文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 123 政治を読み解く7つの対立軸(その2)

2つ目の対立軸は、情報公開 vs 愚民政策 です。政治や行政がどのように行われたのか、その情報を知るのは、国民の権利だと思いますし、これは民主主義の大前提です。多分、このブログをお読みの方の大半が、そんなの当たり前だ、と思われることでしょう。しかし、現実はそうではありません。森友、加計の両案件で、政府や自民党はほとんどの情報の開示を拒否しています。それでも自民党の支持率というのは、40%程度あります。

 

森友学園の場合は、国有地の払い下げの際に約8億円の値引きがなされた訳で、それだけでもうびっくりしてしまった訳ですが、加計学園に支払われる予定の補助金は、96億円です。これはもう、桁が違う。一説によると加計学園側に支払われる補助金の総額は300億円とも400億円とも言われています。これだけの公金が動く訳で、政府側には当然説明責任がある訳ですが、一方的に国会を閉じた。そして、安倍総理がこれからは説明責任を果たしていくと記者会見で述べた訳ですが、確かその日の夜か翌日だったと思うのですが、NHKクローズアップ現代という番組が、萩生田氏のコメントに関する新たな文書を公表した。以後、安倍総理は「説明責任」という言葉を使わなくなったように見受けられます。

 

そもそも説明責任というものは、ロジカルな意思決定と業務執行、それにこの情報公開が加わって、はじめて全うすることができる。どれか一つでも欠けた場合には、合理的な説明というのは成立しないと思います。都議選での惨敗を受けて、自民党側は国会の閉会中審査には応じそうですが、そこで説明責任が果たされるとは、とても思えません。このまま事が進んで8月に文科省が認可を下せば、前述の96億円は今治市が負担することになりそうです。

 

さて、情報公開というのは、「国民の皆さん、政治や行政に興味を持っていただいて結構ですよ。もし、興味のある案件があれば、関係する資料をお見せしましょう」という趣旨だと思うのです。しかし、その反対概念として、「国民の皆さん、できるだけ政治には興味を持たないでください。政治や行政というのは、政治家と官僚が行うので、あなた方はただ従っていればいいのです」というものがある。それが、愚民政策と呼ばれるものです。その発端は、戦後GHQが採用した3S政策だと言われています。三つのS。すなわち、Screen, Sports, Sex。これらを与えておけば、国民は夢中になって、政治には興味を持たないだろう、という政策なんですね。

 

例えば、昨今、安倍総理をして「熟読してください」と言わしめた読売新聞とそのグループですが、この愚民政策に加担してきたような気がしてなりません。まず、読売巨人軍がある。全盛期は、川上、王、長嶋などのスター選手がいて、その人気は凄まじいものでした。昭和の時代には、「巨人、大鵬、玉子焼き」などという言葉までありました。そして、巨人戦が読売系列の日本テレビで放映される。巨人軍の情報は、読売新聞が詳しい訳で、巨人ファンは読売新聞を購読する。読売新聞を購読すると、巨人戦のチケットがもらえたりする。こういうビジネスモデルだったものと思われます。そして読売新聞は、自民党を擁護する立場ですから、そのような情報ばかりを発信する。ここに、政治とスポーツの密接な関係があると思うのです。

 

それは昔の話だろうと思われるかも知れませんが、石原都知事東京マラソンを始めた。その裏でと言っては語弊があるかも知れませんが、本人は週に2~3日しか出勤せず、土壌汚染の心配される豊洲に市場を移転させる計画を進めた。土壌汚染があることは最初から分かっていた訳で、何故、そんなことをしたのか。こちらも一向に説明責任が果たされず、今、裁判になっています。

 

春と夏には高校野球があり、年に6回、奇数月には大相撲が開催され、これらはNHKで放送される。大相撲の場合には、優勝力士に内閣総理大臣杯なるものが授与される。戦後の日本というのは、何か、スポーツ漬けにされてきたような気がしてなりません。そこへもってきて、2020年にオリンピック、パラリンピックを誘致することになりました。当初、石原都知事は「絶対に儲かる」と言っていましたが、実際には、東京都が膨大な赤字を負担することになりそうです。オリンピックの誘致を進めたのも、自民党の重鎮、森喜朗氏でした。これは私の個人的な感想ですが、どうもこのオリンピック誘致と、憲法改正論議がリンクしているような気がしてならない。国民がオリンピックに浮かれている間に、憲法を改正してしまおう。まさか・・・とは思うのですが。

 

スポーツばかりではありません。公営ギャンブルというものもあります。「宝くじ、競馬、競輪、自動車競走(オートレース)、競艇などを総称して、『公営ギャンブル』というが、名目は戦災都市復興や戦後の産業復興という大義名分を掲げていた。事実、地方自治体を潤す仕組みになっていた」。例えば、競輪は昭和23年にGHQが認可した。(文献1)また、競艇は、大物右翼の方が牛耳っていたことが有名です。「お父さん、お母さんを大切にしよう」というテレビCMを打っていた人ですね。現在の仕組みについて私は詳しくありませんが、少なくとも、公営ギャンブルの起源は、政治と密接な関係があったと言えそうです。

 

更に、2020年のオリンピックに向けて、いわゆるカジノ法案なるものが審議されているようです。

 

政権党が意識しているか否かは別として、私の眼には、未だに愚民政策が生きているように見えます。全てのスポーツとギャンブルが悪いと言うつもりはありませんが、これらを少し抑制し、もっと深みのある文化を大切にしていかなければ、日本の民主主義の深化は望めないと思うのです。

 

(参考文献)

文献1: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014

No. 122 政治を読み解く7つの対立軸(その1)

ここ数日、日本の政治の世界から驚くべきニュースが立て続けに発生しています。昨日の安倍総理の都議選応援演説では、「安倍、辞めろ!」などのコールが、地鳴りのように響き渡っていました。そして、そこに籠池氏が100万円を持って参加している。なんともシュールな感じが致しました。但し、NHKのニュースでは、観衆の声は消されていたそうです。また、相変わらず下村元大臣は、献金を行った11名の氏名を明らかにする意向はなさそうです。

 

メディアの問題は別に考えるとして、まずは政治について考えてみました。そもそも、私自身の政治的な立ち位置というのは、どこにあるのか。世間では、右か左か、ということがよく言われますが、この問題は、そんなに単純ではない。そこで、現在の日本政治における対立軸というものを抽出して、それぞれの項目に対し、私の立ち位置というものを考えてみたのです。結果は、次の7項目です。

 

ロジック ― 感情

情報開示 ― 愚民政策

政策 ― 既得権保護

個人の尊重 ― 集団主義

弱者保護 ― 格差容認

ハト派 ― タカ派

資本主義 ― 共産主義

 

結論から言えば、私が支持している事項は、左に記載しています。皆様がご自身の立場をお考えになる上で、少しでも参考になれば幸いです。以下、項目順に述べます。

 

第1に、ロジックか感情かという問題ですが、これは加計学園の問題に説明し易い例があります。これを認可すべきか否か。ロジックで考えた場合には、いわゆる石破4条件というのがあって、これに適合するか否かで判断する。この点は、石破氏もそう主張しています。自民党の中にも、ロジカルな人はいるんです。他方、安倍総理は、全国展開すると述べている。これはもう、支離滅裂な訳です。そもそも、安倍総理という人はロジックで物事を考えていない証拠だと思います。ロジックに基づいて仕事をしてきていないので、それをロジックで説明することもできない。これが現状ではないでしょうか。加計学園の場合には、下村元大臣への不正献金疑惑が持ち上がっており、加計学園から安倍総理へのラインがあったのかどうか、それは分かりません。しかし、お金と関わらない部分でも、安倍総理の思考原理は“感情”にあると思わせる例があります。森友学園、籠池氏の件では、不正に献金を取得するのではなく、逆に、明恵夫人を通じて籠池氏に100万円を寄付したと言われています。だとすると、行動の誘因は、お金ではない。また、稲田防衛大臣の問題もあります。どう考えても資質のない彼女を何故、重要な役職に就かせたのか。

 

私は、感情の構成要素というのは、共感システム、コンプレックス、エゴイズムの3つがあると思っています。“共感システム”というのは、私の説であって、学術用語ではありませんが、これは共感を求め、それが得られれば強い連帯感が生まれ、反対に共感が得られなかったり失われたりした場合には、強く敵対するという仕組みのことです。そして、この共感システムが、安倍総理の思考、行動原理となっているように思うのです。更に安倍総理は、共感の得られる人だけを抜擢し、身の回りの役職などに就かせている。だから、森友学園問題、加計学園問題、山口敬之氏のレイプ疑惑など、登場人物のほとんどが、安倍総理のオトモダチなのではないかと思うのです。ひとたび安倍総理と共感を分かち合った人は、それはもう強い絆で結ばれる。しかし籠池氏のように共感が失われた場合には、冷酷に切って捨てられる。

 

例えば、原発の問題もあります。これは、以前の記事で、Risk Utility Balanceという考え方をご紹介しましたが、これに沿って考えるべきではないでしょうか。原発が抱えているリスクと便益を比較考量して、リスクが上回れば、これを認めないとする考え方です。現実に福島第一原発であのような事故が起こり、未だに廃炉の作業は難航している。日本は地震が多い。北朝鮮のミサイルや工作員などに狙われる危険性だって、ないとは言えない。他方、便益はと言うと、日本中の原発が停止していた時期にも、電力の供給は不足しなかった。自然エネルギーに関する技術革新にも期待が持てる。こう考えるのがロジックだと思うのです。

 

そもそも、政治というのは個人のものではない。集団の運営に関わるものです。感情によって、政治という社会システムを運営するのは、不適切だと思います。安倍総理だけの問題ではありません。選挙活動の際には、ロジックについては何も語らず、選挙民の感情に訴えるような主張ばかりが目立つように思うのです。これが1点目です。

庶民としてもお願いしたい

稲田朋美大臣の失言が問題となっています。「自衛隊としてもお願いしたい」という、例の発言です。しかし、本人に辞任の意向はなく、安倍総理は罷免するつもりもなさそうです。また、マスコミによって、違反する法令については、憲法自衛隊法、公職選挙法(136条の2)が挙げられています。確かに本筋は、その通りなのでしょうが、私のような貧乏性の庶民としては、どうもしっくり来ない。

 

そもそも、リクツで言いますと、稲田大臣の応援演説を聞いた板橋区有権者としては、「この候補者は、凄いな。自衛隊までが応援しているんだ!」と誤解した可能性もある訳です。実際には自衛隊から応援されていないにも関わらず、そのような発言をすることが許されるのか。そこで、公職選挙法を見てみますと、第235条(虚偽事項の公表罪)というのがありました。ポイントを抜粋します。

 

第235条 1項 当選を得又は得させる目的をもって公職の候補者(中略)に対する人若しくは政党その他の団体の推薦若しくは支持に関し虚偽の事項を公表した者は、二年以下の禁錮又は三十万円以下の罰金に処する。

 

例えば、庶民がスピード違反などをした場合には、どうしたって罰金を許してもらえない訳で、ここは公平に稲田大臣からも30万円以下で結構ですので、なんとか罰金を徴収してもらえないものか。「庶民としてもお願いしたい」と思うのですが、いかがでしょうか?

 

ところで、本日、文春砲がさく裂しました。下村元文科大臣の件です。ちょっと、ポイントをまとめてみます。

 

事の発端は、文芸春秋7月号に掲載された「加計が食い込んだ下村元文科相夫妻」という記事にまで遡ります。ここには、加計幸太郎氏が明恵夫人や下村夫妻といかに関係を深めて行ったのか、その経緯が詳述されています。

 

次に、本日の文春の記事になります。タイトルは“下村博文文科相加計学園」から闇献金200万円”というものです。加計学園側が、当時の下村大臣に対し、認可に関する援助を依頼していたような記述があります。これが事実であれば、受託収賄罪の嫌疑が生じるものと思われますが、これは立証のハードルが高い。記事のポイントは、加計学園側が2013年に100万円、2014年に100万円、合計200万円のパーティー券を購入した。1件当たり20万円を超える場合は、政治資金規正法に基づいて、その旨を収支報告書に記載する必要があるが、収支報告書にその記載はない。

 

そして、上記の文春の記事を受け、下村氏は、本日の午前中に記者会見を開いた。まず、2013年に受領した100万円については、加計学園の事務の方が、個人、法人合わせて11名の方々から集め、代表して下村氏の事務所に持参したものである。11名の方々には、領収書を発行している。また、1人当たりのパーティー券購入額で、20万円を超えるものはなかった。2014年に受領した100万円についても、事情は同じで、11名の方々にパーティー券を購入していただいた。また、11名の中に加計幸太郎氏は含まれていない。

 

なお、今回、文春側に情報を流したのは、下村氏の元秘書で、現在は自民党以外の政党から都議選に立候補している者である可能性がある。事実関係が確認された場合は、当該、元秘書に対する訴訟を提起したい。文春側に対しても、名誉棄損で訴訟を提起したいと考えている。都議選終了後、改めて会見を開き、説明責任を果たして行きたい。

 

大変なことになってきました。都議選まであと3日で、下村氏は自民党東京都連の会長だそうです。まず文春側ですが、週刊誌とは言え、その発行元は(株)文芸春秋です。こちらはもう、世間的にも大変信頼の厚い会社だと思います。

 

一方、下村氏の説明ですが、11名がお金を出して、よく100万円丁度になったものだなあという気はしますが、そういう事もあるかも知れません。なお、記者会見で11名の方々の氏名を明らかにしていただけないか、と述べられている記者の方もおられましたが、確かにそうですね。その中に加計幸太郎氏が含まれていないことが分かっているということは、11名全員の氏名を事務の方はご存知なのではないでしょうか。プライバシーの問題はあるかも知れませんが、同意を得られた方のみ公表するということも可能ではないでしょうか。これを公表されることが、早期解決につながると思うのですけれども・・・。

No. 121 メディア・リテラシーということ

最近、アメリカではFake Newsというのが問題になっているそうです。匿名で、根も葉もない嘘のニュースをネット上に配信する。そして、アクセス件数に応じて、手数料を取得するという仕組みのようです。この手法で稼いだお金で、家を建てた人もいるそうです。

 

Fake Newsはちょっと極端な例かも知れませんが、加計問題等を契機に、日本のメディア報道にも疑問が提起されています。読売新聞の件もそうですが、先日の会見で、前川氏はNHKの報道姿勢も問題視していました。いち早く、前川氏にインタビューをしたにも関わらず、NHKはその画像を一切放映していないようです。更に前川氏は、どんな文書が出て来ても、一貫して官邸を擁護するコメンテーターも問題視しています。このようなコメンテーターは、私でも、直ちに数名は氏名をあげることができます。時事通信のT氏などは、有名ですね。ネット上では、安倍政権に対するポチ度ランキング、などという情報も目にします。

 

いずれにせよ、大手メディアからネット上の情報まで、それが信じられるものかどうか、自分で判断しなければならない時代になりました。このように情報を評価、識別する能力のことをメディア・リテラシーというそうです。

 

ところで、加計学園の問題ですが、一向に収束する気配がありません。直近で、出て来た話としては、加計学園補助金申請手続に問題があったのではないか、ということです。加計学園は、獣医学部の建物を建設する際、今治市だったと思いますが、補助金を受け取っています。その際に申請した建設費の単価が水増しされているのではないか、というのが1点。また、補助金を受けて行う工事ですので、その発注先は競争入札で決めることが条件になっていますが、その入札手続が行われていなかった可能性がある、とのことです。これらの点は、既にネットに流されている他、東京新聞社会部の“戦う女性記者”、望月氏が本日、菅官房長官の会見で、追及していました。また、民進党も同様の事項を本日の記者会見で指摘しています。加計学園は、そもそも、教授陣の体制に問題がある点も国会で問題視されていました。65歳以上の高齢者と、経験の少ない弱年齢層の人たちが多いようです。

 

こうなってきますと、加計学園獣医学部の建物の建築工事は進んでいますが、果たしてこれが完成するのか、はなはだ疑問であると言わざるを得ません。森友学園の場合は、完成する直前でストップしたはずですが、同様のことが加計学園でも起こるのではないか。

 

また、安倍総理は、「中途半端な妥協が国民の疑念を招く一因となった」として、今後、獣医学部を全国展開すると述べています。しかし、「中途半端な妥協」が今まで問題視されたことがあるでしょうか? このような論点のすり替えを最近は“ズラシ”と言うようです。また、多額の税金が使われる獣医師を、その需給見通しを無視して量産するとは、一体、どういうことなのでしょうか。

 

ここから先は、私の推測です。まず、補助金申請手続の不備等により、加計学園獣医学部は、最終的には認可されない可能性がある。この場合、建設中の建物は完成しない。そうなれば、多額の損失が発生し、今治市民のみならず、国民は納得しない。そこで、今、獣医学部を全国展開すると言っておいて、京都産業大学に申請を促す。結果、加計学園の計画は中止となるものの、京都産業大学獣医学部が発足することとなり、問題の幕引きを図る。「皆さんのおっしゃる通り、加計学園は止めて、京都産業大学にしました。だから、この問題はもう終わりです」ということです。

 

上記の私の推測が当たるかどうかは別として、仮に、加計学園が不正に補助金を受け取っていたということになれば、そこでこの問題は決着を見ることになると思います。これはもう、説明責任の問題ではなく、結果責任ということですね。ここまで来ますと、今まで、「一貫して、総理官邸側を擁護してきたメディアとその関係者たち」は、泥の船からは早く降りた方が良いとの理由で、今度は、安倍政権を批判する側に回る可能性もあります。

 

ここまで考えますと、最早、メディアの発する情報を鵜呑みにすることはできません。一体、何が真実で、何がフェイクなのか。メディア・リテラシーを高めよと言うのは簡単ですが、どうすればそうできるのか。私たちは、そういう曖昧で不確実なリスクの中に生きている。少なくとも、そのことだけは自覚しておいた方が良いと思うのです。

No. 120 ロジックとバイアス

安倍総理蕎麦屋に入る。すると店員が、尋ねる。「モリですか、カケですか?」。安倍総理が慌てて退散する。そんなマンガが、世間では話題になっているそうです。

 

籠池さんは100万円を返却しに、明恵夫人の経営する居酒屋を訪ねましたが、店員に怒鳴り返されたようです。不謹慎かも知れませんが、思わず笑ってしまいました。

 

「この、ハゲー!」 これは自民党の豊田議員ですが、ここまで来ると、プロレスの場外乱闘を彷彿とさせます。それにしても、この絶叫には驚ろかされました。人間にはこんなエネルギーがあるんですね。

 

笑ってばかりもいられません。これらは、落語の世界ではなく、日本の政治状況なんです。ああ、こんな日本に誰がした! そうボヤキたくなるのは、私だけでしょうか?

 

さて、昨日、元、文科省事務次官の前川氏が会見を開きました。2時間程ありましたが、私はこれをネットで見ました。YouTubeと言うのか、インターネット・テレビと言うのか分かりませんが、とにかくこういうコンテンツをフルバージョンで見ることができる。今のIT技術というのは、本当に素晴らしいと思います。私の場合、地上波のニュース番組や討論番組を見る機会は減りました。ネットであれば、興味のあるトピックスを、好きな時間帯で見ることができる。それに比べて、地上波の番組というのは、時間の制約もあって、掘り下げが浅いと感じるのです。ネットが、政治を変える。きっと、そうに違いありません。一般の国民が接することのできる政治関連の情報というのは、過去とは比較にならない程、豊富になっている。そして、ディテールまでが正確に伝えられるようになった。例えば、前川氏が発言する時の声の調子だとか、顔色だとか、そういうことまで分かる。この人、嘘をついているようには見えないなとか、そういうことまで伝わるんです。

 

脱線してしまいました。前川氏の会見に戻りますと、私としてはこれを見て、ちょっと爽やかな気分になったのです。それは前川氏が、自分が知っている事実と推測を明確に分けて説明されていたからです。自分が知っている事実は、これとこれだ。これらを組み合わせると、こういう推論が成り立つ。そういうロジックを組み立てて説明されていた。その真摯な態度が、爽やかだった。

 

一方、ロジックと言いますか、論理的な思考を妨害する要素というものもあります。これを何と言うのか。バイアスと言うのではないか。そう思って、広辞苑を引いてみますと「斜め、偏り、偏向」と出てきます。英和辞典によれば、「先入観、偏見」とありました。ちょっとイメージが違いますが、他に適当な言葉が見つからないので、ここでは「論理的な思考を妨害する要素」の全てをバイアスと呼ぶことにしましょう。例えば、以下の菅官房長官の発言が、バイアスだと思うのです。

 

1.       前川氏は、出会い系バーに通っていた。

2.       前川氏は、事務次官の地位に恋々としていた。

3.       あの怪文書みたいなもの

 

そう言えば、最近、菅官房長官の定例記者会見が、大変、盛り上がっているのをご存じでしょうか。東京新聞社会部、美貌の女性記者、望月氏という方が、加計問題を厳しく追及しているのです。この方は、空気を読まない。菅官房長官の意向を、全く“忖度”しない。ひたすら、加計問題の疑惑を追及するんですね。ネットや週刊誌でも、話題になっています。望月氏が、加計問題を徹底的に追及すると、別の記者が他の話題に振るのですが、その後も望月氏が「すいません。加計の件ですが」とまた畳み掛けるんです。その状況も、逐一、ネットで配信されています。最初は「ここまでやるのか?」とも思ったのですが、そこまでやっていいんだ、と今では感じています。加計問題というのは重大な政治課題であって、菅官房長官が偉い人だとか、年上だとか、そういうことはバイアスに過ぎないのではないか。国会が閉会した今、菅官房長官の定例会見というのは、メディアが政権と直接対峙できる重要な機会ではないか、と思うのです。そう言えば、望月氏を紹介する上記の「美貌の」という記載、これもバイアスでした。

 

前川氏は、組織の表も裏も知り尽くし、その上でバイアスを排除するという心理的な境地に到達したのだろうと思います。一方、望月氏はまだ若い。若いからこそ、無用のバイアスを排除する勇気を持ったのではないか。そんな気が致します。いずれにせよ、まだ数は少ないものの、こういう人たちが現われつつあるというのは、心強く感じます。

 

ところで、法律上、証拠というのは3種類あるんです。書証、人証、物証(物的証拠)です。加計問題に照らして言えば、文科省などから書証が出て来ました。また、前川氏が会見を開いて証言している訳ですから、人証も出ていることになります。残るのは物証ということになります。これは総理が発言をしている場面のビデオだとか、録音ということになりますが、事案の性質上、そんなものがある訳はありません。しかし、疑うに足る推定証拠は出揃っている。こういう場合、民事訴訟であれば、官邸側がそれらの書証、人証を覆すだけの立証責任を負う。これを「間接反証」と言います。本件は民事ではなく、行政上の問題ではありますが、官邸側は反証する責任を全うするべきだと思います。その方法は、決して難しいものではありません。石破4条件などに照らして、加計学園を認可するという行政上の判断が、適切なプロセスに従ってなされたことを証明すれば良い。それだけではないでしょうか。

No. 119 深まらない論議

No. 117の原稿にootkysnrさんからコメントをいただきました。有り難うございました。コメントのご趣旨としては、国民の無関心が今日の国会の堕落を招いたのではないか、とのことですが、全くもってその通りだと思います。現政権を批判することは、ある意味、簡単だと思うのですが、それでも国会議員は、国民の選挙によって選ばれている。現政権を支持した人は、野党を支持した人よりも多い訳です。投票したくなるような野党がない、との声が聞こえてきそうですね。それも一理あるように思います。そこら辺から、国民の無関心につながっているのかも知れませんね。しかし、国民の無関心には、どうやら他にも理由がありそうです。この点は、長くなりますので別の機会に述べます。

 

さて、森友学園の件も、未だに決着していません。何故、学校として認可されたのか、何故、国有地が8億円も値引きされたのか。そして、加計学園の件では、萩生田氏の関与をうかがわせる新たな文書が出てきました。しかし問題は、国会でも、テレビの討論番組でも、一向に議論が深まらないことではないでしょうか。一例を挙げますと、内閣府から文科省に宛てたメールが出てきた。そこには、萩生田氏の関与が記されていた。論議の本質は、当然、萩生田氏(官邸)の関与があったのか否かという点にある訳ですが、そのメールの差出人が文科省からの出向者であり信用できない、という大臣の答弁がありました。そのメールの作成者がどこからの出向者かということは、論議の本質に関係がありません。テレビの討論番組でも、自民党側の人は、そもそも文科省は、規制する側で、規制を打破する官邸とはぶつかっていた、ということをしきりに主張しますが、これも本質とは掛け離れています。本質は、安部総理や萩生田氏によって、文科省の行政プロセスが歪められたのか否か。閣議決定された一般に石破4条件と呼ばれている条件を加計学園はクリアしていたのか、その点にあるはずです。

 

何故、このようなことが起こるのでしょうか。この人たちって、論理的に物事を考える習慣がないのだろうか。そう思ったりしていたのですが、実は、私と同じような疑問とか、それに対する裏の事情というものが、週刊誌に載っていたりします。ということは、論議が深まらない理由は、意図的に論議を深めたくない、と思っている人たちがいるからに他なりません。

 

このように考えますと、ちょっとお先真っ暗な感じも致しますが、それでも日本の政治状況には、まだ、希望がある。

 

第1に、一連の国会中継などを見ておりますと、野党の方々はこれらの問題に真剣に向き合っている。事案の性質上、真実を明らかにするところまでは行っていませんが、それでも問題の本質に取り組もうという姿勢が見えます。例えば、民進党は「加計学園疑惑調査チーム」というのを作っていて、定期的に関係官庁の職員を呼び出し、ヒアリングを行っています。その様子は、同党のホームページにおいて、動画が配信されている。

 

第2に、反政権寄りと言われております朝日新聞毎日新聞は、真相を伝えようと努力しているように思われます。だから、私たち国民の知る権利は、最低限のところでは、守られている。

 

第3に、内部告発です。文科省が資料の調査を実施せざるを得なかったのは、そうしなければ内部告発によって、メディアに情報が漏れるリスクがあったからに他なりません。前川前次官の情報発信ということもあります。想像ですが、自分の立場と良心の狭間に立って悩んでいる方々は、文科省のみならず、メディアの中にもおられることと思います。

 

第4に、YouTubeをはじめとするインターネット技術の進展ということがあります。

 

以上の理由によりまして、日本の民主主義、諦めるのはまだ早いと思うのです。

 

No. 118 アメリカの巡回裁判所

もう随分昔のことですが、アメリカのどこかで、私は巡回裁判所の建物をみたことがあるのです。モンタナ州のミズーラという小さな町だったような気もするのですが、自信はありません。

 

若い弁護士がハンドルを握っていて、私は助手席に座っていた。アメリカの地方のことですから、広大な土地があって、建物がまばらに見える。そんな感じだったと思います。それでも、一応その町では目抜通りであろうと思われる道を走っていた時に、ある建物が目に止まったのです。石造りの、相当古そうな白っぽい建物でした。教会かなと思ったのですが、十字架もマリア様の像もない。その建物に気を引かれている私の様子を察したのでしょう。若い弁護士が言いました。

 

「あれは、巡回裁判所だよ」

 

その時に覚えた感動と、建物の残像は、未だに私の心に明確に残っています。こんな小さな町に、それでも裁判所があるんだ! 例えば、日本の小さな町にでも病院や小学校があったりする。それと同じように、アメリカの小さな町には、裁判所があるんです。それも、かなり昔から。そこに、私はアメリカの民主主義の原点を見たような気がして、感激していたのです。それだけ、アメリカという国は、人々が裁判を起こす権利というものを尊重している。そして、裁判という法律上の制度が、人々の紛争を解決する手段として、生きて機能している!

 

ちょっとご説明しますと、巡回裁判所には、裁判官や職員が常駐している訳ではないのです。例えば、毎週何曜日という具合に決まっていて、その日だけ裁判官や職員がやって来るのです。アメリカの広大な土地と、アメリカ人の知恵が産み出した、小さな裁判所のシステムなんですね。しかし、いかがでしょうか。日本だったら、大きな都市に裁判所を作って、裁判をやりたければそこまで来い、ということになっているのでは。そこが、アメリカは違うんです。はるばる裁判官が、やって来てくれるんです。こんな草の根レベルから、日本とアメリカとでは違っているんです。

 

アメリカの法律制度の特色のひとつに、強力な州法というものがある。例えば日本だったら、会社に関する法律は、全国共通の会社法というものがあって、裁判の手続だったら、民事訴訟法、刑事訴訟法というものがあって、これらも全国共通です。一方、アメリカではこれらの法律は、全て州法に決まっている。50以上の州があって、それぞれの州が独自の法律を定めているんです。民法のような法律も、州によって異なる。日本の法律というのは、原則的には文書に記載されています。これを制定法と言います。そして、法律の微妙な解釈については、判例に従うことになる。他方、アメリカでは、原則として、まず判例がある。そして、過去の判例が、その後の事件を判断する時に、拘束力を持つんです。この規範を判例法とか、コモンローなどと呼びます。そして、その判例の蓄積というのは、州によって異なる訳です。このように、アメリカでは州ごとに法律の体系が異なりますので、その結果、弁護士の資格も州によって異なります。例えば、ニューヨーク州で弁護士の資格を取ったからと言って、テキサス州の法廷に立つことはできない。アメリカというのは、正に「合衆国」なんです。

 

最近、トランプ大統領が環境問題に関するパリ条約からの離脱を決断しましたが、いくつかの州で反対する動きが出ている。州法が強いので、こういうことが起こるんです。

 

アメリカの訴訟制度の特徴には、「陪審制」ということもあります。最近は、日本でも重大な刑事事件についてのみ、裁判員制度というのが適用されていますね。そのベースとなったのが、アメリカの陪審制です。アメリカでも裁判官が判決を下すという方法もあり、州によっては、裁判の当事者がどちらかの制度を選択できます。しかし、私の印象としては、アメリカ人というのは、陪審制が好きなようです。アメリカでは、民事事件でもこの陪審制が適用されます。例えば、製造物責任に関する裁判がある。すると、アメリカの一般の国民が陪審員となって、侃々諤々論議をするんですね。この件では、製造物に欠陥があったのかとか、被害者がかわいそうではないかとか、論議をする。するとそこから、色んなロジックが生まれてきて、それが判例法を形成していくんです。製造物責任に関する裁判であれば、「欠陥とは何か」ということが問題になります。例えば、飛行機に乗ったらそれが墜落してしまった。しかし、飛行機というのは、一定の確率で墜落するものだから、その都度、賠償責任を課していては、飛行機会社が倒産してしまう。こういうケースは「危険の引き受け」という概念で処理できないだろうか。例えば、ナイフで指に怪我をしてしまった。しかし、ナイフが危険なものであるということは、一目瞭然だ。こういうケースは、「明白な危険」という概念を作ってはどうか。こういうロジックが次々に生まれるんです。すると、学者や弁護士も論議に参戦してくる。元来、どんな製造物にもリスクはつきものだ。例えば、医薬品であれば、その副作用というリスクがある。他方、医薬品には病気や怪我を直すという便益もある。従って、その双方を比較して、リスクが便益を上回った場合、その製造物には欠陥があるということにしてはどうか。こんな考え方まで、出てくるんですね。ロジックとして、いかがでしょうか。ちなみに、私はこの考え方に賛成です。(Risk Utility Balance と言います。)

 

日本ではどうかと言いますと、アメリカからの圧力もあって、製造物責任法が制定されました。そこには、欠陥の定義について、こう定められています。「製造物が、通常有すべき安全性を欠いている場合」その製造物には、欠陥があるというんですね。言い換えれば、平均点以上であれば、欠陥はないということになります。いかにも、日本のお役人が作ったような感じがします。そこに、ポリシーは感じられません。そして、日本ではあまり裁判は起こりません。従って、議論もない。最新の事情は分かりませんが、多分、今日でも日本で欠陥と言えば、上記の条文通りの解釈が通用しているのではないでしょうか。

 

私は、必ずしもアメリカの制度の方が日本よりも優れていると言うつもりはありません。アメリカの制度も問題だらけです。しかし、一つ言えると思うのは、アメリカ人は、民主主義を維持するためのコストというものを決して、惜しんでいない。むしろ、そういうコストというのは必要なものなんだという共通認識があるのではないか。そう思うのです。また、陪審制というのは、これにもメリット、デメリットはありますが、一般の国民が判例法の蓄積に関与するシステムである、とも言えます。アメリカの制度というのは、一般の国民が、司法のみならず立法にも関与している。

 

アメリカでもトランプ氏のような人が大統領になってしまうことがある。そして、当然のごとくスキャンダラスな問題が発生する。この点は、日本と変わりがない。しかし、問題が起きてからの展開が違う。元FBIの長官は、議会で証言したのではないでしょうか。他方、日本の国会は、皆様ご存じの通り、幕を閉じました。前回の記事に対しまして、DENDAさんから的確なコメントをいただきました。有り難うございました。私も、同感です。