文化領域論

(No.196 ~ No.    )

No. 209 第9章: 心的領域論(その2)

 

引き続き、前回の原稿に添付致しました「文化とメンタリティの関係図」に基づき、検討してみます。

 

まず、芸術と各領域の関係は、次のようになっています。

 

身体系・・・音楽
想像系・・・文学
物質系・・・美術

 

やはり、競争系の芸術というものは、存在しない。

 

次に、動物の心的領域について考えてみます。これは、記号系、身体系、競争系の3つであると言えそうです。動物も記号を通じて、外界を認知している。また、動物の行動を見ておりますと、互いの体を舐め合ったり、じゃれあったりしている。例えば、人間が猫を撫でていると、彼らは喉をゴロゴロと鳴らし、気持ち良さそうにしている。これは、融和的な関係を示していると思うのです。また、マウンティングに代表される競争系の行動も見られる。ライオンや野良猫のマウンティングというのは、かなり激しい。格上を主張する者が相手の背中にまたがり、相手の首筋を噛む。やられる方はたまったものではありません。激しく泣き叫ぶ場合もあります。また、インドではサルが人間を襲っている。サルの場合、餌を与えてくれるのは格下の者だという認識があるからだそうです。人が善意でサルに餌を与えると、サルの方は人間を格下だと認識する。そして、人間を背後から襲ったりする訳です。ペットの犬や猫は、家族の中で自分が一番下の序列に位置していると思っている。だから、飼い主には懐くし、逆らったりしない。しかし、例えばその家庭で新たに赤ん坊が生まれる。するとペットは、この赤ん坊を自分よりも格下だと認識し、噛み付いたりする場合があるようです。厳しい序列によって、動物の社会が成り立っていることが分かります。

 

反対の見方をすれば、想像系と物質系の領域は、人間に固有のものだと言えそうです。やはり、人間とその他の動物との間には、大きな違いがある。想像系のメンタリティは、ある程度、文字で書かれた文章を読まなければ育たないと思います。また、物質系の文化やメンタリティを獲得するためには、教育や経験が必要ではないでしょうか。例えば、古いオートバイをいじくり回すのが好きな人たちがいます。また、オートバイのエンジンの排気量を増加させる人もいる。結構、素人でもこういう改造は、できるようです。ボアアップと言います。私もやってみたいという気持ちはあるのですが、何をどうすればいいのか、さっぱり分からない。そういう知識なり能力を持っている人たちというのは、もしかすると工業高校を卒業しているのではないか。又は、整備士の資格を持っているのではないか。その他にも寿司職人とか、大工さんたちもかなり専門的な能力を持っている。それらの能力を身に付けるため、彼らは修行を積んでいる。やはり、教育ですね。物質系というのは、結構、ハードルが高い。

 

前回の原稿では、関係図を上下や左右に分割して考えてみました。これらの場合には、それなりに共通点がある訳で、相性が悪いとは言えない。例えば、左半分の身体系と競争系には、集団的(依存的)という共通項がある。反対に、想像系と物質系には個人的(自律的)という共通項がある。例えば、物質系のメンタリティを持った人が、お地蔵さんを作る。そして、想像系の人が、お地蔵さんにまつわる物語を作ったりする。

 

では、関係図の中で対局に位置する領域はどうか。まず、想像系と競争系ですが、この2つの領域には共通点がないばかりか、激しく対立しているものと思います。競争系における真実とは、序列であり、序列の最上位に位置する人が絶対的に正しいとされる。反対に、想像系(論理的思考)の場合は、合理性や整合性のある理論によって導かれる結論が、正しいということになる。この2つの領域に、妥協の余地はないように思います。

 

では、身体系と物質系はどうか。こちらは、左程、対立しない。例えば、物質系の人が楽器を作る。そして、身体系の人がそれを演奏する。物質系の人がおいしい料理を作って、皆がそれを食べる。どうも物質系の人は、誰とでもうまくやっていけそうです。

 

2.個人の心的領域

 

一人の人間の心の中を覗いて見ると、そこにも領域がある。そして、その領域は、一つとは限らない。いくつかの領域にまたがっていると考えた方が良いと思います。例えばある人は、時には音楽を楽しみ(身体系)、時には小説を読む(想像系)。気が向くと料理を作り(物質系)、会社に行けば序列闘争(競争系)に明け暮れる。そういうものではないでしょうか。しかし、私たちが持っているお金には限度がある。買い物をしようとする時、何かを選択し、何かを諦めなくてはならない。例えば、財布の中に3千円入っていたとして、本を買うかCDを買うか、決めなくてはならない。生活の中で自由になる時間にも、限度がある。限られた時間の中で何をするか、決めなくてはならない。そういう限定的な条件の中で、優先される心的な領域というものがある。これを以後、「優先領域」と呼ぶことにします。

 

そしてこの「優先領域」は、年令や環境、人との出会い、何かのきっかけなどによって、変化する。

 

例えば、暴走族(競争系)に入って暴走行為を繰り返していた少年が、ひょんなことから2級整備士の資格(物質系)を取得する。そして、彼の心の中で、物質系の領域が成長していく。

 

例えば、記号系の“空っぽ症候群”に陥っている少女がいる。彼女は、ゲームばかりやっていて、読むのはマンガだけだ。引き籠っていて、仕事はしていない。そしてある日、コスプレに興味を持ち、自らの身体を記号化し、そういう大会に参加してみる。そこで、ある少年と出会い、恋に落ちる。すると彼女の心の中で、身体系の領域が成長し始める。

 

もう少し複雑な例で、ジョン・レノンについて考えてみます。

 

まだ若かったビートルズの4人は、才能があるとは言え、ラブ・ソングばかりを歌い、恋をしていた。ジョージ・ハリソンがインドの宗教家に興味を持ったことに端を発し、最初の転機が訪れる。ジョージはインドの楽器、シタールを弾き、ビートルズの音楽はその幅を広げる。しかし、彼らが慕ったインドの宗教家がセクハラ事件を起こし、彼らは失望する。そんなこともあって、ポール・マッカートニーは音楽、すなわち身体系のメンタリティに固執するようになる。一方、ジョンの前にはヨーコが現れる。そもそも、ヨーコは前衛芸術家だった。彼女がしていたのは、時間と空間を融合させようとする試みだったのではないか。例えば、当時ヨーコは、ある空間を設定し、そこに自らの身体を置く。そして、観客に自分の服を切らせるというシュールなアクトを展開していた。ジョンの心は、これに反応した。2人は結婚し、ベッドインを敢行する。ホテルの部屋に一週間立てこもり、ベッドに入ったジョンとヨーコが記者会見を開き、反戦歌(Give Peace a Chance)を歌うというものだった。これは、身体系、想像系、物質系の3領域を融合させるものだった。現代人には理解することが困難な、融即律(未開の直観)に基づく行動だった。

 

身体系・・・ベッドが象徴する性的な関係。
想像系・・・ベトナム戦争に反対するという平和主義。反戦歌。
物質系・・・ホテルの一室という空間。

 

更に、ジョンとヨーコは、世界各国の政治的指導者にドングリ(物質系)を送ったりした。

 

ジョンの心的領域は、身体系から一挙に想像系と物質系に拡大したに違いない。一方、ポールはあくまでも身体系(音楽)の領域に留まろうとした。これが、ビートルズ解散の本質だと思うのです。

 

やはり、「文化とメンタリティの関係図」は、人間が生きている世界そのものを表わしている。そこには、私たちが生きている外界が記され、私たちの心の領域が示され、それらの結節点としての文化がある。これで全部なのか? 他の領域はないのか? という疑問の声が聞こえてきそうですね。しかし私は、これで全部だと思います。仮にロケットに乗って、宇宙に飛び出したとしても、この関係図の外に出ることはできません。宇宙と言ってもそこには時間と空間しかなく、人間は自らの身体を起点として、それらを認識しているに過ぎない。とても曖昧で、頼りなく、どこに行けばいいという普遍的な回答というものは、この図の中に示されていません。どこを目指せばいいのか、その答えは人それぞれに異なっているのだろうと思います。

 

この章 続く

No. 208 第9章: 心的領域論(その1)

 

1.概略

 

経験がメンタリティを生み、メンタリティが文化を誕生させる。すると、メンタリティというものは目に見えないけれども、人間の行動や文化的遺産などを観察することによって、その特質を推し測ることが可能である。そして、文化に5つの領域があるのだから、メンタリティにもそれらに対応した領域があるに違いない。これが、これから述べる心的領域論の前提です。

 

脳科学という学問はあります。そして、脳のどの箇所が、どういう働きをしているのか、それはある程度分かってきたようです。怪我などによって脳の一部が損傷すると、負傷者の行動に支障が出るからです。例えば、言語機能が低下する。すると、脳の損傷を受けた箇所が言語機能を司っていたことが分かる。しかし脳の仕組みや働きについて、本質的には、まだ何も分かっていない。

 

このブログでも人口知能の問題を取り上げたことがあります。技術者たちは、人口知能がいずれ人間の能力を超える。そういう臨界点、すなわちシンギュラリティが起こると言っています。一時期、この推測に私も愕然としたものです。しかし、例えば計算機能であれば、電卓だって、既に私の能力をはるかに超えている。このように一部の機能面においては、既にコンピューターが人間の能力を超えてはいるものの、人間のメンタリティの多様性、複雑さ、曖昧さについて、人口知能が再現できるとは思えません。人間には個性があり、喜怒哀楽がある。そして、人間のメンタリティは、新たな文化を生み出すというとてつもない能力を持っている。そういうメンタリティをコンピューターが再現できるとは、とても思えないのです。

 

さて、概略を説明させていただくには、前々回の原稿に添付した図を用いるのが良いと思います。同じものを再度、掲載させていただきます。

 

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まず、記号系は全ての領域に関連しているので、中央に記載しました。そして、身体系との記載の下に「現在」と書いてあります。これは、リズムについて検討した際、それは“現在”という時間を共有するための手段であるという発見があった。同じリズムに合わせて体を動かす、すなわち踊ることによって、共感が生まれる。そこに身体系の本質がある。そのように考えますと、身体系というのはどこまで行っても、「現在」に関わっていることが分かる。例えば、人は“会話”する。それを楽しむ人たちがいる。これも身体系だと思います。すなわち、口から発した言葉というのは、あくまでも瞬間のものであって、すぐに消えてしまう。その瞬間を共有している者だけが、それを理解できる。

 

次に想像系という記載の下に「過去」と書いてあります。そもそも、人間とは何を想像するのか、という問題がある。それは、少なくとも「現在」の出来事ではない。多くの場合、人は「過去」の出来事を想像している。私たちの祖先は、何者だったのか。例えば、ジョン・レノンは何を考えていたのか。ゴッホは何故、自殺したのか。全て、「過去」のことです。そして、この想像系の文化なりメンタリティというものは、文字によって記録されている。若しくは、絵画によって表現されている。稀に、「未来」を想像する人たちもいる。SF小説とか、近未来小説というものがある。これらも想像系という領域に含めて良いと思います。

 

物質系という記載の下には「空間」と書いてあります。物質系の文化については、機能、呪術、空間表現、象徴の4種類を挙げました。確かに、4種類ある。いや、もっとあるかも知れません。ただ、ここで私が注目したのは、「空間表現」なんです。全ての物質は、空間の中に存在していて、それは直接的には時間から切り離されている。ところで、人はどういう時に、空間を感じるでしょうか。それは、ピラミッドのような大きな物を見た時。もう一つは、建物の中に入った時ではないでしょうか。例えば、ヨーロッパの寺院や高級ホテルのロビーなど、広い空間の中に身を置いた時、人は空間を感じる。補足的に言いますと、人が大きな物を作るのは、空間を感じるためであって、小さな物、すなわちミニチュアを作るのは、「象徴」を目的としているように思います。

 

このような切り口で見た場合、人間のメンタリティは、文化を通じて、時間と空間を認識していることが分かる。

 

身体系・・・現在
想像系・・・過去(未来)
物質系・・・空間

 

記号系に上記3つの領域を加えますと、これで時間と空間を認識するという目的が達成されます。競争系は、不要である。私が、競争系を異端であると考える理由が、ここにあります。

 

記号系は除外して、図を上半分と下半分に分けて考えてみましょう。上半分、すなわち身体系と想像系は、融和的であることになります。身体系は共感を求める。想像系は、平和主義へとつながる。だから、融和的だということです。反対に、下半分の競争系は、他の集団と戦い、勝利しようとする。同じ集団の中では、序列闘争がある。これは支配的だと思います。また物質系にしても、森林を伐採し、石を切り出し、動物を殺し、食べる。こちらも支配的だと思うのです。

 

ところで、民族学者の折口信夫が面白いことを言っています。以下、引用。

 

折口は、人間の持つ比較の能力を、「類似点を直観する」ような「類化性能」と「咄嗟に差異点を感ずる」ような「別化性能」に分けている。そのうち、類化性能とは、表面的には違っているもののあいだに共通性や同質性を見出すような思考方法であり、他方で、別化性能とは、差異を基礎にして組み立てられる、A≠非Aという科学思考のベースにあるアリストテレス原理を含む思考方法のことである。折口にとって古代人の心は類化性能によって組み立てられていたのである。

 

参考文献:文化人類学放送大学教材/内堀基光 奥野克己/2014

 

この考え方を当てはめてみますと、私が融和的だとしている身体系と想像系のメンタリティは、類似点を見出そうとする類化性能であって、反対に競争系と物質系は、別化性能に基づくものと言えそうです。

 

今度は、上図を左右に分けて見てみましょう。左に記載した身体系と競争系は、集団的(依存的)ということになります。まず、身体系は他人との間に、共感を求める。歌う、踊る、着飾る、加えておしゃべりをするというのは、いずれも他人の存在を前提としています。すなわち、他人に依存している。多くの場合、他人とは人間の集団を意味している。とにかく、集まって、現在という時間を共有するんです。また、競争系のメンタリティも、まず、帰属集団ありき、ということになります。集団に帰属するから、その内部での序列という問題が出て来る。こちらも、集団に依存しています。

 

反対に、右半分を見てみましょう。想像系というのは、個人的なメンタリティだと言えます。まず、個人の頭の中で、何かを想像する。想像したことを文字や絵画に表わすという行為も、個人的な行動です。書かれた文字や絵画を読んだり見たりするという行為も、個人的なレベルで完結します。そこに集団的な要素はありません。物質系につきましても、機能や呪術は、病気を治したいとか恨みを晴らしたいなど、個人的な目的を持っています。また、自分一人がいれば、空間を認識したり、物に何かの象徴を感じたりすることができます。よって、想像系と物質系は個人的な営みであり、他人や集団に依存することがありません。すなわち、自律的だということになります。

 

この章 続く

No. 207 第8章: 単一系の文化と複合系の文化

先日、YouTubeでアフリカの画像を見たのですが、これには驚きました。道端に100人位の人々が集まって、輪になっている。正面には数人の男たちが座っていて、ジャンベなどの打楽器を打ち鳴らしている。輪の中心は直径10メートル位の空白地帯になっていて、そこに順番で人々が出て来て、ひたすら踊るんです。全身を使って、それは激しく踊りまくる。疲れてしまうということもあるのだろうと思いますが、1~2分もすると踊り手は、観衆の中に引っ込む。それと同時に別の人が登場し、踊り始める。踊りの型というのは、あまり決まってないようです。中には、バク転や前方宙返りだけをして、観衆の中に消えて行く人もいる。男も女も踊っていて、中には白人もいました。子供の踊り手もいる。そして、そんなことが、30分位は延々と続くんです。音楽と言っても、打楽器だけなんです。歌はない。和音もない。ひたすら激しいリズムだけがあって、そして、人々が踊る。これはどうやら、音楽の起源がそのまま現代まで継承されている。そう思いました。そして、こういう文化というのは、純粋に身体系だと思うのです。他の要素は見受けられない。

 

記号系であれば、花火、イラスト、レタリングなど、記号系単独で成立している文化があります。想像系であれば、小説や法律というものがある。こちらは、文字だけです。単一系で物質系の文化ということであれば、日本庭園だとか水石というものがある。食文化にしても、原則として、純粋な物質系だと思います。

 

では、競争系はどうか。ここで私は、少し困ってしまったのです。先の原稿(No. 201~No. 202)で、競争系については詳細に検討したつもりなのですが、では、競争系の文化の中で、純粋にそれだけで成立しているものはあるのか、ということです。競争系に基づく人間の行動やメンタリティは、確実に存在している。その典型は戦争です。しかし、戦争を文化と呼ぶ訳にはいかない。序列を誇示するマウンティングや、イジメという問題もある。しかし、これらも文化とは呼べない。してみると、競争系の文化とは、スポーツということになる。運動会、ワールドカップ、オリンピック、大相撲など。これらの催しを文化と呼んで差し障りはないと思います。敵と味方を識別して、集団で戦う。若しくは、同一集団の中で序列や順位を決める。しかし、これらの文化は、単独では成立し得ないのではないでしょうか。例えば、サッカーであれば、スタジアムの中で行う。スタジアムというのは、物質系の中の“空間表現”に該当すると思うのです。大相撲には土俵があり、その起源は神事だった。こちらも競争系ではあるものの、単一系とは言えない。

 

やはり、文化やメンタリティの領域ということを考えますと、“競争系”は異端であると言わざるを得ません。他の領域には、それだけで成立する単一系の文化が存在するのに対し、“競争系”は、単独では成立し得ない。詳細は次章で検討致しますが、文化は時間と空間に密接に関係している。そして、時間と空間については、身体系、想像系、物質系の3領域によって、カバーされている。だから、競争系というのは、元来、文化として存在しなくても良い領域なのではないか。若しくは、競争系とは文化が抱える自己矛盾であるとも言えそうです。

 

次に、複合系の文化ですが、こちらは枚挙にいとまがありません。例えば、さんさ踊りには、次のような説話があります。

 

「昔、鬼が人里に降りて来て、悪さをしていた。困った村人は、神様に鬼の退治をお願いした。神様は鬼を懲らしめた。そして、もう2度と悪さをしないように誓わせ、その証として、岩に手形を押させた。鬼は村を去った。喜んだ村人たちは、その岩を取り囲み、神様に楽しんでもらうため、踊りを披露した。これがさんさ踊りの起源である。そしてこの地は、以後、岩に手形、すなわち岩手と名付けられた。」

 

物語的思考ですが、なんとなく、そうだったのかと腑に落ちてしまいます。これが想像系で、さんさ踊り自体は、身体系ということになります。

 

毎週末、国会議事堂の近くで、反原発の抗議行動が行われています。参加者の多くは、プラカードを持っています。これが、記号系です。野党の議員や学者が、何故、原発に反対するのか、スピーチを行います。これが想像系(論理的思考)です。リーダーの掛け声に合わせて、「原発反対!」「再稼働反対!」などとシュプレヒコール繰り返します。これが身体系です。そして、原発を推進する政府の象徴としての国会議事堂がある。これが物質系です。

 

やはり、単一系の文化よりも複合系の文化の方が、ダイナミズムがある。単純なロックンロール(身体系)よりも、そこに反ベトナム戦争などのメッセージ(想像系)が込められていた方が、より心に響く。

 

身近なところで、ファッションという文化もあります。人は、どういう服を着るのか。これにも何種類かの理由がありそうです。まず、機能を求める。暖かいとか、丈夫だという理由で、人は服を選ぶ。これは物質系(機能)です。次に、飲食店の従業員が同じユニフォームを着る、という例もあります。これは、一般の顧客と区別するためですね。すなわち、記号系ということになります。更に、例えばさんさ踊りの踊り手が皆、同じ着物を着ている。これは、共感を求める身体系だと思います。

 

そう言えば、ある地方都市の「成人式」の様子をYouTubeで見たことがあります。その派手なと言いますか、ケバケバしい服装には驚きました。茶髪どころか、髪をピンクや緑色に染めている若者までいる。彼らは、自らの身体を記号化しているですね。すなわち、友人たちに自分を認知してもらいたいと思っている。友達と共感したいと思っている。すなわち、それだけ彼らにとっては、友達が大事だということなんですね。かわいいもんです。

 

この章 終わり

No. 206 第7章: 想像系

1.アニミズム

 

まだ、文字を持つ前の人々には、分からないことだらけだった。例えば、地震、雷鳴、台風、日照りなどの自然現象が何故、起こるのか。それどころか、何故、一日には昼と夜があるのか。1年には何故、夏と冬があるのか。そして、人は何故死ぬのか。死とは何か。この問いに答えられる人はいなかったのだろうと思います。そこで、人々は、これらの得体の知れない現象に対し、頭を垂れるしかなかった。そして、霊魂だとか神様だとか、そういう自分たちよりも上位に存在する何者かの存在を想定したのだと思います。この漠然とした畏怖の感覚。これが、アニミズムだと思います。

 

2.融即律

 

融即律というのは、文化人類学の用語で、参考文献には、次のように説明されています。

 

「“融即”とは、原初の人間が持っていた心性のことである。(中略)レヴィ=ブリュルは、人間が動植物と同一視されるのは融即律に基づくものであり、それは前論理的な未開心性であると説いた。」

参考文献: 改訂新版 文化人類学放送大学教育振興会/2014

 

確かに、人間と動物が会話するという神話や童話は、世界中にあるようです。北米の先住民族においては、個人単位で守護霊となる動物が決められている。そして彼らは、自らの守護霊となっている動物は、食べない。

 

「我々の祖先はバナナである」と言って、以後、バナナを食べることを禁じたイワム族のバナナ村長の話なども、同じです。

 

最初は誰かが、直観に基づいて、とんでもないことを言い出す。この直観が、宗教や芸術を生み出す原動力となってきたのだと思います。“未開の直観”と言った方が、分かり易いかも知れません。

 

3.物語的思考

 

“未開の直観”は個人的なものですが、それがやがて集団によって共有されていく。そういうプロセスがあるのだろうと思います。そして、“未開の直観”は地域的に広がり、世代を超えて伝承されていく。このように当初は口頭で伝承された物語が、神話や童話となる。例えば、日本の「桃太郎」や「鶴の恩返し」には地域的な広がりがあるし、いくつものバージョンがあります。

 

神話によって人々は、自然現象や人間の死を理解してきた。そこには人間の無意識が絡んでいて、神話には人を癒す力がある。

 

神話には合理的、論理的な根拠はありませんが、それは物事の因果関係などを説明するもので、一つの思考形態だと言って良いと思うのです。そこで、私は“物語的思考”という言葉を用いています。

 

4.論理的思考

 

庶民の間で自然に発生した神話は、科学にとって代わられたのではないでしょうか。今どき雷が鳴って「雲の上で雷様がタイコを叩いている」と考える人はいないと思います。

 

ただ、物語的思考を意図的に操作してきた人たちもいます。時の権力者ですね。大体、欧州の王権にしても、北朝鮮にしても、権力というのは世襲制なんですね。すると、その権力の正当性を庶民に納得させるために、権力者が、若しくは権力に擦り寄ろうとする者が、物語を作る。やがて、権力者側が作った物語の嘘を、見抜こうとする人々が現れる。

 

先鞭を付けたのは、哲学者だったのだろうと思います。そして、言語学、論理学、社会学法律学政治学、経済学など、論理的に思考するという文化が根付いた。

 

ただ、論理的に思考すると言っても、例えば1+1=2のように、単純に割り切れる問題は少ない。むしろ人権侵害という歴史的な事実があって、そこから想像力を働かせる。侵害を受けた人はどれだけ苦しかっただろうとか、加害者は何故、そのような行為を働いたのだろうとか、想像する。そこから、人権尊重という論理的な帰結が得られるのだろうと思います。

 

論理とは何かという問題もあります。もちろん、パースのアブダクションなど、複雑な説もあります。ただ、論理と言っても、大切なことは想像力と言葉ではないでしょうか。その意味で、論理的な思考というものも、歴史的には、アニミズムからずっと繋がっているのだと思います。


さて、記号系から始めて、競争系、身体系、物質系、想像系と5つの領域が出揃いました。では、これら5つの領域は、どういう関係にあるのでしょうか。図にしてみました。

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この図については、第9章で解説させていただきますが、いかがでしょうか。各領域は、時には互いに協調し合い、また、ある場面では激しく対立している。そういう関係にあることが分かります。それにしても、人間って、こういう世界に生きていたんですね。

 

この章、終わり

No. 205 第6章: 物質系

 1.機能

 

私たちの生活の主たる部分は、“物”を利用することによって、成り立っています。物の機能を引き出す。食物などは、その代表例だと思います。肉や魚が持っている栄養分を、私たちは食べることによって吸収している。そして、物に機能を付与する。ボールペンにしても電卓にしても、機能が付与されている。

 

食料を保存できなかった時代、人々は、狩猟によって得た獲物の肉をその場で食べていたはずです。また、子供や弱者の生命を維持するため、獲物はある程度、平等に分配されていた。原始共産制ですね。やがて人間は、農耕、牧畜を始め、定住するようになった。また、肉を干す、燻製にするなど、食料の保存の仕方が分かってくる。すると、それらの食料は他の集落の人と交換できるようになる。そして、物の交易が始まる。更に、貨幣という記号が発明され、交易は活発化する。これが、経済だと思います。

 

人々は、とにかく知恵を絞って、物に働きかけた。そして、物や自然が持っている利用価値を発見すると共に、新たな物を発明してきた。この働きが、やがて科学を生む。

 

このように考えますと、経済も科学も、その根っこには文化があるのであって、文化には反対概念というものが存在しない。最近、私はそう考えるようになりました。

 

この物を利用する、物の機能を引き出すという文化は、新たな欲望を掻き立てて来た。より便利な物、より快適な環境を求め、人間は山を切り崩し、海に廃棄物を捨て、空気を汚染してきた。その何者をも恐れない態度は、傍若無人としか言いようがありません。そして、農耕、牧畜を主目的として形成されていた村落とは別に、経済効率を目的として、人々は都市の建設に着手する。そこでは、寸分の隙間も許さない程、コンクリートのビルディングが建設され、路面は全てアスファルトで覆われた。排除されたのは、他の動物であり、植物であり、自然そのものだと思います。このような人間の振る舞いを支えて来たのは、あたかも力づくで環境を支配しようとするメンタリティだったと言わざるを得ません。

 

また、私有財産制が一般化したこともあり、機能を利用する物の文化の特徴は、個人的であると言えそうです。この点、集団的な文化である“競争系”や“身体系”とは、明らかに異なっています。

 

2.呪術

 

物が持っている本来の機能とは離れて、物に願いを込めるという類型があります。これが呪術です。(呪術については、このブログのNo. 12~No. 15に記載)呪術には、人の不幸を願う黒呪術と、自分の幸福を願う白呪術があります。前者の代表例は呪いの藁人形で、後者の例としては木札に願いを込める“お守り”などがあります。

 

ここでは、薬について考えてみます。現代のように医薬品が発達していなかった時代は、大変だったと思うのです。例えば、虫歯になる。これはもう痛くて仕方がない。我慢するにも程がある。こういう時は、それこそ藁にもすがりたくなる。すると、あの草が痛み止めに効くのではないかとか、こういう呪文を唱えてみたらどうだろうと、それはもうありとあらゆる手立てを考える訳です。呪文の方は、効き目はありません。しかし、手あたり次第に草を患部に当ててみたり、煎じて飲んだりしていると、まぐれ当たりする場合がある。そういう事例を集約すると、漢方薬というものが生まれる。何故効くのか、理由は分からない。ただ、経験的に効果のあることが分かってくる。こう考えますと、呪術を馬鹿にする訳にもいきません。

 

兵馬俑(へいばよう)と呼ばれる秦の始皇帝のお墓には、皇帝があの世に行っても困らないようにとの願いから、土で作った従者や馬などが大量に埋められています。その発掘は今でも続いているようです。写真で見る限り、その従者の姿というのは、日本の埴輪に似ている。埴輪も同じような目的で、偉い人のお墓に埋められていたようです。これなども、呪術の一種だと言えると思います。

 

3.空間表現

 

人は昔から、物を使って空間を表現してきたのではないか。例えば、エジプトのピラミッド。これも王様のお墓です。一説によると、当時のエジプトには農閑期があった。その間、農民の収入源が断たれてしまう。そこで、為政者がピラミッドの建設を思いつく。建設作業に従事した農民には、給料が支払われた。だから、農民たちは喜んでピラミッドの建設に協力した、というものです。

 

ピラミッドの建設には、上記の通り、経済的な理由があったのかも知れない。また、お墓ということであれば、呪術的な理由もあったに違いありません。(ピラミッドという物に、王様のあの世での幸せを願う)それはそうだと思うのですが、しかし、いずれの理由も、ピラミッドをあそこまで大きくする理由にはならないと思うのです。仕事量を確保するのであれば、複数のピラミッドを作れば良い訳で、事実、ピラミッドは複数存在しますし、近くにはスフィンクスの像だって建っている。巨大なピラミッドを建造した本当の理由は、そうすることによって、空間というものを表現したかったのではないか。巨大なピラミッドを目前にすれば、その巨大さを実感すると共に、それよりも更に広大な空間というものを認識することができる。

 

人間には、どうも巨大なものを作りたがる習性がある。古代のギリシャ人は巨大な劇場を作った。日本人は、奈良に大仏を作った。いずれの場合も、空間を認識するという隠された意図があったのではないか。

 

身近な例もあります。例えば、公園にあるジャングルジム。その中で遊ぶことによって、子供たちは空間を認識する。

 

4.象徴

 

ピラミッドとは反対に、人間には小さなものを作るという文化があります。分かり易い所では、盆栽がある。言うまでもなく、これは大自然の中で長い時間を掛けて成長した大木のミニチュアです。すなわち盆栽は、自然の大木を“象徴”している。

 

日本庭園という文化も、素晴らしいと思います。こちらも大自然のミニチュア版だと思いますが、本物の大自然というのは、なかなか手が届かない。そこでミニチュアを作る。ミニチュアだから、触ってみることも、ゆっくり眺めることも、いろいろ想像をふくらませて楽しむこともできる。そして、私たちのメンタリティは、大自然とつながっていく。

 

多くの場合、日本庭園には立派な岩がある。この岩という“物”も何かを象徴している。それは、大自然であるとも言えるし、地球を象徴しているとも言えそうな気がします。まさに、岩とか石は、地球の一部分だと思うのです。そして、地球には我々の想像を超える程長い、46億年という歴史がある。

 

温泉大国日本ならではの文化として、岩風呂を挙げることができます。温泉の湯船の縁辺りに、大きな岩が配されている。そんな岩を見て、触って、私たち日本人は心の安らぎを得てきた。

 

(この章のまとめ)

 

一口に“物質系”と言っても、それは自然を征服するかのような“機能”に関わるものから、自然との共生を目指す“象徴”に関わるものまであります。言うまでもなく、現代社会は“機能”を優先していますが、そこに人間の幸福があるのか、私には疑問です。むしろ、現代社会が忘れかけている“象徴”に関わる文化にこそ、大切にすべき何かが秘められているのではないでしょうか。

 

晩年、日本を訪れたレヴィ=ストロースは、棚田を見て感動したそうです。そこに彼は、自然と調和しながら暮らしている日本人の奥ゆかしさを見たのでしょう。

 

この章 終わり

No. 204 第5章: 身体系(その2)

 

3.打楽器とリズム

 

前回の原稿を書いた頃から、すっかり“和太鼓”に魅せられてしまいました。どうやら、和太鼓というのは、大木の幹をくり抜いて作るらしい。そして、牛皮を貼る。だから、金属が醸し出す硬質な音とは違って、深みのある優しい音が生まれる。その音は、一瞬で消える。だから、和太鼓の音色というのは愛おしい。

 

和太鼓という楽器は、その昔、大陸から日本に伝達されたようです。そして、日本で“和太鼓”という文化に成長し、今では日本から世界各地にその文化が伝えられている。例えば、日本の和太鼓集団が、海外で演奏する。それはコンサートホールであったり、路上だったりする訳ですが、いずれの場合でも海外の聴衆はその迫力に魅了され、拍手喝采を惜しまない。打楽器の音色やそれらが叩き出すリズムの魅力というのは、いとも簡単に国境を超える。

 

YouTubeに、海外の少女が和太鼓について解説している動画がありました。英語なんですが、専門用語のDon Dokoとは何かとか、そういうことを一生懸命説明している。打った後には、腕を真っ直ぐ上に上げろとか、どうやら彼女は和太鼓の流儀にも精通しているらしい。これはもう、日本発の世界的な文化に昇華している。そう思うと、ちょっと嬉しくなりました。

 

和太鼓の特徴の一つは、複数の人間が協力して、同じリズムを作り上げる点にあると思います。例えば、ジャズのドラマーだったら、1人でアドリブ演奏を繰り広げる。他方、和太鼓の方は、複数の人間が一糸乱れず、譜面通りの音を叩き出す。ただ、同じような打楽器集団が、アフリカにもある。複数の人間が協力して、一つのリズムを創り出している。これはちょっと、似ていると思いました。アフリカ出身のパーカッショニストと日本の和太鼓奏者が共演するという、大変興味深い動画もありました。

 

リズムって、何だろう? 哲学者や心理学者は、もっとこの大問題に取り組むべきではないのか。

 

4.肉体を誇示する人々

 

ところで、“身体系”の文化やそのメンタリティについて考えておりますと、どうも肉体を誇示する人たちが沢山いるような気がしてなりません。

 

例えば、浅草の三社祭。普段は刺青を隠して暮らしている人たちが、年に1度のこの日だけはもろ肌を脱いで、刺青を誇示する。観光客がカメラを向けると、気軽に撮影に応じる。男性も女性も同じです。どうやら、彼らは刺青を入れた自分の体を見てもらいたいと思っているようです。

 

リオのカーニバルは有名ですが、最近は日本国内でもサンバ・カーニバルが盛んに開催されているようです。これらカーニバルにおける女性の出で立ちというのは、ちょっと理解を超える位に露出している。

 

神輿を担ぐ男性や和太鼓奏者などの中にも、フンドシ一丁になる人は少なくありません。彼らも、肉体を誇示しているように見えます。

 

AKB48はミニスカートだし、ポップシンガーのマドンナやレディ・ガガなども、ステージで服を脱ぎたがる。

 

もし、自分の肉体にコンプレックスを持っていたとしたら、彼らは人前で脱いだりしないのではないか。むしろ、彼らは自らの肉体を愛しているから、それを誇示するのではないでしょうか。

 

5.人は何故踊るのか

 

人が踊るのには、いくつかの理由があると思います。戦さの前に士気を高める、という場合もあります。これは“競争系”の踊りですね。また、神話などに従って、神様に楽しんでもらう、願いを込めて踊る、という場合もあるでしょう。これは、“想像系”の踊りです。しかし、これらの場合を含め、人間には踊りたいという根源的な願望があるのではないか。

 

確かに、性的な意味合いもあるでしょう。実際、ミュージシャンやダンサー程、異性にモテる商売はない。クジャクの例を出すまでもなく、動物が歌ったり、踊ったり、美しく進化するのは、異性を惹きつけるためです。しかし、人間の場合、理由は他にもあるのではないか。例えば、日本にはヒョットコのお面を付けて踊るという文化がありますが、この場合、性的な意味合いというのは想定できません。

 

まず、自分の肉体に対する愛着というものがある。これが出発点ではないでしょうか。刺青を入れたり、着飾ったり、まず自分の肉体を記号化し、そして、外界との関係を構築しようと努める。そして、人間には動物が持っていない打楽器とリズムというものがある。これは、時間と空間を象徴しているのではないか。まず、打楽器が奏でる瞬間的な音というのは、過去と未来の境界点である“現在”を象徴している。そして、音というのは無限に伝わるものではない。ある範囲内の場所においてしか、聞こえない。だから、打楽器の奏でるリズムに合わせて踊るということは、人々が肉体を通して、時間と空間を共有するための手段だと言えるのではないか。言うまでもなく、そこから“共感”が生まれる。私は誰かを見ている。そして、誰かが私を見ている。同じ時間と空間の中に人々がいる。だから、楽しい。

 

これが、“身体系”の文化とメンタリティの本質だと思います。そもそも、共感を得ようとするのが“身体系”なので、ミュージシャンやダンサーには、平和主義者が多い。

 

私は、“競争系”について、辛口の批判を述べました。対して、“身体系”については、肯定的な見方をしています。しかし、“身体系”の文化やメンタリティを手放しで肯定している訳ではありません。何故なら、リズムに陶酔すること、歌や踊りに興じるということは、その間、思考を停止することになるからです。思考を停止するから共感が生まれるのだ、という見方もできますし、実際、その通りだと思います。しかし、思考するのもまた、人間の本質だと思うのです。

 

この章、終わり

No. 203 第5章: 身体系(その1)

 

1.“身体系”文化の起源

 

身体系の文化は、動物を真似る所から始まった。この点は、多分、間違いないと思います。今回調べてみて、祇園だとか浅草には鳥のサギの格好をして踊るという風習のあることが分かりました。動物の姿を真似て着飾る。動物の動きを真似て踊る。

 

但し、歌の起源については諸説あるようで、説得力のある仮説を提示することはできません。歌の起源を考える場合、それよりも前にあったであろう“言葉”について検討する必要があると思うのです。しかし未だに、言葉の起源を説明できる定説というのは、ないようです。

 

小鳥のさえずりから、言語の起源を研究している学者は、「歌と踊りの起源は、性的なアピールである」と述べておられます。確かに、人間がサルだった頃まで遡れば、その意見は正しいのでしょう。しかし、長い時間をかけて育まれてきた文化という観点から見れば、事情はもう少し複雑だと思うのです。

 

ところで、音楽の3大要素というのを習った記憶があります。すなわち、旋律(メロディー)、和音、リズムの3つである。しかし、伝統的な祭りや踊りの光景をYouTubeで見ておりますと、疑問が沸いて来るのです。無文字社会の人々の踊り、リオのカーニバル、日本の伝統的な踊りなどを見ますと、そこに和音はほとんど用いられていないことが分かります。また、日本の踊りでは横笛が旋律を奏でますが、全体的に見れば、これはその場に華やかさを付与するための付属的な役割を果たしているに過ぎない。役割の大きさからすれば、圧倒的にリズムが重要なんです。

 

日本の伝統的な楽器の中で、一度に複数の音を出して、すなわち和音を表現できる楽器というのは、存在するのでしょうか? 横笛、尺八、太鼓、三味線。どれも和音を表現することはできません。

 

そもそも、和音という概念は、とても複雑なものです。まず、1オクターブ上の音と下の音を特定する。そして、その間を分割し、合う音と合わない音を識別する。例えば、ド、ミ、ソの3つの音は合う。そういうことが分かってくる。そして、ドミソという和音が誕生する。この和音という概念があるから、それを奏でることのできる楽器、すなわちピアノ、オルガン、ギターなどが開発されたのではないでしょうか。全て、西洋の楽器ですね。調べてみますと、和音を多用するクラシック音楽の起源は6世紀頃だそうです。してみると、この和音という概念の歴史も、千数百年程度しかないことになります。

 

やはり起源ということを考えますと、記号としての動物が“誘因”となり、その姿形を真似てみる。これがファッションですね。そして、人間は踊り始めた。しかし、踊るためにはリズムが必要だった。と言うよりは、むしろ踊るために必要な要素とは、リズムだけだったのではないか。

 

祭りを開催して踊る人々は、必ずリズムと打楽器に関する文化を持っている。私は長年、リズムに関してはアフリカとラテンにはかなわないと思ってきました。しかし、日本にも“和太鼓”というりっぱな文化がある。そして、和太鼓の奏でる強烈なリズムが、日本の祭りを根底から支えてきたに違いないと思うのです。

 

2.競わない集団

 

祭りという伝統文化は、日本の各地にあって、その種類もいくつかあるようです。戦う祭り、というのもある。一般に、男祭りとか、喧嘩祭りと呼ばれるものですね。喧嘩神輿というものまである。これは、あたかもカブトムシのように神輿に角を生やせて、他の神輿と戦うんです。相手の神輿の角を折った方が勝ち、ということになります。こういう祭りでは、興奮した男たちが、思い余って喧嘩を始めたりする。私流の言い方をしますと、これらの祭りは“競争系”ということになります。

 

他方、神輿ではなく、踊りを中心とした祭りも多数存在します。有名な所では、阿波踊り、花笠踊り、さんさ踊りなどがありますが、その流派まで含めますと、もう無数にそういう集団がある。これにはちょっと驚きました。そして、踊りを中心とした集団というのは、戦わない、競わない、序列を決めない。これはもう、“競争系”のメンタリティを真っ向から否定しているように見えます。YouTubeさんさ踊りの光景を見ていましたら、「ミスさんさ踊り」というタスキを掛けた女性が出て来ました。やはり、この世界にも競争があるのかと思って、ちょっとがっかりしたのですが、よく見ると踊っている女性は皆、「ミスさんさ踊り」というタスキを掛けている。その後ろに数十人のタイコ隊がいるのですが、こちらも全員がタイコの腹に「ミス太鼓」と書かれた布を巻き付けている。何か「皆が一等賞」という感じがして、嬉しくなりました。それでいいと思うんです。

 

阿波踊りには、踊り方の基本形があって、そこに創意工夫を凝らした変形バージョンもあるようです。どの形で踊るかというのは、グループ毎に決めているようです。このグループも沢山あって、例えば「阿呆連」とか「〇〇連」という名称が付されているようです。ちなみに「阿呆連」という名前は、「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿保なら、踊らにゃソンソン」から来ているのでしょう。

 

阿波踊りを見ておりますと面白いのですが、踊り方はそれ程、難しくないように思えます。私でも1時間も習えば、そこそこ踊れるのではないか。そこが、この身体系文化の魅力なんだと思います。ハードルは高くない。やる気になれば、誰でも参加できる。このタイプの集団は、開放的なんですね。実際、外国からの留学生が、踊りに参加している例もありました。

 

阿波踊りの動画を見ておりますと、〇〇連の人たちが、大通りを踊りながら行進してくる。それはもう、統率が取れていて、迫力満点です。しかし、その後ろには別のグループが続いている。通りの両脇は、見物人で溢れかえっている。私はふと、エチオピアの山岳地帯で、何の争いもなく合流して行ったゲラダヒヒのことを思い出しました。○○連がハードだとすると、そこにいた全ての人々が、マルチ・ハードということになります。そして、誰も戦わない。競わない。序列を付けない。

 

集団的であるという側面を取り上げますと、“競争系”も“身体系”も同じです。しかし、その内実は真っ向から対立している。ここら辺が、文化の懐の深さではないでしょうか。

 

この章 続く。