文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 174 長野県白馬村の写真

写真というのは、確かに大変な力を持っている。例えば、言葉で「その日は雲一つない晴天で」などと言われても、本当だろうかという気がします。しかし、例えば、次の写真をご覧いただければ、全てをご了解いただけると思うのです。

 

f:id:ySatoshi:20180127181636j:plain

 

撮影場所は長野県白馬村で、そこに八方尾根というスキー場があります。撮影日は、2015年10月15日。スキーシーズンは、まだ始まっていません。撮影者は私で、使用カメラは、どこにでも売っているような1万円程度の安物です。それでも、これだけの画像を記録できる所が凄いような気もします。ちなみにこのカメラ、未だに壊れていません。

 

さて、リフト小屋に五輪のマークが付いていますね。これは以前、長野県で冬季オリンピックが開催された時のものだと思われます。もう色褪せていますが、それはそれで風情があります。中央に老夫婦が写っていますが、微妙に距離を置き、2人が見ている方向も少し違うようです。そこら辺が、絵になる。いえ、写真になると思うのです。これが若いカップルで手でもつないでいようものなら、私はシャッターを押さなかった。ヴラマンクの絵に出てきそうなカップルだと思うのですが、いかがでしょうか。

 

人は、心の中に理想的な風景などのイメージを持っていて、そのイメージを現実に追い求めて、旅に出る。そのイメージというのは、子供の頃に実際に見た風景であったり、何かの写真で見た場所だったりするのだと思います。写真に写っている老夫婦のどちらか一方の方が、このような山の風景を心の中にイメージとして、持っておられたのではないか。そして、この場所へやって来た。そんな気がするのです。

No. 173 人々を突き動かす心的イメージ

 

少し、ブログ更新の間が空いてしまいました。この間、日本は寒波に襲われ、草津では火山が噴火しました。皆様は、無事にお過ごしでしょうか。

 

私はと言うと、相変わらずビートルズを聞き、風呂上がりのビールを楽しんでおりました。昨日は、ちょっと駐車場の雪かきをしたのですが、そのせいか今日は若干の筋肉痛です。カントの純粋理性批判も少し読み進めてはいたのですが、中々、進みません。とにかく難しい。この人、本当に自分でも分かった上で書いているのだろうか、などと思う訳ですが、どう考えても、カントと私では勝負にならない。それにしても、世の中に楽しいことは山ほどあるはずなのに、何故、私はこんな七面倒くさい本を読んでいるのだろう。そもそも、良くも分からない本を読み続けることに意味はあるのか。そういう訳で、カントは少し先送りにすることとして、一昨日から、ミシェル・フーコーの「言葉と物」という大変興味深い(?)タイトルの本(文献1)を読み始めました。この本には、例えば次のような一節があります。

 

「記号に語らせてその意味を発見することを可能にする知識と技術の総体を解釈学と呼び、記号がどこにあるかを見わけ、それを記号として成り立たせているものを規定し、記号同士のつながりと連鎖の法則との認識を可能にする知識と技術の総体を、記号学と呼ぶことにしよう。」

 

こちらも決して簡単ではありませんが、こういう話であれば私にも理解できる。少なくとも、カントよりは平易だと感じるのです。同じフランス人ということもあって、フーコーは少しソシュールに似ているような感じもします。例えば、「言語」という日本語に「ランガージュ」とルビが振ってある。確か、(ランガージュ=ラング+パロール)だった。従って、厳密に言えば(言語=ランガージュ)ではない。翻訳者も大変だな、などと思うと少し親近感が沸いて来たりもします。(詳細はこのブログのNo. 155)

 

ところで、私は以前、バイク(オートバイ)に乗っていました。40年前には、スズキのGT250、20年前には同じくスズキのバンディット400。だから、私にはバイクの魅力が分かるのです。走り込んでいくと、エキゾーストパイプが虹色に光ってくる。街中でそんなバイクを見ますと、未だに「いい色に焼けてるなあ」などと思ったりします。懐かしさもあって、YouTubeでバイクの動画を見たりしていたのですが、これが実に面白い。

 

昔は、最大級のバイクと言えばナナハンだった訳ですが、最近は国産でも1300CCが出ています。また、かつてバイクの最高速というのは200キロ位だったと思うのですが、今のバイクは、市販のものでも300キロは出るんですね。そして実際に300キロで走るバイクの映像が沢山ある。しかも、カメラの小型化や技術が進歩していて、最近は簡単に運転手の視線で、動画が撮影されているのです。これはもう臨場感が凄い。あたかも、自分の運転するバイクが時速300キロで疾走しているような感覚が味わえるんです。流石に国内の動画で300キロ出している場所はサーキットですが、海外の動画では高速道路などを走っているものもある。改造バイクで時速400キロを記録した動画もある。怖いですね。想像しただけで、膝が震えてきそうです。

 

バイクの動画と言っても、内容はいろいろあって、例えば、評論家の「試乗インプレッション」というのもある。ここの部品がどうだとか、トルク性能がどうだとか、説明する訳です。こういうのも、何となく、見ていて楽しい。また、バイクの運転技術という意味では、やはり白バイの人たちが凄い。やみくもにスピードを出すのではなく、状況に応じて、バイクをコントロールしているんですね。

 

小柄な女性が倒れた大型バイクを起こせるか、という問題もあります。結論から言えば、起こせます。コツがある。そういうコツを教えてくれる動画というのも、結構あります。例えば、動画に身長150センチ弱の女子高生が登場する。まだ、免許は持っていないが、いずれはバイクに乗りたいと思っている。やってみると、彼女が一発でバイクを起こしたんです。ユーチューバーがインタビューする訳ですが、どうやら彼女の父親がバイク好きらしいんです。「免許を取ったら、どんなバイクに乗りたいの?」と聞かれると、彼女は「SR!」と答える。これは単気筒のバイクで、相当なツウが好むタイプなんです。彼女はきっと、お父さんが好きなんでね。そして、お父さんが好きなバイクがSRなんです。

 

「初心者の女性が、免許を取りに教習所に通う」というパターンの動画もあります。その昔、私も教習所に通った訳で、そんな経験を思い出します。狭くて何の変哲もない、教習所のコース。しかし、通っている人たちにとっては、そこにクランクがあり、8の字があり、一本橋がある。そのような目で見ると、教習所のコースというのは、一つの世界を構築している。大体、彼女たちはエンストするのですが、経験した人には分かる。誰でも、最初はエンストするのです。ある動画では、立ちゴケし、坂道発進のできなかった女性が、研修が終わってカメラマンの元へ帰って来ると、泣き出してしまった。泣かなくても良さそうなものですが、しかし、彼女はそれだけ一生懸命やっていたということだと思います。一生懸命やっているのに、できない。何度もバイクを倒してしまった。坂道発進ではエンストしてしまう。そんな自分が不甲斐なく、涙がこぼれた。

 

それにしても、人は何故、そんなに苦労をしてまで、バイクに乗ろうとするのでしょうか。バイクに乗るって、大変なことなんです。免許を取るのもそうですが、もちろん、それだけではありません。バイクを買うには、相当なお金が掛かる。維持費だって、馬鹿にはならない。乗れば乗ったで、危険と隣り合わせです。冬は寒いし、雨の日もある。それでも、バイクに乗ろうとする人たちというのは、少なからずいる。

 

彼ら、彼女たちを突き動かしているもの。それは、心の中のイメージだと思うのです。ある理想的なイメージがある。それは、人によって違います。ある女子高生は、お父さんと一緒に走っているところをイメージしているかも知れません。ある青年は、時速300キロでサーキットを疾走することを夢見ている。テントを積んでのツーリングを夢見ているオジサンたちだっています。彼らが持っているイメージというのは、このように千差万別だと思うのです。だから、そのイメージの数だけ、バイクのタイプも無数にある。しかし、バイクに乗ろうとしている人たち、また、既にバイクに乗っている人たちの全員が、心の中にあるイメージを持っている。そして、この心的イメージの力というのは、相当に強いんだと思うのです。何しろ、何の義務もないのに、泣いてまで人を教習所に通わせる力を持っているのですから。

 

まず心の中に、ある理想的なイメージが生まれる。これは、身近にいる人の影響だったり、ちょっとした経験だったりする訳です。このイメージが心の中で、育まれていく。すると、ある時、記号としてのバイクが眼前に現れる。そして、人々はその記号であるバイクと自分との関係を考える。自分に乗りこなせるだろうか。購入代金を支払えるだろうか。そして、衝動が現実的な制約にまさった場合、人は行動に移す。

 

この心的なイメージは、言葉になる以前の、ある心の状態だと思います。「何でバイクに乗ろうと思ったの?」 よく尋ねられる質問です。しかし、これは言葉以前の問題なので、人によっては、うまく答えられない場合がある。しかし、答えられなかったからと言って、その人が理想的なイメージを持っていない訳ではない。

 

記号原理に照らして言えば、この心的イメージは、記号が指し示すもの、すなわち「対象」という概念に含まれます。

 

対象・・・心的イメージ
記号・・・バイク
意味・・・衝動の強さと現実的な制約
行動・・・バイクに乗る。(または乗らない)

 

しかし、このことはバイクに限ったことではないように思います。例えば、旅行。あるイメージがあって、そのイメージに合致するような場所を、人は探し求めて旅に出る。食べ物もそうですね。ある理想的なイメージを追い求めて、人は蕎麦打ちに没頭したりする。

 

誤解を恐れずに言ってしまいますと、私は、キリスト教の構造というのも、実はこの原理によって、説明できるのではないかと思っています。まず、心的なイメージがある。これが、神の概念であり、天地創造の物語としての旧約聖書ではないか。そして、人々に認知され得る記号としてのイエス・キリストが誕生する。キリストは、その人生や発言、そして何よりも十字架という記号によって、人々に認知されてきた。そして人々は、心的なイメージとしての神と、自分たちとの関係をキリストの発言や人生を通じて考えた。それが新約聖書だと思うのです。そして、礼拝や懺悔などの宗教的行動につながる。

 

対象・・・旧約聖書
記号・・・キリスト
意味・・・新約聖書
行動・・・信仰

 

だから、聖書は新旧の2つあるのだと思うのです。

 

結局、今回もまた記号原理の話になってしまいました。しかし、この原理は、私たちの人生そのものを説明しているような気がするのです。人々が、経済的な理由やエゴイズムによらず、自発的に行動する場合、その背景には心的なイメージがある。そこから出発して、その理想的なイメージを現実化しようと試みる。しかし、成功する場合というのは、ほとんどない。99%、そのイメージを現実のものとして体験できることはない。仮に現実化できたとしても、記号鮮度は落ちて行き、人々は別のイメージを持つようになったりする。大好きだった人と恋人同士になれたとしても、やがて恋は冷めたりする。宝くじに当たった人が、意外と不幸だったりする。それでも、心的なイメージの現実化を目指す。それが人生だとするならば、より多くの心的イメージを持って、チャレンジし、意味を考え、行動した方が良い。記号原理は、私たちにそう教えてくれているような気がします。

 

(参考文献)
文献1: 言葉と物/ミシェル・フーコー/新潮社/1974

No. 172 命名、記号原理

対象、記号、意味、行動の4要素で、人間の認知・行動システムと多くの文化的事象を説明することができる。そして、これらの4つの要素は、いずれが欠けても、そのシステムや文化的事象は完結しない。私の知る限り、このような考え方を提唱した最初の人物は、私なのです。従って、私にはこの考え方に名前を付ける権利がある。そこで若干、僭越な気がしないでもありませんが、この考え方を「記号原理」と呼ぶことにしました。もちろん、記号過程という考え方を提唱したパースには、敬意を表しつつ。

 

しつこいようで恐縮ですが、例えば将棋。将棋の駒というのは、記号ですが、それが表している対象は、中世の「戦さ」なんです。歩兵がいて、王将が取られると負けになる。記号に意味を与えるのがルールですね。だから、人々は、将棋を指す。

 

対象・・・戦さ

記号・・・駒

意味・・・ルール

行動・・・将棋を指す

 

私にとっては不得手な分野ではありますが、記号原理によって、恋愛も説明できます。若い人たちは、心の中に恋愛対象についてのイメージを持っている。そして、誰か異性が現れる。異性は、その仕草や服装、アクセサリーや行動など、シグナルを発している。これが記号ですね。それらの記号が自分の心的イメージに合致していた場合、若者はその異性と自分との関係をなどを考える。これは運命の出会いかも知れないなどと考えますと、恋愛が成立する訳です。

 

対象・・・理想のイメージ

記号・・・異性の発するシグナル

意味・・・ドラマチックな出会いなど

行動・・・恋愛関係になる

 

しかし、ここで一つ付け加えておくべきことがあります。それは、生鮮食品などと同じように、記号にも鮮度というものがある。これは、記号鮮度と呼ぶことにしましょう。どんなに若者を惹き付けた異性の記号も、時間がたつにつれ、その鮮度が落ちてくる。飽きてくるんですね。よく、ラブソングの歌詞に、あなたを一生愛し続けるというようなものがありますが、これは幻想だと思います。

 

余談はさておき、実は、以前から書こうかどうしようか迷っていた話があるのですが、今回、書いてみることにしました。

 

もう、数年前の話です。クルマでは走りなれた道なのですが、その日、私は歩いていたのです。その理由は、もう忘れました。十字路があって、その一角にはコンビニがある。横断歩道を渡って、数メートル行くと、電信柱があって、そこに小さな花束が立て掛けてあった。それは、花屋で買ったものではなく、誰かが野原で摘んできたもののように見えました。そして、花束の少し上の方に、張り紙があったのです。その張り紙は、風雨にされされ、もうボロボロでした。マジックで記された文字も霞んでいましたが、何とか読むことはできたのです。そこには、こう書かれていました。

 

「いつも娘のために有り難うございます。」

 

以上の事柄は、私が見た事実です。ここから先は、私の推測です。多分、その十字路で、交通事故があって少女が死んでしまった。その現場に居合わせたかどうかは分かりませんが、そのことをある人が知ることとなった。その人は、少女の霊をなぐさめるため、野の花を摘んでは、その電信柱に立て掛け続けた。ある日、亡くなられた娘さんの両親が、そのことに気付いた。きっと、自分達の娘のために花をたむけてくれているのだ。お礼を言いたいけれども、どこのどなたか知る由もない。そこで、電信柱に張り紙を張った。その人は、張り紙がボロボロになってもなお、花をたむけ続けている。

 

対象・・・少女の霊

記号・・・事故現場となった交差点

行動・・・花をたむける

意味・・・慰霊

 

アニミズムと言ってしまえば、それだけのことかも知れません。しかし、このようなエゴイズムとは無縁の、無為の行為に接し、私はただ電信柱の前に立ち尽くしたのでした。

 

 

以上

No. 171 人間と文化の仕組み

地上波のテレビ番組で「放送大学」というのがあるのをご存知でしょうか。先日、そこで「記号と人間」という大変興味深い(?)番組があったので、見てみました。優れた講義を再放送するというシリーズで、85とありましたので、多分、1985年に放送されたものだと思われます。また、アシスタントの女性の顔が、どことなく昭和の感じなんです。何故だろうと思ったのですが、一つには髪が黒い。そして、眉毛が太いんですね。昭和から平成に移って、日本女性の眉毛は細くなったのでしょうか。それとも、最近は細く見えるようにしているのでしょうか。私には、知る由もありません。

 

番組の中で哲学の専門家が、記号について説明されていました。イラストが出て来て、一つのキャラクターは地球儀に手足が生えている。これは、記号が表わす実体を意味しています。他方、記号という名のキャラクターも出て来ます。便宜上、記号君と呼びましょう。地球儀の隣に立っている記号君は、笑っています。講師の先生は、記号というのは何らかの実体を示していて、指し示す実体のある記号というのは、居心地がいいものだ、と言うのです。もう一枚イラストが出て来て、こちらの方では記号君が一人で、寂しげな顔をしています。先生曰く、指し示す実体を持たない記号というのもあるが、こちらの方は居心地が悪い。なんだ、私が考えていることは1985年当時、既に説明されていたのか、と一瞬思ったのですが、私はすぐに考え直したのでした。実体と言うから、それは確かに実在しない場合がある。例えば、幽霊のように。しかし、実体とは言わず、ここは記号が指し示す「対象」と言うべきだ。そして対象には、抽象的な概念や、心的なイメージを含めて考えるべきだ。そう考えた場合、記号には、常に指し示す対象があることになる。例えば、てるてる坊主にだって、それが指し示す心的なイメージがある。

 

やはり、人間の認知・行動システムを構成しているのは、対象、記号、意味、行動の4つであるに違いない。私は、この考えに取りつかれてしまったようで、当分、この考え方から抜け出すことができそうもありません。

 

そして、このシステムには、意味発見型と、意味創出型の2種類がある。

 

まず、意味発見型の典型として、ゴッホを例に考えます。ゴッホは、自然を愛していた。その事は、ゴッホが弟に宛てた手紙の中で、繰り返し述べられています。そして、ゴッホは自然の中に、あるシグナルを発するものを見つけていたのだと思うのです。それが、例えば星だったり、月だったり、向日葵だったり、麦畑の上空を飛ぶカラスだったりしたのだと思います。そして、それらのシグナルの中に、ゴッホは意味を見いだしていた。例えば、孤独感であったり、人間存在の本質であったりしたのだと思います。例えば、向日葵にしても、よく見るとそこにはまだ花びらをつけて咲き誇っているもの、枯れかけているもの、すっかり枯れてしまって、しかし、豊かな種を宿しているものなどが描かれているのです。これは、人間の一生を象徴しているようにも見えます。だから、その意味を噛み締めながら、ゴッホは絵を描くという行動を取ったに違いありません。

 

対象・・・自然

記号・・・星、月、向日葵、カラスなど

意味・・・孤独感、人生観など

行動・・・絵を描く

 

次に、意味創出型ですが、これは呪いの藁人形が典型的です。

 

対象・・・殺したいほど憎い人

記号・・・藁人形

行動・・・五寸釘を刺す

意味・・・呪い殺す

 

エレクトリック時代のマイルス・デイビスなどもこの例に当たると思います。この時代、マイルスは前衛的なジャズをやっていた訳ですが、分かる人が聞けば、マイルスの音楽には明確な心的イメージがあった。(疑う人がおられたら、是非、彼の「ビッチェズ・ブリュー」を聞いてみてください!)

 

対象・・・心的イメージ

記号・・・前衛的なジャズ

行動・・・即興演奏

意味・・・自由、共感、感動

 

お気付きの方もおられるとは思いますが、同じ4つの要素を並べてはいますが、意味発見型と意味創出型では、順番が少し違うのです。

 

意味発見型・・・対象+記号+意味=行動

意味創出型・・・対象+記号+行動=意味

 

言ってみれば、これがこのブログにおける一つの到達点だと言えそうです。これが、人間と文化の基本的な構造だと思うのです。但し、これは純粋に私のオリジナルという訳ではありません。人間の認知システムに関して、記号学のパースが提唱した「記号過程」という考え方があって、若干それを変更し、更に「行動」という要素を追加したものです。

 

また、上記の4要素を考えておりますと、それらのいずれが欠けても、このシステムが作動しない、成り立たないということに気づかされます。人間をブリキのオモチャに例えますと、このオモチャは4つの部品から出来上がっている。どの部品が欠けても、このオモチャは動かない。

 

例えば、北アジアに人々の病を直すシャーマンがいます。彼ら(彼女ら)は、鳥の羽などを使って、美しく着飾っています。それらの装飾品を使って、彼らは自らを記号化している訳です。行動というのは、もちろん病気を直すお祓いの儀式を指します。意味は、病気を直すということです。しかし、これだけでは、システムが作動しない。そこで、記号が指し示す「対象」が必要となる。そこで、「精霊」という概念が出てきたのではないか。彼らは、精霊の声を聞くのです。

 

対象・・・精霊

記号・・・着飾ったシャーマン

行動・・・お祓いの儀式

意味・・・病気からの治癒

 

これが、アニミズムの本質的な構造ではないか。そして精霊が、地域や時代によっては、神になった。

 

先日、犬型ロボットのアイボが発売されました。前にも書きましたが、人工知能を搭載した最新鋭のロボットというのは、動物や昆虫の形をしている。何故か。その理由も分かります。記号には「対象」が必要だからです。

 

対象・・・犬

記号・・・アイボ

行動・・・アイボとのコミュニケーション

意味・・・愛玩

 

興味深いのは、上記の認知・行動システムが、個人の行動から、集団で産み出す文化にまで当てはまるということです。例えば、ハチやアリなどの社会性の高い生き物を「真社会性動物」と言ったように記憶しているのですが、人間にも通じるところがあるのかも知れません。ハチなどは、あの小さな体ですから、複雑なことを理解しているとは思えません。それぞれの個体には、単純なメカニズムがインストールされているに過ぎない。しかし、個体が集まって集団となると、見事な幾何学模様の巣を作ったりする。

 

ところで、人間社会には、もちろん上記のシステムでは計り知れない物事というのも存在します。例えば数学や物理学などの自然科学。また、民主主義というのも、ロジカルな思想であって、上記のシステムでは説明できません。哲学者や科学者というのは、上記のシステムからの脱却を試みているのかも知れません。

No. 170 再考、てるてる坊主

何の変哲もないある1日に、人はクリスマスだとかいって、意味を付与し、特異な行動をとる。昨年の末にはそんなことを考えていたのですが、年が明けますと、また、合理主義では理解のできない事柄が発生したのです。

 

まず、門松。きっと、これにも何らかの意味があるのでしょう。そして、しめ飾り。私は、マンションに住んでいますが、ドアにこれを飾っておられる方が、意外にも多いのです。初詣では、商売繁盛の神社に人々が殺到したようです。そうこう致しますと、今度は晴れ着の会社が倒産したとかで、大変な騒ぎになっております。振り袖というのも、経済合理性から言えば、理解が困難な代物です。21世紀になっても、こういう物事というのは、無くならない。

 

ちょっと、祭祀と呪術の関係を整理しておきましょう。

 

祭祀・・・・人間集団の幸福を願う儀式や祭り

白呪術・・・自分の幸福を願うもの

黒呪術・・・他人の不幸を願うもの

 

こうしてみますと、縁結びだとか商売繁盛というのは、白呪術だと言えるのではないでしょうか。日本は、未だに呪術大国である、と言いたくもなります。

 

さて、少し前の原稿で、私は「てるてる坊主というのは簡単なもので、記号+行動=意味 という図式で説明できる」と書いたのですが、ある寝付かれない夜、本当にそうだろうか、という疑問が沸いて来たのです。何か、そこには寂しげな感じが致します。朦朧とする意識の中で、ふと私は呪いの藁人形を連想したのです。まさか、そんなことがあるはずはない。しかし、東北のある地方では、こけし水子供養に使われていたという話もありました。これは深沢七郎の小説にそんな話があったのです。この3例は、いずれも人形が呪術に使用されるという点で、共通しています。

 

翌日、ネットで検索した所、てるてる坊主にもその起源となる神話の存在することが分かりました。まず、A説。昔の中国の話です。雨が降り続いて、人々は困っていた。すると天から声が聞こえた。「その美しい娘を差し出せば晴れにするが、差し出さなければ都を水没させる」そこで、人々は晴姫という少女を天に捧げたというのです。以後、晴姫を偲んで、てるてる坊主のようなものを軒先に吊るすようになった。次にB説。昔の日本で、雨が降り続き、困っていた。そこで、晴れにできるという評判のお坊さんが呼ばれて、祈祷が行われた。それでも雨は止まなかった。怒った殿様が、そのお坊さんの首を切り落としてしまう。その生首を布にくるんで吊るした所、翌日には晴れ間が広がった。

 

どちらも、悲惨な話です。A説の晴姫に関する神話は、子供を生け贄にするというものですが、同じような話は、確か旧約聖書にもありました。こちらは、すんでのところで、子供を殺さずに済んだのですが・・・。また、日本にも座敷わらしの民話が残っています。新しい建物を棟上げする際、男女一対の子供を人柱にした。そして、その子供たちが座敷わらしとなって出現した家は栄える、というものです。

 

A説、旧約聖書、座敷わらし。この3例は、子供を生け贄にするという点で共通しています。

 

国や地域が違っていても、どこか似たような話がある。これらは、私たち人類が共通して経験した過去の出来事であるとも言えますし、人類が共通して持っている普遍的な心的イメージであるとも言えるような気がします。そして、この心的なイメージというのは、想像以上に強いものであって、現代に生きる私たちの心の中にも生き続けているのではないか。

 

てるてる坊主の例で言えば、有名な童謡もありますね。実際にてるてる坊主を作って、軒先に吊るした経験を持つ人もおられることと思います。神話があり、童謡があり、経験がある。そんなことから、あるイメージが世代を超えて伝承されていく。こんな所にも、文化の本質があるような気が致します。

 

私は、宗教に関しましては消極的な立場を取っております。宗教には、お金が絡む。権力が絡む。そう思うのです。しかし、精神文化の本質は、どうやら宗教にあるのではない。それ以前の、人々の純粋な気持ちの中にある。宗教は否定できても、てるてる坊主という文化を否定することはできない。

 

余談になりますが、集団の利益を優先する祭祀というものがあって、例えば、棟上げ式で子供を人柱として殺してしまう。悲しんだ親が、密かに呪術を行う。そういう構図も考えられるのではないかと思うのです。だとすると、祭祀と呪術は、表裏一体の関係にある。そして、人々の悲しみを癒やすために、言ってみれば、祭祀と呪術の対立関係を緩和させるために、人々は神話を作ってきたのではないか。時間ができましたら、もう一度「遠野物語」を読んでみたいような気がしてきました。

No. 169 人工知能と文化(その2)

人工知能の発展段階につきまして、シンギュラリティということが論議の的になっているようです。技術というのは、右肩上がりに進歩して行く訳ですが、それは例えば毎年、倍の速度で発展を遂げる。最初は1の倍で2になりますが、その後は4、8、16、32という具合に進歩の速度が上がっていく。そうすると、どこかの段階で爆発的な発展を遂げ、人工知能が人間の知能を凌駕するに違いない。このタイミングがシンギュラリティ、技術的特異点と呼ばれているようです。それは2045年頃だろうという説がありますが、例えばSoftBank孫正義氏は、講演会で2030年頃ではないか、と述べていました。今から12年後ということになります。

 

しかし、コンピューターは既に私たちの暮らしを一変させています。そして、一部の機能におきましてコンピューターは、既に、人間の知能を越えている。例えば、チェス、将棋、囲碁の世界で、人間はコンピューターに勝てなくなった。将棋の例で言えば、24時間、延々とコンピューター同士で戦わせる。そして、そこから得られた情報をコンピューターに記憶させる。学習させると言った方が、正確かも知れません。そんなことをされては、いくら名人でも、人間が勝てるはずがありません。最近、若手の棋士は、コンピューターの指す手を勉強しているそうです。エクセルの表計算にしたって、ちょっと人間では勝ち目がありません。カーナビにしたって、既に私たちはコンピューターの指示に従って、行動しています。

 

既に、いくつかの分野において、シンギュラリティは現実化していると言えるでしょう。

 

SFっぽい話をすれば、やがて人類が人工知能に支配されるとか、いつか人類は滅びるが、人間の知性はデータ化され、ロボットの中で知性だけが生き続けるなんて話まであります。どうなるのか、それは誰にも分かりません。

 

ちょっと話を現実に戻しましょう。最大の問題は、仕事です。人工知能やロボットが普及しても、人間の仕事を奪うことはない、新しい仕事も生まれると主張している人たちもいます。しかし見たところ、このような主張をしているのは、人工知能やロボットで一儲けしようとしている人たちではないでしょうか。私は、人工知能やロボットの進展により、人間の仕事は、確実に減少すると思います。そして、それらに取って代わられる仕事というのは、必ずしも人間にとっての単純労働ばかりではないと思います。人間を中心に考えるのではなく、人工知能やロボットの観点から、考える必要がある。彼らにできる仕事であって、彼らのコストが人間を下回れば、もしくは彼らのパフォーマンスが人間を上回れば、その仕事は、彼らに取って代わられる可能性がある。そして、人工知能やロボットが行い易い仕事というのは、パターン化されていて、イレギュラーな処理、判断を要求されないもの、ということではないでしょうか。

 

この問題をほおっておくと、人工知能やロボットを導入できる大企業だけが、まず、生き残ることになる。しかし、大企業と言えども、消費者の購買力がなければ、成り立たない。しかし、失業者が溢れかえってしまうような社会では、消費も低迷する。従って、大企業と一般の消費者の双方が、共倒れしかねない。問題は、もうここまで来ているのではないでしょうか。そこで、先進諸国では、既にベーシックインカム論議がなされているようです。すなわち、人工知能やロボットに職を奪われて失業した人たちに、必要最小限の金銭を国が支払うということです。しかし、そんな制度を導入して、人々が生きがいを感じるだろうか、という問題もある。

 

いよいよ、資本主義も行き詰まってくるのでしょうか。

 

孫正義氏は、「今後、全ての産業は再定義されなければいけない」

と述べていましたが、私にしてみれば、人間社会のあり方こそ、再定義すべきだと思うのです。

No. 168 人口知能と文化(その1)

 

記号ということを考えておりますと、その現代的な意義は“人口知能”にあることに気付かされます。YouTubeなどで検索しておりますと、驚くべき話が次々に出て来る。例えば、人口知能の専門家がこんな話をしていました。

 

「表象というのは哲学において発生した考え方である。人間は複雑な概念については、その実体を凝縮して、あるイメージで捉える。このイメージが表象であり、表象を更に単純化したものがシンボルである。」

 

こういう話であれば、文科系の私にも良く分かります。

 

ところで、昨今、人口知能とかAIという言葉をよく聞くようになりました。あるシンクタンクが「今後、10年ないし20年の間に、現在人間が行っている仕事の半分は、人口知能に取って代わられるだろう」という予想を発表したのが、事の発端だったような気がします。私たちによって人口知能は、最早、他人事では済まされなくなった。

 

どうやら“人口知能”という用語に厳密な定義はないようです。最先端のコンピュータ技術、程度の意味で考えておけば良さそうです。人口知能が人間の脳の働きを行うとすれば、体の機能はロボットが担当します。面白いので、様々な画像を見ました。現在、世界中の大学や研究所が血眼になってロボットを開発しています。ふと気づいたのですが、それらのロボットの大半が、動物や昆虫を模倣している。ヒト型ロボットのヒューマノイドというのもありますが、その他にも犬、チーター、カンガルー、鳥、蝶、トンボ、アリなどの形状や機能を真似ているんです。現代に至ってもなお、人間はなんとか動物を真似しようとしている。これは、古代人と同じですね。

 

私の印象ですが、特定の目的をもって製造されたロボットというのは、かなりの水準になっている。例えば、工場で特定の作業を行うロボットの精度というのは、既に人間を超えているかも知れません。しかし、まだ人間にはロボットの使い道というのが、よくは分かっていない。今はまだ手探りの段階で、様々な可能性を試している。そんな気がします。それはあたかも、人間がロボットで遊んでいるように見えます。遊びながら、その使い道を考えている。

 

ロボットの究極の形というのは、何種類かあるのだと思いますが、その最たるものは“人間そっくりのロボット”ということだと思います。但しこの点、現在のロボット技術には、相当課題がありそうです。例えば、言語能力。誰でも、ロボットと会話してみたいと思う。そうできれば、楽しいに違いない。確かに現在のロボットは、簡単な音声認識、画像認識はできるようですが、人間に比べれば、まだまだ低水準だと言わざるを得ません。例えば、人間の子供であれば、リンゴという果物を実際に見ている。そして、これをリンゴというんだ、ということで言葉を覚えていく。他方、ロボットにはリンゴという果物が何なのか、その概念がない。従って、実体を教えた上で、リンゴという言葉を覚えさせる必要がある。そんなところにも、難しさがあるようです。また、会話を成立させるためには、一般常識が前提となってくる。しかし、この一般常識を人工知能に記憶させるのが、相当、大変なようです。従って、私たちがロボットと会話を楽しめる日は、まだ、大分先になりそうです。

 

ロボットも使い方一つで、その意味が違ってきます。いわゆる3K(汚い、キツイ、危険)の仕事をロボットがやってくれるのであれば、これは大助かりです。家事ロボット、介護ロボットなども歓迎です。しかし、ロボットが兵器に使用される可能性もある。と言いますか、既に先端的なミサイルは敵のレーダーに捕捉されないよう、低空を飛行し、予めプログラミングされた目標に向かって、確実に飛んでいくそうです。これを人工知能と呼ぶかどうかは別として、既に、先端的なコンピュータ技術が兵器に使用されていると考えていいでしょう。人類は、核兵器の開発を止めることができなかった。クラスター爆弾のような非人道的な兵器も使用されてきた。いつか、ロボットも戦争に利用されるようになると思います。しかし、敵国がロボットで攻撃してきた場合、これを防御するのもロボットということになりはしないか。すると、ロボット同士が人間を代理して戦争を行うことになる。してみると、戦争とは一体何なのか、という疑問も沸いてくる。そんな時代になるかも知れません。

 

クルマの自動走行の研究が進んでいますが、その際などに用いられている技術で、ディープラーニングというものがある。例えば、ブロック崩しなど、昔のテレビゲームを人工知能にやらせる。最初は下手なんですが、これを延々2時間もやらせると、いつの間にか上達している。すなわち、放っておいても、人口知能が自分で勝手に学習するというシステムが、このディープラーニングなんです。クルマを自動走行させる際、どうやって危険を回避させるか、個々の事例を人工知能に教え込ませるのは大変だ。であれば、実際に走りながら、人口知能が自ら学んでいくというシステムの方が、手っ取り早い。そこで、上記のゲームと同じように人工知能に“意味”を与える。例えば、どこにも衝突せずに走れたらポイントを獲得し、衝突した場合には減点する。すると、人口知能が危険を回避する方法を自ら学習していくんだそうです。何か、大変な時代がやってきそうな予感がします。