文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 196 文化領域論 はじめに

記号学のパース(Charles Sanders Pierce, 1839 - 1914)は、仮説と発見の論理としてのアブダクションについて、次のように説明している。

 

まず、驚くべき事実が観察される。

しかし、もしある仮説が真実だったとしたら、かかる事実は当然の事柄である。

よって、その仮説が真実であると考えるべき理由がある。

 

本稿は、上記の論理に準ずることを目標としている。そこで、まずは私が観察した驚くべき事実とは何だったのか、そこから記載してみたい。

 

都会の夜にはネオンが煌めき、人々は敵と味方を識別して集団で競いあっている。アイドルたちは今日も歌い、踊っている。田舎の路傍には、お地蔵さんが立っており、本屋へ行けば無数の書籍が並んでいる。私たち人間は、なんと多様な世界に生きているのだろう。そればかりではない。どんなに語り合っても、分かり合えない人たちもいる。この点は、国会を見れば明らかだ。そこでは、論議が噛み合うこともなく、与党と野党が激しく対立している。これらが、私の観察した「驚くべき事実」である。

 

しかし、一見雑多に見える現実世界も、実はそれぞれに文化的な背景を持っており、分類できるのではないかという仮説を立ててみた。すなわち、記号系、競争系、身体系、物質系、想像系の5種である。

 

古くはデカルト(Rene Decartes, 1596 - 1650)が、人間を精神と肉体に分割して考えた。2元論である。私の考えでは、身体系という領域があって、精神と肉体とは分かちがたいことになる。その後、分析心理学のユング(Carl Gustav Jung, 1875 - 1961)は、そのタイプ論において、人間のタイプを思考、直観、感覚、感情の4種類に分類した。私はこの考え方に多大な影響を受けたが、本稿の立場は異なるものとなっている。更に、カイヨワ(Roger Caillois, 1913 - 1978)は「遊び」の種類を4つに分類した。これから述べる文化領域論は、これとも異なる。

 

仮に無文字社会の人たちがクルマとは何か、理解しようと試みたとしよう。ある人はクルマを鉄とプラスチックとゴムで出来ていると考えるかも知れない。しかし、この分類では、クルマの本質に迫ることはできない。クルマとは、エンジンなどの動力系、動力をタイヤに伝える動力伝達系、ハンドルなどの操作系、そして車体の4種に分類すべきなのだ。このように分類できれば、その人はもうクルマという複雑なシステムの半分は、理解できたも同然であろう。これと同じで、もし、記号系など5種の分類が正しければ、私は既に文化という巨大で曖昧な人的現象の半分を理解したことになる。但し、逆もまた真なり、ではある。

 

本稿を執筆することになった経緯には、もう一つ、個人的な理由がある。それは、永年勤めた会社を辞し、引退したことである。2014年末のことである。現役時代、私は馬車馬のように働いた。長時間労働である。生活の大半は、仕事のために費やされた。そして引退してみると、少し現実世界が違った様子に見えてきたのである。多分、引退を契機として、私自身、現実世界との新たな関係性の構築を必要としていたのだろう。

 

本稿は、文化的な現象とその背後に潜む人間のメンタリティについて検討するものである。従って、例えば臨床心理学のように、心の病を癒すことはできない。ましてや、金儲けのヒントなどは、これっぽっちも含まれないし、恋愛のテクニックについて検討されることもない。しかし、文化やメンタリティの各領域を明確に認識することによって、あなたは何かを発見するかも知れない。例えばそれは、私が「石ころ」の魅力に気づき、桜の老木との間に特別な「意味」を発見したように。

No. 195 集団幻想という考え方

 

ある日、イワム族の村長が「我々の祖先はバナナである」と発言しました。今後もこの村長について言及することがあれば、「バナナ村長」と呼ぶことにします。

 

思えば上記村長の発言も、仮説だと思うのです。では、この仮説はその後、どのような道筋を辿ったのか。何しろ、村長の発言ですから、一般の村民としてはこれを無視できない。村民たちは、この仮説を受け入れたのです。そして、「我々の祖先はバナナである」ということは、村民共通の認識となった。このように、集団によって受け入れられた仮説を「集団幻想」と呼ぶことにします。

 

集団幻想は次第に定着し、規範力を持つようになる。例えば、親が子供にこう教育する。「あんた、バナナを食べたらダメだよ」という風に。しかし、やがて村長は死に、集団幻想に疑問を持つ者が現れる。「隣村の連中は、バナナをおいしそうに食べている」。そう思った誰かが、こっそりバナナを食べてみる。やはり、おいしい。これは、集団幻想に対する異議ということになります。そして、バナナを食べた者は、こっそりそのことを友人や家族に打ち明ける。バナナを食べたけれども、特段の災厄は生じない。そして、バナナはとてもおいしいと述べる。それじゃあ食べてみようという人たちが現われ、やがてバナナに関する仮説は否定される。この段階を一覧にしてみます。

 

1. 仮説
2. 集団による仮説の受容
3. 集団幻想の確立
4. 規範力の発生
5. 異議

 

では、コペルニクスの地動説はどうでしょうか。

 

何しろ、太陽は東から登って、西に沈む。これは天空が動いているに違いない。そういう仮説が生まれる。そして、多くの人がこの仮説に賛同し、この仮説は集団の中で受容され、集団幻想となり、規範力を持ち始める。天動説に異議を唱えたりして、世の中をいたずらに混乱させるのはけしからん、という訳です。そこへコペルニクスが現われ、地動説を唱える。後年、ガリレオなどがこの地動説を支持する。科学が進展し、地動説が正しいということが、観測され、実証される。実証された地動説は、もはや仮説ではありません。それは知識となる訳です。知識が集積され、科学となる。そうしてみると、文化の反対概念は、科学ということになるのかも知れません。

 

上記の例などにより、人間は無数の仮説を考案し、それを集団的に信じてきた歴史のあることが分かります。集団的に受け入れられた仮説、すなわち集団幻想というのは、科学的な観測や実験によって、証明されていない。だから、往々にして、誤っている。

 

では、今話題のジェンダーは、どうでしょうか。ちなみに英語では肉体的な性をセックスと言い、性に関するメンタリティーをジェンダーと呼ぶようです。

 

古代から、女性は経血を流すので不浄であるという考え方がありました。これなど、典型的な集団幻想であるということになります。また、日本の戦時中のことを考えますと、男の兵隊さんは、大変な境遇にあった。特攻隊に出されて、死んでしまう。そこで、様々な仮説が立てられた。お国のために死んだ兵隊さんは、英霊となり靖国神社に祀られる、というのもその一つでしょう。その反動として、女性の地位は下げられた。坂口安吾の「堕落論」には、戦争未亡人が再婚するのは堕落だという社会的な風潮があったと記されている。確かに夫は大変な思いをして戦死した訳ですが、だからと言って、夫はもうこの世に存在していない。残された戦争未亡人が再婚しようがどうしようが、それは彼女の勝手ではないか。私は、そう思います。しかし、戦後のメンタリティーとしては、すなわち集団幻想としては、圧倒的に男尊女卑であった。

 

男尊女卑という集団幻想は、昭和の演歌にも現れていると思います。

 

着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます~♪♪

 

これは都はるみさんの歌ですが、女とは男に尽くすもので、それが女のあるべき姿だ、というニュアンスがうかがわれます。しかし、今どきそんな女性はいないと思うのですが、いかがでしょうか。やはりこれは現実に反しており、幻想である。

 

あなたの決してお邪魔はしないから、おそばに置いて欲しいのよ~♪♪

 

こちらは確かピンカラ兄弟の歌だったと思うのですが、今どきこんな歌を歌ったら「女性蔑視だ!」と批判されるのではないでしょうか。

 

そして、財務省高官などによるセクハラ問題が起きました。そもそも、男尊女卑という集団的に受容された仮説は、未だにその正しさは立証されていない訳で、そもそも男らしさ、女らしさということにも疑問が提起されています。これはとても大きな問題で、ちょっとやそっとでは解決しない。異議を唱えるだけでは、中々、過去の集団幻想を克服することはできない。科学的に証明することも困難だ。すると、この問題を解決するためには、新たな仮説、すなわち文化を創造する必要があるのではないか。すなわち、あるべき男らしさとはこうで女らしさとはこうだ、という新たな仮説が必要ではないでしょうか。更に、そんな男と女のあるべき恋愛の姿も提示する必要がある。LGBTの方々に関する問題も含めて考えますと、そもそも人間とはどうあるべきなのか、再定義が必要ではないでしょうか。ここは、人類学者、哲学者、文学者、芸術家、女性、LGBTの方々など、総力を挙げて新たな仮説を構築する必要があるように思います。

 

集団的に受容された仮説、すなわち集団幻想ということを考えますと、思い当たることは無数にあります。祖先崇拝、霊魂の存在、カーストなどの身分制度原発安全神話など、枚挙にいとまがありません。科学的に証明できることはいいのですが、そうでない事柄については、文化の力によって克服していくしかない。そもそも、想像系の文化というものは仮説から始まる。仮説だから、当然、過ちを起こす。しかし、その過ちを正すのもまた、文化だと思うのです。そうやって、人間は進化を続けていく。

 

ところで、このブログについてですが、今後、タイトルを「文化領域論」に変更しようと思います。そして、あたかも一冊の本のように、まず序文があって、目次があって、という体裁をとりたいと思います。体系づけられた思想としての文化論を展開したいということです。自信はありませんが、チャレンジしてみようと思っています。準備のため、このブログの更新は、しばらく(2週間程度?)お休みさせていただきます。

初夏の昼間のひとり言

パース先生によれば、アブダクションにはいくつかの仮説を思いつくままに提起する“示唆的な段階”と、それらの仮説の中からもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ“熟慮的な推論の段階”がある。このブログは明らかに“示唆的な段階”にある。しかし、そろそろジグソーパズルのピースは揃ったのではないか。

 

ところで、私が1次性~3次性と呼んできた心の領域だが、この呼び名はパース先生が提唱した現象学からのパクリである。それに数字で呼ぶよりも、直接的な言葉で表現した方が分かり易いのではないか。また、この「性」というのが、今一つしっくりこない。アルカリ性とか、芸術性などという言葉は一般的だが、何か、今ある状態を表現しているような印象がある。一方、私が提唱している概念には、明らかに歴史的な系譜がある。

 

まず、動物を真似る所から始まり、歌、踊り、ファッションを経て、祭祀に至る流れがあって、これが1次性だった。その本質は、身体にあるのではないか。すると、身体性、身体的などの言葉が思い浮かぶ。しかし、あるカテゴリーを示すために、ここは名詞形であって欲しい。では、“身体系”と言ってみてはどうだろう。

 

(このように、使用する言葉を変更するのは、読者の方々に対し、本当に申し訳ないと思っています。一度定義した言葉は、継続して使用する。そして、言葉の定義は変更しない。これが本来あるべきルールですが、どうも次々とアイディアが沸いて来てしまう。まさに、このブログは試行錯誤の段階にあったことの証左だと思います。)

 

次に、動物を食べる、すなわち狩りをするために道具を作る所から始まって、物に機能を持たせる、願いを込める、象徴させるという風に発展してきた2次性はどうか。自然系というのはどうだろう。しかし、例えば広島にある原爆ドームは人口物だが、原爆の悲惨さを象徴している。自然ではない。やはり、ここは物質と言った方が良い。では、“物質系”と呼ぶことにしよう。

 

更に、動物を敬うと言うか、動物に想像力を掻き立てられる所から始まる“3次性”はどうだろう。本質は、“想像力”にある。そこから思考に至るのだ。では、“想像系”としよう。

 

心的領域論と称する全体概念の中で、私は1次性~3次性という言葉を用いて来た訳だが、そもそも、心的な領域と文化の領域は、相当部分において重複するのではないか。では、例えば“身体系”という言葉は、「身体系の文化」とか、「身体系のメンタリティ」という風に、使えることにしたらどうだろう。

 

人間の認知・行動システムとして、“記号原理”ということも考えた。では、記号に象徴される文化というのはあるだろうか? やはり、それは“ある”と言わざるを得ない。例えば、私が毎日楽しんでいる将棋。将棋の駒というのは記号であって、そこに他の要素はない。そう考えると、他にもチェス、トランプ、花札、カルタ、麻雀などの例を挙げることができる。更に、大きな所ではトーテミズムがあって、日本にも暖簾、屋号などの風習がある。これらを無視することはできない。すると、“記号系”という言葉も必要になる。しかし、記号系のメンタリティというのは、存在しないように思う。記号原理は認知、行動を司るシステムであって、人の心を形成するものではない。

 

最後に、エゴイズムの問題がある。このブログの最初の方で、私は「敵と味方を識別して集団で戦うシステム」ということを提唱させていただいた。これは、最近述べた「帰属集団のエゴ」と同じではないか。帰属集団のエゴの典型は、戦争である。私は、戦争を文化とは呼びたくない。では、戦争やファシズム、大量虐殺などの現象をどう位置付けるか。これらは文化から除外し、あくまでもエゴイズムとして、文化への対立概念として位置付けるか。それとも「文化の過ち」と解釈すべきか。結論はさておき、一応、“競争系”としてみてはどうだろう。集団で競争する。個人で競争する(序列闘争)。そして、遺伝子が競争する。

 

記載順は、どうあるべきだろうか。最もベーシックなのは、記号系で、次にエゴイズムを表わす競争系が来るべきではないか。ここまでは、動物も持っている領域だ。そして、身体系、物質系、想像系と続く。この順序だと、座りがいい。

 

では、比較的シンプルな所で、上記のカテゴリーによって、子供の遊びを分類してみよう。

 

記号系・・・将棋、トランプ、カルタ

競争系・・・かけっこ

身体系・・・歌、踊り、ブランコ

物質系・・・砂場、粘土、プラモデル

想像系・・・ままごと、童話

 

やはり、うまくいく。ジグソーパズルのピースは揃った。このブログは、“示唆的な段階”を脱し、“熟慮的な推論の段階”に移行すべきなのだ。すなわち、体系的に人間と人間の営み、人間の世界、すなわち文化について記述すべき時を迎えたに違いない。タイトルは、どうしよう。文化論とするか。いや、それでは漠然とし過ぎている。名は体を表わすべきだ。では、“文化領域論”というのはどうだろう。うん、悪くない。

 

・・・ということで、このブログは、今後、体系的な思想としての“文化領域論”の完成を目指すことに致します。なお、上記5つのキーワードは確定とし、もう変更はしません。

No. 194 パースのアブダクション

 

このブログを続けてお読みいただいている方には、既にパース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)はお馴染みの登場人物となっているかも知れません。No. 164とNo. 165において「記号学のパースが面白い」という原稿を掲載させていただきました。また、その後、心的領域論と称して1次性~3次性までのメンタリティについて検討しましたが、こちらも私が着想を得たのはパースの現象学でした。

 

アブダクション(Abduction)を一言で言えば、それは「仮説と発見の論理」ということになります。ジャンルとしては、論理学。米盛裕二氏の著作「アブダクション」を参考とさせていただきます。

 

論理学の基礎として、まず、演繹がある。米盛氏は、次の例を挙げています。

 

全ての惑星(A)は、太陽を愛している(B)。
地球(C)は、太陽の惑星(A)である。
よって、地球(C)は太陽を愛している(B)。

 

これは、次の式で表現できます。

 

A = B
C = A
よって、C = B

 

Aという概念を介在させて、BとCを結びつけている。これが演繹で、演繹は最も確実性の高い論理だと言われているそうです。しかし、なんとなくこれではつまらない。確実だけど、そこには発見がない。

 

そこで、演繹ほど確実ではない、観察から導かれる帰納という論理が認定されている。例えば、100匹の犬を観察したところ、全ての犬が吠えた。そこで、「全ての犬は吠える」という結論を導く。これが帰納です。但し、帰納は演繹ほど、確実ではありません。かつて、大陸に住んでいた人が、白鳥を観察した。観察した全ての白鳥が、白かった。そこで、「全ての白鳥は白い」と結論づけたそうです。しかし、その後、オーストラリアで黒い白鳥(black swan)が発見されたとのことです。また、帰納の場合、人間の知識や科学的水準を段階的に向上させることは可能ですが、そこには飛躍力が欠けるように思われます。

 

例えば、ぜん息という病気があって、その治療方法について検討することになったとしましょう。しかし、ぜん息という病気の原因については、遺伝や大気汚染など、様々な要因が考えられているのです。そして、その原因を探求するためには、まず、仮説を立てる必要がある。遺伝だと考えるならば遺伝子の研究をする。大気汚染だと思う人は、地域ごとの疫学調査を行うことになる。要は、現実に発生している事実というのは、ほとんど無限にあって、日々、更新されている。その中から研究の対象とする現象を特定しなければ、真実を発見することはできない。そして、研究対象とする現象を特定するためには、仮説を立てる必要がある。しかし、演繹というのは仮説を生む論理ではなく、そこに難点があります。

 

そこで、第三の論理としてパースが提唱したのが、アブダクションということになります。米盛氏は、ニュートンの例を引いています。あまりに有名な、林檎が木から落ちるのを見て、ニュートン万有引力の仮説を考案したというのです。何故、林檎は木から落ちる時に様々な方向に落下するのではなく、地球の中心を目がけて落下するのか。ニュートンは、そのことに驚いたそうです。そこでニュートンは、地球が引力を持っていると考えた。しかし、そこに留まることなく、太陽や月までも引力を持っているという仮説を生み出した。ここに、跳躍力がある訳です。このように、大前提の中に含まれていない事項を含めて、仮説を立てる。従って、アブダクションは、演繹や帰納よりも、確実性においては最も劣る論理であるということになります。しかし、世紀の大発見とか大発明というのは、アブダクションによって、考案されてきたのではないでしょうか。

 

パースはアブダクションについて、次のように説明しています。

 

驚くべき事実Cが観察される、
しかしもし、Hが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

 

また、パースはアブダクションについて、次の2つの段階があると説明しています。

 

示唆的段階・・・いろいろな仮説を思いつく。

熟考的な推論の段階・・・それぞれの仮説について検討し、そのなかから最も正しいと思われる仮説を選ぶ。

 

ここで、参考文献から引用させていただきます。

 

「要するに、アブダクションは正しい仮説の形成を目指して意図的に用いられる方法であり、したがって十分意識的に熟慮して用いられるなら、それは論理的に統制された思惟の方法であり、科学的発見のためのすぐれた推論の方法となりうる、とパースは考えているのです。」

 

また、パースは次のように述べたそうです。

 

アブダクションは理論を求める。帰納は事実を追求する。

 

結局のところ、アブダクションによって仮説を立て、その仮説を帰納によって検証する、というのが合理的な思考方法ではないでしょうか。

 

(参考文献)
1. アブダクション 仮説と発見の論理/米盛裕二/勁草書房/2007

No. 193 この素晴らしき世界

YouTubeを立ち上げて国会中継の音声を聞きながら、パソコンの画面上では将棋を指す。これが私の暇つぶし方法だったのですが、野党が審議を拒否し、ゴールデンウィークに突入してしまいました。すなわち、国会中継がなくなってしまった。そして、将棋だけでは、どうも具合が良くない。刺激が足りない。私流の言い方をしますと、記号密度が低過ぎるということになります。どうしたものかとYouTubeの中を探索しておりますと、BGMとして延々ジャズを流しているものがあった。聞いてみると、これがなかなかいいんですね。そんな怠惰な生活をしていた訳です。

 

ところで、YouTubeでは過去の検索実績に従って、お勧めのコンテンツが表示されます。従って、ジャズに関するコンテンツがどんどん出て来る訳です。例えば、ビリー・ホリデイ。この人は確か、奇妙な果実(Strange Fruit)を歌った人だなどと思い、そのアイコンをクリックしてみる。(ちなみに、奇妙な果実とは白人に殺された黒人が木に吊るされている様子を表現したものです。)ビリー・ホリデイって、こんな声をしていたんだとか思いながら、段々、ハマっていく。ダイアナ・ロスシュープリームの“ラバーズ・コンチェルト”という曲を聞いてみる。シンプルなラブソングで、とても懐かしい。女性ボーカルの繋がりで、スリー・ディグリーズというのも出て来た。黒人の女性3人組で、こちらもラブソングを歌っています。私は、今回初めて聞いたのですが、結構、魅力的なんです。ジャズと言うよりは、ポップスです。モータウン・サウンズの系譜か、ディスコミュージックか、ちょっと私には分かりません。ダイアナ・ロスもそうですが、歌詞はとてもシンプルです。「私たちって、恋人同士なのかしら。それともただのお友達?」そんな具合で、これって日本の歌謡曲と変わらない。そんな歌をいくつも聞いていると、ラブソングが人種や民族を超える普遍性を持っていることに気付かされる。肌の色が白かろうが黒かろうが、人間の恋愛感情に変わりはない。また、ラブソングが表現しているのは、徹底した個人主義であって、そこに戦争に向かう要素はない。むしろ、「戦争よりも、私にとっては恋人の方が大切だ」という反戦のメッセージが隠されているような気もします。

 

ラブソングについて考えておりますと、これはもしかして恋愛感情とはかくあるべし、ということを教えているのではないか、という気もしてきます。個人の想像力だけで、恋愛という壮大な幻想を作り上げることは不可能です。もしもこの世にラブソングも恋愛小説もなかったとしたら、どうでしょう。若者たちは、恋をしないのではないか。そう考えますと、思い当たることが沢山あります。すると、ラブソングも立派な文化だと言うことができる。極言すると、文化の力がなければ、人間は恋をすることもできない。

 

遠くで鳥のさえずりが聞こえ、東の空が白んできた頃、私はサッチモこと、ルイ・アームストロングが歌う“この素晴らしき世界”(What A Wonderful World)の動画に出会ったのでした。独特のしわがれ声で、顔全体をしわくちゃにしながら、一つひとつの言葉を噛みしめるように、サッチモが歌う。この世界は素晴らしいと。どうやら、ここら辺に文化の本質があるのではないか。

 

もちろん、世界はそんなに素晴らしくはない。それが現実です。でも、見方によっては素晴らしくも見える。そういう素晴らしさを発見していくべきだ、というメッセージが歌われている。ネットで調べてみますと、この歌はやはりベトナム戦争に対するアンチ・テーゼとして作られたとのことです。

 

長い間、私は1次性と呼んできたカテゴリー(人間と動物、音楽、感情)にこそ、人間社会の問題が潜んでいるのではないかと思ってきました。しかし、そうではない。人間を集団主義に駆り立て、戦争をさせる。それは、エゴイズムが引き起こしてきた現象だ。そして1次性から3次性まで、全ての文化はエゴイズムを否定する方向に進化してきた。もちろん、文化も、途中、間違った方向に進んだこともあった。しかし、その歴史を通して見れば、それは確実に正しい方向に人間を導いている。

 

文化がなければ、残るのは記号原理とエゴイズムだけで、それでは動物と同じです。文化の力が、人間を人間たらしめている。文化こそが、つまらない人間社会に色彩を与えている。現実とは異なる世界認識であるという意味で、本質的に文化とは幻想である、とも言えそうです。そういう意見に対して、私は、こう申し上げたい。確かに文化とは幻想かも知れない。しかし、幻想の中に生きるのが人間の本質であると。

 

どうやら私の文化論は、体系化する作業を別にすれば、ほぼ完成したようです。

 

(お詫び:「パースのアブダクション」は、次回、掲載します。)

No. 192 想像から思考へ

 

YouTubeの動物動画を見ておりますと、現在においても、人間と動物の新たな出会いは、絶えず続いていることが分かります。典型的なパターンとしては、生まれたての動物が生命の危機に晒される。そして、人間がその動物を助ける、というものです。例えば、小鳥のヒナが巣から落ちてしまう。母猫が育児放棄をし、子猫が路頭に迷う。そういうケースが多いようです。人間としては、どうしてもほっておけない。そもそも動物の赤ちゃんというのは、とてもかわいい。例えば、母猫とはぐれた子猫が、か細い声でニャーニャーと泣いている。空腹なんだろうとか、寒いだろうとか、人間の側は想像する訳です。立ち去ろうとすると、子猫が人間を追いかけて来たりする。もし、その人間が見捨てた場合、その子猫は高い確率で死んでしまう。私などもYouTubeを見ながら、「おい、そんなにかわいい子猫なんだから、お前が助けてやれよ!」と無責任にも思ってしまいます。幸い、大半の動画では、子猫を助けるというパターンになっており、ほっとします。

 

人間が出会う動物というのは、犬や猫に限りません。カラスや雀は、決して人間になつかないと思っていたのですが、そんなことはないようです。

 

動物との関わり方も、多様です。動物と関わるために、“物”を作る人も少なくありません。小鳥の餌場や巣箱を作る。犬小屋を作る。ペット用の遊び場を作る。キャットタワーと言って、猫が登って遊ぶタワーを作る人もいます。動物を食べることが目的ではありませんが、動物に触発されて、“物”に関する文化が生まれる。これは“2次性”だな、私の仮説に間違いはない、などと思ったりします。

 

また、動物との関わり方は、必ずしもペットとして飼育するというパターンに限られません。前述の通り、小鳥の餌場を作るという例もありますし、バードウォッチングなどは、原則として見るだけです。更に、例えば河原だとか裏庭に住んでいる野良猫との間に、関係性を構築している人たちもいる。それぞれの猫に名前を付けて、個体を識別している。時折、餌をやったり、具合の悪そうな猫がいると、動物病院に連れて行ったりする。

 

また、人間の行動も観察してみると、面白い。ほとんどの場合、人間は動物に話し掛けている。多分、私のような素人は、猫を前にしても何を言っていいか分からない。ところが、達人になると何十分でも、猫を相手に話し続けることができる。すると、果たして人間と動物の間で言語によるコミュニケーションは可能なのか、という疑問が沸いてきます。結論から言えば、それは相当程度に可能なのではないか、と思うのです。名前を呼べば、寄ってくる。人間が叱れば、動物はふてくされる。そればかりではありません。日本語をしゃべる猫だっている! 私が見た動画では、餌を持った飼い主と猫が次のような会話を交わしていました。

 

飼い主・・・これ欲しいの?
猫・・・・・ウン。
飼い主・・・それじゃあ「頂戴」は?
猫・・・・・チョーダイ。

 

この場合、猫が言葉を理解しているようにも思えますし、条件反射のようなものだとも解釈できそうです。反対に、猫の鳴き声を人間が理解できるかという問題もあります。この点、多くの飼い主たちはYouTubeで「猫が〇〇について説明している」というコメントを寄せています。それらを読むと、なるほどそうなのかという気もしますが、想像に過ぎないとも思うのです。いずれにせよ、動物との会話は、人間にとって永年の願望であることに間違いなさそうです。最近では、猫語を理解するためのスマホ用翻訳ソフトまである。

 

更に人間の想像力を掻き立てる例というのもあって、それは動物との再会によってもたらされます。例えば、傷ついた動物を保護する。怪我が治った後で、人間がその動物を自然に返す。しばらくして、その動物との再会を果たす。こういうパターンが多いようです。そこで人間は、その再会の意味を想像するんですね。これは、動物がお礼を言いに来たのではないかとか、恩返しではないかと想像する。童話の「鶴の恩返し」というのは、そういう実際の事例に基づき、昔の人が想像した物語であることが分かります。

 

さて、人間と動物の間で会話が可能かという大問題についてですが、残念ながら私には分かりません。ただ、動物が人間の想像力を喚起し続けてきたという点は、間違いないと思うのです。

 

日本列島に私たちの祖先がやって来たのは、4万年前~3万年前だと言われています。そして、農耕が始まったのは、せいぜい3千年前位ではないでしょうか。すると、少なくとも、私たちの祖先は2万7千年もの間、狩猟採集を生業として暮らしてきたことになる。街にネオンはない。看板もない。夜になると暗くなる。そういう環境の中で、私たち祖先の注意を引き付けてきたのは、動物であるに違いない。そして、動物が人間の想像力を喚起してきた。

 

思えば、アニミズムの原点は想像力にある。融即律も同じです。私たちの祖先は、どんな生き物だったのか。バナナだった、牛だった、ブタだったなどと想像し、それらは禁食の対象となってきた。やがて、想像力が物語を生み出した。私の見立てからしますと、中世まではこの物語的な思考が支配的だった。

 

物語的な思考は、王政や封建制を支える基礎をなした。戦争も絶えなかった。そこで、それらへの反動として、物語的な思考から論理的な思考へ脱却しようと考える人々が現われた。純粋理性批判を通読していない私が言うのもなんですが、カントはそんなムーブメントの先駆者だったのではないか。経験に基づかない純粋な理性とは何か、と考えた。そして、ヘーゲルが続く。近代の芸術家たちも、近い位置に立っていたのだと思います。彼らは、こぞって戦争の悲惨さを訴えた。

 

私が3次性と呼んできた心的な領域は、想像力から出発している。では、なかなか“仮説”の域を出ないこのブログは、どうなのかとも思う訳です。“仮説”も想像力の産物でしかないのでしょうか。そうであれば、論理的な思考とは何か。難しい問題に行き当たってしまいました。私自身でこれ以上考えるのは困難なので、ここはパース先生の力を借りることにしましょう。ということで、次回は「パースのアブダクション」について、紹介させていただく予定です。

No. 191 懐かしい場所

いつの頃からか、近所のラーメン屋でパートをしている“おばさん”と言葉を交わすようになりました。ほとんどの場合、私は客で彼女はラーメン屋の店員として、二言三言会話を交わすのです。街ですれ違った折には、挨拶だけ。

 

1か月程前のことですが、お店のカウンターに座った私は、「暖かくなったね」と言ってみました。「そうですね、桜も咲いたし」とおばさん。ふと、私は窓の外に目を向けたのでした。ラーメン屋の外には、道の反対側に、桜の老木があるはずだった。しかし、見当たらない。私の目が泳いでいるのを察したおばさんが言いました。

 

「あの桜、なくなっちゃったのよ。駐車場の拡張工事で、切られちゃった。私の心の支えだったのに・・・」

 

一瞬、おばさんが涙ぐんだように見えました。

 

それだけのことです。こういう話というのは、ちょっと若い人には難しいかも知れません。

 

毎年、春になれば桜が咲きます。テレビでは、桜前線の話題が取り上げられます。四国では咲いたが、大阪はまだだとか。東京には、確か明治神宮だったと思うのですが、標準木というのがある。そこで、3輪位咲くと開花宣言が出される。週末には、お花見で盛り上がり、そんなことがテレビの話題になったりする。しかし、例えば私のような者は、多分、そのおばさんも同じではないかと思うのですが、お花見に行ったりはしない。明治神宮にも行かない。ただ、毎日のように通り過ぎる路傍の桜の木を見ては、蕾が膨らんで来たとか、三分咲き位になったとか、そんなことを楽しみにするのです。そして満開になると、ああ、今年も桜が咲いて良かった。無事、1年を暮らすことができた。大していいこともない年だったし、相変わらず腰痛は治らない。それでも、桜を見ることができた。桜の木よ、綺麗な花を見せてくれて有難う。来年も宜しくね。そんなことを思ったりするのです。

 

そのおばさんや私にとっては、道を挟んでラーメン屋の反対側に立っていた桜の老木が、言わば標準木のようなものだった。ある一本の木と、ある人間との間に、特別な関係が醸成されていた。だから、その木が“心の支え”になったりすることもある。

 

例えば、高野山金剛峯寺には、あの白い岩がある。埼玉に住んでいる私からすれば、それはとても遠い場所です。多分、私が再び金剛峯寺を訪れることはないでしょう。しかし、そこにはあの白い岩がある。それだけで、私は、その場所とのつながりを感じることができる。もし、再び訪れることがあれば、とても懐かしい感じがするのではないでしょうか。

 

世界は広い。日本だって広い。だから、若いうちは、あちこちに出掛けてみた方がいい。しかし、ある程度の年令になれば、大体のことは分かって来る。どこへ行けばどんな風景が広がっているとか、何を食べればどんな味がするとか、そういうことが分かってくる。そうしてみると、頻繁に旅行に出掛ける必要もなくなってくる。ただ、数か所、“懐かしい場所”を作っておくと良いのではないか。あそこに行けば、あの木があるとか、あの岩があるとか、そんな些細なことでもいいと思うのです。そして、その木や岩に会いに行く。懐かしい感じがする。それらの木や岩が“象徴”する“場所”に行ってみる。そうすることによって、私たちは自然や大地と繋がっていけるのではないでしょうか。