文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

官邸前の抗議集会

(前)文科省事務次官の前川氏が講演を行った名古屋市の中学校に対し、文科省が政治的圧力を掛けたことが判明しました。これはもう、恐怖政治だと言う他ありません。文科大臣は、前川氏に謝罪すべきではないでしょうか。

 

また、森友学園で工事を請け負った業者は、財務省からごみの量を実際より多く積算するよう圧力を受けたとの報道があります。国会では麻生大臣他、全ての責任を佐川氏に押し付けようとするミエミエの答弁が続いています。日本は、こんなデタラメばかりがまかり通る国になってしまった。安倍政権の支持率が急落したとは言え、まだ39%の国民が支持している。この国は、その程度の国なのか?

 

カッカしながらYouTubeを見ておりますと、連日行われております官邸前の抗議集会が目に止まりました。

 

安倍はヤメロ! 麻生もヤメロ! 公的文書を改ざんするな! 真実話せ!

 

私としては、まったくもってその通りだと共感する訳で、パソコンの前で思わず「安倍はヤメロ!」と叫びたくなってしまいました。主催者は、元シールズ、現「未来のための公共」の若者たちのようです。金曜日には、1万5千人が集まったそうです。抗議集会には、大学教授や野党の国会議員も参加しており、スピーチを行います。そして、コールが延々と続くのです。コールとは、マイクを持ったリーダーの声に合わせて、全員がリズムに合わせて「安倍はヤメロ!」などと声を張り上げることを言います。集会には、ドラム隊が参加しており、リズムを統制しています。このコールには、いくつものパターンがあって、こんなものもありました。

 

リーダー・・・民主主義って何だ!
参加者・・・・これだ!

 

複雑なパターンでは、次のようなものもあります。

 

リーダー・・・I say アベ。You say ヤメロ。アベ!
参加者・・・・ヤメロ!
リーダー・・・アベ!
参加者・・・・ヤメロ!

 

マイクを持つリーダーは、男ばかりではありません。若い女性も髪を振り乱しながら、コールをリードするのです。ドラム隊は、単調なリズムを叩き続ける。次第に集団全体が高揚感に包まれていく。

 

これって、何だろう。昔、同じような高揚感を感じたことがある。そうだ、1969年頃のロック・フェスティバルに似ている。ここには、本物のロック・スピリットがある!

 

簡単に言いますと、1969年のロックは、エゴイズムや民族主義などの古い価値観と戦っていたと思うのです。いがみあうのは止めて、愛し合おう。戦争は止めて、平和を希求しよう。そういうメンタリティだった。アメリカでは、ヒッピーと呼ばれる人たちが大量に誕生した。日本では、70年安保闘争があった。しかし、ヒッピーたちもやがて定職につき、日本の安保闘争は敗北した。音楽の世界では、ビージーズという誠にけしからんバンドがサタデーナイトフィーバーなんてものを流行らせ、お陰でロックは衰退し、ディスコが流行した。音楽は思想を失い、せいぜいファッションとナンパの道具になり下がったのです。その後、パンクというムーヴメントも起こりましたが、これは年上のロック・ミュージシャンを批判するというトンチンカンなもので、すぐに消えた。以来、ほぼ半世紀に渡って、私は本物のロック・スピリットに出会うことがなかった。

 

しかし意外にも、2018年の日本で、しかも官邸前でそれが発見されるとは!

 

ハスキーボイスでコールをリードしていた黒髪の女性に、私は、ジャニス・ジョプリンの面影を感じました。

 

さて、この現象を文化論の立場から、考えてみましょう。

 

コールは、1次性です。これは、大昔から続く“熱狂する祭祀”と同じ類型です。そして、大学教授や野党の議員が行う論理的なスピーチ、これは3次性です。では、2次性はあるのか。それは、首相官邸という巨大な建物によって、象徴されています。官邸の建物は、批判の対象である現政権を象徴している。すなわち、官邸前の抗議集会は、1次性から3次性まで、全ての要素によって構成されている。文化的な現象として見た場合、これは極めて稀なケースだと思います。通常、1次性と3次性は対立する。それが、ここでは見事に調和している。文化のダイナミズムとは、こうやって生まれるのかも知れません。

財務省 文書改ざん事件

関東地方では、春めいてきましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

さて、このブログでは1次性~3次性についての要約書を掲載してまいりました。私としては、なんとか分かり易くお伝えしたいとの思いで趣向を凝らした訳ですが、ご理解いただけたでしょうか? 私の“心的領域論”は、文化論であり、歴史認識であり、心理学的であり、現代日本における政治論でもある訳です。荒唐無稽であるとのご批判もあろうかと思いますが、皆様が身の回りで起こっている様々な事象をお考えになる際、少しでも参考にしていただければ幸いです。

では、私の立場から表題の件を概観してみたいと思います。結論から言えば、今回の事件は、安倍政権にとって最大の危機であって、今後の進展次第では、総辞職もあり得るのではないかということです。

ご案内の通り、安倍政権は幾多のスキャンダルを抱え、強硬採決を繰り返してきた訳ですが、今度ばかりは風向きが変わってきているように感じます。

私流の言い方をしますと、安倍政権を支えてきたのは“1次性”のメンタリティということになります。この1次性のメンタリティというのは、非論理的であって、感情的であるということです。すると、財務省の近畿理財局の職員の方が自殺をされたという事実は、彼らの琴線に触れる可能性がある。更に、本日になって報道されておりますが、実は、財務省の理財局(本省)でも、自殺された方がおられるらしい。文書改ざん事件との関係は未だに不明ですが、いずれ明らかになるでしょう。こうなってくると、安倍政権の支持層においても動揺が広がる可能性がある。

次に、メディアの姿勢にも変化が見られるということ。言うまでもなく、3月2日に朝日新聞が本件を報道した訳ですが、当初、右派のメディアは誤報ではないかと朝日新聞を攻撃しました。しかし、当の財務省が文書の改ざんを認めた訳で、白黒決着がついたのです。以後、読売、サンケイなどにも、事実を伝えようとする姿勢が出て来たように思えます。結局、メディアにとっては、安倍政権をヨイショすることよりも、購読者や視聴者の方が大切なんです。

与党も遂に重い腰を上げて、佐川(前)国税庁長官の証人喚問に応じるようです。多分、佐川氏は大阪地検における捜査が継続中であることなどを理由に、核心部分の証言を拒むのではないかと思います。しかし、国会における偽証など、逃げ切れない事実もいくつかあります。そのため、佐川氏の証人喚問によって、本件が沈静化するとは思えません。すると批判の矛先は、一気に安倍昭恵夫人に向かうことになるでしょう。ここでも、1次性のメンタリティが影響してくることになると思うのです。昭恵夫人については、既に批判的な報道が出ていますが、もし証人喚問ということになれば、お昼のワイドショーにとっては格好の材料となるはずです。すると1次性、特に女性の支持層が安倍政権から離れる。それは与党も良く分かっているので、昭恵夫人の証人喚問、参考人招致だけは絶対に回避したいと思っているはずです。それをする位なら、その前に総辞職する可能性すらあるのではないか。

麻生大臣は、自ら「原因究明と再発防止に努める」と言っていますので、いずれ辞任するものと思われますが、昭恵夫人の証人喚問(又は参考人招致)との関係もあって、辞任のタイミングは極めて難しい判断となりそうです。麻生大臣と言えば、本日、理財局以外の部署でも文書の改ざんがなかったか調べるとのことですが、そこで新たな改ざん事例が出て来たら、どうするのでしょうか。

森友事件だけをとっても、安倍政権に対する疑問は沢山あります。まず、昭恵夫人の命を受けて財務省に連絡をとった谷さんという女性は、当該事実が発覚後、直ちにイタリアへ転勤を命じられています。そして、籠池氏は収監されています。かれこれ、10か月になるようです。逃亡や証拠隠滅の恐れがない籠池氏を何故、長期に渡って収監しているのか、その理由が分かりません。仮に100歩譲って逃亡の恐れがあったとしても、それでは直ぐに裁判手続を開始すべきではないでしょうか。それをしない裁判所の判断も疑問であると言わざるを得ません。財務省を監査した会計検査院は、改ざん前の文書を国交省から受領していたそうです。そして、財務省から提出された改ざん後の文書との相違に気付いた。そこで会計検査院財務省に説明を求めた訳ですが、財務省から「こちらの文書が最終版だ」と言われて、それを信じたとのこと。これでは、ドロボーを取り調べている警察が、当のドロボーの意見に従ったのと同じで、全く会計検査の体をなしていません。

結局、皆、安倍政権を怖れているとしか思えません。安倍政権に逆らったら、何をされるか分からない。前川(元)事務次官のようにプライバシーに関わる事項で攻撃されるかも知れない。世間では、「忖度」という言葉が多用されていますが、私は、そんなことはないと思うのです。安倍政権のご機嫌を取って出世したい、もしくは攻撃されたくない、というエゴイズムが働いているのだと思います。そうでなかったら、明示または黙示の政治的圧力に屈しているのではないでしょうか。

どこの国でも、民主主義というのは、国民が勝ち取ってきたものと思います。今回の件で、怒れる国民の側が勝利をすれば、ひょっとすると日本にも民主主義が根付く契機となるかも知れません。どうなるかは分かりませんが、そうあって欲しいと願っています。

No. 183 3次性についての要約書

動物との関係: 人が動物を敬う

 

興味の対象: 概念と論理

 

古代の文化種別: 動物信仰、アニミズム

 

文化の進展プロセス: 古代において人間は、超越的な何者かの存在を信じ始めた。これがアニミズムだが、その契機としては、動物、死体、自然現象の3種類が考えられる。例えば、山中で人は突然、動物と出会う。動物は、人間に何らかのシグナルを発する。すなわち、人間にとって動物は、“記号”として現出する。記号は、それ単体では存在し得ない。記号とは、それが指し示す“対象”を呼ぶ。そこで、対象としての神の存在が信じられた可能性があるのではないか。日本で言えば、人が山中でキツネに出会う。キツネは何かを指し示しているに違いないと、古代の日本人は考えた。そこで、記号が指し示す“対象”としての神という概念が生まれる。すなわち、キツネは神の使いであると考えたのだ。そして、太古の日本人は稲荷神社を創建した。他国においても、動物信仰、特定の動物を食してはいけないとする戒律は、多く存在する。このアニミズムという心的な現象は、人間の想像力に依拠している。

 

太古の時代において、人は死体を埋葬するという習慣を持っていなかった。あちこちに、死体が転がっている。そして、人は生きている自分たちと、動かない死体の相違に思いを馳せたに違いない。そこで、人間は“魂”の存在を想定した。すなわち、生きている自分たちには“魂”があって、死体にはそれがない。このような文化現象もアニミズムの一種だと考えて良いのではないか。(魂が抜けると死ぬという「脱魂型」の考え方と、何かに取り憑かれる「憑依型」がある。)

 

自然現象については、それを説明する神話へと連なっていく。

 

アニミズムの次に、融即律という現象が表われる。これは、例えばある日、突然「自分たちの祖先はバナナである」と述べて、以後、バナナを食べることを禁じたイワム族の村長の例が典型的だ。融即律については、ある事柄を真剣に考え続けた結果、夢の中でその回答を得るという形態が典型ではないか。言わば、夢の中で神のお告げを聞くのである。従って、融即律というのは、個人的な経験に根差していると言えよう。

 

次に、「物語的思考」が表われる。例えば、火山性のガスが排出されている危険な地域がある。近隣の村では、その一帯に魔物が住んでいるという物語を作って、村民がその一帯に近づいてはいけないというタブーを作っている。この例では、多分、火山性のガスを吸い込んで健康を害した村人が、過去に何人か存在したのではないか。そういう経験と、魔物が住んでいるという想像力とが相まって、物語が作られたと考えるのが自然ではないか。ただ、この3次性という心的な領域は、物語を創り出す力を持っているのであって、それを信奉した多くの人々は、1次性の領域を持つ人々ではないか。

 

中世においては、この物語的思考が、中心的役割を果たしていた。それが近代になると、書物も普及し、歴史に関する知識も蓄積される。そして、蓄積された過去の歴史、すなわち経験の中から、人間は原理、原則を学んだ。そして、「論理的思考」に至る。例えば、過去の戦争に関する記録に接し、特に欧米の人々は「もうこれ以上、殺し合いを続けるのは嫌だ」と思った。そこで、平和主義という抽象的な概念が生まれる。複数の概念を組み合わせて考えることにより、論理が生まれる。

 

1. アニミズム・・・想像力
2. 融即律・・・個人的な経験
3. 物語的思考・・・地域的な経験と想像力
4. 論理的思考・・・歴史的な経験に基づく概念と論理

 

現代における文化類型: 論理的思考の典型は、日本国憲法の3原則である。すなわち、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義である。近年の思想から言えば、これに環境保全を加えても良い。

 

性的な意味合い: ない

 

思考形態: 想像力、経験、論理性

 

宗教との関係: アニミズム、融即律、物語的思考については、宗教を生み出す原動力となってきた。他方、近代以降の論理的思考は、宗教と対立する。

 

経験と情報: 論理的思考については、個人的な経験ではなく、集団的、歴史的なレベルでの経験が尊重されるため、歴史を学ばなければ、理解することが困難である。現代において論理的思考に関する文献を入手することは簡単だが、難解な文献が多い。

 

心理タイプ: 思考

 

現代社会における人口比率: 3次性は、マイノリティである。

 

現代政治における投票傾向: 3次性は、論理的な主張を行う野党を支持する傾向にある。現代の日本においては、1次性(保守系)と3次性(革新系)が、激しく対立している。

No. 182 2次性についての要約書

動物との関係: 食べる。人間が、動物を食料として認識する。

 

興味の対象: 物と自然

 

古代の文化種別: 狩猟。狩猟のための道具として、ヤリ、弓矢など。

 

文化の進展プロセス: 狩猟のための武器が発明され、更に動物の毛皮が衣服として利用される。そこから、人間と物や自然との関係が発展する。人間は、その衣食住の道具として、物を加工し、機能を付与することを学ぶ。但し、それと同時に人間は、物に願いを込める、すなわち呪術という文化を生む。例えば、木の実などに願いを込め、怪我や病気を治癒する薬としての効果を期待する。また、物に何かを象徴させるという文化を考案する。例えば、死者や神秘的な存在を物に象徴させ、その物を大切に扱ったりする。物に機能を付与するという文化は、やがて科学を生み、大量生産の手法などを開発し、現代に至る。貨幣の普及と大量生産が、経済活動の拡大に寄与する。人間と物との関係においては、前述の3つの類型が存在する。

 

1. 物に機能を付与する。
2. 物に願いを込める。(呪術)
3. 物に何かを象徴させる。

 

「物に機能を付与する」という文化は、物や自然に対し人間が上位に位置する関係にある。すなわち、このメンタリティは動物を殺して食べ、樹木を伐採して加工し、あたかも人間が自然を支配できるという幻想に立脚しているように思える。反対に、呪術や象徴にかかる文化は、物と人間との間に親和的な関係を築く。

 

現代における文化類型: 食文化。物質文化。旅行。ガーデニング。鉄道ファン。カメラ。プラモデル。楽器。宝石。陶芸。彫刻。美術。自動車。バイク。その他、物に関わる趣味。経済学。

 

性的な意味合い: この心理的な領域に、性的な意味合いは希薄である。また長年、男が狩猟に従事してきたという歴史的な事実からしても、この心理的な領域は、男性的である。

 

思考形態: 経験的、物理的、科学的な思考。

 

宗教との関係: この心理的な領域に、宗教的な意味合いは希薄である。但し、「物に何かを象徴させる」という観点からすれば、仏像、寺院、キリスト像、十字架などが存在する。

 

経験と情報: 狩猟に関する成功体験などは、集団の内外において、共有化され易い。また、物に関する文化というのは、時間的な制約を受けることなく、伝播する可能性を秘めている。例えば古代において、ある部族がヤリを発明したとする。そして、何年も経過した後、別の部族が打ち捨てられたヤリを発見する。その部族がヤリの使い方を理解すれば、ヤリという道具に関する文化が伝播することになる。

 

心理タイプ: 感覚

 

現代社会における人口比率: 3割程度ではないか。

 

現代政治における投票傾向: 社会的な事項に対する関心が低く、無投票となり易い。

No. 181  1次性についての要約書

1次性から3次性まで、同じ評価項目を設定し、記述してみることにします。なお、1次性から3次性までの関係ですが、同一人物の心の中で、時に協調し、時に対立しているような気がします。それは、社会の中でもそれぞれの文化がそのような関係にあるのと同じだと思います。しかし人によって、それぞれの心的領域が優先、劣後の関係にあると考えるのが自然ではないでしょうか。1次性と呼ぶ心的領域が広い人、反対に3次性の領域が広い人などがおられる。では、以下に記載します。なお、今後、2次性、3次性につきましても、同じ評価項目で、原稿をアップする予定です。

 

動物との関係: 真似る

 

興味の対象: 人間と動物

 

古代の文化種別: 歌う、踊る、着飾る

 

文化の進展プロセス: 歌い、踊ることを中心として、祭りが始まる。祭りは、周辺住民とのコミュニケーションの場となり、次第にその規模を拡大していく。同じ歌を歌う、同じリズムに合わせて踊る。そこから共感が生まれ、集団の結束力が強化される。集団は家族、血縁集団など、比較的小規模なものから始まるが、その後、部族、民族などの規模を経て拡大していく。なお、歌う、踊る、着飾るという行為を見た場合、古代から現代に至るまで、本質的な変化は見られない。

 

現代における文化類型: 祭り。エンターテインメント。歌謡曲やポップスなど。オリンピックなどのスポーツ大会。地上波のテレビ番組。週刊誌。政治的には、集団主義民族主義国家主義など。

 

性的な意味合い: 歌う、踊る、着飾るという行為は、セックスアピールの意味合いが強い。

 

思考形態: 自ら思考するというよりは、他人の作り出した“物語”を信仰する傾向が強い。

 

宗教との関係: 宗教の信者になり易い傾向がある。

 

経験と情報: 集団的な経験を尊重する。祭りに参加するためには、地理的に近い必要がある。よって、情報の伝達は地理的な制約を受ける。

 

心理タイプ: 感情

 

現代社会における人口比率: マジョリティが、この類型に属する。

 

現代政治における投票傾向: 自民党公明党などの与党に投票しやすい

経験と思考

先日、長年顔見知りだった方々に、焼鳥屋へ連れて行っていただきました。メンバーは50代で寡黙な男性と、同じく50代で饒舌な女性。私を含めて3人です。そして、お酒が回るにつれ、女性が身の上話を始めたのです。聞けば、息子さんが2人おられたのですが、うち1人が若い頃に亡くなられたとのこと。すっかり酔って、店を出た時のことでした。その女性が私にこう尋ねてきたのです。

 

「山川さん、神様っていると思う?」

 

ちょっとセンシティブな話題ですし、飲むのは初めての方なので躊躇したのですが、私はこう答えました。

 

「俺は、いないと思うよ。天国や地獄なんてものも、存在しないと思う」

 

後段の天国や地獄の下りは、ジョン・レノンのイマジンからの引用です。こういう、一瞬の判断を迫られた時、ジョンはやはり、頼りになります。すると、女性はこう言ったのです。

 

「そうだよね。神様なんて、いないよね。いたら、私の息子が死ぬようなことはなかった」

 

私は何度も大きく首を縦に振ったのですが、続ける言葉が見つかりませんでした。

 

さて、彼女は個人的な経験に基づいて、「神は存在しない」という大変な思想に至った訳です。なるほど。経験と思考との間には、密接な関係がある。

 

そうしてみると、心的領域論には修正が必要かも知れません。すなわち、私は「2次性」と呼んでいる心の領域が関心を示すものが「物と経験」であると考えてきたのですが、経験は1次性や3次性にも関係している。少なくとも上記の例におきましては、明らかに「経験」が3次性の領域に影響を及ぼしている。

 

そこで、経験とは何かと考えてみますと、これにもいくつかの種類のあることが分かります。まず、1次性に関わるのが「集団的な経験」ではないか。例えば昭和の暴走族は、一緒に暴走行為を繰り返すことによって、すなわち「集団的な経験」を経て、友情を育んでいました。暴走族の1人が、こう述べていました。

 

「俺は暴走族やって良かったと思っているよ。だって、そこで本当の友達ができたから」

 

この発言も、かなり本質を突いているように思います。人は、同じ経験を積むことによって、親和的な関係を築く。経験の先に、人間がいるのだと思うのです。これは、人間と動物に興味を持つ1次性の特質ではないでしょうか。日本の政権与党が、オリンピックに力を入れるのも分かります。これは、国民にとって「集団的な経験」となり得るため、結束力を強める効果が期待できる。

 

次に、物語的思考というのも、実は、3次性ではなく1次性の産物ではないかと思えてきました。物語的思考というのは、その典型は聖書にある訳ですが、同じような例は、日本にも沢山あります。例えば、こんな話があります。昔、日本が日照りに見舞われた。そこで、殿様が最澄に雨乞いを命じた。最澄は雨乞いの儀式を執り行ったが、雨は降らなかった。困った殿様は、空海に同様の命令を下した。空海が雨乞いの儀式を行うと、今度は、雨が降ったというのです。もちろん、こんな話は事実ではありません。しかし、空海を支持する人たちにとっては「だから空海の方が偉いんだ」という主張の論拠になり得る。こういう物語的な思考というのは、集団の結束力を強めるに違いありません。これも1次性ではないか。現代の企業におけるブランド戦略にも、この物語的思考が利用されています。創業者や伝説的な商品に関する物語を強調して、顧客や従業員に対しアピールする。例えば、カルロス・ゴーン氏が日産に来て最初にやったのは、フェアレディーZという日産の伝説的な商品を復活させることでした。また、日産は三菱自動車を買収しましたが、再びゴーン氏は、同社の伝説的な商品であるランエボ(ランサー・エボリューション)を復活させたのです。(エンジンはフランス製だったようですが・・・) このように、物語的思考というのは、現代にも生きている。そこに論理性はありません。この思考形態というのは、どうも3次性とは決定的に異なる。1次性であると考えるべきではないか。

 

次に2次性における「経験」とは、物と自然に関わる経験だと言えないでしょうか。物に関わる魚釣りにしても、陶芸にしても、自然との深いつながりがある。また、バイクに関しましても、その愛好家には2種類あることが分かります。最初の類型は暴走族で、彼らはバイクという物(2次性)と、仲間との友情(1次性)に関心を持っている。他方、中高年のライダーは、山や海などの自然を目指して走る。こちらは、純粋に2次性だけのメンタリティであると解釈できます。

 

そして、3次性においては、冒頭に記した例のように個人的な経験がベースになる。

 

このように考えますと、集団的な経験に準拠する1次性と、個人的な体験に準拠する3次性が対立する理由も納得できます。

 

誠に混乱してしまい、申し訳ありません。整理する意味で、予め評価項目を定め、1次性~3次性まで、それぞれを今後の原稿でまとめ直してみたいと思います。

動物を真似る、食べる、敬う

放送大学文化人類学の講義(第8回)を見ておりましたら、インドには蛇の真似をした踊りがあるとのこと。やはり、ダンスというのは、動物の真似をするところから始まったに違いない。

 

ところで、前回の原稿では、3次性の歴史的な変遷について述べました。アニミズムに始まり、論理的思考に至る4つのステップです。そうしてみると、他の1次性、2次性についても、歴史的な変遷と言いますか、その起源があるに違いない。この点について考えてみた結果、表題の通り、人間の動物との関わり方が3種類あって、それが各々人間の心的領域(1次性~3次性)に対応しているのではないか、という思いに至りました。では、早速ですが一覧にしてみましょう。左から順に、区分、動物との関わり方、典型的な文化形態、興味の対象、特徴を記します。

 

1次性・・・真似る・・・祭祀・・・人間と動物・・・身体的
2次性・・・食べる・・・呪術・・・物と経験 ・・・物理的
3次性・・・敬う ・・・神話・・・概念と論理・・・概念的

 

まず、1次性の“真似る”ですが、これは人間の歌とダンスが動物を真似る所から始まったという見方に基づいています。歌とダンスは、参加メンバーが一定のリズムに合わせて歌い、踊らないと成立しない。やがて人々は集まり、祭りが開催されるようになる。その集団のスケールは、段階を経て大きくなる。このブログにかつて「集団スケールと政治の現在」という原稿をシリーズで掲載しましたが、集団のスケールは最終的には国家規模にまで至る。やはり、この1次性という心的領域にも長い歴史があることになります。

 

次に2次性の“食べる”ですが、言うまでもなく人類は動物を食べ続けてきた。人類はかなり昔から狩猟に用いる武器を発明し、使用してきたのです。ヤリがあり、弓矢があり、そこから人類と“物”の深い関係が始まったのではないでしょうか。動物の毛皮は衣服となる。そして、例えばラスコー洞窟の壁画のように、人類は狩りの成功を願い、呪術という文化を生む。呪術はやがて科学となり、貨幣なるものが発明され、経済活動が活発となる。私がかつて、このブログで「物質文化」と呼んだ領域は、この2次性に他なりません。

 

そして、3次性の“敬う”ということですが、人類はかなり以前から動物を崇めて来たのです。日本の稲荷神社がキツネを祀っているように、宗教の前段階で動物信仰があったに違いありません。宗教によって、例えばブタを食べてはいけないとか、牛は食べるな等、禁食にかかる戒律がある訳ですが、これらも動物信仰に起源があるのだろうと思います。このように、人類は動物に感謝し、頭を垂れて来た。これが、アニミズムですね。

 

やはり、人類の動物に対する態度が3種類あって、それぞれが独自の文化を生んだ。その文化は、そのまま人間のメンタリティを構成してきたのではないか。この考え方に従えば、現代人のメンタリティまで説明することができる。

 

1次性から3次性までの心的領域は、時に調和し、時に対立してきた。例えば、フラメンコというのは、常に女性が踊り、男性がギターなどの楽器を演奏していますね。これが逆だと、やはりしっくり来ません。踊るというのは、1次性の典型です。そして、楽器という“物”を演奏するというのは、2次性だと言えそうです。この例では、1次性と2次性が見事に調和している。現代の捕鯨問題も理解できます。クジラを食べて何が悪い、という日本の主張は2次性で、クジラは食べるなという主張は3次性です。この例では、2次性と3次性が激しく対立しています。

 

キリスト教を例にとって考えますと、まず、讃美歌、聖歌などの音楽がある。また、黒人教会では伝統的にゴスペルが歌われてきて、これが後世のポップ・ミュージックに多大な影響を与えたと言われています。これが1次性ですね。次に、十字架やキリストの像がある。教会という物理的な建物も重要な役割を果たしてきた。これが2次性。そして、聖書がある。これが3次性ということになります。

 

仮に、キリスト教のように3つの要素を兼ね備えたものを宗教と呼ぶとすれば、現代日本の仏教や神道は、宗教と言えない。これらは、呪術だと思います。商売繁盛や、良縁、安産、交通安全などを祈願する。そして、その証としてお札やお守りをもらったりする。

 

では、この心的領域論をユングのタイプ論と対比させてみましょう。

 

1次性・・・真似る・・・感情
2次性・・・食べる・・・感覚
3次性・・・敬う ・・・思考(直観)

 

やはり、対応していると思います。感情というのは、基本的に人間が人間や動物に対して持つ心の働きではないでしょうか。他方、感覚というのは、主として人間が“物”に反応する作用ではないかと思います。おいしいとか、心地よいなど。

 

男女の違いについても、説明できます。1次性が女性的で、2次性が男性的だと言えます。歴史的な事実として、男は狩りに出かけ(2次性)、女は子育てをしてきた(1次性)。ただ、文化人類学的に見ても、性というのは不確かなものであって、入れ替わることが頻繁に起こります。

 

更に、1次性の祭祀は昼間の文化で、3次性の神話は夜の文化だとも言えそうです。

 

どうやら、アイディアの段階としては、私の心的領域論は、これにて完成したようです。これで、文化も、人間のメンタリティも全て説明できる。(多分!)

 

この立場から、現代日本の状況を見てみましょう。まず、地上波のテレビ。これは9割が1次性だと思います。とにかく、人間と動物にしか興味がない。オリンピックをはじめとしたスポーツ番組など。CMもそうですね。人間も動物も登場しないCMというのは、見たことがありません。残る1割の大半は、グルメ番組などの2次性に関わるもので、3次性に関する番組というのは、それこそ放送大学が放映している位のものです。新聞広告で、ある女性誌の目次を見たのですが、これは100%、1次性だけでした。他人の恋愛、不倫、健康問題など。男性週刊誌なども同じです。とにかく、水着姿の女性の写真が多い。これも1次性です。1次性のメンタリティというのは、とにかく他人に共感を求める。これが、しばしば度が過ぎて、強要となり、息苦しさを生む。フィギュアスケートの羽生選手を追っかけているオバサンたちも沢山いるようですが、彼女たちの心的領域には、1次性しかないのではないかと思ってしまいます。子育てをしている間はいい。しかし、子供はいつか巣立っていく。それでも、彼女たちはひたすら人間と動物に興味を抱き続ける。すると、羽生選手を追っかけるか、他人の噂話をする位しか、することがなくなるのではないか。1次性、これが口うるさく、息苦しい世間というものの正体だと思います。

 

選挙における投票行動も分かります。

 

1次性・・・自民党公明党に投票
2次性・・・投票しない無党派層
3次性・・・論理的な野党に投票

 

人間というのは、1次性から始まるものの、物と出会って2次性を獲得し、本を読んで3次性に至る。(そうあって欲しいと私は願っています。)しかし、3次性を獲得した高齢者は、死んでいきます。そして、その代わりに赤ん坊が生まれて、また、1次性から始まる。だから、いつまでたっても、人間の社会というのは進歩しない。