文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 165 記号学のパースが面白い(その2)

パースは、「日常いつでも誰の心にも現われるもの」を現象と呼び、独自の現象学を提示しました。本文献には「現象学はただ、どんな仕方においてであれあるいはどんな意味においてであれわれわれの心に現われるいっさいのものを直接観察し記述し分析し、そこにいっさいの存在の最も普遍的一般的な原理を求めるものである」とあります。そして、パースは現象を3つのカテゴリーに分類したのです。そしてパースはこれらのカテゴリーを「単に論理的関係の概念としてだけではなく、それらを、あらゆる現象の基本的な存在様式として、または普遍的カテゴリーと考え」たのです。今回は、この3つのカテゴリーについて見ていきたいと思います。

 

第1次性
・例: Xは赤い
・例えば「アダムが最初に見た世界」。いかなる区別も立てず、新鮮で、自由で、生き生きしていて、すぐに消えてしまうもの。
・外からの強制もなく、法則にしばられることもなく、理性や思想の制約も受けず、それらのいっさいの関係から解放された自由で自発的な限りない多様性としてのものの在り方。
・記述することのできない未分化なものの在り方。

 

第2次性
・例: XはYを愛する。
・無限定的な第1次性が発展すると分化、2元的な対立が生まれる。
・典型的な概念としては、強制、闘争、衝突、抵抗、作用と反作用、事実、経験など
・現実的な事実の世界。
・例えば、突然の轟音にびっくりするなど、純粋に二極的な関係であるようなものの在り方
・現実性に理性はない

 

第3次性
・例: XはYにZを与える。
・例えば、コミュニケーションは、共通の言語などの媒介がなければ成立しない。このように媒介あるいは中間性の存在様式をパースは第3次性と呼ぶ。
・普遍的、一般的、法則的なものの在り方。
・第3次性とは、二つのものの間の媒介性または中間性を意味する。したがって、第3次性は何よりも記号の表意作用(representation)において、その特徴を顕著に現わす。

 

そして、第1次性、第2次性、第3次性はそれぞれ異なる独自の構造を有しており、第3次性を第2次性に、第2次性を第1次性に、それぞれ還元することはできない、ということになるのです。何か、とてつもない理論のような気がしますが、実はパースの上記の考え方は、ヘーゲル弁証法にヒントを得ています。

 

「パースがカテゴリーを三つに定めたのは多分にヘーゲルの「思想の三段階」 -定立、反定立、総合- から示唆を得ている。」

 

「パースはつまり宇宙におけるいっさいの事象をカオスから秩序へ、偶然から法則へ、対立から統合への弁証法的習慣形成の過程において見る宇宙進化論者であり、その進化論には絶対精神へと止揚されるヘーゲル的な弁証法的精神進化の過程を思わせるものがある。」

 

パースの思想の根底には、人間といえども自然が生んだものだ、だから最終的には自然界、宇宙を支配する法則に従うはずだ、という考え方があるようです。

 

そもそも出発点である“現象”とは、“心の中に現われるもの”だったはずで、そこから私なりに考えてみましょう。

 

まず、第1次性ですが、これは何の拘束も受けない混沌とした心理状態を指していると思います。私たちは“夢”において、このような心理状態を体験していると思います。また、精神病患者の夢と神話に出て来るイメージの関連から、ユングは元型という概念を導きました。そういう、混沌とした心の状態というのは、存在するのだろうと思います。ジャクソン・ポロックがその抽象絵画で表現しようとした世界も、この第一次性に関わるような気がします。

 

第2次性というのは、現実の、物的な世界のことだろうと思います。机の角にぶつかれば痛い。物質というのは、ある空間を独占的に占領しているのであって、そこを侵そうとすると衝突が生まれる。自然界においては、昼と夜、夏と冬などの2項対立があって、それは古代人が強く意識してきたことだろうと思います。現代人もクルマにぶつからないようにとか、無意識のうちにそのようなことには注意を払っている。現実的な2項対立の関係、それが第2次性ということだと思います。

 

第3次性において、初めて記号が登場します。それは媒介的で、中間的なものとして論じられています。この段階において、調和が生まれる。パースはそう考えていたんですね。ということは、記号が調和を生む。そういうロジックの大きな流れをイメージしていたのかも知れません。

 

それにしてもパースは、人間の心の中から自然界の構図まで、たった3つのカテゴリーで説明しようとしたんですね。それが正しいのかどうか、私には分かりません。ただ、その思想のスケールの大きさには感服せざるを得えないのです。

No. 164 記号学のパースが面白い(その1)

私たちは何者なのか。この問いに応えるために、まず、言葉とは何かを考える人々が登場したのだろうと思います。人間は肉や野菜を食べるし、夜には眠る。しかし、これらの行動は、他の動物も同じです。では、人間の特徴とは何か。誰もが思い浮かべるのは、人間が言葉を使って物事を考え、コミュニケーションを取るということではないでしょうか。そうしてみると、目には見えない人間の心の中もきっと言葉に溢れているに違いない。そして、言語学という学問が成立する。しかし、よくよく考えてみると、人間が何かを認知し、何かに反応する際、そのきっかけとなるのは言葉だけではない。例えば、ドアをノックする音を聞いて、私たちは誰かの来訪を知る。雷鳴を聞くと恐怖感を抱く。従って、言葉という概念をもう少し広げて考えた方が良いのではないか。そこで、“記号”という考え方が生まれた。

 

アメリカ人のパース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)は、現代記号学の創設者の一人であると共に、哲学者、論理学者、数学者、物理学者、科学者でもあったと言われています。

 

さて、今回の原稿では、主に「パースの記号学/米盛裕二/勁草書房/1981」(以下「本文献」といいます)を参考にさせていただきます。本文献を読みますとパースも大変な人物だったことが分かりますが、負けず劣らず、著者である米盛氏の力量にも感服致しました。河合隼雄氏が日本にユングを紹介したように、米盛氏が日本にパースを紹介したと言われています。学者の仕事というのは、こうあるべきなんだと納得した次第です。

 

本文献によりますとパースの前半生は、幸福なものだったそうです。名門ハーバード大学を卒業し、広く学会で活躍した。しかし、彼の偏屈な性格が災いし、永年求め続けていた大学教授のポストに就くことはできず、48才にして隠遁生活に入った。以下、本文献から引用させていただきます。

 

「後半生はあらゆる職を失って貧困と孤独と病苦のなかで過ごした不運な人であったと言われています。(中略)そして、最後の数年間は一文なしの極度の窮乏と不治の病に苦しみながら、それでもなお最後まで、出版の当てのない難解な学説を書きつづけ、莫大な手稿を遺して、1914年4月19日に世を去った。」

 

偏屈で、孤独で、貧乏で、年老いたパースの顔が思い浮かびます。そして、パースの死後20年がたち、やっとパースの論文集が刊行されたそうです。こういう話に接しますと、何故か親近感を覚えてしまいます。この点はおくとしても、私はソシュールよりもパースの方が面白いと思います。

 

ところで、以前の原稿でパースが「人は、記号である」と述べたことに触れました。この点、パースのロジックは次のようなものだったようです。

 

われわれは記号を使わずに思考する能力を持たない。全ての思想は記号である。
全ての思想は記号であるという事実と、人間の生活は思想の連続であるという事実から、ゆえに人間は記号であるということが証明できる

これを図式にしてみましょう。

 

思想(A)=記号(B)
人間(C)=思想(A)
よって、人間(C)=思想(A)

 

これは論理学上の“演繹”でしょうか。論理的に破たんはしていませんが、本当にそうかなと思われる方が多いことと思います。結論は急がず、先に進みましょう。

 

パースの記号学においては、“記号過程”という概念が提唱されています。パースは「われわれの認識と思考を本質的に『記号過程』としてとらえ」ていたのです。“私たちが記号を通じて何かを認識し思考するプロセス”が記号過程である、と言い換えても良いと思います。そしてパースは、記号過程は次の3つの要素から成り立っていると考えました。

 

(1)記号として働く何かある性質をもったもの
(2)その記号が表意する対象
(3)記号とその対象を関係づける解釈思想

 

上記の3要素は三位一体となっていて、一つでも欠けた場合に記号過程は成立しないとパースは言っています。もう少し、中味を見ていきましょう。まず、(1)については、とりあえず、“記号”であると考えて良さそうです。(2)については、「表意」とは何かという問題があります。この点、本文献の著者である米盛氏は、次のように解説しています。

 

「表意する」とは目のまえにあるものによって目の前にないものに言及すること

 

そうしてみると、例えば「昨日、パスタを食べた」という発言があった場合、目の前にないものとはパスタであり、発言に含まれるパスタという言葉が記号であることになります。よって、(2)で言及されている対象というのも、この場合、パスタであることになります。しかし、この発言を聞いた人は、そのパスタがどんなものだったのか、すなわち味付けがどうで、茹で加減がどうで、ということまでは分かりません。そこでパースは、「記号のうちにその姿を現わす限りのことしか」認識することができない、と述べています。例えば、雷鳴が響く。私たちは、雷だ、怖いなと感じる。しかし、私たちは雷の実体を認識することはできず、音として聞こえる雷鳴、すなわち記号が表わす範囲内のことしか認識できないということです。そこでパースは「存在と記号は同義であり、存在はすなわち記号であり思想である」と述べるのです。これはとても観念的な考え方だと言えます。

 

そして、(3)の解釈思想についてですが、これは「記号が記号であるためにはそれを記号として解釈し使用するなんらかの解釈思想が存在しなければならない」と説明されています。すなわち、単語の意味や文法など、日本語を理解する素養を持った人でなければ、日本語を理解することはできません。そのような記号を解釈するために必要な、話し手と聞き手に共有されているルールのようなものが“解釈思想”であることになります。これは、ソシュールが述べた“ラング”という概念に近いものと思われます。

 

注)本文献におきましては、上記の“解釈思想”という用語と“解釈内容”という用語が用いられています。これら2つの用語は、厳密には意味が異なるようにも思われます。英語表現は、次の通りです。

解釈思想・・・the interpretative thought of a sign
解釈内容・・・interpretant

 

いずれに致しましても、パースの記号過程という概念は、簡単に次のように記すことが可能かと思われます。

 

(1) 記号
(2) 記号が指し示す対象
(3) 解釈者が記号を理解するために要求される素質

 

そして、パースは次のように述べるのです。

 

「すなわちすべての認識と思考は記号過程であり、記号過程は本質的に連続的過程である」

No. 163 カント以降の思想家たち

 

箱根の組木細工を見て物質文化の存在を確信した私は、精神文化と物質文化の中間辺りに、もう一つ文化があることを直観したのでした。そして、それは一般に表象文化と呼ばれているものではないか。そこまで来たのですが、では表象とは何か、手っ取り早く分かる文献はないかと探したのですが、ない。それは長い思想史の中で、哲学的な論題として語られてきたようだ。そして、この問題はカントにまで遡る。よし、ではカントの純粋理性批判を読もう。ということで、私は筑摩書房が出版している石川文康氏が翻訳している版を上下巻ともに購入したのでした。上下巻を合計すると9100円(税別)もしたのです。これは何としても、読破しなければならない。そう勢い込んで読み始めたのですが、難しい。マーカーで線を引きながら読むのですが、どうも頭に入って来ない。後戻りして読み返してみる。ノートを取りながら読んで見る。何故、分からないのか。そうだ、単語の意味が分からないのだ。ということで「哲学中辞典」(知泉書館)(税別5200円)を買ってみました。これは便利! そして、言葉の意味を確認しながら純粋理性批判を読んでおりますと、こんな文章に行き当たったのです。

 

「認識が対象に直接関係するのは直観を通してであり、手段としてのあらゆる思考が向かう先も直観である。」

 

「ある対象が観念能力に及ぼす作用は感覚である。」

 

これって、どこかで聞いた話に似ている。直観、思考、感覚。そうです。これにあと感情を加えると、正にユングのタイプ論になるのです。まさかと思って、夜中に古い本を取り出して見たのですが、やはりそうでした。ユング自伝 I (みすず書房)に、次の記述があったのです。

 

※ 文中の「彼」とは、ショーペンハウアーを指しています。

 

「私は彼をもっと徹底的に研究することを余儀なくされ、次第に彼とカントとの関係に感銘をうけるようになった。私はそれゆえ、この哲学者の著作、中でも『純粋理性批判』を読み始め、それは私を難しい思索に陥らせた。(中略)(カントは)より大きな啓示を私に与えたのであった。」

 

すなわち、ユングはまずショーペンハウアーに興味を持った。そして、ショーペンハウアーが、カントから影響を受けていることを知る。そしてユングはカントの「純粋理性批判」を読み、それはユングにとって、啓示を受ける程の出来事だった訳です。まさか、分析心理学のユングが、カントから影響を受けていたとは、知りませんでした。

 

カント → ショーペンハウアー → ユング

 

一方、記号学のパースは、カント哲学の権威として知られています。そしてパースは、ヘーゲルからも影響も受けています。

 

カント → ヘーゲル → パース

 

何だか、学問の分野を超えて、つながっているんですね。してみると、ある思想家を考える時、その人の系譜みたいなものを考えると、理解が進むような気がします。まずは、一覧にしてみましょう。生年順で並べてみます。

 

カント           哲学       1724 ~ 1804
ヘーゲル          哲学       1770 ~ 1831
ショーペンハウアー     哲学       1788 ~ 1860
ダーウィン         進化論      1809 ~ 1882
パース           記号学      1839 ~ 1914
ニーチェ          哲学       1844 ~ 1900
ソシュール         言語学      1857 ~ 1913
ユング           分析心理学    1875 ~ 1961
柳田国男          民俗学      1875 ~ 1962
今西錦司          自然学      1902 ~ 1992
レヴィ=ストロース     文化人類学    1908 ~ 2009
ミシェル・フーコー     ポスト構造主義  1926 ~ 1984
リチャード・ドーキンス   進化生物学    1941 ~ 存命

 

こうしてみると、ちょっと面白いですね。ユング柳田国男が同じ年に生まれている。皆さん、大体長生きしているようです。レヴィ=ストロースの101才が最長でしょうか。自殺したニーチェは、享年56才のようです。

 

思想家と呼ぶのはちょっと違うかも知れませんが、ダーウィンも入れてみました。その前と後とで宗教観が違っているのではないか、と考えたからです。カントもヘーゲルも、神の存在を信じていたようです。ダーウィン以前の時代のことですから、当然のことだったのでしょう。進化論の関係では、ダーウィンがいて、孤高の存在としての今西錦司がいる。そしてダーウィニズムは、リチャード・ドーキンスに継承された。ドーキンス無神論者になったのも頷けます。

 

文化人類学的な系譜を見てみますと、生まれた年で言えば、民俗学柳田国男が最初ということになります。

 

構造主義を軸に見ますと、まず、ソシュールがいた。ソシュールと言えば「一般言語学講義」というのが有名ですが、これは彼の著作ではありません。これは、ソシュールの死後、ソシュールの講義を受講した学生のノートなどをベースに再現されたものです。ソシュールの着眼点を受け継いだのが、構造主義と呼ばれたレヴィ=ストロースです。しかし、レヴィ=ストロースに反対する人も少なくありませんでした。アンチ構造主義、アンチ・レヴィ=ストロースの人たちが沢山いて、ポスト構造主義と呼ばれるようになった。ミシェル・フーコーもその一人です。この人も表象について語っているので、リストに入れてみました。

 

ソシュールの専門は、記号論と呼ばれる場合もあります。しかし、ソシュール記号学のパースとの交流はなかったようです。2人とも、世間から評価を得たのは、死後のことなのです。パースの論文集は、死後20年たってから公表されました。

 

いずれに致しましても、哲学、論理学、言語学記号学、心理学、進化論、文化人類学などは、その根底で繋がっている。

 

仮に、全部をひっくるめて「思想」と呼ぶことにしましょう。思想というのは、必ずしも、ある方向に向かって一直線に進歩してきたのではないように思います。それは、あたかもダーウィンが唱える自然選択のようであり、無方向にいくつも芽が出て、多くの賛同を得たものがその後に継承されていく。そんな気がします。

No. 162 箱根の組木細工

 

このブログの開始当時、私は、文化と科学を対立概念として捉えていました。「文化は科学に敗北したのか」という原稿も書いております。その後私は、言葉、呪術、祭祀、宗教などの精神文化に関する検討を終えました。そして、ぼんやりと「精神文化というのは目に見えないのが特徴だが、例外的にそこから派生する呪術の産物(藁人形、テルテル坊主、折り鶴など。今後は「呪術物」と呼びます)や芸術作品というものがある」と考えていたのです。そんなある日、テーブルの上にあった楊枝立てが目に止まったのです。

 

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これは、私が箱根に遊びに行った時に購入したものです。埃が入らないので、気に入って使っています。さて、問題はここからです。これは文化だろうか? この楊枝立ては、目に見えているし、触ることだってできる。しかし、呪術物ではないし、芸術作品でもない。確かに木材を丁寧に組み合わせてあって、綺麗な感じがします。しかし、芸術作品とは違う。何が違うのだろう? そうか、芸術作品とは違って、これには楊枝を保管しておくという機能がある。では、これは文化の産物だろうか。少なくとも、科学の産物ではないような気がする。

 

そこで、私はある仮説を立ててみました。この楊枝立ては目に見えているが、このモノ自体が文化なのではなく、その作り方が文化なのだ。そう考えますと、作り方というのは目に見えないので、一応、当時の私のロジックに合致するように思えます。

 

しかし、仮に作り方が文化だとすれば、例えばゴッホの絵は文化ではなく、ゴッホの絵の描き方が文化である、ということになります。では、ゴッホの描いた“向日葵”と“麦畑”の描き方がどう違うのか、説明できるだろうか。もちろん、そんなことはできません。やはり、芸術の本質というのは、その作品にある。

 

このように考えた結果、私は初めて“物質文化”の存在を認識したのでした。

 

その後、ネットで調べてみますと“物質文化”という概念が一般に存在することを知りました。しかし、そこには「物質文化は、芸術作品などを含む」という記載があったのです。そんな馬鹿なことがあるだろうか。例えば、壊れた傘を捨てるように、あなたは誰かがあなたのために折ってくれた千羽鶴を捨てることができるでしょうか。物質文化の産物(今後は、「文化物質」と呼びます)というのは、その機能が失われた時に価値をなくす。しかし、呪術物や芸術作品の価値というのは、機能にその本質がある訳ではない。本質の異なる2つの要素を同じカテゴリーに分類した場合、そこから導かれる結論も間違っているに違いありません。

 

そうしてみると、精神文化、物質文化とあって、もう一つ、第三の文化カテゴリーというものを想定せざるを得ないということに気付いた訳です。更にネット検索を続けますと“表象文化”というものが見つかった。私には、これが第三の文化類型であるように思えるのです。しかし、“表象”(representation)とは何かというのが、なかなか分からない。どうやら、この“表象”とは哲学用語で、その起源はカントにあるようなのです。ということで、カントの純粋理性批判を読んでみることにしました。ボリュームのある本なので通読できるか、自信はありませんが・・・。

 

余談ですが、昨日、「パースの記号学」という本を読み終えました。追って、感想などを記します。

No. 161 記号で読み解く日馬富士関暴行事件

前回の原稿では、文化を4つのステップで考えてみましたが、これは時間の経過をベースにした見方ですね。一方、(記号+〇〇)というのは、ただ、現在生きている文化を類型化したものです。こちらの方が、単純で分かり易いかも知れません。

 

ところで、将棋の世界では羽生善治さんが永世7冠を達成されました。大変な偉業だと思います。羽生さんは一体、何手先位まで読んでいるのでしょうか。凡人の私には、想像もつきません。そう言えば将棋というのは(記号+ルール)だなあと思ったりします。また、羽生さんと違って、私はPCやタブレットで将棋を楽しんでいます。いくらやっても上達はしませんが、何度でも“待った”を掛けられる。王手飛車取りが掛かったりしますと、画面を消してしまいます。本当の将棋というのは、負けると大変悔しいものですが、将棋ソフトに負けても、あまり悔しくはありません。これは何かに似ています。少し前の原稿で、最近の回転寿司などでは、作り手の顔が見えにくくなったということを書きましたが、私の場合、将棋を指していても、相手がいないんですね。相手がいないから、負けても悔しくない。悔しくないから、あまり意味がない。意味がないから、上達しない。そういうことかも知れません。

 

記号とは何かというと、それだけで膨大な論議があります。当面、このブログでは「人間が認知するシグナルのようなもの」ということにしておきましょう。

 

また、意味とは何かと考えますと、これがまた抽象的で良くは分からないのです。言語学では、言葉が表す意味を細分化する試みがなされたようですが、未だ、結論には至っていない。このブログでは「実体と、記号と、自分との強いつながり」というニュアンスでこの言葉を使っております。

 

さて、(記号+〇〇)という見方をしておりますと、元日馬富士関の暴行事件なども、見えてくるものがあります。ワイドショーなどによりますと、概ね、経緯は次の通りだったようです。

 

1 1次会の席で、白鵬関が貴ノ岩関に説教をし、日馬富士関は貴ノ岩関をかばった。
2 2次会の席で、再び白鵬関が貴ノ岩関に説教をした。貴ノ岩関はスマホをいじった。日馬富士関は、平手で貴ノ岩関を殴った。
3 貴ノ岩関が日馬富士関をにらんだ。少なくとも、日馬富士関はそう感じ、リモコンで貴ノ岩関の頭部を殴り、負傷させた。
4 日馬富士関は後日記者会見の席で、貴ノ岩関を「弟弟子」であると発言している。

 

大体、こんなところでしょうか。してみると、日馬富士関は同じモンゴル出身の貴ノ岩関との強い関係を認識していた。すなわち、日馬富士関にとって貴ノ岩関は(記号+意味)という存在だったのではないでしょうか。しかし平手でなぐった際、貴ノ岩関がにらみ返して来たと日馬富士関は主張している。これが、貴ノ岩関が発した記号だったと思うのです。たったそれだけの記号によって、日馬富士関は理解したのだと思います。すなわち、自分はこれだけ大切に思っているのに、貴ノ岩関の方は、自分のことを何とも思っていない。そこで、切れてしまったのではないか。

 

そもそも、貴ノ岩関は日馬富士関の「弟弟子」には当たらないと思います。両者は、所属している部屋が違います。それを「弟弟子」と言うところに、日馬富士関の強いつながりを求める心情を感じます。なんだか、フーテンの寅さんに似ていますね。憎めない人なんですが、他人との強いつながりを求め過ぎてしまう。

 

そして、貴乃花親方が登場します。どうやら、貴乃花親方の相撲観というのは、日本の伝統に従っているようです。相撲というのは、単なるスポーツではない。元来、相撲は五穀豊穣などを願って、神様に祈りを捧げる儀式だった。すなわち、貴乃花親方の相撲観は(記号+意味)なんだと思います。対する白鵬の相撲観は、(記号+ルール)なのではないでしょうか。

 

本場所が終わって、一行は巡業に出ます。そこで白鵬が着ていたジャージの背中に“モンゴリアン・チーム”とプリントされていて、これまた物議を呼んだ訳ですが、これは(記号+アイデンティティー)ですね。

 

ところで、ワイドショーが取り上げる話題には、共通点があるように思います。ちょっと前には、小池劇場というのがありました。その前には、森友学園の籠池劇場というのもありましたね。多くの視聴者にとって、これらは身近な問題ではありません。すなわち、大した意味はない。だから、気楽に楽しめる。また、キャラが立っていると言いますか、個性的な人物が次々に登場して来るんです。また、「これからどうなって行くんだろう」というワクワク感もある。これはどうやら、エンタメの1ジャンルとして認めても良いのではないか。キャラクター(記号)が沢山出て来て、ストーリーを展開していく。(記号+ストーリー)でいかがでしょうか。

 

北朝鮮の問題も、頻繁に報道されてきました。これもかつては(記号+ストーリー)として、結構多くの人たちが楽しんでいた。ところが、ミサイルが日本の上空を通過した頃から現実味を帯びて来て、(記号+意味)に変わったような気がします。

 

No. 160  4つのステップで文化は説明できる?

前回までの原稿で取り上げました「文化進化論」という文献は、私と考え方が異なっておりましたが、それでも大変勉強になりました。また、文化を情報であると定義したのは、ある程度、研究対象を限定しないと科学的な検討ができない、という理由からだったものと推測します。

 

また、前回の原稿で、私の家にあるものは全て、何らかの機能を持っていると書きました。これはこれで事実なのですが、世の中には明確な機能を持っていない文化の産物というものもあります。1つには、てるてる坊主や折り鶴など、呪術的な行為の産物。2つ目としては、絵画や彫刻などの芸術作品。

 

さて、いろいろヤヤコシイ言葉が出て来て恐縮ですが、シンプルに考えますと文化というのは、たった4つのステップで説明することが可能なのではないか、ということに思い当たりました。すなわち・・・

 

Step 1: 私たちが生きている世界はどうなっているのか

Step 2: 私たちは何者なのか

Step 3: 私たちが世界とのつながりを求める試み

Step 4: つながりを求めた結果としての物質文化

 

では、簡単にご説明致します。

 

Step 1: 私たちが生きている世界はどうなっているのか

昔から今日に至るまで、この問題は人々の関心事であったはずです。古代人は、まず、言葉を発明して身の回りの自然に名前を付けた。すなわち、自然を記号化した。更に、その言葉を使って物語(神話)を作った。すなわち仮説を立てて、様々な自然現象を説明しようとした。その集大成のようなものが、旧約聖書だと思います。天地創造の物語ですね。これは、大区分としては、精神文化に該当します。また、現代人である我々からしてみれば、ちょっと荒唐無稽な印象を受ける訳ですが、これらの神話を作った人々の精神構造を考えますと、論理的な思考が働いていたのではないかと思うのです。今日におきまして、人間の関心事は拡大し、宇宙の探査に乗り出している。これも、長い目で見れば、同じような試みではないでしょうか。このStep 1を単純に表しますと、(記号+論理)ということになります。

 

Step 2: 私たちは何者なのか

これも人類にとっては、普遍的な課題だと思います。そこで、古代人は自分達をグループに分けた。1つには、トーテミズムがある。例えば、イワム族のオオトカゲグループのようなものができる。職業別の区分などもあります。例えば、「俺はオオトカゲグループの兵士だ」ということになれば、一応、彼のアイデンティティーが確立されます。大区分としては、これも精神文化ということになります。このStep 2を単純に表しますと(記号+アイデンティティー)ということになります。

 

Step 3: 私たちが世界とのつながりを求める試み

人間が、自分の内心をなんとか現実世界において、形にしたいと望むのは、自然なことです。そこで、最初に登場したのが呪術だと思うのです。「あの人だけは許せない!」などと思って、藁人形を作る。「明日は晴れてもらいたい」と思って、てるてる坊主を作る。折り鶴も同じですね。人の内心が形になって現れたもの。これが呪術の産物だと思います。呪術はやがて洗練されていき、芸術が産まれたのではないでしょうか。ゴッホの絵画には、ゴッホの願いが込められている。大区分で言いますと、これは表象文化だと思うのです。呪術、芸術に関する表象文化を簡単に記しますと(記号+意味)ということになります。人々の強い願望、それが意味だということです。

 

しかし、表象文化には、他の種類もある。いわゆるエンタメと呼ばれるジャンルです。エンタメの本質は、自分の知らない世界であったり、架空の世界を作り出すことではないでしょうか。1つには、スポーツなど、(記号+ルール)というパターンがあります。2つ目としては、例えばディズニーランドのような(記号+イメージ)というパターンも想定されます。

 

Step 4: つながりを求めた結果としての物質文化

これはもう、あまり説明の必要はないかも知れません。大区分としては、物質文化で、簡単に記しますと(記号+機能)ということになります。

 

とても1回の原稿では説明し切れませんが、現在私が考えております文化の構造というのは、上記の通りです。大区分としては、精神文化、表象文化、物質文化の3種類があって、それを少し細かくすると上記の通り4つのステップで説明できる。これを略号で一覧にすると次の通りとなります。

 

(記号+論理)

(記号+アイデンティティー)

(記号+意味)

(記号+ルール)

(記号+イメージ)

(記号+機能)

 

全部で6つですね。なんとか、形が見えて来ました。もう少し、記号論表象文化論を検討する必要がありそうですが。

No. 159 文化進化論とは何か(その2)

本文献における一つの山場は、進歩と進化という点にあるようです。

 

まず、進歩の方から。19世紀のアメリカにルイス・ヘンリー・モーガンという人類学者がいたそうで、この人は「あらゆる人間社会が経てきた、あるいは今後経ることになる、7つの段階を提示したそうです。それは、次のようなものでした。

 

野蛮な状態・・・低位、中位、上位

未開の状態・・・低位、中位、上位

文明社会

 

そして、欧米の社会こそが文明社会であって、他の地域は野蛮若しくは未開であると位置付けたのでした。このような考え方は、当時の人種差別主義や植民地主義に理論的な基礎を与えることとなります。20世紀に入りますと、このような考え方は嫌悪の対象となります。(レヴィ・ストロースが果たした役割というのも、この辺りだと思われます。) そして「今日、多くの人類学者や社会学者が、新たな文化進化論の構築に慎重なのは、それが、科学的に疑わしい、政治的動機を持つ19世紀の文化進化論とつながっていると誤解されているからだ」ということになります。

 

生物学における進歩の概念には、次の特徴があります。

 

1 獲得形質は、遺伝する。(例: 体を鍛えて筋肉を増強した人の子供は、筋肉質になる。)

2 生物は段階的に複雑さを増し、累進的に進歩していく。

 

上記の考え方は、ダーウィンとそれに続くネオ・ダーウィン的な人々によって、否定されます。ちなみにダーウィンは遺伝子の仕組みまでは理解していなかったそうで、この点はネオ・ダーウィンの人々が解明したそうです。ダーウィンの進化論は、変異、生存競争、遺伝の3要素で成り立っているそうですが、これに加えネオ・ダーウィンの人々は、進化について、次の特徴を指摘したそうです。

 

1 獲得形質は、遺伝しない。

2 変異は無目的に起こる。

 

そこで本文献では、問題に直面するのです。では、文化は進歩するのか進化するのか。本文献は、蒸気機関の例などを挙げ、文化が進歩する可能性を指摘しています。結論は曖昧で、次のように記されているのです。「文化進化は場合によっては意図的に導かれ、その点において生物の進化とは確かな違いがあるということを、受け入れる心づもりをしておくべきだ」。

 

そもそも、「文化の進化はダーウィニズムによって説明できる」というのが本文献の基本スタンスな訳で、「文化は進化ではなく、進歩する場合がある」という上記のコメントには、著者の並々ならぬ苦渋が感じられます。

 

そこで、私の所感を述べさせていただきます。そもそも、本文献においては文化を情報であると定義している。そこに問題があるのではないかと思うのです。文化とは、もっと複雑だと思うのです。例えば、精神文化と物質文化がある。そして、その中間に位置する文化領域がある。もしかすると、私が便宜上、中間文化と読んだものが、世間では表象文化と呼ばれているのではないか。(この点は、今後の課題です。)

 

例えば、物質文化について考えてみましょう。私の眼前のテーブル上には、文化的な物質が沢山あります。そして、驚いたことに、その全てが何らかの機能を持っているのです。例えば、腕時計、灰皿、ハサミ、テレビのリモコンなど。逆に言えば、私の家の中には、機能を持っていない物体は、1つもありません。物質文化と言いますか、文化的な産物と言った方が良いかもしれませんが、これらの本質の1つには、機能ということがある。しかし、それだけではない。それぞれの物体が、何らかのイメージと言うか、主張のようなものを持っている。それは、色彩、形状、大きさなどによって表現されているのです。例えば、私の腕時計はシチズンのEco-Driveというものです。決して高級ではありませんが、最先端の技術を使っているんだぜ、というような主張をしています。このように、文化的な産物というのは、機能とイメージ(暫定的にこう呼ばせていただきます)の2つの要素から成り立っている。そう考えますと、機能の方は確実に進歩している。他方、イメージ(色彩、形状、大きさなど)は、進化している。すなわち、いろんなパターンが無目的に製造され、消費者が選択したものが流行する、ということではないでしょうか。

 

精神文化と物質文化は、ある程度分かってきたような気が致します。あとは、表象文化が分かれば、私なりの文化論ができあがるような気がしています。