文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 101 遊びとは何か(その1)/ビー玉

このブログは文化が生まれるプロセスを考える所から出発しました。No. 1からNo. 24におきましては、言葉から始まり、物語、呪術、シャーマニズムなどを積み上げ、やがて宗教に至るという歴史主義的な検討を行いました。そして、そのプロセスにおいて、文学、絵画、音楽などの芸術が生まれた。例えば、絵画の起源は、狩りの様子を描いた洞窟の壁画であって、これは実際の狩りが成功することを願って、つまり呪術の一様式として描かれたという説をご紹介しました。今でも、それはそうなんだろうと思うのですが、それだけでもないような気も致します。何か、文化を生み出す力の源泉とでも言いますか、原動力としての“遊び”があったのではないか。

 

“遊び”とは取るに足らないもので、顧みる価値などないのかも知れません。しかし、人間はその歴史を通じて“遊び”を愛してきた。勉強をしたり、働いたりするよりも、“遊び”の方が楽しいと感じてきた。そして、無数の遊びを考案してきたという事実があります。そうしてみると、遊びとは何か、一度考えてみる価値があるのではないか。そう思って、いつもの本屋へ出掛けたのですが、幸い、若干の参考文献が見つかりました。現時点で、私に何らかの確信がある訳ではありませんが、参考文献の力も借りながら、少し“遊び”について考えてみたいと思います。

 

ところで、私が初めて夢中になった遊びはビー玉でした。小学1年か2年の頃だったと思います。地面に直径数センチの穴を直線上に3つ掘る。それぞれの穴の距離は、2メートル弱だったように思います。遠い方からA、B、Cとしますと、まず、Cの手前に立って、Aを目がけてビー玉を放り投げます。穴から遠い方の人から、順にビー玉をはじいてAを目指します。

 

ビー玉のはじき方は、2通りありました。まず、右手親指と中指(爪の側)の間にビー玉を挟み、中指で押し出すというやり方が一つ。次に、ビー玉を右手中指(腹の側)と親指の間に挟んで、親指の爪ではじき出すというやり方もありました。こちらの方が、次第に主流になっていきました。さて、無事Aの穴に入れると、順にB、Cの穴を目指し、次にB、Aと戻って来る。つまり、一往復するんです。すると、そのビー玉は鬼になる。鬼になった後で、他の競技者のビー玉にぶつけると、そのビー玉が自分のものになる。負ければ自分のビー玉を取られてしまうので、それは結構、必死になって遊んだものです。

 

それにしても、良くできたルールだなと、今でも思います。

 

私が住んでいた地域で何故、ビー玉が流行ったかと言うと、ある日、誰かが団地の日陰になっている所に、3つの穴を掘ったんです。その大きさと言い、距離と言い、それはもう申し分のないものだった。そこに子供たちが集まるようになって、ビー玉が流行ったんです。そこは、子供たちにとって社交場のような場所でした。大体、ポケットにビー玉を2つか3つ忍ばせて、子供たちがやって来る。初対面の相手でも臆することなく「ビー玉やろう」と言って、遊び始める。子供というのは相手の名前なんて、聞かなくてもいい。また、遊んでいて相手の持っているビー玉を全部取り上げてしまうと遊べなくなる。仕方がないので、一度、取ったビー玉を相手に返して、また遊ぶ。そんなことをしていたような気がします。

 

しかし、雨も降れば、風も吹く訳で、やがて地面に掘った穴はその縁から崩れていったのです。そしていつか、子供たちはその場所に集まらなくなった。

 

さて、私を含め、遊んでいた子供たちはビー玉から、何かを得たでしょうか。残ったものは思い出だけでしょうか。まだ、その答えを述べるのは早計に過ぎるように思います。ただ一つ言えるのは、大人たちとは隔絶した世界が、そこにあったということです。学校へ行けば先生がいる。家へ帰れば親がいる。しかし子供たちは、ビー玉を通して、そんな大人たちに干渉されない自分たちだけの自由な空間を作り上げていた。こんなことも、遊びの効用かも知れません。

No. 100 深沢七郎の短編小説「白笑」を読む

ブログの更新、少し間が空いてしまいましたが、今回は、その言い訳から始めさせていただきます。

 

以前取り上げました村上春樹の小説には、経済的に裕福で、高学歴の美男美女が多く登場しましたが、正直に言いますと、私は辟易してしまったのです。あのゴッホが描いたのは、市井の郵便配達夫であり、馬鈴薯を食べる人たちだった。横光利一が「時間」という短編小説の中で描いたのも、宿代を払えずに夜逃げする旅芸人の一座だった。ドストエフスキーだって「貧しき人々」を書いている。やっかみ半分でそんなことを考えていますと、貧しく、浅はかで、それでいて、逞しく、優しい庶民を題材にした小説が頭に浮かんだのです。庶民と言えば、深沢七郎の「庶民烈伝」ですね。これは以前読んだので、早速本棚を探したのですが、ないのです。一部内容も覚えているので、必ずどこかにあるはずなのですが、何度探しても見つからない。ネットで調べてみると、今でも中公文庫で発売されていたので、本屋にも行ったのですが、「庶民烈伝」は置いていない。しかし、ここまでやる気になってしまうと、今さら他の作家に切り替える訳にもいかない。そこで、深沢七郎の他の短編小説を読み始めたのですが、いつの間にかその世界にはまってしまったのです。深沢七郎の毒気に当てられて、ノックアウトされてしまったと言った方がいいかも知れません。

 

近代の純文学というのは、作家がその直観を働かせて、集合的無意識やタブーに挑戦する訳ですが、深沢七郎の作品は特にその傾向が強いように思います。代表作である「楢山節考」では、姥捨てを描いていますが、今回私が読んだ作品の中には、間引きの問題を取り扱っている「みちのくの人形たち」という作品もありました。出産の時には、その村に代々伝わる屏風がある。間引きをする時には、その屏風を上下反対に立てて、その中で出産する。生まれてきた赤ん坊は、最初の泣き声を発する前に、タライに張った水に漬け、窒息死させる。避妊具が普及する前の時代だとは思うのですが、しかし、8回妊娠して、そのうち7回は間引きしたという例なども出て来ると、ちょっとぞっとします。昔、間引きの手伝いを繰り返していたお産婆さんが罪の意識にかられ、両腕を切り落としたという話も出てきて、強烈な違和感を覚えます。ちなみに、作品タイトルの「みちのくの人形たち」というのは、間引きされてしまった子供たちを慰霊するために作られた人形、という意味のようです。

 

それでは、表題の「白笑」(うすらわらい)の話に移りましょう。

 

<あらすじ>

源造の家には柿の木があったが、なるのは渋柿だった。隣の三太郎の家には、巨大な柿の木があって、実が良くなるので村でも評判だった。三太郎には21歳になる忠太郎という道楽息子がいた。忠太郎を少しは落ち着かせようと思った三太郎は、25歳になる隣村のおきくと見合いをさせ、やがて、2人の結婚が決まる。おきくの実家も裕福で、沢山の嫁入り道具が三太郎の家に運び込まれる。村人たちは、嫁入り道具が立派なことに嫉妬心を抱く。しかし9年前、源造が16歳のおきくを犯したことがあって、ある男がそのことを村中に言い触れ回ってしまう。やがて噂は、忠太郎の耳にも入る。祝言を上げた翌日、花婿の一族と花嫁の一族が呼び集められる。一同の前で忠太郎は、結婚の解消を申し出る。その理由については、おきくを指さして「それは花嫁が処女でなかったことであります」と告げる。問い詰められたおきくは「うそですよ、そんなことがあるものですか!」と否定する。なんとかその場は収まる。困り果てたおきくは、年上の源造に相談を持ち掛けるが、源造は土下座をして謝るばかりである。おきくは源造にも失望する。祝言から20日程たった頃、離婚が決まり、おきくは1人で実家に向かい、笛吹川に掛かる橋を渡っていた。その時おきくは「ふっふっふ」と笑ったのだった。

 

この作品、読み進めて行く途中までは、誰が主人公なのか分からないのです。読み終わってみると、ああ、おきくが主人公だったんだ、と腑に落ちる。それにしても、このおきくという女性には、不運が幾重にも振り掛かる。9年前の不運、嫁ぎ先が源造の家の隣だったという不運、プライバシーを公開されてしまったという不運。しかし、それでもおきくは、これから強く生きていくのだろうと感じました。そのことは、作品タイトル、「白笑」(うすらわらい)が暗示しているように思います。高らかに笑う訳ではない。クスクスと笑う訳でもない。つらい状況にありながら、それでも全てを飲み込んで、生きて行こうとする意志。それがこのタイトルの意味ではないでしょうか。女性というのは、と言うよりも、庶民って凄いなあと感じ入った次第です。

 

※ 「白笑」は、次の本に収録されています。

深沢七郎 楢山節考/東北の神武たち 深沢七郎初期短編集 中公文庫

No. 99 このブログ、平時のモードに戻します。

すっかり朝鮮半島情勢に振り回されてしまいましたが、問題は長期化すると思われますので、このブログは平時のモードに戻すことにします。

 

また、いくつかの検討課題が中途半端な状態になっていたように思いますので、今回は、それらの問題に決着をつけたいと思います。

 

まず、朝鮮半島情勢の緊迫化に伴い、政治について言及しましたが、私の考えは次の通りです。結局、人間社会というのは、「敵と味方を識別して、集団で闘うシステム」からなかなか脱却できないでいる。また、敵と味方を識別するのは、民族、宗教、イデオロギーの3つではないか。何とかそれらを乗り越えることはできないのか。そこで登場したのが、民主主義だと思うのです。民主主義は、人間集団の結束を求めない。そうではなくて、個人に自律的な思考を促し、政治家は選挙で選ぶのが良いと考えている。私たち日本人にとっては当たり前の話かも知れませんが、守り続ける努力が必要だと思うのです。民主主義が前提としているのは、ポピュリズムに陥らない個人の見識と、選挙における投票行動だと思います。よって、最低限、そこだけは守りましょうと、そう申し上げたいのです。現在の日本の状況を考えますと、宗教やイデオロギーに依存している政党は少なくないと思います。むしろ、その方が多い。しかし、右でも左でもない、新たな価値観を模索しようという動きもない訳ではありません。

 

次に、ディタッチメントという言葉によって象徴されるポストモダンのメンタリティについてですが、世界的に見ると、これは一部の先進国の、比較的裕福で、高学歴の人々に共通した心理状態ではないかと思います。村上春樹の小説は世界的に売れているので、そういうメンタリティを持った人たちというのは、決して少なくない。しかし、この傾向は長く続かないように思います。一つには、2001年に米国で発生した同時多発テロ。もう一つは、2011年に日本で発生した東日本大震災とそれに続く福島第一原発の事故。ディタッチメントだ、関与しないんだと言っても、否が応でも巻き込まれてしまう。

 

また、グローバリズムの終焉ということも申し上げましたが、これは現在、時代が大きく変わろうとしていることを意味していると思うのです。グローバリズムによって、様々な文化が相対化された。例えば、ある地域では誰もが信じて疑わないローカルルールというものがあった。それがグローバリズムによって、そうではないんだ、世界的にはこちらのルールが正しいんだ、という論議が巻き起こる。そして、無数の慣習や法律などが比較検討の対象となったのだと思います。しかし、アンチ・グローバリズムの動きが出てきて、ローカルルールの方がいいんだと主張する人たちが出て来る。その典型が、イスラム国ではないかと思います。これは回顧主義であって、過去に戻ろうとしているんですね。そんな動きを含めて、では何が正しいのか、分かりづらい時代になっていくのだろうと思います。一度生まれた文化というのは、なかなか消滅しない。そこで、古代、中世、近代、現代の各メンタリティというものが、交錯し始めている。そんな時代になったような気がします。今回の北朝鮮の問題にしても、米国のグローバリズムと、北朝鮮民族主義が激しくぶつかっている。もちろん、米国の方に理があるようには思いますが、では、どうして核兵器を持って良い国と、そうではない国があるのでしょうか。これって、ちょっと答えにくい質問ではないでしょうか。現代という時代が終わるとして、その次の時代を何というのか分かりませんが、便宜上、“ポスト現代”とでも言いましょう。ポスト現代は、多様性とリスクの時代になるような気がします。人類が未だかつて経験したことがない程多様で、多様であるが故にリスクに晒される時代。そう思うのです。そして、最大のリスクとは、核兵器であり、原子力発電所ではないかと思います。

 

また、エンターテインメントについても言及しました。情報量というのはタテ(時間)とヨコ(地理的範囲)に拡大を続ける一方です。よって、昔のビートルズのように、誰もが夢中になるムーブメントというのは起こりづらい。また、情報量の拡大と共に、文化はますます細分化されている。例えば、本屋に行って、1冊の本を買う。しかし、その本を読んでいる人というのは、昔に比べれば非常に少ないと思うのです。それは、人々が本を読まなくなったということもあるかも知れませんが、それ以上に本の種類が飛躍的に増加したことが原因となっている。例えば、あなたがあるバンドのファンになる。世間から見れば、もうそれだけで、あなたはオタクと呼ばれるかも知れない。そういう時代だと思うのです。しかし、近代的な意味での芸術というものがほとんど生み出されず、哲学や思想というものが成り立ちにくい現在において、私たちはどうすれば良いのか。そこで私は、オタクと呼ばれようがどうしようが、手の届く何かとの関係性を保ちながら、“遊ぶ”しかないように思うのです。多くの文化は、“遊び”の中から生まれたのですから。

No. 98 朝鮮半島情勢、切り間違えたカード

 昨日は朝鮮人民軍創建85周年だった訳ですが、大きな事件は起こりませんでした。それはそれで幸いなことではありますが、朝鮮半島の非核化を“達成すべき目標”として設定するならば、全く進展がなかったとも言えます。

 

いろいろ情報を総合して考えますと、これはトランプ氏の誤算だったのではないかと思えて来るのです。私が“推測”する事の成り行きについて、述べてみます。

 

まず、北朝鮮のミサイル発射があり、トランプ氏はこれに焦って原子力空母カールビンソンを派遣すると発表してしまった。その後関係者からヒアリングを行ったところ、北朝鮮との軍事衝突が抱えるリスクの大きさに驚いた。そこで、カールビンソンを南下させ、時間を稼ごうとした。また、中国の習近平氏にこう相談を持ち掛けた。

 

「中国が何もしないのなら、米国が北朝鮮を制圧し、韓国に併合させる。そうなったら、中国も困るだろう。だったら、中国が北朝鮮を制圧すれば良いではないか」。

 

習近平氏も、北朝鮮が韓国に併合されるのは困るので、とりあえず、石炭の輸入をストップした。しかし北朝鮮の反応は、思いの他厳しいものだった。判断を誤れば、北朝鮮の核弾頭が北京に向けられるかも知れない。困り果てた習近平氏は、本件についての平和的解決を主張した。

 

中国が対策を思案している段階で、西側陣営はしきりに中国の役割が大きいと宣伝し、トランプ氏は習近平氏を絶賛したりもした。しかし、中国といえども北朝鮮を軍事的に制圧することが困難であることが分かってくる。

 

以上が、今日までの出来事の本質ではないかと推測する次第です。カールビンソンが朝鮮半島に到着したという情報は、未だにありません。米国としては、到着させたくないのではないか、とさえ思えてきます。カールビンソンが朝鮮半島沖に到着し、何の影響力を行使することもなく米国に帰ってしまった場合、原子力空母が今日まで果たしてきた“相手方に脅威を与える”という機能が低下してしまいます。さて、米国はどうするのでしょうか。トランプ氏は、朝鮮半島問題に関しては切るべきカードを誤ってしまったのではないか。そう思えてなりません。仮に、カールビンソンが日本海で日本、韓国と軍事演習を行った後、そのまま米国に帰還したとしても、驚くには値しません。

 

さて、上記の推測が当たっていたとしたら、ここから我々が学ぶべき教訓は、2つあると思います。1つには、拳を振り上げる時には、予め、その落とし所を考えておけ、ということ。当たり前のことですね。2つ目としては、軍事大国である米国の軍事力をもってしても、北東アジアの小国、北朝鮮の問題を解決するのが困難である、ということだと思います。この点、世界の警察を自認していた米国の凋落という見方もできると思いますが、それよりも核兵器という決して使うことのできない武器によって、戦争が国際紛争の解決手段たりえなくなりつつある、ということではないでしょうか。

 

北朝鮮が核実験を実施する可能性は残されているものの、米国にとってのレッドラインを超えると思われるICBM大陸間弾道ミサイル)の発射実験は、当面、行わないような気がします。北朝鮮は、そうやって時間を稼ぎながら、兵器の開発作業を継続するでしょう。

 

大統領に就任する前、トランプ氏は「ハンバーガーでも食べながら、金正恩と話し合いたい」と述べていたように思います。こうなってみると、それも悪くない選択肢ではないか、と思えてきます。

 

一方、韓国も問題だらけのようです。前大統領は収監され、中国からは経済制裁を受け、北朝鮮の砲撃はソウルに向けられ、にも関わらず左翼の大統領(文氏)が選出されようとしている。言ってみれば、政治も、経済も、安全保障も、全て困難を極めている。ここで、4つの時代区分と、各時代の精神的な支柱ついて、一覧にしてみます。

 

古代・・・民族主義

中世・・・宗教

近代・・・イデオロギー

現代・・・(政治体制としては民主主義)

 

韓国の場合、南北に分断されているので、民族主義を採ることができない。かと言って、国民のマインドを統一できるほどの宗教もない。社会主義イデオロギーは採用していない。徴兵制などもあり、民主主義が成熟しているとまでは言えない。そうなると、それらに代わって、国民のマインドを統合するのは何かと言うと、それが“反日”なのではないかと思うのです。日本が嫌いだ、というその1点において、韓国人はそのアイデンティティを確立している。これはもう、宗教やイデオロギーに匹敵するものなので、話し合いによって解決することは、極めて困難だと思います。

No. 97 グローバリズムの終焉

明日(25日)は、北朝鮮軍創設記念日に当たるということで、北朝鮮が核実験またはミサイルの発射実験を行う可能性がある、と言われております。どのようなシナリオが予想されるのか、ネットを中心に専門家のコメントを調べてみましたが、論理的に納得できる説明はありませんでした。詰まるところ、明日、北朝鮮が何らかの行動を起こすのか否か、日本サイドでは誰にも分らない、ということなのでしょう。仮に北朝鮮が何らかの行動を取ったとしても、米軍の家族が韓国から避難したという情報はなく、米軍が北朝鮮に先制攻撃を仕掛ける可能性は、極めて低いと思われます。

 

ただ、前回の記事にも書きましたが、現在、朝鮮半島で発生している問題は、どうも過去の戦争を取り巻く状況とは違う。一体、今、何が起きているのか、その本質を考えてみたいと思います。本論に入る前に、このブログで扱ってきた時代区分に照らし、過去から今日に至るメンタリティと社会制度について、整理をしてみます。

 

無文字社会・・・神話・・・民族主義・・・・・古代

宗教国家・・・・信仰・・・宗教・国家・・・・中世

近代思想・・・・思想・・・イデオロギー・・・近代

ポストモダン・・ルール・・グローバリズム・・現代

 

便宜上、この先は一番右側に記した表記にて、記載させていただきます。

 

簡単に、各時代区分について振り返ってみます。

 

“古代”については、未だ文字や宗教が発生しておらず、人々は、神話(物語)によって、自然現象などを理解していた。各地域において、創世神話なるものが存在し、自らの民族の正当性、優越性などが定義されていた。特定の動物などと民族を結びつけるトーテミズムも、創世神話の一種と考えられるかも知れません。

 

“中世”については、宗教によって人々の精神を統合し、国家という制度を確立していた。日本で言えば、聖徳太子から第2次世界大戦までの時代。この時代に尊重されたメンタリティは、信仰である。

 

“近代”においては、社会主義思想が広く伝わり、ソ連や中国などの社会主義国家が誕生した。この社会主義思想というのは、あくまでも社会制度である訳ですが、あたかも宗教に取って代わったようにも感じます。

 

“現代”については、米国を中心に資本主義経済が支配的な時代であったと思います。近代における欧米諸国の植民地政策などが行き詰まると共に、交通手段、通信手段、情報技術が飛躍的な発展を遂げ、やがて、社会体制の違いを乗り越えて、各国が同じルールで政治や経済を動かしていこうというグローバリズムが誕生します。

 

ソビエト連邦は崩壊し、中国は改革開放路線に伴って、一部、市場原理を取り入れた。そんなこともグローバリズムに拍車を掛けたのだと思いますが、それを主導したのは、もちろん米国だった訳です。グローバリズムを支えたのは、米国主導でけん引された多くのルールだったように思います。国際的に通用するルールがなければ、国際取引は成立しない。日本でも米国からの圧力や時代の趨勢によって、多くの法律が制定されました。製造物責任法個人情報保護法会社法など、いずれの法律も、米国からの影響が色濃く反映されています。そして、国際取引に使用される言語も、英語が主流となった訳です。

 

しかし、グローバリズムは、必ずしも、万人に幸せをもたらした訳ではなかった。なんとなく、どことなく、米国が有利になる仕組みが沢山あったんですね。また、米国には多くのユダヤ人が居住しており、彼らの政治力、投票行動は無視できない。よって、米国はイスラエルを尊重する政策を取り続けてきた訳です。これでは、イスラム教を信条とする諸国は納得できません。

 

そして、2001911日、米国で同時多発テロが勃発します。今にして思えば、米国主導のグローバリズムは、この時から崩壊し始めたように感じます。同時多発テロで数千人の命が奪われ、米国としてはその怒りをどこかに向けざるを得なかった。そこで、イラク大量破壊兵器を持っていると主張して、イラク戦争を始めたのですが、この戦争による米国の被害は、思いの他大きかった。まして、侵略戦争とは違って、この戦争は米国に何も利益をもたらさなかったのではないでしょうか。当然の帰結として、米国内で厭戦気分が広がる。戦争に過大なコストを掛けるのはもう嫌だ、という人たちが増えて来る。そこに追い打ちを掛けるようにして、イスラム国なる戦闘集団が誕生し、イスラム教を基本的な行動原理とすると共に、世界各地でテロ行為を活発化させた。そして、気が付いてみると、米国内の経済は疲弊していた。そこで、トランプ氏が大統領選に立候補し、米国第一主義という内向きな政策を打ち出し、当選した。トランプ大統領の誕生というのは、米国自身による、グローバリズム終結宣言のようなものだったように思います。

 

ここでグローバリズムのストーリーが終われば、まだ良かったと思うのですが、刻一刻と変化を続ける世界情勢は、その歩みを止めなかったということでしょうか。アンチ・グローバリズムの狼煙を上げたのは、イスラム国ばかりではなかった。そう、北朝鮮核戦略というのも、歴史的に見れば、アンチ・グローバリズムという範疇に入るような気がします。

 

米国が主導してきたグローバリズムは、同時多発テロを契機として衰退を始め、今、北朝鮮によって、その終止符が打たれようとしているのではないかと思うのです。このように考えてみますと、今、朝鮮半島で何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか、その意味が見えて来るように思うのです。

No. 96 朝鮮半島情勢、プンゲリのバレーボール

表題の件ですが、「北核実験場近くの住民が避難・・・25日前後に実施の可能性」という記事が中央日報から配信され、Yahooに掲載されました。配信は42212:08となっています。“核実験場”とはプンゲリという場所で、少し前に関係者がバレーボールをしていた所です。何か、皮肉を感じます。地下には核実験の設備があって、その上で人間が無邪気にバレーボールをしている。

 

さて、仮に記事の通り、25日前後に核実験が行われた場合のことですが、私は、それでも米軍が直ちに攻撃を仕掛ける可能性は低いと見ています。何しろ、韓国内には米軍の家族の方々が沢山おられる。

 

それにしても、本件に関しては、分からないことがまだ沢山あります。トランプ氏が習近平氏を大変、褒めそやしていますが、その理由が分からないのです。もちろん、言葉を額面通りに受け取ることはできませんし、トランプ氏が習近平氏にプレッシャーを掛けていることは明らかだと思いますが、では、トランプ氏は習近平氏、すなわち中国に一体、何を期待しているのか、という点が分からないのです。中国が北朝鮮に対して掛けることのできる圧力の種類としては、まず、経済制裁があります。北朝鮮からの石炭の輸入を中止する。これは既に実施済みのようですが、効果は小さい。また、中国と北朝鮮を結ぶ飛行機の定期便を休止したようですが、北朝鮮にしてみれば、その程度では痛くも痒くもない。次のステップとして、中国から北朝鮮への原油の輸出を止める、という対策が論議されていますが、これについては、効果が大きいという説と、大して効果はない、という説があるようです。効果が大きいという説の論拠は、原油の供給がストップすれば北朝鮮は車も戦車も動かせなくなる、ということです。一方、大して効果はない、とする説の根拠は、北朝鮮のエネルギー源の大半は石炭であって、原油を止められたからと言って、直ちに困ることはない、ということのようです。私が思うのは、北朝鮮もある程度は原油を備蓄しているでしょうから、中国からの原油の供給を止めたからと言って、直ちに北朝鮮、特にその軍隊が困るということはないと思うのです。その場合に困るのは、むしろ一般の国民の方ではないでしょうか。従って、長期的に見れば原油の供給ストップは効果が大きいものの、短期的には北朝鮮の軍隊に対する影響は、あまり大きくはないと思うのです。

 

まして、仮に中国が原油の供給をストップした場合、それ以上の経済制裁は打てなくなってしまう。つまり、北朝鮮と交渉する上での、最後のカードを切ってしまうことになる。それでも、トランプ氏があれだけ習近平氏を褒めるというのは、それ以外の手段が中国に残されていると見るべきではないでしょうか。金正恩を中国に亡命させるという方策については、本人が了承する可能性が低く、現実味がない。すると残る手段は、中国による北朝鮮に対する何らかの軍事的圧力、それ位しか思い浮かばないのです。あくまでも仮定の話ですが、仮に中国が金正恩政権を倒し、その後、北朝鮮に傀儡政権を樹立するというシナリオがあれば、それはそれで丸く収まるような気もします。中国にそれだけの覚悟があれば、という条件付きの話ではあるのですが・・・。いずれにせよ、仮に25日前後に北朝鮮が核実験を実施した場合、その後、上記の通り中国主導で事態が進展していくのか、あるいは米国が先制攻撃に向けての準備を加速させるのか、その方向性が見えてくるような気がします。

 

以上が、「どうなると思うか」という話であって、ここから先は「どうあって欲しいか」という事について、若干述べさせていただきます。

 

過去の歴史に照らしてみますと、本件は、特殊な事案だと思うのです。近代以降の戦争の目的を考えてみますと、まず、他国を侵略して植民地にする、というのがありました。このケースでは、相手国から経済的な利益を収奪するんですね。これは、主として欧米諸国が行ってきた戦争です。次に、他国を併合して、その食料なりエネルギー資源を収奪するというのもあります。自国の宗教を普及させる、他の宗教を弾圧するという宗教戦争というのもあったのではないでしょうか。現在のイスラム国(国家ではありませんが)が行っているテロリズムというのも、このカテゴリーに入るかも知れません。また、資本主義と社会主義、すなわちイデオロギーの違いから戦争になったというケースもあるのではないかと思います。ソ連が存在していた時代には、米ソの冷たい戦争と呼ばれていましたが、これはイデオロギーの違いが引き起こしたものだと思います。

 

では、本件はいかがでしょうか。今、問題を引き起こしているのが北朝鮮だとすると、北朝鮮は上記の事例の中で、どれに該当するでしょうか。実は、どれにも該当しない。北朝鮮は、米国を植民地にしたい訳ではなく、米国の資源を欲しがっている訳ではなく、米国に自国の宗教を押し付けたい訳ではなく、米国を社会主義国家にしたい訳でもないんです。それは、米国の側から見ても、同じことが言えます。ただ、両国とも、相手方からの攻撃を怖れている。ただ、それだけの理由だと思うのです。だから本件は、対話によって解決できるはずだと思うのです。いや、そうして欲しいと思うのです。

 

核兵器を生み出したのは、科学です。だから、科学ではその使用を抑制することはできません。その使用を抑制し、平和的な解決を行うこと。それができるのは、人間の知恵だと思うのです。そして、その知恵のことを私は“文化”と呼びたいのです。

No. 95 朝鮮半島情勢、シナリオはあったのか

朝鮮半島情勢についてですが、数日前、浅田真央さんの引退ばかり報道していた日本のマスコミが、堰を切ったように本件を取り扱っています。本件に関しまして、報道規制のようなものがなかったことが明らかにとなり、嬉しく思っております。もちろん、軍事作戦上の事項は秘密扱いとなっているのでしょうが、それは国民の利益に資することであり、当然だと思います。

さて、本件に関するその後の情報を簡単に振り返ってみます。米国の原子力空母、カールビンソンですが、当初の報道では15日には朝鮮半島沖に到着するはずでしたが、まだ到着していません。ホワイトハウス国防総省の間で連携ミスがあった、との報道もあります。そんな馬鹿な、とは思うのですが、既に情報戦の様相を呈しており、何が真実なのか、知る由もありません。他方、ニミッツと横須賀に停泊中のロナルドレーガンを合わせて、空母3隻で対応に臨むとの報道もあります。

さて、マスコミ報道に関しましては、過去の経緯から防毒マスクの値段まで、一応、出尽くした感がありますが、結局、今、日本に住む我々がどういう状況に置かれているのか、これからどうなるのか、肝心な点は、どうもはっきりとしないように感じているのですが、いかがでしょうか。

ロジックで考えた場合、今後の展開は、次の3種類かと思うのです。

1. 軍事力によって解決される。

2. 話し合いによって解決される。

3. 当面、解決されない。

まず最初の「軍事力による解決」ですが、どうもこれは相当困難なようですね。何しろ、韓国のソウルは北朝鮮との国境から40キロ程度しか離れていない。従って、米国側から先制攻撃を仕掛けた場合、ソウルが火の海になるというのは、あながち北朝鮮の嘘ハッタリでもなさそうです。また、日本の被害も回避することが困難なようです。東京に核ミサイルが投下された場合、瞬時にして42万人が死亡するというシミュレーション結果もあるようです。してみると、このシナリオというのは、なかなか現実に起こりそうもない。

次に、「話し合いによる解決」ですが、北朝鮮は自らが核兵器保有することを米国が認めなければ対話に応じない、という態度に固執しているようで、それは米国が飲める条件ではない。よって、この可能性も低いのではないでしょうか。中国が金正恩を亡命させ、一生面倒を見る、という可能性もあるとは思うのでが、必ずしも金正恩がそこまで追い込まれている状況とも言えず、この可能性も高くはないように思います。

そうしてみると、「当面、解決されない」という第三の可能性が高いように思えます。実際どうなるのか、それはもちろん私にも分かりません。もしかすると、今月の25日前後に事態が進展しないとも限りません。しかし、現在、公表されているメディアの情報からすれば、本件は、簡単には解決しそうもない。

拳を振り上げる時には、その落としどころを考えなくてはいけませんし、米国のことだから、当然、考えているだろうと思っていたのですが、どうも雲行きがおかしい。トランプ大統領は、もしかすると落とし所を考えることなく、拳を振り上げてしまった可能性も否定できないように思うのです。落とし所は見えていなくとも、北朝鮮ICBMの開発を阻止するためには、そうせざるを得なかったのかも知れません。

分かりませんが、上記の推測が現実にマッチしていた場合、当分、本件の解決は望めないこととなります。解決しないということは、すなわち、北朝鮮核兵器やミサイルの開発が継続することを意味します。そうなった場合、北朝鮮が最初に希望することは何でしょうか。それは、民族の統一、韓国を併合することではないでしょうか。もちろん、それは日本にとって、好ましいことではありません。そうならないことを願っていますが、もしかすると我々日本人が直面しているリスクとは、ここにあるのかも知れません。

今月、16日の日曜日に放送されたNHK日曜討論という番組では、最後に司会者がこう尋ねました。「米国と北朝鮮の軍事衝突を避けるためには、どうすればいいと思いますか?」 それは、感情レベルでは、理解できます。何とか軍事衝突、すなわち戦争は回避してもらいたい。それは、私もそう思います。しかし、私たちが直面している課題を定義するとすれば、その質問は近視眼的に過ぎると思うのです。今、私たち日本人が見るべき課題のフレームワークは、もう少し広く設定する必要がある。仮に、当面の戦争が回避されたとしても、その後、完全に核武装した北朝鮮という隣国と向き合わなければならないとするならば、それはそれで大変大きな課題であると言わざるを得ないと思うのです。

とは言え、今さら日本が軍備を増強したとしても、大国にかなう訳ではありません。そうではなくて、何か、日本の平和を維持していくための戦略なり、対話力の強化などが求められているのではないかと思うのです。