文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 177 人の心の壊れ方(その3)

 

一昨日、晩酌のビールを飲みながら“イッテQ”という番組を見ておりました。女性芸人の方々がフィンランドを訪ねているのですが、そこで現地の女性たちからダンスを教わる。そのダンスというのは、馬の歩き方、走り方を真似するんです。確かに、熟達したフィンランドの女性たちは、馬が走っている時の足の動きをうまく再現している。本当に馬の足とそっくりだなあ、などと感心しながら、ふと閃いたのです。ダンスというのも、実は動物の動きを真似る所から始まったのではないか。そう言えば、バレエの演目には“白鳥の湖”というのがある。

 

ちょっと違うかも知れませんが、そう言えば盆踊りの炭鉱節というのは、炭鉱での作業の様子を再現している。ドジョウ掬いなんてものもありますし、若い人たちだって、ロボットダンスと言って、ロボットの動きを再現して、踊っている。いずれにせよ、昔から人間は動物の真似をしてきたに違いない。そこに文化の起源がある。動物の鳴き声を真似して、歌ができた。動物の動作を真似して、ダンスが生まれた。

 

では何故、(特に)古代の人たちは、動物の真似をしたのか。暇だったのだろうか。いや、彼らは動物を尊敬していた。だから、動物の真似をしたのだろう。自分たちは空を飛べない。でも、鳥たちは優雅に大空を舞っている。例えばイノシシだって、とても早く走ることができる。だから、彼らは動物を尊敬していたんですね。なんて謙虚な発想でしょうか。現代に生きる私たちも、少し見習いたいものです。

 

さて、1次性の心というのは、歌とダンスによって構成される熱狂的な“祭り”と共に育まれてきたのだと思うのです。祭祀と言うと、“祭り”と“儀式”の総称ですが、秩序立てられた“儀式”が生まれるのはずっと後のことで、それ以前の何万年という間、人々は熱狂的な“祭り”を繰り広げていたはずです。

 

では、人類が最初に“祭り”を始めた頃の状況を想像してみましょう。彼らは、狩猟採集民です。一人で狩りを行うのは困難なので、彼らは集団で移動しながら生活をしています。辞書なんてものはありません。ラジオ放送もありません。従って、彼らの話す言葉は、100%の方言で、通じない場合も少なくなかったことと思います。法律もなければ、モラルもありません。暴力沙汰なんてものは、日常茶飯事だったことでしょう。力の強い男が女たちをレイプする。そんなことも、当たり前だったのではないでしょうか。そんな暮らしの中で、誰かが歌を口ずさむ。誰かが踊り出す。それが、例えば何かの動物に似ていれば、それは人々の共感を生み、他の者も真似をしだす。何しろ、真似をするというのは、1次性の心を構成する基本的な要素だと思うのです。どこかに臨界点があって、例えばその集団の過半数の者が踊り出した場合、残る者も踊らざるを得ない。そうしなければ、仲間外れにされてしまう。そして、全員が踊り始める。全員で同じダンスを踊っていると、そこに連帯感が生まれ、集団の結束が強くなる。

 

そんなことを長時間続けていると、誰かがトランス状態になる。これがなかなか気持ちいいんですね。脳の中にドーパミンが発生するのです。更に人々は、大麻などのドラッグを使い始める。こういう歴史の中から、私たちの心の中に1次性というカテゴリーが生まれた。だから、この1次性という心の状態は、性的であり、暴力的であり、動物的であると言えると思うのです。そこに論理性はありません。力の強いリーダーが支配していて、全てはそのリーダーが決定する。してみると、論理性というのは、むしろ否定される。圧倒的な独裁制であり、集団主義だと思うのです。論理性がない。だから、この1次性は、カオスという一語によって、象徴されると思うのです。

 

では、1次性の心というのは、壊れることがあるのか。当然、あったのだろうと思います。半世紀程前、パプアニューギニアのイワム族で、アムックと呼ばれる一時的な精神錯乱が確認されています。他の民族でも、同様の事例が多数確認されていますが、錯乱状態に陥った人が、最悪、殺人まで犯します。アムックという現象が起こる原因としては、心理的なストレスが原因となっている可能性があるようですが、本当の所は分かりません。

 

そんな昔のことは関係がない、と思われるかも知れません。しかし現代の日本にも、この熱狂的な祭りは、存在します。YouTubeで検索をしますと、日本各地に“喧嘩祭り”とか“男祭り”と呼ばれる習慣が存在します。これらの祭りは熱狂的で、興奮し過ぎた男たちが喧嘩を始めてしまう。喧嘩の表面的な理由というのは、些細なことだろうと思うのです。そして、喧嘩をする本当の理由は、多分、祭りによって興奮し、暴力的な本性が剥き出しになるからではないか。落ち着いてから当の本人に喧嘩の理由を尋ねても、多分、彼らは合理的な理由を説明できないのではないか。これって、イワム族のアムックとそっくりではないでしょうか。こういう祭りで興奮するのは、女性も同じだと思われます。若い女性が、お揃いのハッピを着て、お化粧をして、熱狂的に踊る。そういう動画もあります。

 

非論理的な1次性という心の状態は、バランスが取れていない。むしろ、狂気を孕んでいる。だから、熱狂的な祭りによって、蓄積されたストレスなり狂気を少しだけ解放している。そういう側面もあると思います。

 

また、1次性の心が興味を持っている対象は何かと考えますと、それは人間と動物だろうと思うのです。人間の赤ん坊が心を持つに至るプロセスを考えましても、最初に持つ心の状態というのは、この1次性だと思います。幼児というのは、時に残酷で、エゴイスティックで、非論理的で、人間と動物に興味を持っている。

 

現代に生きる私たちの全員が、この1次性という心の状態を持っている。1次性は、最もポピュラーな心理状態だと思うのです。そしてこの1次性は、身体感覚と不可分であって、感覚的、感情的と表現しても良いと思います。私たちが、プロレスの流血シーンに興奮したり、他人の不倫に興味を持ったりするのも、この1次性のなせる業だと思うのです。

No. 176 人の心の壊れ方(その2)

 

推理小説で言えば、最初に犯人を特定するようなものではありますが、今回のシリーズ原稿でも、最初に結論を述べることに致します。

 

人間の心については、層がいくつかに分かれている。意識の他に無意識があると言って、反対する人は少ないと思います。では、いくつの層に分かれているのか。この点、ユングは表層の方から、意識、個人的無意識、集合的無意識の3つだと述べています。(後年のユングは更に深い所に「類心的レベル」があると言ってはいますが)パースは第1次性から第3次性までの3つだと言っています。このユングとパースの分類は異なるものだと思って来たのですが、よくよく考えてみますと、本質的に大差はないのではないか。そう思うようになりました。別の言い方をしますと、一応、人間の心には3つの層があるという考え方に、私も賛成だということになります。なお、ユングの場合は表層の方から表現され、パースは逆に深層の方からの呼称となります。便宜上、これを対照表にしてみましょう。

 

1次性・・・集合的無意識
2次性・・・個人的無意識
3次性・・・意識

 

以後、パース流の呼称をベースに表記させていただきます。

 

詳細は後述するとして、1次性の心の状態を一言で表現すれば、「カオス」ではないでしょうか。パースはこの心の状態を「未分化で、あたかもアダムが初めて見た世界のよう」と述べています。未だ言葉がないから、何も区別することができない。だから、未分化ということになるのでしょう。ユングに言わせれば、「人種や時代を超えて、人々が持っている共通のイメージ」ということになります。いずれにせよ、混沌としている。こういう心の状態というのは、もちろん現代に生きる私たちの心にも生き続けている。そして、1次性の心は、記号原理を経て、具体化される。そして、文化となり、原始的な「祭祀」を生んだに違いない。この心の状態は、性的であり、暴力的であり、エゴイスティックであり、動物的である。

 

2次性の心というのは、個人的な経験に関係している。とりわけ、外界と親和的な関係を結んだ経験が、心の中にイメージとして蓄積される。それは、景色であったり、象徴的な「物」であったりする。そして、人々はそのイメージを追い求める。この人間と外界との親和的な関係が2次性の本質であって、このような心の状態を一言で表現すれば、「調和」ということになる。この2次性の心は、記号原理を経て、「呪術」という文化を生んだ。

 

3次性の心というのは、パースが言ったように、正に記号の世界である。そこでは心的イメージや1次性の衝動も抑圧される。その抑圧の根拠は、規範であったり、論理性であったりするに違いない。この3次性の心は、外界や論理に服従し、屈服する。3次性の心も記号原理を経て、「神話」という文化を生んだ。

 

このブログで、私は精神文化について種々の検討を加えてきましたが、その本質を考えますと、上記の通り、祭祀、呪術、神話の3要素に還元できるのではないかと考えるに至ったのです。シャーマニズムは、祭祀と呪術の中間的なものであって、これは省略しても良い。祭祀、呪術、神話。この3要素が精神文化を構成する単位であって、宗教はそれらを総合したに過ぎない。

 

更に、1次性の心が暴発すると、人は暴力的になり、最悪の場合は殺人を犯す。

 

心が3次性の領域に寄り過ぎると、人は内省的になり過ぎ、うつ病になったりする。最悪の場合は、自殺に至る。

 

誰の心にも、1次性から3次性までの領域があると思いますが、その比率は人それぞれに異なる。そのバランスが崩れた時、人の心は壊れるに違いない。

 

1次性に寄り過ぎた人と3次性に寄り過ぎた人は、バランスが崩れているので、2次性を目指すべきだと思うのです。2次性とは、すなわち個人的な経験からくる心的イメージであり、象徴的な「物」との関わりであり、そして呪術である。ここにこそ、心の調和がある。これが、本原稿の結論です。では、一覧にしてみましょう。

 

1次性/カオス ・・・ 記号原理 ・・・ 祭祀

2次性/調 和 ・・・ 記号原理 ・・・ 呪術

3次性/受 容 ・・・ 記号原理 ・・・ 神話

 

なお、前回の原稿で、うつ病を患っている方がバイクの免許を取得しようとしている話を書きましたが、バイクというのは「物」であって、これは2次性なんですね。よって、バイクに関わるという行為には、心を癒す働きがある。そう思います。

No. 175 人の心の壊れ方(その1)

 

相変わらずバイクの動画を見ているのですが、これが面白くて仕方がないのです。私は、バイクを買うつもりも乗るつもりもないのですが、何故、面白いのだろうと考えたのですが、どうやら、バイクと人の関わり方が面白いということのようです。

 

最近バイクの世界では、「ラーツー」というのが、流行っているようです。勘のいい方はお分かりかと思いますが、これはラーメン・ツーリングの略語です。バイクでそれなりの距離を走る訳ですから、これはラーメンの有名店に行くのだろうと思ったのですが、最近のラーツーは違う。バイクに機材を積んで、海辺など景色の良い所へ行くのです。そこでお湯を沸かし、カップラーメンを食べるんですね! これには驚きました。でも、そういうのもいいと思うのです。所詮、私たちの人生に然したる意味なんて、ないんです。意味というのは、苦労して発見するか、または自ら創造するしかない。それがどんなにささやかなものであっても、その意味によって私たちは現実世界とつながっていく。

 

ところで皆さんは、ホンダのダックスとかモンキーというバイクをご存知でしょうか。ミニバイクですが、これで楽しんでいる人たちも少なくない。当初は、遊園地の乗り物として開発されたようですが、やがてクルマにも積めるということで、その後、相当売れたんですね。私も憧れていました。排ガス規制の関係だと思いますが、残念ながら生産終了となってしまいましたが・・・。このダックスとかモンキーというバイクは、自分で修理をしたりカスタマイズしても楽しい。人によっては、改造費に100万円以上も掛けているようです。

 

バイク動画の世界にも、オピニオン・リーダーのような人たちがいます。バイクの乗り方や、掃除の仕方などを教えてくれる。初心者にとっては、本当に心強い味方だと思います。そんな動画を見ておりましたら、ある視聴者からこんなリクエストがありました。

 

その動画の視聴者は、看護師である。そして後輩の看護師がうつ病になってしまったが、今はバイクの免許を取ろうとして、教習所に通っている。助言をお願いしたい。

 

YouTubeですから、画面の下方にコメント欄がある。私が驚いたのは、そのコメント欄に「自分もうつ病だった」「自分は今もうつ病だ」という書き込みがずらりと並んでいた事です。うつ病というのは現代病のようなもので、今、本当に多いですね。私も、何人もそういう人たちを知っています。ただ、私が注目したのは、うつ病とバイクとの関係なんです。もしかすると、バイクには人の心を癒す働きがあるのではないか。

 

この問題は、文化論の立場から、一度、考えてみる価値があるのではないか。

 

例えば、日本の捕鯨に反対する人は、このように述べています。クジラを殺したからと言って、クジラの心が分かる訳ではない。殺さないで、生きているクジラの行動を観察するべきだ。そうすれば、クジラの行動を通して、クジラの心を理解することが可能になる。

 

私もそう思うのです。人間の行動や文化を観察することによって、その先にある人間の心を理解することが可能になる。

No. 174 長野県白馬村の写真

写真というのは、確かに大変な力を持っている。例えば、言葉で「その日は雲一つない晴天で」などと言われても、本当だろうかという気がします。しかし、例えば、次の写真をご覧いただければ、全てをご了解いただけると思うのです。

 

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撮影場所は長野県白馬村で、そこに八方尾根というスキー場があります。撮影日は、2015年10月15日。スキーシーズンは、まだ始まっていません。撮影者は私で、使用カメラは、どこにでも売っているような1万円程度の安物です。それでも、これだけの画像を記録できる所が凄いような気もします。ちなみにこのカメラ、未だに壊れていません。

 

さて、リフト小屋に五輪のマークが付いていますね。これは以前、長野県で冬季オリンピックが開催された時のものだと思われます。もう色褪せていますが、それはそれで風情があります。中央に老夫婦が写っていますが、微妙に距離を置き、2人が見ている方向も少し違うようです。そこら辺が、絵になる。いえ、写真になると思うのです。これが若いカップルで手でもつないでいようものなら、私はシャッターを押さなかった。ヴラマンクの絵に出てきそうなカップルだと思うのですが、いかがでしょうか。

 

人は、心の中に理想的な風景などのイメージを持っていて、そのイメージを現実に追い求めて、旅に出る。そのイメージというのは、子供の頃に実際に見た風景であったり、何かの写真で見た場所だったりするのだと思います。写真に写っている老夫婦のどちらか一方の方が、このような山の風景を心の中にイメージとして、持っておられたのではないか。そして、この場所へやって来た。そんな気がするのです。

No. 173 人々を突き動かす心的イメージ

 

少し、ブログ更新の間が空いてしまいました。この間、日本は寒波に襲われ、草津では火山が噴火しました。皆様は、無事にお過ごしでしょうか。

 

私はと言うと、相変わらずビートルズを聞き、風呂上がりのビールを楽しんでおりました。昨日は、ちょっと駐車場の雪かきをしたのですが、そのせいか今日は若干の筋肉痛です。カントの純粋理性批判も少し読み進めてはいたのですが、中々、進みません。とにかく難しい。この人、本当に自分でも分かった上で書いているのだろうか、などと思う訳ですが、どう考えても、カントと私では勝負にならない。それにしても、世の中に楽しいことは山ほどあるはずなのに、何故、私はこんな七面倒くさい本を読んでいるのだろう。そもそも、良くも分からない本を読み続けることに意味はあるのか。そういう訳で、カントは少し先送りにすることとして、一昨日から、ミシェル・フーコーの「言葉と物」という大変興味深い(?)タイトルの本(文献1)を読み始めました。この本には、例えば次のような一節があります。

 

「記号に語らせてその意味を発見することを可能にする知識と技術の総体を解釈学と呼び、記号がどこにあるかを見わけ、それを記号として成り立たせているものを規定し、記号同士のつながりと連鎖の法則との認識を可能にする知識と技術の総体を、記号学と呼ぶことにしよう。」

 

こちらも決して簡単ではありませんが、こういう話であれば私にも理解できる。少なくとも、カントよりは平易だと感じるのです。同じフランス人ということもあって、フーコーは少しソシュールに似ているような感じもします。例えば、「言語」という日本語に「ランガージュ」とルビが振ってある。確か、(ランガージュ=ラング+パロール)だった。従って、厳密に言えば(言語=ランガージュ)ではない。翻訳者も大変だな、などと思うと少し親近感が沸いて来たりもします。(詳細はこのブログのNo. 155)

 

ところで、私は以前、バイク(オートバイ)に乗っていました。40年前には、スズキのGT250、20年前には同じくスズキのバンディット400。だから、私にはバイクの魅力が分かるのです。走り込んでいくと、エキゾーストパイプが虹色に光ってくる。街中でそんなバイクを見ますと、未だに「いい色に焼けてるなあ」などと思ったりします。懐かしさもあって、YouTubeでバイクの動画を見たりしていたのですが、これが実に面白い。

 

昔は、最大級のバイクと言えばナナハンだった訳ですが、最近は国産でも1300CCが出ています。また、かつてバイクの最高速というのは200キロ位だったと思うのですが、今のバイクは、市販のものでも300キロは出るんですね。そして実際に300キロで走るバイクの映像が沢山ある。しかも、カメラの小型化や技術が進歩していて、最近は簡単に運転手の視線で、動画が撮影されているのです。これはもう臨場感が凄い。あたかも、自分の運転するバイクが時速300キロで疾走しているような感覚が味わえるんです。流石に国内の動画で300キロ出している場所はサーキットですが、海外の動画では高速道路などを走っているものもある。改造バイクで時速400キロを記録した動画もある。怖いですね。想像しただけで、膝が震えてきそうです。

 

バイクの動画と言っても、内容はいろいろあって、例えば、評論家の「試乗インプレッション」というのもある。ここの部品がどうだとか、トルク性能がどうだとか、説明する訳です。こういうのも、何となく、見ていて楽しい。また、バイクの運転技術という意味では、やはり白バイの人たちが凄い。やみくもにスピードを出すのではなく、状況に応じて、バイクをコントロールしているんですね。

 

小柄な女性が倒れた大型バイクを起こせるか、という問題もあります。結論から言えば、起こせます。コツがある。そういうコツを教えてくれる動画というのも、結構あります。例えば、動画に身長150センチ弱の女子高生が登場する。まだ、免許は持っていないが、いずれはバイクに乗りたいと思っている。やってみると、彼女が一発でバイクを起こしたんです。ユーチューバーがインタビューする訳ですが、どうやら彼女の父親がバイク好きらしいんです。「免許を取ったら、どんなバイクに乗りたいの?」と聞かれると、彼女は「SR!」と答える。これは単気筒のバイクで、相当なツウが好むタイプなんです。彼女はきっと、お父さんが好きなんでね。そして、お父さんが好きなバイクがSRなんです。

 

「初心者の女性が、免許を取りに教習所に通う」というパターンの動画もあります。その昔、私も教習所に通った訳で、そんな経験を思い出します。狭くて何の変哲もない、教習所のコース。しかし、通っている人たちにとっては、そこにクランクがあり、8の字があり、一本橋がある。そのような目で見ると、教習所のコースというのは、一つの世界を構築している。大体、彼女たちはエンストするのですが、経験した人には分かる。誰でも、最初はエンストするのです。ある動画では、立ちゴケし、坂道発進のできなかった女性が、研修が終わってカメラマンの元へ帰って来ると、泣き出してしまった。泣かなくても良さそうなものですが、しかし、彼女はそれだけ一生懸命やっていたということだと思います。一生懸命やっているのに、できない。何度もバイクを倒してしまった。坂道発進ではエンストしてしまう。そんな自分が不甲斐なく、涙がこぼれた。

 

それにしても、人は何故、そんなに苦労をしてまで、バイクに乗ろうとするのでしょうか。バイクに乗るって、大変なことなんです。免許を取るのもそうですが、もちろん、それだけではありません。バイクを買うには、相当なお金が掛かる。維持費だって、馬鹿にはならない。乗れば乗ったで、危険と隣り合わせです。冬は寒いし、雨の日もある。それでも、バイクに乗ろうとする人たちというのは、少なからずいる。

 

彼ら、彼女たちを突き動かしているもの。それは、心の中のイメージだと思うのです。ある理想的なイメージがある。それは、人によって違います。ある女子高生は、お父さんと一緒に走っているところをイメージしているかも知れません。ある青年は、時速300キロでサーキットを疾走することを夢見ている。テントを積んでのツーリングを夢見ているオジサンたちだっています。彼らが持っているイメージというのは、このように千差万別だと思うのです。だから、そのイメージの数だけ、バイクのタイプも無数にある。しかし、バイクに乗ろうとしている人たち、また、既にバイクに乗っている人たちの全員が、心の中にあるイメージを持っている。そして、この心的イメージの力というのは、相当に強いんだと思うのです。何しろ、何の義務もないのに、泣いてまで人を教習所に通わせる力を持っているのですから。

 

まず心の中に、ある理想的なイメージが生まれる。これは、身近にいる人の影響だったり、ちょっとした経験だったりする訳です。このイメージが心の中で、育まれていく。すると、ある時、記号としてのバイクが眼前に現れる。そして、人々はその記号であるバイクと自分との関係を考える。自分に乗りこなせるだろうか。購入代金を支払えるだろうか。そして、衝動が現実的な制約にまさった場合、人は行動に移す。

 

この心的なイメージは、言葉になる以前の、ある心の状態だと思います。「何でバイクに乗ろうと思ったの?」 よく尋ねられる質問です。しかし、これは言葉以前の問題なので、人によっては、うまく答えられない場合がある。しかし、答えられなかったからと言って、その人が理想的なイメージを持っていない訳ではない。

 

記号原理に照らして言えば、この心的イメージは、記号が指し示すもの、すなわち「対象」という概念に含まれます。

 

対象・・・心的イメージ
記号・・・バイク
意味・・・衝動の強さと現実的な制約
行動・・・バイクに乗る。(または乗らない)

 

しかし、このことはバイクに限ったことではないように思います。例えば、旅行。あるイメージがあって、そのイメージに合致するような場所を、人は探し求めて旅に出る。食べ物もそうですね。ある理想的なイメージを追い求めて、人は蕎麦打ちに没頭したりする。

 

誤解を恐れずに言ってしまいますと、私は、キリスト教の構造というのも、実はこの原理によって、説明できるのではないかと思っています。まず、心的なイメージがある。これが、神の概念であり、天地創造の物語としての旧約聖書ではないか。そして、人々に認知され得る記号としてのイエス・キリストが誕生する。キリストは、その人生や発言、そして何よりも十字架という記号によって、人々に認知されてきた。そして人々は、心的なイメージとしての神と、自分たちとの関係をキリストの発言や人生を通じて考えた。それが新約聖書だと思うのです。そして、礼拝や懺悔などの宗教的行動につながる。

 

対象・・・旧約聖書
記号・・・キリスト
意味・・・新約聖書
行動・・・信仰

 

だから、聖書は新旧の2つあるのだと思うのです。

 

結局、今回もまた記号原理の話になってしまいました。しかし、この原理は、私たちの人生そのものを説明しているような気がするのです。人々が、経済的な理由やエゴイズムによらず、自発的に行動する場合、その背景には心的なイメージがある。そこから出発して、その理想的なイメージを現実化しようと試みる。しかし、成功する場合というのは、ほとんどない。99%、そのイメージを現実のものとして体験できることはない。仮に現実化できたとしても、記号鮮度は落ちて行き、人々は別のイメージを持つようになったりする。大好きだった人と恋人同士になれたとしても、やがて恋は冷めたりする。宝くじに当たった人が、意外と不幸だったりする。それでも、心的なイメージの現実化を目指す。それが人生だとするならば、より多くの心的イメージを持って、チャレンジし、意味を考え、行動した方が良い。記号原理は、私たちにそう教えてくれているような気がします。

 

(参考文献)
文献1: 言葉と物/ミシェル・フーコー/新潮社/1974

No. 172 命名、記号原理

対象、記号、意味、行動の4要素で、人間の認知・行動システムと多くの文化的事象を説明することができる。そして、これらの4つの要素は、いずれが欠けても、そのシステムや文化的事象は完結しない。私の知る限り、このような考え方を提唱した最初の人物は、私なのです。従って、私にはこの考え方に名前を付ける権利がある。そこで若干、僭越な気がしないでもありませんが、この考え方を「記号原理」と呼ぶことにしました。もちろん、記号過程という考え方を提唱したパースには、敬意を表しつつ。

 

しつこいようで恐縮ですが、例えば将棋。将棋の駒というのは、記号ですが、それが表している対象は、中世の「戦さ」なんです。歩兵がいて、王将が取られると負けになる。記号に意味を与えるのがルールですね。だから、人々は、将棋を指す。

 

対象・・・戦さ

記号・・・駒

意味・・・ルール

行動・・・将棋を指す

 

私にとっては不得手な分野ではありますが、記号原理によって、恋愛も説明できます。若い人たちは、心の中に恋愛対象についてのイメージを持っている。そして、誰か異性が現れる。異性は、その仕草や服装、アクセサリーや行動など、シグナルを発している。これが記号ですね。それらの記号が自分の心的イメージに合致していた場合、若者はその異性と自分との関係をなどを考える。これは運命の出会いかも知れないなどと考えますと、恋愛が成立する訳です。

 

対象・・・理想のイメージ

記号・・・異性の発するシグナル

意味・・・ドラマチックな出会いなど

行動・・・恋愛関係になる

 

しかし、ここで一つ付け加えておくべきことがあります。それは、生鮮食品などと同じように、記号にも鮮度というものがある。これは、記号鮮度と呼ぶことにしましょう。どんなに若者を惹き付けた異性の記号も、時間がたつにつれ、その鮮度が落ちてくる。飽きてくるんですね。よく、ラブソングの歌詞に、あなたを一生愛し続けるというようなものがありますが、これは幻想だと思います。

 

余談はさておき、実は、以前から書こうかどうしようか迷っていた話があるのですが、今回、書いてみることにしました。

 

もう、数年前の話です。クルマでは走りなれた道なのですが、その日、私は歩いていたのです。その理由は、もう忘れました。十字路があって、その一角にはコンビニがある。横断歩道を渡って、数メートル行くと、電信柱があって、そこに小さな花束が立て掛けてあった。それは、花屋で買ったものではなく、誰かが野原で摘んできたもののように見えました。そして、花束の少し上の方に、張り紙があったのです。その張り紙は、風雨にされされ、もうボロボロでした。マジックで記された文字も霞んでいましたが、何とか読むことはできたのです。そこには、こう書かれていました。

 

「いつも娘のために有り難うございます。」

 

以上の事柄は、私が見た事実です。ここから先は、私の推測です。多分、その十字路で、交通事故があって少女が死んでしまった。その現場に居合わせたかどうかは分かりませんが、そのことをある人が知ることとなった。その人は、少女の霊をなぐさめるため、野の花を摘んでは、その電信柱に立て掛け続けた。ある日、亡くなられた娘さんの両親が、そのことに気付いた。きっと、自分達の娘のために花をたむけてくれているのだ。お礼を言いたいけれども、どこのどなたか知る由もない。そこで、電信柱に張り紙を張った。その人は、張り紙がボロボロになってもなお、花をたむけ続けている。

 

対象・・・少女の霊

記号・・・事故現場となった交差点

行動・・・花をたむける

意味・・・慰霊

 

アニミズムと言ってしまえば、それだけのことかも知れません。しかし、このようなエゴイズムとは無縁の、無為の行為に接し、私はただ電信柱の前に立ち尽くしたのでした。

 

 

以上

No. 171 人間と文化の仕組み

地上波のテレビ番組で「放送大学」というのがあるのをご存知でしょうか。先日、そこで「記号と人間」という大変興味深い(?)番組があったので、見てみました。優れた講義を再放送するというシリーズで、85とありましたので、多分、1985年に放送されたものだと思われます。また、アシスタントの女性の顔が、どことなく昭和の感じなんです。何故だろうと思ったのですが、一つには髪が黒い。そして、眉毛が太いんですね。昭和から平成に移って、日本女性の眉毛は細くなったのでしょうか。それとも、最近は細く見えるようにしているのでしょうか。私には、知る由もありません。

 

番組の中で哲学の専門家が、記号について説明されていました。イラストが出て来て、一つのキャラクターは地球儀に手足が生えている。これは、記号が表わす実体を意味しています。他方、記号という名のキャラクターも出て来ます。便宜上、記号君と呼びましょう。地球儀の隣に立っている記号君は、笑っています。講師の先生は、記号というのは何らかの実体を示していて、指し示す実体のある記号というのは、居心地がいいものだ、と言うのです。もう一枚イラストが出て来て、こちらの方では記号君が一人で、寂しげな顔をしています。先生曰く、指し示す実体を持たない記号というのもあるが、こちらの方は居心地が悪い。なんだ、私が考えていることは1985年当時、既に説明されていたのか、と一瞬思ったのですが、私はすぐに考え直したのでした。実体と言うから、それは確かに実在しない場合がある。例えば、幽霊のように。しかし、実体とは言わず、ここは記号が指し示す「対象」と言うべきだ。そして対象には、抽象的な概念や、心的なイメージを含めて考えるべきだ。そう考えた場合、記号には、常に指し示す対象があることになる。例えば、てるてる坊主にだって、それが指し示す心的なイメージがある。

 

やはり、人間の認知・行動システムを構成しているのは、対象、記号、意味、行動の4つであるに違いない。私は、この考えに取りつかれてしまったようで、当分、この考え方から抜け出すことができそうもありません。

 

そして、このシステムには、意味発見型と、意味創出型の2種類がある。

 

まず、意味発見型の典型として、ゴッホを例に考えます。ゴッホは、自然を愛していた。その事は、ゴッホが弟に宛てた手紙の中で、繰り返し述べられています。そして、ゴッホは自然の中に、あるシグナルを発するものを見つけていたのだと思うのです。それが、例えば星だったり、月だったり、向日葵だったり、麦畑の上空を飛ぶカラスだったりしたのだと思います。そして、それらのシグナルの中に、ゴッホは意味を見いだしていた。例えば、孤独感であったり、人間存在の本質であったりしたのだと思います。例えば、向日葵にしても、よく見るとそこにはまだ花びらをつけて咲き誇っているもの、枯れかけているもの、すっかり枯れてしまって、しかし、豊かな種を宿しているものなどが描かれているのです。これは、人間の一生を象徴しているようにも見えます。だから、その意味を噛み締めながら、ゴッホは絵を描くという行動を取ったに違いありません。

 

対象・・・自然

記号・・・星、月、向日葵、カラスなど

意味・・・孤独感、人生観など

行動・・・絵を描く

 

次に、意味創出型ですが、これは呪いの藁人形が典型的です。

 

対象・・・殺したいほど憎い人

記号・・・藁人形

行動・・・五寸釘を刺す

意味・・・呪い殺す

 

エレクトリック時代のマイルス・デイビスなどもこの例に当たると思います。この時代、マイルスは前衛的なジャズをやっていた訳ですが、分かる人が聞けば、マイルスの音楽には明確な心的イメージがあった。(疑う人がおられたら、是非、彼の「ビッチェズ・ブリュー」を聞いてみてください!)

 

対象・・・心的イメージ

記号・・・前衛的なジャズ

行動・・・即興演奏

意味・・・自由、共感、感動

 

お気付きの方もおられるとは思いますが、同じ4つの要素を並べてはいますが、意味発見型と意味創出型では、順番が少し違うのです。

 

意味発見型・・・対象+記号+意味=行動

意味創出型・・・対象+記号+行動=意味

 

言ってみれば、これがこのブログにおける一つの到達点だと言えそうです。これが、人間と文化の基本的な構造だと思うのです。但し、これは純粋に私のオリジナルという訳ではありません。人間の認知システムに関して、記号学のパースが提唱した「記号過程」という考え方があって、若干それを変更し、更に「行動」という要素を追加したものです。

 

また、上記の4要素を考えておりますと、それらのいずれが欠けても、このシステムが作動しない、成り立たないということに気づかされます。人間をブリキのオモチャに例えますと、このオモチャは4つの部品から出来上がっている。どの部品が欠けても、このオモチャは動かない。

 

例えば、北アジアに人々の病を直すシャーマンがいます。彼ら(彼女ら)は、鳥の羽などを使って、美しく着飾っています。それらの装飾品を使って、彼らは自らを記号化している訳です。行動というのは、もちろん病気を直すお祓いの儀式を指します。意味は、病気を直すということです。しかし、これだけでは、システムが作動しない。そこで、記号が指し示す「対象」が必要となる。そこで、「精霊」という概念が出てきたのではないか。彼らは、精霊の声を聞くのです。

 

対象・・・精霊

記号・・・着飾ったシャーマン

行動・・・お祓いの儀式

意味・・・病気からの治癒

 

これが、アニミズムの本質的な構造ではないか。そして精霊が、地域や時代によっては、神になった。

 

先日、犬型ロボットのアイボが発売されました。前にも書きましたが、人工知能を搭載した最新鋭のロボットというのは、動物や昆虫の形をしている。何故か。その理由も分かります。記号には「対象」が必要だからです。

 

対象・・・犬

記号・・・アイボ

行動・・・アイボとのコミュニケーション

意味・・・愛玩

 

興味深いのは、上記の認知・行動システムが、個人の行動から、集団で産み出す文化にまで当てはまるということです。例えば、ハチやアリなどの社会性の高い生き物を「真社会性動物」と言ったように記憶しているのですが、人間にも通じるところがあるのかも知れません。ハチなどは、あの小さな体ですから、複雑なことを理解しているとは思えません。それぞれの個体には、単純なメカニズムがインストールされているに過ぎない。しかし、個体が集まって集団となると、見事な幾何学模様の巣を作ったりする。

 

ところで、人間社会には、もちろん上記のシステムでは計り知れない物事というのも存在します。例えば数学や物理学などの自然科学。また、民主主義というのも、ロジカルな思想であって、上記のシステムでは説明できません。哲学者や科学者というのは、上記のシステムからの脱却を試みているのかも知れません。