文化領域論

(No.196 ~ No.    )

文化人類学 テレビ講座お知らせ

地上波のテレビで、放送大学というチャンネルがあるのはご存知でしょうか。

 

現在、シリーズもので20時45分から「文化人類学」の講座が放映されています。放送日は、曜日に関わらず毎日のようです。本日は第8回です。私は、なるべく見るようにしております。文化人類学にご興味のある方には、お勧めです。

 

また、同じく地上波でEテレというのがあります。これは多分、以前のNHKの教育テレビだったと思います。しばらく前に「100分で名著 レヴィ=ストロース 野生の思考」という番組が放映されていました。録画を再度眺めていたところ、面白い話がありました。

 

レヴィ=ストロースはかつて、哲学を専攻していたそうです。そして、大学の研究室で例えば「アプリオリな認識とは、どのように可能なのか」というようなことを考えていたそうですが、嫌になったそうです。そして、転機が訪れ、文化人類学に出会い、そこから彼の人生は開けてきた。彼の著書「悲しき熱帯」にそういう記述があるそうです。

 

この「アプリオリな認識」というのは、経験に基づかない純粋な認識という意味で、これは純粋理性批判の中でカントが主張していることだと思われます。しかし私たちには、経験から離れて何かを思考するということが本当に可能なのでしょうか。これは正に哲学的な命題である訳ですが、そういう観念的なことを考え続けることに意味があるのでしょうか。何だか、カントの純粋理性という考え方は、私の文化論にはあまり関係がないような気がしてきました。

 

それよりも、私にとってはイワム族の話の方が余程、面白い。イワム族の話、まだ読んでいない本が1冊あるのです。

No. 180 命名、心的領域論

昨日から、ミック・ジャガーのソロアルバムを聞き続けています。アルバムタイトルは、Goddes in The Door Wayというもので、中でもDancing in The Starlightという曲が、頭にこびりついて離れません。たった一曲のロックナンバーが、人生の全てを教えてくれているような気がします。

 

さて、前回のシリーズで述べてまいりました1次性から3次性にいたる人間心理と文化に関する説ですが、これを心的領域論と命名させていただくことにしました。これと記号原理の2つの論理で、私の文化論の骨子は固まったように感じております。表象文化についての検討は終えていませんが、多分、明確なロジックというものはないのではないか。人間の持つ心的イメージを具現化したものが表象文化と呼ばれているのだと思いますが、それでは文化に関する意味ある解体がなされているとは言えない。私の心的領域論の方が、正確に人間と文化を分析している。僭越ではありますが、今は、その確信に似たものがあります。

 

簡単に振り返ります。

 

1次性というのは、人間の身体性に関わる心の領域であって、そこには性や暴力、非論理性が秘められている。この心的領域を反映したのが、祭祀である。人はこの心的領域に駆られて、歌い、踊る。そして、人間集団の中で自らの位置を獲得するために、人は着飾り、化粧をし、時には入れ墨を施す。人はこのように、自らを記号化することによって、他人との関係性を模索しているのだと思います。この1次性という心的領域は、人間の動物的本性に由来しているものであって、生命力そのものを司っているに違いない。

 

2次性という心的領域は、人が外界と幸福な関係を持とうとするところに本質がある。人は、長い歴史の中で経験を通じて、物と親和的な関係を持つ術を学んだのだ。その一つには、物に願い込めるという文化形態があって、これが呪術である。次に、物に何かを象徴させるということもある。何かを象徴させた物を大切にすることによって、人は心の平安を得る。物との関係で言えば、遊びもこの心的領域に属しているに違いない。

 

3次性という心的領域の起源は、死者に対する恐れにあったはずだ。それがアニミズムであり、これを契機に人は思考するようになった。様々な自然現象や、自分達の生い立ちなど、人々は考え続けた。そして、融即律という直観に依存する思考方法に至る。これが更に進化し、人々は神話を生み出す。神話というものは、一見、無茶苦茶なように見えて、その底流には論理がある。その論理構造にチャレンジしたのが、レヴィ=ストロースだった。但し、物語性によって思考しようとする習性は、現代にも生きている。例えば、現在、オリンピックのニュースで持ちきりですが、そこには必ずと言って良いほど、メダリストたちの物語がついて回る。前回のオリンピックではメダルを逃した選手が、いかに立ち直って今回の成果につながったか。怪我をどのように克服したのか。これらの情報というのは、実は、事実だけを述べているものではない。神話的な手法によって、人々はメダルの意味を理解しようとしているに違いない。

 

現代にも生きているとすれば、それは「神話的思考」と呼ぶよりも「物語的思考」と呼んだ方が適当かも知れない。実は3次性に関して、お詫びがあります。当初の原稿で、私は「誰もが3次性を持っている」と述べてしまいましたが、前回の原稿では「誰もが3次性を有している訳ではない」と記載しました。正確に言えば、多分、誰もが3次性という領域を持っている。ただ、それは融即律であったり、物語的思考である場合がある。それらを越えた純粋論理を有している人は、少ないという意味です。

 

純粋論理という言葉も、本当は「純粋理性」と言いたいところです。とにもかくにも、純粋理性批判を読んだ上で、この言葉を使わせてもらいたいと思います。

 

1次性から3次性までの心的領域があって、それぞれの領域を作動させるのが記号原理だと考えれば、論理が整合すると思います。

 

ところで、ユングの分析心理学では、(表層)意識、個人的無意識、集合的武意識の3層構造によって人間心理が説明されています。私の心的領域論の1次性は、集合的無意識に、2次性は個人的無意識に、それぞれ類似しているようです。そして、(表層)意識は、私の説では記号原理に取って代わります。すると、心的領域論の3次性について、ユングは述べていないことなりそうです。そう言えば、ユングは神話を集合的無意識との関係で位置付けていました。

 

なお、記号学のパースに対する最大の批判は、「生涯を通じて、体系的に考えることができなかった」点だと言われています。体系がないとは、あの時に述べられたことと、今回述べられたことが矛盾している、ということだと思います。この批判は、このブログにもそのまま当てはまります。体系がない・・・。

 

日々の思索の過程をそのまま記載してきたので、そのような結果になるのは当然のことです。しかし、公式のものだけでも、180本もの原稿を掲載してきた訳で、記号原理と心的領域論なる考え方に到達したのも事実です。読者の皆様には、寛容なご判断をお願いする次第です。

 

さて、些細なことでも構わないので「意味」を発見しろ、または「意味」を創出しろ、というのが記号論のメッセージでした。そして、2次性への回帰を目指せというのが、心的領域論の主張です。

 

私自身、今後、「意味」を探しに出掛けるか、2次性への回帰を目指すのか、それとも記号論と心的領域論を統合した「文化論」の完成を目指すべきなのか、思いあぐねています。よって、しばらくブログの更新は休むことにさせていただきます。ただ、何らかの心境の変化が生じた場合には、このブログで報告させていただきます。

 

有り難うございました。

No. 179 人の心の壊れ方(その5)

イワム族の村長さんが、ある日、こう言ったそうです。

 

「我々の祖先は、バナナである。よって、今後バナナを食べることは禁止する。」

 

その後、村人たちは長い間、バナナを食べなかったそうです。この話を最初に読んだ時には「村長さんも罪なことを言うなあ。バナナは貴重な栄養源であるはずなのに」と思ったものです。しかし、今の私には村長さんの気持ちが分かる。まず、記号原理に従って、この話を分解してみましょう。

 

この話における記号は、バナナです。バナナが指し示している対象は、祖先ということになります。そして、バナナを食べない、食べることを禁止するというのが行動です。その意味するところは、祖先崇拝というアニミズムであることが分かる。

 

対象・・・祖先

記号・・・バナナ

行動・・・バナナを食べることを止める

意味・・・祖先崇拝

 

これは、意味創出型です。そして、「我々の祖先はバナナだ」と思い付いたのは、融即律ですね。この村長さんは、相当に思い悩んだのだろうと思います。考えに考えた末、ある日、覚醒している時に直観が沸き起こったか、または眠っている時に、夢を見たに違いない。人には、親がいる。そして、親たちにも親がいる。では、最初の人間とは、一体何者だったのか。私たちは、どこから来たのか。我々は何者なのか。そういう普遍的なことを、この村長さんは一生懸命考え抜いたに違いありません。やはり、村長に選出されるだけのことはある。りっぱな人物だったのだろうと思います。

 

また、この話はもう一つ、示唆を含んでいると思うのです。それは、村長さんの発言が、ある社会のタブーを生み出している点です。バナナを食べてはいけないという社会的な規範が成立している。現代社会における法律の原点が、実はこんなところにあるのではないかと思うのです。

 

人の心の1次性と2次性は、大昔から、さほど変化していない。しかし、この3次性は、進化してきたに違いないと思うのです。最初に死者に対する恐れがあり、霊魂や精霊の存在を信じ、祖先崇拝へとつながった。これがアニミズムです。そして、前述の融即律という現象が生じる。更に想像力が付加され、神話となる。文字が発明された後、神話は爆発的に普及する。人々は、神話によって世界を理解した。しかし、この神話的な思考は、様々なタブーや不平等、人権侵害を生み出した。そこで、神話的な思考とは別に、純粋な論理というものを人々は考え始めた。それは、平等であり、人権の尊重であり、平和主義につながっていく。人類は、論理的に思考するという心を獲得したのだと思うのです。列挙してみましょう。

 

1 アニミズム

2 融即律

3 神話的思考

4 純粋論理

 

上記の「思考する」という心のあり方を、本原稿では「3次性」と呼んでいます。なお、4番の「純粋論理」という言葉は、「純粋理性」と言った方がしっくりくるのだと思います。しかし、「純粋理性」という言葉は、既にカントが使っている。そして、私は未だにあの本を読み終えていないので、ここでは「純粋論理」としておきます。

 

ちなみに、神話的思考から純粋論理への転換が図られたのは、フランス革命が最初だと思われます。この革命によって、初めて政教分離が行われたようです。

 

なお、この思考するという心の働きは昔からあった訳ですが、ただ、考えるベースとなる知識に相違があるので、上記のような変化を遂げたのだろうと思います。

 

問題なのは、誰もが心の中に1次性と2次性は持っているのですが、3次性を持っている人というのは、半数にも満たないと思われることです。動物的な1次性があって、それが2次性において、調和されてしまう。従って、3次性はなくても生きていける。いや、現代日本の社会を考えますと、3次性を持たない人の方が、生きやすいのではないかと思います。

 

元来、3次性の起源がアニミズムにあるとすれば、その心のあり方は、超越的な存在を想定し、その下に自分を位置付けるという特徴を持っている。超越的な存在や現実の出来事を受容しつつ、考え続ける。このような心のあり方を持った人というのは、権力者にはなり難いのではないか。権力者というのは、1次性の強い人が多いのではないだろうか。そして、1次性と3次性が互いに戦い続けてきた。それが人類の歴史ではないだろうか。昔から、文武両道などと言いますが、文が3次性で、武が1次性だとも言えるような気がします。

 

現代社会において3次性が具現化されている文化形態としては、数学と法律学が典型例ではないでしょうか。そこには、人間のぬくもり(1次性)も、物の確かさ(2次性)もありません。ただ、概念と論理があるばかりです。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

1次性 ・・・ カオス ・・・ 人間と動物

2次性 ・・・ 調 和 ・・・ 物と経験

3次性 ・・・ 受 容 ・・・ 概念と論理

 

蛇足ながら、私の所感を述べます。せっかく人間として生まれて来たのですから、より大きな心を持った方が良い。すなわち、3次性を獲得した方が良いと思うのです。3次性というのは、いくらスマホのゲームをやっていても、獲得できるものではありません。言葉の線状性に触れる。すなわち、文章を読まなければ、獲得できないのだろうと思います。なお、勝手に想像させていただきますと、このブログに多少なりとも興味を持っていただいた方は、3次性をお持ちのことと思います。何しろ、このブログには「概念と論理」しか出てこないのですから。

 

3次性を持っている方は、時として、心が疲れてしまう。そんな時は、どうでしょうか。2次性への回帰を目指してみる。すなわち、過去の経験に基づく心的イメージを希求してみるということです。物に願いを託してみる。何かを象徴している物を大切にしてみる。そんなところに、古代から伝わる人間の知恵があるような気が致します。

No. 178 人の心の壊れ方(その4)

もちろん、私だって幸せになりたい。そこで、どういう人たちが幸せなのか考えてみました。例えば、今、話題の佐川国税庁長官。私のような一市民からすれば、とんでもなく高額の報酬を得ているのだろうと思います。退職金だって、相当もらえるのでしょう。しかし、彼は幸せだろうか。私には、そう思えません。

 

一方、地元の駅では、冬の寒い中、望遠レンズを構えている人たちを大勢見掛けることがあります。「撮り鉄」と呼ばれる人たちです。何が楽しいのか、私にはさっぱり分かりませんが、彼らは普通の(?)電車に向けて、一生懸命シャッターを切っている。もしかすると、こういう人たちが一番幸せなのではないか。農家の納屋に眠っている古いバイクを譲り受けては、一生懸命それを修理している人もいる。気の遠くなるような話ではありますが、運良くエンジンが始動した時には、それは嬉しいに違いない。プラモデルを組み立てている大人だって、少なくはありません。同じような物を沢山集めている人たちもいる。例えば、釣竿を何十本も持っているとか、楽器を沢山持っている人もいる。周囲の人にどう思われようが、こういう人たちというのは、とても幸せそうに見える。

 

彼らは皆、「物」との間に幸福な関係を築いている。その始まりには、きっとうまくいった、成功体験があるに違いないと思うのです。

 

ところで、「物」と人間の関係には、長い歴史があるようです。装飾品などの他にも、現代人には使い道を理解できないようなものが、沢山発見されたりします。日本の遺跡からは、埴輪が多く出土していますが、これだって、特段の使い道があったようには、思えません。呪術を目的として、何らかの願いを込めて、古代人はこのような「物」を作り出したのか。可能性は、もう一つあります。それは「象徴」ということです。

 

現代においても、例えば「位牌」という物が存在します。死者の戒名や俗名を記した木の札のようなものですが、これは死者を象徴しています。婚約指輪という物もありますね。これは結婚の約束をしたという事実を象徴している訳です。そして、位牌も婚約指輪も大切に取り扱われる。それはとりもなおさず、それらの「物」に象徴性があるからなんです。

 

このように考えますと、「物」と人間の関係には、少なくとも以下の種類があることが分かります。

 

・機能; 人間が物の機能を利用する

・呪術物; 人間が物に願いを込める。てるてる坊主など

・象徴; 人間が物に何かを象徴させる。位牌、指輪など

・遊びの道具; ビー玉など

 

他にもいくつかの種類があるような気がします。しかし、ここに記したいずれのケースにおいても、人間は物との間に親和的な関係性を築いています。このような心の有り様を「2次性」と呼びたいのです。2次性は、他人と争わない。あくまでも調和しており、そして壊れにくい。

 

イワム族には、何の変鉄もない石ころや棒切れを大切にしている人がいるそうです。そう言えば、マサイ族の男性と結婚した日本人女性だったと思いますが、面白いことを言っていました。マサイ族の人に、例えば100円ライターのような、ちょっとした文明の利器をプレゼントする。その際、彼女は当然その使い方を説明します。しかし、彼らは決して、説明通りの使い方をしないというのです。どうするかと言えば、まず紐などを使って、身に付けるんだそうです。何故か、私にはその理由が分かるような気がします。彼らはきっと、その「物」と自分との間に親和的な関係を見つけようとしているのだと思うのです。例えば、その「物」を身に付けて生活しているうちに、死んだ親父の夢を見る。するとその100円ライターは、彼にとって親父を象徴する神聖な物になる。そんな可能性を探るため、まず、身に付けてみるのではないでしょうか。機能にばかり関心を向けるのは、現代人の悪い癖かも知れません。

 

ところで、以前ラスコー洞窟の壁画について、紹介致しました。世界最古の壁画で、狩りをしている様子が描かれている。これは、狩りの成功を願った呪術として描かれたものだと解されています。簡単に記述しますと「壁画を描くと、狩りに成功する」ということです。壁画というのは、洞窟の壁と顔料によって構成されていますので、ここでは便宜上「物」の一種だと考えましょう。そして「狩りに成功する」というのは、「意味」ということになります。従って、この呪術は「物」と「意味」の二つの要素によって、構成されていることになります。

 

物・・・壁画

意味・・・狩りに成功する

 

ではどちらが、先にできたのか。壁画というのは、当時の人々にとっては、大発明だった訳です。そんなものを見たことも聞いたこともない段階で、こういうものを描くと狩りに成功するぞ、とは誰にも言えない。従って、物、すなわち壁画が先にあったはずだと思うのです。そして、誰かが壁画を描いた後で狩りに出掛けると、たまたま大成功だった。そういう経験があったのではないか。そこで、壁画を描くと狩りに成功するという意味が生まれた。そう考えるのが、自然ではないでしょうか。つまり、まず物があって、経験を経て、意味がもたらされる。これが、呪術という「物」に関わる文化の基本構造ではないかと思うのです。

 

経験というのは、人の心に様々なイメージをもたらす。また、経験は個々人によって、千差万別です。だから、人によって追い求める事柄も違ってくる。他人に理解されなくても、法律に触れない範囲内であれば、何でもやってみればいい。何処へでも、行ってみればいい。

 

では、キーワードを並べてみます。

 

1次性・・・カオス・・・人間と動物

2次性・・・調 和・・・物と経験

No. 177 人の心の壊れ方(その3)

 

一昨日、晩酌のビールを飲みながら“イッテQ”という番組を見ておりました。女性芸人の方々がフィンランドを訪ねているのですが、そこで現地の女性たちからダンスを教わる。そのダンスというのは、馬の歩き方、走り方を真似するんです。確かに、熟達したフィンランドの女性たちは、馬が走っている時の足の動きをうまく再現している。本当に馬の足とそっくりだなあ、などと感心しながら、ふと閃いたのです。ダンスというのも、実は動物の動きを真似る所から始まったのではないか。そう言えば、バレエの演目には“白鳥の湖”というのがある。

 

ちょっと違うかも知れませんが、そう言えば盆踊りの炭鉱節というのは、炭鉱での作業の様子を再現している。ドジョウ掬いなんてものもありますし、若い人たちだって、ロボットダンスと言って、ロボットの動きを再現して、踊っている。いずれにせよ、昔から人間は動物の真似をしてきたに違いない。そこに文化の起源がある。動物の鳴き声を真似して、歌ができた。動物の動作を真似して、ダンスが生まれた。

 

では何故、(特に)古代の人たちは、動物の真似をしたのか。暇だったのだろうか。いや、彼らは動物を尊敬していた。だから、動物の真似をしたのだろう。自分たちは空を飛べない。でも、鳥たちは優雅に大空を舞っている。例えばイノシシだって、とても早く走ることができる。だから、彼らは動物を尊敬していたんですね。なんて謙虚な発想でしょうか。現代に生きる私たちも、少し見習いたいものです。

 

さて、1次性の心というのは、歌とダンスによって構成される熱狂的な“祭り”と共に育まれてきたのだと思うのです。祭祀と言うと、“祭り”と“儀式”の総称ですが、秩序立てられた“儀式”が生まれるのはずっと後のことで、それ以前の何万年という間、人々は熱狂的な“祭り”を繰り広げていたはずです。

 

では、人類が最初に“祭り”を始めた頃の状況を想像してみましょう。彼らは、狩猟採集民です。一人で狩りを行うのは困難なので、彼らは集団で移動しながら生活をしています。辞書なんてものはありません。ラジオ放送もありません。従って、彼らの話す言葉は、100%の方言で、通じない場合も少なくなかったことと思います。法律もなければ、モラルもありません。暴力沙汰なんてものは、日常茶飯事だったことでしょう。力の強い男が女たちをレイプする。そんなことも、当たり前だったのではないでしょうか。そんな暮らしの中で、誰かが歌を口ずさむ。誰かが踊り出す。それが、例えば何かの動物に似ていれば、それは人々の共感を生み、他の者も真似をしだす。何しろ、真似をするというのは、1次性の心を構成する基本的な要素だと思うのです。どこかに臨界点があって、例えばその集団の過半数の者が踊り出した場合、残る者も踊らざるを得ない。そうしなければ、仲間外れにされてしまう。そして、全員が踊り始める。全員で同じダンスを踊っていると、そこに連帯感が生まれ、集団の結束が強くなる。

 

そんなことを長時間続けていると、誰かがトランス状態になる。これがなかなか気持ちいいんですね。脳の中にドーパミンが発生するのです。更に人々は、大麻などのドラッグを使い始める。こういう歴史の中から、私たちの心の中に1次性というカテゴリーが生まれた。だから、この1次性という心の状態は、性的であり、暴力的であり、動物的であると言えると思うのです。そこに論理性はありません。力の強いリーダーが支配していて、全てはそのリーダーが決定する。してみると、論理性というのは、むしろ否定される。圧倒的な独裁制であり、集団主義だと思うのです。論理性がない。だから、この1次性は、カオスという一語によって、象徴されると思うのです。

 

では、1次性の心というのは、壊れることがあるのか。当然、あったのだろうと思います。半世紀程前、パプアニューギニアのイワム族で、アムックと呼ばれる一時的な精神錯乱が確認されています。他の民族でも、同様の事例が多数確認されていますが、錯乱状態に陥った人が、最悪、殺人まで犯します。アムックという現象が起こる原因としては、心理的なストレスが原因となっている可能性があるようですが、本当の所は分かりません。

 

そんな昔のことは関係がない、と思われるかも知れません。しかし現代の日本にも、この熱狂的な祭りは、存在します。YouTubeで検索をしますと、日本各地に“喧嘩祭り”とか“男祭り”と呼ばれる習慣が存在します。これらの祭りは熱狂的で、興奮し過ぎた男たちが喧嘩を始めてしまう。喧嘩の表面的な理由というのは、些細なことだろうと思うのです。そして、喧嘩をする本当の理由は、多分、祭りによって興奮し、暴力的な本性が剥き出しになるからではないか。落ち着いてから当の本人に喧嘩の理由を尋ねても、多分、彼らは合理的な理由を説明できないのではないか。これって、イワム族のアムックとそっくりではないでしょうか。こういう祭りで興奮するのは、女性も同じだと思われます。若い女性が、お揃いのハッピを着て、お化粧をして、熱狂的に踊る。そういう動画もあります。

 

非論理的な1次性という心の状態は、バランスが取れていない。むしろ、狂気を孕んでいる。だから、熱狂的な祭りによって、蓄積されたストレスなり狂気を少しだけ解放している。そういう側面もあると思います。

 

また、1次性の心が興味を持っている対象は何かと考えますと、それは人間と動物だろうと思うのです。人間の赤ん坊が心を持つに至るプロセスを考えましても、最初に持つ心の状態というのは、この1次性だと思います。幼児というのは、時に残酷で、エゴイスティックで、非論理的で、人間と動物に興味を持っている。

 

現代に生きる私たちの全員が、この1次性という心の状態を持っている。1次性は、最もポピュラーな心理状態だと思うのです。そしてこの1次性は、身体感覚と不可分であって、感覚的、感情的と表現しても良いと思います。私たちが、プロレスの流血シーンに興奮したり、他人の不倫に興味を持ったりするのも、この1次性のなせる業だと思うのです。

No. 176 人の心の壊れ方(その2)

 

推理小説で言えば、最初に犯人を特定するようなものではありますが、今回のシリーズ原稿でも、最初に結論を述べることに致します。

 

人間の心については、層がいくつかに分かれている。意識の他に無意識があると言って、反対する人は少ないと思います。では、いくつの層に分かれているのか。この点、ユングは表層の方から、意識、個人的無意識、集合的無意識の3つだと述べています。(後年のユングは更に深い所に「類心的レベル」があると言ってはいますが)パースは第1次性から第3次性までの3つだと言っています。このユングとパースの分類は異なるものだと思って来たのですが、よくよく考えてみますと、本質的に大差はないのではないか。そう思うようになりました。別の言い方をしますと、一応、人間の心には3つの層があるという考え方に、私も賛成だということになります。なお、ユングの場合は表層の方から表現され、パースは逆に深層の方からの呼称となります。便宜上、これを対照表にしてみましょう。

 

1次性・・・集合的無意識
2次性・・・個人的無意識
3次性・・・意識

 

以後、パース流の呼称をベースに表記させていただきます。

 

詳細は後述するとして、1次性の心の状態を一言で表現すれば、「カオス」ではないでしょうか。パースはこの心の状態を「未分化で、あたかもアダムが初めて見た世界のよう」と述べています。未だ言葉がないから、何も区別することができない。だから、未分化ということになるのでしょう。ユングに言わせれば、「人種や時代を超えて、人々が持っている共通のイメージ」ということになります。いずれにせよ、混沌としている。こういう心の状態というのは、もちろん現代に生きる私たちの心にも生き続けている。そして、1次性の心は、記号原理を経て、具体化される。そして、文化となり、原始的な「祭祀」を生んだに違いない。この心の状態は、性的であり、暴力的であり、エゴイスティックであり、動物的である。

 

2次性の心というのは、個人的な経験に関係している。とりわけ、外界と親和的な関係を結んだ経験が、心の中にイメージとして蓄積される。それは、景色であったり、象徴的な「物」であったりする。そして、人々はそのイメージを追い求める。この人間と外界との親和的な関係が2次性の本質であって、このような心の状態を一言で表現すれば、「調和」ということになる。この2次性の心は、記号原理を経て、「呪術」という文化を生んだ。

 

3次性の心というのは、パースが言ったように、正に記号の世界である。そこでは心的イメージや1次性の衝動も抑圧される。その抑圧の根拠は、規範であったり、論理性であったりするに違いない。この3次性の心は、外界や論理に服従し、屈服する。3次性の心も記号原理を経て、「神話」という文化を生んだ。

 

このブログで、私は精神文化について種々の検討を加えてきましたが、その本質を考えますと、上記の通り、祭祀、呪術、神話の3要素に還元できるのではないかと考えるに至ったのです。シャーマニズムは、祭祀と呪術の中間的なものであって、これは省略しても良い。祭祀、呪術、神話。この3要素が精神文化を構成する単位であって、宗教はそれらを総合したに過ぎない。

 

更に、1次性の心が暴発すると、人は暴力的になり、最悪の場合は殺人を犯す。

 

心が3次性の領域に寄り過ぎると、人は内省的になり過ぎ、うつ病になったりする。最悪の場合は、自殺に至る。

 

誰の心にも、1次性から3次性までの領域があると思いますが、その比率は人それぞれに異なる。そのバランスが崩れた時、人の心は壊れるに違いない。

 

1次性に寄り過ぎた人と3次性に寄り過ぎた人は、バランスが崩れているので、2次性を目指すべきだと思うのです。2次性とは、すなわち個人的な経験からくる心的イメージであり、象徴的な「物」との関わりであり、そして呪術である。ここにこそ、心の調和がある。これが、本原稿の結論です。では、一覧にしてみましょう。

 

1次性/カオス ・・・ 記号原理 ・・・ 祭祀

2次性/調 和 ・・・ 記号原理 ・・・ 呪術

3次性/受 容 ・・・ 記号原理 ・・・ 神話

 

なお、前回の原稿で、うつ病を患っている方がバイクの免許を取得しようとしている話を書きましたが、バイクというのは「物」であって、これは2次性なんですね。よって、バイクに関わるという行為には、心を癒す働きがある。そう思います。

No. 175 人の心の壊れ方(その1)

 

相変わらずバイクの動画を見ているのですが、これが面白くて仕方がないのです。私は、バイクを買うつもりも乗るつもりもないのですが、何故、面白いのだろうと考えたのですが、どうやら、バイクと人の関わり方が面白いということのようです。

 

最近バイクの世界では、「ラーツー」というのが、流行っているようです。勘のいい方はお分かりかと思いますが、これはラーメン・ツーリングの略語です。バイクでそれなりの距離を走る訳ですから、これはラーメンの有名店に行くのだろうと思ったのですが、最近のラーツーは違う。バイクに機材を積んで、海辺など景色の良い所へ行くのです。そこでお湯を沸かし、カップラーメンを食べるんですね! これには驚きました。でも、そういうのもいいと思うのです。所詮、私たちの人生に然したる意味なんて、ないんです。意味というのは、苦労して発見するか、または自ら創造するしかない。それがどんなにささやかなものであっても、その意味によって私たちは現実世界とつながっていく。

 

ところで皆さんは、ホンダのダックスとかモンキーというバイクをご存知でしょうか。ミニバイクですが、これで楽しんでいる人たちも少なくない。当初は、遊園地の乗り物として開発されたようですが、やがてクルマにも積めるということで、その後、相当売れたんですね。私も憧れていました。排ガス規制の関係だと思いますが、残念ながら生産終了となってしまいましたが・・・。このダックスとかモンキーというバイクは、自分で修理をしたりカスタマイズしても楽しい。人によっては、改造費に100万円以上も掛けているようです。

 

バイク動画の世界にも、オピニオン・リーダーのような人たちがいます。バイクの乗り方や、掃除の仕方などを教えてくれる。初心者にとっては、本当に心強い味方だと思います。そんな動画を見ておりましたら、ある視聴者からこんなリクエストがありました。

 

その動画の視聴者は、看護師である。そして後輩の看護師がうつ病になってしまったが、今はバイクの免許を取ろうとして、教習所に通っている。助言をお願いしたい。

 

YouTubeですから、画面の下方にコメント欄がある。私が驚いたのは、そのコメント欄に「自分もうつ病だった」「自分は今もうつ病だ」という書き込みがずらりと並んでいた事です。うつ病というのは現代病のようなもので、今、本当に多いですね。私も、何人もそういう人たちを知っています。ただ、私が注目したのは、うつ病とバイクとの関係なんです。もしかすると、バイクには人の心を癒す働きがあるのではないか。

 

この問題は、文化論の立場から、一度、考えてみる価値があるのではないか。

 

例えば、日本の捕鯨に反対する人は、このように述べています。クジラを殺したからと言って、クジラの心が分かる訳ではない。殺さないで、生きているクジラの行動を観察するべきだ。そうすれば、クジラの行動を通して、クジラの心を理解することが可能になる。

 

私もそう思うのです。人間の行動や文化を観察することによって、その先にある人間の心を理解することが可能になる。