文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 186 ライオンの生態から考えるエゴイズムの3類型(その3)

昨日の佐川氏の国会証人喚問ですが、重要な事項は、何一つ明かされませんでした。ある程度想定されてはいたものの、腑に落ちません。こういう理不尽なことが続いており、次第に私は人間の社会というものに嫌気が差して来ました。

 

さて、ボヤいていても仕方がありませんので、本論に入りましょう。

 

ライオンの生態について、駆け足で見て来ましたが、そこから抽出されるエゴイズムの3類型は、次の通りです。

 

1. 帰属集団のエゴ
2. 序列闘争に関する個体のエゴ
3. 遺伝子のエゴ

 

今回は、ライオンの生態に照らし、上記の各類型について検討してみます。

 

<帰属集団のエゴ>


ライオンにおける帰属集団とは、すなわちプライドと呼ばれる血縁集団を指すことになります。ボスライオンに率いられているプライドは縄張りを保有し、他の集団がこれを侵害しようとした場合には、激しい戦いが生ずることになります。このような場合、予め、互いに遠吠えをし、威嚇しあうようです。そうすることによって、無用の戦いを回避しているのでしょう。

 

また、百獣の王と呼ばれるライオンではありますが、天敵が存在するのも事実です。典型例としては、ハイエナとヒョウを挙げることができます。最近は、チーターもそのような関係にあるとする説もあるようです。ハイエナやヒョウは、ライオンのプライドの縄張り内に生息しており、獲物を奪い合う関係にあります。ライオンが苦労して獲物を倒した直後、ハイエナが集団でやって来て、それを奪うことがありますし、反対にライオンがハイエナから獲物を奪うケースもあります。そういう闘争を、多分、もう何万年も繰り返している。そこで、ライオンは、天敵であるハイエナの生息数を減らすため、ハイエナの子供を見つけると、これを噛み殺してしまうのです。食べるためではありません。ただ、殺すのです。同様のことをハイエナやヒョウも行います。つまり、互いの子供を殺し合っているのです。終わりなき怨恨の連鎖、ということだと思います。

 

更にプライドは、弱った個体を排除する。この点は、体が小さく後ろ脚を怪我した子供のライオンに対し、母ライオンが授乳を拒否した例から、推定されます。またボスライオンは、より若くて強いライオンに取って代わられる。更に私の推測が正しければ、メスライオンにおいても、世代交代のシステムが存在する可能性がある。

 

“帰属集団のエゴ”とは、個体の利益を犠牲にし、ひたすら帰属集団にとっての利益のみを追求するものだと言えるでしょう。

 

<序列闘争に関する個体のエゴ>


プライドは、一致団結して獲物を倒しますが、ひと度獲物を獲得すると、今度はその取り合いが始まります。正に「昨日の友は今日の敵」ということです。そして、獲物を食べる順番については、“序列”という暗黙のルールがある。ライオンの生態を見ておりますと、喧嘩が非常に多い。それはオスとメスの間、オス同士、メス同士、いずれの場合でも発生する。これらの喧嘩は、序列を決めるための闘争であるように思えます。私は、メス同士でマウンティングを行っている動画を見ました。これは、あるメスが他のメスの背中に乗り、「私の方が上よ」と主張している訳で、下になったメスがじっとして反抗しなければ、その序列を受け入れることを意味するようです。ボスライオンが2頭いれば、その2頭の間でも序列が決まっているのではないか。そして、兄弟姉妹の間でも、序列が決まっているのだろうと思います。

 

<遺伝子のエゴ>


ライオンは、種族の繁栄を希望しているのではありません。ひたすら、自分の遺伝子を残そうとしている。これが“遺伝子のエゴ”の正体です。新たにボスライオンに君臨した若いオスは、前任のボスライオンが残した子供を皆殺しにする。(但し、子供が既に1才を超えて、ある程度大きくなっていた場合は殺さないようです。)すると、子供を殺されたメスライオンは発情し、妊娠する。オスもメスも、ひたすら自分の遺伝子を残すために、必死なんです。リチャード・ドーキンスは、その著書「利己的な遺伝子」の中で、「生物は遺伝子を運搬するための乗り物に過ぎない」と述べているようですが、その通りなのかも知れません。

 

ところで、ライオンの生態が特殊なのかと言うと、意外とそうでもなさそうです。たまたま、ゴリラの動画を見たのですが、結構、似てるんです。ゴリラもボスゴリラを中心とした、一婦多妻制の集団を作って暮らしています。そして、若いオスのゴリラが戦いを挑み、老いたボスゴリラが敗北すると、勝利した若いゴリラは、そのグループの子供たちを皆殺しにする。ライオンとよく似ていますね。但し、ゴリラは縄張りを持ちません。この点は、ライオンと異なります。また、ライオンの平均的な寿命は、オスで10年、メスで15年程度だそうです。ゴリラの方は、30年~50年だそうです。ある程度の知性を獲得するためには、寿命の長い動物の方が有利なんだろうと思います。

 

いずれに致しましても、それでライオンは幸せなんだろうか、という疑問が沸いて来ます。オスライオンの人生(?)を考えますと、母親に守られている幼少期を除けば、落ち着く暇がありません。他のプライドと戦い、天敵と戦い、最後は若いライオンに敗北し、プライドを追放され、死んで行く。メスライオンにしても、序列争いが絶えない。折角子供を出産できても、ハイエナに殺されてしまう。場合によっては新たなボスライオンに殺されてしまう。ライオンよ、君たちは本当にそれでいいのか、と問いたくもなります。もちろん、私の声がライオンに届くことはありませんが・・・。

 

さて、ライオンの生態から、エゴイズムの3類型を抽出することができました。これらの3類型が人類にも当てはまるのか、次回はこの点を検討してみたいと思っています。私としては、「当てはまる」と思っているのです。

No. 185 ライオンの生態から考えるエゴイズムの3類型(その2)

森友学園の問題は一向に解明が進まず、どうも気持ちがスッキリしません。国会では政府が二言目には「地検による捜査が進行中なので、個別の事案については回答を差し控えたい」と言って回答を拒否しています。この期に及んで、未だに何かを隠そうとしているように見えます。しかし、国会も大阪地検も、真実を発見するためのプロセスに取り組んでいるはずです。そして、既に証拠の大半は押収されている。そうであれば、政府が国会で答弁をしたからと言って、地検の捜査に支障をきたすようなことはないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

国会での真相究明が進まない一方、大阪地検がリークしたとしか思えないような情報が、ポロポロとマスコミによって報道されています。そうであれば、まずは法務省が、かかる事実を国会に報告すべきではないでしょうか。

 

では、私の血圧が上がる前に本論に入りますが、もう少しライオンの生態について、見ていきましょう。

 

ある母ライオンが、4頭の子供を出産します。うち1頭は、体が小さく臆病な性格です。そのため、この子ライオンは他の兄弟ライオンと打ち解けることもできず、家族の中で孤立します。更に、この子ライオンは後ろ足を怪我してしまうのです。やがて、プライドは餌を求めて移動しますが、この子ライオンは群れの動きについていけず、はぐれてしまう。空腹と脱水症状が、子ライオンを苦しめます。幸い、プライドを見つけることができ、子ライオンは、母ライオンの元に近づきます。他の兄弟のライオンたちは、母親の乳首を吸っています。怪我をした子ライオンが、母親の乳首に吸い付こうとした瞬間、母ライオンは立ち上がって、授乳を拒否するのです。解説によれば、発育も遅く怪我をしている子ライオンが生き延びる確率は低い。そうであれば、生存確率の高い他の子供たちに授乳した方が良い。ライオンの社会においては、このように我が子を見捨てるというケースは決して少なくない、とのことです。(このドキュメンタリーにおきまして、負傷した子ライオンは幸運にも回復し、生き延びることができます。)

 

この例では、母親が子供を見捨てるのです。

 

次の例では、あるプライドが年老いたボスライオンに率いられています。そして、若い2頭のオスライオンがそのプライドを乗っ取ろうとする。そうなった場合、そのプライドに属する子供たちは、皆殺しになってしまいます。状況を察した母ライオンは、子供たちを引き連れて、こっそりとプライドを離れます。そこから、1頭の母ライオンと子供たちの逃亡生活が始まるのです。子供たちは、まだ狩りに参加できません。よって母ライオンは、自分1人で狩りをしなければなりません。プライドに属していれば、他のメスライオンと連携して、戦略的な狩りを行うことができますが、自分1人ではそうもいきません。ある晩、母ライオンはシマウマを狙いますが、不幸にもシマウマの後ろ足の蹄が母ライオンの腹部を直撃してしまいます。傷は深く、出血しています。瀕死の重傷です。母ライオンは、たまらずその場に横たわってしまいます。

 

やがて、腹を空かせた子供たちは、母ライオンを探しに出かけ、横たわって息も絶え絶えになっている母ライオンを発見します。しばらく、子供たちは不安気に母ライオンを取り巻き、その体を舐めたりしますが、どうやら助かりそうもないと悟ったのか、母ライオンをその場に残し、歩き出してしまうのです。(このドキュメンタリーにおきましては、この母ライオンは幸運にも、生き延びることができます。)

 

この例では、子供たちが母親を見捨てています。

 

それが、サバンナで生き延びるための掟だと言ってしまえばそれだけですが、人間の感覚からすれば、あまりにも非情だと言わざるを得ません。

 

ところで、ライオンの生態には、ちょっと意味の分かりかねるものもあります。それは、プライドが特定のメスライオンを虐待するケースです。

 

ある事例では、メスライオンが他のメンバーから虐待を受け、プライドから追い出されてしまうのです。メスライオンの体には、虐待の激しさを物語るように、無数の引っ掻き傷があります。プライドのメンバーに見つかれば、再び、虐待を受ける。そのため、彼女はプライドから離れた所に身を潜めている。そして、容赦なく空腹が襲ってくる。なんとか近くを通りかかった獲物をしとめる。しかし、解説によれば、プライドを放逐されたメスライオンの生存確率は、かなり低いとのこと。また、プライドを追放されるに至った理由についてですが、番組の解説では「ボスライオンとの関係で、何らかのトラブルがあったのではないか」とのことでした。

 

しかし、日本のサファリパークのような場所での動画を見ますと、ボスライオンと他のメスライオンが一緒になって、一頭のメスライオンに攻撃を加えている。何故、このようなことが起こるのでしょうか。(私は生物学者ではありませんので、ここから先はあくまでも個人的な想像です。)

 

まず、彼女が“序列”というルールを守らなかったという可能性が考えられます。プライドにおける“序列”は、おおまかに言いますと、第1順位がボスライオンで、第2順位がメスライオン、そして最後に子供たちということになります。しかし、更に詳しく見ていきますと、メスライオン同士の間にも序列がある。これは、メスライオン同士の間で、マウンティングという行動が観察されていることから、明らかです。マウンティングとは、相手の背中に馬乗りになり、自分の方が序列が上だということを誇示する行為のことです。プライドにおけるメス同士の序列で関係してくるのは、まず、餌を食べる順序です。しかし、そうであれば、争いは序列を無視されたメス同士の間で起こるのではないか。別の言い方をしますと、序列を無視したメスライオンを攻撃するのは、序列を飛び超えられてしまったメスだけであって、ボスライオンがそのメスライオンを攻撃する理由にはならない。

 

次に、あるメスライオンが序列を無視して、ボスライオンを誘惑したという可能性も考えられます。しかし、この場合であっても、ボスライオンが、そのメスライオンを攻撃する理由にはなりません。ライオンに限らず、メスから誘惑を受けて悪い気のするオスなど、いないのではないでしょうか?

 

更に考えますと、あるメスライオンがボスライオンよりも先に餌を食べてしまった、という可能性も考えられる。そこで、ボスライオンが激怒する。そして、ボスライオンに気に入られたいと思っているメスライオンが、言わばボスライオンの気持ちを“忖度”し、ボスライオンと一緒になってルールを破ったメスライオンを攻撃する。この可能性は、前の2例よりも現実的であるような気もします。しかし、ライオンにそこまで複雑な心理が働くのか、疑問もあります。

 

そして、私が最後に行き着いた仮説は、こうです。すなわち、オスのライオンには、世代交代のルールがある。ボスライオンは、いずれ年老いて、若いオスの放浪ライオンとの戦いに敗れ、プライドを去る運命にあります。では、メスはどうでしょうか。メスにも、そういうルールがあるのではないか。つまり、あるメスが年老いて生殖能力を失い、狩りをする能力までも失ったとする。すると、プライドとしては、そのようなメスを置いておくメリットがなくなります。プライドが確保できる餌の量には、上限がある。一つには、そのプライドが所有している縄張りの広さ。もう一つには、狩りの能力です。3歳程度になったオスのライオンをボスライオンがプライドから放逐する、という話もありました。それと同じように、ボスライオンが、若しくはプライドのメンバー全員で、年老いたメスライオンを追放しようとするのではないか。

 

なんとも恐ろしい仮説ではありますが、昔の日本にも“姥捨て山”という風習があったことを思い出します。

No. 184 ライオンの生態から考えるエゴイズムの3類型(その1)

桜が開花したというのに、今日は小雪が舞っていました。安倍政権の支持率は30%程度まで下落し、佐川氏の証人喚問が決まりました。森友学園の問題は、何故、8億円もの値引きがなされたのかという実質的な問題と、公文書が改ざんされたという手続き上の問題の2つがある訳ですが、誰が、いつ、何のためにそのような意思決定を下したのか、この点が一向に解明されていません。言うまでもなく、真相の解明を望んでおりますが、とかく人間の社会というのは、疲れる。そこで、今回はライオンの生態について考えてみて、そこから人間にも共通するであろうと思われるエゴイズムの類型について検討してみたいと思います。学術論文ではありませんので、軽い気持ちでお読みいただければ、幸いです。

 

さて、YouTubeでライオンに関する番組を片っ端から見ておりますと、不思議な気持ちになってきます。そこにはライオンの世界に固有な、人間社会とは異なる“掟”がある訳ですが、似ているところもあるような気がするのです。ライオンの行動原理を“本能”と呼ぶこともできますが、もう少し具体的に考えるために、ここではエゴイズム(“エゴ”)と呼ぶことに致します。

 

1頭~3頭程度で、特段の縄張りを持たずに放浪しているオスの若いライオンもいますが、マジョリティのライオンは、プライドと呼ばれる集団を構成して、暮らしています。プライドは、1頭~2頭のオスのボスライオンによって統率されており、構成メンバーは数頭のメスライオンと子供たちということになります。メスライオンは、互いに血縁関係があるようです。ボスライオンの主な役割は、他のライオン集団から縄張りを守ることで、狩りにはめったに参加しません。他方、メスライオンは、プライドを維持するために必要な狩りを行うと共に、子育てを担っています。

 

ライオンとしても、リスクは負いたくない訳で、なるべくなら簡単に倒せるシマウマなどをターゲットにしますが、必要に応じて、大型のキリンなどに挑む場合もあります。このような場合は、ボスライオンも参加し、狩りを主導します。大人のライオンが総出で、キリンを取り囲むのです。何頭かが、前方に回って、キリンの注意を引きつけます。その隙を狙って、他のライオンがキリンの背後から飛び掛かります。キリンはこれに対抗して、後ろ足を蹴り上げます。これが命中すると、ライオンといえども死んでしまいます。ライオンも命がけなんです。しかし、YouTubeを見ておりますと、小柄なメスライオンも、果敢にチャレンジするんです。しかし、キリンに振り落とされてしまう。そこで、今度はボスライオンがキリンの背後にしがみつく。長くて強力な爪をキリンの肌に突き立てるんです。そして、噛み付く。キリンは次第に弱ってくる。巨大なキリンも、やがて崩れ落ちるのですが、その一瞬を狙って、別のライオンがキリンの喉仏に噛み付くのです。キリンは呼吸困難となり、失神してしまいます。キリンが弱ったと見るやいなや、ライオンの群れが一斉にキリンを食べ始める。殺してから食べそうなものですが、ライオンたちの目的は殺すことではなく、食べることにある。

 

ここまでは、プライドという集団と各ライオンの利害は、見事に一致しています。皆で力を合わせて、獲物をしとめる。

 

キリンやヌーのような大型の獲物をしとめた場合は、プライドのメンバーは一斉に食べ始めるようですが、獲物が小者だった場合には、食べる段階で問題が生じます。すなわち、食べることのできる優先順位が決まっているのです。第一順位は、もちろんボスライオンです。ボスライオンが食べている間は、メスライオンや子供ライオンは、黙って見ていなければなりません。そういうルールなんですね。しかし、メスライオンだって、空腹に耐え兼ねている。だから、ボスライオンの目を盗んで、食べ始めてしまうようなこともある。それが見つかると、ボスライオンから強烈なパンチを食らったりする。ボスライオンは、他のメンバーのことなど一切返り見ることなく、ひたすら自分が満腹になるまで、食べてしまう。人間の目からして特に理不尽だなと思うのは、メスライオンが単独で仕留めた獲物であっても、ボスライオンが優先権を持つことです。何か、ボスライオンはあたかも労働者から搾取する資本家のようではありませんか?

 

プライドに養われていたオスの若いライオンも、3歳位になると、それなりに立派な風貌になってきます。食べる量も増えて来る訳で、狩りを担当するメスライオンの負担が過大になってきます。そのため、ボスライオンは頃合いを見計らって、これらの若いオスライオンをプライドから追放するのです。そして、追放されたオスライオンが、放浪を始める。

 

メスライオンの乳首は4つなので、一回に生まれる赤ん坊の頭数というのも、あまり多くはありません。オスの赤ん坊にとって重要なのは、同じオスの兄弟がいるかどうか、ということです。3歳程度になってプライドから追放される際、兄弟がいれば同時に追放され、兄弟は、以後、行動を共にすることになります。狩りをするにしても、他のライオンと対峙するにしても、頭数が多い方が有利です。不幸にして、兄弟のいなかったオスライオンは、生存確率が圧倒的に低くなってしまう。

 

2~3頭で放浪生活を生き延びたオスライオンたちは、5歳程度になると、他のプライドの乗っ取りを試みます。プライドを手に入れるということは、彼らにとって、縄張りとメスライオンの双方を手に入れることを意味しています。そこで、若い放浪ライオンは、他のプライドに君臨しているボスライオンに戦いを挑む訳です。そこで、オス同士が人生(?)を掛けて戦うのです。相手のボスライオンが年老いている場合は、戦う前に尻尾を巻いて逃げてしまうようなケースもあるようですが、互いに引かない場合は、一方が死に至ることもあるようです。

 

この戦いで、若い放浪ライオンが勝利した場合は、壮絶なドラマが待っています。新たにボスライオンに君臨したオスは、そのプライドにいる全ての子供ライオンを噛み殺してしまうのです。大きな顎と、頑丈な歯を使って、子ライオンの頭蓋骨を噛み砕く。残酷、極まりありません。これは、他のオスライオンの遺伝子を残さないようにするという目的と、そのプライドに属するメスライオンたちを発情させることが目的だそうです。ちなみに、同様の現象はゴリラやチンパンジーでも観察されているようです。

 

子供を殺された母ライオンたちは、悲嘆に暮れますが、新入りのボスライオンに逆らう訳にもいきません。そこで、彼女たちは、新入りのボスライオンの値踏みを始める。この若いライオンは、本当に力が強いのか。そして、これからも長期に渡って、このプライドを支配し続けるのか。メスライオンたちは、新たなボスに合格点を与えた場合、自ら進んで、新たなボスライオンを誘惑し始める。自分の子供を殺したオスライオンに対し、積極的に交尾を仕掛ける。人間の世界であれば、とんでもない尻軽女ということになりますね。しかし、メスライオンとしても、自らの遺伝子を後世に残したいと願っている訳で、そうするためには他に選択肢がないのだと思います。これは、“遺伝子のエゴ”と言っても良いでしょう。

官邸前の抗議集会

(前)文科省事務次官の前川氏が講演を行った名古屋市の中学校に対し、文科省が政治的圧力を掛けたことが判明しました。これはもう、恐怖政治だと言う他ありません。文科大臣は、前川氏に謝罪すべきではないでしょうか。

 

また、森友学園で工事を請け負った業者は、財務省からごみの量を実際より多く積算するよう圧力を受けたとの報道があります。国会では麻生大臣他、全ての責任を佐川氏に押し付けようとするミエミエの答弁が続いています。日本は、こんなデタラメばかりがまかり通る国になってしまった。安倍政権の支持率が急落したとは言え、まだ39%の国民が支持している。この国は、その程度の国なのか?

 

カッカしながらYouTubeを見ておりますと、連日行われております官邸前の抗議集会が目に止まりました。

 

安倍はヤメロ! 麻生もヤメロ! 公的文書を改ざんするな! 真実話せ!

 

私としては、まったくもってその通りだと共感する訳で、パソコンの前で思わず「安倍はヤメロ!」と叫びたくなってしまいました。主催者は、元シールズ、現「未来のための公共」の若者たちのようです。金曜日には、1万5千人が集まったそうです。抗議集会には、大学教授や野党の国会議員も参加しており、スピーチを行います。そして、コールが延々と続くのです。コールとは、マイクを持ったリーダーの声に合わせて、全員がリズムに合わせて「安倍はヤメロ!」などと声を張り上げることを言います。集会には、ドラム隊が参加しており、リズムを統制しています。このコールには、いくつものパターンがあって、こんなものもありました。

 

リーダー・・・民主主義って何だ!
参加者・・・・これだ!

 

複雑なパターンでは、次のようなものもあります。

 

リーダー・・・I say アベ。You say ヤメロ。アベ!
参加者・・・・ヤメロ!
リーダー・・・アベ!
参加者・・・・ヤメロ!

 

マイクを持つリーダーは、男ばかりではありません。若い女性も髪を振り乱しながら、コールをリードするのです。ドラム隊は、単調なリズムを叩き続ける。次第に集団全体が高揚感に包まれていく。

 

これって、何だろう。昔、同じような高揚感を感じたことがある。そうだ、1969年頃のロック・フェスティバルに似ている。ここには、本物のロック・スピリットがある!

 

簡単に言いますと、1969年のロックは、エゴイズムや民族主義などの古い価値観と戦っていたと思うのです。いがみあうのは止めて、愛し合おう。戦争は止めて、平和を希求しよう。そういうメンタリティだった。アメリカでは、ヒッピーと呼ばれる人たちが大量に誕生した。日本では、70年安保闘争があった。しかし、ヒッピーたちもやがて定職につき、日本の安保闘争は敗北した。音楽の世界では、ビージーズという誠にけしからんバンドがサタデーナイトフィーバーなんてものを流行らせ、お陰でロックは衰退し、ディスコが流行した。音楽は思想を失い、せいぜいファッションとナンパの道具になり下がったのです。その後、パンクというムーヴメントも起こりましたが、これは年上のロック・ミュージシャンを批判するというトンチンカンなもので、すぐに消えた。以来、ほぼ半世紀に渡って、私は本物のロック・スピリットに出会うことがなかった。

 

しかし意外にも、2018年の日本で、しかも官邸前でそれが発見されるとは!

 

ハスキーボイスでコールをリードしていた黒髪の女性に、私は、ジャニス・ジョプリンの面影を感じました。

 

さて、この現象を文化論の立場から、考えてみましょう。

 

コールは、1次性です。これは、大昔から続く“熱狂する祭祀”と同じ類型です。そして、大学教授や野党の議員が行う論理的なスピーチ、これは3次性です。では、2次性はあるのか。それは、首相官邸という巨大な建物によって、象徴されています。官邸の建物は、批判の対象である現政権を象徴している。すなわち、官邸前の抗議集会は、1次性から3次性まで、全ての要素によって構成されている。文化的な現象として見た場合、これは極めて稀なケースだと思います。通常、1次性と3次性は対立する。それが、ここでは見事に調和している。文化のダイナミズムとは、こうやって生まれるのかも知れません。

財務省 文書改ざん事件

関東地方では、春めいてきましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

さて、このブログでは1次性~3次性についての要約書を掲載してまいりました。私としては、なんとか分かり易くお伝えしたいとの思いで趣向を凝らした訳ですが、ご理解いただけたでしょうか? 私の“心的領域論”は、文化論であり、歴史認識であり、心理学的であり、現代日本における政治論でもある訳です。荒唐無稽であるとのご批判もあろうかと思いますが、皆様が身の回りで起こっている様々な事象をお考えになる際、少しでも参考にしていただければ幸いです。

では、私の立場から表題の件を概観してみたいと思います。結論から言えば、今回の事件は、安倍政権にとって最大の危機であって、今後の進展次第では、総辞職もあり得るのではないかということです。

ご案内の通り、安倍政権は幾多のスキャンダルを抱え、強硬採決を繰り返してきた訳ですが、今度ばかりは風向きが変わってきているように感じます。

私流の言い方をしますと、安倍政権を支えてきたのは“1次性”のメンタリティということになります。この1次性のメンタリティというのは、非論理的であって、感情的であるということです。すると、財務省の近畿理財局の職員の方が自殺をされたという事実は、彼らの琴線に触れる可能性がある。更に、本日になって報道されておりますが、実は、財務省の理財局(本省)でも、自殺された方がおられるらしい。文書改ざん事件との関係は未だに不明ですが、いずれ明らかになるでしょう。こうなってくると、安倍政権の支持層においても動揺が広がる可能性がある。

次に、メディアの姿勢にも変化が見られるということ。言うまでもなく、3月2日に朝日新聞が本件を報道した訳ですが、当初、右派のメディアは誤報ではないかと朝日新聞を攻撃しました。しかし、当の財務省が文書の改ざんを認めた訳で、白黒決着がついたのです。以後、読売、サンケイなどにも、事実を伝えようとする姿勢が出て来たように思えます。結局、メディアにとっては、安倍政権をヨイショすることよりも、購読者や視聴者の方が大切なんです。

与党も遂に重い腰を上げて、佐川(前)国税庁長官の証人喚問に応じるようです。多分、佐川氏は大阪地検における捜査が継続中であることなどを理由に、核心部分の証言を拒むのではないかと思います。しかし、国会における偽証など、逃げ切れない事実もいくつかあります。そのため、佐川氏の証人喚問によって、本件が沈静化するとは思えません。すると批判の矛先は、一気に安倍昭恵夫人に向かうことになるでしょう。ここでも、1次性のメンタリティが影響してくることになると思うのです。昭恵夫人については、既に批判的な報道が出ていますが、もし証人喚問ということになれば、お昼のワイドショーにとっては格好の材料となるはずです。すると1次性、特に女性の支持層が安倍政権から離れる。それは与党も良く分かっているので、昭恵夫人の証人喚問、参考人招致だけは絶対に回避したいと思っているはずです。それをする位なら、その前に総辞職する可能性すらあるのではないか。

麻生大臣は、自ら「原因究明と再発防止に努める」と言っていますので、いずれ辞任するものと思われますが、昭恵夫人の証人喚問(又は参考人招致)との関係もあって、辞任のタイミングは極めて難しい判断となりそうです。麻生大臣と言えば、本日、理財局以外の部署でも文書の改ざんがなかったか調べるとのことですが、そこで新たな改ざん事例が出て来たら、どうするのでしょうか。

森友事件だけをとっても、安倍政権に対する疑問は沢山あります。まず、昭恵夫人の命を受けて財務省に連絡をとった谷さんという女性は、当該事実が発覚後、直ちにイタリアへ転勤を命じられています。そして、籠池氏は収監されています。かれこれ、10か月になるようです。逃亡や証拠隠滅の恐れがない籠池氏を何故、長期に渡って収監しているのか、その理由が分かりません。仮に100歩譲って逃亡の恐れがあったとしても、それでは直ぐに裁判手続を開始すべきではないでしょうか。それをしない裁判所の判断も疑問であると言わざるを得ません。財務省を監査した会計検査院は、改ざん前の文書を国交省から受領していたそうです。そして、財務省から提出された改ざん後の文書との相違に気付いた。そこで会計検査院財務省に説明を求めた訳ですが、財務省から「こちらの文書が最終版だ」と言われて、それを信じたとのこと。これでは、ドロボーを取り調べている警察が、当のドロボーの意見に従ったのと同じで、全く会計検査の体をなしていません。

結局、皆、安倍政権を怖れているとしか思えません。安倍政権に逆らったら、何をされるか分からない。前川(元)事務次官のようにプライバシーに関わる事項で攻撃されるかも知れない。世間では、「忖度」という言葉が多用されていますが、私は、そんなことはないと思うのです。安倍政権のご機嫌を取って出世したい、もしくは攻撃されたくない、というエゴイズムが働いているのだと思います。そうでなかったら、明示または黙示の政治的圧力に屈しているのではないでしょうか。

どこの国でも、民主主義というのは、国民が勝ち取ってきたものと思います。今回の件で、怒れる国民の側が勝利をすれば、ひょっとすると日本にも民主主義が根付く契機となるかも知れません。どうなるかは分かりませんが、そうあって欲しいと願っています。

No. 183 3次性についての要約書

動物との関係: 人が動物を敬う

 

興味の対象: 概念と論理

 

古代の文化種別: 動物信仰、アニミズム

 

文化の進展プロセス: 古代において人間は、超越的な何者かの存在を信じ始めた。これがアニミズムだが、その契機としては、動物、死体、自然現象の3種類が考えられる。例えば、山中で人は突然、動物と出会う。動物は、人間に何らかのシグナルを発する。すなわち、人間にとって動物は、“記号”として現出する。記号は、それ単体では存在し得ない。記号とは、それが指し示す“対象”を呼ぶ。そこで、対象としての神の存在が信じられた可能性があるのではないか。日本で言えば、人が山中でキツネに出会う。キツネは何かを指し示しているに違いないと、古代の日本人は考えた。そこで、記号が指し示す“対象”としての神という概念が生まれる。すなわち、キツネは神の使いであると考えたのだ。そして、太古の日本人は稲荷神社を創建した。他国においても、動物信仰、特定の動物を食してはいけないとする戒律は、多く存在する。このアニミズムという心的な現象は、人間の想像力に依拠している。

 

太古の時代において、人は死体を埋葬するという習慣を持っていなかった。あちこちに、死体が転がっている。そして、人は生きている自分たちと、動かない死体の相違に思いを馳せたに違いない。そこで、人間は“魂”の存在を想定した。すなわち、生きている自分たちには“魂”があって、死体にはそれがない。このような文化現象もアニミズムの一種だと考えて良いのではないか。(魂が抜けると死ぬという「脱魂型」の考え方と、何かに取り憑かれる「憑依型」がある。)

 

自然現象については、それを説明する神話へと連なっていく。

 

アニミズムの次に、融即律という現象が表われる。これは、例えばある日、突然「自分たちの祖先はバナナである」と述べて、以後、バナナを食べることを禁じたイワム族の村長の例が典型的だ。融即律については、ある事柄を真剣に考え続けた結果、夢の中でその回答を得るという形態が典型ではないか。言わば、夢の中で神のお告げを聞くのである。従って、融即律というのは、個人的な経験に根差していると言えよう。

 

次に、「物語的思考」が表われる。例えば、火山性のガスが排出されている危険な地域がある。近隣の村では、その一帯に魔物が住んでいるという物語を作って、村民がその一帯に近づいてはいけないというタブーを作っている。この例では、多分、火山性のガスを吸い込んで健康を害した村人が、過去に何人か存在したのではないか。そういう経験と、魔物が住んでいるという想像力とが相まって、物語が作られたと考えるのが自然ではないか。ただ、この3次性という心的な領域は、物語を創り出す力を持っているのであって、それを信奉した多くの人々は、1次性の領域を持つ人々ではないか。

 

中世においては、この物語的思考が、中心的役割を果たしていた。それが近代になると、書物も普及し、歴史に関する知識も蓄積される。そして、蓄積された過去の歴史、すなわち経験の中から、人間は原理、原則を学んだ。そして、「論理的思考」に至る。例えば、過去の戦争に関する記録に接し、特に欧米の人々は「もうこれ以上、殺し合いを続けるのは嫌だ」と思った。そこで、平和主義という抽象的な概念が生まれる。複数の概念を組み合わせて考えることにより、論理が生まれる。

 

1. アニミズム・・・想像力
2. 融即律・・・個人的な経験
3. 物語的思考・・・地域的な経験と想像力
4. 論理的思考・・・歴史的な経験に基づく概念と論理

 

現代における文化類型: 論理的思考の典型は、日本国憲法の3原則である。すなわち、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義である。近年の思想から言えば、これに環境保全を加えても良い。

 

性的な意味合い: ない

 

思考形態: 想像力、経験、論理性

 

宗教との関係: アニミズム、融即律、物語的思考については、宗教を生み出す原動力となってきた。他方、近代以降の論理的思考は、宗教と対立する。

 

経験と情報: 論理的思考については、個人的な経験ではなく、集団的、歴史的なレベルでの経験が尊重されるため、歴史を学ばなければ、理解することが困難である。現代において論理的思考に関する文献を入手することは簡単だが、難解な文献が多い。

 

心理タイプ: 思考

 

現代社会における人口比率: 3次性は、マイノリティである。

 

現代政治における投票傾向: 3次性は、論理的な主張を行う野党を支持する傾向にある。現代の日本においては、1次性(保守系)と3次性(革新系)が、激しく対立している。

No. 182 2次性についての要約書

動物との関係: 食べる。人間が、動物を食料として認識する。

 

興味の対象: 物と自然

 

古代の文化種別: 狩猟。狩猟のための道具として、ヤリ、弓矢など。

 

文化の進展プロセス: 狩猟のための武器が発明され、更に動物の毛皮が衣服として利用される。そこから、人間と物や自然との関係が発展する。人間は、その衣食住の道具として、物を加工し、機能を付与することを学ぶ。但し、それと同時に人間は、物に願いを込める、すなわち呪術という文化を生む。例えば、木の実などに願いを込め、怪我や病気を治癒する薬としての効果を期待する。また、物に何かを象徴させるという文化を考案する。例えば、死者や神秘的な存在を物に象徴させ、その物を大切に扱ったりする。物に機能を付与するという文化は、やがて科学を生み、大量生産の手法などを開発し、現代に至る。貨幣の普及と大量生産が、経済活動の拡大に寄与する。人間と物との関係においては、前述の3つの類型が存在する。

 

1. 物に機能を付与する。
2. 物に願いを込める。(呪術)
3. 物に何かを象徴させる。

 

「物に機能を付与する」という文化は、物や自然に対し人間が上位に位置する関係にある。すなわち、このメンタリティは動物を殺して食べ、樹木を伐採して加工し、あたかも人間が自然を支配できるという幻想に立脚しているように思える。反対に、呪術や象徴にかかる文化は、物と人間との間に親和的な関係を築く。

 

現代における文化類型: 食文化。物質文化。旅行。ガーデニング。鉄道ファン。カメラ。プラモデル。楽器。宝石。陶芸。彫刻。美術。自動車。バイク。その他、物に関わる趣味。経済学。

 

性的な意味合い: この心理的な領域に、性的な意味合いは希薄である。また長年、男が狩猟に従事してきたという歴史的な事実からしても、この心理的な領域は、男性的である。

 

思考形態: 経験的、物理的、科学的な思考。

 

宗教との関係: この心理的な領域に、宗教的な意味合いは希薄である。但し、「物に何かを象徴させる」という観点からすれば、仏像、寺院、キリスト像、十字架などが存在する。

 

経験と情報: 狩猟に関する成功体験などは、集団の内外において、共有化され易い。また、物に関する文化というのは、時間的な制約を受けることなく、伝播する可能性を秘めている。例えば古代において、ある部族がヤリを発明したとする。そして、何年も経過した後、別の部族が打ち捨てられたヤリを発見する。その部族がヤリの使い方を理解すれば、ヤリという道具に関する文化が伝播することになる。

 

心理タイプ: 感覚

 

現代社会における人口比率: 3割程度ではないか。

 

現代政治における投票傾向: 社会的な事項に対する関心が低く、無投票となり易い。