文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 124 政治を読み解く7つの対立軸(その3)

3つ目の対立軸は、政策 vs 既得権保護 です。政党にとって最も大切なことは、正しい政策を立案して、それを実行することだと思うのですが、ほとんど政策を訴えない政党も、少なくありません。では、そういう政党にとって大切なのは何かと言うと、既得権の保護だと思うのです。

 

ところで、既得権とは何かと考えますと、つまるところ、補助金と許認可ではないでしょうか。例えば、農村、漁村などにおきましては、農協、漁協などの各種団体があって、政府や地方公共団体から補助金をもらっています。今年もらったのだから、来年ももらう権利がある。確かにそうですね。これが既得権です。ちなみに私は、このタイプの既得権には、ある程度、寛容です。日本の農業や漁業を守る。日本の食料自給率の維持、向上に努める。これは大切なことだと思います。また、農村、漁村において、それらの既得権者が自民党に投票する。これもある程度、仕方のないことだと思っています。

 

他方、私が疑問に思っているのは、許認可に基づく既得権の方です。ちょっと、風が吹けば桶屋が儲かる式の話で恐縮なのですが、分かり難い法律が既得権を生む、という話をさせていただきます。

 

まず、日本の法律は分かり難い。例えば、独占禁止法ですが、その第19条には「事業者は、不公正な取引方法を用いてはならない」と定められています。また、「不公正な取引方法」については、第2条に定義があって、大別すると6つの行為類型が記されているのですが、その6番目にはこう書いてある。「前各号に掲げるもののほか・・・公正取引委員会が指定するもの」。従って、更に公正取引委員会の告示というのを見なくてはなりません。そこには、例えば「排他条件付取引」というのが次のように規定されています。「不当に、相手方が競争者と取引しないことを条件として当該相手方と取引し、競争者の取引の機会を減少させるおそれがあること」。“何それ?”と思われた方、ご安心ください。ほとんど、誰にも分らないのです。結局、法律を読んでも分からない。ではどうなるかと言えば、この例で言いますと、関係省庁がガイドラインを公表している。この本を購入しなければ、独禁法のディテールというのは理解できないんです。

 

法律で一番上に位置するものは憲法ですが、その下に、例えば上記の例では、次の下位構造がある。

 

1.       独占禁止法

2.       公正取引委員会の告示

3.       ガイドライン(指針)

 

こういうのを法律の重層構造と呼びますが、日本では、この層が厚過ぎる。だから、日本の法律は、分かり難い。これはもう、意図的にそうしているとしか、思えません。そして、役所が何をするかと言うと、いわゆる独立行政法人のような団体を作り、そこに役人が天下る。そこで前述のガイドラインやその他の解説書を販売したり、有料の説明会を開いたりする訳です。私の知る限りでは、ほとんどの分野で、こういうことが行われています。独禁法というのは、全ての大企業に関係がある訳ですが、一部の業界のみを拘束する法律もあります。そのような法律も、分からないように書いてあり、分厚い重層構造になっているんです。法律では何も分からないので、結局、役所が判断することになるんですね。これが、許認可の存在理由だと思うのです。このように、分かり難い法律が、許認可制度と役人の天下り先を支えている訳です。

 

このような仕組みにあって、個別の企業ではなかなか役所と対等にやり取りすることが難しい。従って、業界団体というのを作るんです。そこを使って、役所との調整をしたり、役人を講師に招き、勉強会をしたりする。場合によっては、この業界団体も役所からの天下りを受け入れたりする。それでもうまく行かない場合には、業界団体が政権党に働きかけをするのだと思います。政権党が欲しがるのは、選挙の際の“票”と政治献金ですね。そして、政権党から役所に圧力を掛けてもらう。ここまですれば、万全です。この構造というのは、あたかもジャンケンのグー、チョキ、パーに似ています。役所は業界団体に勝つ。業界団体は、政権党に勝つ。そして、政権党は役所に勝つのです。また、この構図が無くならない理由としては、それぞれの当事者が以下のメリットを享受するからだと思います。

 

政権党・・・・票と政治資金

役 所・・・・天下り

業界団体・・・新規参入企業の抑止

 

かつて、日本の司法試験は、世界で一番難しいと言われていました。その理由は、それだけ日本の法律が発達しているからだと思っていたのですが、とんでもありません。日本は法律が分からないようになっているから、司法試験が難しいのです。現在、日本では司法試験に合格していないけれど、アメリカでは弁護士資格を持っている、という人が沢山います。英語で試験を受けなければならないというハンディを背負っても、アメリカの試験の方が簡単なのです。

 

このように考えてきますと、現在の日本が法治国家と言えるのか、疑問になってきます。 憲法があるので、そう呼べるような気もしますが、実態は許認可国家だと思うのです。森友学園加計学園の問題も、背景としては上述の許認可に関する構図があって、そこに国家戦略特区という新たな許認可制度を作って割って入ろうとしたところに、事件の発端があったように思います。ちなみに、加計の次は国際医療福祉大学だと言われており、民進党の疑惑調査チームが、既にその究明活動に着手しています。

 

日本を本当の法治国家にするためには、まず、法律を分かり易くすること。そして、そのためには、法律の重層構造のフラット化を図る必要があると思うのです。そもそも法律は、選挙によって選ばれた国会議員の決議によって制定されるべきです。役所が省令、通達、ガイドラインなどを交付して法律のディテールを決める現在のシステムには、納得できません。こんなところにも、古い官尊民卑という価値観が残っているように思います。

 

言うまでもなく、既得権を持っている団体の利益代表となっている政党というのは、特段の既得権を持っていない私のような一般庶民からすれば、何の魅力もありません。それよりも、政策を語る政党を支持したいと思うのです。

No. 121 メディア・リテラシーということ

最近、アメリカではFake Newsというのが問題になっているそうです。匿名で、根も葉もない嘘のニュースをネット上に配信する。そして、アクセス件数に応じて、手数料を取得するという仕組みのようです。この手法で稼いだお金で、家を建てた人もいるそうです。

 

Fake Newsはちょっと極端な例かも知れませんが、加計問題等を契機に、日本のメディア報道にも疑問が提起されています。読売新聞の件もそうですが、先日の会見で、前川氏はNHKの報道姿勢も問題視していました。いち早く、前川氏にインタビューをしたにも関わらず、NHKはその画像を一切放映していないようです。更に前川氏は、どんな文書が出て来ても、一貫して官邸を擁護するコメンテーターも問題視しています。このようなコメンテーターは、私でも、直ちに数名は氏名をあげることができます。時事通信のT氏などは、有名ですね。ネット上では、安倍政権に対するポチ度ランキング、などという情報も目にします。

 

いずれにせよ、大手メディアからネット上の情報まで、それが信じられるものかどうか、自分で判断しなければならない時代になりました。このように情報を評価、識別する能力のことをメディア・リテラシーというそうです。

 

ところで、加計学園の問題ですが、一向に収束する気配がありません。直近で、出て来た話としては、加計学園補助金申請手続に問題があったのではないか、ということです。加計学園は、獣医学部の建物を建設する際、今治市だったと思いますが、補助金を受け取っています。その際に申請した建設費の単価が水増しされているのではないか、というのが1点。また、補助金を受けて行う工事ですので、その発注先は競争入札で決めることが条件になっていますが、その入札手続が行われていなかった可能性がある、とのことです。これらの点は、既にネットに流されている他、東京新聞社会部の“戦う女性記者”、望月氏が本日、菅官房長官の会見で、追及していました。また、民進党も同様の事項を本日の記者会見で指摘しています。加計学園は、そもそも、教授陣の体制に問題がある点も国会で問題視されていました。65歳以上の高齢者と、経験の少ない弱年齢層の人たちが多いようです。

 

こうなってきますと、加計学園獣医学部の建物の建築工事は進んでいますが、果たしてこれが完成するのか、はなはだ疑問であると言わざるを得ません。森友学園の場合は、完成する直前でストップしたはずですが、同様のことが加計学園でも起こるのではないか。

 

また、安倍総理は、「中途半端な妥協が国民の疑念を招く一因となった」として、今後、獣医学部を全国展開すると述べています。しかし、「中途半端な妥協」が今まで問題視されたことがあるでしょうか? このような論点のすり替えを最近は“ズラシ”と言うようです。また、多額の税金が使われる獣医師を、その需給見通しを無視して量産するとは、一体、どういうことなのでしょうか。

 

ここから先は、私の推測です。まず、補助金申請手続の不備等により、加計学園獣医学部は、最終的には認可されない可能性がある。この場合、建設中の建物は完成しない。そうなれば、多額の損失が発生し、今治市民のみならず、国民は納得しない。そこで、今、獣医学部を全国展開すると言っておいて、京都産業大学に申請を促す。結果、加計学園の計画は中止となるものの、京都産業大学獣医学部が発足することとなり、問題の幕引きを図る。「皆さんのおっしゃる通り、加計学園は止めて、京都産業大学にしました。だから、この問題はもう終わりです」ということです。

 

上記の私の推測が当たるかどうかは別として、仮に、加計学園が不正に補助金を受け取っていたということになれば、そこでこの問題は決着を見ることになると思います。これはもう、説明責任の問題ではなく、結果責任ということですね。ここまで来ますと、今まで、「一貫して、総理官邸側を擁護してきたメディアとその関係者たち」は、泥の船からは早く降りた方が良いとの理由で、今度は、安倍政権を批判する側に回る可能性もあります。

 

ここまで考えますと、最早、メディアの発する情報を鵜呑みにすることはできません。一体、何が真実で、何がフェイクなのか。メディア・リテラシーを高めよと言うのは簡単ですが、どうすればそうできるのか。私たちは、そういう曖昧で不確実なリスクの中に生きている。少なくとも、そのことだけは自覚しておいた方が良いと思うのです。

No. 120 ロジックとバイアス

安倍総理蕎麦屋に入る。すると店員が、尋ねる。「モリですか、カケですか?」。安倍総理が慌てて退散する。そんなマンガが、世間では話題になっているそうです。

 

籠池さんは100万円を返却しに、明恵夫人の経営する居酒屋を訪ねましたが、店員に怒鳴り返されたようです。不謹慎かも知れませんが、思わず笑ってしまいました。

 

「この、ハゲー!」 これは自民党の豊田議員ですが、ここまで来ると、プロレスの場外乱闘を彷彿とさせます。それにしても、この絶叫には驚ろかされました。人間にはこんなエネルギーがあるんですね。

 

笑ってばかりもいられません。これらは、落語の世界ではなく、日本の政治状況なんです。ああ、こんな日本に誰がした! そうボヤキたくなるのは、私だけでしょうか?

 

さて、昨日、元、文科省事務次官の前川氏が会見を開きました。2時間程ありましたが、私はこれをネットで見ました。YouTubeと言うのか、インターネット・テレビと言うのか分かりませんが、とにかくこういうコンテンツをフルバージョンで見ることができる。今のIT技術というのは、本当に素晴らしいと思います。私の場合、地上波のニュース番組や討論番組を見る機会は減りました。ネットであれば、興味のあるトピックスを、好きな時間帯で見ることができる。それに比べて、地上波の番組というのは、時間の制約もあって、掘り下げが浅いと感じるのです。ネットが、政治を変える。きっと、そうに違いありません。一般の国民が接することのできる政治関連の情報というのは、過去とは比較にならない程、豊富になっている。そして、ディテールまでが正確に伝えられるようになった。例えば、前川氏が発言する時の声の調子だとか、顔色だとか、そういうことまで分かる。この人、嘘をついているようには見えないなとか、そういうことまで伝わるんです。

 

脱線してしまいました。前川氏の会見に戻りますと、私としてはこれを見て、ちょっと爽やかな気分になったのです。それは前川氏が、自分が知っている事実と推測を明確に分けて説明されていたからです。自分が知っている事実は、これとこれだ。これらを組み合わせると、こういう推論が成り立つ。そういうロジックを組み立てて説明されていた。その真摯な態度が、爽やかだった。

 

一方、ロジックと言いますか、論理的な思考を妨害する要素というものもあります。これを何と言うのか。バイアスと言うのではないか。そう思って、広辞苑を引いてみますと「斜め、偏り、偏向」と出てきます。英和辞典によれば、「先入観、偏見」とありました。ちょっとイメージが違いますが、他に適当な言葉が見つからないので、ここでは「論理的な思考を妨害する要素」の全てをバイアスと呼ぶことにしましょう。例えば、以下の菅官房長官の発言が、バイアスだと思うのです。

 

1.       前川氏は、出会い系バーに通っていた。

2.       前川氏は、事務次官の地位に恋々としていた。

3.       あの怪文書みたいなもの

 

そう言えば、最近、菅官房長官の定例記者会見が、大変、盛り上がっているのをご存じでしょうか。東京新聞社会部、美貌の女性記者、望月氏という方が、加計問題を厳しく追及しているのです。この方は、空気を読まない。菅官房長官の意向を、全く“忖度”しない。ひたすら、加計問題の疑惑を追及するんですね。ネットや週刊誌でも、話題になっています。望月氏が、加計問題を徹底的に追及すると、別の記者が他の話題に振るのですが、その後も望月氏が「すいません。加計の件ですが」とまた畳み掛けるんです。その状況も、逐一、ネットで配信されています。最初は「ここまでやるのか?」とも思ったのですが、そこまでやっていいんだ、と今では感じています。加計問題というのは重大な政治課題であって、菅官房長官が偉い人だとか、年上だとか、そういうことはバイアスに過ぎないのではないか。国会が閉会した今、菅官房長官の定例会見というのは、メディアが政権と直接対峙できる重要な機会ではないか、と思うのです。そう言えば、望月氏を紹介する上記の「美貌の」という記載、これもバイアスでした。

 

前川氏は、組織の表も裏も知り尽くし、その上でバイアスを排除するという心理的な境地に到達したのだろうと思います。一方、望月氏はまだ若い。若いからこそ、無用のバイアスを排除する勇気を持ったのではないか。そんな気が致します。いずれにせよ、まだ数は少ないものの、こういう人たちが現われつつあるというのは、心強く感じます。

 

ところで、法律上、証拠というのは3種類あるんです。書証、人証、物証(物的証拠)です。加計問題に照らして言えば、文科省などから書証が出て来ました。また、前川氏が会見を開いて証言している訳ですから、人証も出ていることになります。残るのは物証ということになります。これは総理が発言をしている場面のビデオだとか、録音ということになりますが、事案の性質上、そんなものがある訳はありません。しかし、疑うに足る推定証拠は出揃っている。こういう場合、民事訴訟であれば、官邸側がそれらの書証、人証を覆すだけの立証責任を負う。これを「間接反証」と言います。本件は民事ではなく、行政上の問題ではありますが、官邸側は反証する責任を全うするべきだと思います。その方法は、決して難しいものではありません。石破4条件などに照らして、加計学園を認可するという行政上の判断が、適切なプロセスに従ってなされたことを証明すれば良い。それだけではないでしょうか。

No. 119 深まらない論議

No. 117の原稿にootkysnrさんからコメントをいただきました。有り難うございました。コメントのご趣旨としては、国民の無関心が今日の国会の堕落を招いたのではないか、とのことですが、全くもってその通りだと思います。現政権を批判することは、ある意味、簡単だと思うのですが、それでも国会議員は、国民の選挙によって選ばれている。現政権を支持した人は、野党を支持した人よりも多い訳です。投票したくなるような野党がない、との声が聞こえてきそうですね。それも一理あるように思います。そこら辺から、国民の無関心につながっているのかも知れませんね。しかし、国民の無関心には、どうやら他にも理由がありそうです。この点は、長くなりますので別の機会に述べます。

 

さて、森友学園の件も、未だに決着していません。何故、学校として認可されたのか、何故、国有地が8億円も値引きされたのか。そして、加計学園の件では、萩生田氏の関与をうかがわせる新たな文書が出てきました。しかし問題は、国会でも、テレビの討論番組でも、一向に議論が深まらないことではないでしょうか。一例を挙げますと、内閣府から文科省に宛てたメールが出てきた。そこには、萩生田氏の関与が記されていた。論議の本質は、当然、萩生田氏(官邸)の関与があったのか否かという点にある訳ですが、そのメールの差出人が文科省からの出向者であり信用できない、という大臣の答弁がありました。そのメールの作成者がどこからの出向者かということは、論議の本質に関係がありません。テレビの討論番組でも、自民党側の人は、そもそも文科省は、規制する側で、規制を打破する官邸とはぶつかっていた、ということをしきりに主張しますが、これも本質とは掛け離れています。本質は、安部総理や萩生田氏によって、文科省の行政プロセスが歪められたのか否か。閣議決定された一般に石破4条件と呼ばれている条件を加計学園はクリアしていたのか、その点にあるはずです。

 

何故、このようなことが起こるのでしょうか。この人たちって、論理的に物事を考える習慣がないのだろうか。そう思ったりしていたのですが、実は、私と同じような疑問とか、それに対する裏の事情というものが、週刊誌に載っていたりします。ということは、論議が深まらない理由は、意図的に論議を深めたくない、と思っている人たちがいるからに他なりません。

 

このように考えますと、ちょっとお先真っ暗な感じも致しますが、それでも日本の政治状況には、まだ、希望がある。

 

第1に、一連の国会中継などを見ておりますと、野党の方々はこれらの問題に真剣に向き合っている。事案の性質上、真実を明らかにするところまでは行っていませんが、それでも問題の本質に取り組もうという姿勢が見えます。例えば、民進党は「加計学園疑惑調査チーム」というのを作っていて、定期的に関係官庁の職員を呼び出し、ヒアリングを行っています。その様子は、同党のホームページにおいて、動画が配信されている。

 

第2に、反政権寄りと言われております朝日新聞毎日新聞は、真相を伝えようと努力しているように思われます。だから、私たち国民の知る権利は、最低限のところでは、守られている。

 

第3に、内部告発です。文科省が資料の調査を実施せざるを得なかったのは、そうしなければ内部告発によって、メディアに情報が漏れるリスクがあったからに他なりません。前川前次官の情報発信ということもあります。想像ですが、自分の立場と良心の狭間に立って悩んでいる方々は、文科省のみならず、メディアの中にもおられることと思います。

 

第4に、YouTubeをはじめとするインターネット技術の進展ということがあります。

 

以上の理由によりまして、日本の民主主義、諦めるのはまだ早いと思うのです。

 

No. 118 アメリカの巡回裁判所

もう随分昔のことですが、アメリカのどこかで、私は巡回裁判所の建物をみたことがあるのです。モンタナ州のミズーラという小さな町だったような気もするのですが、自信はありません。

 

若い弁護士がハンドルを握っていて、私は助手席に座っていた。アメリカの地方のことですから、広大な土地があって、建物がまばらに見える。そんな感じだったと思います。それでも、一応その町では目抜通りであろうと思われる道を走っていた時に、ある建物が目に止まったのです。石造りの、相当古そうな白っぽい建物でした。教会かなと思ったのですが、十字架もマリア様の像もない。その建物に気を引かれている私の様子を察したのでしょう。若い弁護士が言いました。

 

「あれは、巡回裁判所だよ」

 

その時に覚えた感動と、建物の残像は、未だに私の心に明確に残っています。こんな小さな町に、それでも裁判所があるんだ! 例えば、日本の小さな町にでも病院や小学校があったりする。それと同じように、アメリカの小さな町には、裁判所があるんです。それも、かなり昔から。そこに、私はアメリカの民主主義の原点を見たような気がして、感激していたのです。それだけ、アメリカという国は、人々が裁判を起こす権利というものを尊重している。そして、裁判という法律上の制度が、人々の紛争を解決する手段として、生きて機能している!

 

ちょっとご説明しますと、巡回裁判所には、裁判官や職員が常駐している訳ではないのです。例えば、毎週何曜日という具合に決まっていて、その日だけ裁判官や職員がやって来るのです。アメリカの広大な土地と、アメリカ人の知恵が産み出した、小さな裁判所のシステムなんですね。しかし、いかがでしょうか。日本だったら、大きな都市に裁判所を作って、裁判をやりたければそこまで来い、ということになっているのでは。そこが、アメリカは違うんです。はるばる裁判官が、やって来てくれるんです。こんな草の根レベルから、日本とアメリカとでは違っているんです。

 

アメリカの法律制度の特色のひとつに、強力な州法というものがある。例えば日本だったら、会社に関する法律は、全国共通の会社法というものがあって、裁判の手続だったら、民事訴訟法、刑事訴訟法というものがあって、これらも全国共通です。一方、アメリカではこれらの法律は、全て州法に決まっている。50以上の州があって、それぞれの州が独自の法律を定めているんです。民法のような法律も、州によって異なる。日本の法律というのは、原則的には文書に記載されています。これを制定法と言います。そして、法律の微妙な解釈については、判例に従うことになる。他方、アメリカでは、原則として、まず判例がある。そして、過去の判例が、その後の事件を判断する時に、拘束力を持つんです。この規範を判例法とか、コモンローなどと呼びます。そして、その判例の蓄積というのは、州によって異なる訳です。このように、アメリカでは州ごとに法律の体系が異なりますので、その結果、弁護士の資格も州によって異なります。例えば、ニューヨーク州で弁護士の資格を取ったからと言って、テキサス州の法廷に立つことはできない。アメリカというのは、正に「合衆国」なんです。

 

最近、トランプ大統領が環境問題に関するパリ条約からの離脱を決断しましたが、いくつかの州で反対する動きが出ている。州法が強いので、こういうことが起こるんです。

 

アメリカの訴訟制度の特徴には、「陪審制」ということもあります。最近は、日本でも重大な刑事事件についてのみ、裁判員制度というのが適用されていますね。そのベースとなったのが、アメリカの陪審制です。アメリカでも裁判官が判決を下すという方法もあり、州によっては、裁判の当事者がどちらかの制度を選択できます。しかし、私の印象としては、アメリカ人というのは、陪審制が好きなようです。アメリカでは、民事事件でもこの陪審制が適用されます。例えば、製造物責任に関する裁判がある。すると、アメリカの一般の国民が陪審員となって、侃々諤々論議をするんですね。この件では、製造物に欠陥があったのかとか、被害者がかわいそうではないかとか、論議をする。するとそこから、色んなロジックが生まれてきて、それが判例法を形成していくんです。製造物責任に関する裁判であれば、「欠陥とは何か」ということが問題になります。例えば、飛行機に乗ったらそれが墜落してしまった。しかし、飛行機というのは、一定の確率で墜落するものだから、その都度、賠償責任を課していては、飛行機会社が倒産してしまう。こういうケースは「危険の引き受け」という概念で処理できないだろうか。例えば、ナイフで指に怪我をしてしまった。しかし、ナイフが危険なものであるということは、一目瞭然だ。こういうケースは、「明白な危険」という概念を作ってはどうか。こういうロジックが次々に生まれるんです。すると、学者や弁護士も論議に参戦してくる。元来、どんな製造物にもリスクはつきものだ。例えば、医薬品であれば、その副作用というリスクがある。他方、医薬品には病気や怪我を直すという便益もある。従って、その双方を比較して、リスクが便益を上回った場合、その製造物には欠陥があるということにしてはどうか。こんな考え方まで、出てくるんですね。ロジックとして、いかがでしょうか。ちなみに、私はこの考え方に賛成です。(Risk Utility Balance と言います。)

 

日本ではどうかと言いますと、アメリカからの圧力もあって、製造物責任法が制定されました。そこには、欠陥の定義について、こう定められています。「製造物が、通常有すべき安全性を欠いている場合」その製造物には、欠陥があるというんですね。言い換えれば、平均点以上であれば、欠陥はないということになります。いかにも、日本のお役人が作ったような感じがします。そこに、ポリシーは感じられません。そして、日本ではあまり裁判は起こりません。従って、議論もない。最新の事情は分かりませんが、多分、今日でも日本で欠陥と言えば、上記の条文通りの解釈が通用しているのではないでしょうか。

 

私は、必ずしもアメリカの制度の方が日本よりも優れていると言うつもりはありません。アメリカの制度も問題だらけです。しかし、一つ言えると思うのは、アメリカ人は、民主主義を維持するためのコストというものを決して、惜しんでいない。むしろ、そういうコストというのは必要なものなんだという共通認識があるのではないか。そう思うのです。また、陪審制というのは、これにもメリット、デメリットはありますが、一般の国民が判例法の蓄積に関与するシステムである、とも言えます。アメリカの制度というのは、一般の国民が、司法のみならず立法にも関与している。

 

アメリカでもトランプ氏のような人が大統領になってしまうことがある。そして、当然のごとくスキャンダラスな問題が発生する。この点は、日本と変わりがない。しかし、問題が起きてからの展開が違う。元FBIの長官は、議会で証言したのではないでしょうか。他方、日本の国会は、皆様ご存じの通り、幕を閉じました。前回の記事に対しまして、DENDAさんから的確なコメントをいただきました。有り難うございました。私も、同感です。

 

 

 

 

 

No. 117 日本人の忘れ物

ここ2~3日、YouTubeにハマッてしまいました。何を見ていたかと言えば、主に国会中継を見ていたのです。YouTubeというのは、過去の画像だけだと思っていたのですが、“Live”と表示された生中継もあるんですね。これには、ちょっと驚きました。もちろん過去の映像もある訳で、今は国会の審議内容を画像で、簡単に確認することができる。当然、政治の透明性は向上する訳ですが、国会議員や官僚の方々にとっては、大変な時代になったものだなと思います。面白いと言ったら不謹慎ですね。見応えがあったとでも言いましょうか。色々なことを考えさせられました。

 

まず、加計学園の問題ですが、腑に落ちないことばかりです。1点、指摘させていただきたいのは、元文科省事務次官の前川氏に対する個人攻撃です。ご案内の通り、前川氏の記者会見、内部告発と言って良いと思うのですが、ここから事件は急激に進展してきました。これに対し、まず、読売新聞が前川氏の「出会い系バー」通いの問題を報じた。そして、菅官房長官が、そういう場所に行って女性にお小遣いをあげるのはいかがなものか、と発言した。菅官房長官は、更に、前川氏が文科省事務次官を退任する際、ポストにしがみつこうとしていた、という発言もしています。当然、私たち国民が知りたいのは、文科省の行政プロセスが、総理の意向によって捻じ曲げられたのか否かということであって、前川氏のプライバシーではありません。そして、この2つの事項の間に、因果関係はない。菅官房長官は頭の良い人ですから、そんなことは百も承知のはずです。しかし、事実として、定例の記者会見で前川氏に対する個人攻撃を繰り返した。つまり、日本の国民というのは、その程度だろうと思っている訳です。また、止せばいいのに、それに乗じて前川氏のプライバシーを批判する報道もありました。日本の一般国民のレベルというのは、本当に、その程度なのでしょうか。

 

皆様は、詩織さんという女性が、レイプ被害を受けたとして、会見を開くと共に検察審査会に申し立てを行っている件は、ご存じでしょうか。私がYouTubeから得た情報をまとめると、まず、詩織さんが就職の相談で、山口敬之(ノリユキ)氏とお酒を飲んだ。元来、詩織さんはお酒に強いのですが、この晩は、意識を失ってしまった。山口氏はタクシーで詩織さんをホテルに連れて行って、意識を失っている詩織さんを凌辱した。当該事実は、ホテルの防犯カメラの映像などによって、ある程度、立証可能な状況となっている。警察は、山口氏に対する逮捕状を取得したが、執行する直前になって上層部から指示があり、逮捕を取り止めた。山口氏は、法に触れるようなことはしていないと主張している。なお山口氏は、安倍総理と親交があり、安倍総理を褒めたたえる本を2冊、執筆している。

 

当然、警視庁の上層部が逮捕状の執行を取り止めた理由は何か、そこに興味がある訳ですが、それはまだ分かりません。ただ、ネット上では詩織さんを批判するコメントが、かなりあったそうです。仮に政治的な意図があってのことだとしても、それは人間のモラルとして許されることではない。少数だと信じたいとは思うのですが、同じ日本人として、残念でなりません。本件につきましては、検察審査会において適切な判断がなされ、その後の刑事手続において、真相が明らかになることを願っています。

 

また、元経産省の官僚だった古賀茂明氏が外国人記者クラブで開いた会見も見ました。(タイトル:メディアと安倍政権の裏側を語る) 古賀氏は、かつてテレビ朝日ニュースステーションでコメンテーターをしていた方ですが、最後に“I am not Abe”と記載した紙を掲げ、古館氏と口論となり、番組を降板した人です。私はたまたま、その時の放送を見ていたのですが、腑に落ちないことばかりでした。元来、テレビ朝日というのは朝日新聞の系列で、左寄りのはずなのに、何故、古館氏が慌てていたのか。その当時の経緯について、この会見の中で古賀氏は詳細に語っています。ポイントのみ記しますと、当時、後藤健二さんというジャーナリストがイスラム国に拘束されていた。しかし、安倍首相はイスラエルの国旗の前で会見を開くなどして、後藤健二さんの救出に熱心ではないように見えた。そこで、日本人の中には安倍総理と異なる意見を持っている人間もいるのだということを、イスラム国側にメッセージとして伝えたかった、というのが真相のようです。こういう話というのは、聞いてみないと分からないものです。なお、当時、テレビ朝日は、朝日新聞とは袂を分かって、安倍総理との親交を深めようとしていた、との説明もありました。このような話を聞いてしまうと、冒頭に記した読売新聞もそうですが、メディアというのは、一体どこまで信頼できるのか、不安になってしまいます。

 

古代から始めて、現代に至るまでの文化の系譜を考えてきた私と致しましては、まず、“文化の基本原理”から始まって、宗教に至る一つの流れがある。また、そこから分岐した慣習というものがあって、それが法律へとつながる。そう考えている訳ですが、どうも現代の日本というのは、法律によって動いていない。物事を考える際の論理性というものが、十分に育っているとは言い難い。モラルも高いとは言えない。何故か。それは、日本という国が、近代にやっておくべきことをやらずに来てしまったからではないか。平凡な結論で恐縮ではありますが、いくつかの欧米諸国では、時の政権と対峙して、民主主義を獲得してきた歴史がある。それに対し、日本国民というのは、時の政権と向き合うことなく、日本国憲法と共に民主主義が与えられた。そこに、問題があるような気が致します。近代という時代に、やり残したことがある。それは、民主主義とは何か、法治国家とは何か、基本的人権とは何か、そういうことを真摯に考え、学ぶことではないでしょうか。それをやらない限り、日本人のモラル感覚というのは、改善しないように思うのです。

No. 116 文化の現在(その2)

文化の構造図を眺めていますと、左側に記載した項目、すなわち遊び、大衆文化、前衛芸術は、どれも自由なんです。他方、右側に記載した伝統文化と法律というものは、どうもその反対で、束縛されるイメージが強い。

 

思うに、古代人は比較的自由で平等な暮らしをしていた訳ですが、それが農耕、定住を始めると、経済的に価値のある富というものが出現し、その分配をどうするかという問題が生じた。そこで、権力者が出現し、国家が誕生する。すると、それまでの慣習と、宗教的な規範が融合して、初期の法律というものができる。そこから、人間が秩序を求める傾向というのは加速し、近代に突入した。近代において、そのような秩序に異議を唱えたのは、前衛芸術家だったと思います。一方、政治の世界では社会主義思想というものが誕生する。しかし、これも集団の利益を尊重するものであって、既存の秩序に置き換わる新たな秩序たりえなかったのではないでしょうか。

 

そのような経緯で、どこか息苦しい現代という時代に至ったのではないかと思います。現代に生きる私たちは、自由でしょうか? 私たちは未だに宗教的な規範と、法律の双方に束縛されている。だから、息苦しいのではないか。そうしてみると、ポストモダンのメンタリティがディタッチメント(関与しないこと)と言われるのも、無理はない。息苦しい、束縛されている、ではいっそ現実社会というものと距離を取ってしまおう。そういう流れではないでしょうか。

 

世界的な規模で見ますと、現在も宗教上の規範と、法律の双方が激しく対立しています。インドの法律は、カースト制度を禁じている。しかし、カースト制度はそう簡単にはなくなりません。

 

アメリカでは、キリスト教徒の団体が人工中絶を全面的に禁止する法律の制定を求めています。この法律が成立すると、例えばレイプ被害にあって妊娠してしまった人までも、中絶できなくなってしまう。これは、過干渉の典型ではないか。(さて、干渉し過ぎるということを、“過干渉”と表現したのですが、この言葉は広辞苑には載っていません。もし、私の造語であれば、ご容赦ください。)人工中絶には反対だというキリスト教の人々は、そう考えるのであれば、自分たちがそうすればいいだけの話であって、何も、他の人まで拘束する必要はないと思うのです。しかし、往々にして、人間はある秩序の中で生きていると、それが価値観となり、他の人にも同じ価値観を共有するよう求めてしまう。

 

数日前の新聞に載っていたのですが、イスラエルLGBT性的少数者)の解放を主張する大規模なデモがあったそうです。イスラエルは当然ユダヤ教で、確か、国民の85%がその信者となっている。そして、ユダヤ教は同性愛を禁じているそうです。この場合は、宗教上の規範が、人々に干渉し過ぎていると思うのです。

 

このように、現代におきましては、様々な人々が現存する秩序に対し、異議を述べ始めていると思うのです。

 

大体、人間社会の秩序というのは、人間を区別するところから始まるんですね。学校の運動会でもそうですね。「男と女に分かれて、背の低い者から順に並べ!」。これが区別だと思うのです。しかし、区別は、やがて差別となる。そういうことに、現代人はほとほと嫌気が差している。

 

まず、男女の区別。日本では、日本国憲法によって女性の参政権が認められたと思うのですが、なかなか実態は、男女同権とはいかない。そこで、男女雇用期間均等法ができたりする。

 

私が学生だった時分には、日本の刑法に尊属殺人という規定がありました。尊属というのは、自分よりも上の世代、すなわち両親だとか、祖父母のことです。その反対が、卑属ということになります。そして、卑属が、すなわち子供や孫が、親や祖父母を殺害した場合には、尊属が卑属を殺害した場合よりも刑罰が重くなる可能性があった。これは憲法に反するということを教わった記憶があります。気になって調べてみたところ、現在では、かかる刑法は是正されています。しかし、卑属という言葉自体、これは蔑視ではないか。腹立たしい限りですが、つい最近まで、日本の法律ですら宗教的な価値観と融合していたんですね。

 

肌の色、目の色などに基づく、人種差別というのもあります。もう、そういうのはいい加減勘弁してくれ、というのが現代人のメンタリティではないかと思います。

 

ところで、皆様は、官尊民卑という言葉をご存じでしょうか。字の通り、官僚が偉くて、民間は卑しいという考え方です。そういう、風習が日本には残っていないでしょうか。その起源について、面白い話があります。江戸時代にまで遡るのですが、当時は下級武士が幕府や藩の運営に関わる仕事をしていた。そして、明治維新を迎える訳ですが、それらの下級武士の組織が、官僚制に移行したというのです。これは、小室直樹さんという方の説です。官僚制になっても、元々、自分たちは武士だった。士農工商のトップに位置付けられていた。だから、偉いんだということになる訳です。このような価値観、現代では通用しませんね。

 

そもそも、政治家や役人と言うのは、国民が税金を支払って、その運用を委託するという関係にあります。従って、その税金がどのように使われているのか、政治家や役人は国民に説明する責任がある訳です。そこで、2001年に情報公開法が施行されたのです。テレビのニュースなどで、よく真っ黒に塗りつぶされた資料を野党の人が持っている場面が放映されますが、この黒塗りの資料というのは、情報公開法に基づいて、お役所が公開したものなんですね。私はそれでも、法律がないよりは、あった方が数段良いと思います。

 

何故、こんな話をするかと言えば、現在、加計学園に関する文科省の対応が問題視されているからなのです。今日まで、政治家の賄賂や口利き、役人の天下りなどの問題は無数にありましたが、役所の仕事の仕方自体が政治問題となったケースは、あまりないように思います。結論がどうなるかは分かりませんが、この件なども、長い目で見ると、官尊民卑という古い秩序、価値観を変える重要な出来事となるかも知れません。