文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 194 パースのアブダクション

 

このブログを続けてお読みいただいている方には、既にパース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)はお馴染みの登場人物となっているかも知れません。No. 164とNo. 165において「記号学のパースが面白い」という原稿を掲載させていただきました。また、その後、心的領域論と称して1次性~3次性までのメンタリティについて検討しましたが、こちらも私が着想を得たのはパースの現象学でした。

 

アブダクション(Abduction)を一言で言えば、それは「仮説と発見の論理」ということになります。ジャンルとしては、論理学。米盛裕二氏の著作「アブダクション」を参考とさせていただきます。

 

論理学の基礎として、まず、演繹がある。米盛氏は、次の例を挙げています。

 

全ての惑星(A)は、太陽を愛している(B)。
地球(C)は、太陽の惑星(A)である。
よって、地球(C)は太陽を愛している(B)。

 

これは、次の式で表現できます。

 

A = B
C = A
よって、C = B

 

Aという概念を介在させて、BとCを結びつけている。これが演繹で、演繹は最も確実性の高い論理だと言われているそうです。しかし、なんとなくこれではつまらない。確実だけど、そこには発見がない。

 

そこで、演繹ほど確実ではない、観察から導かれる帰納という論理が認定されている。例えば、100匹の犬を観察したところ、全ての犬が吠えた。そこで、「全ての犬は吠える」という結論を導く。これが帰納です。但し、帰納は演繹ほど、確実ではありません。かつて、大陸に住んでいた人が、白鳥を観察した。観察した全ての白鳥が、白かった。そこで、「全ての白鳥は白い」と結論づけたそうです。しかし、その後、オーストラリアで黒い白鳥(black swan)が発見されたとのことです。また、帰納の場合、人間の知識や科学的水準を段階的に向上させることは可能ですが、そこには飛躍力が欠けるように思われます。

 

例えば、ぜん息という病気があって、その治療方法について検討することになったとしましょう。しかし、ぜん息という病気の原因については、遺伝や大気汚染など、様々な要因が考えられているのです。そして、その原因を探求するためには、まず、仮説を立てる必要がある。遺伝だと考えるならば遺伝子の研究をする。大気汚染だと思う人は、地域ごとの疫学調査を行うことになる。要は、現実に発生している事実というのは、ほとんど無限にあって、日々、更新されている。その中から研究の対象とする現象を特定しなければ、真実を発見することはできない。そして、研究対象とする現象を特定するためには、仮説を立てる必要がある。しかし、演繹というのは仮説を生む論理ではなく、そこに難点があります。

 

そこで、第三の論理としてパースが提唱したのが、アブダクションということになります。米盛氏は、ニュートンの例を引いています。あまりに有名な、林檎が木から落ちるのを見て、ニュートン万有引力の仮説を考案したというのです。何故、林檎は木から落ちる時に様々な方向に落下するのではなく、地球の中心を目がけて落下するのか。ニュートンは、そのことに驚いたそうです。そこでニュートンは、地球が引力を持っていると考えた。しかし、そこに留まることなく、太陽や月までも引力を持っているという仮説を生み出した。ここに、跳躍力がある訳です。このように、大前提の中に含まれていない事項を含めて、仮説を立てる。従って、アブダクションは、演繹や帰納よりも、確実性においては最も劣る論理であるということになります。しかし、世紀の大発見とか大発明というのは、アブダクションによって、考案されてきたのではないでしょうか。

 

パースはアブダクションについて、次のように説明しています。

 

驚くべき事実Cが観察される、
しかしもし、Hが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

 

また、パースはアブダクションについて、次の2つの段階があると説明しています。

 

示唆的段階・・・いろいろな仮説を思いつく。

熟考的な推論の段階・・・それぞれの仮説について検討し、そのなかから最も正しいと思われる仮説を選ぶ。

 

ここで、参考文献から引用させていただきます。

 

「要するに、アブダクションは正しい仮説の形成を目指して意図的に用いられる方法であり、したがって十分意識的に熟慮して用いられるなら、それは論理的に統制された思惟の方法であり、科学的発見のためのすぐれた推論の方法となりうる、とパースは考えているのです。」

 

また、パースは次のように述べたそうです。

 

アブダクションは理論を求める。帰納は事実を追求する。

 

結局のところ、アブダクションによって仮説を立て、その仮説を帰納によって検証する、というのが合理的な思考方法ではないでしょうか。

 

(参考文献)
1. アブダクション 仮説と発見の論理/米盛裕二/勁草書房/2007

No. 193 この素晴らしき世界

YouTubeを立ち上げて国会中継の音声を聞きながら、パソコンの画面上では将棋を指す。これが私の暇つぶし方法だったのですが、野党が審議を拒否し、ゴールデンウィークに突入してしまいました。すなわち、国会中継がなくなってしまった。そして、将棋だけでは、どうも具合が良くない。刺激が足りない。私流の言い方をしますと、記号密度が低過ぎるということになります。どうしたものかとYouTubeの中を探索しておりますと、BGMとして延々ジャズを流しているものがあった。聞いてみると、これがなかなかいいんですね。そんな怠惰な生活をしていた訳です。

 

ところで、YouTubeでは過去の検索実績に従って、お勧めのコンテンツが表示されます。従って、ジャズに関するコンテンツがどんどん出て来る訳です。例えば、ビリー・ホリデイ。この人は確か、奇妙な果実(Strange Fruit)を歌った人だなどと思い、そのアイコンをクリックしてみる。(ちなみに、奇妙な果実とは白人に殺された黒人が木に吊るされている様子を表現したものです。)ビリー・ホリデイって、こんな声をしていたんだとか思いながら、段々、ハマっていく。ダイアナ・ロスシュープリームの“ラバーズ・コンチェルト”という曲を聞いてみる。シンプルなラブソングで、とても懐かしい。女性ボーカルの繋がりで、スリー・ディグリーズというのも出て来た。黒人の女性3人組で、こちらもラブソングを歌っています。私は、今回初めて聞いたのですが、結構、魅力的なんです。ジャズと言うよりは、ポップスです。モータウン・サウンズの系譜か、ディスコミュージックか、ちょっと私には分かりません。ダイアナ・ロスもそうですが、歌詞はとてもシンプルです。「私たちって、恋人同士なのかしら。それともただのお友達?」そんな具合で、これって日本の歌謡曲と変わらない。そんな歌をいくつも聞いていると、ラブソングが人種や民族を超える普遍性を持っていることに気付かされる。肌の色が白かろうが黒かろうが、人間の恋愛感情に変わりはない。また、ラブソングが表現しているのは、徹底した個人主義であって、そこに戦争に向かう要素はない。むしろ、「戦争よりも、私にとっては恋人の方が大切だ」という反戦のメッセージが隠されているような気もします。

 

ラブソングについて考えておりますと、これはもしかして恋愛感情とはかくあるべし、ということを教えているのではないか、という気もしてきます。個人の想像力だけで、恋愛という壮大な幻想を作り上げることは不可能です。もしもこの世にラブソングも恋愛小説もなかったとしたら、どうでしょう。若者たちは、恋をしないのではないか。そう考えますと、思い当たることが沢山あります。すると、ラブソングも立派な文化だと言うことができる。極言すると、文化の力がなければ、人間は恋をすることもできない。

 

遠くで鳥のさえずりが聞こえ、東の空が白んできた頃、私はサッチモこと、ルイ・アームストロングが歌う“この素晴らしき世界”(What A Wonderful World)の動画に出会ったのでした。独特のしわがれ声で、顔全体をしわくちゃにしながら、一つひとつの言葉を噛みしめるように、サッチモが歌う。この世界は素晴らしいと。どうやら、ここら辺に文化の本質があるのではないか。

 

もちろん、世界はそんなに素晴らしくはない。それが現実です。でも、見方によっては素晴らしくも見える。そういう素晴らしさを発見していくべきだ、というメッセージが歌われている。ネットで調べてみますと、この歌はやはりベトナム戦争に対するアンチ・テーゼとして作られたとのことです。

 

長い間、私は1次性と呼んできたカテゴリー(人間と動物、音楽、感情)にこそ、人間社会の問題が潜んでいるのではないかと思ってきました。しかし、そうではない。人間を集団主義に駆り立て、戦争をさせる。それは、エゴイズムが引き起こしてきた現象だ。そして1次性から3次性まで、全ての文化はエゴイズムを否定する方向に進化してきた。もちろん、文化も、途中、間違った方向に進んだこともあった。しかし、その歴史を通して見れば、それは確実に正しい方向に人間を導いている。

 

文化がなければ、残るのは記号原理とエゴイズムだけで、それでは動物と同じです。文化の力が、人間を人間たらしめている。文化こそが、つまらない人間社会に色彩を与えている。現実とは異なる世界認識であるという意味で、本質的に文化とは幻想である、とも言えそうです。そういう意見に対して、私は、こう申し上げたい。確かに文化とは幻想かも知れない。しかし、幻想の中に生きるのが人間の本質であると。

 

どうやら私の文化論は、体系化する作業を別にすれば、ほぼ完成したようです。

 

(お詫び:「パースのアブダクション」は、次回、掲載します。)

No. 192 想像から思考へ

 

YouTubeの動物動画を見ておりますと、現在においても、人間と動物の新たな出会いは、絶えず続いていることが分かります。典型的なパターンとしては、生まれたての動物が生命の危機に晒される。そして、人間がその動物を助ける、というものです。例えば、小鳥のヒナが巣から落ちてしまう。母猫が育児放棄をし、子猫が路頭に迷う。そういうケースが多いようです。人間としては、どうしてもほっておけない。そもそも動物の赤ちゃんというのは、とてもかわいい。例えば、母猫とはぐれた子猫が、か細い声でニャーニャーと泣いている。空腹なんだろうとか、寒いだろうとか、人間の側は想像する訳です。立ち去ろうとすると、子猫が人間を追いかけて来たりする。もし、その人間が見捨てた場合、その子猫は高い確率で死んでしまう。私などもYouTubeを見ながら、「おい、そんなにかわいい子猫なんだから、お前が助けてやれよ!」と無責任にも思ってしまいます。幸い、大半の動画では、子猫を助けるというパターンになっており、ほっとします。

 

人間が出会う動物というのは、犬や猫に限りません。カラスや雀は、決して人間になつかないと思っていたのですが、そんなことはないようです。

 

動物との関わり方も、多様です。動物と関わるために、“物”を作る人も少なくありません。小鳥の餌場や巣箱を作る。犬小屋を作る。ペット用の遊び場を作る。キャットタワーと言って、猫が登って遊ぶタワーを作る人もいます。動物を食べることが目的ではありませんが、動物に触発されて、“物”に関する文化が生まれる。これは“2次性”だな、私の仮説に間違いはない、などと思ったりします。

 

また、動物との関わり方は、必ずしもペットとして飼育するというパターンに限られません。前述の通り、小鳥の餌場を作るという例もありますし、バードウォッチングなどは、原則として見るだけです。更に、例えば河原だとか裏庭に住んでいる野良猫との間に、関係性を構築している人たちもいる。それぞれの猫に名前を付けて、個体を識別している。時折、餌をやったり、具合の悪そうな猫がいると、動物病院に連れて行ったりする。

 

また、人間の行動も観察してみると、面白い。ほとんどの場合、人間は動物に話し掛けている。多分、私のような素人は、猫を前にしても何を言っていいか分からない。ところが、達人になると何十分でも、猫を相手に話し続けることができる。すると、果たして人間と動物の間で言語によるコミュニケーションは可能なのか、という疑問が沸いてきます。結論から言えば、それは相当程度に可能なのではないか、と思うのです。名前を呼べば、寄ってくる。人間が叱れば、動物はふてくされる。そればかりではありません。日本語をしゃべる猫だっている! 私が見た動画では、餌を持った飼い主と猫が次のような会話を交わしていました。

 

飼い主・・・これ欲しいの?
猫・・・・・ウン。
飼い主・・・それじゃあ「頂戴」は?
猫・・・・・チョーダイ。

 

この場合、猫が言葉を理解しているようにも思えますし、条件反射のようなものだとも解釈できそうです。反対に、猫の鳴き声を人間が理解できるかという問題もあります。この点、多くの飼い主たちはYouTubeで「猫が〇〇について説明している」というコメントを寄せています。それらを読むと、なるほどそうなのかという気もしますが、想像に過ぎないとも思うのです。いずれにせよ、動物との会話は、人間にとって永年の願望であることに間違いなさそうです。最近では、猫語を理解するためのスマホ用翻訳ソフトまである。

 

更に人間の想像力を掻き立てる例というのもあって、それは動物との再会によってもたらされます。例えば、傷ついた動物を保護する。怪我が治った後で、人間がその動物を自然に返す。しばらくして、その動物との再会を果たす。こういうパターンが多いようです。そこで人間は、その再会の意味を想像するんですね。これは、動物がお礼を言いに来たのではないかとか、恩返しではないかと想像する。童話の「鶴の恩返し」というのは、そういう実際の事例に基づき、昔の人が想像した物語であることが分かります。

 

さて、人間と動物の間で会話が可能かという大問題についてですが、残念ながら私には分かりません。ただ、動物が人間の想像力を喚起し続けてきたという点は、間違いないと思うのです。

 

日本列島に私たちの祖先がやって来たのは、4万年前~3万年前だと言われています。そして、農耕が始まったのは、せいぜい3千年前位ではないでしょうか。すると、少なくとも、私たちの祖先は2万7千年もの間、狩猟採集を生業として暮らしてきたことになる。街にネオンはない。看板もない。夜になると暗くなる。そういう環境の中で、私たち祖先の注意を引き付けてきたのは、動物であるに違いない。そして、動物が人間の想像力を喚起してきた。

 

思えば、アニミズムの原点は想像力にある。融即律も同じです。私たちの祖先は、どんな生き物だったのか。バナナだった、牛だった、ブタだったなどと想像し、それらは禁食の対象となってきた。やがて、想像力が物語を生み出した。私の見立てからしますと、中世まではこの物語的な思考が支配的だった。

 

物語的な思考は、王政や封建制を支える基礎をなした。戦争も絶えなかった。そこで、それらへの反動として、物語的な思考から論理的な思考へ脱却しようと考える人々が現われた。純粋理性批判を通読していない私が言うのもなんですが、カントはそんなムーブメントの先駆者だったのではないか。経験に基づかない純粋な理性とは何か、と考えた。そして、ヘーゲルが続く。近代の芸術家たちも、近い位置に立っていたのだと思います。彼らは、こぞって戦争の悲惨さを訴えた。

 

私が3次性と呼んできた心的な領域は、想像力から出発している。では、なかなか“仮説”の域を出ないこのブログは、どうなのかとも思う訳です。“仮説”も想像力の産物でしかないのでしょうか。そうであれば、論理的な思考とは何か。難しい問題に行き当たってしまいました。私自身でこれ以上考えるのは困難なので、ここはパース先生の力を借りることにしましょう。ということで、次回は「パースのアブダクション」について、紹介させていただく予定です。

No. 191 懐かしい場所

いつの頃からか、近所のラーメン屋でパートをしている“おばさん”と言葉を交わすようになりました。ほとんどの場合、私は客で彼女はラーメン屋の店員として、二言三言会話を交わすのです。街ですれ違った折には、挨拶だけ。

 

1か月程前のことですが、お店のカウンターに座った私は、「暖かくなったね」と言ってみました。「そうですね、桜も咲いたし」とおばさん。ふと、私は窓の外に目を向けたのでした。ラーメン屋の外には、道の反対側に、桜の老木があるはずだった。しかし、見当たらない。私の目が泳いでいるのを察したおばさんが言いました。

 

「あの桜、なくなっちゃったのよ。駐車場の拡張工事で、切られちゃった。私の心の支えだったのに・・・」

 

一瞬、おばさんが涙ぐんだように見えました。

 

それだけのことです。こういう話というのは、ちょっと若い人には難しいかも知れません。

 

毎年、春になれば桜が咲きます。テレビでは、桜前線の話題が取り上げられます。四国では咲いたが、大阪はまだだとか。東京には、確か明治神宮だったと思うのですが、標準木というのがある。そこで、3輪位咲くと開花宣言が出される。週末には、お花見で盛り上がり、そんなことがテレビの話題になったりする。しかし、例えば私のような者は、多分、そのおばさんも同じではないかと思うのですが、お花見に行ったりはしない。明治神宮にも行かない。ただ、毎日のように通り過ぎる路傍の桜の木を見ては、蕾が膨らんで来たとか、三分咲き位になったとか、そんなことを楽しみにするのです。そして満開になると、ああ、今年も桜が咲いて良かった。無事、1年を暮らすことができた。大していいこともない年だったし、相変わらず腰痛は治らない。それでも、桜を見ることができた。桜の木よ、綺麗な花を見せてくれて有難う。来年も宜しくね。そんなことを思ったりするのです。

 

そのおばさんや私にとっては、道を挟んでラーメン屋の反対側に立っていた桜の老木が、言わば標準木のようなものだった。ある一本の木と、ある人間との間に、特別な関係が醸成されていた。だから、その木が“心の支え”になったりすることもある。

 

例えば、高野山金剛峯寺には、あの白い岩がある。埼玉に住んでいる私からすれば、それはとても遠い場所です。多分、私が再び金剛峯寺を訪れることはないでしょう。しかし、そこにはあの白い岩がある。それだけで、私は、その場所とのつながりを感じることができる。もし、再び訪れることがあれば、とても懐かしい感じがするのではないでしょうか。

 

世界は広い。日本だって広い。だから、若いうちは、あちこちに出掛けてみた方がいい。しかし、ある程度の年令になれば、大体のことは分かって来る。どこへ行けばどんな風景が広がっているとか、何を食べればどんな味がするとか、そういうことが分かってくる。そうしてみると、頻繁に旅行に出掛ける必要もなくなってくる。ただ、数か所、“懐かしい場所”を作っておくと良いのではないか。あそこに行けば、あの木があるとか、あの岩があるとか、そんな些細なことでもいいと思うのです。そして、その木や岩に会いに行く。懐かしい感じがする。それらの木や岩が“象徴”する“場所”に行ってみる。そうすることによって、私たちは自然や大地と繋がっていけるのではないでしょうか。

No. 190 ”共感力”という考え方

 

相変わらず、政治や行政の世界では理不尽な出来事が続いています。私などは、腹が立って仕方がありません。一つ言えるのは、財務省では“内部統制システム”が機能していない、ということです。また、組織のトップに立っている人間のレベルがあまりに低い。あんな人たちの給与や退職金のために、私たちの税金が使われるのかと思うと、がっかりしてしまいます。現代日本の組織では、やはり、上司におべっかを使う人間が出世する仕組みになっている。誰か頭のいい人に、「人格判断基準」のようなものを作ってもらいたいものです。上司のご機嫌を取る能力や記憶力だけではなく、その人の人格を測定する方法なり基準を作る。そして、人格の優れていない人は出世できない。そういう仕組みはできないものでしょうか。

 

さて、私の血圧が上がる前に、本論に入りましょう。

 

記号学のパースは、言語などの記号を理解するためには、それなりの素養が必要だと考えた。そこで、“解釈思想”という概念を提唱しました。英語では、the interpretative thought of a sign という表現です。翻訳の難しさもありますが、この言葉にはちょっと違和感があります。それは、むしろ素養や能力に関わるものであって、思想ではないと。何かいい言葉はないかと考えていたのですが、“共感力”と言ってみてはどうでしょうか。記号を理解するための素養や能力と同じように、文化を理解し、そこに共感を覚え、参画していく。そういう力が文化を支えている。その力を“共感力”と呼びたい。(私の造語です。)

 

例えば、私は今まで、石に興味を持ったことがなかった。そのため、日常的なフィールドに存在する様々な石を見過ごしていた。危うく、石と石に関する文化の素晴らしさに気付くことなく、一生を終えるところだったのです。すると、この“共感力”というのは、私たちの人生に多大な影響を及ぼしているに違いない。

 

実は、私には同じような経験がもう一つあります。少し前にライオンに関するシリーズ原稿を掲載させていただきましたが、当時、私はYouTubeで様々な動物に関する動画を見ておりました。すると、もののはずみで“猫”に関する動画に行き当たったのです。私は、今まで猫に興味を持ったことはありませんでした。猫がどんなことを考えながら暮らしているのか、そんなことを考えたことはなかったのです。しかし、YouTubeの動画を見ておりますと、飼い主たちが、想像して、猫の気持ちを代弁するようなコメントを書いておられる。「お腹がすいた」とか、「遊んで欲しい」というようなたわいもないものです。しかし、それらのコメントには、飼い主さんたちの愛情が表現されているんですね。なるほど、猫の飼い主というのは、こういう気持ちで、猫に接しているのか。そういうことが分かってくる。例えば、捨てられた子猫を拾ってきて、育てようとする。そういう人たちの優しさが、伝わって来るんです。私は今まで、自ら率先して猫に触ってみたことなど、一度もありませんでした。しかし、先日、あるコンビニの前に野良猫がいた。子供たちが、野良猫を撫でている。遠目にそんな光景を見ていたのです。子供たちが立ち去ったあと、私は恐る恐る猫に近づき、その背中を撫でてみたのでした。野良猫は、左程、私に興味を持った風ではありませんでしたが、嫌がる風でもなかった。猫を撫でると、こんな感じがする。それは些細なことですが、何か、貴重な経験でもある。そんな気がしました。

 

石の例と同じで、私は身近に存在し続けて来た何かを、見ていなかった。気づかずに生きてきた。もしかすると、まだ他にもそんな“何か”が沢山あるのではないか。そんな風に思うのです。

 

では、共感力はどのように培われ、どのように発揮されるのか。石の例で、考えてみます。

 

まず、準備段階。ある文化を受け入れるための、心の準備段階というものがあるのではないか。私の場合は、3年程前に、金剛峯寺を訪ねていた。そこで、例の岩の写真を撮っていた。なんとなく、その印象が残っていた。ただ、それだけでもないような気もするのです。その後、西伊豆にある“黄金崎クリスタルパーク”という所で見た、ガラス工芸が影響しているのかも知れない。そこには、ガラス工芸に関する芸術作品が展示されているのですが、透き通ってはいないガラスの素材を立方体にしただけの作品があった。まだ、形も機能も付与されていない、ただドロドロとしたガラスの素材その物が展示されていたのです。これが何故か、私の心に響いた。それは、石に似ていないこともない。

 

第2段階として、“閃き”がある。ブログに写真をアップしながら、ああ、この岩は素晴らしい、と閃いた訳です。但し、上記の準備段階がなければ、この“閃き”は訪れなかったものと思います。

 

第3段階として、自分とのつながりを考えることになる。ガラスの場合は、ハードルが高い。私には、ガラスに関する知識がない。ましてや、ガラスを加工するとなると、高価な設備も必要となるに違いない。他方、石ころであれば、そこら辺の河原とか、海岸で拾えるのではないか。

 

第4段階としては、あとは石に関わる行動を取ることになります。石に働き掛ける。それは正に、文化に参加するということを意味している。

 

共感力というのは、特に、2次性の文化(物と自然)において、要求されるように思います。

 

但し、「この石って素晴らしいよね」と誰かに共感を求めた場合、それは“感情”という1次性のカテゴリーに陥ることになります。

 

また、「君の持っている石よりも、僕の持っている石の方がいいよ」と考えれば、それはマウンティングというエゴイズムに貶められることになります。

 

私はこの石が好きだ、という孤高の感覚を受け入れる自信と覚悟。それが、大切なんだと思います。

 

それにしても、石の他にも、世界には木がある。土もある。水もある。そして、それらと私たちは、文化を通してつながっている。やはり、まだ私が気づいていない“何か”は、この世に沢山あるに違いありません。

No. 189 自然と結ぶ力

今回の原稿も話が飛びそうなので、一番言いたいことを最初に記しておきます。石には、私たちの心と自然を結びつける力がある。そして、その力は私たちの心を癒す。

 

昔、チャーリー・ワッツローリング・ストーンズのドラマー)が面白いことを言っていました。

 

「ドラッグには、心をハイにさせるアッパーと、逆に心を落ち着かせるダウナーというのがある。やがて、その双方を交互にやるようになる。変な話だよね。」

 

なるほど。私などは、それは文化も同じかも知れないと思う訳です。文化にも、心を熱狂に向かわせる1次性のものがあり、反対に心を落ち着かせる2次性のものがある。そして、石を巡る文化は、2次性の典型ではないか。

 

前回の原稿を書いた頃から、私は石に惹かれ始めたのですが、すると街を歩いていても、新たな発見があるのです。あちこちに、石がある。例えば、20数年に渡って通い続けている駅前の蕎麦屋があるのですが、そこの駐車場の隅に立派な岩があったりする。その岩に、今まで私は全く気付いていなかった。一体、私は何を見て60年以上も生きてきたのか、とあきれてしまいます。興味がなかった。関心がなかったから、その岩に気付かなかった。工事現場の片隅に石が山積みになっていたりする。立派なお宅の庭にも、無造作に石が置かれていたりする。生垣の隙間からそんな石を眺めたりしている訳ですが、これはもう不審者と疑われても仕方がありません。

 

石についてまったくの素人である私に石を語る資格があるのか、という気もします。玄人の方からは、「このトーシローが!」とお叱りを受けそうですが、ご容赦ください。

 

さて、石と人間の歴史を考えてみますと、それは文字通り石器時代まで遡ることになります。鋭利に尖った黒曜石を矢の先に付けたり、木の棒の先端に石を括り付けて斧にしたりしていた訳です。これらは機能を持っておりますが、それだけではなかったような気もします。無文字社会のイワム族には、ある石を大切に保管している人がいました。弥生時代の日本でも“玉”と呼ばれる石を加工したものが、普及しています。石には、人の心を癒す何かがあるに違いない。宝石などは、古今東西、女性たちの心を惹きつけています。

 

そう言えば、以前、私はベルギーのグラン=プラス広場に行ったことがあるのですが、妙に気持ちが落ち着いたことを覚えています。この広場は教会だとかホテルなど、数百年の歴史を持つ建物に取り囲まれているのですが、それらの全てが石づくりになっている。広場の地面も全て石畳になっているんです。すると、多少のことがあったって、人間の社会というのは存続していくんだ、という確信のようなものが心の中に湧き上がって来るのです。今までも、長い間続いて来た。だから、これからも続いていくに違いない、という感覚なんです。そういう安心感というものが、見渡す限りの石から伝わって来る。

 

日本に目を移しましても、お地蔵さんが沢山ある。都会ではあまり見かけなくなりましたが、ちょっと地方へ行けば、そこら中の田舎道にお地蔵さんが立っている。お地蔵さんを作った人の気持ちを推し量ってみますと、あまり仏教の教義などに関心はなかったのではないか。特に昔のことであれば、仏教に関する情報も極めて少なかったに違いありません。してみると、仏教的な意義というよりは、むしろ石を削るという行為の中にこそ、本質的な意味が込められていたのではないかという気がしてきます。石を削る。それは大変な作業だろうと思うのですが、完成した時の喜びもひとしおではないでしょうか。ある石と自分との間に強固な関係性が確立される訳です。

 

現代の日本におきましても、石に関わる文化は、盛んなようです。“水石”と呼ばれるジャンルがある。これは、石を台座などに据えて、楽しむスタイルを指すようです。調べてみますと、全日本愛石協会という団体まであります。この教会は、定期的に水石の展覧会を開いているようです。

 

中国に起源があるのかも知れませんが、「一生一石」という言葉がある。ネットで調べたのですが、残念ながらその正確な意味は分かりませんでした。「生涯を掛けて、たった一つの石を慈しむ。それ程、人生というのは儚いものではあるが、それで良いのだ」ということでしょうか。

 

蛇足かも知れませんが、記号原理で考えてみます。

 

この場合、石が記号です。そして、石が指し示す対象とは、自然であり、永遠だと思うのです。石は私たち人間よりも遥かに長い時間、存在し続けている。それは、多分、私たちが死んだ後にも存在し続ける。そのような石の確固たる存在を一言で表現するには、“永遠”という言葉が相応しいのではないでしょうか。

 

ある石があって、その石と私との関係性を考えてみる。これが意味ということです。しかし、残念ながら、私はどの石とも関係性を持っていない。ほとんどの場合、誰だって事情は同じだと思うのです。生まれた時から、特定の石と何らかの関係を持っている人というのは、ほとんどいないと思います。すると関係性、すなわち意味を作り出さなければならない。記号原理で言えば、“意味創出型”ということになります。そこで、石と関係性を持ちたいと願う人は、石に働きかけることになります。ある人は、石でお地蔵さんを作る。その他にも、石を所有する、磨く、水を掛ける、水に漬ける、台座に載せる、写真を取るなど、様々な方法が考えられます。すなわち、人間の方から働き掛けないと石との関係性は生まれない。

 

対象・・・自然、永遠
記号・・・石
行動・・・石に対する働きかけ
意味・・・自然、永遠とのつながり。心の平穏

 

いずれにしても、生涯を掛けて慈しむべき、たった一つの石。そんな石に巡り会いたいものです。

石と文化

前回の記事に添付致しました写真についてですが、金剛峯寺のHPを確認した所、同じような写真が掲載されていました。やはり、これは高野山金剛峯寺における庭園ということで、間違いなさそうです。

 

それにしても、いかがでしょうか。そこには、物と自然に関わる圧倒的と言っても過言ではない、文化の姿が見て取れます。掃き清められた地面に配置された岩の数々。それらはあたかも海上に浮かんでいる島々のように見えます。まず、大自然があって、そのミニチュアを作る。そこに1つの文化の類型を見ることができます。

 

そして、写真の中央に写っている白っぽい岩。ブログ上では少し見にくいかも知れませんが、右下の方は明らかに材質が異なっている。いくつかの層があって、それが歪められ、他の材質に接続されている。多分、何万年という歳月が層を生み出し、大地のエネルギーがそれらを歪め、そして地球の熱が異なる材質を接続した。そんな風に想像することもできます。大自然のダイナミズムが、この岩に凝縮されている。そういう見方をしていますと、ちょっと感動してしまいます。

 

あの岩自体は、自然の産物であって、人が作り出した芸術ではありません。しかし考えてみますと、2次性の芸術、すなわち美術というのは、まず、自然の素晴らしさがあって、それを模倣するところから出発している。自然の方が本家本元なんですね。そんなことを考えていますと、「あの岩が欲しい!」という、とんでもない欲望に駆られてしまいます。

 

ちょっと話が飛躍してしまいましたので、このブログの現在の立ち位置を補足させていただきます。

 

1次性の文化というのは、動物を真似る所から始まって、歌う、踊る、着飾る、という現象を生み、それが祭りに発展する。しかし、年を重ねるに従い、私自身は1次性の文化に対する興味を失いつつある。そして、3次性の文化というのは、動物を敬うところから出発し、人間に想像力を喚起し、思考という能力を与えた。いくつかのステップを経て、一部の人間は論理的に思考するようになった。しかし、現在の日本の政治状況に象徴されるように、現実の世界では1次性のメンタリティと3次性のメンタリティが激しく対立していて、論理的に考えれば考える程、腹が立って来る。そういう怒りに満ちたメンタリティにも、私は、疲れてしまった。平穏な心の状態というのを求めている。そこで、2次性、すなわち“物と自然”に回帰したいと願っている。

 

話を元に戻しましょう。あの岩が欲しい、と思ったところからです。あの岩の値段がどれ程なのかは分かりませんが、そもそも金剛峯寺というりっぱなお寺の庭にある訳で、私が購入できるはずはありません。そもそも、私にそんな資金力はありませんし、マンション住まいなので、岩を置く場所だってないのです。

 

しかし、物は考えようです。そもそも、あの岩を買ったとしても、私はいずれ死んでしまいます。そして、私が生まれる前からあの岩は金剛峯寺のあの場所に、置かれていたのではないでしょうか。すると、所有するという固定概念にとらわれる必要はない。私は、あの岩の写真を持っている。それだけで、十分かも知れない。

 

そもそも、人間と物との関係は、次の3種類だった。

 

物に機能を付与する。
物に願いを込める。
物に何かを象徴させる。

 

現在の私の心理状態からしますと、私は、岩とか石に機能を求めている訳ではない。願いを叶えて欲しい訳でもない。残るは“象徴”ということになります。

 

そこで、例えば、次のようなことを考えたのです。石ころを集めてみる。そこら辺に落っこちているものでいい。ただ、隣の駐車場にあるような石では、私と石との間に関係性が生まれない。そんな石に何かを“象徴”させることはできない。意味が欲しい。では、どこか旅行に行って、その際、一つだけ石を拾ってくる。そうすれば、その石は旅の思い出だとか、旅先という“場所”を象徴することになる。

 

もちろん、石にも良し悪しがあるのだろうと思う。しかし、その審美眼は、いくつもの石を見ていれば、自然と養われてくるのではないか。拾ってきた石は、木の板に並べて置くとか、どこかの棚の一角に並べてみてもいい。そして、時折、眺めてみる。ただ、石の数が増え続けるのは困る。石の数は、最大でも7つ位がいい。それぞれの石は、常に私の審美眼によって評価される。そして、8つ目の石がランクインした場合、どれか一つの石が廃棄されることになる。廃棄の場所は、隣の駐車場で十分だろう。これなら、お金もかからない。これって、趣味として成立しないだろうか。

 

そんなことを考えながらDamselさんのブログ(1023.blog.so-net.ne.jp)を拝見していたところ、水草水槽というのが出ていました。水槽の中に石や木片を入れて、水草も入れる。こちらは、りっぱな趣味として成立しています。最終的には、魚も入れるのでしょうか。出来上がるのが、楽しみです。