文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 112 文化のダイナミズム(その2)

少し前に、アメリカでゴジラという映画が作成されたのは、ご存じでしょうか。既に何作もの作品が上映されていて、日本人としては、ゴジラに少し飽きていた。しかし、アメリカ人の映画関係者にとって、ゴジラは新鮮だった。つまり、アメリカ人にとってゴジラにはリリーサーとしての価値が十分にあったということだと思うのです。そこで、最先端のCGを駆使して、ゴジラの新作を作って、これは大ヒットしたのです。このように、ゴジラという文化は、時代を超えてアメリカに渡り、復活したと言えます。こんな例は、枚挙にいとまがない。アメリカには、現在、忍者になるための訓練をしている人たちのグループがある。このように文化とは、ある時代にある地域で流行したものが、時代を超え、空間を超え、復活するケースがあるんです。少しオーバーかも知れませんが、文化というのは、時空を超えるダイナミズムを持っている。

 

以前このブログで、「文化は科学に敗北したのか」という記事を掲載させていただいたことがあります。その時点では、敗北しそうだけれども、文化には頑張って欲しい、という気持ちでした。しかし、今の私なら、こう言うことができます。多くの科学者が努力して、何か、新製品を生み出す。すると好奇心を刺激された人たちが集まってきて、首を捻り始める。「ふむふむ。これって何だろう。これで何か、遊べないだろうか」。そして、その新製品は文化という枠組みに取り込まれていく。例えば、科学者が自転車という乗り物を発明する。これも、ゴムや鉄などの材料があって初めて成り立つものなので、相当な技術の蓄積を必要としている。そして、自転車という新製品が生まれると、好奇心に駆られた無数の人々が、それで遊び始める。ハンドルはこういう形の方がいいとか、サドルはこうしよう、タイヤは細い方がいいとか、カゴを取り付けたいとか、それはもうありとあらゆる試みがなされる。最近では、高級な折り畳み自転車というのがあって、折りたたんだ自転車を持って電車で移動する。目的地で自転車を組み立てて、サイクリングを楽しむなんてスタイルまで確立されているんです。最近テレビ(イッテQ)で見たのですが、東南アジアのある国では自転車の前輪を取り外して、子供たちが楽しんでいる。正に、人間の好奇心に限りはないと思います。このように、文化と科学とは、必ずしも対立するのではなく、互いに刺激し合いながら、発展してきたように思います。(但し、兵器だけは別です。科学者が新兵器を生み出した場合、その使用を抑制する知恵を文化の側が持っているとは言い難い現状があります。戦争は、文化の敵です。)

 

さて、遊びについてですが、現代に生きる私たちにとって、遊びと仕事は明らかに異なります。ここでは遊びについて、次のように定義してみます。文化の基本原理の全部または一部のプロセスによって生み出される行為であって、未だ広く普及はしていないもの。

 

ところで、遊びの起源というのは、どうなっているのでしょうか。遊戯の起源(文献1)によれば、ニホンザルは次の遊びを行っています。

(1)  取っ組み合い

(2)  追いかけっこ

(3)  馬跳び遊び

(4)  雑巾がけ遊び(地面に両手をつき前進、あるいは後退する)

(5)  枝引きずり遊び(物を持っている子ザルを追いかけてそれを奪い、新たに物の持ち手になった方が逃げ手になる。)

 

また、ニホンザルよりも人間に近いチンパンジーでは、「何らかの物を使った遊びは合計229件の行動事例が観察された」ということです。

 

言葉を持たないサルでさえ、上記のように遊んでいる。そうしてみると人間の場合でも、遊びの起源というのは、言葉の発生よりも古いと言える。人間の文化というのは、言葉から始まったということを以前、このブログで申し上げましたが、お詫びして訂正させていただきます。文化の起源は、遊びにあった!

 

1938年にヨハン・ホイジンガという人が、その著書「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人という意味)の中で、次のように述べているそうです。(文献2

 

「人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきた」。

 

(参考文献)

文献1: 遊戯の起源/増川宏一平凡社/2017

文献2: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014

No. 111 文化のダイナミズム(その1)

前回のシリーズでは、結局、遊びとは何か、それを定義づけることができませんでした。その理由は、古代まで遡ってみると遊びと仕事を区別することができなかったからです。例えば、狩猟採集民が野ウサギを捕まえたとします。面白いので、これに紐を付けてしばらく飼ってみた。やがて、野ウサギに飽きてしまい、これを食べてしまった。では、この野ウサギを捕まえるという行為は、遊びだったのか、仕事だったのか。どちらとも言えないのではないでしょうか。そもそも、飛び跳ねる野ウサギを捕まえるという行為自体が、楽しくもあり、仕事でもあったと考えるべきだと思うのです。

 

そうしてみると、遊びという枠組みで考えるのではなく、本質的には、別の枠組みで考えるべきではないのか。そこには遊びという概念を超えて、文化が誕生する仕組み、その秘密が隠されているのではないか。そして、次の結論に至った次第です。

 

1.(出会い)未知なる“何か”と出会う。

2.(好奇心)好奇心が触発される。

3.(働きかけ)創意工夫を凝らし、その未知なる“何か”に働きかけてみる。

4.(秩序)新たな秩序を設定し、その未知なる“何か”に意味を付与し、理解する。

5.(伝播)新たな秩序は、記憶され、伝播する。

 

少し、補足致しましょう。まず、未知なる“何か”ということですが、これは物体であることもあるし、何らかの仕組みであったり、動物や他人であったりすることもある。すなわち、人間の好奇心が触発される全ての事柄を意味します。これは、動物心理学で説明している“リリーサー”(特定の本能を解放するきっかけとなる外的な事象)という意味です。この仕組みは、人間にも当てはまるように思うのです。次に働きかけですが、これはその“何か”と自分との関係性を構築しようとする行為であるとも言えます。そして、秩序と言っているのは、例えば遊びのルールであったり、その“何か”を加工する方法であったり、文化の様式であったりする。様々な場合がありそうなので、最も概念が広いと思われる“秩序”という言葉を採用しました。秩序が設定されると、その中で“何か”の役割のようなものが明確になり、“何か”に意味が生ずる。意味が生まれれば、それを理解することができる。理解してしまうとその“何か”は、既に未知ではなくなってしまう。但し、その新たな秩序は、伝播する。伝播の形態としては、世代を超える時間的な広がりと、地域的な広がりがある。まだ、分かりにくいですね。

 

では、具体例でご説明しましょう。まずは、ビー玉の例にて。

 

1.(出会い)ビー玉に出会う。

2.(好奇心)綺麗だな、面白そうだなと思って、好奇心が触発される。

3.(働きかけ)触ってみる、転がしてみる、指で弾いてみる。

4.(秩序)地面に穴を掘って、そこを目指して指で弾くという遊びのルールを作る。ルールに従って遊んでいると、ビー玉は遊び道具として理解される。

5.(伝播)日本中、ビー玉自体は同じものだが、遊び方のルールは誤解されたり、簡略化されたり、工夫されたりして、変容しながら伝わっていく。

 

次は、ジャズの場合。

 

1.(出会い)白人の軍楽隊が捨てた楽器に、黒人が出会う。

2.(好奇心)見たこともない楽器に、興味を持つ。

3.(働きかけ)いろいろいじって、音を出してみる。

4.(秩序)白人の音楽を真似て演奏しているうちに、独自のフォービートが生まれ、ジャズという音楽様式が生まれる。

5.(伝播)ジャズは全米に広がり、遂には世界中に伝播する。

 

ファッションの起源。

 

1.(出会い)古代人が、美しい動物、例えば鳥と出会う。

2.(好奇心)自分たちとは随分違った形をしているし、何より、空を飛べるのは凄い。そう思って、好奇心が喚起される。

3.(働きかけ)鳥の鳴き声を真似てみる。動作を真似てみる。捕まえてみる。

4.(秩序)鳥の羽をヒモでくくって、帽子のように被ってみる。鳥と自分との特殊な関係性が作られ、その意味を理解する。(例えば、自分たちの民族の起源は、その鳥だったという物語を作る場合もあります。これが、トーテミズムとなります。)

5.(伝播)動物の何かを使って着飾るという様式が伝播し、やがて、ファッションへと進化する。

 

こんな例は、いくらでも思いつきます。言葉の場合。

 

1.(出会い)ある家庭で、子犬を飼う。

2.(好奇心)かわいいので、好奇心が喚起される。

3.(働きかけ)触ってみる。餌をやってみる。鳴き声を真似てみる。

4.(秩序)その一家の中では、犬の鳴き声を「ワンワン」と表現するという秩序が生まれ、やがて、その子犬を「ワンワン」と命名する。「ワンワン」と呼ぶことで、すなわち、言葉にすることで、犬という動物の意味を理解する。

5.(伝播)かかる慣習が伝播し、日本で「ワンワン」と言えば、犬を指すことになる。

 

上記の5つのステップによる文化の発生システムを、このブログでは、「文化の基本原理」と呼ぶことにしましょう。しつこいようですが、もう一例。仮に古代の狩猟採集民のAという部族が、木の先端を削って、ヤリを作ったとします。部族Aでは、それはもう完成された様式であって、そのヤリは人々の好奇心を喚起するリリーサーたりえなくなったとします。しかし、そのヤリを森の中で部族Bの誰かが拾ったとします。その人にとっては、生まれて初めて見るものなので、リリーサーとしての役割を持つことになります。

 

1.(出会い)森の中で、木のヤリを拾う。

2.(好奇心)先端が尖っていて、誰か人間が手を加えているように思える。そして、好奇心が沸いてくる。

3.(働きかけ)持ち上げてみる。投げてみる。これは、狩りに使えそうだと思う。そして、ヤリの先端に毒を塗ってみる。

4.(秩序)ヤリの先端には毒を塗るという新たな秩序が生まれる。

5.(伝播)新たな秩序が、次の世代へ、他の部族へと伝播する。

 

このように考えますと、文化の基本原理というのはシンプルなものですが、無限と言っても過言ではない程、拡大していく可能性を持っていることが分かります。もしかすると私たちホモサピエンスは、その20万年の歴史を通じて、この原理に従って遊び、文化を紡いできたのではないでしょうか。そのことを私は、文化のダイナミズムと呼びたいと思うのです。

 

なお、今回のシリーズ“文化のダイナミズム”におきましては、文化の構造に迫りたいと思っています。予め私の考えを図にしましたので、添付します。

 

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以上

No. 110 遊びとは何か(その10)/ネットが育む現代の遊び

夢に破れ、孤独に向き合っていた近代の人たち。しかし、そんな時期でも、庶民とその子供たちは遊ぶことを止めなかった。野球盤ゲームだとか、ルービックキューブだとか、子供たちは少しでも楽しそうなものを探していたんだろうと思うのです。大人たちも、芸能人が作り出すテレビの世界には、次第に飽きてきた。他人のすることを見るよりも、自分でやった方が楽しいに違いない。そこで、カラオケなるものが登場します。これが爆発的に普及したんですね。ここら辺から、現代のアマチュアリズムに立脚した大衆文化が台頭したのではないでしょうか。遊びは、一部の芸能人が作り出すものではなく、素人が参加して楽しむものに変わって行った。

 

遊びも多様化、細分化が進みました。若者たちは新しい遊びを求めて、秋葉原などに集まり始める。そこで、オタク文化というようなものが出てくる。その代表例は、AKB48ではないでしょうか。いつもテレビに出ているが、ほとんど会うことのできない芸能人ではなく、“会いに行けるアイドル”をキャッチフレーズとして、このグループが登場した訳ですが、これは現代の遊びを考える上で、象徴的な出来事だったように思います。AKB48というのは、アイドルでありながら、参加型の遊びだと思うのです。秋葉原に比較的小さな劇場があって、そこで毎週、コンサートが開催されているのだと思います。握手会というのがあって、コンサートの前後に、自分の好きなメンバーと握手ができる。総選挙というのもあって、ファンが投票して、メンバーの順位づけを行う。このように、ファンが参加するエンターテインメントというものが成立したんですね。

 

多様化、細分化という意味では、同様のことがプロレスの世界でも起こったんです。力道山日本プロレスを立ち上げたのですが、そこにいたアントニオ猪木新日本プロレスを設立する。そして、ジャイアント馬場全日本プロレスを立ち上げました。当時のプロレス団体というのは、この2つ位だったのではないでしょうか。しかし、男がやるなら女だってできるということで、全日本女子プロレスという団体が発足します。この団体は、ビューティーペアとか、クラッシュギャルズというスターを生み出し、一斉を風靡しました。試合の前に選手が歌い、若い女性ファンが熱狂したんですね。更に、男子の世界では、ジャイアント馬場の付き人をしていた大仁田厚が、FMWという団体を旗揚げしました。電流爆破デスマッチを行い、川崎球場を満員にしたこともあります。メジャー団体との反対概念で、インディー団体というものがありますが、このインディーというのはFMWが最初だったのではないでしょうか。メジャー団体の楽しみは、迫力であったり、華やかさであったりする訳ですが、インディーの魅力は「あまり世間には知れ渡っていないけれども、自分は知っている」というマニアックな喜びがあったりする訳です。現在、日本にいくつ位のプロレス団体があるのか分かりませんが、女子だけでも15団体はあるようです。今は、会いに行けるプロレスラーが沢山いるんです。試合の前後には、握手会、サイン会、グッズの販売、記念撮影などがあり、このような営業スタイルは、AKB48よりもプロレスの方が先だったのだろうと思います。

 

時代は進み、SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)なるものが登場する。その影響は、もうプロレスどころの騒ぎじゃありません。ネットを通じて、誰もが公に情報を発信できる時代になった。そこから発信される情報の種類というのは、千差万別ではないでしょうか。そして、SNSが可能とするコミュニケーションというのは、過去には見られなかった新しい遊びの一種だと言えるように思います。

 

かつて、どこかの誰かがビー玉を眺めながら、これで何か楽しいことはできないだろうかと思案した。現代人は今、インターネットという未知なるものと出会い、同じように思案しているのではないでしょうか。これで、何か遊べないだろうかと。そして、You Tubeが登場し、世界中の人々が、何か楽しいことを見つけようとしている。今は、そんな時代だと思うのです。

No. 109 遊びとは何か(その9)/近代の遊び

第二次世界大戦に敗れた日本では、大変な混乱が生じた。何しろ、広島と長崎に原爆が投下され、東京も焼野原になった。日本にやってきた米兵の行いも酷かったようです。「占領軍であった米兵の強姦、強盗、窃盗、略奪は、米軍上陸直後から多発した」そうです。また、「中国人は戦勝国の国民であり、朝鮮人日本帝国主義から解放された人たち」となりました。(文献1

 

ネットの情報によれば、当時、日本の警察が弱体化していたのをいいことに、在日朝鮮人穀物倉庫から食料を略奪するという事件が相次いだ。警察もこれを取り締まれない。怒ったヤクザの親分さんが、これらの朝鮮人を成敗したこともあったそうです。そんなこともあってか、未だにヤクザはいい人だと主張する日本人も少なくないようです。ヤクザの親分さんがいるからこの地域は平和なんだとか、飲み屋ではそういう話を聞くことがあります。

 

そんな中で、最初に遊び始めたのは、やはり子供たちだった。缶蹴り、ビー玉、メンコ、べーゴマなどが普及していった。一方、大人の世界はと言うと、力道山アメリカで学んで日本に持ち込んだプロレスが大ブームとなる。当時のプロレスを支えたのは、主に、力士出身者と柔道家だった。最初の熱狂は、元力士の力道山と柔道家木村政彦の対戦だったようです。(文献2)写真で見たことがあるのですが、当時、街頭テレビというのがあって、その前にとんでもない数の人々が集まっている。それ位、人々は熱狂してたんですね。他に然したる楽しみ、遊びはなかったのだと思います。街頭テレビの時代から、徐々に白黒テレビが家庭に浸透する訳ですが、それでもプロレスの人気は衰えることがなかった。力道山は、朝鮮の出身者ですが、そのことは極秘にされ、皆、日本人だと信じていた。そして、日本人である力道山が、体の大きな外国人レスラーを空手チョップでやっつける。こういう構図が成り立って、人々は熱狂したんです。

 

テレビの普及が進むと、次第に「遊びの職業化」ということが起こってくる。テレビ番組を作るためには、歌手、役者、芸人などの需要が飛躍的に高まったものと思います。中世、例えば江戸時代にもそういう人たちはいましたが、何しろ、生で演じる以外に方法はなかった。従って、それを楽しめる人の数というのは、極めて限定的だったはずです。それがテレビとなると、同時に多くの人々が楽しむことができる。そして一般国民は、テレビを通じてそれら芸能人が作り出す遊びの世界を見るようになった。従って、近代の人たちは、自らの発想力を駆使して遊びを作り出す、ということをしなくなったような気がします。テレビを見るというのは、あくまでも受動的な行為だと思うのです。しかし、それも無理のないことだったと思うのです。当時の人たちは、あの焼野原から、高度経済成長の時代に猛烈に働き、今日の日本の繁栄を作り出したのですから。多分、遊んでいる余裕は、あまりなかったに違いありません。

 

テレビと並んで日本人の遊びの質に影響を与えたのは、自動車だと思います。自動車はその利便性のみならず、移動すること自体が楽しい。遊園地のジェットコースターなどを含め、“身体感覚系”の遊びが発生したのも近代だと思います。

 

ところで、この近代という時代を振り返ってみますと、人々は夢を見て、夢に破れた時代ではないかと思うのです。例えば日本人は、大きな冷蔵庫があって、クルマがあって、自宅にプールがあるようなアメリカ人の暮らしぶりを知り、いつか自分たちもそういう生活をしたいという夢を持った。そして、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器などと言われた時代だった。確かに、それらはやがて自分たちの手に入りましたが、どうもそんなに楽しい暮らしにはならない。満員電車に揺られて通勤するサラリーマンの生活というのは、希望の持てるものではなかった。士農工商という身分制度はなくなりましたが、今度は学歴社会になり、母親たちは子供の教育に心血を注ぐようになった。社会主義思想というのも、一つの夢だった。その夢も急速に萎んでいった。団地ができて、マンションができて、人々の関係性も希薄になっていった。そんな風潮が、昭和の演歌を生んだのではないでしょうか。そこには、孤独と向き合う人間が描かれている。生活に疲れ、競争に疲れ、夢破れた人たちが演歌を聞き、自分たちの孤独と向き合ったのではないか。映画の世界も同じで、高倉健が男の哀愁を表現し、渥美清が男の切なさを演じた。しかし、例えば演歌を聞いていた人たちのメンタリティというものを考えますと、彼らは決して、孤独が嫌いではなかったような気がするのです。孤独を楽しんでいたという訳ではありませんが、孤独でいる自分を是としていたような気がします。

 

そして、ジャズの世界でも、同じようなことが言えるような気がするのです。ジャズのスタンダードに“聖者の行進”というのがあります。これは、明るくて、大人数で行進をする。そういう曲です。ジャズの起源というのは、そういう音楽だった。ジャズのそういうイメージを一気に転換したのは、1956年にマイルス・デイビスが発表した“ラウンド・ミッドナイト”だと言われています。その後ジャズは、都会の夜に、孤独な男が酒を飲みながら聞く音楽に変わったのです。

 

古代の人々の興味の対象は、自然だった。中世になり、人々の興味は人間に移った。そして近代になり、人々は自分自身、すなわち孤独と向き合い始めたのだと思うのです。

 

(参考文献)

文献1: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014

文献2: 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか増田俊也新潮文庫/2014

No. 108 遊びとは何か(その8)/戦時中の遊び

江戸時代からスゴロク、カルタなどはありましたが、明治になるとトランプやビリヤードが普及したようです。神戸市の統計によると、大正5年(1916)の市内の遊技場は、次の構成となっていたそうです。(出典:日本遊戯思想史、以下「文献1」)

 

空気銃射的場・・・・・・5

球投げ場  ・・・・・・4

大弓および楊弓場・・・・1

玉突場   ・・・・・14

魚釣場   ・・・・・・1

碁席および将棋会所・・・0

 

球投げ場というのは、何か、的に向かってボールのようなものを投げていたのでしょうか。また、楊弓というのは、遊び用の小さな弓のことのようです。詳細は分かりませんが、当時の雰囲気が伝わってきますね。また、最近はあまり見かけなくなりましたが、当時、ビリヤードの人気の高かったことが分かります。

 

一方、日本は50年戦争とも呼ばれる、過酷な時代に突入します。主要な戦争を列記してみましょう。

 

日清戦争     1894~1895 (明治27年~明治28年)

日露戦争     1904~1905 (明治37年~明治38年)

第一次世界大戦  1914~1918 (大正3年~大正7年)

日中戦争     1937~1945 (昭和12年~昭和20年)

第二次世界大戦  1939~1945 (昭和14年~昭和20年)

 

こう並べてみますと、日本は51年の間に大きな戦争を5回も経験したことが分かります。そして戦争は、遊びという庶民や子供たちのささやかな楽しみまで、奪っていったようです。「文献1」には、次のように記されています。「戦意高揚のため軍国美談や軍神を創作することであった。文部省検定の教科書にこれらを載せて児童に学ばせ、小学唱歌として軍国美談や軍神を讃える歌を唱わせた」。

 

私の世代では、上記引用のうち、まず、“軍神”という言葉の意味が分からない。広辞苑で調べてみますと「すぐれた武勲をたてて戦死した軍人を神にたとえた語」とあります。なるほど、こういうりっぱな軍人さんがいて、こういう活躍をしたという話をつくっては、子供たちに教えていたということですね。

 

同じく「文献1」によれば、日本で最初の麻雀同好会というのは、大正7年(1918)に誕生したそうです。そして、神戸市における麻雀クラブの数は、昭和6年(1931)が最高の245軒を記録していますが、昭和15年(1940)には、わずか18軒まで減少しています。この急減には日中戦争が影響しているようで、麻雀は「亡国遊戯」と呼ばれ、在日中国人と共に政府や軍部から弾圧を受けたのが原因だったようです。

 

1940年になると、日本国政府は、高価な遊戯具をぜいたく品として、その製造販売を禁止しました。次に、遊技場の営業時間を短縮させ、大衆娯楽雑誌の販売も禁止したようです。更に、「街頭の酔客、特に昼間から玉突き、麻雀に耽る学生」は、取締りの対象とされたようです。更には、10戸を一つの単位とする隣組を組織し、家庭内における娯楽についても、これを監視する体制を作ったのです。隣組の目的は、住民相互の監視であって、酒の密造、不倫、花札、麻雀などが発見されると憲兵に通報されたそうです。

 

ここまでは、政府や軍部による遊びに対する弾圧なのですが、更に、遊びは軍部の意向を助長する側に回ってしまうのです。例えば昭和16年のことですが、家庭で遊ばれていた「小倉百人一首」に代わって「愛国百人一首」なるものが推奨された。そして、「愛国百人一首」は、隣組を通じて、半ば強制的に購入させられたそうです。購入を拒否すると、反戦思想の持主であると疑われたそうです。しかし、「文献1」の著者は、次のように述べています。「愛国百人一首ほど為政者の遊びに関する無知と無理解を露呈したものはほかにない。国民が要望しない遊びを押しつけても成功するはずはなかった。軍国主義とはこのような狂気であった」。

 

やがて政府は「ぜいたくは敵だ」というスローガンを掲げると共に、「浪費や遊興が時局に逆行した行為であると共に利敵行為である」と主張し始める。

 

軍国主義は更に暴走し、子供用の遊具として、ピストル、機関銃、迫撃砲、戦闘機、装甲車などが作られた。人気のあった紙芝居も軍国主義に沿った内容のものになった。子供向けの雑誌には、軍事小説なるものが掲載された。「文献1」には、次の記述があります。「学校で天皇のために死ぬことを教えられ、家に帰っても見るもの、読むもの、遊ぶもの全部、軍国主義であった」。

 

昭和17年当時、徴兵の年齢は20歳からだったそうですが、14歳になると陸軍と海軍に志願できる制度になっていました。そして、政府は子供たちにこう呼びかけたそうです。「少年よ来れ、そして選ばれた戦士になれ」「少年諸君よ空にいこう」。やがて、戦争が激化し、少年兵の「志願者」の数が、学校ごとに割り当てられたそうです。但し、中には親の反対を押し切るか、または親に内緒で志願した子供もいたそうです。昭和17年(1942)、ミッドウェー海戦で死亡した兵士の、志願した時点での年齢について、次の記録が残っています。

 

14歳で志願 ・・・ 8

15歳で志願 ・・・ 39

16歳で志願 ・・・158

 

愛国百人一首も、軍事小説も、そんなものは“遊び”ではありませんね。残念ながら、50年戦争と呼ばれる時代には、“遊び”は政府や軍部によって禁止された。“遊び”の歴史を考えますと、この時期は空白期間であったと言えます。

 

(参考文献)

文献1: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014

No. 107 遊びとは何か(その7)/戦い始めた中世の遊び

厳密には、大型動物を追いかけて日々移動していた時代と、農耕を始めて定住し始めた時代の間に、中間的な生活形態があったようです。生活の糧は相変わらず狩猟、採集にありましたが、簡単な住居を構えてキャンプのような生活をし、必要に応じて移動する、というのがそのパターンです。

 

ここでは簡単に、農耕、牧畜を生業とし、定住し始めた時代を中世と呼ぶことにしましょう。

 

考えてみますと、“定住”するということは、人々の暮らしに劇的な変化をもたらしたはずです。まず、住居を作る技術が発達する。農作物は保存が可能だったので、食料に対する所有という概念が生まれる。ちなみに、日本の弥生時代には高床式の住居が作られましたが、これは床が地面から浮いているので、湿気を避けることができ、食料の保存に適していたと言われています。

 

保存されている食料や家畜という資産が生まれますと、その取り合いによって、部族間の争いが生じる。武力衝突を起こしますと、味方の側にも相当な被害が生じますので、好んで戦っていた訳ではないと思うのですが、飢饉のような状況が生じますと、武力による食料の争奪戦は不可避だったように思われます。こうなってきますと、他の部族、すなわち人間集団というものが、人々にとって、恐怖の対象となる。別の言い方をしますと、自然や動植物を興味の対象としていた古代に対し、人間が人間に興味を持ち始めたのが中世だと言えないでしょうか。

 

このような変化は、“遊び”の世界を一変させたのだと思います。では、個々の類型に従って、考えてみます。

 

競争系・・・人間同士で、競争する遊びが生まれた。その典型は、現代にも残っているスポーツです。競争するためには、ルールが必要で、この競争系の遊びと共にルールというものが生まれた。例えば、ヨーイドンと言ってから走り始めなければ、競争にならない。法律の原点は、遊びにあるという説まであります。また、多くのスポーツは、狩猟の際に要求された身体能力にルールを持たせて成立しているように思います。やり投げ、アーチェリー(弓道)などは、狩猟のための基本動作にルールを加えて、成り立っている。走る、投げる、跳ぶ、泳ぐなどの人間の基本的な身体能力は、農耕ではなく、狩猟において要求されたものだと思います。そして、これらの動作というのは、どう考えても単調な農作業よりも楽しい。そうしてみると、古代の仕事が、中世の遊びに変化したとも言えます。

 

ギャンブル系・・・ギャンブルが成り立つためには、負けた者が何らかの対価を支払う必要があります。従って、ギャンブルという遊びは、所有という概念が発生した後に生まれたものと思われます。

 

技能習熟系・・・家を作る、農機具を作るというところから、人々は技術を磨いていったものと思われます。そして、簡単な遊び道具を作るようになる。独楽やけん玉が生まれ、技能習熟系の遊びというものが発達したものと思われます。(但し、けん玉については、狩猟採集民が動物の骨で作ったのが最初だと言われているようです。)

 

ここまで見て来ますと、遊びというのも、その時々の社会環境に影響されながら、今日まで続いてきたことが分かります。ただし、そこに遊びの本質がある訳ではないように思うのです。歴史や政治や経済に影響を受けつつ、しかし、遊びを発明してきたのは、時の権力者ではなく、常に庶民の側だった。だから、遊びの世界というのは、平等なのかも知れませんね。中世という時代区分を考えますと、例えば士農工商などという階級制度があった。宗教の世界でも、神様に近い人が上で、遠い人が下の階級に置かれる。これらの階級制度に反して、遊びの世界というのは、開かれていて平等だと思うのです。確かに、何らかの財貨を持っていなければ、ギャンブルには参加できません。ルールを知らなければ、ゲームに加わることはできない。しかし、それらのハードルは、決して高くない。お殿様でも、商人でも、スゴロクをする時には、同じサイコロを振らなければならない。そこに、遊びの本質があるような気がします。誰でも、同じ条件で参加できる。それが遊びの本質ではないでしょうか。遊びを生み出してきた庶民の素朴さと優しさ。それが人々を惹きつけて止まない、遊びの魅力ではないかと思うのです。

No. 106 遊びとは何か(その6)/遊びの起源は古代にあり

いくつか視点を変えながら、“遊び”について考えてきましたが、やっとその輪郭が見えてきたように感じています。

 

結局、遊びの起源というのは、古代にある。我々ホモサピエンスの歴史を概観しますと、20万年前にアフリカで始まり、農耕と牧畜が開始されたのが1万年ほど前ですので、19万年、すなわち95%は、狩猟、採集を生業としてきた訳です。従って、多くの遊びや文化の起源も、この時代にあるんだと思います。日本に限って考えた場合でも、縄文人が日本列島に渡ってきたのは4~3万年前で、農耕文化を持ち込んだ弥生人の渡来は、わずか2300年前だと言われています。

 

ここでは大雑把に、狩猟、採集を生業としていた時代を“古代”と呼ぶことにします。

 

人間が何か、未知なるものと出会う。古代において、それは主に自然だった。そして、好奇心が触発された人間は、その未知なるものに対し、能動的に働きかけてみる。創意工夫を凝らして、なんとかそれを役立てる方法を探す。そして、遊びが始まったのだと思います。例えば、一本の木と出会う。なんとなく、蹴とばしてみる。枝を折ってみたりする。登ってみると、実がなっている。その実をちょっと齧ってみる。そういう生活態度は、狩猟、採集民が生きていく上で、必要不可欠だったように思うのです。

 

狩猟採集民は、部族同士で争わなかったので、人間という存在は、恐怖の対象にはならなかったのだと思うのです。だから、狩猟採集民は人間に興味を持たず、もっぱら動植物に興味を持っていた。第一に、動植物は彼らにとって、貴重な食料だった。また、彼らは動植物になぞらえて、様々な仮説を立て、世界を理解しようと努めていた。それは、民族の起源であったり、火の起源であったり、あらゆる自然現象に対して仮説をたてた。すなわち物語を作って、理解しようとしていた。彼らは、動物の所作や鳴き声を真似てみた。次に、動物の毛皮や鳥の羽を使って、みずからを飾り立ててみた。そうやって、動物にまつわる物語を演じていたのだと思われます。それが、体系化されると“祭祀”となり、宗教色を帯びてくる。

 

狩猟採集民は、ヤリ、吹矢、弓矢などの武器を作り出した他、船を発明し、貝殻などを用いた装飾品も作り出しています。それらの産物を作り出す原点には、遊びがあったことでしょう。

 

では、No. 102の原稿で列記致しました遊びの種類のうち、古代に誕生したと思われるものを挙げてみます。

 

自然享受系・・・自然の恵みを享受するタイプの遊びは、この時代に生まれたに違いありません。

 

物語系・・・前述の通り、民族の起源等に関する神話、民話が無数に存在します。

 

演劇系・・・祭祀において、動物に扮した古代人が、演劇のようなものを行っていたものと思われます。

 

美術系・・・1万5千年前に描かれた洞窟画が、フランスのラスコー洞窟で発見されています。

 

音楽系・・・様々な民族が独自のリズムと独自の音階を用いた民族音楽を発明しています。これは私の想像ですが、鳥の鳴き声などを真似るところから、歌が発生したのかも知れませんね。

 

トランス系・・・長時間踊り続ける、極度の苦痛を受ける、麻薬を使用するなどの方法により、古代人はトランス状態になっていたようです。

 

但し、古代人が良く遊んでいたかどうか、という点については、議論がありそうです。そもそも、狩猟、採集という行為は、それ自体が遊びの要素を持っている。例えば、弓矢で動物を射止める。私はやったことがありませんが、動物が可哀想だという点を除けば、これは随分楽しそうです。また、山野に分け入り、果実を採集する。これも楽しそうです。よって、この時代においては、仕事と遊びとが、まだ、遊離していなかったと言えるのではないでしょうか。従って、彼らの生業自体を遊びだと定義すれば、古代人程、遊んだ人類はいないと思うのです。いやいや、それは食料を確保するための仕事であって遊びではない、と理解すれば、古代人はあまり遊ばなかったことになります。そもそも、狩猟、採集自体が楽しいので、他に遊びを見つける必要が少なかったものと思われます。