文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 131 集団スケールと政治の現在(その5)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団

No. 129の原稿におきまして、私が偶然、浅草の三社祭に出くわした経緯を記載しました。気になったので、ちょっとネットで調べてみました。三社祭は3日間開催されますが、合計で180万人程度の人出があるようです。そんなに大規模な祭だったんですね。全く知りませんでした。しかし、もっと驚いたのは、三社祭が別名“刺青祭”とも呼ばれていることです。首から上を除き、ほぼ全身に刺青を入れた男たちが、神輿の上に乗っている。そんな写真がネット上に流布されています。三社祭に参加する神輿の数は、100基程度だそうですが、その過半数暴力団系だそうです。浅草の近辺には、暴力団の事務所なども多数あるそうです。また、ほぼ全身に刺青を入れている女性たちの写真も沢山ありました。これにも驚きました。それらの写真には、何か、言いようのない違和感を覚えます。

私たちは、普段の生活では、全身に刺青を入れた人たちをみる機会はありません。そして、刺青の起源は、古代にある。そんな古代から脈々と継承されてきた文化に接する機会も、そう多くはない。それが、三社祭においては、ある意味唐突に登場する。そこに違和感を覚えるのだろうと思います。ただ、刺青は外国人などにも人気で、それを見るために三社祭を訪れる見物客も少なくないそうです。

フンドシ一丁で、全身の刺青を開示している人たちの画像は、YouTubeにも沢山アップされています。それらを見ておりますと、周囲の人たちの注目を集めていることに、ご当人たちもまんざらではないようです。むしろ、写真撮影などには、積極的に応じているようにも見えます。

昭和の暴走族と同じようにまず、まず、“疎外”ということがあって、暴力団が生まれるという仮説が成り立つかも知れません。いろいろな面で、社会から疎外されていると感じる。そこから、生きている実感や連帯感を求めて、暴力団に加入する。但し、暴走族の場合と少し違う可能性もある。暴走族と言っても、その加入理由は千差万別かも知れません。ただ、一つの典型例としては、高校に行っても面白くない、ということがあると思うのです。これは、個人のベースで疎外されている。一方、暴力団に加入する誘因としては、個人ではなく、その人が属している血縁集団なり、帰属集団の単位で社会から疎外されているのかも知れない。

この疎外の問題というのは、結構、大きな問題かも知れません。この問題を扱っている文学作品などは、探せば沢山ありそうです。しかし、ここでは先を急ぎましょう。

三社祭の例で言えば、それぞれの神輿を支えているのが、顔見知りの範囲、すなわち帰属集団ということになります。そして、それが100基集まって、三社祭が構成されている。この単位を“組織集団”と呼ぶことに致します。例えば、神輿1基だけでお祭りを開催しても、盛り上がらない。だから、帰属集団が集まって、より大きな祭祀を開催しようというのは、自然の成り行きだと思います。

歴史的に考えますと、武力衝突というのも組織集団が構成される誘因になったと思います。例えば、集団Aが集団Bを攻撃する。この時、集団Bが集団Cと手を組めば、集団Aに対し、優位に立つことができる。だから、帰属集団というのは、更に大きな組織集団を構成しようとする。現に、昭和の暴走族でも抗争が激化した結果、関東地方で活動していたいくつかの暴走族が連帯して、関東連合という組織を作ったそうです。全盛期は、1000台位が集まったという話もあります。

宗教関係で言えば、仏教など多神教の団体もこの組織集団の位相に該当すると思います。お釈迦様の教えに従うという意味では、各宗派とも同じだと思うのですが、多くの宗派はその宗祖の教えなり、逸話を信仰の対象としているのではないでしょうか。仏教系の宗祖というのは、ちょっと思い描いただけでも、空海最澄親鸞法然日蓮などのビッグネームが思い浮かびます。

組織集団が構成された理由としては、近代以降の大量生産ということもあると思います。中世の家内制手工業であれば、血縁集団、せいぜい組織集団で仕事が回っていた。しかし、産業革命が起こり、大量生産が可能となり、日本でも財閥が中心となって規模の大きな会社組織が生まれる。現代の私たちにとって、最も典型的な組織集団と言えば、官僚組織と会社ではないでしょうか。

顔見知りばかりの帰属集団にあっては、そのリーダーが物事を決めていけばいい。しかし、見ず知らずの人たちが沢山いるということになると、それなりの秩序が必要となってくるのではないかと思うのです。その秩序とは、階級制であったり、ある程度合理的なルールであったりということになるでしょうか。

歴史的に考えますと、人間の社会というのは、時を経て、少しずつ集団のスケールを大きくしてきた。そして、この組織集団という規模の集団を形成するに至った時、政治の原型のようなものが生まれたのではないでしょうか。

No. 130 集団スケールと政治の現在(その4)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。

もう10年以上も前のことですが、年末にクルマで首都高速を走っていた時、暴走族の集団に行く手を阻まれたことがあります。何やら後方から爆音が聞こえて来る。ルームミラーには、クルマの間を縫って迫って来るバイクの一団が見える。改造したバイクが1台、2台と私を追い越して行く。すぐに5台、6台とバイクの数は増え、気が付くとバイクの集団が私のクルマを取り囲んでいました。バイクの後部座席に座った少年が、私に向かって何かを叫んでいる。彼は、手にこん棒のようなものを持っていました。窓を開けると、どうやら左の端に寄れと言っているようでした。私は、ウインカーを出してクルマを寄せたのですが、その直後、何十台というバイクが脇をすり抜けて行ったのです。そして、瞬く間に2本の車線は彼らに塞がれてしまいました。しかし、本当に困ったのはそれからでした。何しろ、車線を塞いだ彼らは、爆音を響かせ、蛇行運転を繰り返すのですが、走行速度は20キロにも満たない程度なのです。暴走族なんだから、もう少しスピードを出さないものかな、などと理不尽な思いに駆られたのを思い出します。遠くにパトカーのサイレンが聞こえましたが、私が直面している現場に警察は一向にやって来ない。そのうち、後部座席に座っていたある少年が、バイクを降り、歩き出しました。見ればパンツ一丁で、靴すら履いていません。覚せい剤でもやっていたのでしょうか。その少年は両手を上げ、踊るような仕草をしていました。バイクに乗った仲間たちが、彼をからかっているようでした。結局、そんな状況が小一時間程続き、分岐に差し掛かったところで、幸い私は彼らとは別の方角に向かうことができたのです。

YouTubeを見ておりますと、昭和の暴走族を取材した番組がいくつかありました。私の興味を引いたのは、ある暴走族の集会の模様です。特攻服に身を包んだ現役のメンバーが、腰の後ろに腕を組み、整列している。皆、髪はリーゼントで、ハチマキをしています。そして、数人のOBが、気合を入れるんです。OBがどんな発言をしていたか、ちょっと箇条書きにしてみます。

- お前ら、もっと気合いを入れて走れよ。
- 走ってて、オマワリや他の族と出会っても、ビビんじゃねえぞ。
- 俺らはよう、喧嘩するために集まってんだ。
- 俺だって人間だからよう、殴られれば痛えよ。でもよう、俺は今では先輩たちに何度もヤキを入れてもらって良かったと思ってるよ。
- お前ら、もっと狂えよ。
- お前ら、死ぬ気でやれ。

集会の最中に、OBは現役のメンバーを拳固で殴ったりします。これに対して、現役のメンバーは“押忍”と応えます。

場面が変わり、ある現役メンバーがこう言います。「暴走族に入って、良かった。本当の友達ができたから」。

さて、昭和の暴走族というのは、随分、特殊な集団のように見えます。しかし、歴史的に見れば、意外とそうでもない。実は、こういうメンタリティというのは、ある普遍性を持っているのではないか。私が注目したのは、暴走族OBの発言の中の、最後の2つなんです。「お前ら、もっと狂えよ」「お前ら、死ぬ気でやれ」。これって、“葉隠”が言っている「武士道は死狂ひなり」と似ていないでしょうか。

葉隠”については、このブログのNo. 85に記載しましたので、ここで詳述は致しません。その趣旨は、いざという時、どうしようかと逡巡していては、タイムリーに行動できない。だから、狂っていていいのだ。狂え、そして命を差し出せ。それが“死に狂い”だ。“葉隠”とはそういう考え方で、武士道の基礎をなし、あの三島由紀夫にも強く影響を与えたものです。

まさか、高校を出たて位の昭和の暴走族OBが“葉隠”を読んでいたとは思えません。しかし、その発言には“葉隠”に通じるメンタリティの萌芽がある。但し、“葉隠”の域には達していない。何が足りないかと言うと、誰のために死ぬのか、という視点が欠けていると思うのです。暴走族集団のために死ぬのか。それは、命を差し出すための大義としては、あまりに小さい。命を差し出すためには、もっと大きな何か、もっと偉大な誰かが必要ではないか。例えば、三島由紀夫にとって死ぬための大義、それが天皇ではなかったのかと思うのですが、この点について述べるためには、本稿をもう少し進める必要があります。

とりあえず、ここでは、昭和の暴走族がどういう心理状態にあったのか、考えてみます。まず、既存の帰属集団からの疎外、ということがあった。高校へ行ってもつまらない。勉強もよくわからない。寂しい。生きている実感がない。そこで、同じように感じている仲間を集め、新たな帰属集団を作る。その帰属集団は、伝統的な価値観を踏襲する。集団はその遵守を強要し、構成員は体を張って、その要請に応えようとする。そこに、集団と構成員の依存関係が醸成される。集団の結束を強めるためには、何かの行動を起こす、誰かと戦う必要がある。戦うことによって、結束力は強まり、仲間意識が醸成される。生きている実感を得るためには、その行動、戦いは危険である必要がある。この行動をこのブログ流に言い換えますと、“敵と味方を識別して集団で戦う”ということになります。

1.帰属集団からの疎外
2.新たな帰属集団の結成
3.伝統的な価値観を踏襲
4.集団と個人の依存関係
5.敵と味方を識別して集団で戦う

No. 129 集団スケールと政治の現在(その3)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。

もう少し、帰属集団について考えてみます。

今は大阪に住む友人のMさんから、連絡がありました。東京に行くついでがあるから、久しぶりに浅草で飲もうということになりました。約束は雷門に13時でしたが、早目に到着した私は、人出の多さに驚きながら、喫煙所を探しました。しかし、なかなか見つからない。5月21日のことでしたが、とても暑く、汗が噴き出して来ました。私は、煙草の吸える喫茶店を探して、一息つくことにしました。カウンター席に座って、アイスコーヒーを飲みながら、店の女店主と世間話をしました。聞けば、その日は年に一度の“三社祭”で、人出が多いとのことでした。

時間通りに雷門でMさんと落ち合い、私たちは、居酒屋を探すことにしました。しかし、どこも満員なのです。そのうち、私はあることに気づきました。どこの店にも、揃いのハッピを着た一団が陣取っている。捩りハチマキをしている人も少なくありませんでした。間違いなく、彼らは朝から飲んでいる。仮に、2人分の席が空いていたとしても、とても入って行けるような雰囲気ではありません。十数軒見て回ったところで、私たちは諦めて、上野に移動することにしました。再び、人込みでごった返す雷門の前を通って、地下鉄の駅を目指したのです。歩行者天国となった目貫通りには、何台かの神輿(ミコシ)がうごめいて見えました。フンドシ姿のおっさんなども、目に止まりました。私は、一刻も早く、その場を立ち去りたいと感じました。

揃いのハッピを着た一団の人々、彼らが日本の伝統的な帰属集団だと思うのです。

村落共同体などと言えば、日本の田園風景が目に浮かび、そこはかとないノスタルジーを感じます。しかしその実態は、そう甘いものではないような気がするのです。確かに、道で擦れ違う人は、全て縁者か知人で、挨拶をする。例えば、農作業は互いに協力する。漁村であれば、協力して市場を運営する。困ったことがあれば、助け合う。そういう、互助会的な機能があったのだろうと思います。しかし、帰属集団としての村落共同体がその威力を発揮するのは、祭りと冠婚葬祭ではないでしょうか。このブログの言葉で言えば、“祭祀”ということになります。

日本の伝統的な帰属集団のあり方を想像してみますと、例えば、その帰属集団を保護するための神社を共同で所有している。そもそも、神社の建立費用も、その帰属団体によって負担されている。費用を支出した人たちの名前は、石碑か何かに記録されており、その集団の結束力を示している。神輿なども共同所有していて、それは神社の境内の片隅にある建物に保管されている。祭りには揃いのハッピを着て、積極的に参加しなければならない。結婚式にも独自のしきたりがあり、それは厳格に遵守されなければならない。結婚前の同棲などはもっての他で、今どきのデキちゃった婚などをすれば、すぐに後ろ指を指されてしまう。

葬式となれば、仏教が出てくる。その昔、戸籍は完備されていなかった。そのため、役所に代わって戸籍を管理するのが、お寺の役割だった。お寺の側としては、顧客の囲い込みが必要な訳で、そこから檀家制度という、なかなか逃げられない仕組みができたのではないでしょうか。

つまり、アニミズム、呪術、祭祀、宗教へとつながる一連の精神史があると思うのですが、それを支えてきたのが、帰属集団ではなかったのかと思うのです。宗教の関係者の側からすれば、帰属集団こそ、その信者を獲得するためのターゲットだったのではないか。

ちょっと余談になりますが、こんなことを考えておりますと、フーテンの寅さんのことを思い出します。寅さんの心情としては、葛飾柴又にある帰属集団に、自らも帰属したいと願っていた。しかし、寅さんは帰属集団の価値観に反して、定職についておらず、結婚もしていなかった。そのため、結局、葛飾柴又の帰属集団は、寅さんを受け入れない。妹のサクラが、なんとか寅さんと帰属集団の関係を取り持とうとするが、結局それは叶わず、寅さんは旅に出る。こういう物語なんだと思います。しかし、映画を見て涙していた昭和の庶民というのは、明らかに葛飾柴又の帰属集団の側ではなく、寅さんの側にシンパシーを感じていたんですね。平たく言えば、故郷を失って彷徨い始めた昭和の庶民の心情を、寅さんは良く表現していたのではないか。

脱線ついでに、もう一つ。最近、芸能人や政治家の不倫問題が頻繁に報道されています。私と致しましては、そこまで厳しく追及しなくてもいいじゃないか、もっとプライバシーに配慮すべきではないかと感じます。確かに不倫というのは、配偶者に対する裏切り行為であり、これは非難すべきことだと思います。民法にも、そう書いてあります。しかし、最近の報道を見ますと、その底流には“許せない!”という感情が見て取れます。それは、昔の“村八分”を支えた感情と同じではないか。もっと寛容であっても良いのではないか。あの人は不倫をした、だから許せない。そういうことばかりを言っていると、確実に、私たちの社会は息苦しくなると思うのです。

No. 128 集団スケールと政治の現在(その2)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1. 個人
2. 血縁集団
3. 帰属集団

プライドと呼ばれるライオンの集団は、血縁集団であって、ライオンの社会にそれ以上大きな集団はありません。しかし、人間の社会は違う。いくつかの血縁集団が集まり、また、地域的なつながり、職業的なつながりが付加され、もう少し大きな集団が構成されている。このような集団の本質は、その構成員である個人が、その集団に帰属していることを強く意識している、若しくは強く望んでいるという点にあると思うのです。また、集団の側はその構成員である個人に対し、集団のルールや価値観を遵守し、その集団に帰属することを求めている。よって、このブログでは、このような集団を“帰属集団”と呼ぶことに致します。このブログのNo. 84~No. 88に掲載しました“共同体と個人”というシリーズ原稿がありましたが、そこで言っていた共同体とか、No. 125の原稿に記載しました“スモール・ユニット”というのは、この帰属集団と同じ意味です。

帰属集団の規模については、“顔と名前が一致する程度”、ということにしたいと思います。それ以上大きな規模になると、帰属意識が希薄になると思うからです。

社会学者の宮台真司氏は、概ね、次のように述べています。「人間は、狩猟採集を行っていた時代、多くても150人程度の集団で行動していた。そして、その時代は長く続いた。よって、本来、人間が仲間意識を持てる人数は、150人程度が限界である。しかし、この規模の集団が解体され、人間の仲間意識が衰退したのが、現代である。この規模の集団と人間の仲間意識を復活させるべきだ」。

人間集団の規模に着目している点では、本稿に類似していますね。また、“多くて150人”という表現は、私がここで述べようとしている“帰属集団”と同サイズだと思います。更に、この規模の集団が解体されていったという点は、私が“共同体と個人”で述べた内容と同じです。よって、宮台氏の考え方というのは、私の認識と似ている。似てはいるのですが、ちょっと違う。歴史という名の時計の針は、決して戻せない。これが私の持論です。

さて、確かに現代においては、既に解体されつつある帰属集団ですが、その本質を少し見ていきましょう。まずは、マサイ族の話。

マサイ族はアフリカのサバンナで暮らしている無文字社会の部族で、多分、何万年にも及ぶ期間、ライオンと戦ってきたんだと思います。そして、現代に生きるある日本人女性が、マサイ族の男性と結婚した。マサイ族も一夫多妻制で、この女性は、確か第二夫人になったようなことを言っていました。かつて、地上波で放送された番組がYouTubeにアップされていたんです。ちょっと、私の記憶に曖昧なところもあるのですが、彼女はこんなことを言っていた。特に祭祀の時など、マサイ族の兵士は美しく着飾る。しかし、その装飾品やイレズミには意味があって、例えば、あるイレズミはライオンを倒したことのある男だけに許されている。

番組を見た時には、そんなものかなあと思っていたのですが、今は、その理由が分かるような気がするのです。私の想定は、次の通りです。

最近では、マサイ族の武力が向上し、ライオンよりも強くなった。しかし、過去においては、その武力が拮抗していた。多くのマサイ族がライオンに食い殺されてしまった。マサイ族は、ライオンを怖れた。そこで、マサイ族の帰属集団は、一つの価値観を持った。すなわち、“ライオンを殺すことは、名誉なことである”と。そして、帰属集団の側は、ライオンを殺すことに成功した兵士に、報酬を与えることにした。それがイレズミである。このイレズミを許されるのは、帰属集団の利益に貢献した男だけなのだ。このイレズミは、彼が一人前の兵士であることの証明となり、彼は周囲の男たちから尊敬され、帰属集団の女たちから愛される。

一見、なんともハッピーエンドな物語のようですが、そうでしょうか。マサイ族はライオンとヤリで闘う訳ですが、その射程距離は、せいぜい10メートル程度ではないでしょうか。そこまで、百獣の王ライオンに近づかなければならない。マサイ族の兵士だって、それは怖いはずです。怖いから、本当は誰もやりたくない。だから、報酬制度が必要だった。マサイ族の男は、まだ幼い頃から、そういうスリコミを受けているのだと思います。“お前もいつか一人前の男になったら、ライオンを倒さなければならない。それは、名誉なことなんだ”と。ここには明らかに、個人と帰属集団の利益相反がある。

ちなみに現在ではライオンの数が激減し、白人がマサイ族に対し、ライオンを殺してはいけないという教育を行っているようですが、それでも、ライオンを殺そうとするマサイ族の男が後を絶たないようです。

No. 127 集団スケールと政治の現在(その1)

では、気を取り直して、再開してみます。

狩猟・採集を生業としていた時代から、人間は集団で暮らしてきました。言葉を覚え、道具を発明したとは言え、人間が野生動物と闘うためには、集団を形成する必要があったからです。

やがて人間は定住し、農耕作業を行うようになります。更に、通信や交通の手段が発達するにつれ、人間集団の規模も飛躍的に拡大してきたものと思われます。そして、その大きさによって集団の持つ特質、歴史的な背景などを整理してみると、見えて来るものがきっとあるはずだ、と思うのです。そこで、私なりに人間集団をその規模に応じて分類してみたのですが、結果は次の通りです。

1. 個人
2. 血縁集団
3. 帰属集団
4. 組織集団
5. 民族
6. 一神教イデオロギー
7. 民主国家
8. グローバリズム

今回のシリーズは、まず、上記の分類について、その文化的な背景などをご説明し、続いて、この分類方法に基づき、現在の政治状況について考えてみようというものです。ちょっと、無謀かも知れませんね。ちょっと、私にはテーマが重過ぎるかも知れません。それは承知しているのですが、肩の力を抜いて、軽い気持ちでチャレンジしてみたいと思うのです。皆様も、「ちょっと、そこは違うんじゃないの」とか疑いながら、原稿を楽しんでいただければ幸いです。

こんな時、ミック・ジャガーの言葉(歌詞)を思い出したりします。

You can’t always get what you want, but if you try sometimes you might find you get what you need!

さて、人間の最小単位は、個人です。しかし、この個人というものは、血縁集団の中では、あまり明確に認識されない。ライオンの集団であるプライドについて考えてみて、良く分かりました。プライドの中のメスライオンは、互いに血縁関係がある。そして、そのプライドを乗っ取ったボスライオンが、そのプライドに属する全てのメスライオンを支配するんですね。一夫多妻制ということです。人間の一夫一婦制とは異なりますが、明らかにこれは、家族と呼んでも良い集団だと思います。そして、家族の中では、家族という集団とその構成員である個体との間に、利害相反は発生しない。ライオンの家族が、巨大なキリンに挑んでいく。キリンも後ろ足を蹴り上げて、必死に抵抗する。キリンのキックを受けてしまえば、ライオンといえども死の危険にさらされる。それでも、リスクをおかして、母親ライオンも父親ライオンも果敢に挑み続ける。ライオンの家族というのは、運命共同体なんですね。ここでキリンを仕留めなければ、餓死してしまうかも知れない。そんな時に、「私は怖いから嫌だ」などと言ってはいられない。自分が生き残ることと、家族が生き残ることとは、同意義なんだと思います。最近はいろいろあるようですが、基本的には、ライオンのプライドと人間の家族は、同じだと思うのです。

集団を構成する個人(個体)と集団の利益の間に相反関係が生ずるのは、もう一つ大きな単位、すなわち帰属集団を想定する必要があると思うのです。

ブログ再開のお知らせ

私の住む埼玉県では、一昨日から涼しくなり、冷房を使わなくても眠れるようになりました。まだ、日中は蝉が鳴いていますが、どこか寂しげに聞こえます。

皆様の地域では、いかがでしょうか。

さて40日程、休憩しておりました本ブログですが、そろそろ再開することに致しました。休憩中にも多くの方々にアクセスしていただいたようで、有難うございました。

この間、私には一つの変化が生じました。それは、ほとんど地上波のテレビを見なくなったということです。YouTubeの方が、面白いし、情報も正確だからです。現在のYouTubeには、ありとあらゆる動画がアップされています。無文字社会の人々の暮らしや、野生動物の生態なども豊富にあります。ドイツのアウトバーンを時速300キロで疾走するバイクとか、改造車のドラッグレースとかもあります。アフリカからヨーロッパを目指すボートピープルの様子から、日本の市民団体が開催したパネルディスカッションとか、その種類はもうありとあらゆるジャンルに及んでいる。そして、YouTubeは好きな時間帯で見ることができる。

また、“情報の正確さ”という観点からも、地上波はYouTubeにかなわないと思うのです。情報にはまず、現場の生の情報というものがある。これを1次情報と呼びましょう。これを録画した音声付きの動画というものがある。これを2次情報としましょう。YouTubeでは、この2次情報に接することが可能です。例えば、パネルディスカッションが開催されたとして、それは最低でも1時間、長ければ3時間に及びます。これをノーカットで放送することは、事実上、地上波では無理です。従って、これを編集して放映するのが地上波ということになります。しかし、ある発言というものには、その前後の脈絡というものがある。これを切り捨てたものが、地上波の3次情報ということになります。更に、1次情報(現場の情報)に接していないコメンテーターが発言したりする訳ですが、これはもう4次情報と呼ぶべきもので、いくつものフィルターを通過した後の情報、ということになります。

1次情報・・・現場の、生の情報
2次情報・・・音声付きの動画(ノーカット)
3次情報・・・編集された動画
4次情報・・・コメンテーターの発言

このように考えますと、ネットとかYouTubeというものが、今、どのような情報革命を起こしているのか、分かるような気がします。若干補足しますと、地上波のテレビには、スポンサーがついていて、視聴率を獲得するという大命題があります。だから、情報が歪められる。地上波は、スポンサーとなり得る大企業の批判はしませんし、視聴率を上げるためにポピュリズムに走る。NHKにスポンサーはついていませんが、政権からの圧力が加えられたという噂は、ひっきりなしにあります。

テレビの時代は、もう終わりに近づいているように感じます。

なお、このブログのルールとして、公式な記事にはタイトルの前に通し番号を付ける、時事問題などを扱った非公式な原稿には通し番号を付けないことにしたいと思います。正式な記事ばかりでは、私自身、息が詰まってしまいますし、非公式な原稿が皆様のお役に立つ場合だって、ないとは言えないと思うからです。

新シリーズのタイトルは、“集団スケールと現在の政治(仮)”というものを考えています。近日中にアップする予定ですので、ご興味のある方、宜しくお願い致します。

休止のお知らせ

暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。私は、少し夏バテ気味です。

 

さて、このブログですが、昨年の7月に始めて、約13か月が経過しました。その間、約130本の原稿を掲載してまいりました。月平均約10本、3日に1本という割合です。

 

永年疑問に思ってきたことを一つずつひも解いて来た訳ですが、私と致しましては、それなりに成果があったと思っております。このブログでは、主に歴史的な観点から文化の構造というものを考えてまいりました。文化の起源は“遊び”にある。そして言葉が生まれ、物語、呪術、祭祀などを経て、シャーマニズムに至る。その経過の中から、文学や美術などの芸術が生まれた。証明できるかどうかという問題はありますが、そこまでは多分、間違っていないと思います。

 

問題は、その先です。シャーマニズムというのは、例えば、大勢の人々が集まって何かを祈っている。その中心にいる人がシャーマンと呼ばれる人で、それは雨乞いの儀式だったかも知れない。狩猟採集の時代であれば、その一群の人々がこれから東に行くのか、西に行くのか、それを決定するための手続であったりした訳です。やがて、人々は定住を開始し、食物の保管が可能となり、武力衝突が起こる。敵対する部族との戦いをいつ仕掛けるか、そんな事柄も、シャーマンを中心とした祭祀によって、決めていたのではないでしょうか。

 

文字ができて、シャーマニズムは宗教へと発展する。宗教と武力とが渾然一体となり、政治が生まれた。このブログで“宗教国家”と呼んできた時代が始まる訳です。そこから、宗教や武力とは隔絶した、新しい考え方が生まれる。歴史的には、アメリカの独立宣言が最初だったのでしょうか。そして、その考え方は民主主義と呼ばれた。日本では50年戦争とも呼ばれる時代を経て、日本国憲法が生まれる。言うまでもなく、国民主権基本的人権の尊重、平和主義に関する考え方は、この日本国憲法において結実している。と言いますか、憲法の他にこういう事柄を定めたものって、ないんです。

 

最近では、メディア・リテラシーということも考えつつ、“政治を読み解く7つの対立軸”というシリーズで、私の政治的な立場も明らかにするよう試みてみました。結果、私の立場というのは、右でも左でもない、何処かあやふやな場所に立脚していることが分かりました。しかし、世の中には、私と同じようなことを考えている人たちも、少なからずいる。今は、そう確信しています。私はこのブログで、“プライバシー保護法”を制定するべきだと述べましたが、ある憲法学者は、「プライバシーの問題は、憲法に定めるべきだ」と主張しています。また私は「法律も、経済も、国の安全保障も全てアメリカに依存しているのは、いかがなものか」と述べましたが、ある憲法学者は、もっと明確に「日本はアメリカから独立するべきだ」と述べています。アメリカからの独立!?

 

また、本日現在、安倍総理憲法改正を諦めていないようです。

 

そんな経緯があって、私は憲法に興味を持つようになったのです。しかし、これはそう簡単な問題ではありません。少し、勉強のための時間が必要です。それが、このブログ“休止”の理由です。

 

コオロギが鳴き始めた頃、再開できれば、と思っております。

 

では !