文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 118 アメリカの巡回裁判所

もう随分昔のことですが、アメリカのどこかで、私は巡回裁判所の建物をみたことがあるのです。モンタナ州のミズーラという小さな町だったような気もするのですが、自信はありません。

 

若い弁護士がハンドルを握っていて、私は助手席に座っていた。アメリカの地方のことですから、広大な土地があって、建物がまばらに見える。そんな感じだったと思います。それでも、一応その町では目抜通りであろうと思われる道を走っていた時に、ある建物が目に止まったのです。石造りの、相当古そうな白っぽい建物でした。教会かなと思ったのですが、十字架もマリア様の像もない。その建物に気を引かれている私の様子を察したのでしょう。若い弁護士が言いました。

 

「あれは、巡回裁判所だよ」

 

その時に覚えた感動と、建物の残像は、未だに私の心に明確に残っています。こんな小さな町に、それでも裁判所があるんだ! 例えば、日本の小さな町にでも病院や小学校があったりする。それと同じように、アメリカの小さな町には、裁判所があるんです。それも、かなり昔から。そこに、私はアメリカの民主主義の原点を見たような気がして、感激していたのです。それだけ、アメリカという国は、人々が裁判を起こす権利というものを尊重している。そして、裁判という法律上の制度が、人々の紛争を解決する手段として、生きて機能している!

 

ちょっとご説明しますと、巡回裁判所には、裁判官や職員が常駐している訳ではないのです。例えば、毎週何曜日という具合に決まっていて、その日だけ裁判官や職員がやって来るのです。アメリカの広大な土地と、アメリカ人の知恵が産み出した、小さな裁判所のシステムなんですね。しかし、いかがでしょうか。日本だったら、大きな都市に裁判所を作って、裁判をやりたければそこまで来い、ということになっているのでは。そこが、アメリカは違うんです。はるばる裁判官が、やって来てくれるんです。こんな草の根レベルから、日本とアメリカとでは違っているんです。

 

アメリカの法律制度の特色のひとつに、強力な州法というものがある。例えば日本だったら、会社に関する法律は、全国共通の会社法というものがあって、裁判の手続だったら、民事訴訟法、刑事訴訟法というものがあって、これらも全国共通です。一方、アメリカではこれらの法律は、全て州法に決まっている。50以上の州があって、それぞれの州が独自の法律を定めているんです。民法のような法律も、州によって異なる。日本の法律というのは、原則的には文書に記載されています。これを制定法と言います。そして、法律の微妙な解釈については、判例に従うことになる。他方、アメリカでは、原則として、まず判例がある。そして、過去の判例が、その後の事件を判断する時に、拘束力を持つんです。この規範を判例法とか、コモンローなどと呼びます。そして、その判例の蓄積というのは、州によって異なる訳です。このように、アメリカでは州ごとに法律の体系が異なりますので、その結果、弁護士の資格も州によって異なります。例えば、ニューヨーク州で弁護士の資格を取ったからと言って、テキサス州の法廷に立つことはできない。アメリカというのは、正に「合衆国」なんです。

 

最近、トランプ大統領が環境問題に関するパリ条約からの離脱を決断しましたが、いくつかの州で反対する動きが出ている。州法が強いので、こういうことが起こるんです。

 

アメリカの訴訟制度の特徴には、「陪審制」ということもあります。最近は、日本でも重大な刑事事件についてのみ、裁判員制度というのが適用されていますね。そのベースとなったのが、アメリカの陪審制です。アメリカでも裁判官が判決を下すという方法もあり、州によっては、裁判の当事者がどちらかの制度を選択できます。しかし、私の印象としては、アメリカ人というのは、陪審制が好きなようです。アメリカでは、民事事件でもこの陪審制が適用されます。例えば、製造物責任に関する裁判がある。すると、アメリカの一般の国民が陪審員となって、侃々諤々論議をするんですね。この件では、製造物に欠陥があったのかとか、被害者がかわいそうではないかとか、論議をする。するとそこから、色んなロジックが生まれてきて、それが判例法を形成していくんです。製造物責任に関する裁判であれば、「欠陥とは何か」ということが問題になります。例えば、飛行機に乗ったらそれが墜落してしまった。しかし、飛行機というのは、一定の確率で墜落するものだから、その都度、賠償責任を課していては、飛行機会社が倒産してしまう。こういうケースは「危険の引き受け」という概念で処理できないだろうか。例えば、ナイフで指に怪我をしてしまった。しかし、ナイフが危険なものであるということは、一目瞭然だ。こういうケースは、「明白な危険」という概念を作ってはどうか。こういうロジックが次々に生まれるんです。すると、学者や弁護士も論議に参戦してくる。元来、どんな製造物にもリスクはつきものだ。例えば、医薬品であれば、その副作用というリスクがある。他方、医薬品には病気や怪我を直すという便益もある。従って、その双方を比較して、リスクが便益を上回った場合、その製造物には欠陥があるということにしてはどうか。こんな考え方まで、出てくるんですね。ロジックとして、いかがでしょうか。ちなみに、私はこの考え方に賛成です。(Risk Utility Balance と言います。)

 

日本ではどうかと言いますと、アメリカからの圧力もあって、製造物責任法が制定されました。そこには、欠陥の定義について、こう定められています。「製造物が、通常有すべき安全性を欠いている場合」その製造物には、欠陥があるというんですね。言い換えれば、平均点以上であれば、欠陥はないということになります。いかにも、日本のお役人が作ったような感じがします。そこに、ポリシーは感じられません。そして、日本ではあまり裁判は起こりません。従って、議論もない。最新の事情は分かりませんが、多分、今日でも日本で欠陥と言えば、上記の条文通りの解釈が通用しているのではないでしょうか。

 

私は、必ずしもアメリカの制度の方が日本よりも優れていると言うつもりはありません。アメリカの制度も問題だらけです。しかし、一つ言えると思うのは、アメリカ人は、民主主義を維持するためのコストというものを決して、惜しんでいない。むしろ、そういうコストというのは必要なものなんだという共通認識があるのではないか。そう思うのです。また、陪審制というのは、これにもメリット、デメリットはありますが、一般の国民が判例法の蓄積に関与するシステムである、とも言えます。アメリカの制度というのは、一般の国民が、司法のみならず立法にも関与している。

 

アメリカでもトランプ氏のような人が大統領になってしまうことがある。そして、当然のごとくスキャンダラスな問題が発生する。この点は、日本と変わりがない。しかし、問題が起きてからの展開が違う。元FBIの長官は、議会で証言したのではないでしょうか。他方、日本の国会は、皆様ご存じの通り、幕を閉じました。前回の記事に対しまして、DENDAさんから的確なコメントをいただきました。有り難うございました。私も、同感です。

 

 

 

 

 

No. 117 日本人の忘れ物

ここ2~3日、YouTubeにハマッてしまいました。何を見ていたかと言えば、主に国会中継を見ていたのです。YouTubeというのは、過去の画像だけだと思っていたのですが、“Live”と表示された生中継もあるんですね。これには、ちょっと驚きました。もちろん過去の映像もある訳で、今は国会の審議内容を画像で、簡単に確認することができる。当然、政治の透明性は向上する訳ですが、国会議員や官僚の方々にとっては、大変な時代になったものだなと思います。面白いと言ったら不謹慎ですね。見応えがあったとでも言いましょうか。色々なことを考えさせられました。

 

まず、加計学園の問題ですが、腑に落ちないことばかりです。1点、指摘させていただきたいのは、元文科省事務次官の前川氏に対する個人攻撃です。ご案内の通り、前川氏の記者会見、内部告発と言って良いと思うのですが、ここから事件は急激に進展してきました。これに対し、まず、読売新聞が前川氏の「出会い系バー」通いの問題を報じた。そして、菅官房長官が、そういう場所に行って女性にお小遣いをあげるのはいかがなものか、と発言した。菅官房長官は、更に、前川氏が文科省事務次官を退任する際、ポストにしがみつこうとしていた、という発言もしています。当然、私たち国民が知りたいのは、文科省の行政プロセスが、総理の意向によって捻じ曲げられたのか否かということであって、前川氏のプライバシーではありません。そして、この2つの事項の間に、因果関係はない。菅官房長官は頭の良い人ですから、そんなことは百も承知のはずです。しかし、事実として、定例の記者会見で前川氏に対する個人攻撃を繰り返した。つまり、日本の国民というのは、その程度だろうと思っている訳です。また、止せばいいのに、それに乗じて前川氏のプライバシーを批判する報道もありました。日本の一般国民のレベルというのは、本当に、その程度なのでしょうか。

 

皆様は、詩織さんという女性が、レイプ被害を受けたとして、会見を開くと共に検察審査会に申し立てを行っている件は、ご存じでしょうか。私がYouTubeから得た情報をまとめると、まず、詩織さんが就職の相談で、山口敬之(ノリユキ)氏とお酒を飲んだ。元来、詩織さんはお酒に強いのですが、この晩は、意識を失ってしまった。山口氏はタクシーで詩織さんをホテルに連れて行って、意識を失っている詩織さんを凌辱した。当該事実は、ホテルの防犯カメラの映像などによって、ある程度、立証可能な状況となっている。警察は、山口氏に対する逮捕状を取得したが、執行する直前になって上層部から指示があり、逮捕を取り止めた。山口氏は、法に触れるようなことはしていないと主張している。なお山口氏は、安倍総理と親交があり、安倍総理を褒めたたえる本を2冊、執筆している。

 

当然、警視庁の上層部が逮捕状の執行を取り止めた理由は何か、そこに興味がある訳ですが、それはまだ分かりません。ただ、ネット上では詩織さんを批判するコメントが、かなりあったそうです。仮に政治的な意図があってのことだとしても、それは人間のモラルとして許されることではない。少数だと信じたいとは思うのですが、同じ日本人として、残念でなりません。本件につきましては、検察審査会において適切な判断がなされ、その後の刑事手続において、真相が明らかになることを願っています。

 

また、元経産省の官僚だった古賀茂明氏が外国人記者クラブで開いた会見も見ました。(タイトル:メディアと安倍政権の裏側を語る) 古賀氏は、かつてテレビ朝日ニュースステーションでコメンテーターをしていた方ですが、最後に“I am not Abe”と記載した紙を掲げ、古館氏と口論となり、番組を降板した人です。私はたまたま、その時の放送を見ていたのですが、腑に落ちないことばかりでした。元来、テレビ朝日というのは朝日新聞の系列で、左寄りのはずなのに、何故、古館氏が慌てていたのか。その当時の経緯について、この会見の中で古賀氏は詳細に語っています。ポイントのみ記しますと、当時、後藤健二さんというジャーナリストがイスラム国に拘束されていた。しかし、安倍首相はイスラエルの国旗の前で会見を開くなどして、後藤健二さんの救出に熱心ではないように見えた。そこで、日本人の中には安倍総理と異なる意見を持っている人間もいるのだということを、イスラム国側にメッセージとして伝えたかった、というのが真相のようです。こういう話というのは、聞いてみないと分からないものです。なお、当時、テレビ朝日は、朝日新聞とは袂を分かって、安倍総理との親交を深めようとしていた、との説明もありました。このような話を聞いてしまうと、冒頭に記した読売新聞もそうですが、メディアというのは、一体どこまで信頼できるのか、不安になってしまいます。

 

古代から始めて、現代に至るまでの文化の系譜を考えてきた私と致しましては、まず、“文化の基本原理”から始まって、宗教に至る一つの流れがある。また、そこから分岐した慣習というものがあって、それが法律へとつながる。そう考えている訳ですが、どうも現代の日本というのは、法律によって動いていない。物事を考える際の論理性というものが、十分に育っているとは言い難い。モラルも高いとは言えない。何故か。それは、日本という国が、近代にやっておくべきことをやらずに来てしまったからではないか。平凡な結論で恐縮ではありますが、いくつかの欧米諸国では、時の政権と対峙して、民主主義を獲得してきた歴史がある。それに対し、日本国民というのは、時の政権と向き合うことなく、日本国憲法と共に民主主義が与えられた。そこに、問題があるような気が致します。近代という時代に、やり残したことがある。それは、民主主義とは何か、法治国家とは何か、基本的人権とは何か、そういうことを真摯に考え、学ぶことではないでしょうか。それをやらない限り、日本人のモラル感覚というのは、改善しないように思うのです。

No. 116 文化の現在(その2)

文化の構造図を眺めていますと、左側に記載した項目、すなわち遊び、大衆文化、前衛芸術は、どれも自由なんです。他方、右側に記載した伝統文化と法律というものは、どうもその反対で、束縛されるイメージが強い。

 

思うに、古代人は比較的自由で平等な暮らしをしていた訳ですが、それが農耕、定住を始めると、経済的に価値のある富というものが出現し、その分配をどうするかという問題が生じた。そこで、権力者が出現し、国家が誕生する。すると、それまでの慣習と、宗教的な規範が融合して、初期の法律というものができる。そこから、人間が秩序を求める傾向というのは加速し、近代に突入した。近代において、そのような秩序に異議を唱えたのは、前衛芸術家だったと思います。一方、政治の世界では社会主義思想というものが誕生する。しかし、これも集団の利益を尊重するものであって、既存の秩序に置き換わる新たな秩序たりえなかったのではないでしょうか。

 

そのような経緯で、どこか息苦しい現代という時代に至ったのではないかと思います。現代に生きる私たちは、自由でしょうか? 私たちは未だに宗教的な規範と、法律の双方に束縛されている。だから、息苦しいのではないか。そうしてみると、ポストモダンのメンタリティがディタッチメント(関与しないこと)と言われるのも、無理はない。息苦しい、束縛されている、ではいっそ現実社会というものと距離を取ってしまおう。そういう流れではないでしょうか。

 

世界的な規模で見ますと、現在も宗教上の規範と、法律の双方が激しく対立しています。インドの法律は、カースト制度を禁じている。しかし、カースト制度はそう簡単にはなくなりません。

 

アメリカでは、キリスト教徒の団体が人工中絶を全面的に禁止する法律の制定を求めています。この法律が成立すると、例えばレイプ被害にあって妊娠してしまった人までも、中絶できなくなってしまう。これは、過干渉の典型ではないか。(さて、干渉し過ぎるということを、“過干渉”と表現したのですが、この言葉は広辞苑には載っていません。もし、私の造語であれば、ご容赦ください。)人工中絶には反対だというキリスト教の人々は、そう考えるのであれば、自分たちがそうすればいいだけの話であって、何も、他の人まで拘束する必要はないと思うのです。しかし、往々にして、人間はある秩序の中で生きていると、それが価値観となり、他の人にも同じ価値観を共有するよう求めてしまう。

 

数日前の新聞に載っていたのですが、イスラエルLGBT性的少数者)の解放を主張する大規模なデモがあったそうです。イスラエルは当然ユダヤ教で、確か、国民の85%がその信者となっている。そして、ユダヤ教は同性愛を禁じているそうです。この場合は、宗教上の規範が、人々に干渉し過ぎていると思うのです。

 

このように、現代におきましては、様々な人々が現存する秩序に対し、異議を述べ始めていると思うのです。

 

大体、人間社会の秩序というのは、人間を区別するところから始まるんですね。学校の運動会でもそうですね。「男と女に分かれて、背の低い者から順に並べ!」。これが区別だと思うのです。しかし、区別は、やがて差別となる。そういうことに、現代人はほとほと嫌気が差している。

 

まず、男女の区別。日本では、日本国憲法によって女性の参政権が認められたと思うのですが、なかなか実態は、男女同権とはいかない。そこで、男女雇用期間均等法ができたりする。

 

私が学生だった時分には、日本の刑法に尊属殺人という規定がありました。尊属というのは、自分よりも上の世代、すなわち両親だとか、祖父母のことです。その反対が、卑属ということになります。そして、卑属が、すなわち子供や孫が、親や祖父母を殺害した場合には、尊属が卑属を殺害した場合よりも刑罰が重くなる可能性があった。これは憲法に反するということを教わった記憶があります。気になって調べてみたところ、現在では、かかる刑法は是正されています。しかし、卑属という言葉自体、これは蔑視ではないか。腹立たしい限りですが、つい最近まで、日本の法律ですら宗教的な価値観と融合していたんですね。

 

肌の色、目の色などに基づく、人種差別というのもあります。もう、そういうのはいい加減勘弁してくれ、というのが現代人のメンタリティではないかと思います。

 

ところで、皆様は、官尊民卑という言葉をご存じでしょうか。字の通り、官僚が偉くて、民間は卑しいという考え方です。そういう、風習が日本には残っていないでしょうか。その起源について、面白い話があります。江戸時代にまで遡るのですが、当時は下級武士が幕府や藩の運営に関わる仕事をしていた。そして、明治維新を迎える訳ですが、それらの下級武士の組織が、官僚制に移行したというのです。これは、小室直樹さんという方の説です。官僚制になっても、元々、自分たちは武士だった。士農工商のトップに位置付けられていた。だから、偉いんだということになる訳です。このような価値観、現代では通用しませんね。

 

そもそも、政治家や役人と言うのは、国民が税金を支払って、その運用を委託するという関係にあります。従って、その税金がどのように使われているのか、政治家や役人は国民に説明する責任がある訳です。そこで、2001年に情報公開法が施行されたのです。テレビのニュースなどで、よく真っ黒に塗りつぶされた資料を野党の人が持っている場面が放映されますが、この黒塗りの資料というのは、情報公開法に基づいて、お役所が公開したものなんですね。私はそれでも、法律がないよりは、あった方が数段良いと思います。

 

何故、こんな話をするかと言えば、現在、加計学園に関する文科省の対応が問題視されているからなのです。今日まで、政治家の賄賂や口利き、役人の天下りなどの問題は無数にありましたが、役所の仕事の仕方自体が政治問題となったケースは、あまりないように思います。結論がどうなるかは分かりませんが、この件なども、長い目で見ると、官尊民卑という古い秩序、価値観を変える重要な出来事となるかも知れません。

No. 115 文化の現在(その1)

遊びや大衆文化というものは、大人たちや時の政権、軍部には、嫌悪されてきたのだと思います。その理由につきましては、50年戦争の期間、政府によってそういう価値観が国民に刷り込まれたからだ、という見方もあるようです。確かに、戦時中のモットーは「欲しがりません。勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」というものでした。遊んでいる国民は、けしからんということだったのしょう。しかし、本質的には、もう少し別の理由もあったのではないかと思うのです。すなわち、遊びとか大衆文化というのは、新たな秩序を生み出す可能性を秘めている。それが、時の政権側にしてみれば、どうにも嫌だったのではないでしょうか。類似する事例としては、キリスト教が、熱狂的な祭祀を禁止した、ということがあります。お祭りにおいて麻薬などを使用し熱狂していると、幻覚が生じ、自ら神の声を聴いてしまう可能性がある。すると、そこから新たな宗教が生み出されるかも知れない。既存のキリスト教徒は、かかる事態を避けなければならない。だから、熱狂する祭祀というのは、禁止されたんですね。更に、アメリカのFBIや入国管理局がジョン・レノンを嫌がった。これも同じ理由だと思うのです。正に自由人であったジョン・レノンは、何を言い出すか分からない。だから、ベトナム戦争を推進していた当時のアメリカ政府としては、ジョン・レノンの奔放さに対し、過敏に反応した。

 

近代以降、人間には個性がある、それを伸ばすべきだという考え方があります。しかし、日本の社会が認めてきたのは、言わば“管理された個性”だったように思うのです。例えば、「君は足が速いね。素晴らしいことだ。では、野球の1番バッターをやりなさい」という具合に。このように、その子の個性は、野球という既存の秩序の中に組み込まれていく。「君は、絵が好きなんだね。では、美術部に入りなさい」。これが、個性というものを記号化し、既存の秩序に組み入れていく方法だと思うのです。しかし、本当に自由な発想とか、個性というものは、既存の秩序の中で育まれることはない。それは、遊びとか、大衆文化の中でこそ、発揮されるのではないか。

 

現代社会に通底するメンタリティというのは、近代的な芸術というものを生み出さない。これはもう仕方がないと思うのです。時代が変わったんです。しかし、これから生み出される新しい何かが、人々に衝撃と感動を与えるのであれば、それは必ずしも近代的な芸術である必要はない。そしてその新しい何かというのは、必ず、大衆文化の中から生まれてくる。更に、その萌芽というものは、既に育ち始めているのかも知れません。例えば、それはスタジオ・ジブリが制作しているアニメーションかも知れません。CGという技術が、何か、使い古された文化に伊吹を与えるかも知れません。これから普及するロボットや人口知能が新たなリリーサーとなり、人々は全く新しい遊びを発明する。

 

全ての文化は、遊びから始まった。だから、遊びや大衆文化を否定することは、文化の起源を否定することに等しい。そう思いませんか? 遊びや大衆文化を肯定し、その中で、人生を謳歌していく。現代という時代には、そういう生き方が相応しいと思うのです。

No. 114 文化のダイナミズム(その4)

伝統文化の究極の形は、宗教ではないでしょうか。そこには、祈祷の方法、食事の作法、衣服、建築物の様式、葬送の執行方法など、あらゆる秩序が定められています。遊びから始まって、伝統文化に至るプロセスの詳細につきましては、このブログの冒頭で述べましたステップによるものと考えています。繰り返しは避けますが、項目だけ列記してみます。

 

1.遊び

2.言葉

3.アニミズム

4.物語

5.呪術

6.祭祀

7.シャーマニズム

8.宗教

 

こう並べてみますと、言葉の起源も遊びにあったことになります。私は、多分そうなのだろうと思います。ただ、それは痛いとか、腹が減ったというものではなく、古代人の好奇心を解放するリリーサーが動物であったことに鑑み、動物に関わる何らかの言葉が生まれたのが最初だという気が致します。また、分類としては、言葉から祭祀までを大衆文化として、シャーマニズムと宗教を伝統文化の区分に入れるのがすっきりすると思います。

 

ところで、深沢七郎の小説を読んでおりますと、遊びから宗教に至る一連の流れとは異なる、もう一つの秩序を形成する流れが見えてきます。まず、山奥の農村で間引きをする時には、かならず屏風を逆さまに立てて、その中で出産するという風習がありました。この屏風を逆さまに立てるということには、何か、呪術的な意味合いがあると思うのです。それと同時に、特定の屏風を逆さに立てなければならない、というルールにもなっていて、このルールは長年、その村では守られ続けていた。すなわち、慣習になっていたということですね。

 

また、他の農村では、長男が田畑を相続し、次男、三男は結婚することも許されず、下男のように働くという例(東北の神武たち)もありました。また、この例では、生まれてきた娘は、所定の年齢になると売り飛ばしてしまう。老婆を姥捨て山に捨てて、口減らしをするという風習もあります。このように深沢七郎の小説に出て来る慣習というのを見て行きますと、どうやらその目的は、一族が生き延びるため、食いつないでいくことが目的になっている。

 

その他にどんな慣習があるだろうかと考えてみますと、例えば農村で、田植えとか稲刈りなどを行う時には、互いに協力し合うということもありそうです。また、現在でも続いていると思うのですが、市場で取引をする時に、売主と買主が筒状になっている布に手を入れ、その中で値段を決める、というのもあります。

 

お盆や命日に墓参りをするという宗教上の慣習というのも少なくありませんが、明らかに宗教とは離れた、別の目的を持った慣習というものが存在する。慣習というのは、それを守ることに何らかの利益がある訳、これに価値を見出そうとするのは、自然の成り行きだと思うのです。

 

また、紛争解決の手段としての慣習というものも存在したのだと思います。アメリカでは、ピストルによる決闘という方法もあったようです。また、紛争が生じると街の住民が集まって、そこで当事者が意見を主張する。そして、皆で相談して結論を出すという仕組みもあったようです。この方法が、アメリカの陪審員制裁判の起源だという説もあります。このような文化的な背景があるので、アメリカ人は子供の頃からディベートの訓練を受けているんですね。

 

すなわち、宗教へ向かう一連の流れでは解決できない問題というのがあって、それを慣習が補完してきたのではないでしょうか。やがて国家が生まれ、慣習が法律となった。この慣習の成立時期は相当古いとは思うのですが、人間が農耕を開始し、定住してから発生したのではないかと思います。

 

この慣習から法律へとつながる流れも、文化の枠組みに含めて考えた方が良いと思うのです。そうでないと、なんとか飢餓から逃れよう、生き延びようとしてきた先人たちの知恵や、現代という時代が抱えている様々な法律上の課題を見落としてしまう。

 

さて、これにて私の考える文化の構造についてのご説明は、一応、完成したことになります。

 

次回は、この“文化の構造”をベースに、現代に生きる私たちが置かれている状況について、述べてみたいと思います。

No. 113 文化のダイナミズム(その3)

No. 111の原稿に添付致しました「文化の構造図」に従って、次は、大衆文化について考えてみます。これは遊びが普及し、ある程度体系化されたものということになります。決して、悪い文化、程度の低い文化、という意味ではありません。

 

大衆文化の本質を考えますと、これにはどうやら2種類あると思うのです。一つには、構築しかかった秩序を壊してでも、変化を求めようとするもの。例えば、アートの世界なんかは、典型的にこのタイプだと思うのです。現代アートというのは、秩序を破壊することによって、成立している。このブログでも取り上げました画家のジャクソン・ポロックもそうです。60年代に発生したフリー・ジャズもそうですね。身近なところでは、プロレスもこのタイプだと思います。プロレスにも一応、ルールはありますが、新たなルールを生み出すところにプロレスの面白さがあります。チェーンデスマッチと言って、選手の手首をと手首を鎖でつないで戦うとか、金網の中で闘うとか、凶器を使ったりもします。プロレスでは、およそ人間が考え得るありとあらゆるものが凶器として使用されてきました。変わったところでは、ピラニア(リングの中央にピラニアの入った水槽を置き、相手をその中に沈める)とか、マムシというのもありました。今、DDTという人気団体がありますが、この団体はリングでやるのがプロレスであるという概念に挑戦していて、街中、キャンプ場、本屋、電車の中などで試合をしている。先日は、東京ドームを借り切って、観客なしの試合をしていました。

 

この変化を求める大衆文化というのは、時として天才が現われ、これを前衛芸術の域にまで高める。ビートルズがそうでしたね。ロックンロールとモータウンサウンドという大衆文化から出発して、遂にはA day in the lifeのような芸術作品に至った。マイルス・デイビスもそうです。70年代のマイルスは前衛的なジャズの頂点にいましたが、体調を崩し1975年にシーンから消えました。そして、1981年だったと思いますが、突如として復帰したのです。復帰後のマイルスは、シンディ・ローパーのTime after timeとか、マイケル・ジャクソンのHuman natureなど、ポピュラーな曲を取り上げたのです。ある日、インタビュアーが、何故、そのようにポピュラーな曲を録音したのか尋ねると、マイルスは「驚くことはない。俺は昔、当時のポップスだった“枯葉”を録音したことだってあるんだぜ」と答えていました。つまり、マイルスはいつの時代でもポピュラー音楽から出発し、新たな音楽を創造していたということなんです。天才芸術家とは言え、その人がゼロから出発して、作品を生み出すのではない。無数の人々が長い時間を掛けて築いたジャズという音楽の、遊びから大衆文化に至る蓄積があり、その上に立脚していたからこそ、マイルスはあのような芸術作品を残すことができたのです。そして、そのことを一番知っていたのは、マイルス本人だったに違いありません。

 

ちょっと余談ですが、マイルスがシーンから消えていた頃、デイブ・リーブマンという若いサックス奏者がマイルスの自宅を訪ねたことがあったそうです。マイルスはまず、サッチモ(ジャズ草創期のトランぺッター)の写真を指さしてこう言った。“From him, to me”そして今度はデイブ・リーブマンの胸を指さしてこう言った。“From me, to you”。これはもう、私などはシビれてしまいます。

 

ところで、芸術というのは、前衛だからこそ芸術足り得るのではないでしょうか。未知なるものを生み出すからこそ、人々に衝撃を与える。しかし、それが永遠に続く訳ではない。人々はそれに親しみ、やがて、衝撃は薄れていく。するとその前衛だった芸術作品は、大衆文化という巨大な領域に飲み込まれていくんだと思います。

 

人間が芸術を生み出す仕組みについては、このブログの“芸術を生み出す心のメカニズム”に詳述したので、ここでは繰り返しません。

 

さて、大衆文化の二つ目の類型として、あくまでも秩序、様式の完成を目指そうというものがあります。例えば、ドラマの水戸黄門などは、ワンパターンなんですね。最後には必ず「この印籠が目に入らぬか」と言って、ハッピーエンドで終わる。そう言えば、最近、テレビの2時間ドラマがなくなりつつあるそうです。理由はいくつかあるのでしょうが、これもパターン化されていて、そろそろ飽きられてしまったのではないでしょうか。まず、事件が発生する訳ですが、その裏に20年前の別の事件が絡んでいたりして、最後は何故か、犯人が崖の上で真相を告白して終わる。ちなみに私は“男はつらいよ”(フーテンの寅さん)は、48作全部見ているのですが、初期の作品と後期の作品とでは、ちょっと違うんです。これもワンパターンではあるのですが、そのスタイルは少しずつ変わっている。そして、後期の作品の方が、完成度が高い。様式の完成を目指していたのだろうと思います。

 

この秩序、様式の完成度を高めて行こうとする大衆文化は、それが続いていくと、やがて伝統文化になる。分かりやすい例で、大相撲というのを考えてみましょう。まず、これは子供たちの取っ組み合い、すなわち遊びから始まったのだと思います。やがて、地面に円形を描き、その中で闘うというルールができる。そして様式を追求し、現在では呼び出しから土俵入りから、全てその型というものが決まっています。柔道、剣道、歌舞伎、古典落語などもそうではないでしょうか。これらの伝統文化というのは、主に中世が生み出したものだと思います。そして、そこには階級制がある。大相撲では横綱大関、関脇などの階級があり、柔道、剣道には段位がある。落語の世界でも真打になるとどうとか、その他の伝統文化でも免許皆伝なんてことがある。どうも、この様式を重んずる伝統文化というものには、中世のメンタリティが深く関係しているように思えます。

No. 112 文化のダイナミズム(その2)

少し前に、アメリカでゴジラという映画が作成されたのは、ご存じでしょうか。既に何作もの作品が上映されていて、日本人としては、ゴジラに少し飽きていた。しかし、アメリカ人の映画関係者にとって、ゴジラは新鮮だった。つまり、アメリカ人にとってゴジラにはリリーサーとしての価値が十分にあったということだと思うのです。そこで、最先端のCGを駆使して、ゴジラの新作を作って、これは大ヒットしたのです。このように、ゴジラという文化は、時代を超えてアメリカに渡り、復活したと言えます。こんな例は、枚挙にいとまがない。アメリカには、現在、忍者になるための訓練をしている人たちのグループがある。このように文化とは、ある時代にある地域で流行したものが、時代を超え、空間を超え、復活するケースがあるんです。少しオーバーかも知れませんが、文化というのは、時空を超えるダイナミズムを持っている。

 

以前このブログで、「文化は科学に敗北したのか」という記事を掲載させていただいたことがあります。その時点では、敗北しそうだけれども、文化には頑張って欲しい、という気持ちでした。しかし、今の私なら、こう言うことができます。多くの科学者が努力して、何か、新製品を生み出す。すると好奇心を刺激された人たちが集まってきて、首を捻り始める。「ふむふむ。これって何だろう。これで何か、遊べないだろうか」。そして、その新製品は文化という枠組みに取り込まれていく。例えば、科学者が自転車という乗り物を発明する。これも、ゴムや鉄などの材料があって初めて成り立つものなので、相当な技術の蓄積を必要としている。そして、自転車という新製品が生まれると、好奇心に駆られた無数の人々が、それで遊び始める。ハンドルはこういう形の方がいいとか、サドルはこうしよう、タイヤは細い方がいいとか、カゴを取り付けたいとか、それはもうありとあらゆる試みがなされる。最近では、高級な折り畳み自転車というのがあって、折りたたんだ自転車を持って電車で移動する。目的地で自転車を組み立てて、サイクリングを楽しむなんてスタイルまで確立されているんです。最近テレビ(イッテQ)で見たのですが、東南アジアのある国では自転車の前輪を取り外して、子供たちが楽しんでいる。正に、人間の好奇心に限りはないと思います。このように、文化と科学とは、必ずしも対立するのではなく、互いに刺激し合いながら、発展してきたように思います。(但し、兵器だけは別です。科学者が新兵器を生み出した場合、その使用を抑制する知恵を文化の側が持っているとは言い難い現状があります。戦争は、文化の敵です。)

 

さて、遊びについてですが、現代に生きる私たちにとって、遊びと仕事は明らかに異なります。ここでは遊びについて、次のように定義してみます。文化の基本原理の全部または一部のプロセスによって生み出される行為であって、未だ広く普及はしていないもの。

 

ところで、遊びの起源というのは、どうなっているのでしょうか。遊戯の起源(文献1)によれば、ニホンザルは次の遊びを行っています。

(1)  取っ組み合い

(2)  追いかけっこ

(3)  馬跳び遊び

(4)  雑巾がけ遊び(地面に両手をつき前進、あるいは後退する)

(5)  枝引きずり遊び(物を持っている子ザルを追いかけてそれを奪い、新たに物の持ち手になった方が逃げ手になる。)

 

また、ニホンザルよりも人間に近いチンパンジーでは、「何らかの物を使った遊びは合計229件の行動事例が観察された」ということです。

 

言葉を持たないサルでさえ、上記のように遊んでいる。そうしてみると人間の場合でも、遊びの起源というのは、言葉の発生よりも古いと言える。人間の文化というのは、言葉から始まったということを以前、このブログで申し上げましたが、お詫びして訂正させていただきます。文化の起源は、遊びにあった!

 

1938年にヨハン・ホイジンガという人が、その著書「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人という意味)の中で、次のように述べているそうです。(文献2

 

「人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきた」。

 

(参考文献)

文献1: 遊戯の起源/増川宏一平凡社/2017

文献2: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014