文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 204 第5章: 身体系(その2)

 

3.打楽器とリズム

 

前回の原稿を書いた頃から、すっかり“和太鼓”に魅せられてしまいました。どうやら、和太鼓というのは、大木の幹をくり抜いて作るらしい。そして、牛皮を貼る。だから、金属が醸し出す硬質な音とは違って、深みのある優しい音が生まれる。その音は、一瞬で消える。だから、和太鼓の音色というのは愛おしい。

 

和太鼓という楽器は、その昔、大陸から日本に伝達されたようです。そして、日本で“和太鼓”という文化に成長し、今では日本から世界各地にその文化が伝えられている。例えば、日本の和太鼓集団が、海外で演奏する。それはコンサートホールであったり、路上だったりする訳ですが、いずれの場合でも海外の聴衆はその迫力に魅了され、拍手喝采を惜しまない。打楽器の音色やそれらが叩き出すリズムの魅力というのは、いとも簡単に国境を超える。

 

YouTubeに、海外の少女が和太鼓について解説している動画がありました。英語なんですが、専門用語のDon Dokoとは何かとか、そういうことを一生懸命説明している。打った後には、腕を真っ直ぐ上に上げろとか、どうやら彼女は和太鼓の流儀にも精通しているらしい。これはもう、日本発の世界的な文化に昇華している。そう思うと、ちょっと嬉しくなりました。

 

和太鼓の特徴の一つは、複数の人間が協力して、同じリズムを作り上げる点にあると思います。例えば、ジャズのドラマーだったら、1人でアドリブ演奏を繰り広げる。他方、和太鼓の方は、複数の人間が一糸乱れず、譜面通りの音を叩き出す。ただ、同じような打楽器集団が、アフリカにもある。複数の人間が協力して、一つのリズムを創り出している。これはちょっと、似ていると思いました。アフリカ出身のパーカッショニストと日本の和太鼓奏者が共演するという、大変興味深い動画もありました。

 

リズムって、何だろう? 哲学者や心理学者は、もっとこの大問題に取り組むべきではないのか。

 

4.肉体を誇示する人々

 

ところで、“身体系”の文化やそのメンタリティについて考えておりますと、どうも肉体を誇示する人たちが沢山いるような気がしてなりません。

 

例えば、浅草の三社祭。普段は刺青を隠して暮らしている人たちが、年に1度のこの日だけはもろ肌を脱いで、刺青を誇示する。観光客がカメラを向けると、気軽に撮影に応じる。男性も女性も同じです。どうやら、彼らは刺青を入れた自分の体を見てもらいたいと思っているようです。

 

リオのカーニバルは有名ですが、最近は日本国内でもサンバ・カーニバルが盛んに開催されているようです。これらカーニバルにおける女性の出で立ちというのは、ちょっと理解を超える位に露出している。

 

神輿を担ぐ男性や和太鼓奏者などの中にも、フンドシ一丁になる人は少なくありません。彼らも、肉体を誇示しているように見えます。

 

AKB48はミニスカートだし、ポップシンガーのマドンナやレディ・ガガなども、ステージで服を脱ぎたがる。

 

もし、自分の肉体にコンプレックスを持っていたとしたら、彼らは人前で脱いだりしないのではないか。むしろ、彼らは自らの肉体を愛しているから、それを誇示するのではないでしょうか。

 

5.人は何故踊るのか

 

人が踊るのには、いくつかの理由があると思います。戦さの前に士気を高める、という場合もあります。これは“競争系”の踊りですね。また、神話などに従って、神様に楽しんでもらう、願いを込めて踊る、という場合もあるでしょう。これは、“想像系”の踊りです。しかし、これらの場合を含め、人間には踊りたいという根源的な願望があるのではないか。

 

確かに、性的な意味合いもあるでしょう。実際、ミュージシャンやダンサー程、異性にモテる商売はない。クジャクの例を出すまでもなく、動物が歌ったり、踊ったり、美しく進化するのは、異性を惹きつけるためです。しかし、人間の場合、理由は他にもあるのではないか。例えば、日本にはヒョットコのお面を付けて踊るという文化がありますが、この場合、性的な意味合いというのは想定できません。

 

まず、自分の肉体に対する愛着というものがある。これが出発点ではないでしょうか。刺青を入れたり、着飾ったり、まず自分の肉体を記号化し、そして、外界との関係を構築しようと努める。そして、人間には動物が持っていない打楽器とリズムというものがある。これは、時間と空間を象徴しているのではないか。まず、打楽器が奏でる瞬間的な音というのは、過去と未来の境界点である“現在”を象徴している。そして、音というのは無限に伝わるものではない。ある範囲内の場所においてしか、聞こえない。だから、打楽器の奏でるリズムに合わせて踊るということは、人々が肉体を通して、時間と空間を共有するための手段だと言えるのではないか。言うまでもなく、そこから“共感”が生まれる。私は誰かを見ている。そして、誰かが私を見ている。同じ時間と空間の中に人々がいる。だから、楽しい。

 

これが、“身体系”の文化とメンタリティの本質だと思います。そもそも、共感を得ようとするのが“身体系”なので、ミュージシャンやダンサーには、平和主義者が多い。

 

私は、“競争系”について、辛口の批判を述べました。対して、“身体系”については、肯定的な見方をしています。しかし、“身体系”の文化やメンタリティを手放しで肯定している訳ではありません。何故なら、リズムに陶酔すること、歌や踊りに興じるということは、その間、思考を停止することになるからです。思考を停止するから共感が生まれるのだ、という見方もできますし、実際、その通りだと思います。しかし、思考するのもまた、人間の本質だと思うのです。

 

この章、終わり

No. 203 第5章: 身体系(その1)

 

1.“身体系”文化の起源

 

身体系の文化は、動物を真似る所から始まった。この点は、多分、間違いないと思います。今回調べてみて、祇園だとか浅草には鳥のサギの格好をして踊るという風習のあることが分かりました。動物の姿を真似て着飾る。動物の動きを真似て踊る。

 

但し、歌の起源については諸説あるようで、説得力のある仮説を提示することはできません。歌の起源を考える場合、それよりも前にあったであろう“言葉”について検討する必要があると思うのです。しかし未だに、言葉の起源を説明できる定説というのは、ないようです。

 

小鳥のさえずりから、言語の起源を研究している学者は、「歌と踊りの起源は、性的なアピールである」と述べておられます。確かに、人間がサルだった頃まで遡れば、その意見は正しいのでしょう。しかし、長い時間をかけて育まれてきた文化という観点から見れば、事情はもう少し複雑だと思うのです。

 

ところで、音楽の3大要素というのを習った記憶があります。すなわち、旋律(メロディー)、和音、リズムの3つである。しかし、伝統的な祭りや踊りの光景をYouTubeで見ておりますと、疑問が沸いて来るのです。無文字社会の人々の踊り、リオのカーニバル、日本の伝統的な踊りなどを見ますと、そこに和音はほとんど用いられていないことが分かります。また、日本の踊りでは横笛が旋律を奏でますが、全体的に見れば、これはその場に華やかさを付与するための付属的な役割を果たしているに過ぎない。役割の大きさからすれば、圧倒的にリズムが重要なんです。

 

日本の伝統的な楽器の中で、一度に複数の音を出して、すなわち和音を表現できる楽器というのは、存在するのでしょうか? 横笛、尺八、太鼓、三味線。どれも和音を表現することはできません。

 

そもそも、和音という概念は、とても複雑なものです。まず、1オクターブ上の音と下の音を特定する。そして、その間を分割し、合う音と合わない音を識別する。例えば、ド、ミ、ソの3つの音は合う。そういうことが分かってくる。そして、ドミソという和音が誕生する。この和音という概念があるから、それを奏でることのできる楽器、すなわちピアノ、オルガン、ギターなどが開発されたのではないでしょうか。全て、西洋の楽器ですね。調べてみますと、和音を多用するクラシック音楽の起源は6世紀頃だそうです。してみると、この和音という概念の歴史も、千数百年程度しかないことになります。

 

やはり起源ということを考えますと、記号としての動物が“誘因”となり、その姿形を真似てみる。これがファッションですね。そして、人間は踊り始めた。しかし、踊るためにはリズムが必要だった。と言うよりは、むしろ踊るために必要な要素とは、リズムだけだったのではないか。

 

祭りを開催して踊る人々は、必ずリズムと打楽器に関する文化を持っている。私は長年、リズムに関してはアフリカとラテンにはかなわないと思ってきました。しかし、日本にも“和太鼓”というりっぱな文化がある。そして、和太鼓の奏でる強烈なリズムが、日本の祭りを根底から支えてきたに違いないと思うのです。

 

2.競わない集団

 

祭りという伝統文化は、日本の各地にあって、その種類もいくつかあるようです。戦う祭り、というのもある。一般に、男祭りとか、喧嘩祭りと呼ばれるものですね。喧嘩神輿というものまである。これは、あたかもカブトムシのように神輿に角を生やせて、他の神輿と戦うんです。相手の神輿の角を折った方が勝ち、ということになります。こういう祭りでは、興奮した男たちが、思い余って喧嘩を始めたりする。私流の言い方をしますと、これらの祭りは“競争系”ということになります。

 

他方、神輿ではなく、踊りを中心とした祭りも多数存在します。有名な所では、阿波踊り、花笠踊り、さんさ踊りなどがありますが、その流派まで含めますと、もう無数にそういう集団がある。これにはちょっと驚きました。そして、踊りを中心とした集団というのは、戦わない、競わない、序列を決めない。これはもう、“競争系”のメンタリティを真っ向から否定しているように見えます。YouTubeさんさ踊りの光景を見ていましたら、「ミスさんさ踊り」というタスキを掛けた女性が出て来ました。やはり、この世界にも競争があるのかと思って、ちょっとがっかりしたのですが、よく見ると踊っている女性は皆、「ミスさんさ踊り」というタスキを掛けている。その後ろに数十人のタイコ隊がいるのですが、こちらも全員がタイコの腹に「ミス太鼓」と書かれた布を巻き付けている。何か「皆が一等賞」という感じがして、嬉しくなりました。それでいいと思うんです。

 

阿波踊りには、踊り方の基本形があって、そこに創意工夫を凝らした変形バージョンもあるようです。どの形で踊るかというのは、グループ毎に決めているようです。このグループも沢山あって、例えば「阿呆連」とか「〇〇連」という名称が付されているようです。ちなみに「阿呆連」という名前は、「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿保なら、踊らにゃソンソン」から来ているのでしょう。

 

阿波踊りを見ておりますと面白いのですが、踊り方はそれ程、難しくないように思えます。私でも1時間も習えば、そこそこ踊れるのではないか。そこが、この身体系文化の魅力なんだと思います。ハードルは高くない。やる気になれば、誰でも参加できる。このタイプの集団は、開放的なんですね。実際、外国からの留学生が、踊りに参加している例もありました。

 

阿波踊りの動画を見ておりますと、〇〇連の人たちが、大通りを踊りながら行進してくる。それはもう、統率が取れていて、迫力満点です。しかし、その後ろには別のグループが続いている。通りの両脇は、見物人で溢れかえっている。私はふと、エチオピアの山岳地帯で、何の争いもなく合流して行ったゲラダヒヒのことを思い出しました。○○連がハードだとすると、そこにいた全ての人々が、マルチ・ハードということになります。そして、誰も戦わない。競わない。序列を付けない。

 

集団的であるという側面を取り上げますと、“競争系”も“身体系”も同じです。しかし、その内実は真っ向から対立している。ここら辺が、文化の懐の深さではないでしょうか。

 

この章 続く。

No. 202 第4章: 競争系(その2)

 

“競争系”のメンタリティと、“競争系”が生み出す社会的な現象について、もう少し分解してみたいと思います。

 

3.恐怖型

 

人間は、他の動物よりも、強い恐怖心を持っていると言われています。秦の始皇帝万里の長城を作らせたのも、恐怖心に原因がありました。また、「殺さなければ、殺される」という恐怖心が、幾多の戦争を引き起こして来たことに間違いはありません。侵略戦争にしても、例えば自国が植民地にしてしまわなければイギリスに取られてしまうという恐怖心から、ヨーロッパの国々が競って世界を植民地化した歴史があります。日本も、例外ではありません。50年戦争と呼ばれる長い戦争の時代、日本人はそういうメンタリティを持っていた。すなわち、欧米諸国に取られてしまう位なら、その前に日本の植民地にしてしまおう、ということです。

 

また、人間の恐怖心は、独裁政治の原因ともなります。北朝鮮金正恩が側近や親族までも殺害してきたのは、彼の恐怖心のなせるわざです。トランプ大統領が、多くの側近を解任してきた理由も、同じではないでしょうか。確かに、この2人には共通点がある。

 

4.疎外型

 

帰属集団の中で自分が評価されない、馴染めない、若しくは排除されているように感じる。こういう現象が“疎外”です。この疎外が、競争系のメンタリティを生む場合がある。分かり易い事例として、「昭和の暴走族」を挙げることができます。

 

集団への帰属・・・彼らは、高校に通っている。

 

疎外・・・授業についていけない。校内で暴力を振るったことを理由に退学になってしまう。または、少年院に送られたりする。疎外されている理由、すなわち「勉強についていけない」ということが、彼らのコンプレックスとなる。

 

社会から隔絶した序列集団・・・彼らは、学業とは全くことなる価値体系を持つ、暴走族という小さな集団を作る。そこでは、学業に関する能力は全く評価項目とならず、暴走族という集団への帰属意識の高さ、貢献度、年次などが序列を決定する要因となる。序列に従うことで、彼らは自らが集団に受け入れられているという満足感を得る。

 

反社会的な行動・・・彼らは自らが帰属する集団に対する帰属意識の高さを証明するため、対立グループとの喧嘩などを率先して行う。

 

同様の仕組みによって、暴力団が生まれる。「オウム真理教」の事件も、同じ構造を持っているのではないかと思います。

 

集団への帰属・・・理系の大学に所属している。

 

疎外・・・学校に馴染めない。友達ができない。生きていることの意味を見いだせない“空っぽ症候群”に陥る。

 

社会から隔絶した序列集団・・・オウム教団に入る。

 

反社会的な行動・・・サリン事件

 

更に複雑な事例としては、「三島由紀夫の自決事件」があります。これも根本的には、同じ構造を持っているのではないでしょうか。

 

集団への帰属・・・日本の伝統文化に精通していた三島は、日本という国家に強い帰属意識を持っていた。

 

疎外・・・戦時中、病弱だった三島は、徴兵検査を受けるが失格となる。この肉体的なコンプレックスが、三島の心に影を落とす。多くの三島の友人らは、戦争で命を落とすが、三島は生きて終戦の日を迎える。戦後、日本国憲法に象徴される民主制が定着し始めるが、三島はそのような考え方を“堕落”だと感じる。そして、三島のメンタリティは、社会的な価値観とかけ離れていく。

 

社会から隔絶した序列集団・・・盾の会を結成する。

 

反社会的な行動・・・自衛隊、市ヶ谷駐屯地に侵入し、「天皇陛下万歳」と叫び、自害する。

 

5.依存型

 

自らのアイデンティティを帰属集団と、集団内における序列に依存するというケースは、少なくありません。「俺は一流大学に通っている」とか「私は一流企業の課長だ」という自尊心のことです。先般、財務省事務次官を務めていた福田氏のセクハラ発言が世間の耳目を集めました。これなどは、典型例だと思うのです。福田氏は、財務省という帰属集団と、事務次官という序列に依存していたのだと思います。その立場を利用して、深夜にテレビ朝日の女性記者を呼び出し、セクハラ発言を繰り返した。多分、そういう立場を利用しなければ女性に相手にされないことを福田氏も知っていたのではないか。女性に尊敬される程の人格を持っていない、女性を楽しませるだけの話術もない。

 

高齢になって、しかも金銭的に恵まれているにも関わらず「引退しない男たち」という例もあります。彼らも引退した場合、他に趣味がない、自分に社会的な価値がないことを知っている。だから、引退したがらない。自民党では、この問題で苦労しているようです。企業でも、いつまでたっても顧問だとか、相談役という役職にしがみついている人が少なくありません。

 

帰属集団への依存という意味では、日本という国家に依存している人もいます。本当は、疎外されている。そこで、「でも俺は、日本人だから偉いんだ」と思うことにして、自分を慰めている。こういうメンタリティが、中国や韓国を馬鹿にし、ヘイトスピーチを行なったりするのではないでしょうか。

 

6.従属型

 

帰属集団の中で自らの序列を受け入れるということは、その集団の中で自分の居場所を確保することにもなります。そこで、自分よりも格上の人には従おうとするメンタリティが生まれる。それは楽だし、ひいては自分の出世にもつながる。そこで、ヒラメと呼ばれる上しか見ないような人が出て来る。下には厳しいが、上にはゴマを擦る。

 

今日の日本は、アメリカに従属している。アメリカから武器を買わされ、アメリカのカジノ業者がトランプの友達だそうで、日本はカジノを解禁しようとしている。戦後70年以上が経過したと言うのに、日米地位協定が改定される見込みは立っていない。アメリカよりも下だという日本人の序列意識を改変しない限り、日本の対米従属は終わらないのではないでしょうか。

 

7.嫉妬型

 

元来、“競争系”というのは論理に基づいていません。そこで、このメンタリティを強く持っている人というのは、概して、論理に弱い。そこで、論理的な主張を行う人に対し、嫉妬心を持ちやすい。そういう傾向が顕著に現れるのは、論理的な主張を行う野党系の女性議員に対してではないでしょうか。「女のくせに」というやっかみが透けて見えます。

 

自分よりも幸せそうに見える人や恵まれている人に嫉妬し、マウンティングを試みる。このような行為も、この“嫉妬型”だと思います。

 

上記の通り、“競争系”のメンタリティというのは、何かを怖れ、疎外され、依存し、従属し、嫉妬深いものだと思います。このメンタリティを克服するために、まずやるべきことは、“疎外”を解消することだと思います。貧富の格差を解消する。教育の機会を平等にする。人々を社会からドロップアウトさせない。そういう社会的な努力が、大切だと思います。

 

この章、終わり。

No. 201 第4章: 競争系(その1)

 1.競争系とは何か

 

現代日本に生きる私たちは、子供の頃から徹底して“競争系”のメンタリティを叩きこまれます。例えば、小学校の運動会でさえ、赤組と白組に分かれ、若しくはクラス対抗などの名目で、競い合うことになります。そして、学期末にはテストがあり、個々人の学力が数値化され、順位が決められます。会社に入っても事情は変わりません。どこの業界にもライバル会社があって、企業間、すなわち集団と集団が競い合うことになります。企業の内部では、社長以下、厳格に役職が決められ、個人同士が出世を争う仕組みになっている。事情は、社会主義国でも変わりません。権力内部での闘争が繰り広げられている。

 

世間には、エゴイズムという言葉があります。上に記した現象を説明するには、もってこいの言葉でしょう。そして、このエゴイズムについて考えてみると、次の3種類が抽出されます。

 

・帰属集団のエゴ
・序列闘争に関わる個体のエゴ
・遺伝子のエゴ

 

現代社会においては、ほとんど全ての人々が国家という集団に帰属しており、国家間で争う戦争が“帰属集団のエゴ”の典型です。

 

“序列闘争に関わる個体のエゴ”というのは、例えば相撲の番付表でも見れば、一目瞭然でしょう。誰もがより高い地位につきたい、もっとお金が欲しいと思っている。

 

“遺伝子のエゴ”というのは、自らの遺伝子を後世に残そうとする本能のことですが、時として、このエゴは暴力によって達成されます。その典型はレイプです。(ちょっと数字は明確に記憶していませんが、米軍内部でのレイプの件数という統計値があって、あまりの多さに愕然としたことがあります。)また、ゴリラ、チンパンジー、ライオン、そして稀にではありますが人間社会においても、新たにメスを支配することとなったオスが、そのメスが生んだ別のオスの子供を殺害する。遺伝子のエゴは、愛情と呼ばれる感情を育みます。しかしそれは異性に対する支配欲であり、嫉妬でもあるのです。

 

もしかすると、そんなの当たり前だろう、それが人間というものだ、と考える人がいるかも知れません。そこで、このような競争系のメンタリティに対するアンチテーゼとして、以下にゲラダヒヒの生態について、紹介させていただきたいのです。何故なら、我々人類もかつてはサルだった訳で、サルの生態というのは、人類の過去の生き方を探るための手段になり得るからです。

 

2.ゲラダヒヒの平和主義

 

霊長類研究という分野では京都大学が有名で、世界的にも最先端の地位を確保しているそうです。以下にご紹介する河合雅雄氏も京大のメンバーで、同氏の著書「森林がサルを生んだ -原罪の自然誌-」(平凡社刊 初版1979年 以下「本文献」という)をベースに記します。

 

ゲラダヒヒは、エチオピアの山岳地帯のシミエンに生息する、胸の中央部が赤くなった美しいサルのことです。ゲラダヒヒが構成する最小の集団は“ワンメイル・ユニット”と呼ばれます。文字通り、一頭のオスが数頭のメスとその子供たちを率いている。一夫多妻制の集団ですね。そして、いくつかの“ワンメイル・ユニット”に加え、集団を組んでいるオス、更にはフリーランスのオスが加わり、“ハード”と呼ばれる集団を組成します。“ハード”には主に生活をする“ホームレンジ”と呼ばれる地域が決まっています。

 

1970年代のある日、河合氏はシミエンでEハードと呼ばれるゲラダヒヒの集団を追っていた。Eハードは、105頭からなる集団だ。すると、遥か彼方から、約350頭からなるAハードが近づいて来る。これは大変な戦いが始まる。自分はラッキーだ。ハード同士の戦いを記録した研究者は、まだいない。河合氏は胸の鼓動を抑えながら、16ミリ撮影機を構え、見晴らしの良い岩の上に陣取った。例えばニホンザルのようにまず若者同士が喧嘩を始めるのだろうか、それともボス同士の対決になるのだろうか。そんなことを想像しながら、カメラのファインダーを覗く。河合氏の期待は膨らむ一方だ。しかし、結果としては、何も起こらなかった。まず、EハードとAハードが合流し、そこへ更にFハードとKハードまでもが加わり、総計600頭を超すゲラダヒヒの大集団が、おだやかに採食しながら移動する平和な光景が広がったのである。

 

河合氏は、本文献の中で、次のように述べている。

 

「ところが! ほとんど何も起こらなかったのである。いや予想したことが起こらなかっただけで、本当はとんでもないことが惹起したのである。二つのハードは、いとも自然に合流してしまったのだ。私はぼうぜんとして、大波がうねるようにゆったりと行進する大集団を、夢かとばかり眺めていた。」

 

その後、ゲラダヒヒがどうしたかと言うと、仲良く数日を共に過ごし、再び、各ハードに分かれて、ホームレンジに帰って行ったとのこと。その際、ハード間でメンバーが入れ替わったりすることはない。その後、複数のハードによって構成されるゲラダヒヒの集団は、“マルチハード”と名付けられた。

 

エチオピアの山岳地帯で繰り広げられた上記の光景を想像し、私はジョン・レノンのImagineの歌詞を思い出しました。 Imagine all the people living life in peace.)

 

ゲラダヒヒは、何故、平和裏に暮らすことができているのか。理由の1つは、ホームレンジを持ってはいるものの、それはなわ張りではないということ。理由の2つ目としては、ゲラダヒヒが以下の通り、3層の社会構造を持っていること。

 

・ワンメイル・ユニット
・ハード
・マルチハード

 

河合氏は次のようにも述べています。

 

「なわ張り性を持つ種は、すべて単層の社会であることに注目する必要がある。」

 

私なりに、少し補足させていただきます。なわ張りを持つ種は、そのなわ張りを侵略された場合、逃げることができない。力づくで、なわ張りを守る必要がある。だから、戦わざるを得ない。また、単層社会の場合は、集団に対する帰属意識が強くなり過ぎる。他方、重層社会の場合は、集団に対する帰属意識が分散される。

 

また、河合氏は、人類について次の見解を述べています。

 

「人類の歴史をふり返ってみると、狩猟採集民の多くはなわ張り制を持たなかったと考える方が妥当であろう。」

 

「ヒトは狩猟採集生活をしている間は、なわ張りを持たない平和な生活を送っていた。ところが、農耕牧畜革命によって、人間は再び強いなわ張り制を持つに至った。」

 

私は、上記の河合氏の見解を支持しています。そして、思い出して欲しいのです。私たち人類が持っている文化には、200万年に及ぶ歴史がある。ホモ・サピエンスが登場してからだって、20万年の歴史がある。そして、農耕が始まったのは、わずか1万年前のことに過ぎません。すなわち、戦争という人為的な現象には、わずか1万年の歴史しかないのです。

 

本章 続く

No. 200  第3章: 記号系

 

1.記号の定義

 

記号とは何かと言うと、それは重大な哲学上の問題であり、例えばパースは記号を66種類のクラスに分類したそうです。ここではそこまで厳密に考える必要はないので、簡単に、次のように定義しておきましょう。

 

記号の定義・・・記号とは、音、光、形、色、物、人の表情、その他の要素によって構成され、対象を指し示すものであり、人または動物によって、認知されるものである。

 

2.記号原理

 

次に、記号にまつわる原理的なことを述べます。記号原理というのは、私の造語なのでご留意ください。

 

まず、記号によって、人は何かを認知する。このことから導かれるのは、記号とはそれ単独で存在することはない、ということです。例えば、世界には人間の聴覚によっては認知し得ない周波数の音というものが存在します。それらを人間が認知することはない。よって、そのような周波数の音というのは、記号たりえない。記号というのは、必ず、何かを指し示している。この記号が指し示しているものを本稿では“対象”と呼びます。また、“対象”とは具体的な事物に限らず、心的なイメージをも含みます。

 

記号に触発された人間は、次のステップで“意味”について思案します。本稿において“意味”とは、その記号や対象と自分との関係において判断される価値のようなもの、と定義しておきましょう。ここから先は、“意味”があるから行動に至る「意味発見型」と、行動によって“意味”を創出する「意味創出型」の2種類が考えられます。

 

意味発見型の例
 記号・・・あなたの部屋のドアがノックされる。
 対象・・・ドアをノックする音は、誰かの来訪を指し示している。
 意味・・・その来訪者は、他ならぬあなたを訪ねて来ている。
 行動・・・あなたはドアを開け、来訪者を招き入れる。

 

意味創出型の例
 対象・・・殺したいほど憎い人がいる。
 記号・・・憎い人を指し示す記号としての藁人形がある。
 行動・・・藁人形に五寸釘を打ち付ける。
 意味・・・怨念を晴らす。

 

上記の通り、4つの要素で人間の認知・行動システムを説明するのが、記号原理の本質ですが、続いて、この記号原理における傾向について述べます。

 

記号化・・・人は、何かを認知するために、記号を用いる。例えば、人に名前を付ける。道具に目印を付ける。他の人との差別化を図るために、着飾る。これらの行動様式を“記号化”と呼ぶことにします。

 

記号強度・・・個々の記号が持っている人に対する影響力の強さを、“記号強度”と呼ぶことにします。例えば、物音がする。その音は大きい程、それを聞いた人に大きな影響を与えます。よって、音量が大きい程、“記号強度”が強いことになります。

 

記号密度・・・例えば、テレビやパソコンの画面の大きさは、一定で変わりません。その単位面積の中に、どれだけの密度で記号が表示されているか。その密度のことを“記号密度”と呼ぶことにします。画面に一人の演歌歌手が映っているよりも、AKB48の全メンバーが映っている方が、“記号密度”が高いことになります。

 

記号鮮度・・・人は、同じ記号に触れ続けると、そこから受ける影響力が低下します。より新しい記号から、人は強い影響を受ける。よって、食品と同じように記号にもその鮮度のあることが分かります。

 

記号執着・・・人は、ある種の記号に良い印象を持つと、多分、脳内にドーパミンが放出され、快感を覚える。そこで、同じような記号を繰り返し求める傾向にある。例えば、パチンコで大当たりの記号が出現すると、脳内にドーパミンが放出される。そして、依存症になる。バッグや靴など、同じようなものを沢山買ってしまう。

 

人間は常に、記号化することによって、物事を認識しようと試みている。また、より記号強度が強く、より記号密度が高く、記号鮮度の良い記号を求めようとする。鮮度を求めるのだから、それは飽きっぽい傾向にある。と同時に、特定の記号に執着しようともする。これはあたかも子猫のように気まぐれで、飽きっぽく、わがままで、理解し難い傾向を持っていると言えます。

 

上記の事項全てを含め、本稿では「記号原理」と呼ぶことにします。

 

3.記号系の文化

 

記号自体に働き掛けようとする文化領域というものは、確実に存在します。例えば、花火。打ち上げから僅か10秒程度で完結する花火は、記号そのものを楽しむ文化だと言えます。イラストやレタリングもあります。くまモンやフナッシーなどの着ぐるみ。これらのキャラクターは、名称、外観、声、動作などの記号が組み合わさって構成されています。新しい所では、ラインのスタンプというのもあります。

 

もう少し大きな所では、企業のマーケティング戦略があります。

 

しばらく前、Corporate Identityということが盛んに論じられました。企業を象徴するロゴやマークを作れ、という考え方です。ただ、ロゴだけでは実効が上がらないので、以下の3つについて検討しろ、と当時の文献には書かれていました。

 

Product Identity・・・自社製品に特色を打ち出せ。
Behavior Identity・・・従業員の行動に特色を打ち出せ。(デニーズでは、従業員の方が「デニーズへようこそ」と言う。)
Visual Identity・・・これが企業を表わすロゴやマークのことです。

 

その後、このような考え方はブランド戦略と呼ばれるようになりました。例えば、創業時代の物語を作って、アピールする。自社製品全体で共通する特色を出しつつ、個々の商品でも特色を出す。BMWというドイツの自動車メーカーがありますが、この会社の作るクルマのフロントグリルには、どれもキドニーグリルと呼ばれる2つの吸気口が空いているんですね。だから、一目見れば、BMWだと分かる。これがGroup Identityということになります。そして、各車種には、それぞれに個性が付与されている。それが、Individual Identityということになります。AKBだって、システムは同じです。同じ制服を着ている。但し、髪型などについては、各メンバーが個性を持っている。

 

このように、私たちの購買行動や消費性向は、企業のブランド戦略に影響を受けています。

 

4.記号系のメンタリティ

 

私たちは、記号なくして何も認識できない。認識できなければ、行動を起こすこともない。よって、記号なくして文化は成立しないと思います。すなわち、他の文化領域においても、記号原理は働いている。一覧を提示します。

 

・記号系
・記号系 + 競争系
・記号系 + 身体系
・記号系 + 物質系
・記号系 + 想像系

 

すなわち、記号系の文化や記号原理というのは、あたかもコップのようなもので、その中身が競争系以下の4種だとも言えます。そして、競争系以下の4種には、明確なメンタリティがある。では、記号系はどうなのか。コップだけであれば、そこに中味はない、とも言えます。しかしあえて言えば、先に記しました「あたかも子猫のように気まぐれで、飽きっぽく、わがままで、理解し難い」のが記号系のメンタリティなのではないか。そして、このようなメンタリティを強く持っている若者というのは、確実に存在していると思うのです。

 

人間集団(競争系)から切断され、他者との間に共感を育む(身体系)ことができず、物や自然(物質系)の中に意味を見出せず、自らの物語を紡ぐ(想像系)こともできない。この傾向が、ポストモダンの本質ではないかと思うのです。

 

しばらく前に、神奈川県座間市で連続殺人事件が起こりました。僅か1か月の間に7人の女性と1人の男性を殺害したという事件です。容疑者は、ゲームに熱中し過ぎて、父親から説教されていたそうです。そして、犯行前には「生きていることの意味が見つからない」と発言していたそうです。更につい先日、新幹線の中で若者が殺人を犯しました。犯行後少年は、「誰でも良かった」と述べたそうです。これらの若者のメンタリティというのは記号系であって、上記の通り、外界から疎外されているのではないでしょうか。そう言えば、いい年をした若者の間で花火が流行っている。海辺などで大量の花火を打ち上げ、その後ゴミを放置するので困っている、という記事を読んだことがあります。あまりに、幼い。

 

空のコップのようなメンタリティ。このような心理的に危険な状態について、本稿では「空っぽ症候群」とでも呼ぶことにしましょうか。

No. 199 第2章: 文化を育んだ歴史的な背景

 

私たち人類と、人類が育んできた文化には、とても長い歴史があります。そのため、文化を育む基本的な原理があるとすれば、それはとても強固なものであることになります。他方、私たちの目に止まる文化の表層は、急速に変化している。従って、何が不変の原理で、何が変化する表層なのか、この点を見極めることはとても重要だと思うのです。そのような観点から、この第2章では歴史を概観してみます。

 

まず、138億年前にビッグバンが起こり、宇宙が誕生した。また、46億年前に太陽を巡る惑星としての地球が誕生する。38億年前、地球上に簡単なDNAを持つ微生物のような生命体が誕生する。(文献1)この生命体は地球上のあらゆる場所に拡散し、環境に適応してきた。地球が燃えるような熱に包まれた時には地中に潜り、逆に氷河期には、海底に噴き出す温泉の近くで、生き延びてきたと考えられています。その生命体は、やがて爬虫類となる。巨大化した爬虫類、すなわち恐竜が闊歩した時代、私たちの祖先は爬虫類から進化し、ネズミのような形をした哺乳類となった。やがて、その哺乳類がサルになる。700万年前、私たちの祖先は、チンパンジーと別れ、ヒトとしての進化を始める。(文献2)この時代の私たちの祖先は、「初期猿人」と呼ばれています。400万年前、私たちの祖先は森林から草原へと進出する。そして、2足歩行を始め、初期猿人は「猿人」へと進化を遂げる。

 

200万年前、私たちの祖先の脳は拡大し、知能が発達した。本格的に道具を作成し、狩りを行うようになる。(文献2)これが、猿人から進化した「原人」です。そして、180万年前、私たちの祖先の奥歯が小さくなる。(文献1)これは、火を使うようになり、固い生肉を喰いちぎる必要がなくなったからだと考えられています。

 

60万年前には、中・大型動物の狩猟を行う「旧人」が登場します。

 

20万年前、アフリカで誕生した私たちホモ・サピエンスは「新人」と呼ばれています。(文献2)

 

遅くとも7万年前には、抽象的な思考や、文法を持つ言語が発生したという説があります。(文献3)

 

ホモ・サピエンスは7万年前~6万年前にアフリカを出発し(文献2)、4万年前~3万年前頃、日本列島に到着しました。

 

1万年前には、農耕と牧畜が始まります。(文献2)人口が増え、狩猟と採集では食べていけなくなったのが、その理由だと言われています。農耕、牧畜を始めるということは、ヒトが定住を開始したことを意味します。そして、定住する、土地を耕すことから、それはあたかも人類が縄張りを持ち始めたことを意味しているように思います。そこから、人類集団間の争いが始まったものと私は考えています。

 

6千400年前、メソポタミア文明エジプト文明において、文字が発明される。(文献3)

 

1. 動物としての時代(700万年前~200万年前)

 

 私たちの祖先は、いつから動物になったのかという問題があります。恐竜時代まで遡るという考え方もあるでしょうが、一応、チンパンジーと分岐した700万年前を起点としておきましょう。


 この時代から、私たちの祖先は音、光、匂いなどの記号を認知し、行動していました。また、この時代から、ヒトは集団を作って生活していました。それは、サルの生態を見ても明らかです。よって、自分がどの集団に帰属しているのかという意識は、明確に持っていたものと思われます。


 この時代、サルは木の実や草の根などを食べていたものと思われます。すなわち、採集が生活の基本だった。また、自らの遺伝子を残そうとする本能も、強く働いていたものと思われます。それは、新たに集団のリーダーに就任したオスが、前任者の子供を殺すことからも明らかです。この子殺しという現象は、チンパンジー、ゴリラ、ライオンなどにおいて観察されています。(但し、女性の連れ子を虐待する、最悪の場合は殺してしまうという現象は、現代の日本においても、繰り返されているように思えてなりません。)


 すなわち、この時代の私たちの祖先には、以下の本能的な傾向があったことが分かります。
 ・記号による認知
 ・集団への帰属意識(支配意識)
 ・食欲
 ・遺伝子を残したいという欲求


しかし、彼らはまだ文化を手に入れてはいなかった。

 

2.狩猟採集の時代(200万年前~1万年前)

 

 次に、ヒトはいつから動物ではなく、ヒトになったのかという問題があります。これはやはり、道具を使う、火を使うというところにターニングポイントがあるように思います。すなわち、200万年前に、ヒトとしての歴史が始まった。そして、人々は道具を使って“狩猟”を始めた。私は、全ての文化はこの時代に生まれたと考えています。

 

記号系・・・ヒトは獲物となる動物の足跡、匂い、鳴き声など、認知する記号の種類と量を各段に増加させた。そして、未だ文字を持たなかった彼らは、例えば“Aグループ”と言う代わりに“トカゲグループ”などの呼称を用いて、自らの集団を記号化した。これが、トーテミズムです。

 

競争系・・・特段身体的な優位性を持たない人類が狩猟を行うためには、集団で狩りを行う必要があった。そして、獲物の体躯が大きくなるに従って、人類の狩猟集団もその規模を拡大する必要があった。集団には、リーダーが必要となる。そして、リーダーを頂点とし、そのリーダーに近い側から、順に序列が決まっていったのだろうと思います。序列には2つの意味があった。1つ目は、獲物を食べる順序。2つ目としては、異性を確保する順序。そういうメンタリティが、この時代に生じたに違いありません。

 

身体系・・・動物を真似て、歌う、踊る、着飾るという文化が生まれた。これらの文化は祭りを形成し、祭りは他の部族とのコミュニケーションに役立った。というのは、近親相関を回避するために、女性を部族間でやり取りする必要があったからだと思います。他の部族との親交を深める。そのためには、祭りを開催し、互いに歌や踊りを披露する。場合によっては、一緒に踊る。そういう文化が生じたのだろうと思います。

 

物質系・・・狩猟を行うために、人々は武器を開発した。

 

想像系・・・動物に触発され、人々は神話やその他の物語を語り継ぐようになった。

 

3.農耕と牧畜の時代(1万年前~)


 狩猟採集の時代、人々は身体の基本的な機能を駆使していた。例えば、走る、跳躍する、投げるなど。これらの機能は、農耕、牧畜ではあまり要求されない。そこで、スポーツが生まれる。


 縄張りを持ち始めた人類は、狩猟の際に使用していた武器を使って、互いに殺し合いを始めた。


 文字が開発され、普及したことによって、神話や物語が体系化され、宗教が生まれた。

 

4.国際戦争と思想の時代(1776年~)


 1776年のアメリカの独立宣言と1789年のフランス革命が、新たな時代の幕開けとなった。法治主義、民主主義などの概念が発生し、近代的な国家が誕生する。国家が生まれると、国家間の戦争が始まる。戦争に対する反対概念として、平和主義という考え方も生まれる。第1次世界大戦の反省から国際連盟が誕生し、第2次世界大戦への反省から、国際連合が組織された。

 

5.グローバリズムとITの時代(1979年~)


 1979年、フランスの哲学者、リオタール(1924 - 1998)が、その著書「ポストモダンの条件」の中で、「大きな物語の終焉」を宣告し、近代が終わり、ポストモダンと呼ばれる時代に突入した。「大きな物語」とは、例えばマルクス主義のように体系づけられた思想を意味していた。時代は更に動き、その後、グローバリズムが進展し、ITが世の中を一変させた。そして、今日に至る。

 

私の主たる歴史認識は、上記の通りです。このように考えますと、例えば、私たちの文化には200万年の歴史のあることが分かります。また、歴史を通じて言えることは、人類は、徐々にではありますが、確実にその集団の規模を大きくしてきたということです。そして、近代以降、人々を取りまとめる集団は、国家と呼ばれるようになりました。これは、地域集団、民族集団、宗教集団などよりも大きな単位だと思います。しかし、今、グローバリズムが進展している。これはもう、間違いありません。すると、将来的には、無くなりはしないものの、国家という集団の機能は低下し、そこに伴うメンタリティも衰退する可能性があります。いや、既に「愛国心」という言葉を聞かなくなりました。上記のように長いスパンで人類の文化を見た場合、「国家」ですら、一過性の幻想であるのかも知れない、ということになります。

 

他方、万が一、国家と呼ばれる集団がその姿を変えたとしても、私が、記号系、競争系、身体系、物質系、想像系と呼んでいる文化領域は変わらないと思うのです。その比率に変化はあったとしても、いつの時代でも人々は歌い、踊り、着飾り、記号や物に働きかける。そこには、とても長い歴史があるのですから。

 

(参考文献)
文献1: 私たちはどこから来て、どこへ行くのか/森達也筑摩書房/2015年
文献2: 面白くて眠れなくなる人類進化/左巻健男PHPエディターズ・グループ/2016年
文献3: 人類はどこから来て、どこへ行くのか/エドワード・O・ウィルソン/科学同人/2013年

No. 198 第1章: 文化が誕生するプロセス

 

まず、ある架空の事例を提示させていただきます。場所は日本で、時期は大昔という設定です。

 

ある日、山奥に住んでいる少年が、川沿いの小道を歩いていた。すると、バシャという水音が聞こえる。音に気付いた少年は、何だろうと訝しく思う。魚が跳ねたのかも知れない。音のした岩陰に近づいて、水中に目を凝らす。やはり、魚が泳いでいる。しかも、一度に数匹の魚影が確認された。どうだろう、その魚をつかまえることはできないだろうか。川の水は、そう深くない。ひざ下までつかれば、川底に手が届きそうだ。少年は、草履を履いたまま、渓流の中に入っていく。少年は、魚をなんとか浅瀬まで追い込もうとするが、1人では無理だ。そうだ、明日、友人たちに声を掛けてみよう。

 

翌日、少年とその友人たちは、その岩場にやってくる。数人で、魚を複数の方向から、浅瀬に追い込んでいく。やがて少年たちは数匹の魚を手に入れる。魚を家に持ち帰ると、大人たちも喜んだ。炭火で焼いてみる。やがて、その魚を塩焼きにして食べるという文化が生まれ、その地方に根付く。便宜上、この魚はイワナであったことにしましょう。

 

上記の例は、以下の通り、6つのステップに分割して考えることができます。

1.記号・誘因
 少年が聞いたバシャという水音。これが記号である。上記の例では、全てがこの水音から始まっている。また、文化を誘い出す原因というイメージも含めて、“誘因”という言葉を併記しておく。

 

2.対象認識
 次に、記号の指し示す対象がイワナであることを少年は認識する。

 

3.意味・関心
 少年は、自分と対象との関係性を考える。すなわち、その魚を捕獲することが可能なのか。少年は、可能であろうと考える。そして、少年はイワナと自分との間に意味を認め、関心を持つ。

 

4.関与的経験
 少年は、渓流の中に踏み込み、イワナという対象物に関与しようと試みる。この行動は、未だ体系化されていない。すなわちこの行動は、“遊び”に似ている。

 

5.メンタリティ
 少年は、イワナに興味を持ち、かつ、なんとか捕獲できないだろうかと思う。少年は、まず、そういう個人的なメンタリティを持った。そして、そのメンタリティは、数人の友人たちとの間で共有されたのである。個人的なメンタリティが、集団的なメンタリティに拡大したのだ。

 

6.様式化された行動・文化
 少年のメンタリティは、大人たちの間でも共有された。すると、イワナを捕獲する方法だとか、捕獲したイワナの調理方法など、大勢の人間が研究し始める。すると、イワナを串に刺して、炭火を使って塩焼きにするのが良かろうということになる。ここまで来ると、一連の行動は様式化される。この様式化された行動の体系が、文化である。

 

次に、未だ私たちのメンタリティに傷を残す、東日本大震災の例を考えてみましょう。

 

1.記号・誘因
 大震災が発生する。

 

2.対象認識
 体感した地面の揺れなどに続き、メディアを通じて、地震の強度、被害の甚大さなどを認識していく。

 

3.意味・関心
 自分との関係性に照らして、大震災の意味を考える。すなわち、被災地の周辺に居住している者などは、被災地に自分の親戚や友人が居住していないか考える。

 

4.関与的経験
 被災地に居住している親戚や友人などに、電話をしてみる。メールを送ってみる。必要があれば、水や食料品を宅配便で送ろうとする。

 

5.メンタリティ
 まず、個人的なレベルで、被災地を支援したいというメンタリティが生まれる。やがて、そのメンタリティは集団によって共有される。

 

6.様式化された行動・文化
 被災地を支援する組織が設置され、情報が集約され、支援物資の供給ルートなどが整備されていく。そして、ボランティアという様式化された文化が機能し始める。

 

 上記6つのステップは、個人的な認識や経験が、やがて集団的なメンタリティや行動に拡大していく段階を示している。やはり、文化とは集団によって共有されるものであって、そこに本質的な特徴がある。では、各項目について、補足的な説明を記してみます。

 

1.記号・誘因
 “記号”については、このブログのNo. 164~No. 166に記載したので、ここでは繰り返さない。
 次に、“誘因”という言葉を併記した理由について述べます。元来、記号というのは個人によって認知されるものです。他方、文化というのは人間集団によって共有されるもので、特定の人間集団に文化を生み出すように促すきっかけのようなものも存在する。そこで、この“誘因”という言葉を併記することにした次第です。例えば、1945年に広島と長崎に投下された原爆。確かに最初はピカッと光った閃光があって、個人レベルではそれが記号として認識されたに違いありません。ただ、集団レベルでの被爆という事実は記号として認識されたのではなく、その後の平和主義という文化を生み出す“誘因”として機能した、と考える方が良いと思いました。

 

2.対象認識
 “認識”とは哲学上の大問題なのだろうと思いますが、本稿にはあまり関係がありません。ここでは、哲学中辞典(知泉書館)の一文を引用させていただきます。
 -認識は現象から本質へ、さらにより深い本質へと接近していく無限の過程であり活動である。-

 

3.意味・関心
 “意味”について、私は、記号が指し示す対象と自分との関係性だと考えています。なお、“関心”については、米盛裕二氏がその著書「アブダクション」(勁草書房)の中で、次のように述べています。
-「関心」、「配慮」とは、すなわちわれわれ認識主体と世界を関係づける作用であり、世界に対するわれわれ認識主体の積極的な「関与」の仕方を意味しているのである。―

 

4.関与的経験
 この“関与的経験”というのは、私の造語です。まず、関与的というのは、「記号が指し示す何らかの対象に働きかける」という意味です。これは予備的な営為であって、ちょっと触ってみる、ちょっと遊んでみる、チャレンジしてみる、という意味合いを含みます。例えば、石ころに関心を抱いた私が、石拾いに出かけてみる。これが、“関与的経験”であり、既に様式が完成されている“水石”は文化であるということになります。また、仮に“行動”と言うと、人間が能動的に行っているイメージがあります。しかし、広島や長崎における被爆は、受動的なものです。よって、ここでは行動と言わず“経験”という言葉の方が適切だと考えました。

 

5.メンタリティ
 この用語を特別な意味で使用している訳ではありませんが、一応、定義を定めておきます。
 メンタリティ・・・何に興味を持つのか、何を尊重し何を優先させるのか、何に価値を見出すのか、反対に何を否定するのか、これらの事項を決定する精神的な構造であり、心的な傾向である。個人的なものと、集団的なものがある。

 

6.様式化された行動・文化
 関与的な経験の段階で、様々な可能性が試される。そして、人間集団の間であるメンタリティが共有されることになる。すると、こうした方がいい、こうあるべきだという価値観が生まれ、その価値観に基づき様式が生まれる。この様式化された行動が、文化である。

 

項目だけを並べてみましょう。

 

1. 記号・誘因
2. 対象認識
3. 意味・関心
4. 関与的経験
5. メンタリティ
6. 様式化された行動・文化

 

1番から4番までの段階を個人レベルで考えた場合、それはこのブログで既に述べました“記号原理”に相当します。(詳細は第3章で述べる予定です。)また、4番から6番までを集団レベルで見た場合、一つの原則を発見することができます。すなわち、経験がメンタリティを生み、メンタリティが文化を誕生させる。戦争による悲惨な経験があって、平和を希求するという集団的なメンタリティが醸成され、平和主義という文化が生まれ、それは我が国の憲法という様式において結実している。そういう関係にあるのだと思います。