文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 128 集団スケールと政治の現在(その2)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1. 個人
2. 血縁集団
3. 帰属集団

プライドと呼ばれるライオンの集団は、血縁集団であって、ライオンの社会にそれ以上大きな集団はありません。しかし、人間の社会は違う。いくつかの血縁集団が集まり、また、地域的なつながり、職業的なつながりが付加され、もう少し大きな集団が構成されている。このような集団の本質は、その構成員である個人が、その集団に帰属していることを強く意識している、若しくは強く望んでいるという点にあると思うのです。また、集団の側はその構成員である個人に対し、集団のルールや価値観を遵守し、その集団に帰属することを求めている。よって、このブログでは、このような集団を“帰属集団”と呼ぶことに致します。このブログのNo. 84~No. 88に掲載しました“共同体と個人”というシリーズ原稿がありましたが、そこで言っていた共同体とか、No. 125の原稿に記載しました“スモール・ユニット”というのは、この帰属集団と同じ意味です。

帰属集団の規模については、“顔と名前が一致する程度”、ということにしたいと思います。それ以上大きな規模になると、帰属意識が希薄になると思うからです。

社会学者の宮台真司氏は、概ね、次のように述べています。「人間は、狩猟採集を行っていた時代、多くても150人程度の集団で行動していた。そして、その時代は長く続いた。よって、本来、人間が仲間意識を持てる人数は、150人程度が限界である。しかし、この規模の集団が解体され、人間の仲間意識が衰退したのが、現代である。この規模の集団と人間の仲間意識を復活させるべきだ」。

人間集団の規模に着目している点では、本稿に類似していますね。また、“多くて150人”という表現は、私がここで述べようとしている“帰属集団”と同サイズだと思います。更に、この規模の集団が解体されていったという点は、私が“共同体と個人”で述べた内容と同じです。よって、宮台氏の考え方というのは、私の認識と似ている。似てはいるのですが、ちょっと違う。歴史という名の時計の針は、決して戻せない。これが私の持論です。

さて、確かに現代においては、既に解体されつつある帰属集団ですが、その本質を少し見ていきましょう。まずは、マサイ族の話。

マサイ族はアフリカのサバンナで暮らしている無文字社会の部族で、多分、何万年にも及ぶ期間、ライオンと戦ってきたんだと思います。そして、現代に生きるある日本人女性が、マサイ族の男性と結婚した。マサイ族も一夫多妻制で、この女性は、確か第二夫人になったようなことを言っていました。かつて、地上波で放送された番組がYouTubeにアップされていたんです。ちょっと、私の記憶に曖昧なところもあるのですが、彼女はこんなことを言っていた。特に祭祀の時など、マサイ族の兵士は美しく着飾る。しかし、その装飾品やイレズミには意味があって、例えば、あるイレズミはライオンを倒したことのある男だけに許されている。

番組を見た時には、そんなものかなあと思っていたのですが、今は、その理由が分かるような気がするのです。私の想定は、次の通りです。

最近では、マサイ族の武力が向上し、ライオンよりも強くなった。しかし、過去においては、その武力が拮抗していた。多くのマサイ族がライオンに食い殺されてしまった。マサイ族は、ライオンを怖れた。そこで、マサイ族の帰属集団は、一つの価値観を持った。すなわち、“ライオンを殺すことは、名誉なことである”と。そして、帰属集団の側は、ライオンを殺すことに成功した兵士に、報酬を与えることにした。それがイレズミである。このイレズミを許されるのは、帰属集団の利益に貢献した男だけなのだ。このイレズミは、彼が一人前の兵士であることの証明となり、彼は周囲の男たちから尊敬され、帰属集団の女たちから愛される。

一見、なんともハッピーエンドな物語のようですが、そうでしょうか。マサイ族はライオンとヤリで闘う訳ですが、その射程距離は、せいぜい10メートル程度ではないでしょうか。そこまで、百獣の王ライオンに近づかなければならない。マサイ族の兵士だって、それは怖いはずです。怖いから、本当は誰もやりたくない。だから、報酬制度が必要だった。マサイ族の男は、まだ幼い頃から、そういうスリコミを受けているのだと思います。“お前もいつか一人前の男になったら、ライオンを倒さなければならない。それは、名誉なことなんだ”と。ここには明らかに、個人と帰属集団の利益相反がある。

ちなみに現在ではライオンの数が激減し、白人がマサイ族に対し、ライオンを殺してはいけないという教育を行っているようですが、それでも、ライオンを殺そうとするマサイ族の男が後を絶たないようです。

No. 127 集団スケールと政治の現在(その1)

では、気を取り直して、再開してみます。

狩猟・採集を生業としていた時代から、人間は集団で暮らしてきました。言葉を覚え、道具を発明したとは言え、人間が野生動物と闘うためには、集団を形成する必要があったからです。

やがて人間は定住し、農耕作業を行うようになります。更に、通信や交通の手段が発達するにつれ、人間集団の規模も飛躍的に拡大してきたものと思われます。そして、その大きさによって集団の持つ特質、歴史的な背景などを整理してみると、見えて来るものがきっとあるはずだ、と思うのです。そこで、私なりに人間集団をその規模に応じて分類してみたのですが、結果は次の通りです。

1. 個人
2. 血縁集団
3. 帰属集団
4. 組織集団
5. 民族
6. 一神教イデオロギー
7. 民主国家
8. グローバリズム

今回のシリーズは、まず、上記の分類について、その文化的な背景などをご説明し、続いて、この分類方法に基づき、現在の政治状況について考えてみようというものです。ちょっと、無謀かも知れませんね。ちょっと、私にはテーマが重過ぎるかも知れません。それは承知しているのですが、肩の力を抜いて、軽い気持ちでチャレンジしてみたいと思うのです。皆様も、「ちょっと、そこは違うんじゃないの」とか疑いながら、原稿を楽しんでいただければ幸いです。

こんな時、ミック・ジャガーの言葉(歌詞)を思い出したりします。

You can’t always get what you want, but if you try sometimes you might find you get what you need!

さて、人間の最小単位は、個人です。しかし、この個人というものは、血縁集団の中では、あまり明確に認識されない。ライオンの集団であるプライドについて考えてみて、良く分かりました。プライドの中のメスライオンは、互いに血縁関係がある。そして、そのプライドを乗っ取ったボスライオンが、そのプライドに属する全てのメスライオンを支配するんですね。一夫多妻制ということです。人間の一夫一婦制とは異なりますが、明らかにこれは、家族と呼んでも良い集団だと思います。そして、家族の中では、家族という集団とその構成員である個体との間に、利害相反は発生しない。ライオンの家族が、巨大なキリンに挑んでいく。キリンも後ろ足を蹴り上げて、必死に抵抗する。キリンのキックを受けてしまえば、ライオンといえども死の危険にさらされる。それでも、リスクをおかして、母親ライオンも父親ライオンも果敢に挑み続ける。ライオンの家族というのは、運命共同体なんですね。ここでキリンを仕留めなければ、餓死してしまうかも知れない。そんな時に、「私は怖いから嫌だ」などと言ってはいられない。自分が生き残ることと、家族が生き残ることとは、同意義なんだと思います。最近はいろいろあるようですが、基本的には、ライオンのプライドと人間の家族は、同じだと思うのです。

集団を構成する個人(個体)と集団の利益の間に相反関係が生ずるのは、もう一つ大きな単位、すなわち帰属集団を想定する必要があると思うのです。

ブログ再開のお知らせ

私の住む埼玉県では、一昨日から涼しくなり、冷房を使わなくても眠れるようになりました。まだ、日中は蝉が鳴いていますが、どこか寂しげに聞こえます。

皆様の地域では、いかがでしょうか。

さて40日程、休憩しておりました本ブログですが、そろそろ再開することに致しました。休憩中にも多くの方々にアクセスしていただいたようで、有難うございました。

この間、私には一つの変化が生じました。それは、ほとんど地上波のテレビを見なくなったということです。YouTubeの方が、面白いし、情報も正確だからです。現在のYouTubeには、ありとあらゆる動画がアップされています。無文字社会の人々の暮らしや、野生動物の生態なども豊富にあります。ドイツのアウトバーンを時速300キロで疾走するバイクとか、改造車のドラッグレースとかもあります。アフリカからヨーロッパを目指すボートピープルの様子から、日本の市民団体が開催したパネルディスカッションとか、その種類はもうありとあらゆるジャンルに及んでいる。そして、YouTubeは好きな時間帯で見ることができる。

また、“情報の正確さ”という観点からも、地上波はYouTubeにかなわないと思うのです。情報にはまず、現場の生の情報というものがある。これを1次情報と呼びましょう。これを録画した音声付きの動画というものがある。これを2次情報としましょう。YouTubeでは、この2次情報に接することが可能です。例えば、パネルディスカッションが開催されたとして、それは最低でも1時間、長ければ3時間に及びます。これをノーカットで放送することは、事実上、地上波では無理です。従って、これを編集して放映するのが地上波ということになります。しかし、ある発言というものには、その前後の脈絡というものがある。これを切り捨てたものが、地上波の3次情報ということになります。更に、1次情報(現場の情報)に接していないコメンテーターが発言したりする訳ですが、これはもう4次情報と呼ぶべきもので、いくつものフィルターを通過した後の情報、ということになります。

1次情報・・・現場の、生の情報
2次情報・・・音声付きの動画(ノーカット)
3次情報・・・編集された動画
4次情報・・・コメンテーターの発言

このように考えますと、ネットとかYouTubeというものが、今、どのような情報革命を起こしているのか、分かるような気がします。若干補足しますと、地上波のテレビには、スポンサーがついていて、視聴率を獲得するという大命題があります。だから、情報が歪められる。地上波は、スポンサーとなり得る大企業の批判はしませんし、視聴率を上げるためにポピュリズムに走る。NHKにスポンサーはついていませんが、政権からの圧力が加えられたという噂は、ひっきりなしにあります。

テレビの時代は、もう終わりに近づいているように感じます。

なお、このブログのルールとして、公式な記事にはタイトルの前に通し番号を付ける、時事問題などを扱った非公式な原稿には通し番号を付けないことにしたいと思います。正式な記事ばかりでは、私自身、息が詰まってしまいますし、非公式な原稿が皆様のお役に立つ場合だって、ないとは言えないと思うからです。

新シリーズのタイトルは、“集団スケールと現在の政治(仮)”というものを考えています。近日中にアップする予定ですので、ご興味のある方、宜しくお願い致します。

休止のお知らせ

暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。私は、少し夏バテ気味です。

 

さて、このブログですが、昨年の7月に始めて、約13か月が経過しました。その間、約130本の原稿を掲載してまいりました。月平均約10本、3日に1本という割合です。

 

永年疑問に思ってきたことを一つずつひも解いて来た訳ですが、私と致しましては、それなりに成果があったと思っております。このブログでは、主に歴史的な観点から文化の構造というものを考えてまいりました。文化の起源は“遊び”にある。そして言葉が生まれ、物語、呪術、祭祀などを経て、シャーマニズムに至る。その経過の中から、文学や美術などの芸術が生まれた。証明できるかどうかという問題はありますが、そこまでは多分、間違っていないと思います。

 

問題は、その先です。シャーマニズムというのは、例えば、大勢の人々が集まって何かを祈っている。その中心にいる人がシャーマンと呼ばれる人で、それは雨乞いの儀式だったかも知れない。狩猟採集の時代であれば、その一群の人々がこれから東に行くのか、西に行くのか、それを決定するための手続であったりした訳です。やがて、人々は定住を開始し、食物の保管が可能となり、武力衝突が起こる。敵対する部族との戦いをいつ仕掛けるか、そんな事柄も、シャーマンを中心とした祭祀によって、決めていたのではないでしょうか。

 

文字ができて、シャーマニズムは宗教へと発展する。宗教と武力とが渾然一体となり、政治が生まれた。このブログで“宗教国家”と呼んできた時代が始まる訳です。そこから、宗教や武力とは隔絶した、新しい考え方が生まれる。歴史的には、アメリカの独立宣言が最初だったのでしょうか。そして、その考え方は民主主義と呼ばれた。日本では50年戦争とも呼ばれる時代を経て、日本国憲法が生まれる。言うまでもなく、国民主権基本的人権の尊重、平和主義に関する考え方は、この日本国憲法において結実している。と言いますか、憲法の他にこういう事柄を定めたものって、ないんです。

 

最近では、メディア・リテラシーということも考えつつ、“政治を読み解く7つの対立軸”というシリーズで、私の政治的な立場も明らかにするよう試みてみました。結果、私の立場というのは、右でも左でもない、何処かあやふやな場所に立脚していることが分かりました。しかし、世の中には、私と同じようなことを考えている人たちも、少なからずいる。今は、そう確信しています。私はこのブログで、“プライバシー保護法”を制定するべきだと述べましたが、ある憲法学者は、「プライバシーの問題は、憲法に定めるべきだ」と主張しています。また私は「法律も、経済も、国の安全保障も全てアメリカに依存しているのは、いかがなものか」と述べましたが、ある憲法学者は、もっと明確に「日本はアメリカから独立するべきだ」と述べています。アメリカからの独立!?

 

また、本日現在、安倍総理憲法改正を諦めていないようです。

 

そんな経緯があって、私は憲法に興味を持つようになったのです。しかし、これはそう簡単な問題ではありません。少し、勉強のための時間が必要です。それが、このブログ“休止”の理由です。

 

コオロギが鳴き始めた頃、再開できれば、と思っております。

 

では !

No. 125 政治を読み解く7つの対立軸(その4)

4つ目の対立軸は、弱者保護 vs 格差容認 です。

 

現在の日本における格差問題については、今さら私が述べる必要もないと思います。ワーキング・プア、シングルマザー、非正規従業員、奨学金の返済。全て、貧困を表わす言葉ですね。他方、昨年度日本で1億円以上の役員報酬を受け取った人は457人いるそうです。社会の持続可能性を考えますと、普通の人が普通に暮らしていけるレベルの経済水準は不可欠だと思うのですが、今の日本のセイフティ・ネットは、その水準に達していない。

 

ただこの問題は、経済的弱者の方々のみの問題ではなく、日本の民主主義を深めるという観点からも、重要な意味を持っているのではないか。例えば、次の給料日までどう食いつないでいくか、そういう差し迫った問題に直面している人たちが選挙の投票に行くか、ということがある。政治のことなんか、考えている場合ではない。そういう方々は、決して少なくないと思うのです。

 

安倍一強とも言われる現在の日本の政治状況は、長い物には巻かれろ、寄らば大樹の陰、という主体性の欠如したメンタリティが生み出したものです。このような状況を回避するためには、個々人が自律的に考えて行動する必要がある。そして、そのためには、まず、個々人が自尊心を回復する必要があるのではないか。

 

Yahooニュースへの書き込みなどを見ておりますと、安倍総理礼賛、韓国人に対する誹謗中傷などがとても多い。このような書き込みをする人たちのことを俗に、ネトウヨと呼びますが、他にも自民党支持者とか、自民党からお金をもらって書き込みをしている人がいるとか、いろんな噂があります。実態はなかなか分かりませんが、少なくとも、相当数の書き込みがあるのは、事実です。ここでは、便宜上、そのような書き込みを行っている人たちを総称して、ネトウヨと呼ぶことにします。

 

ここから先は、私の想像ではありますが、ネトウヨの人たちというのも、実は必ずしも経済的な余裕のない方が多いのではないか。そう思えてならないのです。なかなか、自尊心が持てない。政治上の複雑なリクツも分からない。そのため、とりあえず右翼的なコメントを発して、世間の注目を集めたい。また、ネトウヨ同士での連帯感を共有したい。そういう心理状態なのではないか。彼らのコメントというのは、概して短いもので、ロジックが語られることはあまりないように思います。何か、反論のような書き込みがあると、「お前は左翼か」とか「お前は在日だろう」と言って、反撃するのです。こういうのを見ますと、彼らの中で、次の3段論法が成立しているような気がします。

 

1.       日本人は、韓国人よりも偉い。

2.       自分は、日本人である。

3.       だから、自分は偉い。

 

そんなことを考えていますと、ネトウヨの書き込みというのは、彼らが発しているSOSのシグナルのようにも思えてきます。

 

次に、政治的な主張には、それぞれが重視している範囲というものがある。範囲の広いものから、列記してみます。

 

1.       グローバリズム

2.       国家主義

3.       民族主義

4.       スモール・ユニット(後述)

5.       個人主義

 

こう並べてみますと、例えば、トランプ大統領が“米国第一主義”を標榜したのは、グローバリズムを主導してきたアメリカが行き詰まって、国家主義に戻ろうとしていることが分かります。一方、安倍総理の政治的信条というのは、そのバックボーンとして日本会議国家神道)などが取り沙汰されており、国家主義にあるようにも見えるのですが、実は、グローバリズムにあることが分かります。集団的自衛権で、地球の反対側まで自衛隊を派遣しようとする。TPPを推進する。海外から労働者を受け入れようとする。これらは、国家の範疇を超えていますね。このような立場を、新自由主義と呼ぶようで、これは小泉総理の時代から、自民党の基本姿勢となっているようです。伝統的な保守というのは、国家主義であったはずで、保守の方々はもっと安倍総理に文句を言ってもいいと思うのですが・・・。

 

4番目に記載しましたスモール・ユニットというのは、最近の政治学で使われている用語のようです。私は、まだそこまで勉強していませんが、この言葉を拝借することにしました。これは、例えば家族よりは大きく、民族よりは小さな集団という位置づけです。イメージとしては、農村、漁村などの村落共同体、中小企業などがこれに当たる。これらをもっと、大切にするべきではないか。

 

例えば、日本における強固な国家主義というのは、50年戦争の時代に確立されたと思うのですが、まず、その時代にこのスモール・ユニットというのは破壊されたんです。例えば、それ以前であれば、様々な宗派を持つ仏教というものがあった。もっと、土着的な信仰もあったと思うのです。しかし、それらは弾圧され、または排除され、天皇陛下を頂点にいただく神道に統一された。ラジオが普及し、標準語が推奨された。

 

そして、グローバリズム新自由主義の進展に伴って、スモール・ユニットは更に破壊された。例えば、かつての日本の会社というのは終身雇用制であって、行けば知っている人ばかりで、それはあたかも村落共同体のような存在だった。それが、非正規という働き方が広まり、人材の流動化も進んだ。これによって、会社と従業員のウェットな関係というのは、断ち切られたのです。

 

自ら自律的に思考しろと言っても、誰もがそうできる訳ではありません。特に、知識や人生経験の少ない若年層の人たちにとって、それは無理なことかも知れません。若年層の人たちには、相談相手が必要だ。何を、どう考えるべきなのか。そういった先人たちの知恵と相談相手を提供してきたのが、スモール・ユニットだったのではないでしょうか。

 

スモール・ユニットが機能していて、その一部のリーダー層の人たちだけでも、自律的に思考する習慣を持っていたならば、現在の安倍一強と言われるような政治状況は生まれなかったのではないか。

 

従って、私と致しましては、弱者を保護しようとする政策、グローバリズムではなく、スモール・ユニットや地方分権を尊重する政党を支持したいと思うのです。

No. 124 政治を読み解く7つの対立軸(その3)

3つ目の対立軸は、政策 vs 既得権保護 です。政党にとって最も大切なことは、正しい政策を立案して、それを実行することだと思うのですが、ほとんど政策を訴えない政党も、少なくありません。では、そういう政党にとって大切なのは何かと言うと、既得権の保護だと思うのです。

 

ところで、既得権とは何かと考えますと、つまるところ、補助金と許認可ではないでしょうか。例えば、農村、漁村などにおきましては、農協、漁協などの各種団体があって、政府や地方公共団体から補助金をもらっています。今年もらったのだから、来年ももらう権利がある。確かにそうですね。これが既得権です。ちなみに私は、このタイプの既得権には、ある程度、寛容です。日本の農業や漁業を守る。日本の食料自給率の維持、向上に努める。これは大切なことだと思います。また、農村、漁村において、それらの既得権者が自民党に投票する。これもある程度、仕方のないことだと思っています。

 

他方、私が疑問に思っているのは、許認可に基づく既得権の方です。ちょっと、風が吹けば桶屋が儲かる式の話で恐縮なのですが、分かり難い法律が既得権を生む、という話をさせていただきます。

 

まず、日本の法律は分かり難い。例えば、独占禁止法ですが、その第19条には「事業者は、不公正な取引方法を用いてはならない」と定められています。また、「不公正な取引方法」については、第2条に定義があって、大別すると6つの行為類型が記されているのですが、その6番目にはこう書いてある。「前各号に掲げるもののほか・・・公正取引委員会が指定するもの」。従って、更に公正取引委員会の告示というのを見なくてはなりません。そこには、例えば「排他条件付取引」というのが次のように規定されています。「不当に、相手方が競争者と取引しないことを条件として当該相手方と取引し、競争者の取引の機会を減少させるおそれがあること」。“何それ?”と思われた方、ご安心ください。ほとんど、誰にも分らないのです。結局、法律を読んでも分からない。ではどうなるかと言えば、この例で言いますと、関係省庁がガイドラインを公表している。この本を購入しなければ、独禁法のディテールというのは理解できないんです。

 

法律で一番上に位置するものは憲法ですが、その下に、例えば上記の例では、次の下位構造がある。

 

1.       独占禁止法

2.       公正取引委員会の告示

3.       ガイドライン(指針)

 

こういうのを法律の重層構造と呼びますが、日本では、この層が厚過ぎる。だから、日本の法律は、分かり難い。これはもう、意図的にそうしているとしか、思えません。そして、役所が何をするかと言うと、いわゆる独立行政法人のような団体を作り、そこに役人が天下る。そこで前述のガイドラインやその他の解説書を販売したり、有料の説明会を開いたりする訳です。私の知る限りでは、ほとんどの分野で、こういうことが行われています。独禁法というのは、全ての大企業に関係がある訳ですが、一部の業界のみを拘束する法律もあります。そのような法律も、分からないように書いてあり、分厚い重層構造になっているんです。法律では何も分からないので、結局、役所が判断することになるんですね。これが、許認可の存在理由だと思うのです。このように、分かり難い法律が、許認可制度と役人の天下り先を支えている訳です。

 

このような仕組みにあって、個別の企業ではなかなか役所と対等にやり取りすることが難しい。従って、業界団体というのを作るんです。そこを使って、役所との調整をしたり、役人を講師に招き、勉強会をしたりする。場合によっては、この業界団体も役所からの天下りを受け入れたりする。それでもうまく行かない場合には、業界団体が政権党に働きかけをするのだと思います。政権党が欲しがるのは、選挙の際の“票”と政治献金ですね。そして、政権党から役所に圧力を掛けてもらう。ここまですれば、万全です。この構造というのは、あたかもジャンケンのグー、チョキ、パーに似ています。役所は業界団体に勝つ。業界団体は、政権党に勝つ。そして、政権党は役所に勝つのです。また、この構図が無くならない理由としては、それぞれの当事者が以下のメリットを享受するからだと思います。

 

政権党・・・・票と政治資金

役 所・・・・天下り

業界団体・・・新規参入企業の抑止

 

かつて、日本の司法試験は、世界で一番難しいと言われていました。その理由は、それだけ日本の法律が発達しているからだと思っていたのですが、とんでもありません。日本は法律が分からないようになっているから、司法試験が難しいのです。現在、日本では司法試験に合格していないけれど、アメリカでは弁護士資格を持っている、という人が沢山います。英語で試験を受けなければならないというハンディを背負っても、アメリカの試験の方が簡単なのです。

 

このように考えてきますと、現在の日本が法治国家と言えるのか、疑問になってきます。 憲法があるので、そう呼べるような気もしますが、実態は許認可国家だと思うのです。森友学園加計学園の問題も、背景としては上述の許認可に関する構図があって、そこに国家戦略特区という新たな許認可制度を作って割って入ろうとしたところに、事件の発端があったように思います。ちなみに、加計の次は国際医療福祉大学だと言われており、民進党の疑惑調査チームが、既にその究明活動に着手しています。

 

日本を本当の法治国家にするためには、まず、法律を分かり易くすること。そして、そのためには、法律の重層構造のフラット化を図る必要があると思うのです。そもそも法律は、選挙によって選ばれた国会議員の決議によって制定されるべきです。役所が省令、通達、ガイドラインなどを交付して法律のディテールを決める現在のシステムには、納得できません。こんなところにも、古い官尊民卑という価値観が残っているように思います。

 

言うまでもなく、既得権を持っている団体の利益代表となっている政党というのは、特段の既得権を持っていない私のような一般庶民からすれば、何の魅力もありません。それよりも、政策を語る政党を支持したいと思うのです。

No. 121 メディア・リテラシーということ

最近、アメリカではFake Newsというのが問題になっているそうです。匿名で、根も葉もない嘘のニュースをネット上に配信する。そして、アクセス件数に応じて、手数料を取得するという仕組みのようです。この手法で稼いだお金で、家を建てた人もいるそうです。

 

Fake Newsはちょっと極端な例かも知れませんが、加計問題等を契機に、日本のメディア報道にも疑問が提起されています。読売新聞の件もそうですが、先日の会見で、前川氏はNHKの報道姿勢も問題視していました。いち早く、前川氏にインタビューをしたにも関わらず、NHKはその画像を一切放映していないようです。更に前川氏は、どんな文書が出て来ても、一貫して官邸を擁護するコメンテーターも問題視しています。このようなコメンテーターは、私でも、直ちに数名は氏名をあげることができます。時事通信のT氏などは、有名ですね。ネット上では、安倍政権に対するポチ度ランキング、などという情報も目にします。

 

いずれにせよ、大手メディアからネット上の情報まで、それが信じられるものかどうか、自分で判断しなければならない時代になりました。このように情報を評価、識別する能力のことをメディア・リテラシーというそうです。

 

ところで、加計学園の問題ですが、一向に収束する気配がありません。直近で、出て来た話としては、加計学園補助金申請手続に問題があったのではないか、ということです。加計学園は、獣医学部の建物を建設する際、今治市だったと思いますが、補助金を受け取っています。その際に申請した建設費の単価が水増しされているのではないか、というのが1点。また、補助金を受けて行う工事ですので、その発注先は競争入札で決めることが条件になっていますが、その入札手続が行われていなかった可能性がある、とのことです。これらの点は、既にネットに流されている他、東京新聞社会部の“戦う女性記者”、望月氏が本日、菅官房長官の会見で、追及していました。また、民進党も同様の事項を本日の記者会見で指摘しています。加計学園は、そもそも、教授陣の体制に問題がある点も国会で問題視されていました。65歳以上の高齢者と、経験の少ない弱年齢層の人たちが多いようです。

 

こうなってきますと、加計学園獣医学部の建物の建築工事は進んでいますが、果たしてこれが完成するのか、はなはだ疑問であると言わざるを得ません。森友学園の場合は、完成する直前でストップしたはずですが、同様のことが加計学園でも起こるのではないか。

 

また、安倍総理は、「中途半端な妥協が国民の疑念を招く一因となった」として、今後、獣医学部を全国展開すると述べています。しかし、「中途半端な妥協」が今まで問題視されたことがあるでしょうか? このような論点のすり替えを最近は“ズラシ”と言うようです。また、多額の税金が使われる獣医師を、その需給見通しを無視して量産するとは、一体、どういうことなのでしょうか。

 

ここから先は、私の推測です。まず、補助金申請手続の不備等により、加計学園獣医学部は、最終的には認可されない可能性がある。この場合、建設中の建物は完成しない。そうなれば、多額の損失が発生し、今治市民のみならず、国民は納得しない。そこで、今、獣医学部を全国展開すると言っておいて、京都産業大学に申請を促す。結果、加計学園の計画は中止となるものの、京都産業大学獣医学部が発足することとなり、問題の幕引きを図る。「皆さんのおっしゃる通り、加計学園は止めて、京都産業大学にしました。だから、この問題はもう終わりです」ということです。

 

上記の私の推測が当たるかどうかは別として、仮に、加計学園が不正に補助金を受け取っていたということになれば、そこでこの問題は決着を見ることになると思います。これはもう、説明責任の問題ではなく、結果責任ということですね。ここまで来ますと、今まで、「一貫して、総理官邸側を擁護してきたメディアとその関係者たち」は、泥の船からは早く降りた方が良いとの理由で、今度は、安倍政権を批判する側に回る可能性もあります。

 

ここまで考えますと、最早、メディアの発する情報を鵜呑みにすることはできません。一体、何が真実で、何がフェイクなのか。メディア・リテラシーを高めよと言うのは簡単ですが、どうすればそうできるのか。私たちは、そういう曖昧で不確実なリスクの中に生きている。少なくとも、そのことだけは自覚しておいた方が良いと思うのです。