモンGOが大好きです。幸い、会社ではスポーツ大会などはありませんし、労働組合から選挙活動を強要されることもありません。A君は、会社における自分のポジションに満足しています。唯一の不満は、勤務時間が長いことです。A君は、十分な英語の能力を持っていますが、外国に行きたいと思ったことはありません。A君には、男友達もガールフレンドもいますが、酒を飲んで、腹を割って話し合うようなことはありません。


このようにイメージしてみますと、なんだか、村上春樹の小説に登場しそうな人物像が浮かび上がってきます。これが、ポストモダンのメンタリティということでしょうか。

さて、各時代区分と、現在の支持政党の状況を考えてみましょう。

宗教国家のメンタリティ・・・・・与党(自民党公明党
近代思想のメンタリティ・・・・・左派政党(共産党社民党
ポストモダンのメンタリティ・・・支持政党なし(無党派

現在の日本の状況というのは、このようになっているような気がします。

更に、各時代におけるマジョリティの精神性と、ユングのタイプ論との関連で考えてみましょう。ユングのタイプ論というのは、以前このブログで詳述していますが、人間の心の機能を思考(意識)、直観、感覚、感情(個人的無意識)の4種類に分類するという考え方です。

無文字社会のメンタリティというのは、最も基本的な機能である“感覚”が支配的であったと思うのです。赤ん坊が生まれて、やがて彼らは笑う。これは、人間が最初に獲得する心的機能だと思います。よって、未だ文字を獲得する前の時代、彼らのメンタリティというのも、まずはここから出発したと思うのです。

宗教国家のメンタリティというのは、とにかく人々のつながりと結束を要求する。それは、ほとんど強制的とも言える。その本質は“感情”、中でも共感を求める心のシステムにあるように思います。とにもかくにも、共感を求め、それが得られた場合は味方となり、得られなかった場合には敵となる。

近代思想のメンタリティというのは、“思考”(意識)に依拠している。いくつかの現象を分析し、そこに共通する原則を見出そうとする。又は、仮説を立て、それを立証しようと試みる。

そして、ポストモダンのメンタリティはどうかと言うと、これは“感覚”だと思うのです。近代思想(思考)に対する失望から生まれたポストモダンは、ロジックを拒絶する。かと言って“感情”に依拠するほど、共同体や他人との関係を重視しない。

それでは、“直観”が抜けているじゃないか、ということになりますが、“直観”という機能は、例えば、シャーマンだとか芸術家などの一部の人が発揮する機能であって、いずれの時代においても、この機能がマジョリティになったことはないと思うのです。
では、一覧にしてみましょう。

無文字社会のメンタリティ・・・・・感覚
宗教国家のメンタリティ・・・・・・感情(個人的無意識)
近代思想のメンタリティ・・・・・・思考(意識)
ポストモダンのメンタリティ・・・・感覚

こう並べてみますと、ポストモダンという時代は、無文字社会に似ていることになります。どちらも、“感覚”なんです。少なくとも、この2つの時代のメンタリティには、親和性がある。ポストモダンの時代が無文字社会に類似しているから、例えば、シャーマンが現われる。それが、オウム真理教のような事件を引き起こしたのではないでしょうか。

No. 87 共同体と個人(その4)

近代思想の時代というのは、正に“思想”の時代だったと思います。例えば日本国憲法には平和主義、個人主義自由主義などが定められています。人々はロジックで物事を考え、その行動を規律するための法律が整備された。日本も法治国家になり、国会では与党と野党が議論を始めた。

近代思想の時代のメンタリティを考えてみると、一つには、現実世界というものが人々の手の届く所にあったような気がします。政治状況や、社会制度というものは、変えることができるんだ、という前提があったと思うのです。例えば、60年、70年安保闘争の時には、多くの学生がデモに参加した。彼らがどれだけロジックで、深く物事を考えていたのかは分かりませんが、少なくともデモに参加することによって、もしかすると政治状況を変えることができるのではないか、少なくとも変えたいんだという希望は持っていたと思うのです。当時は、情熱的だった。

しかし、時代は動き続ける。近代思想の時代にあったロジックと情熱と希望が生み出した対立関係というものが、徐々に消え失せていく。そのプロセスを簡単に考えてみましょう。

まず、左翼思想というものが、衰退したのだと思います。マルクスが主張したように、資本主義は行き詰まらなかった。中国では、文化大革命(1966~1976)と銘打って、反革命的であるとみなされた歴史上の遺産が破壊され、教師が吊るし上げられた訳ですが、やがてそれは単なる政治権力の抗争に過ぎなかったことが分かってくる。以前、ワイルド・スワンという本を読んだことがあるのですが、当時の中国でいかに無茶苦茶なことがなされたのか、詳細に述べられていました。中国は未だに一党独裁国家で、言論の自由は認められていません。確かに一部の中国人は、我々日本人よりも裕福になったかも知れません。それでも大半の日本人が、中国人よりも幸せだと感じているのではないでしょうか。やがて、ベルリンの壁が壊され(1989)、ソビエト連邦が崩壊(1991)します。この頃になると、日本におきましても、社会主義よりも資本主義、民主主義の方が優れているという価値観が、大多数を占めるに至ったのではないでしょうか。

企業もかつては宗教国家のメンタリティをもって従業員を拘束していた訳ですが、次第に人材の流動化が進み、終身雇用制も崩れ始めます。そこに多くの非正規従業員が流入した訳です。時間給で契約する非正規従業員に対し、スポーツ大会に出て来いとは言えない。(労働者派遣法・1985年)

かつては、昭和の頑固オヤジというものが存在して、「理屈を言うな」と怒鳴っては、暴力を振るっていた訳です。これに対して、左翼がかった息子というのが典型的な対立関係を生んでいたのではないでしょうか。しかし、時代も平成になる頃には頑固オヤジもいなくなり、最近ではお友達親子などと言って、親の側に理解があるんですね。そして、親子間の対立というものは解消していった。

かつては、男と女というのも対立する概念だったと思います。例えば、昭和のヤクザ映画などを見ると、男は義理に生きるんです。理不尽なことがあっても、義理を尊重して、耐え続ける。そこに男の美学があった。そして、女は人情に生きる。義理のために果たし合いに出かけて行く男に、女が泣いてすがる。かつて、男は女を、女は男を理解しがたい存在だと思っていた。理解できない。だから、魅力を感じ、惹かれあっていたのかも知れません。しかし、脳科学などが進歩してくると、男と女で、何がどう違うのか分かってくる。部屋の状況を短時間見せて、どれだけの事物を認知できるかという実験がありましたが、女の方が圧倒的に認知能力の高いことが判明しています。なるほど、だから女は男の嘘を見抜くのか、というようなことが分かってくる。そして男たちは、義理やロジックで物事を考えなくなり、女の社会進出も進んでくる。昔は、男と女がどれだけ違うのか、という側面ばかりに目が行っていたように思うのですが、最近、そういう論議はなりを潜めたように思います。実は、男も女もそのメンタリティに着目した場合、大きな違いはないのではないか。こうして、男女間の対立というものも希薄になってきた。そう言えば、「現代はモノセックスの時代だ」と述べている心理学の本もありました。(ユングの性格分析/秋山さと子/1988)

IT技術が爆発的に普及したのは、Windows 95からではないでしょうか。これに伴い、人々は直接顔を突き合せないでも、コミュニケーションを図ることが可能になりましたが、影響はそれに留まることがなかった。次々とゲームが発売され、タブレットが発売され、スマホの時代になった。バーチャルリアリティなどと言いますが、人々の現実感というものは、加速度を付けて希薄になって行ったのではないでしょうか。昨日、ネットで記事を見たのですが、遂に“エア花見”なるものが登場したようです。これは、居酒屋の内部に桜の造花を飾りつけ、そこで酒盛りを行うということだそうです。花粉症の心配もないということで、結構、人気だそうです。

加えて、グローバリズムの波が押し寄せてきた。ボーダーレスなどとも言いますが、人々は、やすやすと国境を越えて異動し、外国の情報はリアルタイムで入ってくる。新聞か何かで読んだのですが、最近では、オーバー・コミュニケーションなどということが言われている。これは、情報の伝達量が多すぎて、文化が均質化してしまうことを言うそうです。

核兵器の拡散という問題もあります。今では、あの小国の北朝鮮ですらそれを手にしようとしている。こうなってくると、いくら国に忠誠を誓って根性を出しても、国を守ることはできない。

これらの変化が何をもたらしたかと言うと、現実世界というものが、人々の手の届かない所へ行ってしまったのではないかと思うのです。トランプなんてけしからんと思う人もおられるでしょうが、ふと気づけば彼はアメリカの大統領で、私たち日本人に投票権はない。トランプ大統領の情報にはいくらでも接することができるのに、その現実に対して私たちが働きかけることはできない。

そして、現代という時代には、そもそも“思想”というものが成立しづらい環境になったように思います。最近、哲学の話をする人なんて、いませんよね。〇〇主義という発想も希薄になりつつある。思想やロジックに成り代わって、例えばコンピューターのシミュレーションや、ビッグデータの解析が重用される時代になったのではないでしょうか。“どうあるべきか”と考えるのが思想だとすると、今は“どうなるか”ということの方が重要なのかも知れません。

こうして、近代思想の時代とそのメンタリティは、幕を閉じたのだと思うのです。

No. 86 共同体と個人(その3)

宗教国家としてのメンタリティに劇的な変化を及ぼしたのは、第二次世界大戦だったと思います。ヨーロッパでは、ナチスドイツが無数のユダヤ人を虐殺した。そして、広島と長崎に原子力爆弾が投下された訳です。この2つの出来事は、人類に衝撃を与えたに違いありません。

そして日本では、日本国憲法が1946年に公布され、翌1947年に施行されました。その第1条には、こう記されています。

第1条(天皇の地位、国民主権
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

この第1条をもって、日本において1300年以上も続いた宗教国家の時代は幕を降ろし、近代国家としての新たなスタートが宣言されたんです。そういう思いでこの条文を読み返しますと、私などは、ちょっと感動してしまいます。

ところで、「日本国憲法GHQに押し付けられたものなので、我々日本人の手で作り直すべきだ」、という議論があるようです。文献1によると、経緯はこうだったようです。まず、日本人が草案を作った。しかし、それは天皇に主権があるという大日本帝国憲法と変わらない内容だった。それでは困るということで、GHQが草案を作り、それを日本側が承認した、ということのようです。ただ、私としては、そういう議論には意味がないと思うのです。例えば、料理を食べる。その時、あなたはその料理を誰が作ったということにこだわりますか? 私は、こだわりません。ただ、うまいか不味いか、それだけです。憲法だって、同じではないでしょうか。要は、中味なんです。

次は、問題の第9条です。全文を引用してみましょう。

第9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ここには明確な平和主義が規定されています。素晴らしいですね。理想的です。しかし、理想というものは、必ずしも現実と一致しない。問題は②項です。戦力は保持しないと定められていますが、現実には自衛隊がある。この点、自衛隊は戦力ではないという解釈が定着しているので、問題はなさそうです。では、最後の一文はどうでしょうか。「国の交戦権は、これを認めない」。例えば中国が日本の尖閣諸島に侵略してきたらどうするのか、と心配になってしまいます。しかし、“文献1”によれば、1954年に「自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」とする政府見解が出されているということです。更に、2014年に安倍内閣は上記の「自国に対して」という部分を拡大し、集団的自衛権の行使を可能とした訳です。賛否両論あるでしょうが、結論として言えることは、これだけの拡大解釈が既になされているので、9条に関連して言えば、特段、急いでこれを変更する必要はない、ということではないでしょうか。本稿は、憲法論を論じることが主眼ではないので、次に進みます。

第13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

これはもう、感動ものです。国民は個人として尊重されるんだ、そして個人は自由を追求することができるんだ、ということが明確に謳われています。日本に生まれて本当に良かったですね。

その他にも第19条には「思想及び良心の自由」、第20条には「信教の自由、国の宗教活動の禁止」、第21条には「言論の自由」などが定められています。もう、日本国憲法は、100点満点だと思うのです。しかし、それで全てが解決という訳にはいかなかった。

前の原稿で、宗教国家のシステムについて、「個人に自律的な思考を促さないシステム」であると述べましたが、反対に日本国憲法は「個人に自律的な思考」を促していると思うのです。個人を尊重するということは、それぞれの個人が個性を持つことが推奨されている、とも言えます。私のような変わり者にとっては有難い限りなのですが、必ずしも誰しもがそうという訳にはいかなかった。そこで、宗教国家の時代の方が良かったと思う人たちが、日本国憲法のマインドに違和感を持った。今話題の石原慎太郎とか、森友学園の籠池氏など、未だにそういうマインドを持った人たちがいるんですね。

他方、日本国憲法に飛びついたのは、左翼思想を持った人々だった。思想の自由は保障されているんだろう、我々は社会主義共産主義が正しいと思っているんだ、という動きが出てきます。1949年に中国共産党による一党独裁国家である中華人民共和国(中国)が樹立されるなど、外国においても共産主義が台頭してきた。

こうして近代思想の時代が幕を開ける訳ですが、この時代には様々な対立軸というものが、明確に見えていたのだと思うのです。右翼と左翼。信仰とロジック。そして、共同体と個人が対立し始めた。個人は、共同体と対立し、もしくはそこからの独立を目指すことによって、自らの個性というものを確立しようとしたのだと思います。

このような対立関係というのは、他方では芸術をはじめとする文化にも、強烈なパワーをもたらしたんだと思います。日本では、戦時中の極限状況を題材とした戦後文学が生まれる。1940年台の後半には、アメリカでチャーリー・パーカーマイルス・デイビスがいわゆるモダン・ジャズを始めるんですね。1950年代には、ニューヨークであのジャクソン・ポロックが絵画の革命を起こす。そして、1960年代に入ると、イギリスでビートルズローリング・ストーンズが誕生する。そして、モダンという時代は、そのピークを迎えつつあったのだと思うのです。

(参考文献)
文献1: 新・どうなっている!? 日本国憲法法律文化社