文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

動物を真似る、食べる、敬う

放送大学文化人類学の講義(第8回)を見ておりましたら、インドには蛇の真似をした踊りがあるとのこと。やはり、ダンスというのは、動物の真似をするところから始まったに違いない。

 

ところで、前回の原稿では、3次性の歴史的な変遷について述べました。アニミズムに始まり、論理的思考に至る4つのステップです。そうしてみると、他の1次性、2次性についても、歴史的な変遷と言いますか、その起源があるに違いない。この点について考えてみた結果、表題の通り、人間の動物との関わり方が3種類あって、それが各々人間の心的領域(1次性~3次性)に対応しているのではないか、という思いに至りました。では、早速ですが一覧にしてみましょう。左から順に、区分、動物との関わり方、典型的な文化形態、興味の対象、特徴を記します。

 

1次性・・・真似る・・・祭祀・・・人間と動物・・・身体的
2次性・・・食べる・・・呪術・・・物と経験 ・・・物理的
3次性・・・敬う ・・・神話・・・概念と論理・・・概念的

 

まず、1次性の“真似る”ですが、これは人間の歌とダンスが動物を真似る所から始まったという見方に基づいています。歌とダンスは、参加メンバーが一定のリズムに合わせて歌い、踊らないと成立しない。やがて人々は集まり、祭りが開催されるようになる。その集団のスケールは、段階を経て大きくなる。このブログにかつて「集団スケールと政治の現在」という原稿をシリーズで掲載しましたが、集団のスケールは最終的には国家規模にまで至る。やはり、この1次性という心的領域にも長い歴史があることになります。

 

次に2次性の“食べる”ですが、言うまでもなく人類は動物を食べ続けてきた。人類はかなり昔から狩猟に用いる武器を発明し、使用してきたのです。ヤリがあり、弓矢があり、そこから人類と“物”の深い関係が始まったのではないでしょうか。動物の毛皮は衣服となる。そして、例えばラスコー洞窟の壁画のように、人類は狩りの成功を願い、呪術という文化を生む。呪術はやがて科学となり、貨幣なるものが発明され、経済活動が活発となる。私がかつて、このブログで「物質文化」と呼んだ領域は、この2次性に他なりません。

 

そして、3次性の“敬う”ということですが、人類はかなり以前から動物を崇めて来たのです。日本の稲荷神社がキツネを祀っているように、宗教の前段階で動物信仰があったに違いありません。宗教によって、例えばブタを食べてはいけないとか、牛は食べるな等、禁食にかかる戒律がある訳ですが、これらも動物信仰に起源があるのだろうと思います。このように、人類は動物に感謝し、頭を垂れて来た。これが、アニミズムですね。

 

やはり、人類の動物に対する態度が3種類あって、それぞれが独自の文化を生んだ。その文化は、そのまま人間のメンタリティを構成してきたのではないか。この考え方に従えば、現代人のメンタリティまで説明することができる。

 

1次性から3次性までの心的領域は、時に調和し、時に対立してきた。例えば、フラメンコというのは、常に女性が踊り、男性がギターなどの楽器を演奏していますね。これが逆だと、やはりしっくり来ません。踊るというのは、1次性の典型です。そして、楽器という“物”を演奏するというのは、2次性だと言えそうです。この例では、1次性と2次性が見事に調和している。現代の捕鯨問題も理解できます。クジラを食べて何が悪い、という日本の主張は2次性で、クジラは食べるなという主張は3次性です。この例では、2次性と3次性が激しく対立しています。

 

キリスト教を例にとって考えますと、まず、讃美歌、聖歌などの音楽がある。また、黒人教会では伝統的にゴスペルが歌われてきて、これが後世のポップ・ミュージックに多大な影響を与えたと言われています。これが1次性ですね。次に、十字架やキリストの像がある。教会という物理的な建物も重要な役割を果たしてきた。これが2次性。そして、聖書がある。これが3次性ということになります。

 

仮に、キリスト教のように3つの要素を兼ね備えたものを宗教と呼ぶとすれば、現代日本の仏教や神道は、宗教と言えない。これらは、呪術だと思います。商売繁盛や、良縁、安産、交通安全などを祈願する。そして、その証としてお札やお守りをもらったりする。

 

では、この心的領域論をユングのタイプ論と対比させてみましょう。

 

1次性・・・真似る・・・感情
2次性・・・食べる・・・感覚
3次性・・・敬う ・・・思考(直観)

 

やはり、対応していると思います。感情というのは、基本的に人間が人間や動物に対して持つ心の働きではないでしょうか。他方、感覚というのは、主として人間が“物”に反応する作用ではないかと思います。おいしいとか、心地よいなど。

 

男女の違いについても、説明できます。1次性が女性的で、2次性が男性的だと言えます。歴史的な事実として、男は狩りに出かけ(2次性)、女は子育てをしてきた(1次性)。ただ、文化人類学的に見ても、性というのは不確かなものであって、入れ替わることが頻繁に起こります。

 

更に、1次性の祭祀は昼間の文化で、3次性の神話は夜の文化だとも言えそうです。

 

どうやら、アイディアの段階としては、私の心的領域論は、これにて完成したようです。これで、文化も、人間のメンタリティも全て説明できる。(多分!)

 

この立場から、現代日本の状況を見てみましょう。まず、地上波のテレビ。これは9割が1次性だと思います。とにかく、人間と動物にしか興味がない。オリンピックをはじめとしたスポーツ番組など。CMもそうですね。人間も動物も登場しないCMというのは、見たことがありません。残る1割の大半は、グルメ番組などの2次性に関わるもので、3次性に関する番組というのは、それこそ放送大学が放映している位のものです。新聞広告で、ある女性誌の目次を見たのですが、これは100%、1次性だけでした。他人の恋愛、不倫、健康問題など。男性週刊誌なども同じです。とにかく、水着姿の女性の写真が多い。これも1次性です。1次性のメンタリティというのは、とにかく他人に共感を求める。これが、しばしば度が過ぎて、強要となり、息苦しさを生む。フィギュアスケートの羽生選手を追っかけているオバサンたちも沢山いるようですが、彼女たちの心的領域には、1次性しかないのではないかと思ってしまいます。子育てをしている間はいい。しかし、子供はいつか巣立っていく。それでも、彼女たちはひたすら人間と動物に興味を抱き続ける。すると、羽生選手を追っかけるか、他人の噂話をする位しか、することがなくなるのではないか。1次性、これが口うるさく、息苦しい世間というものの正体だと思います。

 

選挙における投票行動も分かります。

 

1次性・・・自民党公明党に投票
2次性・・・投票しない無党派層
3次性・・・論理的な野党に投票

 

人間というのは、1次性から始まるものの、物と出会って2次性を獲得し、本を読んで3次性に至る。(そうあって欲しいと私は願っています。)しかし、3次性を獲得した高齢者は、死んでいきます。そして、その代わりに赤ん坊が生まれて、また、1次性から始まる。だから、いつまでたっても、人間の社会というのは進歩しない。

人が論理的思考に至るまで

心的領域論の続きで、少し考えたことを記します。今回は私が3次性と呼んでいる領域がどのように生まれたのか、考えてみます。

 

ちょっと復習しますと、3次性の領域は、「概念と論理」に関心を持ち、その文化的な起源は「神話」ということになります。私が考えている3次性の歴史的な経緯は、次の通りです。

 

1. アニミズム
2. 融即律
3. 物語的思考
4. 論理的思考

 

上記の4つのステップを総称して、「神話的思考」と呼ぶのが良さそうです。

 

アニミズムと融即律については、既に述べましたので、今回の原稿では、3の「物語的思考」と4の「論理的思考」について考えてみます。

 

まず、物語的思考に論理性はあるのか、という問題がありますが、結論から言えば、あると思うのです。誰もが知っている童話「桃太郎」を例に考えてみましょう。

 

桃太郎は、何故、鬼退治に出掛けたのか。これは、鬼が悪さをして村人を困らせていたからですね。次に、サル、イヌ、キジの3匹の動物は、何故、桃太郎について行ったのか。それは、桃太郎がキビ団子を分け与えたからです。更に、桃太郎は何故、鬼を成敗することができたのか。その理由は3つあります。まず、鬼が酒盛りをしていて油断していたということ。また、3匹の動物がそれぞれの特徴に従って、多様な攻撃を加えたということもあります。すなわち、サルは引っかき、イヌは噛み付き、キジは突っついたのです。そして、桃太郎はわんぱく小僧で、喧嘩に強かった。これらの点を考えますと、3段論法とまではいかないまでも、この童話には論理性がある。少なくとも、原因と結果の間の因果関係がきちんと説明されている。これが、物語的思考における一つの典型ではないでしょうか。

 

しかし、物語的思考には、抽象的な概念というものが登場しないんです。すなわち、ある言葉があって、それを定義しなければ伝わらないような事柄、すなわち概念は登場しません。

 

次に、物語的思考との対比で、論理的思考とは何か考えてみましょう。

 

我が国の民法で代表的な条文に709条があります。出だしだけ抜粋してみます。

 

民法709条  故意または過失によって、他人の権利を侵害した者は(以下略)

 

たったこれだけの文章の中に、いくつもの概念が登場します。まず、「故意」「過失」「権利」「権利侵害」などを挙げることができます。実務上、特に問題となるのは「過失」です。これは更に、「損害の発生が予見可能であるにも関わらず結果回避義務を怠った場合に過失が認定される」と説明されます。ここでも、新たな概念が出てきます。すなわち、「予見可能性」とか「結果回避義務」とは何か、ということになる訳です。これらも概念です。

 

このように考えますと、抽象的な概念を用いずに、半ば仮説のような形でストーリーを作るのが物語思考であって、複数の事例をベースに概念を用いてロジックを作るのが論理的思考だと言えるのではないか。

 

桃太郎の例で言えば、桃太郎が勝利してハッピーエンドで終わる訳ですが、もう少し柔軟に考えますと、桃太郎が鬼に敗北する可能性だってある。そういう事例を沢山集めてみる。そして、それではどうするのが一番いいのか、ということを考える。これが、論理的思考ではないでしょうか。桃太郎が勝ったり、負けたりする。それでは、鬼と話し合って共存する方が良いのではないか。すると、共存するためのロジックが必要となり、人間と鬼との権利義務関係の調整が必要となる。そして、概念が生まれる。

 

すなわち、物語的思考というのは個別的であり、個人的であり、歴史的な経験に基づいていないと言えそうです。他方、論理的思考というのは、集団的であり、歴史的な経験に基づいている。従って、論理的思考は物語的思考よりも数段複雑だと思います。

 

現代の社会でこの論理的思考に基づく文化というのは、法律学政治学、経済学、社会学などを挙げることができます。どれも複雑で、難しい。他方、現代の社会で物語的思考に基づく文化の典型は、文学と宗教ではないでしょうか。

 

前記の通り、論理的思考というのは難しい。例えば、現在の日本において、何歳位になれば論理的思考能力を持つことが可能になるでしょうか。もちろん、置かれた環境や個人差はありますが、平均的に言えば、二十歳でも難しいような気がします。もっと言えば、現在の日本において、論理的思考能力を持った人というのはどれ位いるでしょうか。多めに見積もっても30%程度ではないかと感じます。何故かと言えば、この問題は、選挙における投票行動に直結していると思うからです。大体、論理的な主張を行っている野党の得票率が30%位ではないでしょうか。また、そのような政党の活動に積極的に参加しているのは、人生経験を積んだシルバー世代の方々が多い。反対に、若い世代が安倍政権を支持している。

 

森友学園問題、加計学園問題、準強姦事件、スパコン問題、裁量労働制などが現在、日本の政治シーンにおいて問題視されていますが、どの事例も簡単ではない。関係する概念に照らして、事実を評価しなければ、正しい意見は持てない。そして、これらの問題の本質を理解できない若い人たちが、安倍政権を支持しているのではないか。そう思えて、なりません。裁量労働制に関する政府案が了承されれば、残業代カットのターゲットとなるのは若い世代だと思うのですが・・・。

Damselさんからの詩的なコメントについて

思い起こせば、私がこのブログを始めたのは、2016年の7月でした。間もなくDamselさんからコメントをいただき、Damselさんが運営されているブログに私のブログのリンクを貼っていただけることになったのです。以来、今日に至るまで、Damselさんのブログをご覧になり、そこからリンクを経て私のブログへ訪れてくださる方が多くいらっしゃいます。Damselさんには、感謝の言葉もありません。

 

このブログで最初に扱ったのは、歴史主義的(時間の流れに従って見る)文化人類学的な考察だった訳です。しかし、そのような見方をしますと、文化の終着点は宗教であるという結論になってしまう。これは当初私が予想していなかったもので、大変困ってしまった訳です。そこで、「天国も地獄もない」と歌うImagineを思い出し、ジョン・レノンに関する原稿をシリーズで掲載し始めたのでした。するとDamselさんからコメントを寄せていただき、聞けばDamselさんもジョンを敬愛しており、しかもジョンが射殺された現場であるニューヨークのダコタ・ハウスまで行かれたとのこと。これには、びっくりしました。以来、どこか私に似ている所があるような気もして、興味深くDamselさんのブログを拝見してまいりました。

 

ブログを拝見する限り、Damselさんという方は、キリスト教に造詣が深く、ブライアン・ジョーンズと、エスプレッソと、Fujifilm X 100Fというカメラをこよなく愛している。

 

ちなみに、ブライアン・ジョーンズとは、ローリング・ストーンズの初代リーダーで、ストーンズはブライアンが作ったバンドだったのです。ブライアンとミックとキースの3人は、汚い安アパートに同棲し、3年やってダメだったら諦めようと話していたそうです。ブライアンは楽器の才能に恵まれ、ギターの他にもシタールやハープ(ハモニカ)を演奏します。ちょっと曲名は忘れてしまいましたが、ブライアンのブルースハープは、黒人の大御所にも引けを取りません。と言うか、私としては、世界一のハーピストだと思っております。また、最近になって、ストーンズのルビー・チューズデイという曲でブライアンがリコーダーを吹いている姿を見たのですが、これも衝撃でした。彼は本当に、楽器の才能に恵まれていた。しかし、ストーンズはその後、ミックとキースが曲を書き始める。そして、バンドの主導権も徐々に彼らに移っていく訳です。そんな折、決定的な事件がモロッコで起こるんです。モロッコにはブライアンと彼の恋人だったアニタ・パレンバーグとキースの3人で行ったのです。しかし、そこでアニタがブライアンを裏切る。彼女はキースとできてしまったのです。そして、アニタとキースはブライアン一人をモロッコに残し、帰国してしまう。

 

ありあまる音楽的な才能をもてあましていたこともあって、ブライアンはドラッグに溺れていきます。ストーンズの映画、ロックンロール・サーカスの頃には、一応ギターを持って立ってはいますが、ほとんど演奏できないような状態だったようです。そして、なんとかストーンズを前進させるべきだと考えたミックとキースは、ブライアンをストーンズから除名しました。その直後、ブライアンは非業の死を遂げる。自宅のプールに浮かんでいたのです。ちなみに、ブライアンの自宅の過去の所有者は「熊のプーさん」の原作者だったそうです。

 

ちょっと話が脱線してしまいました。まだ、ご覧になったことのない方は、是非、Damselさんのブログを訪れてみてください。アドレスは、次の通りです。

 

1023.blog.so-net.ne.jp

 

さて、私の昨日の記事にDamselさんからとても詩的なコメントをいただきました。私なりにお返事のようなものを書いてみたいと思います。

 

まず、前段の記載については、多分、私の考え方と同じだと思うのです。世界はただ「ある」だけで、そこに意味はない。世界にも寿命があって、世界はやがて消え去る。まず、太陽が燃え尽き、その後も宇宙は膨張し続けて密度が限りなく希薄となり、凍りつき、消える。人類が生まれた理由も、人類に「課せられた最終目的」もない。私もそう思っております。

 

かつては聖書が説明していた事柄も、ダーウィンが「種の起源」を書き上げ、ニーチェが「神は死んだ」と宣言し、合理的には信じられない時代になった。

 

一言で言えば、ニヒリズムということではないでしょうか。多分、Damselさんも私も、ニヒリストということになると思います。では、現代のニヒリストは、どの道に進むべきなのかと言うと、いくつかの選択肢が示されているように思うのです。まず、レヴィ=ストロース。かれは野生の、と言いますか未開の精神に戻れ、と主張しているようです。次に、科学的な事柄は理解した上で、それでもキリスト教などの宗教に帰依すべきだという考え方。しかし、時計の針は戻せないというのが私の立場です。

 

さて、人類にも、私たち個人にも、存在理由も目的もない。そのことを前提として、どう生きていくかということが問題だと思うのですが、私の記号原理という考え方におきましては、もともとないものではあるけれども、意味を発見せよ、意味を創出せよ、ということになります。大半の人たちは、人生において宝くじにも当たらないし、オリンピックの金メダルにも縁がない。ノーベル賞を受賞することもない。だから、大した意味など、発見できない。それでもいい。

 

次に、私の心的領域論ですが、これは人の心の領域を1次性~3次性に分類するものですが、これはどうやら人間の心の発展段階を示唆している。最近、そう思うようになりました。誰もが1次性から出発する。そして、2次性を経て、3次性に到達する。私だって、若い頃はロック・ギタリストだった訳で、概念や論理とは無縁の生活をしていました。1次性、すなわち身体性の世界に生きていた訳です。やがて、経験を経て”物”に出会った。そして、概念と論理の世界、すなわち3次性の領域に突入する。身体の衰えと同時に1次性の領域は、いつの間にか衰退していた。そんな気がします。そこで、2次性に回帰すべきではないか、と今は考えています。順序を並べてみましょう。

 

1次性 → 2次性 → 3次性 → 2次性(回帰)

 

何か、私の人生は、上の図に示したような経路を辿っているような気がするのです。そこにどんな意味があるのかと問われると、私も困るのですが。

 

特に3次性というのは、概念と論理の世界ですから、その思考対象は自分自身よりも社会的な事項、政治的な事項に向きがちです。しかし、世の中というのは、矛盾と馬鹿馬鹿しさに充ちている。もうそんなことには疲れた。そう思った人が、換言しますとそれなりに心身ともに疲れた人が、帰っていく領域。それが、物と経験の世界ではないかと。

 

私は時折、Damselさんを羨ましく思っています。ご自宅にエスプレッソを精製する機械をお持ちですよね。そして、フィルターなどを交換され、その機械をピカピカに磨き上げる。そういう”物”と向き合う時間というのは、素晴らしいのではないでしょうか。やがて作業を終え、抽出したエスプレッソを飲む。コーヒーカップの底に、きっと人生の意味が潜んでいる。

 

いつだか、Damselさんのブログでは、聖母マリア様の像の写真が掲載されていました。私は、これも2次性だと思います。像がマリア様を象徴している。こういう像を大切にするというのも、素晴らしいことだと思います。

 

とても回答にはなっていませんね。すいません。感想まで。いつも有難うございます!

文化人類学 テレビ講座お知らせ

地上波のテレビで、放送大学というチャンネルがあるのはご存知でしょうか。

 

現在、シリーズもので20時45分から「文化人類学」の講座が放映されています。放送日は、曜日に関わらず毎日のようです。本日は第8回です。私は、なるべく見るようにしております。文化人類学にご興味のある方には、お勧めです。

 

また、同じく地上波でEテレというのがあります。これは多分、以前のNHKの教育テレビだったと思います。しばらく前に「100分で名著 レヴィ=ストロース 野生の思考」という番組が放映されていました。録画を再度眺めていたところ、面白い話がありました。

 

レヴィ=ストロースはかつて、哲学を専攻していたそうです。そして、大学の研究室で例えば「アプリオリな認識とは、どのように可能なのか」というようなことを考えていたそうですが、嫌になったそうです。そして、転機が訪れ、文化人類学に出会い、そこから彼の人生は開けてきた。彼の著書「悲しき熱帯」にそういう記述があるそうです。

 

この「アプリオリな認識」というのは、経験に基づかない純粋な認識という意味で、これは純粋理性批判の中でカントが主張していることだと思われます。しかし私たちには、経験から離れて何かを思考するということが本当に可能なのでしょうか。これは正に哲学的な命題である訳ですが、そういう観念的なことを考え続けることに意味があるのでしょうか。何だか、カントの純粋理性という考え方は、私の文化論にはあまり関係がないような気がしてきました。

 

それよりも、私にとってはイワム族の話の方が余程、面白い。イワム族の話、まだ読んでいない本が1冊あるのです。

No. 180 命名、心的領域論

昨日から、ミック・ジャガーのソロアルバムを聞き続けています。アルバムタイトルは、Goddes in The Door Wayというもので、中でもDancing in The Starlightという曲が、頭にこびりついて離れません。たった一曲のロックナンバーが、人生の全てを教えてくれているような気がします。

 

さて、前回のシリーズで述べてまいりました1次性から3次性にいたる人間心理と文化に関する説ですが、これを心的領域論と命名させていただくことにしました。これと記号原理の2つの論理で、私の文化論の骨子は固まったように感じております。表象文化についての検討は終えていませんが、多分、明確なロジックというものはないのではないか。人間の持つ心的イメージを具現化したものが表象文化と呼ばれているのだと思いますが、それでは文化に関する意味ある解体がなされているとは言えない。私の心的領域論の方が、正確に人間と文化を分析している。僭越ではありますが、今は、その確信に似たものがあります。

 

簡単に振り返ります。

 

1次性というのは、人間の身体性に関わる心の領域であって、そこには性や暴力、非論理性が秘められている。この心的領域を反映したのが、祭祀である。人はこの心的領域に駆られて、歌い、踊る。そして、人間集団の中で自らの位置を獲得するために、人は着飾り、化粧をし、時には入れ墨を施す。人はこのように、自らを記号化することによって、他人との関係性を模索しているのだと思います。この1次性という心的領域は、人間の動物的本性に由来しているものであって、生命力そのものを司っているに違いない。

 

2次性という心的領域は、人が外界と幸福な関係を持とうとするところに本質がある。人は、長い歴史の中で経験を通じて、物と親和的な関係を持つ術を学んだのだ。その一つには、物に願い込めるという文化形態があって、これが呪術である。次に、物に何かを象徴させるということもある。何かを象徴させた物を大切にすることによって、人は心の平安を得る。物との関係で言えば、遊びもこの心的領域に属しているに違いない。

 

3次性という心的領域の起源は、死者に対する恐れにあったはずだ。それがアニミズムであり、これを契機に人は思考するようになった。様々な自然現象や、自分達の生い立ちなど、人々は考え続けた。そして、融即律という直観に依存する思考方法に至る。これが更に進化し、人々は神話を生み出す。神話というものは、一見、無茶苦茶なように見えて、その底流には論理がある。その論理構造にチャレンジしたのが、レヴィ=ストロースだった。但し、物語性によって思考しようとする習性は、現代にも生きている。例えば、現在、オリンピックのニュースで持ちきりですが、そこには必ずと言って良いほど、メダリストたちの物語がついて回る。前回のオリンピックではメダルを逃した選手が、いかに立ち直って今回の成果につながったか。怪我をどのように克服したのか。これらの情報というのは、実は、事実だけを述べているものではない。神話的な手法によって、人々はメダルの意味を理解しようとしているに違いない。

 

現代にも生きているとすれば、それは「神話的思考」と呼ぶよりも「物語的思考」と呼んだ方が適当かも知れない。実は3次性に関して、お詫びがあります。当初の原稿で、私は「誰もが3次性を持っている」と述べてしまいましたが、前回の原稿では「誰もが3次性を有している訳ではない」と記載しました。正確に言えば、多分、誰もが3次性という領域を持っている。ただ、それは融即律であったり、物語的思考である場合がある。それらを越えた純粋論理を有している人は、少ないという意味です。

 

純粋論理という言葉も、本当は「純粋理性」と言いたいところです。とにもかくにも、純粋理性批判を読んだ上で、この言葉を使わせてもらいたいと思います。

 

1次性から3次性までの心的領域があって、それぞれの領域を作動させるのが記号原理だと考えれば、論理が整合すると思います。

 

ところで、ユングの分析心理学では、(表層)意識、個人的無意識、集合的武意識の3層構造によって人間心理が説明されています。私の心的領域論の1次性は、集合的無意識に、2次性は個人的無意識に、それぞれ類似しているようです。そして、(表層)意識は、私の説では記号原理に取って代わります。すると、心的領域論の3次性について、ユングは述べていないことなりそうです。そう言えば、ユングは神話を集合的無意識との関係で位置付けていました。

 

なお、記号学のパースに対する最大の批判は、「生涯を通じて、体系的に考えることができなかった」点だと言われています。体系がないとは、あの時に述べられたことと、今回述べられたことが矛盾している、ということだと思います。この批判は、このブログにもそのまま当てはまります。体系がない・・・。

 

日々の思索の過程をそのまま記載してきたので、そのような結果になるのは当然のことです。しかし、公式のものだけでも、180本もの原稿を掲載してきた訳で、記号原理と心的領域論なる考え方に到達したのも事実です。読者の皆様には、寛容なご判断をお願いする次第です。

 

さて、些細なことでも構わないので「意味」を発見しろ、または「意味」を創出しろ、というのが記号論のメッセージでした。そして、2次性への回帰を目指せというのが、心的領域論の主張です。

 

私自身、今後、「意味」を探しに出掛けるか、2次性への回帰を目指すのか、それとも記号論と心的領域論を統合した「文化論」の完成を目指すべきなのか、思いあぐねています。よって、しばらくブログの更新は休むことにさせていただきます。ただ、何らかの心境の変化が生じた場合には、このブログで報告させていただきます。

 

有り難うございました。

No. 179 人の心の壊れ方(その5)

イワム族の村長さんが、ある日、こう言ったそうです。

 

「我々の祖先は、バナナである。よって、今後バナナを食べることは禁止する。」

 

その後、村人たちは長い間、バナナを食べなかったそうです。この話を最初に読んだ時には「村長さんも罪なことを言うなあ。バナナは貴重な栄養源であるはずなのに」と思ったものです。しかし、今の私には村長さんの気持ちが分かる。まず、記号原理に従って、この話を分解してみましょう。

 

この話における記号は、バナナです。バナナが指し示している対象は、祖先ということになります。そして、バナナを食べない、食べることを禁止するというのが行動です。その意味するところは、祖先崇拝というアニミズムであることが分かる。

 

対象・・・祖先

記号・・・バナナ

行動・・・バナナを食べることを止める

意味・・・祖先崇拝

 

これは、意味創出型です。そして、「我々の祖先はバナナだ」と思い付いたのは、融即律ですね。この村長さんは、相当に思い悩んだのだろうと思います。考えに考えた末、ある日、覚醒している時に直観が沸き起こったか、または眠っている時に、夢を見たに違いない。人には、親がいる。そして、親たちにも親がいる。では、最初の人間とは、一体何者だったのか。私たちは、どこから来たのか。我々は何者なのか。そういう普遍的なことを、この村長さんは一生懸命考え抜いたに違いありません。やはり、村長に選出されるだけのことはある。りっぱな人物だったのだろうと思います。

 

また、この話はもう一つ、示唆を含んでいると思うのです。それは、村長さんの発言が、ある社会のタブーを生み出している点です。バナナを食べてはいけないという社会的な規範が成立している。現代社会における法律の原点が、実はこんなところにあるのではないかと思うのです。

 

人の心の1次性と2次性は、大昔から、さほど変化していない。しかし、この3次性は、進化してきたに違いないと思うのです。最初に死者に対する恐れがあり、霊魂や精霊の存在を信じ、祖先崇拝へとつながった。これがアニミズムです。そして、前述の融即律という現象が生じる。更に想像力が付加され、神話となる。文字が発明された後、神話は爆発的に普及する。人々は、神話によって世界を理解した。しかし、この神話的な思考は、様々なタブーや不平等、人権侵害を生み出した。そこで、神話的な思考とは別に、純粋な論理というものを人々は考え始めた。それは、平等であり、人権の尊重であり、平和主義につながっていく。人類は、論理的に思考するという心を獲得したのだと思うのです。列挙してみましょう。

 

1 アニミズム

2 融即律

3 神話的思考

4 純粋論理

 

上記の「思考する」という心のあり方を、本原稿では「3次性」と呼んでいます。なお、4番の「純粋論理」という言葉は、「純粋理性」と言った方がしっくりくるのだと思います。しかし、「純粋理性」という言葉は、既にカントが使っている。そして、私は未だにあの本を読み終えていないので、ここでは「純粋論理」としておきます。

 

ちなみに、神話的思考から純粋論理への転換が図られたのは、フランス革命が最初だと思われます。この革命によって、初めて政教分離が行われたようです。

 

なお、この思考するという心の働きは昔からあった訳ですが、ただ、考えるベースとなる知識に相違があるので、上記のような変化を遂げたのだろうと思います。

 

問題なのは、誰もが心の中に1次性と2次性は持っているのですが、3次性を持っている人というのは、半数にも満たないと思われることです。動物的な1次性があって、それが2次性において、調和されてしまう。従って、3次性はなくても生きていける。いや、現代日本の社会を考えますと、3次性を持たない人の方が、生きやすいのではないかと思います。

 

元来、3次性の起源がアニミズムにあるとすれば、その心のあり方は、超越的な存在を想定し、その下に自分を位置付けるという特徴を持っている。超越的な存在や現実の出来事を受容しつつ、考え続ける。このような心のあり方を持った人というのは、権力者にはなり難いのではないか。権力者というのは、1次性の強い人が多いのではないだろうか。そして、1次性と3次性が互いに戦い続けてきた。それが人類の歴史ではないだろうか。昔から、文武両道などと言いますが、文が3次性で、武が1次性だとも言えるような気がします。

 

現代社会において3次性が具現化されている文化形態としては、数学と法律学が典型例ではないでしょうか。そこには、人間のぬくもり(1次性)も、物の確かさ(2次性)もありません。ただ、概念と論理があるばかりです。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

1次性 ・・・ カオス ・・・ 人間と動物

2次性 ・・・ 調 和 ・・・ 物と経験

3次性 ・・・ 受 容 ・・・ 概念と論理

 

蛇足ながら、私の所感を述べます。せっかく人間として生まれて来たのですから、より大きな心を持った方が良い。すなわち、3次性を獲得した方が良いと思うのです。3次性というのは、いくらスマホのゲームをやっていても、獲得できるものではありません。言葉の線状性に触れる。すなわち、文章を読まなければ、獲得できないのだろうと思います。なお、勝手に想像させていただきますと、このブログに多少なりとも興味を持っていただいた方は、3次性をお持ちのことと思います。何しろ、このブログには「概念と論理」しか出てこないのですから。

 

3次性を持っている方は、時として、心が疲れてしまう。そんな時は、どうでしょうか。2次性への回帰を目指してみる。すなわち、過去の経験に基づく心的イメージを希求してみるということです。物に願いを託してみる。何かを象徴している物を大切にしてみる。そんなところに、古代から伝わる人間の知恵があるような気が致します。

No. 178 人の心の壊れ方(その4)

もちろん、私だって幸せになりたい。そこで、どういう人たちが幸せなのか考えてみました。例えば、今、話題の佐川国税庁長官。私のような一市民からすれば、とんでもなく高額の報酬を得ているのだろうと思います。退職金だって、相当もらえるのでしょう。しかし、彼は幸せだろうか。私には、そう思えません。

 

一方、地元の駅では、冬の寒い中、望遠レンズを構えている人たちを大勢見掛けることがあります。「撮り鉄」と呼ばれる人たちです。何が楽しいのか、私にはさっぱり分かりませんが、彼らは普通の(?)電車に向けて、一生懸命シャッターを切っている。もしかすると、こういう人たちが一番幸せなのではないか。農家の納屋に眠っている古いバイクを譲り受けては、一生懸命それを修理している人もいる。気の遠くなるような話ではありますが、運良くエンジンが始動した時には、それは嬉しいに違いない。プラモデルを組み立てている大人だって、少なくはありません。同じような物を沢山集めている人たちもいる。例えば、釣竿を何十本も持っているとか、楽器を沢山持っている人もいる。周囲の人にどう思われようが、こういう人たちというのは、とても幸せそうに見える。

 

彼らは皆、「物」との間に幸福な関係を築いている。その始まりには、きっとうまくいった、成功体験があるに違いないと思うのです。

 

ところで、「物」と人間の関係には、長い歴史があるようです。装飾品などの他にも、現代人には使い道を理解できないようなものが、沢山発見されたりします。日本の遺跡からは、埴輪が多く出土していますが、これだって、特段の使い道があったようには、思えません。呪術を目的として、何らかの願いを込めて、古代人はこのような「物」を作り出したのか。可能性は、もう一つあります。それは「象徴」ということです。

 

現代においても、例えば「位牌」という物が存在します。死者の戒名や俗名を記した木の札のようなものですが、これは死者を象徴しています。婚約指輪という物もありますね。これは結婚の約束をしたという事実を象徴している訳です。そして、位牌も婚約指輪も大切に取り扱われる。それはとりもなおさず、それらの「物」に象徴性があるからなんです。

 

このように考えますと、「物」と人間の関係には、少なくとも以下の種類があることが分かります。

 

・機能; 人間が物の機能を利用する

・呪術物; 人間が物に願いを込める。てるてる坊主など

・象徴; 人間が物に何かを象徴させる。位牌、指輪など

・遊びの道具; ビー玉など

 

他にもいくつかの種類があるような気がします。しかし、ここに記したいずれのケースにおいても、人間は物との間に親和的な関係性を築いています。このような心の有り様を「2次性」と呼びたいのです。2次性は、他人と争わない。あくまでも調和しており、そして壊れにくい。

 

イワム族には、何の変鉄もない石ころや棒切れを大切にしている人がいるそうです。そう言えば、マサイ族の男性と結婚した日本人女性だったと思いますが、面白いことを言っていました。マサイ族の人に、例えば100円ライターのような、ちょっとした文明の利器をプレゼントする。その際、彼女は当然その使い方を説明します。しかし、彼らは決して、説明通りの使い方をしないというのです。どうするかと言えば、まず紐などを使って、身に付けるんだそうです。何故か、私にはその理由が分かるような気がします。彼らはきっと、その「物」と自分との間に親和的な関係を見つけようとしているのだと思うのです。例えば、その「物」を身に付けて生活しているうちに、死んだ親父の夢を見る。するとその100円ライターは、彼にとって親父を象徴する神聖な物になる。そんな可能性を探るため、まず、身に付けてみるのではないでしょうか。機能にばかり関心を向けるのは、現代人の悪い癖かも知れません。

 

ところで、以前ラスコー洞窟の壁画について、紹介致しました。世界最古の壁画で、狩りをしている様子が描かれている。これは、狩りの成功を願った呪術として描かれたものだと解されています。簡単に記述しますと「壁画を描くと、狩りに成功する」ということです。壁画というのは、洞窟の壁と顔料によって構成されていますので、ここでは便宜上「物」の一種だと考えましょう。そして「狩りに成功する」というのは、「意味」ということになります。従って、この呪術は「物」と「意味」の二つの要素によって、構成されていることになります。

 

物・・・壁画

意味・・・狩りに成功する

 

ではどちらが、先にできたのか。壁画というのは、当時の人々にとっては、大発明だった訳です。そんなものを見たことも聞いたこともない段階で、こういうものを描くと狩りに成功するぞ、とは誰にも言えない。従って、物、すなわち壁画が先にあったはずだと思うのです。そして、誰かが壁画を描いた後で狩りに出掛けると、たまたま大成功だった。そういう経験があったのではないか。そこで、壁画を描くと狩りに成功するという意味が生まれた。そう考えるのが、自然ではないでしょうか。つまり、まず物があって、経験を経て、意味がもたらされる。これが、呪術という「物」に関わる文化の基本構造ではないかと思うのです。

 

経験というのは、人の心に様々なイメージをもたらす。また、経験は個々人によって、千差万別です。だから、人によって追い求める事柄も違ってくる。他人に理解されなくても、法律に触れない範囲内であれば、何でもやってみればいい。何処へでも、行ってみればいい。

 

では、キーワードを並べてみます。

 

1次性・・・カオス・・・人間と動物

2次性・・・調 和・・・物と経験