文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 139 集団スケールと政治の現在(その12)

集団スケールの項目が出揃いましたので、これに基づいて、主要な政党について考えてみたいと思います。

1. 個人
2. 血縁集団
3. 帰属集団
4. 組織集団・・・・・・・・・・公明党民進党
5. 民族・・・・・・・・・・・・自民党
6. 一神教イデオロギー・・・・共産党
7. 民主国家・・・・・・・・・・???
8. グローバリズム

まずは、戦後の歴史を簡単に振り返ってみます。

1945年: 敗戦
1946年: 日本国憲法公布
1947年: 日本国憲法施行
1949年: 中華人民共和国 建国
1950年: 朝鮮戦争 勃発
1950年: レッドパージ日本共産党、非合法化)

1947年に施行された日本国憲法ですが、その第19条には「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と書いてあります。しかし、当時のGHQを脅かす事件が相次いで起こったのです。まず、共産主義国家としての中国が建国され、更に、北朝鮮が38度線を越えて、韓国側に侵攻しました。そして、この戦いに中国が参戦したのです。アメリカは韓国側を支援し、北朝鮮および中国の軍隊を38度線まで後退させます。この際、在日米軍の大半が朝鮮半島に行ってしまったため、在日米軍基地を守る人員がいなくなってしまいました。そこで、日本に警察予備隊なるものを作らせ、在日米軍基地を守らせたようです。これが、後の自衛隊となったようです。

憲法は作ったものの、GHQとしては、国際的な広がりを見せる共産主義勢力をなんとかする必要にかられました。日本においてまで、共産主義革命が起きてはかなわない、ということです。そこで、1950年にいわゆるレッドパージを行ないました。これは、日本共産党を非合法化するもので、徹底的な弾圧が下されたのです。

GHQとしては、共産党を弾圧すると共に、なんとか日本における資本主義勢力を強化したいと考えた。そこで、白羽の矢が立ったのが、今の自民党だと思われます。岸信介の時代だと思いますが、アメリカのCIAが自民党に資金援助をしていた、という話もあります。

GHQとしては、日本が戦時中のように軍事大国化するのは困る。かと言って、共産主義に染まるのも困る、と考えた訳です。そこで、軍事に関することはアメリカに任せろ、日本は経済発展だけ考えておけばいい、という方針になった。これは日本にとって、メリット、デメリットの双方があったものと思います。日本は経済に専念できる。そのため、戦後の復旧は進みましたし、その後の高度成長経済を成し遂げることもできたのです。反面、日本は、軍事面においてはアメリカに従属せざるを得なくなった。詳細は分かりませんが、 “日米合同委員会”というものが発足し、これは今日も続いている。この会議に参加しているのは、日本の主要な官僚とアメリカ軍で、その会議録は非公開とされているようです。この会議などを通じて、アメリカは戦後72年が経過した今日においても、日本を支配している。そんな例は、他国には存在しないようです。ただ、アメリカばかりを責める訳にも行きません。この“日米合同委員会”のメンバーになることは、官僚にとってはエリートコースに乗ることを意味しているからです。官僚の権力のバックボーンとなっている訳ですね。だから、日本の官僚としても、“日米合同委員会”の存続をずっと、希望し続けてきたものと思われます。ここに、日本における官僚支配の影の理由がある。

一方、自民党ですが、上記の経緯に基づきますと、基本的に軍事的なことを考える必要はない。これはアメリカに頭を下げてさえいれば、いい訳です。経済だけ考えておけばいい。だから、自民党はいつの時代でも、経済最優先なんだろうと思います。経済最優先なので、自民党は財界との繋がりが深い。今でも、経団連から多額の寄付をもらっている。

また、集団的自衛権を定めた安全保障関連法につきましても、その背景が見えて来ます。「日米安全保障条約に基づき、アメリカ人は日本人のために血を流さなければならない。それなのに、アメリカ軍が攻められている時に、日本人は助けてもくれないのか。そんなことでは、今後、アメリカが日本を守ってあげられるかどうか分からないぞ」。そんな主張が、“日米合同委員会”を通じて、日本側に伝えられたのではないでしょうか。(事実、トランプ氏は、大統領就任直後だったと思いますが、前記のような発言をしています。)そんな事情があったので、自民党は是が非でも、安全保障関連法案を国会で通す必要があると考えたのではないでしょうか。

上記の経緯と仕組みに基づき、日本は今でもアメリカに支配されているのです。もちろん私も、日本がアメリカに勝てるとは思いません。アメリカの原子力空母など、写真をみただけで、震え上がってしまいます。他方で、アメリカ支配のしわ寄せを受けているのが沖縄だと思うのです。難しい問題です。

上記の経緯を見ますと、自民党の本質が見えてくるように思うのです。軍事については対米従属、政策は経済優先ということになります。そして、1950年頃のメンタリティというものを考えますと、やはり国家神道の影響が色濃く残っていた。と言うよりは、他に選択肢がなかったのだと思います。共産主義に染まるよりは、そちらの方がまだましだとGHQも考えたのでしょう。そういうメンタリティが、自民党では今日まで続いているように思います。

No. 138 集団スケールと政治の現在(その11)

(集団スケール一覧)
1. 個人
2. 血縁集団
3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲
4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5. 民族・・・天皇制、宗教国家
6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義
7. 民主国家・・・日本国憲法、自由、平等、共存しようとする意志
8. グローバリズム・・・国連、国際協定

このように考えてきますと、純粋な右翼の方々が尊重しているのは、5番の“民族”という位相であり、他方、私が尊重している価値観というのは、7番の“民主国家”にあることが分かります。

また、アメリカの軍事攻撃によってイラクという国家を破壊された人々が、イスラム国という国家ではない宗教団体に回帰していったことも頷けます。

さて、今回の原稿で、私の考える集団スケールの一覧は、全て網羅することになります。

歴史的時間の経過と共に、集団のスケールを拡大し続けてきた人類ですが、いつか国家という単位では解決できない問題に直面します。まず、不幸なことに戦争のスケールまで拡大してしまったということがある。戦争までが、世界的な規模になってしまった。第1次世界大戦があって、その反省から1920年国際連盟が設立されました。それでも第2次世界大戦が勃発し、終戦の年、1945年に国際連合が設立されたのです。

そして、地球温暖化の問題が生じます。この問題に対処するため、2015年にパリ協定が締結されます。

更に、核兵器の問題がある。核兵器というのは、素人の私などが考えるより、簡単に作れるものなのでしょうか? これを保有する国は増える一方で、どうやら北朝鮮までもが手にしたようです。もう、危なくって仕方がない。どこかの地域紛争で核兵器が使用され、その紛争が拡大した場合には、もう地球の環境は人類が住めない程に破壊されてしまうのではないでしょうか。これは流石にマズイということで、2017年7月7日に核兵器禁止条約が締結されます。しかし、残念ながらアメリカの顔色を窺っている日本は、この条約を批准しませんでした。世界で唯一の被爆国である日本には、日本にしか果たせない役割があるはずなのに、それを放棄してしまった。

さて、国家を超えるスケールの集団ということを考えますと、EUの試みがある。イギリスは脱退するようですが・・・。

長い目で見ますと、人類は、国家を超えるスケールの集団を作る方向に向かっていると言えます。最終的には、地球規模ということになるのでしょう。“世界統一政府”などと言う人もいるようですが、地球規模での集団を構成するための第一歩は、共通のルールを作るところから始まるのだろうと思います。この流れは、止まらない。そして、止めてはいけないと思うのです。そうしなければ解決できない問題に、既に人類は直面している。これはもう、明白な事実です。

トランプ大統領が“アメリカ・ファースト”などと言っていますが、これは歴史の流れに逆行するものです。ただ、グローバル規模での統一ルールの作成が、簡単でないことも事実です。そうしてみると、現在の世界の政治状況というのは、国家という集団スケールから、地球規模での集団スケールに移行する途上にあると言えます。

地球規模での集団スケールということを考えますと、私は、ジョン・レノンのイマジンを思い出します。 Imagine there is no country ・・・。

No. 136 集団スケールと政治の現在(その10)

(集団スケール一覧、今回までに言及した部分)

1. 個人

2. 血縁集団

3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲

4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット

5. 民族・・・天皇制、宗教国家

6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義

7. 民主国家

 

上に記しました一覧を見ても分かる通り、人間は民族、宗教、イデオロギーによって集団を分断し、互いに戦って来たものと思われます。他にも男女の別とか、階級とか、様々な要素があると思いますが、大所は前記の3つではないでしょうか。ところが、更に大きな集団を考えると、ここでコペルニクス的転回が生じるのです。すなわち、人間を集団によって分断しないんだ、という考え方が出てくる。「共存しようとする意思」と言っても良いと思うのです。あなたがどの民族であろうと、どの宗教を信じていようと、どのようなイデオロギーを持っていようと、構いません。それはあなたの自由です。共に生きていきましょう、と。そして、このような考え方は、国家という規模の集団において、具現化する。そのような国家をここでは「民主国家」と呼ぶことにします。

 

前述の考え方は、一般に近代思想と呼ばれているものと思いますが、その中核をなす発想は「共存しようとする意思」にあるのではないか。あなたの民族、宗教、イデオロギーにはこだわりませんよ、ということは、過度にあなたには干渉しませんよ、という意味であり、これがすなわち「自由」という概念に繋がっていると思うのです。更に、あなたの属性にはこだわりませんよ、という考え方から、「平等」という理念が生まれる。皆、平等なんだという前提条件から、その帰結として、多数決による「民主主義」という制度が生まれる。多数決で決めるためには、一人ひとりが良く考えて、自分の意見を持たなければならない。だから、個人が尊重されるべきだという価値観が生まれる。

 

「共存しようとする意思」に基づいて集団を運営するためには、法律が必要となります。何故なら、民族のトップである王様や天皇が物事を決めてはならない。教祖様に何かを決めていただく訳にもいかない。そして、特定のイデオロギーに基づく独裁的な政党に決定権を渡す訳にもいかない。そんなことをすれば、再び、集団間の対立が生まれてしまう。そこで、共存するためのルールを紙に書いて、皆で合意することにしよう、ということになる。これが法律であり、法治主義の起源だと思うのです。更に言えば、法律によって統治するに相応しい集団の規模はと言うと、それが国家ということになる。国家を統治するために特に重要なことは憲法に定めようという発想もあり、この考え方を立憲主義と呼ぶのだと思います。

 

ヘーゲルがどのような意味を込めて言ったのかは知りませんが、もし、上記のような意味であれば、民主国家という集団の位相は、明らかにそれ以前の集団を超えており、正にアウフヘーベンしている。

 

思えば、昨年の7月にスタートしたこのブログですが、入り口は文化人類学でした。しかし、文化人類学で分かるのは宗教までなんですね。そして私は幾度となく「敵と味方を識別して集団で戦うシステム」について、批判してきました。しかし、やっとここに至って、「敵と味方を識別しないで、集団で戦わないシステム」というものに出会うことができました。

 

「共存しようとする意思」。我が日本国憲法を貫く精神も、実はここにあるのだと思います。第14条1項を引用させていただきます。

 

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

感動を禁じ得ません。

No. 135 集団スケールと政治の現在(その9)

(集団スケール一覧、本稿までに言及した部分)

1. 個人

2. 血縁集団

3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲

4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット

5. 民族・・・天皇制、宗教国家

6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義

 

皆様の中には、「そもそも集団スケールなんて言葉は聞いたことがないし、この原稿は一体どの分野の話をしているのかも、良く分からない。荒唐無稽ではないか」と思われている方がおられることと思います。無理もありません。私自身、そういう懸念と戦いながら本稿を書き進めているのです。但し、本稿に出てくるいくつかのトピックスについては、社会学においても検討されているようです。

それにしても、集団をスケール毎に分類して、何かを考えた人って、いつかどこかにいたのではないか。そう思って、我が友YouTubeに尋ねてみたのです。すると、いたんですね、そういう人が! なんと哲学者のヘーゲルが、とっくの昔に似たようなことを考えている。ヘーゲルの説は、概ね、次のようなものです。

 

家族というのは、互いに助け合うものだ。しかし、成人して市民社会に出て行くと、そこにはエゴイズムが渦巻いている。このように家族と市民社会は、矛盾している。この矛盾を解決するためには、一つ上の位相である国家に止揚アウフヘーベン)し、矛盾を調和させるべきである。

 

上記の説におきましても、明らかに人間の集団を家族 → 市民社会 → 国家という風に、その大きさで区分している。そこから先もちょっと似ているような気がするのですが、まずは本稿を進めることにしましょう。

 

さて、複数の民族を合体させようとする働きを持っているものの一つが一神教だと思います。「俺たちの信じている神のみが、唯一絶対の神だ。他の神を想定している宗教は邪教であって、彼らを改心させ、救ってやらねばならない」。こういう理屈で、宗教戦争が起こる。まあ、多くの場合、この理屈は侵略戦争のタテマエとして、使われてきたのかも知れません。ところで、一神教と同じような作用を持っているのが、イデオロギーではないか、と思うのです。現在、政治的な意味で世界を凌駕しているのは、資本主義と共産主義だと思います。とりわけ冷戦の時代には、2つのイデオロギーが世界を二分し、対立を続けていました。ただ、この問題は、既に決着がついていると思います。資本主義の方が、優れている。

例えば、中国の場合には、企業が土地を所有することは認められていない。中国に工場を建設しようと思ったら、国から土地を借りなければならない。その期間は50年だったと記憶していますが、この一事を取っても、無数の法律問題が想定されます。土地の使用権は、50年後に更新されるのか。その土地の上に建物を建てていた場合はどうなるのか。土地の使用料はどうやって決めるのか。途中解約はできるのか、その際の条件は 等々。法律に定められている事項もあるでしょうが、役人の裁量による部分も相当ある。これでは、経済効率が悪いばかりか、役人が汚職しやすい土壌があると言わざるを得ません。

ロシアのプーチン大統領だって、既に在職年数が長くなっているのではないでしょうか。ロシアも、あまり民主的な国には見えません。図式にしてみましょう。

資本主義・・・資本家 対 労働者

共産主義・・・官僚  対 国民

資本主義の場合は、労働者が資本家から搾取されると言われています。しかし、現在のように人材の流動化が進んで来ますと、労働者は転職をして、特定の資本家から逃ることができる。資本家の側にしても、ある程度の労働条件を示さなければ、労働者を雇うことができない。一方、共産主義の場合は、官僚が国民を支配している。この場合、海外へ移住でもしない限り、国民は官僚の支配から逃げることができない。

 

結局、宗教もイデオロギーも、仮説に過ぎないのではないか。神がいるはずだ、こういう社会システムがいいはずだ、という仮説だと思うのです。仮説であれば、それが反証された場合、若しくはもっと優れた仮説が出て来た場合には、それを取り下げる。それ位の柔軟性が、必要だと思うのです。そうすることが”科学的”だと思います。しかし、宗教とイデオロギーには、この柔軟性がない。その意味において、この2つは似ていると思うのです。あたかも錨を下ろした船のように、一つところに留まって、航海に出ようとしない。もっと暖かくて、もっと美しい場所があるかも知れないというのに。

No. 134 集団スケールと政治の現在(その8)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5.民族・・・天皇制、宗教国家

日本の新左翼の団体に反天皇制運動連絡会(“反天連”)という組織があります。毎年かどうかは分かりませんが、反天連は8月15日に靖国神社近辺において、天皇制に反対するためのデモを行っています。当然、右翼団体も駆け付けて、デモの妨害行動に出ます。この様子もYouTubeにアップされているのですが、その混乱状況というのは、相当なものです。デモ隊がいて、警護するために機動隊が取り巻いている。通りすがりの一般市民や野次馬もいる訳で、現場は騒然となります。

私が見た画像では、中年から初老位の右翼数人が、ジュラルミンの盾を持った機動隊に突進していくんです。当然、跳ね返されます。それでも、また掴みかかっていく。また跳ね返される。しかし、機動隊が別の右翼に気を取られた隙を見て、機動隊の隊列を潜り抜けたりする。それでも多勢に無勢ですから、すぐに右翼の男は取り押さえられてしまう。そんなことを延々と続けるのです。

もし、一神教の信者であったなら、そこまで過激な行動に出ることはない。仮に、天皇陛下よりも上位の神という存在があったなら、日本の右翼のメンタリティというのは、もっと別の形を取るのではないか、と思うのです。

もう一つ思うのは、右翼のメンタリティというのは、ロジックを否定している。仮にロジックを肯定してしまうと、そもそも宗教(神道)は成り立たない。結果として、右翼は自らの立場や考え方を説明する言葉を持たないのではないか。絶対的な存在としての神を持たず、自らの心情を訴える言葉も持たない人間に何ができるか。それは、“行動”をおいて他にない。だから、本物の右翼というのは、行動するのではないでしょうか。三島由紀夫も同じだと思います。三島も何度か、みずからの立場を説明しようと試みたように思いますが、結局、ロジックに行き着くことはなかった。三島が行きついたのも行動だったのです。

どうやら、私と致しましては、これにて右翼の心情を読み解くことができたように思います。

さて、右翼をもう少し大きな枠組みでとらえると“保守”ということになります。その特徴を箇条書きにしてみましょう。
 ・アニミズム、呪術、祭祀、宗教など、歴史や伝統文化を重んじる。
 ・ロジックを否定する。
 ・最終的には行動、武力で解決しようとするタカ派的な傾向がある。
 ・集団スケールで考えた場合、民族という単位を重視する。
 ・日本においては、天皇制を重視する。
 ・日本においては、日本の歴史や伝統文化に否定的な中国、韓国を嫌悪する傾向がある。

一般に保守系の人々は、その国を支配している外国の勢力に対して反発します。民族の独立を目指す訳です。してみると、現在の日本を陰ながら支配しているのはアメリカなので、日本の保守系の人たちは、アメリカに反発するのが自然の成り行きのはずです。しかし、そうはなっていない。この不自然な現象を指摘する憲法学者もいます。ただ、上記のように考えますと、アメリカが日本の歴史や伝統文化を否定することはない。それをやっているのは、中国や韓国です。だから、中国、韓国に嫌悪感を持つ。そういう構造になっているのではないでしょうか。

ついでに、ネトウヨについても考えてみましょう。一つの傾向としては、次の仮説が成り立ちます。まず、帰属集団からの疎外ということがある。多分、組織集団からも疎外されている。すると、更に大きな“民族”というスケールに行きつく。ネトウヨは、だから中国と韓国を毛嫌いしているのだと思います。ただ、本物の右翼と違って、彼らは決して自ら行動を起こしはしない。なんとなく、ネットを通じて、遠くから見ている。そこら辺は、ディタッチメントの現代っ子という感じがします。しかし、本音としては、他者とのコミュニケーションや、帰属集団における一体感を求めているはずです。(自民党からお金をもらってやっている人は別ですが・・・。)

帰属集団から疎外された結果、血縁集団に戻るケースもありますね。これが、引きこもりとか、パラサイト・シングルなどと呼ばれる人たちの現状ではないでしょうか。

思えば、一つの民族が、同一の創世神話と宗教を信じて一つの国家を形成していれば、世界はもっと平和になっていたはずです。しかし、人類は民族というスケールを上回る集団を作ろうとしてきた。

フェアネスということ

今回は通し番号無しの、すなわち非公式な原稿となります。

さて、北朝鮮からのミサイルが我が国の上空を通過し、民進党からの離党ドミノが止まらない中、安倍総理は28日に召集予定の臨時国会の冒頭で、衆議院を解散するのではないかと報道されています。多分、多くの人々が予想する通り、与党が大勝し、野党が敗北するでしょう。

野党の連携につきましては、小沢一郎氏が呼び掛けている“オリーブの樹構想”が現実的だと思います。しかし、民進党にとっては、共産党がネックになる。共産党と連携すると支持母体である連合や党内の保守派が離れていく可能性がある。かと言って、共産党を巻き込まないと自民党に勝てない。そういうジレンマにあるのだろうと思います。しかし、この問題を解決しない限り、民進党が二大政党制の一翼を担うことは困難ではないでしょうか。従って先般の代表選で、前原氏、若しくは枝野氏が大きな決断をすべきだったのではないか。すなわち、引き続き連合の支持を得たいと思っている右派と、政策によって無党派層を取り込もうとする左派に分党する。少し遠回りにはなっても長い目で見れば、その方が国民のためになったのではないでしょうか。決めるべきことを決めない。だから、安倍総理に足元を見られる。

そんなことを含め、つらつらと考えていたところ、“フェアネス”という言葉が浮かんで来ました。記憶を辿りますと、私がこの言葉に出会ったのは、アメリカの独禁法の勉強をしていた時のことでした。(日米で法律の構成はかなり異なっています。アメリカでは、独禁法と言うよりは競争法、Competition Lawと言った方が一般的かも知れません。)概略は、こんな感じだったと思います。

アメリカは、自由の国だ! 規制なんか、要らない。個人も企業も自由に競争をして、利益を追及していい。但し、自由に競争をするためには、一つだけ前提がある。それは、各人がフェア(公正)に競争するということだ。アメリカは、不公正な競争については、断じて許さない。

私は、上記の考え方を支持しています。“遊び”について検討した際に述べたことと、ちょっと重複するかも知れませんが、ルールを守らなければ、ゲームは成立しない。例えばサッカーの試合において、審判が見ていなければ手を使ってもいい、と考える選手がいたとします。すると、サッカーの試合は途端につまらなくなってしまう。仮にボクシングの試合で、相手を蹴とばしてしまう。そんなことがあれば、その時点で、その試合はストップです。ルールがなければ、そしてルールが遵守されなければ、ゲームというものは成立しない。

スポーツの世界だけではありません。例えば、株式などを取引するためには、証券取引所という機関が必要です。しかし、仮に“東京証券取引所では、インサイダー取引が多い”ということになったら、どうでしょう。誰も、東証で取引をしなくなってしまう。そんな、一部の不正を働く人だけが儲かるような機関を使う人はいない訳です。証券取引所だったら、大阪にも、香港にも、シンガポールにもある。従って、各証券取引所においては、公正に取引が行われていることが、とても大切なんです。そのため、日本にも証券取引等監視委員会という強力な機関があって、日々の取引を厳しく監視しています。

正義と言うと概念が大き過ぎて、一体、何が正義なのかという哲学的な論議になってしまいそうですね。しかし、フェアネス、公正さ、と言えば、上の記述で概ね説明できているように思います。

 

フェアネス、それは民主政治の前提条件である。私としては、そう言いたいのです。

 

冒頭に記しましたように衆議院が解散された場合、投開票日は、10月22日、又は29日だろうと言われています。既得権を有する多くの支持団体が自民党を応援するでしょう。その活動量に定評のある創価学会の婦人部が、公明党を応援するでしょう。そして、与党が大勝するでしょう。そうなったとしても、それが現在の日本の民主主義の選択である訳で、私に異議はありません。

しかし、森友・加計学園の問題は別です。これは、安倍政権のフェアネスに関わる問題であり、北朝鮮からミサイルが飛んで来ようが、選挙の結果がどうなろうと、必ず真相を明らかにしていただきたい。一国民として、そう思います。

特に加計学園の問題につきましては、その設置を認可するのか否か、その最終判断が文科省の設置審において、10月末に下される予定になっています。仮に、認可するということになれば、愛媛県今治市によって96億円が加計学園に支払われる可能性が高まります。ご案内のこととは思いますが、この金額は建設費の水増しなど、不正に算出されている可能性があります。他方、認可しないということになれば、加計学園は校舎等の工事費192億円の損失を被る可能性があります。10月下旬に投開票日を設定するということは、この文科省判断から国民の目をそらそうという目論見があるように思えてなりません。

No. 133 集団スケールと政治の現在(その7)

 

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。
4.組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット
5.民族・・・天皇制、宗教国家

 

参考文献(文献1)によれば、現在、各宗教団体は苦境に立たされているようです。まず、血縁としての仏教がある。「〇〇家の墓」とあるように、仏教団体は血縁を基礎とした葬儀を取り仕切ってきた訳ですが、近年では宗教色を排除した葬儀が人気を博している。散骨なんかもそうですね。葬儀の形態というのは、多様化、簡素化が進んでおり、これは仏教団体の活動量の縮小を意味している。次に、地縁としての神道がある。居住年数の長い者は、氏神様への信仰も厚いが、人員の移動、都市化が進むにつれ、その信仰が薄れていく傾向にある、とのことです。

上記の理由に加え、帰属集団の弱体化が進むにつれ、若者の宗教離れも起こっている。宗教団体というのは組織的に運営されていると思うのですが、それを若者が嫌っている、若しくは組織に適合できない若者が増えている、というのです。更に、宗教の重要な役割の一つに病気の治療ということがありますが、今は、病気になれば大半の人が病院へ行く。結果として多くの宗教団体で、信者の高齢化という問題が起こっている。

あと10年もすると日本の宗教団体の状況は、一変しているかも知れません。歴史的に見ましても、現代という時代は、大きな変化点にあるような気がします。

さて、組織集団よりも大きな集団として、“民族”を挙げることができると思うのです。日本で言えば、聖徳太子の時代まで遡ることになります。当時は、武力集団としての豪族がいて、ある程度の官僚組織もあった。また、大陸との交流もあり、聖徳太子は自分たちの民族で、まとまるべきだと考えたのだろうと思います。宗教国家の誕生です。そして、その頂点に君臨したのが天皇でした。

天皇制というのは、今日におきましても神道(宗教)の側から、そして右翼(政治)の側から、熱狂的に支持されています。彼らの主義、主張とはどういうものか。私なりに検討してみたのですが、どうも彼らにはロジックの積み重ねというものは、なさそうなんです。それどころか、ロジックというものを否定しているんですね。全てのロジックは、自己弁護に過ぎない、と言っている人もいます。では、彼らを支えているものは何か。それは、メンタリティではないか。

では、右翼の人たちのメンタリティについて、そのモデルを以下に提示致します。なお、1番から5番までは、No. 129の記事に掲載致しました昭和の暴走族に関する記述と同じです。

1.帰属集団からの疎外
2.新たな帰属集団の結成
3.伝統的な価値観を踏襲
4.集団と個人の依存関係
5.敵と味方を識別して集団で戦う
6.大義のために命を掛ける

安倍政権の閣僚の大半が加入していることで有名になった日本会議ですが、その中枢メンバーに影響を与えたと言われる三島由紀夫の自決事件を例に、上記のモデルを説明させていただきます。

(疎外という言葉には、マルクス主義実存主義が固有の定義をしているようですが、ここでは集団に帰属できない、集団との良好な関係を維持できない、という一般的な意味でご理解ください。)

まず、帰属集団からの疎外ということですが、もちろん暴走族と天才三島とでは、事情が異なります。三島は1925年生まれですから、終戦の年には、二十歳前後だったことになります。当然、彼の友人、知人たちの多くが戦争で命を失った。このことは三島にとって、ショッキングな出来事であったに違いありません。そして、三島はそれらの死んで行った仲間たちから疎外された、ということが考えられます。その後、三島は日本の文壇という帰属集団に属した訳ですが、三島の理解者は少なかった。若しくは、誰もいなかった。三島にしてみれば、周囲の作家や編集者が馬鹿に見えたのかも知れません。

そこで、三島は別の帰属集団として“楯の会”を結成し、自衛隊の真似事のような行動を開始する。この時点で、既に三島は死を覚悟していたのではないでしょうか。楯の会が採用した伝統的な価値観というのは、忠臣蔵や2.26事件にならったものと思われます。楯の会は、その構成員の帰属意識と貢献活動に依存し、その構成員は盾の会のメンバーであることによって、自らのアイデンティティを維持しようとした。三島は、自衛隊を敵として設定し、その市ヶ谷駐屯地に突撃した。そして、大義としての天皇陛下に命を差し出し、割腹自殺を図った。

三島が何故、そのような行動に出たのか。繰り返しになりますが、それをロジックで説明することは困難です。しかし、同じようなメンタリティを持った右翼の人たちというのは、現在におきましても、確実に存在します。このように見てきますと、右翼の人たちにとって天皇陛下は、自らの命を差し出すことさえできる大義として、唯一無二の存在だということが言えます。

(参考文献)
文献1: 社会学入門/盛山和夫 他 編/ミネルヴァ書房/2017