文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

民主主義の限界と2大政党制

安倍総理がモリ・カケ問題を隠蔽するために衆議院を解散しました。挙句の果てに、消費税を10%に上げた場合の使い道を変更するので、国民に信を問うと言うのです。それって、再来年のことですよね? これはもうロジックを否定しているか、国民をバカにしているか、まともな嘘も考えられなかったのか、いずれか又はその全部だとしか言いようがありません。

全くもって腹立たしい限りだったのですが、ここに来て、衆院選が俄然面白くなって来ました。希望の党を立ち上げた小池氏が、民進党との連携に乗り出すとのニュースが入って来たからです。これはもう、小沢一郎氏の念願であった“オリーブの木構想”が現実味を帯びて来るということではないでしょうか。バラバラだった野党がまとまる。それは集団スケールを大きくするということです。そして政権を担うことになれば、これはもうアウフヘーベンと言えるのではないでしょうか。

小沢氏の率いる自由党民進党が合流するという話もあります。希望の党日本維新の会と連携するという話もあります。どんどんまとまればいい。非自民、反共産でいい。そして私は、日本に2大政党制が生まれることを望んでいます。

誤解を恐れずに申し上げますと、実は私、小沢一郎という政治家に注目しているんです。田中角栄の秘蔵っ子として自民党で剛腕をふるい、確か45歳で幹事長になった時には、総理大臣候補の3人を呼びつけた。その後も、政界のフィクサーとして暗躍した。めっぽう選挙に強く、一度は総理の職に就く寸前まで行ったのですが、陸山会事件という不名誉な事件をでっち上げられ、検察とマスコミが徹底して小沢氏を叩いた。結局、小沢氏は無罪だったのですが、政治家として被ったダメージは相当なものだった。しかし、小沢氏はそれでも政治家を辞めなかった。生活の党を立ち上げたが、政党要件を維持することが難しくなり、親子ほども年齢の離れた山本太郎氏を党に迎えた。当時、山本氏は党名について「一郎と太郎」というのを提案したそうです。小沢氏は嫌な顔もせず「他のメンバーに相談してみる」と言ったそうです。その時党名は「生活の党と山本太郎と仲間たち」に落ち着いたのですが・・・。

結局、自民党の安全保障政策というのは、アメリカ追従なんです。現在でも、安倍総理がトランプ大統領にへつらっている姿を見れば、分かります。これに対して、小沢氏は国連中心主義を掲げた。それが、陸山会事件をねつ造された理由だと言われているようです。ヘーゲルの時代には、国家が最大の集団スケールだった。しかし、その後、国家を超える規模での問題が生じ、国際連盟が、そして国際連合が組織される。だから、日本も暴れん坊のアメリカに追従するのは止めて、国際秩序に従うべきだ。国連中心主義で行こう。それが小沢氏の考えだったはずです。そして自民党の逆鱗に触れた、というストーリーが容易に推定されます。

そう言えば、ヘーゲルアウフヘーベンとか弁証法について述べている文献は「法の哲学」というもののようです。そして、法哲学井上達夫氏は国連中心主義を支持すると共に、小沢氏の政治理念を絶賛している。どうも、こういう流れなんですね。

ちなみに、2大政党制の基礎となるのが小選挙区制ですが、これを作ったのも小沢氏だと言われています。

ここから先は、私の想像です。それだけの大政治家である小沢氏も、自分や仲間の選挙となれば辻説法をします。聴衆は、30人程度しかいないこともあるようです。それでも小沢氏は、精一杯、語りかける。彼の凄いところは、同じことを2度は言わないんです。それだけ、良く考えて演説をしている。聞いている人たちは、一般の国民です。大半の人は、憲法なんて読んだことはない。本当は、政治の仕組みなんて、良くは分からない。小沢氏に比べれば、経験も少なく、視野も狭い。でも、小沢氏は熱弁をふるう。何故か。それはそんな一般国民が、この国の主権者だからです。

さて、民主主義の限界とは、国民が浅はかだった場合、誠実ではない人を政治家に選んでしまうリスクがある、ということではないでしょうか。いわゆるポピュリズムということです。不誠実な政治家は、選挙が近づく度に、国民に甘い政策を掲げます。そして、当選する。挙句の果てに国の財政赤字が膨らんでいく。しかし、なかなか一般国民に多くを期待することはできない。やはり、政治家を律するのは、政治のプロ、すなわち政治家でなくては難しい。だから、2大政党制がいい。小沢氏は、こういうことも考えていたのではないか。

さて、念願の“オリーブの木構想”が現実味を帯びて来て、老政治家は秋の夜長に何を思っているのでしょうか。

No. 136 集団スケールと政治の現在(その10)

(集団スケール一覧、今回までに言及した部分)

1. 個人

2. 血縁集団

3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲

4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット

5. 民族・・・天皇制、宗教国家

6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義

7. 民主国家

 

上に記しました一覧を見ても分かる通り、人間は民族、宗教、イデオロギーによって集団を分断し、互いに戦って来たものと思われます。他にも男女の別とか、階級とか、様々な要素があると思いますが、大所は前記の3つではないでしょうか。ところが、更に大きな集団を考えると、ここでコペルニクス的転回が生じるのです。すなわち、人間を集団によって分断しないんだ、という考え方が出てくる。「共存しようとする意思」と言っても良いと思うのです。あなたがどの民族であろうと、どの宗教を信じていようと、どのようなイデオロギーを持っていようと、構いません。それはあなたの自由です。共に生きていきましょう、と。そして、このような考え方は、国家という規模の集団において、具現化する。そのような国家をここでは「民主国家」と呼ぶことにします。

 

前述の考え方は、一般に近代思想と呼ばれているものと思いますが、その中核をなす発想は「共存しようとする意思」にあるのではないか。あなたの民族、宗教、イデオロギーにはこだわりませんよ、ということは、過度にあなたには干渉しませんよ、という意味であり、これがすなわち「自由」という概念に繋がっていると思うのです。更に、あなたの属性にはこだわりませんよ、という考え方から、「平等」という理念が生まれる。皆、平等なんだという前提条件から、その帰結として、多数決による「民主主義」という制度が生まれる。多数決で決めるためには、一人ひとりが良く考えて、自分の意見を持たなければならない。だから、個人が尊重されるべきだという価値観が生まれる。

 

「共存しようとする意思」に基づいて集団を運営するためには、法律が必要となります。何故なら、民族のトップである王様や天皇が物事を決めてはならない。教祖様に何かを決めていただく訳にもいかない。そして、特定のイデオロギーに基づく独裁的な政党に決定権を渡す訳にもいかない。そんなことをすれば、再び、集団間の対立が生まれてしまう。そこで、共存するためのルールを紙に書いて、皆で合意することにしよう、ということになる。これが法律であり、法治主義の起源だと思うのです。更に言えば、法律によって統治するに相応しい集団の規模はと言うと、それが国家ということになる。国家を統治するために特に重要なことは憲法に定めようという発想もあり、この考え方を立憲主義と呼ぶのだと思います。

 

ヘーゲルがどのような意味を込めて言ったのかは知りませんが、もし、上記のような意味であれば、民主国家という集団の位相は、明らかにそれ以前の集団を超えており、正にアウフヘーベンしている。

 

思えば、昨年の7月にスタートしたこのブログですが、入り口は文化人類学でした。しかし、文化人類学で分かるのは宗教までなんですね。そして私は幾度となく「敵と味方を識別して集団で戦うシステム」について、批判してきました。しかし、やっとここに至って、「敵と味方を識別しないで、集団で戦わないシステム」というものに出会うことができました。

 

「共存しようとする意思」。我が日本国憲法を貫く精神も、実はここにあるのだと思います。第14条1項を引用させていただきます。

 

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

感動を禁じ得ません。

No. 135 集団スケールと政治の現在(その9)

(集団スケール一覧、本稿までに言及した部分)

1. 個人

2. 血縁集団

3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲

4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット

5. 民族・・・天皇制、宗教国家

6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義

 

皆様の中には、「そもそも集団スケールなんて言葉は聞いたことがないし、この原稿は一体どの分野の話をしているのかも、良く分からない。荒唐無稽ではないか」と思われている方がおられることと思います。無理もありません。私自身、そういう懸念と戦いながら本稿を書き進めているのです。但し、本稿に出てくるいくつかのトピックスについては、社会学においても検討されているようです。

それにしても、集団をスケール毎に分類して、何かを考えた人って、いつかどこかにいたのではないか。そう思って、我が友YouTubeに尋ねてみたのです。すると、いたんですね、そういう人が! なんと哲学者のヘーゲルが、とっくの昔に似たようなことを考えている。ヘーゲルの説は、概ね、次のようなものです。

 

家族というのは、互いに助け合うものだ。しかし、成人して市民社会に出て行くと、そこにはエゴイズムが渦巻いている。このように家族と市民社会は、矛盾している。この矛盾を解決するためには、一つ上の位相である国家に止揚アウフヘーベン)し、矛盾を調和させるべきである。

 

上記の説におきましても、明らかに人間の集団を家族 → 市民社会 → 国家という風に、その大きさで区分している。そこから先もちょっと似ているような気がするのですが、まずは本稿を進めることにしましょう。

 

さて、複数の民族を合体させようとする働きを持っているものの一つが一神教だと思います。「俺たちの信じている神のみが、唯一絶対の神だ。他の神を想定している宗教は邪教であって、彼らを改心させ、救ってやらねばならない」。こういう理屈で、宗教戦争が起こる。まあ、多くの場合、この理屈は侵略戦争のタテマエとして、使われてきたのかも知れません。ところで、一神教と同じような作用を持っているのが、イデオロギーではないか、と思うのです。現在、政治的な意味で世界を凌駕しているのは、資本主義と共産主義だと思います。とりわけ冷戦の時代には、2つのイデオロギーが世界を二分し、対立を続けていました。ただ、この問題は、既に決着がついていると思います。資本主義の方が、優れている。

例えば、中国の場合には、企業が土地を所有することは認められていない。中国に工場を建設しようと思ったら、国から土地を借りなければならない。その期間は50年だったと記憶していますが、この一事を取っても、無数の法律問題が想定されます。土地の使用権は、50年後に更新されるのか。その土地の上に建物を建てていた場合はどうなるのか。土地の使用料はどうやって決めるのか。途中解約はできるのか、その際の条件は 等々。法律に定められている事項もあるでしょうが、役人の裁量による部分も相当ある。これでは、経済効率が悪いばかりか、役人が汚職しやすい土壌があると言わざるを得ません。

ロシアのプーチン大統領だって、既に在職年数が長くなっているのではないでしょうか。ロシアも、あまり民主的な国には見えません。図式にしてみましょう。

資本主義・・・資本家 対 労働者

共産主義・・・官僚  対 国民

資本主義の場合は、労働者が資本家から搾取されると言われています。しかし、現在のように人材の流動化が進んで来ますと、労働者は転職をして、特定の資本家から逃ることができる。資本家の側にしても、ある程度の労働条件を示さなければ、労働者を雇うことができない。一方、共産主義の場合は、官僚が国民を支配している。この場合、海外へ移住でもしない限り、国民は官僚の支配から逃げることができない。

 

結局、宗教もイデオロギーも、仮説に過ぎないのではないか。神がいるはずだ、こういう社会システムがいいはずだ、という仮説だと思うのです。仮説であれば、それが反証された場合、若しくはもっと優れた仮説が出て来た場合には、それを取り下げる。それ位の柔軟性が、必要だと思うのです。そうすることが”科学的”だと思います。しかし、宗教とイデオロギーには、この柔軟性がない。その意味において、この2つは似ていると思うのです。あたかも錨を下ろした船のように、一つところに留まって、航海に出ようとしない。もっと暖かくて、もっと美しい場所があるかも知れないというのに。

No. 134 集団スケールと政治の現在(その8)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5.民族・・・天皇制、宗教国家

日本の新左翼の団体に反天皇制運動連絡会(“反天連”)という組織があります。毎年かどうかは分かりませんが、反天連は8月15日に靖国神社近辺において、天皇制に反対するためのデモを行っています。当然、右翼団体も駆け付けて、デモの妨害行動に出ます。この様子もYouTubeにアップされているのですが、その混乱状況というのは、相当なものです。デモ隊がいて、警護するために機動隊が取り巻いている。通りすがりの一般市民や野次馬もいる訳で、現場は騒然となります。

私が見た画像では、中年から初老位の右翼数人が、ジュラルミンの盾を持った機動隊に突進していくんです。当然、跳ね返されます。それでも、また掴みかかっていく。また跳ね返される。しかし、機動隊が別の右翼に気を取られた隙を見て、機動隊の隊列を潜り抜けたりする。それでも多勢に無勢ですから、すぐに右翼の男は取り押さえられてしまう。そんなことを延々と続けるのです。

もし、一神教の信者であったなら、そこまで過激な行動に出ることはない。仮に、天皇陛下よりも上位の神という存在があったなら、日本の右翼のメンタリティというのは、もっと別の形を取るのではないか、と思うのです。

もう一つ思うのは、右翼のメンタリティというのは、ロジックを否定している。仮にロジックを肯定してしまうと、そもそも宗教(神道)は成り立たない。結果として、右翼は自らの立場や考え方を説明する言葉を持たないのではないか。絶対的な存在としての神を持たず、自らの心情を訴える言葉も持たない人間に何ができるか。それは、“行動”をおいて他にない。だから、本物の右翼というのは、行動するのではないでしょうか。三島由紀夫も同じだと思います。三島も何度か、みずからの立場を説明しようと試みたように思いますが、結局、ロジックに行き着くことはなかった。三島が行きついたのも行動だったのです。

どうやら、私と致しましては、これにて右翼の心情を読み解くことができたように思います。

さて、右翼をもう少し大きな枠組みでとらえると“保守”ということになります。その特徴を箇条書きにしてみましょう。
 ・アニミズム、呪術、祭祀、宗教など、歴史や伝統文化を重んじる。
 ・ロジックを否定する。
 ・最終的には行動、武力で解決しようとするタカ派的な傾向がある。
 ・集団スケールで考えた場合、民族という単位を重視する。
 ・日本においては、天皇制を重視する。
 ・日本においては、日本の歴史や伝統文化に否定的な中国、韓国を嫌悪する傾向がある。

一般に保守系の人々は、その国を支配している外国の勢力に対して反発します。民族の独立を目指す訳です。してみると、現在の日本を陰ながら支配しているのはアメリカなので、日本の保守系の人たちは、アメリカに反発するのが自然の成り行きのはずです。しかし、そうはなっていない。この不自然な現象を指摘する憲法学者もいます。ただ、上記のように考えますと、アメリカが日本の歴史や伝統文化を否定することはない。それをやっているのは、中国や韓国です。だから、中国、韓国に嫌悪感を持つ。そういう構造になっているのではないでしょうか。

ついでに、ネトウヨについても考えてみましょう。一つの傾向としては、次の仮説が成り立ちます。まず、帰属集団からの疎外ということがある。多分、組織集団からも疎外されている。すると、更に大きな“民族”というスケールに行きつく。ネトウヨは、だから中国と韓国を毛嫌いしているのだと思います。ただ、本物の右翼と違って、彼らは決して自ら行動を起こしはしない。なんとなく、ネットを通じて、遠くから見ている。そこら辺は、ディタッチメントの現代っ子という感じがします。しかし、本音としては、他者とのコミュニケーションや、帰属集団における一体感を求めているはずです。(自民党からお金をもらってやっている人は別ですが・・・。)

帰属集団から疎外された結果、血縁集団に戻るケースもありますね。これが、引きこもりとか、パラサイト・シングルなどと呼ばれる人たちの現状ではないでしょうか。

思えば、一つの民族が、同一の創世神話と宗教を信じて一つの国家を形成していれば、世界はもっと平和になっていたはずです。しかし、人類は民族というスケールを上回る集団を作ろうとしてきた。

フェアネスということ

今回は通し番号無しの、すなわち非公式な原稿となります。

さて、北朝鮮からのミサイルが我が国の上空を通過し、民進党からの離党ドミノが止まらない中、安倍総理は28日に召集予定の臨時国会の冒頭で、衆議院を解散するのではないかと報道されています。多分、多くの人々が予想する通り、与党が大勝し、野党が敗北するでしょう。

野党の連携につきましては、小沢一郎氏が呼び掛けている“オリーブの樹構想”が現実的だと思います。しかし、民進党にとっては、共産党がネックになる。共産党と連携すると支持母体である連合や党内の保守派が離れていく可能性がある。かと言って、共産党を巻き込まないと自民党に勝てない。そういうジレンマにあるのだろうと思います。しかし、この問題を解決しない限り、民進党が二大政党制の一翼を担うことは困難ではないでしょうか。従って先般の代表選で、前原氏、若しくは枝野氏が大きな決断をすべきだったのではないか。すなわち、引き続き連合の支持を得たいと思っている右派と、政策によって無党派層を取り込もうとする左派に分党する。少し遠回りにはなっても長い目で見れば、その方が国民のためになったのではないでしょうか。決めるべきことを決めない。だから、安倍総理に足元を見られる。

そんなことを含め、つらつらと考えていたところ、“フェアネス”という言葉が浮かんで来ました。記憶を辿りますと、私がこの言葉に出会ったのは、アメリカの独禁法の勉強をしていた時のことでした。(日米で法律の構成はかなり異なっています。アメリカでは、独禁法と言うよりは競争法、Competition Lawと言った方が一般的かも知れません。)概略は、こんな感じだったと思います。

アメリカは、自由の国だ! 規制なんか、要らない。個人も企業も自由に競争をして、利益を追及していい。但し、自由に競争をするためには、一つだけ前提がある。それは、各人がフェア(公正)に競争するということだ。アメリカは、不公正な競争については、断じて許さない。

私は、上記の考え方を支持しています。“遊び”について検討した際に述べたことと、ちょっと重複するかも知れませんが、ルールを守らなければ、ゲームは成立しない。例えばサッカーの試合において、審判が見ていなければ手を使ってもいい、と考える選手がいたとします。すると、サッカーの試合は途端につまらなくなってしまう。仮にボクシングの試合で、相手を蹴とばしてしまう。そんなことがあれば、その時点で、その試合はストップです。ルールがなければ、そしてルールが遵守されなければ、ゲームというものは成立しない。

スポーツの世界だけではありません。例えば、株式などを取引するためには、証券取引所という機関が必要です。しかし、仮に“東京証券取引所では、インサイダー取引が多い”ということになったら、どうでしょう。誰も、東証で取引をしなくなってしまう。そんな、一部の不正を働く人だけが儲かるような機関を使う人はいない訳です。証券取引所だったら、大阪にも、香港にも、シンガポールにもある。従って、各証券取引所においては、公正に取引が行われていることが、とても大切なんです。そのため、日本にも証券取引等監視委員会という強力な機関があって、日々の取引を厳しく監視しています。

正義と言うと概念が大き過ぎて、一体、何が正義なのかという哲学的な論議になってしまいそうですね。しかし、フェアネス、公正さ、と言えば、上の記述で概ね説明できているように思います。

 

フェアネス、それは民主政治の前提条件である。私としては、そう言いたいのです。

 

冒頭に記しましたように衆議院が解散された場合、投開票日は、10月22日、又は29日だろうと言われています。既得権を有する多くの支持団体が自民党を応援するでしょう。その活動量に定評のある創価学会の婦人部が、公明党を応援するでしょう。そして、与党が大勝するでしょう。そうなったとしても、それが現在の日本の民主主義の選択である訳で、私に異議はありません。

しかし、森友・加計学園の問題は別です。これは、安倍政権のフェアネスに関わる問題であり、北朝鮮からミサイルが飛んで来ようが、選挙の結果がどうなろうと、必ず真相を明らかにしていただきたい。一国民として、そう思います。

特に加計学園の問題につきましては、その設置を認可するのか否か、その最終判断が文科省の設置審において、10月末に下される予定になっています。仮に、認可するということになれば、愛媛県今治市によって96億円が加計学園に支払われる可能性が高まります。ご案内のこととは思いますが、この金額は建設費の水増しなど、不正に算出されている可能性があります。他方、認可しないということになれば、加計学園は校舎等の工事費192億円の損失を被る可能性があります。10月下旬に投開票日を設定するということは、この文科省判断から国民の目をそらそうという目論見があるように思えてなりません。

No. 133 集団スケールと政治の現在(その7)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5.民族・・・天皇制、宗教国家

 

参考文献(文献1)によれば、現在、各宗教団体は苦境に立たされているようです。まず、血縁としての仏教がある。「〇〇家の墓」とあるように、仏教団体は血縁を基礎とした葬儀を取り仕切ってきた訳ですが、近年では宗教色を排除した葬儀が人気を博している。散骨なんかもそうですね。葬儀の形態というのは、多様化、簡素化が進んでおり、これは仏教団体の活動量の縮小を意味している。次に、地縁としての神道がある。居住年数の長い者は、氏神様への信仰も厚いが、人員の移動、都市化が進むにつれ、その信仰が薄れていく傾向にある、とのことです。

上記の理由に加え、帰属集団の弱体化が進むにつれ、若者の宗教離れも起こっている。宗教団体というのは組織的に運営されていると思うのですが、それを若者が嫌っている、若しくは組織に適合できない若者が増えている、というのです。更に、宗教の重要な役割の一つに病気の治療ということがありますが、今は、病気になれば大半の人が病院へ行く。結果として多くの宗教団体で、信者の高齢化という問題が起こっている。

あと10年もすると日本の宗教団体の状況は、一変しているかも知れません。歴史的に見ましても、現代という時代は、大きな変化点にあるような気がします。

さて、組織集団よりも大きな集団として、“民族”を挙げることができると思うのです。日本で言えば、聖徳太子の時代まで遡ることになります。当時は、武力集団としての豪族がいて、ある程度の官僚組織もあった。また、大陸との交流もあり、聖徳太子は自分たちの民族で、まとまるべきだと考えたのだろうと思います。宗教国家の誕生です。そして、その頂点に君臨したのが天皇でした。

天皇制というのは、今日におきましても神道(宗教)の側から、そして右翼(政治)の側から、熱狂的に支持されています。彼らの主義、主張とはどういうものか。私なりに検討してみたのですが、どうも彼らにはロジックの積み重ねというものは、なさそうなんです。それどころか、ロジックというものを否定しているんですね。全てのロジックは、自己弁護に過ぎない、と言っている人もいます。では、彼らを支えているものは何か。それは、メンタリティではないか。

では、右翼の人たちのメンタリティについて、そのモデルを以下に提示致します。なお、1番から5番までは、No. 129の記事に掲載致しました昭和の暴走族に関する記述と同じです。

1.帰属集団からの疎外
2.新たな帰属集団の結成
3.伝統的な価値観を踏襲
4.集団と個人の依存関係
5.敵と味方を識別して集団で戦う
6.大義のために命を掛ける

安倍政権の閣僚の大半が加入していることで有名になった日本会議ですが、その中枢メンバーに影響を与えたと言われる三島由紀夫の自決事件を例に、上記のモデルを説明させていただきます。

(疎外という言葉には、マルクス主義実存主義が固有の定義をしているようですが、ここでは集団に帰属できない、集団との良好な関係を維持できない、という一般的な意味でご理解ください。)

まず、帰属集団からの疎外ということですが、もちろん暴走族と天才三島とでは、事情が異なります。三島は1925年生まれですから、終戦の年には、二十歳前後だったことになります。当然、彼の友人、知人たちの多くが戦争で命を失った。このことは三島にとって、ショッキングな出来事であったに違いありません。そして、三島はそれらの死んで行った仲間たちから疎外された、ということが考えられます。その後、三島は日本の文壇という帰属集団に属した訳ですが、三島の理解者は少なかった。若しくは、誰もいなかった。三島にしてみれば、周囲の作家や編集者が馬鹿に見えたのかも知れません。

そこで、三島は別の帰属集団として“楯の会”を結成し、自衛隊の真似事のような行動を開始する。この時点で、既に三島は死を覚悟していたのではないでしょうか。楯の会が採用した伝統的な価値観というのは、忠臣蔵や2.26事件にならったものと思われます。楯の会は、その構成員の帰属意識と貢献活動に依存し、その構成員は盾の会のメンバーであることによって、自らのアイデンティティを維持しようとした。三島は、自衛隊を敵として設定し、その市ヶ谷駐屯地に突撃した。そして、大義としての天皇陛下に命を差し出し、割腹自殺を図った。

三島が何故、そのような行動に出たのか。繰り返しになりますが、それをロジックで説明することは困難です。しかし、同じようなメンタリティを持った右翼の人たちというのは、現在におきましても、確実に存在します。このように見てきますと、右翼の人たちにとって天皇陛下は、自らの命を差し出すことさえできる大義として、唯一無二の存在だということが言えます。

(参考文献)
文献1: 社会学入門/盛山和夫 他 編/ミネルヴァ書房/2017

No. 132 集団スケールと政治の現在(その6)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体

血縁でもない、顔見知りでもない人々が構成する集団。これを歴史的に見ますと、武力集団というものがあった。聖徳太子の時代には、豪族と呼ばれる集団があった。戦国時代には、武士の集団があった。但し現代においては、広域暴力団位しか残っていないと思います。現代にも息づく組織集団の典型は、やはり職業別の団体と宗教団体ということではないでしょうか。

戦後の事情を考えてみますと、共産党社会党がまず、労働組合に着眼したという仮定が成り立つと思います。資本家から搾取されている労働者階級を解放せよ、というのがマルクス主義な訳で、左翼政党が労働者の集まり、すなわち労働組合をその支持母体として想定したのは、自然の成り行きだったように思います。反対に、自民党(当時は自由党民主党 他)などが、企業の経営者、農村、漁村にその支持基盤を求めた。この時代の政治勢力の構造は、確かに右と左だった。

しかし、この仕組みは、どうもおかしい。ある人が役人になる。すると、労働組合への加入が強制されている。「はい、あなたが就職したお役所には、〇〇系の組合があります。よって、あなたの支持政党は△△党になります」ということです。職業の選択と政治的な思想は、本来別のはずです。しかし例えば、共産党系の組合に加入すると、半ば強制的に赤旗を購入しなければならない。そんなこともあったように聞きます。現在どうなっているのかは知りませんが、慣例は残っているのではないでしょうか。

一方、左翼系の組合に辟易した経営者が、今度は、反共産党系の組合を作り始める。いわゆる御用組合ということですが、彼らの主張は、次のようなものでした。「共産党系の組合がデモをすると、企業の業績が下がる。業績が下がると賃金も下がる。だから、共産党と戦わなければならない」。ちょっと、奇妙な三段論法ですね。この手の組合の特徴というのは、組合の役員を降りて職場に戻る人たちが、必ず出世する。してみると、こういう組合の役員というのは、会社と裏で連携していて、労働者の賃金をほどほどに抑えているのではないか、という素朴な疑問が出てくる訳です。

このように、労働組合が政治活動を行うということに関しましては、右も左も、問題があると思います。労働組合の役割というのは、団体交渉権を背景に、労働者の権利を守る。他に何かするとすれば、例えば、被災地に支援金を送るとか、社会福祉的な活動をしていれば良いのではないかと思います。

ちなみに、ネットで“政党の支持団体”というキーワードで検索してみますと、概略、次の情報が得られました。

自民党
 ・財界団体・・・経団連など
 ・業界団体・・・日本医師会など
 ・宗教団体
 ・組合系・・・農協、漁協
 ・政治思想系・・・日本会議

民主党(ママ)
 ・労働組合・・・連合
 ・宗教団体
 ・業界団体
 ・その他

こうしてみますと、自民党民進党も“組織集団”をその支持基盤としていることが分かります。しかしそれでは、例えば自民党の政策は経団連の利益を保護しているのではないか、民進党の政策は連合の利益を追及しているのではないか、との疑問が沸いてきますね。ここに、既得権保護、癒着、しがらみと呼ばれる批判の理由がある。現に自民党法人税率を下げていますし、2015年だったと思いますが労働者派遣法を改正(改悪!)して、企業が望めば、いつまでも非正規従業員を正規従業員に変更しなくても済むようにしています。また、民進党の前代表である蓮舫氏は、原発ゼロに向けた日程を前倒ししようとしたのですが、連合の反対にあって、断念したという話もあります。

しかし、文化論の立場から少し長い目で見てみますと、このような状況は、そう長くは続かない。続くはずがないと思うのです。近代のメンタリティというのは既に弱体化し、現代の、特に若い層のメンタリティは、ポスト・モダンに移行している。ディタッチメントをキーワードとするこのメンタリティによって、帰属集団が成り立ち難い現状にある。帰属集団が弱体化していて、それよりも一つ大きなユニットである組織集団が、強固に継続し得るかと言えば、答えはノーだと思います。例えば会社に行って、そこには昔の親分も子分もいない。人間関係は、希薄になっている。例えば、職場にあるのはタイムレコーダーとパソコンなんです。フランチャイズであれば、職場にあるのは、業務マニュアルだと思うのです。つまり帰属集団が弱体化した今日において、組織集団というのは、そのシステムだけが残り、そこには義理も人情もないんです。現在の組織集団というのは、あたかも内容物の失われた空っぽのコップのようなものだと思うのです。

従って、既存の政党がいくら組織集団(支持団体)に働きかけても票は集まらない。ポスト・モダンの有権者は、もう既得権保護、癒着、しがらみの政治にあきあきしている。そういう人たちが、無党派層というマジョリティを形成しているのではないか。支持団体の既得権を保護するのではなく、これからは “個人”に対して政策を訴えていく。そうあるべきだと思いますし、現に、そういう萌芽が出始めている。少し期待も含めて、私はそのように現在の政治状況を見ています。