文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 150 私たちが生きている世界

10月末は、ハロウィンということで、渋谷などは大変な人出だったようです。これは文化の類型からすれば、「6. 祭祀」に該当すると思います。ハロウィンの起源は、古代ケルト人が始めたそうです。ケルト人と言えば、紀元前から存在していた民族なので、当初は動物の格好をして練り歩いていたのではないでしょうか。その後、魔女の格好をしたり、現代に至ってはゾンビの格好など、変遷を遂げてきたものと思います。それにしても、文化というのは、やはり時空を超えて伝播するものなんですね。21世紀の日本でこんなものが流行るとは驚きです。

 

さて、前回の原稿の末尾にも添付致しました「文化の構造図(Version 2)ですが、「遊び」から「世界統一ルール」へと至る一連の項目を眺めておりますと、これらは物の見事に、物体へと繋がらないことが分かります。文化人類学では、これらの文化を精神文化(spiritual culture)と呼んでいるようです。ところが、そこから派生してくる絵画などは現実に存在していて、見ることができる。彫刻ならば、手で触れることだってできる訳です。これはどういうことでしょうか。

 

人間は、想像上の目に見えない観念だとか、感情というものを、何とか現実の世界で表現したいと願ってきたのではないでしょうか。例えば、誰か親しい人が怪我をしてしまったり、病気になったりする。そういう時に、一日も早いその人の回復を願う。その気持ちを現実に表わすため、人々は、例えば千羽鶴を折る。例えば、宗教上の信仰を具現化するために、人々は巨大なお寺や神社を建立してきた。仏像を作ったり、イエス様やマリア様の像を作るのも、同じ理由ではないでしょうか。これらの目に見える文化は、人間の想像力と現実世界の中間にあるという意味で、便宜上、「中間文化」と呼ぶことにします。

 

すると、精神文化があって、中間文化があるとすれば、その先に物質文化(material culture)というものを想定せざるを得ません。この物質文化という用語は、文化人類学でも用いられている学術用語です。人類の歴史を振り返りますと、かなり早い段階から火を扱ってきた。そして、狩猟に用いるヤリを発明する。弓矢を作り出す。カヌーのような船も、相当前から作られています。何しろ、オーストラリアの先住民であるアボリジニは、船を使ってオーストラリア大陸に辿り着いたのですから。

 

精神文化の構造というのは、まず、想像力があって、仮説をたて、ルールにおいて帰結する。例えば、山を眺める。何か神秘的な感じがする。神様がいるのではないかと想像する。そんな時に、ふとキツネと遭遇する。驚いたキツネは、足早に去っていく訳ですが、途中、キツネは振り返る習性があるそうです。何度も振り返りながら去って行くキツネを見ていると、ある仮説に辿り着く。あのキツネは、神様の使いだったのではないか。そこで、稲荷神社を建立して、お詣りするというルールに至る。

 

これに対して物質文化というのは、衣食住など、人々の生活に根差した欲求が原動力になっているものと思われます。もっと沢山食料が欲しい、もっと楽をしたい。そこから、仮説に至る。例えば、木材が海に浮かんでいるのを見て、何とかすればそれに乗ることができるのではないかという仮説を立てる。木材を加工し、実際に検証してみる。そして、木彫りの船ができる。

 

精神文化・・・想像、仮説、ルール

 

物質文化・・・欲求、仮説、検証

 

科学と物質文化の関係ですが、物質文化が進展し、近代化したある時点をもって、科学という概念が生まれたものと思います。よって、物質文化という大きな概念があって、その一部が科学であると考えた方が良さそうです。

 

このように考えますと、私たちが生きている世界というのは、自然と、精神文化と、中間文化、物質文化の4つの要素によって構成されていると言えるのではないでしょうか。

No. 149 "私"から、”私たち”へ(その2)

 

前回の原稿で、少し大江健三郎氏などに対し、批判的なことを述べましたが、若干、補足させていただきます。

 

文学以外のジャンルでも同じかも知れませんが、芸術家というのは、誰しも個人的な経験であったり、感性であったり、考え方などから出発するのだろうと思います。しかしながら、それらが直接作品に持ち込まれると、その作品は読者なり受け手となる人に伝わりにくくなる。よって、その個人的な事柄を一度、普遍化する、抽象化するという手続が必要だと思うのです。そうすることによって、作家、芸術家の視点は、正に“私”から“私たち”に昇華するのだと思います。

 

例えば、以前、このブログで紹介致しました武田泰淳の「ひかりごけ」という短編小説があります。これは、難破船の船長が極限的な飢餓状況にあって、他の乗組員の遺体を食べてしまい、後日、裁判にかけられるというものです。この作品を読みますと、私は、もしかすると自分が船長の立場にもなり得る、と思う訳です。船長ばかりではありません。もしかすると船長に食べられてしまう船員の立場にも、そして、裁判で船長を糾弾する裁判官の立場にもなり得るのではないか、という恐怖感を覚えます。そして、人間とは何か、その本性を垣間見ることになるのです。この作品などは、明らかに“私”という視点ではなく、“私たち”という視点で描かれている。横光利一の「時間」という短編小説も同じです。ここには、愚かではあるけれども、愛すべき旅芸人の人間集団が描かれています。こちらも、“私たち”なんです。

 

さて、“私たち”に興味を持ち始めた私は、文化人類学に出会いました。少し勉強が進んだところで、文化を構成する諸要素について、これらには時間的な順序があって、各要素はつながっているはずだ、と思ったのです。しかしながら、体系的にそのような説明を行っている文献は、見つかりません。そこで、サラリーマン上がりの私は、早速、「アニミズム」だとか「呪術」などとポストイットに書き出して見たのです。机の上にそれらを並べ、考えては順番を入れ替えるという作業を繰り返しました。そして、ある程度自分なりに納得ができた時点で、このブログを立ち上げたのでした。

 

参考文献(文献1)によれば、19世紀にE. タイラーという人がいて、アニミズム → 多神教 → 一神教 という順序で進むという文化進化論的な説を唱えたそうです。その後も呪術が宗教の原初形態である(J. フレイザー)とか、いやいやトーテミズムが宗教の起源だ(E. デユルケーム)、という説などが唱えられたそうです。以下、文献1から抜粋させていただきます。

 

20世紀半ばになると、C・レヴィ=ストロースは非西洋を「未開」と呼び、非合理で理解不能なものを呪術や迷信として説明したかのように思い込むことによって、「未開と文明」という対立の図式を再生産しているとして、それ以前の文化人類学の宗教研究の問題点を指摘した。そうした批判を受けて、文化人類学は、文化進化論的な考え方に基づいて考えることを止めただけでなく、宗教の起源論という文化人類学にとって重要なテーマも手放すことになった。

 

僭越ながら申し上げますと、上記引用部分の最後に記載されている「宗教の起源論という文化人類学にとって重要なテーマ」を扱ったのが、このブログの発端だと言えます。そして、その後、私がレヴィ=ストロースとは異なる立場を取り、「文化進化論」という言葉に行き当たったのも、自然な流れであったものと思われます。

 

ただ、レヴィ=ストロース以降の文化人類学が提唱した2つの価値観について、私はこれを踏襲しようと思っています。1つには、例えば文字を持たない人間集団を野蛮人などと表現して、侮蔑してはいけないこと。2つ目としては、無文字社会の人々に対し、我々の価値観を押し付けてはいけない、ということ。これは経験的に、うまくいかないことが立証されています。

 

このブログの冒頭におきましては、言葉から始めて、宗教に至るプロセスについて概観した訳ですが、文化人類学で扱っている文化の分野というのは、そこまでなんです。仮に文化の最終形が宗教だとすると、私自身、どこかの新興宗教団体にでも加入しなくてはならない。それは嫌だ。困り果てた私は、そうだ、文化の進化プロセスの副産物として、文学、美術、音楽などの芸術が生まれたに違いないと思いました。そうこうするうちに、文化の起源は言葉ではなく、更にその前に遊びがあったのだと気づくのです。そして遊びの原理から、文化が無限に発展し続けるダイナミズムというものが分かってくる。この時期は、私としても大変、充実感をもっていました。

 

その後、山を上り詰めてしまったような虚脱感もあり、40日程このブログを休憩させていただいたのですが、その間、人間集団との関係から文化を眺めて見たいと思うようになり、新シリーズ“集団スケールと政治の現在”を始めます。今にして思えば、このシリーズをライオンの話から始めたのは、失敗でした。ライオンの話は、機会があれば改めて記載したいと思ってはいるのですが・・・。しかし、このシリーズを続けていく途中で、私は文化の最終形は「宗教」ではない。その先もずっと続いているのだ、という確信に至ります。宗教と武力が一体となり、宗教国家(封建制国家)が生まれる。そこで、宗教戦争などの暴力が蔓延するのですが、特にヨーロッパにおけるそれは、日本人には想像もつかない程、凄惨を極めたようです。ヨーロッパでは、振り子が極端に暴力的な方向に振れてしまった。その反動があって、宗教だとか封建制に対する疑問が出て来たのだろうと思います。そして、歴史の中で宗教や王権制に疑問を持つ人々が現われる。例えば、ニーチェは「神は死んだ」と言った。ガリレオは地動説を唱え、ダーウィンが進化論を提唱した。やがて、これらの考え方が民主主義を生む。歴史的な時間軸で考えますと、国家だとか政治も、文化であると言わざるを得ません。従って、文化とは何か、もう一度定義し直す必要がありそうです。

 

皆様の便宜のために、微調整を行った「文化の構造図(Version 2)」を添付しておきます。

 

<文化の構造図(Version 2)>
1. 遊び
2. 言葉
3. アニミズム
4. 物語・・・文学
5. 呪術・・・美術
6. 祭祀・・・儀式、祭り、音楽、踊り、ファッション
7. シャーマニズム
8. 文字
9. 宗教
10. 宗教国家(封建制、王権制、君主制民族主義
11. 哲学・・・科学
12. 法治国家立憲主義、民主主義)・・・政治
13. 世界統一ルール・・・国連

 

(参考文献)
文献1: 文化人類学/内堀基光 奥野克己/放送大学教育振興会/2014

No. 148 ”私”から、”私たち”へ(その1)

 

雨の日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。今日、吉野家へ行ったところ、メニューに季節限定の「牛すき鍋膳」が追加されていました。もう、冬はすぐそこです。

 

さて、衆院選も終わり、少しこのブログを振り返ってみました。非公式なものを含めますと全部で165の記事を掲載したことになり、これを原稿用紙に換算しますと千枚を超えることが分かりました。チリも積もれば山となると言いますが、ちょっとした感慨があります。また、このブログの特徴は“ひたすら文化について考える”という点にある訳ですが、そんなことをやっているブログというのは、極めて稀だと思います。もしかすると、他にそんな例はないのかも知れませんね。そこで、私が何故こんなことをしているのか、振り返ってみることにしました。

 

遡ること半世紀、私は小学校の5年でした。担任の先生は国語が専門だったのですが、ある日、クラスの生徒全員に文庫本が配布されたのです。有島武郎の“一房の葡萄”だったように記憶しています。先生曰く、「これが文庫本というものである。字は小さいが、大人はこういうものを読んでいる。皆さんも、文庫本に慣れ親しむように。また、読み終わったら文庫本の裏表紙の内側に読み終わった日付と感想を書くと良い」。そうか、大人はこういう本を読んでいるのだ、と感動した私は、自分も少し大人になったような気分で、先生の指示を忠実に実行したのでした。最初は童話のようなものを読んでいました。アンデルセンとかグリムも読んだ記憶があります。ただ、文庫本で子供向けのものというのは、当時、そう多くはありませんでした。一通り読み終えてしまうと、少し大人向けの本にも手を出しました。

 

やがて、川端康成ノーベル賞を受賞し、私が14歳の時、三島由紀夫が自決しました。そんな社会的な出来事もあって、私は、文学に興味を抱くようになったのです。しかし、途中で、文学に違和感を抱くようになります。例えば川端康成ですが、当時でも、既に伊豆には旅芸人の一座はいませんでした。「トンネルを抜けると」から始まる“雪国”には、確か駒子という芸者が登場しますが、待てど暮らせど、私はそのように魅力的な芸者さんに出会うことはできませんでした。三島由紀夫の小説は「美しきものは滅びなければならない」というテーゼに貫かれているようですが、では、何故、そうなのか。その答えは書いていない。その後、三島の背景を調べるため武士道に関する本も数冊読みましたが、そこにも納得のできる答えは見つからなかった。結局、右翼というのはメンタリティの問題であって、ロジックに基づく思想はないという結論に至った訳です。その詳細は既にこのブログに記載した通りです。大江健三郎の小説も読みました。ある時、私は大江のこんな言葉に出会ったのです。「私は、息子のことを離れて小説を書いたことはない」。ご案内の通り、彼の息子さんは障害を持たれている。ご苦労があったことは、理解できます。しかし、私はこう思ったのです。それは作家の個人的な体験であり、読者である私がそれを共有することはできない。加えて、日本文学には私小説の系譜というものがあって、作品の中で述べることは個人的な体験であるべきだ、という既成概念まであった。対する私の考え方というのは、個人的な体験をそのまま描いても、それは読者に共有されない。読者に何かを伝えるためには、書きたいと思っていることを普遍化する、若しくは抽象化する必要がある、ということでした。

 

日本で言えば、第二次世界大戦まで、個人とか自由という概念はほとんど語られて来なかった。(板垣退助自由民権運動などの例外はあります。)そして戦後、日本国憲法が制定され、一気に個人主義的な発想が台頭したのではないでしょうか。そこで、近代の思想だとか文学は、個人、すなわち“私とは何か”という問いから出発したのだと思うのです。しかし、端的に言えば、私はこの問いの設定自体に違和感を持ったのです。

 

例えば、私が江戸時代に生まれていたとすれば、私はチョンマゲを結っていたに違いありません。(それは、あなたも同じです!)もっと昔、例えば3千年前の日本に生まれていたならば、多分、私は今頃、ヤリを持ってイノシシを追いかけていたでしょう。個人というのは、時間的、空間的制約の中で生きている。換言すれば、個人というのは、ある背景となる条件があって、その条件の中で生きているに過ぎないのではないか。そして、その背景となる条件は、時として、大きく動く。例えば、私が愛して止まなかったロックミュージックは、1975年頃を境に、急速に衰退していった。(この頃、モダンからポストモダンへと時代のメンタリティが動いたことは、既に述べた通りです。)何か、集団に共通する心理的な状態というものがあるのではないか。

 

そう思い始めた私は、例えば、ユング集合的無意識という考え方に惹かれたのでした。その後、トランスパーソナルにも興味を持ちました。すなわち個人というのは、どこか深い所で、実はつながっているのではないか、という考え方です。ここに至って、私は“私たちとは何か”という問いを設定したのです。

 

ダーウィンの進化論にも興味を持ちました。これは、突然変異と適者生存をベースに生物の進化を説明するものですが、本当にそうでしょうか。例えば、生物の中には保護色を持つものがいます。しかし、自分の体がその背景となる地面などと同じ色になっているのかどうか、それをその個体が自分で確認することはできない。そうしてみると、やはり、個体を見ている別の個体というものを設定し、個体同士が何らかのコミュニケーションを取っていると考えないと、ある個体が自らの体を保護色に染めることはできないはずだ、などと考えた訳です。しかし、今日ではダーウィニズム分子生物学のレベルまで発展していて、極度に文科系(理数系がまるでダメという意味)の私には手に負えない問題だということが分かってきます。

 

八方塞がりになってしまった私は、それでも、個人(個体)に多大な影響を与えているある条件とは何か、すなわち“私たちとは何か”ということをどうしても知りたいと願っていました。そしてある日私は、文化人類学に出会ったのです。

No. 147 憲法とは、文化の結晶である

 

未だホモサピエンスが言語すら持っていなかった頃、誰かが、動物の真似をしてみた。例えば、鳥のさえずりを真似てみた。その瞬間、文化の歴史が始まったに違いありません。やがて人類は、遊びながら意味を発見し、ルールを作った。ルールは言葉となり、呪術となり、宗教となった。宗教の発展と共に、人間集団の規模も大きくなっていった。

 

憲法学者長谷部恭男氏は、宗教改革以降の歴史を次のように説明しています。

 

宗教改革があって、宗派が別れ、宗教戦争が始まった。対立する宗派が、血で血を洗う殺し合いを続けた。やがて人々は、そんな殺し合いが嫌になった。そこで、死んだ後に天国に行けるかどうかという宗教上の問題と、生きている間の現世を分けて考えることにした。そして、現世を更に公私に区分けした。私的な空間、例えば自宅にいる間は自由に暮らして良い。一方、公の空間にいる間は、一定のルールに従うのが良いだろう。人々は、そう考えた。これが法治主義、ひいては立憲主義の起源である。

 

宗教上の集団は、更に進化し、国家となる。では、日本という国があるから、日本国憲法があるのでしょうか。私は、違うと思います。日本国憲法があるから、民主国家としての日本が存在していると思うのです。仮に日本国憲法がなかったとしても、日本の領土とそこに暮らす人々は存在するでしょう。しかし、その国家としての特質は、例えば戦前の国家神道なり、現在の北朝鮮のようなものになるのではないでしょうか。

 

文化は、集団によって所有されています。そして、多くの場合、文化とは目に見えない。手で触れることができない。そのため、私たちは時として、文化の重要性を忘れてしまいます。憲法も同じです。それは、目に見えない。触れることができない。しかし、現代日本の私たちは、憲法という文化に抱かれて、日々の暮らしを営んでいます。

 

日本国憲法のことをGHQに押し付けられたものだ、と言って批判する人がいます。私の意見は違います。GHQはただ、ペンを走らせ、文字を刻んだに過ぎません。日本国憲法に定められている3大原則、すなわち、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という考え方の根底には「宗教、民族、イデオロギーの違いを乗り超えて共に生きよ」とする歴史が育んだ人類の英知がある。

 

権力者が憲法違反の法律を作るなどもっての他ですが、だからと言って、憲法というのは神棚に飾っておけば良い、というものでもありません。全ての文化が今日まで進化を続けてきたように、憲法もこれをより良いものへと進化させなければなりません。簡単なことではありませんが、それは主権者である国民のみがなしえることです。

 

さて、上に記したことを理解している日本人は、どれだけいるでしょうか。3割程度ではないでしょうか。そうであれば、その3割の人たちが、憲法の意味を他の人に説明する必要がある。特に大人には、人生経験や知識が不足しがちな若者に対して、これを説明する責任があるのではないでしょうか。そして、このことを理解する人の割合が5割を超えた時に、日本という国家が保有する文化において、コペルニクス的な転回が生じるのではないか、と思うのです。既に3割の人たちは気づいている。あと、少しなんです。

 

文化進化論の立場から、今後の日本の政治は、次のように進化していくものと推測しております。

 

1. 国民の過半数が、立憲主義、民主主義の重要性を理解する。
2. 日本に健全な2大政党制が生まれる。
3. 数年に渡り、国民の間で憲法論議が交わされる。
4. 国民投票により、憲法が改正される。
5. 日本は、対米追従を止め、本当の意味での独立国となる。
6. 民主主義が深まり、日本は他国からも尊敬される国家となる。

 

さて、明日は衆院選挙の投票日です。明日が、上記のシナリオを踏み出す記念すべき1日となることを願って止みません。

No. 146 対米従属と憲法9条(その4)

未だに護憲派改憲派か、などという不毛な報道が繰り返されていますが、言うまでもなく、憲法改正に賛成と言っても、どの条文をどう変更するのかによって、その意味は全く異なります。そして緊急性があるかという問題は別にして、憲法問題の本丸は9条にあります。今回は、各政党のスタンスなどを中心に、憲法9条について考えてみることに致します。

 

1. 非武装中立・・・・・・・・・・・・・憲法9条2項/共産、社民
2. 武装中立・・・・・・・・・・・・・・安倍改憲
3. 個別的自衛権・・・・・・・・・・・・専守防衛
4. 日本の周辺でのみ米軍を防護する・・・維新、旧民進、(立憲)
5. 世界中で米軍を防護する・・・・・・・集団的自衛権違憲/自民、公明

 

では、順に見ていきましょう。まず、1番の非武装中立ですが、これは軍隊を持たない、交戦権も放棄するという考え方で、憲法9条2項に明記されている考え方です。この条文を変更すべきではない、と主張しているのは共産党です。社民党は、若干曖昧なところもありますが、福島瑞穂氏などは「9条を守れ」と盛んに言っておりますので、一応、共産党と同じ主張であろうかと思われます。主張の根幹は、憲法9条というのは、日本が目指すべき目標であって、9条があるから戦後72年間、日本は戦争に巻き込まれることなく平和に暮らすことができた、という点にあろうかと思われます。実際、かつての日本はアメリカからの圧力に対し「お金は出せるけれども、憲法9条があるので自衛隊は派遣できない」と言って、海外派兵を拒否してきた経緯もあります。では、仮に日本が外国から軍事攻撃を受けた場合はどうするのか、という疑問が沸いて来ます。この点、共産党の志位委員長は、「攻撃を受けないように、対話によって問題を解決する」と説明しています。しかし、設問としては「対話によっては解決できず、日本が攻撃を受けた場合にどうするのか」という点にある訳で、共産党はこの問いに対して、明確には答えていないようです。現実問題としては、3番の個別的自衛権までは認めざるを得ないものと思われます。

 

次に2番の「武装中立」ですが、安倍総理が主張している改憲案がこれに当たります。9条に3項を設け、自衛隊の存在は合憲であることを明確にするという案です。「災害救助など自衛隊の人たちには、本当に頭が下がる。この程度であれば、安倍総理が言うように9条を改正してもいいかな」と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、この案には2つの問題があります。第1には、9条2項との関係です。9条2項には明確に非武装中立、すなわち軍隊を持たない、と書いている訳で、この条文を残したまま、自衛隊を軍隊としてどう認めることができるのか。自民党は、未だに具体的な改憲案を示していませんが、それが公開された時点で、注意深くチェックしてみる必要があります。第2の問題点は、法律上のちょっとテクニカルな問題です。これは、「後からできた法律などが優先される」という法律解釈に関する問題です。既に日本には、5番の「世界中で米軍を防護する」という法律が存在しています。これは、憲法違反の法律です。しかし、この法律が現存するまま、安倍総理が主張するような憲法改正を行いますと、5番の憲法違反の法律を追認してしまうことになる、という問題があるのです。

 

次に、3番の個別的自衛権ですが、これはあくまでも日本が武力攻撃を受けた場合に反撃できるという考え方で、政府見解、学説(長谷部恭男氏、小林節氏 他)共にこれを合憲であると認めています。前述の通り、現実問題としては、共産党社民党もこれに異論はないものと思われます。

 

4番の「日本の周辺でのみ米軍を防護する」という考え方ですが、これは個別的自衛権集団的自衛権の中間に位置するような考え方だと思われます。元来、アメリカは日米安保条約に基づき、日本が第三国から攻撃を受けた場合、日本を防護する義務を負っています。これは、アメリカにとっては集団的自衛権ですね。アメリカは、日本を守ってくれる。仮に、北朝鮮が日本を攻撃しようとする。アメリカの艦隊が日本海にやって来る。アメリカは明らかに日本を防護しようとしている。その時、自衛隊の目前でアメリカ軍が攻撃を受けたとします。自衛隊は、アメリカ軍を助けるべきか否か。こういう問題だと思います。私は、自衛隊はアメリカ軍を助けるべきだと思います。何しろ、アメリカ軍は日本のために戦っているのですから。また、結果としてアメリカ軍を助ける行為は、日本の防衛にもつながります。では、“日本の周辺”と言わずに“日本を防護しようとしている米軍”と言えば良さそうなものですが、法律的にはその米軍が何を目的にその場所にいたのか、判断するのが難しい。たまたまそこにいたのか、日本を助けようと思ってそこにいたのか、これを証明することは困難ですし、そもそも上の例で自衛隊が米軍を助けようか否か判断すべきその一瞬に、米軍の意図を確認することなど不可能です。よって、より判別のつきやすい“場所”、すなわち“日本の周辺”という条件を設定しているものと思われます。

 

日本の周辺であれば、米軍を防護する。そこまではいいだろう、そこまでなら集団的自衛権と言わずとも、日本の個別的自衛権の範囲内にあると考えることができる。このように考えている政党、政治家は少なくありません。例えば、安全保障関連法を審議した際、維新の会はこの考え方を採用し、対案を提出しました。その際、維新の会が相談した憲法学者は、日本周辺に限るのであれば違憲ではない、との意見だったようです。民進党の前原氏、希望の党の細野氏なども、実はこの考え方を採用しているようです。(但し、小池百合子氏の考え方は不明であり、希望の党としてどのような立場をとるのか、現時点で推し量ることは困難です。)

 

最後に5番の「世界中で米軍を防護する」という考え方ですが、既に日本はこの考え方を法制化してしまいました。安全保障関連法です。これは、当時、安倍総理が言っていたようにホルムズ海峡(地球の裏側)においてまで、米軍を防護するというものです。これでは、危なくって仕方がありませんが、この考え方を採用しているのは、与党の自民党公明党ということになります。

 

マスコミの報道は、4番と5番を一緒にして、一言で“集団的自衛権”と表現するケースが多いように思いますが、その内容は上記のように2つに分けて論じるべきです。

 

ところで、立憲民主党の立場はどうなっているでしょうか。まず、前述のように安倍改憲を支持してしまうと、一気に5番の地球の裏側まで行ってアメリカ軍を助けるという集団的自衛権まで認めることになってしまうので、これには反対である。また、政治を行う上で、憲法改正の優先順位は高くない。(保育士、介護士の給与改善、派遣の労働者を正規従業員に登用させるための法改正などの方が優先順位が高い、という意味かと思われます。)但し、4番の日本の周辺に限定して米軍を防護するというところまでは、これを憲法に定めるという選択肢もある。このような立ち位置にあるようです。

 

最近、“野党は共闘すべきだ”と市民団体が主張しており、それには一定の理解もできますが、あくまでも1番の非武装中立固執している共産党社民党と、現実的に4番まで考えている立憲民主党とでは、共闘は難しいものと思われます。

No. 145 対米従属と憲法9条(その3)

1つ重要な前提条件を書き洩らしていました。それは、日米安全保障条約のことです。私は、これを否定するものではありません。昨今、この条約まで否定して、日本が核武装すべきだ、というような論議もない訳ではありませんが、私は、こういった考え方には反対です。私が日本の独立と言っているのは、日本にある134もの米軍基地のうち、沖縄の1か所位は減らせ、日米地位協定は改定しろ、官僚が勝手にやっている日米合同委員会は中止しろ、密約があるのであればその内容を開示しろ、日本は核兵器禁止条約に参加しろ、ということです。

 

さて、前回の記事で重武装中立論も徴兵制も現実的ではない、ということを述べました。しかし、冷静に考えてみますと、日本の独立というのは、そう難しいことではないと思うのです。私たち日本人がそう望んで、それを選挙の投票行動で示せば、実現可能であるということを述べたいと思います。

 

まずは、漠然とした不安感を理性の力で克服する必要がある。アメリカに逆らおうものなら、とんでもない目に合わされる。多くの日本人はなんとなく、漠然と、そう思っている。原爆を投下された記憶が、日本人という集団の深層心理として、今も作用している。これは、無理もないことだと思います。元来、人間というのは、恐怖心を過剰に持つ動物なのかも知れません。例えば、中国の万里の長城は、秦の始皇帝が北方の異民族が攻めてくるのを怖れて、作らせたものだと言われています。人類史に残るあの巨大な建造物は、人間の恐怖心の大きさを示している。しかし、その恐怖心を乗り越えなければ、私たちの文化は進化の歩みを止めてしまう。

 

日本が武力攻撃を受けたとします。さて、あなたはどの国から攻められたと想像するでしょうか。可能性があるのは、せいぜい、北朝鮮、ロシア、中国の3か国ではないでしょうか。してみると、この3か国からさえ攻撃を受けないようにすれば、日本の安全は保たれることになります。まずロシアですが、これは現在北方領土で共同事業を行う計画も進んでおり、懸念対象国から除外しても良いかも知れません。ロシアが欲しがっているのは、日本からの経済援助、技術援助であって、日本の領土ではないと思います。次に北朝鮮ですが、これは日本に米軍基地があるから、巻き込まれるリスクがあるのであって、北朝鮮には日本自体を攻撃する合理的な理由がありません。日本の領土の上空をミサイルが通過したとは言え、北朝鮮は通過する日本の国土の距離を最小に留めるため、津軽海峡の辺りを狙ってミサイルを飛ばしたものと思います。もちろん、北海道や青森県の方々にとっては、まったくもって迷惑な話だとは思いますが・・・。北朝鮮問題が今後、どのように進展するのか、それは私にも分かりません。来月、トランプ大統領が習近平氏と会談する予定があるそうですが、あるいはそこで中国の了解を取り付け、その後、アメリカが先制攻撃を仕掛ける可能性も否定できない状況だと思われます。しかし、北朝鮮に対立する第一の当事者はアメリカであって、第二は韓国。日本は、巻き込まれてしまう危険性のある部外者です。その証拠に、現在も米韓合同軍事演習が行われていますが、日本はこれに参加していません。それにも関わらず、国連北朝鮮に対する圧力の強化ばかりを主張した安倍総理の態度は、アメリカのご機嫌取りとしては効果があったものと思いますが、反面、我々日本国民が抱えるリスクを高めたのではないか。

 

残るは、中国ですね。中国では、臨海部で経済発展が進んでいますが、内陸部は未だ貧困状態にあります。この格差を解消するのが、中国の課題だと思われますが、そうするためには、食料とエネルギーが足りないのではないでしょうか。何しろ、人口の多い国ですから、国民生活の底上げが図られた場合、そこで消費される資源も膨大な量となる。そこで、中国は海洋資源に注目している。ここでの権益を拡大しようと試みている。そこで、南沙諸島に人工島を作ったり、日本の尖閣諸島を脅かしたりしているように思います。このように考えますと、中国には、日本の尖閣諸島を侵略する経済的な理由がある。逆に言えば、北朝鮮の問題を除外しますと、日本は中国から尖閣諸島さえ防衛できれば、国の安全を確保できる。このように考えますと、ちょっと安心できませんか?

 

前回の原稿でちょっと引用させていただきました憲法学者長谷部恭男氏の本は、次のように締め括られています。

 

「いつまでも域内の諸民族を力ずくで抑圧する前近代的な帝国の支配が継続することはないと見た方がよいでしょう。いずれ中国もリベラル・デモクラシーへと変容するはずです。その日まで、自由で民主的な政治体制の下での私たちの暮らしをどう守っていくか。それを冷静に考える必要があります。」

 

これは、私の「文化は必ず良い方向に進化する」という“文化進化論”とでも呼ぶべき考え方に合致しています。こういう文章に出会うと、ちょっと嬉しくなってしまいます。

 

ところで、立憲民主党を立ち上げた枝野幸男氏ですが、すっかり全国区で有名になってしまいました。実は私、昔から近所の駅で演説している枝野氏を何度か見掛けたことがあるのです。大概、聴衆は誰もいませんでした。誰も聞いていないのですが、それでも一生懸命何かを訴えていた枝野氏の姿が思い出されます。それにしても、人間の運命というのは分かりません。ご案内の通り、枝野氏は前回の民進党代表戦に出馬し、善戦はしたものの前原氏に敗れてしまいました。その直後に、民進党の両院議員総会で前原氏の提案が可決され、原則的には全員が希望の党へ合流することになった訳ですが、その後、小池氏の“排除”発言があります。枝野氏にしてみれば、踏んだり蹴ったり、という状況だったはずです。ところが、10月2日に会見を開き、翌3日に立憲民主党を立ち上げると、そこから一気に流れが変わった。今、立憲民主党に風が吹いているようですが、それは天下国家を論ずることのできる枝野氏の視野の広さ、今日までの努力に負っているところが大きいのではないでしょうか。

 

そんな枝野氏ですが、立憲民主党を立ち上げた9日後(12日)には、沖縄に飛んで演説しています。そこで、こんなことを言っていました。

 

「沖縄の基地の問題は、決して簡単に解決できる課題ではない。しかし、今後、ゼロから検証したい。日米地位協定の改定にも、全力で取り組みたい。何事も、チャレンジしなければ変わらない。アメリカにも沖縄への基地の固定化にこだわらない人たちがいるのではないか。アメリカだって民主主義の国だ!」

 

日本人が漠然とした不安感を克服し、枝野氏のような政治家なり政党に投票すれば、日本は必ずアメリカから独立できると思います。

No. 144 対米従属と憲法9条(その2)

 

対米従属がもたらす問題点は、以下の3点ではないでしょうか。

 

第1に、立憲主義の破壊という問題があります。安全保障関連法が国会で決議される際、参考人として出席した憲法学者長谷部恭男氏、小林節氏などは明確に違憲である旨、証言しております。すなわち、アメリカに追従するため、憲法違反である可能性が極めて高い集団的自衛権が、立法化されてしまった。これでは、立憲主義が破壊されている。そんな法律は本来認められない訳で、最高裁判所に訴えれば良いはずだと思います。実際、最高裁違憲立法審査権という権限を持っていて、憲法違反の法律を無効にすることができるはずなんです。しかし現実問題として、日本の最高裁は高度に政治的な影響力を持つ事例については、判断を避けてきた。そこで、それでは本来の憲法判断を下す裁判所として、“憲法裁判所”を設置すべきではないか、という議論が起こっているようです。これは、是非、設置すべきだと思います。

 

さて、対米従属がもたらす第2の問題は、本当にそれで日本人の安全が守られるのか、ということです。仮に自衛隊がホルムズ海峡まで行って、米軍を助けた場合、高い確率で日本はその戦争に巻き込まれてしまいます。地球の反対側では、イスラエルパレスチナキリスト教イスラム教 など、歴史的な宗教戦争が継続している。元来、神道仏教の国である日本が、そのような戦争に参加すべきではない、というのが私の持論です。最悪、日本国内でテロが発生しないとも限りません。また、世界情勢を俯瞰してみますと、米国の衰退と中国の台頭という傾向が見て取れます。素直に考えた場合、中国が台頭して来るのであれば、今から中国と仲良くしておいた方が良いのではないか。加えて、日米地位協定という治外法権の問題があります。先日も沖縄でヘリコプターが墜落しましたが、日本側は現場検証にも立ち会うことができません。放射性物質が拡散されているのではないかという報道もあったようですが、真実は分かりません。

 

対米従属がもたらす第3の問題は、日本の文化が進化を止めて停滞しているということです。安全保障という政治上、最大の課題について、日本は自ら決定することができない。安倍総理集団的自衛権について、これを認めるようアメリカから要請を受けていたと田原総一朗氏に述べていた、との報道がありました。そんなことを今さら暴露する田原氏もどうかとは思いますが、多分、これは事実なのでしょう。安倍総理は日本の国会で審議する前に、集団的自衛権に関する法律を日本の国会で可決すると、アメリカの議会で演説をしていたのではないでしょうか。すなわち、対米従属と自民党政権というものが相まって、日本人の中には「何を言ってもダメだ」という無力感、虚無感が蔓延している。ただでさえ、帰属集団から疎外されている人たちが、政治からも疎外されている。だから、選挙の投票率も上がらないのだろうと思います。疎外された人たちというのは、「昭和の暴走族」のように反社会的な集団を作りやすい。

 

では、どうすれば日本はアメリカから独立できるのでしょうか。この問題について、いくつかの考え方をご紹介致します。

 

まず、社会学者の宮台真司氏。宮台氏の意見としては、憲法9条を改正して、集団的自衛権を正面から容認し、重武装中立を目指すというものです。日本の軍隊を強化して、米軍基地に派遣する。そして、米国と新たな地位協定を締結する。その際、治外法権である現行の地位協定の条件を提示し、これをテコにして、最終的には現行の地位協定を公平なものに変更させる、というアイディアです。実際、他国はこの方法でアメリカと折衝し、地位協定の改正に成功している、と宮台氏は説明しています。

 

沖縄の現状を考えれば、このアイディアにも一理あるような気はしますが、先に述べました通り、日本が宗教戦争に巻き込まれるリスクが発生してしまいます。よって、私としては賛成できません。

 

次に、法哲学者の井上達夫氏。井上氏は、憲法について9条削除論と呼ばれる独自の案を提示していますが、その中で、徴兵制について言及しています。徴兵制を敷けば、国民は必然的に政治に興味を持たざるを得ない。そして自らが、若しくは自分の近しい者が戦地に派遣されるリスクを負うようになれば、戦争に関して必ず慎重になる。だから、徴兵制を敷くのが良い、という意見です。

 

確かにそこまですれば、アメリカから独立できそうです。しかし、徴兵制というのは、なかなか難しい仕組みであって、国民を分断する新たな契機となりかねない。まず、年齢。徴兵される可能性の低い60代の人間が主張しても、現実のリスクを負担する若い人が納得できるのか、という問題があります。また、男女の問題もある。確かフィンランドだったように記憶しているのですが、同国の徴兵制は、女性をも対象としている。非力な女性にまで、銃を持たせるのが良いのか。そんな制度を作って、男たちの心は痛まないのか、と思います。一方、韓国の徴兵制は、男だけを対象としていますが、それでは「徴兵に応じる男の方が偉いんだ」という男尊女卑の価値観に結びつきかねない、ということで論議になっているようです。ここで、徴兵制に反対する憲法学者、長谷部氏の意見を紹介致します。(文献1)

 

「軍事技術が高度化した現代社会では、一般市民を訓練して軍事行動に参加させること自体が、非現実的ではないかとの疑問を突き付けられることになるでしょう。」

 

どうやら、重武装中立も、徴兵制も、得策ではなさそうです。

 

(参考文献)
文献1: 「この国のかたち」を考える/岩波書店長谷部恭男/2014