文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 221 第13章: ポピュラー音楽の潮流(その1)

 

文化は伝播し、融合することによって進化しますが、それがどのようなステップによるのか。この点を考えるには、音楽、特に人々の人気をビビッドに反映するポピュラー音楽を中心に考えると、分かり易いと思うのです。

 

この分野においては、世界中で、日々無数の新人がデビューし、そして消えていく。そこに働いているのは、記号原理だと思います。すなわち、まず記号鮮度という問題がある。人々はひたすら新しい刺激を求めている。そして、記号強度。すなわち、人々はより強い刺激を求めている。そんな世界には、どんな歴史があったのか。そして、ポピュラー音楽は、どんな地点に到達したのか。

 

世界には様々な音楽が存在しますが、本稿では主としてアフリカ音楽、ブルース、ジャズ、ゴスペルの4種を取り上げます。これで、傾向と概ねの歴史を把握することができそうだと思っております。

 

1.アフリカ音楽

 

前にも少し書きましたが、YouTubeにはアフリカの音楽が沢山アップされています。その中で最もシンプルなものは、打楽器のみによる演奏です。多く使用されているのは、ジャンベと呼ばれるもので、木製の樽のような胴体にヤギの皮を張ったものです。ラテン楽器のコンガとよく似ています。これを足の間に挟み、皮の表面を手で叩く。しかし動画によっては、倒れている木の断面を叩いている人もいました。これは楽器と呼べませんが、人間が物を使って音を出すという意味では、最も原始的な方法ではないでしょうか。これが、アフリカ音楽の起源だと思います。

 

もう少し複雑なものとしては、リズムに合わせて人々が踊る、というものがあります。ちょっとした広場や路上に集まって、人々が直径10メートル程の円を作る。我こそはと思う者が円の中心に登場し、激しい踊りを披露する。踊り手は、次々に交代される。これはちょっと、楽しそうです。これが2番目の類型ですが、まだ、歌はありません。

 

リズムに合わせて路上で歌っている動画は確認できていませんが、音源としては、打楽器に合わせて歌うという類型が存在します。歌というのは、音階と歌詞によって構成されますが、この音階というのは、打楽器のみによっても表現され得るのではないかと思います。すなわち、それぞれの打楽器が醸し出す音には音程がある訳で、複数の打楽器を順番に鳴らせば、音階を奏でることが可能となる。例えば木琴という楽器がありますが、これは打楽器によって音階を奏でるものです。歌詞の内容は私には理解できませんが、多分、シンプルなものでしょう。

 

第1類型・・・リズムのみ
第2類型・・・リズム + 踊り
第3類型・・・リズム + 踊り + 歌

 

すなわち、私の見立てとしてはまずリズムがあって、それに合わせて踊る人が現われ、その後、歌が生まれた、ということです。なお、注目すべき点は、アフリカ音楽においては和音が存在しない、若しくは和音が強調されない、ということです。

 

YouTubeでも、現代のテクノロジーによって録音されたアフリカ音楽を聞くができます。人によっては退屈だと感じるかも知れません。しかし、私は素晴らしいと思います。もし、聞かれたことがなければ、1度、試してみることをお勧めします。「アフリカ音楽」で検索すれば、無数の動画がヒットするはずです。

 

2.ブルース

 

アフリカに住んでいた無数の黒人が、奴隷としてアメリカに連行された。それはもう、筆舌に尽くしがたい悲惨な行為だった。たいした食料も与えられず、アフリカから船でアメリカに連れていかれた。途中、病気になった者は、生きたまま海に捨てられた。運よくアメリカに辿り着いたとしても、そこには非情な白人がいて、過酷な労働を強いられた。背中がミミズ腫れでデコボコになる程、鞭で打たれた。

 

余談ですが、アメイジング・グレースという有名な曲があります。これを作詞したのは、イギリス人のジョン・ニュートンという人だそうですが、彼は、奴隷船を運営し、巨額の富を築いたそうです。後年、そのことを悔悟し、牧師になった。そして、罪深いことをしたのに許してくれた神に感謝し、その気持ちを歌詞に込めたということです。随分、自分勝手な人ではないか。神が許してくれたと何故、そう考えるのか。私は、そう思いますけれども。

 

さて、奴隷として働かされていた黒人たちは、やがて労働歌を歌うようになる。一般には、綿花を摘む作業だと言われていますが、労働歌というのは、もっと過酷な力仕事を強要された時に誕生するのではないか。

 

どんな労働を強いられていたのかという問題はおくとして、いずれにしても、この労働歌にギターで伴奏を付け、それがブルースになった。

 

録音が残っている初期のブルースマンとしては、ロバート・ジョンソン(1911-1938)を挙げることができます。Love in Vainという曲があって、この曲はこんな歌詞で始まります。

 

Well, I followed her up to the station
With a suitcase in my hand

 

つまり、男が女と別れる。男が女のスーツケースを持って、駅まで送る。そういう場面なんですが、これを現代の日本の状況に当てはめて想像すると、全く意味が分からない。当時のアメリカで鉄道に乗るということは、相当な長距離を移動することを意味しており、かつ、乗車賃だって高額だったはずです。すなわち、これはもう今生の別れ、もう彼女とは一生のお別れだ、ということです。

 

ちなみに、この曲は、ストーンズがそのアルバムLet It Bleedの中でカバーしています。ロバート・ジョンソンは、その他、エリック・クラプトンジョニー・ウィンターにも影響を与えています。

 

ロバート・ジョンソンはギター1本で歌っていましたが、やがてブルースもバンドで演奏されるようになる。そこで、マディ・ウォーターズ(1913-1983)が登場する。彼の代表曲に、I just want to make it love to you というのがあります。日本語では「恋をしようよ」などと訳されることがあるようですが、make loveという用語がありますので、直訳としては「俺はお前を抱きたいだけなんだ」ということになります。

 

これなども、随分、下品な歌詞だなと思われてしまいそうですが、実は、違うのです。歌詞は、次のように続いていきます。

 

俺は、お前を奴隷にしたい訳ではない。
俺は、お前に服を洗って欲しい訳ではない。
俺は、お前の金が欲しい訳ではない。
俺は、お前に料理をして欲しい訳ではない。
俺は、ただお前を抱きたいだけなんだ。

 

当時、既に奴隷制は廃止されていました。そして、黒人女性には、白人の家の家政婦の仕事があった。なんとか食べていける。一方、黒人の男はと言うと、まったく仕事がない。そこで、彼らが生きていく術としては、女のヒモになるしかなかった。当時の黒人男性としては、女に捨てられる、女に逃げられるというのは、すなわち死活問題だった訳です。そういう時代に、この歌は生まれた。俺は、金や生活のためにお前を必要としているのではない。お前のヒモになりたい訳ではない。俺は、お前を本当に愛しているんだ、という意味なんです。とても純粋なラブソングなんですね。

 

ブルースマンたちは、純粋な彼らの気持ちを歌に託した。時代背景を含めて考えますと、そこには普遍性があると思います。

 

やがて、ギターの奏法はブルースと同じで、リズムをアップテンポにしたロックンロールが誕生する。その始祖は、チャック・ベリー(1926-2017)だと言われています。

 

レコードを通じて、これらアメリカの黒人音楽にイギリスの若者が共感した。そして、1962年にビートルズ(1962-1970)とローリング・ストーンズ(1962-活動中)がデビューを果たす。

 

1969年にウッドストックでフェスティバルが開催され、ロックは絶頂期を迎えた。しかし、その後、衰退期に入る。1970年にビートルズが解散する。人によって評価は異なりますが、私の意見としては、ストーンズの絶頂期は、ギタリストのミック・テイラーがいた時期までなんです。そして、ミック・テイラーは、1974年にストーンズを脱退したのです。

 

1975年を迎えると、既にビートルズは無く、ストーンズも絶頂期は過ぎた。すると、ロックファン最後の砦としては、レッド・ツェッペリン(1968-1980)しかなくなった。だから私などは、ツェッペリンには頑張って欲しいと、それはもう心の底から願っていたのでした。しかし、後期になるとバンドのリーダーで、ギタリストのジミ―・ペイジがドラッグで体調を崩した。そこで、他のメンバーが中心となって、いくつかの作品が作られた。しかし、それらは明らかにジミ―・ペイジの、すなわちツェッペリン本来のサウンドとは異なっていた。そこへもってきて、1980年にバンドのドラマーであるボンゾことジョン・ボーナムが急死し、ツェッペリンは燃え尽きるように解散した。

 

そして、私の愛したロックミュージックは、音楽シーンの中心から転げ落ちたのでした。

 

この章、続く

No. 220 第12章: 原始宗教と経典を持つ宗教

 

特に、狩猟採集を生業としていた時代(古代)と、農耕・牧畜を生業としていた時代(中世)の文化を語る上で、宗教の問題を避けて通る訳にはいきません。これらの時代において宗教は、いくつかの文化領域に関連を持たせ、それらの進化を促してきた経緯があります。

 

大きな問題ではありますが、身体系、想像系、物質系などの文化領域に分けて考えれば、検討することが容易になります。更に、人間が文字を発明する以前の、すなわち古代の宗教と、人間が文字を発明し聖書などの経典を作成した後の、すなわち中世の宗教とに分けて考えますと、本質的な事柄が見えてくるように思うのです。ここでは便宜上、古代の宗教を“原始宗教”、中世の経典を持つ宗教を略して“経典宗教”と呼ぶことにします。

 

原始宗教・・・文字を持たない、古代の宗教。

経典宗教・・・文字を持ち、経典を拠り所とする中世の宗教。

 

簡単に、原始宗教の生い立ちを考えてみます。まず、自然界の原理を理解していなかった古代人は、畏怖心を持った。自然災害、疫病、そして死人などを怖れた。これがアニミズムです。そして、自分たちには理解できない、若しくは自分たちではコントロールできない超越的な力を持った何者かが存在するに違いないと考えた。この超越的な存在は、ある時は自分たちに幸運をもたらし、ある時は災厄をもたらす存在だった。すなわち、原始宗教の時代において、幸運をもたらす神という概念と、災厄をもたらす悪魔という概念は、未だ分かれていなかったのではないか。ただ、その超越的な存在は、古代人にとって畏怖の対象だった訳で、神よりは悪魔に近かったのだろうと思います。この神であり、悪魔でもある超越的な存在を、便宜上、“悪魔”と呼ぶことにします。

 

そして古代人は、悪魔の怒りを鎮めるために、歌い、踊った。また、悪魔の力を利用する手段として、“呪術”という手段を考案した。但し、悪魔という抽象概念を理解することは、現実には難しい。そこで、古代人は原始芸術を生み出した。悪魔とは、きっとこんな姿形をしているに違いない。それらは絵画であり、彫刻だった。更に、悪魔と自分たちの関係を理解するために、多くの物語が作られ、口頭で伝承された。また、絵画、彫刻、物語におけるモチーフとして、動物が大きな役割を果たしたであろうことは、想像に難くない。

 

魔よけという呪術を目的として作成されるものに、例えば、神社には狛犬(こまいぬ)という彫刻がある。沖縄には、シーサーがある。シンガポールのマーライアンも、起源は同じではないでしょうか。

 

原始宗教の本質は、“自力救済”にある。何しろ、信仰の対象は悪魔、良く言ったとしても“気まぐれな神様”な訳で、自分たちの側から働き掛けないとご利益は、期待できない。またこの段階では、普遍的な善悪の概念は存在していなかったものと思われます。未だ貨幣は存在せず、経済は原始共産制だったことにも留意が必要かと思います。原始共産制なので、競争系の“序列”も存在していなかったものと思われます。では、一覧にしてみましょう。

 

<原始宗教>
文 字・・・無し
身体系・・・歌、踊り
想像系・・・アニミズム、融即律
物質系・・・原始芸術、呪術、象徴
競争系・・・無し
対 象・・・悪魔(気まぐれな神様)
救 済・・・自力救済
経 済・・・原始共産制

 

善も悪もない時代ですから、例えば、食人という風習を持っていた部族もあったことでしょう。しかし彼らに言わせれば、動物の肉は食べて良いのに、何故、人間の肉を食べてはいけないのか、ということになりそうです。原始宗教について、批判する人がいるかも知れません。しかし私は、素朴で、純粋で、ひた向きに生きようとしていた古代人のメンタリティを否定する気にはなれません。それどころか、ユングゴーギャンのように、もしかすると現代的な課題を解決するヒントが、この時代の文化に秘められているのではないか、と考えています。

 

次に、経典宗教について、考えてみます。

 

文字を持ち始めた人間は、経典なるものを作る。キリスト教で言えば、聖書。仏教においては、お経などを記した膨大な書物があります。これらが、経典です。

 

身体系で言えば、無造作に歌い、踊っていたものが、様式を持ち始めたはずです。そしてその様式が、儀式となる。想像系の世界で言えば、口頭で伝承されていた物語が、書物に代わる。奇想天外な発想をベースにしていた“融即律”という思考方法が、物語的思考に変容する。天地創造の物語が語られ、イエス様はこうおっしゃったとか、お釈迦様はこういう人生を送られたということが、思考のベースになる。ただ、文字によって記録されたということが、問題を引き起こしたのではないか。ここに書かれていることだけが真実だ、と考えた人たちは、フレキシビリティを失った。元来文化とは、人気投票のようなもので、多くの人が支持したものは伝承され、生き残っていく。そうでないものは、失われる。ところが、この経典宗教は、そういう文化の進化プロセスを否定することになった。経典に固執するから、進化しない。進化を拒絶したのが、経典宗教の本質ではないでしょうか。

 

元来、人間というものは、過去の人物を過大評価したり、勝手に物語を作ったりして、英雄を作り出すのが好きです。例えば、聖徳太子という人物が実在したことは間違いなさそうでも、どこからどこまでが彼の功績なのか、判然としないことが近年の研究で明らかになった。そのため、聖徳太子は教科書から消えた。してみると、イエス様やお釈迦様が、本当にそういうことをおっしゃったのか、疑問もないとは言えません。

 

また、論理的に言えば、実験や観測によって立証されないことは、仮説に過ぎません。従って、経典に書かれていることも、仮説に過ぎない。仮説であれば、本来的には「これは仮説です。もしかすると、他の宗教の説明の方が正しいかも知れません。または将来、この仮説を上回る仮説が出てくるかも知れません」と説明すべきところです。しかし、経典宗教というのは、「うちの宗教が言っていることだけが真実であって、他の宗教は間違いだ」と主張する。

 

次に、無数の芸術家を輩出した原始宗教とは違って、経典宗教の時代になると様式が重んじられ、伝統文化が開花することになる。本当の芸術というのは、何をどう表現するか、その全てを芸術家個人が自由に判断するものだと思います。しかし、文字が生まれ、紙が生まれ、記録されるようになると、文化の伝承は容易になり、結果として、様式が尊重されるようになる。流派というものが認識され、お師匠さんについて習うようになる。これが、伝統文化だと思います。これは、明らかにゴッホや、ピカソや、ジャクソン・ポロックなど、本物の芸術家が行ったこととは違う。伝統文化が生み出すのは、芸術ではなく、それは宝物に過ぎない。

 

原始宗教の時代には、漠然と“超越的な存在”として認識されていたものが分化し、神が誕生する。神が悪魔から分化した、と言った方が正確かも知れません。悪魔と違って神様は、自分たちに幸運だけをもたらしてくれる。そこで人々は、どうお願いしようか、という課題に直面する訳ですが、その専門家が登場するんですね。こうやってお願いすればいいんですとか、私があなたに代わってお願いしてあげましょう、ということになる。但し、貨幣経済の社会において、タダで、という訳にはいかなくなります。

 

また、神という存在が認識されたことによって、神という存在に近い者の序列が上で、そうでない者が下、という価値観が生まれる。正に、競争系のメンタリティの起源は、経典宗教にあるのではないか。

 

また、簡単に序列を上がってしまうと、他の人から嫉妬される。これを回避するために、修行が行われる。厳しい修行を乗り越えた人が、序列の階段を上がっていくという仕組みになります。しかし、冷静に考えてみれば、修行によって分かることとは、一体、何なのか。こういうことを尋ねますと、例えば「それは修行を積んだ者にしか分からない」という答えが返ってくる。そこを何とか教えてもらえませんかとお願いすると、例えば「無の境地である」と言われる。

 

原始宗教がその基本的な構造として持っていた呪術が自力救済であったのに対し、神という概念(それに類するものを含む)を持つ経典宗教は、他力本願だと言えるのではないでしょうか。仏教の禅宗は自力本願だと言われているようですが、本当かどうか、私には分かりません。また、自ら思考することが許されるのは上層部だけで、一般庶民は信じていれば救われると教えられるのではないでしょうか。私は、自分の頭で考えたいと思いますが。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

<経典宗教>
文 字・・・有り
身体系・・・儀式
想像系・・・物語的思考
物質系・・・伝統文化
競争系・・・神を頂点とする序列社会
対 象・・・神(お釈迦様など、類する者を含む)
救 済・・・他力本願
経 済・・・貨幣経済

 

文化論の立場から言いますと、経典宗教は文化の進化にブレーキを掛けている。課題だらけの現代においては、早く経典宗教を卒業し、次のステップに進むべきではないか、と思います。但し、アニミズムや呪術によって構成される原始宗教について、私はそのメンタリティを肯定しています。

ガボンの木彫り人形

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ゴーギャンに影響を与えたと言われているペルーの古代陶器。石ころやブロンズ像。そんなものに興味を持ち始めた私は、何とか、触れることのできる物を手元に置いておきたい。そう切に願うようになったのでした。

 

すると、毎日のようにクルマで走っている道すがら、マライカ・バザールという店が気になり始めた。看板には「エスニック雑貨」とあり、店頭には衣類が並んでいる。一体、何の店なのかよく分からない。でも、気になるので覗いてみたのです。店内には、無数の雑貨類が並んでいて、まるでおもちゃ箱のような印象でした。

 

例えば、象をあしらった小物がある。タグを見ると、GODと書いてある。これはインドの神様ですね。やはり、宗教の起源は動物信仰にあった、などと思いながら進んで行くと、階段に出くわす。一瞬、階上は事務所になっているのだろうかと思ったのですが、そうでもなさそうです。探検をするような気分で登って行くと、階段の途中にも様々な木彫り細工が置かれている。それらに圧倒されながらも2階へ到着すると、階下同様、沢山の雑貨類が無造作に置かれている。その一角で見つけたのが、上の写真の木彫りです。見た瞬間、私は「原始芸術だ」と思ったのです。

 

不思議な顔つき。雑な作り。くるぶしから下の巨大さ。この点は、ゴーギャンの作品「かぐわしき大地」と似ている。極端な省略と、大胆なデフォルメ。とても文明人に作れるものではない。もっと洗練された伝統工芸品は、他にも沢山あったのですが、私の興味を引き付けたのは、これだったのです。ちなみに、値段は6900円でした。

 

店員さんに原産地を調べてもらったのですが、分からない。本社に問い合わせてくれると言うので、お願いしました。

 

持ち帰って、部屋のテーブルに置いてみる。ちょっと、不気味な感じもします。呪術に使われる人形ではないのか、などと思ったりもします。やはり、芸術と宗教の起源は同じなのでしょうか。

 

木彫り人形と同じポーズを取ってみたのですが、それは不可能であることが分かる。肘の屈折の仕方が逆なんですね。そんな風に、人間の腕は曲がらない。また、人形の頭の上に大きな笠のようなものがあるのですが、これが何か、分からない。パーカーのフードのような気もしますが、それにしては大きすぎる。髪の毛が逆立っているのか。それとも、部族に固有の飾りを模しているのか。(分かる人がおられたら、是非、教えてください。)

 

夕方、お店に電話をすると、運よく先ほど対応してくれた店員さんが出てくれました。
「分かりました! ガボンです!」
彼女はちょっと高揚した声で、そう言います。
ザボン?」
ガボンです! ガボンのクール族が作ったそうです。品数が少なくて、ほとんで出回っていないそうです。」

 

ほとんど、出回っていない。それはそうだろう。21世紀の日本で、こんな人形を買う人なんて、そうはいない。電話を切ってから、そう思ったのでした。かく言う私は、購入したのですが・・・。

 

ガボンという国、皆様はご存知だったでしょうか。ネットで調べてみると、確かにアフリカにそういう国があります。象、ゴリラ、チンパンジーなどが生息しているそうです。クール族に関する記載は見つかりませんでしたが、ガボンには40もの民族が居住しているとのことです。それにしても、この人形、一体、どんな人が作ったのでしょうか。

 

見慣れてくると、少しかわいい感じがしてきました。

 

(この人形ですが、クール族のシャーマンに違いない。今では、そう思っています。古代人の社会には、そういう人がいたはずです。民族のために、祈りを捧げる。シャーマンは、民俗のリーダーだったはずです。呪術師、と言っても良いと思いますが。 追記 2021年1月13日)

 

No. 219 第11章: 現在事実、記号、そして情報(その3)

 

思うに法律学というのは、過去の事実を見ている。例えば、殺人という事実が発生する。そんなことをしてはいけないということで、法律が作られ、殺人罪が規定される。かつて、そんな罪人はみんな死刑にしてしまえ、という考え方もあったのでしょうが、殺人事件と言っても様々なケースがある訳で、例えば不治の病に苦しんでいる家族を安楽死させるような事例もある。想像力を発揮して、こういう場合まで死刑に処するのはかわいそうだ、と考える。そして現代社会においては、裁判所が量刑を決める。そもそも裁判というのは、過去の事実を対象としている。民事でも刑事でも、ある出来事があって、そこに登場する人物の行為が吟味される。だから、法律家には想像力なり、論理的な思考力というものが要求される。そして、法律の世界というのは、“静的”だと言えます。

 

では、現在事実に直面する“動的”な分野は何か、と考える訳ですが、それは経済ではないでしょうか。株価や為替レートは刻々と変化し、経済はグローバル化し、科学技術の進歩によって生み出された新商品も、政治や軍事に関する動向も、経済は全てを飲み込んで行く。現在の経済界においては、情報が重要であり、膨大な量の記号が情報を構成し、そして消費されていく。

 

ここに“情報の時代”と呼ばれる現代の、そして現代人の課題があるのではないか。すなわち、経済の規模は拡大し、複雑化し、人間の認識能力を超えてしまったのではないか。

 

いくつか、例を挙げて考えてみましょう。まず、シンギュラリティ。以前、このブログでも取り上げましたが(No. 168~No. 169)、これは人工知能に関する技術の進歩に伴い、将来、人口知能の能力が人間の能力を超えるのではないか、そういう技術的特異点がやって来る、という予測のことです。私としては、人間の心というのは複雑で非合理なものであるから、ロボットが心を持つようなことはない、と考えています。しかし、人口知能やロボットが人間に代わって仕事をする、人間の仕事が激減する、という事態は起こり得ると思うのです。例えば、人間が優秀なロボットを作る。そして、そのロボットが、人間の手を借りずに更に優秀なロボットを作り出す。そういうことも、起こり得るのではないでしょうか。すると、そのロボットが何故、そんなことができるのか、どういうロジックになっているのか、最早、人間には理解できない。SF映画のような事態が、現実になる日がやって来る。既に、ディープラーニングという手法によって、人口知能は、自ら学習する能力を獲得している。現実は、もうそこまで来ています。

 

次の事例として取り上げたいのが、ベーシックインカム。シンギュラリティが起こって、人間の仕事が激減すると、失業者が社会に溢れかえり、消費が低迷する。すると、経済が回らなくなり、企業も倒産する。それでは困るので、国民に一律、最低限の生活を維持できる程度の金額を分配しよう。これがベーシックインカムという制度です。働かなくてもお金がもらえる。現役時代の私であれば、これはもろ手を挙げて賛成したでしょう。しかし実際には、そんなに甘いものではない。フィンランドで実験的に導入されたようですが、その際の支給額は、日本円換算で月額6万8千円だったそうです。

 

ベーシックインカムが導入された場合、いわゆる失業保険はなくなる。年金もなくなる。では、国民保険は? 制度設計にもよるのでしょうが、これはもう、疑問だらけです。しかし、ベーシックインカムは、小池百合子氏が希望の党を立ち上げた時の公約になっていましたし、現在も国民民主党では、この制度を検討しています。

 

ネット記事の中には、シンギュラリティに伴う大量失業時代が5年後には始まる、とするものもあります。他方、現在、団塊の世代が一斉に引退しており、人手不足は今後、一層深刻化するという意見もあります。どちらの意見が正しいのか、私には分かりません。

 

3番目の事例として、プライマリーバランス基礎的財政収支)。まず、日本は借金大国で、子や孫の代まで借金を先送りしてはいけない、だから増税が必要なのだ、という説があります。この説は、安倍政権や財務省が唱えています。この話は良く聞きますし、私も、最近まで信じていました。しかし、異論もあるようです。すなわち、日本は借金大国ではないし、現時点で増税すべきではない、とするものです。リクツはこうです。まず、日本国政府には税収がありますが、毎年、それでは賄い切れない額の支出をしている。不足額は国債を発行し、金融市場(銀行、証券会社、個人投資家など)から調達している。しかし現実には、政府が発行した国債の大半は、直ちに日銀が市場から買い取っている。(これを買いオペという)その額は、450兆円まで膨らんでいる。すなわち、政府の赤字は1000兆円程度あるが、その半分程度の債権者(貸主)は日銀なのである。そして、日銀の筆頭株主は政府であり、言わば政府が親会社、日銀は子会社という関係にある。従って、政府は日銀にこの借金を返済する必要がないし、政府と日銀を連結決算すれば、全体として政府は、すなわち日本国の財政は、極めて健全な状態にある。

 

いかがでしょうか? 私も最初は半信半疑でしたが、聞けば聞くほどこちらの説、すなわち日本の財政は健全で増税の必要はない、という説の方が正しいように思えてきました。

 

シンギュラリティ、ベーシックインカムプライマリーバランスと、3つの例を挙げましたが、これらの事項について認識し、自らの意見を持っている人というのは、何パーセント位おられるでしょうか? これらにグローバル経済の現況などを含めて考えますと、実は、ほとんどの人が理解していないのではないか? (もちろん、私も理解できていません。)

 

私たちの祖先である原人は、200万年前に道具を使い始め、180万年前には火を使いこなすようになりました。そして、20万年前にアフリカでホモサピエンスが誕生し、7万年前には、複雑な文法を持つ言語が発明された。これら文化の歴史を通じ、人々は現実世界を認識しようと努め、自然や物に働き掛けてきた。そして人類は、無限に拡張を続ける情報ネットワークやグローバル経済という世界を構築した。しかしその規模は、遂に人間の認識能力を凌駕してしまった。人間は自然界の原理を理解したものの、皮肉にも人間自らが作り出した世界の原理を見失ってしまった。これが、現代という時代における本質的な課題ではないでしょうか。

 

経済学者は、科学を理解できない。科学者は法律を知らない。法律家は、芸術に興味を持たない。芸術家は・・・という具合で、現代社会の全てを理解している人というのは、存在しない。そういう時代になった。別の言い方をしますと、現代人というのは、全員が何らかの形で疎外されている。

 

すると、どういうことが起こるのか。一つには、昔に戻ろう、という人たちが出てくる。戦前の国家に戻そうというのが、日本会議の人たちだと思います。いやいや、もっと昔の神の世界に戻そうと考えたのが、イスラム国の人たち。

 

こんな訳の分からない世界に生きるのは嫌だ、もう余分な情報はいらない、と考えた人たちは、引きこもりになり、ニートになる。最近、引きこもっていた青年たちが、過疎の村で集団生活を始めたという例もあるそうですが、これは一応、理にかなっている。

 

3番目の類型として、閉鎖系の世界に浸ろうというのがある。私が、このブログで何度か主張してきたのは、このパターンなんですね。すなわち、自らの認識の及ぶ世界を“環世界”と言いますが、もう何が何だか分からない世界のことは置いておいて、環世界を築け、情報を遮断して閉鎖系の世界で生きよう、という立場です。少年たちが特定のサッカーチームに夢中になったり、少女たちが特定のアイドルグループに興味を持ったりするのも、実は、彼らなりに環世界を築こうとしているのではないか。このように考えますと、彼らに好奇心の射程距離を伸ばせ、と言うのは酷なような気もしてきます。

 

心理学上、リミット・セッティングという言葉があります。“境界線を作る”ということです。例えば、ユング派の治療で用いられている箱庭療法。これは箱という器によって、境界が設定されている。絵画であれば、キャンバスによって、絵の中と外の境界が設定されている。それでも飽き足らず、キャンバスを額縁に入れて、境界を強調する場合もある。野球やサッカーのスタジアムというのは、その建物が外界との境界になっている。相撲には土俵があり、プロレスにはリングがある。全て、リミット・セッティングではないか。すなわち、境界を設けて、外界とは区別される狭い空間を作り出すことによって、人間が認識しやすいようにしている。そして認識できれば、人は安心する。

 

この章、終り

No. 218 第11章: 現在事実、記号、そして情報(その2)

 

人々の興味の対象は、過去の経験から、現在の事実へと移行している。このことは何を意味しているのか。一つには、科学技術が発達し、現在の事実を知ることができるようになった、ということがある。江戸時代には瓦版というのがあったそうですが、印刷技術が進歩して、新聞が生まれる。ラジオが誕生し、テレビが、そしてネットが誕生する。このような技術進歩の流れを見ると、人間が、より早く、より正確な事実を知ろうとしてきたことが分かります。

 

ところで人間は、バーチャルな世界を求めているのか、それとも上に記したように現実世界を見ようとしているのか。実際、テレビのコマーシャルにおいては、人間が宙に浮かんだり、宇宙人が登場したりと、現実には起こりえない状況が描かれている。ネットにおいても、動物の耳を持つ美しい少女の絵があったりする。最近では、バーチャルリアリティなるものが、話題になっている。人間は、明らかにバーチャルを求めている。長い間、私はそう思ってきました。しかし、本当にそうでしょうか。

 

上に記したいくつかの事例は、どれも人間が記号を楽しんでいる、記号で遊んでいるものと解釈できないでしょうか。このブログの言葉で言えば、記号の強度を高め、人々の関心を引き付けようとしているに過ぎないのではないか。

 

長いスパンで見た場合、まず、物語など「過去の作り話」があって、それが歴史的な記録と研究の成果として「過去の事実」に変容する。更にテクノロジーの進歩があって、「現在の事実」へと進展してきたのではないだろうか。このような仮説を立ててみると、思い当たることがあります。

 

まず、音楽。最近、こんな話を聞きました。CDの売れ行きは落ちているが、ライブ会場に足を運ぶ人は増えている。前段のCDの売り上げ減少については、容易に理解できます。音楽は多様化し、大ヒット曲などというものは生まれにくくなっている。更に、過去のCDであれば、YouTubeで聞くことができる。CDの売り上げが増えるはずがない。問題は、後段です。人々は、何故、わざわざライブ会場まで足を運ぶのか。一つには、記号密度や記号強度の問題がある。最近のミュージシャンはよく踊るので、ライブ会場まで行けば視覚的にそれを楽しむことができる。どんな服を着て、どんなお化粧をして歌っているのか。それらを知ることができる。しかし、そうであればミュージック・ビデオでも良いのではないか。してみると、理由は他にもありそうだ。すなわち、ライブ会場へ行けばミュージシャンと“現在”という時間を共有できる。そして、そこにはミュージシャンが歌い、演奏しているという現実がある。やはり、「現在事実」に価値を見いだし、人々はライブ会場に向かっているに違いない。

 

古い話で恐縮ですが、ビートルズストーンズでは、路線が違っていた。ビートルズも当初はライブバンドでしたが、次第に多重録音などのテクノロジーを多用し、芸術的なアルバムを作成するようになった。効果音などを含めて考えると、それらの全てをライブで再現することは困難となり、ライブ活動から離れた。他方ストーンズは、ビートルズ程のヒット曲は持たないものの、あくまでもライブに重点を置いて活動してきた。70才代も半ばに達した現在も、彼らはツアーに出ている。どちらの路線が正しい、と言うつもりはありません。それぞれに、やりたいことが違ったということだと思います。ただ、エンターテインメントの本質ということから言えば、ストーンズの路線が理にかなっていたということになります。

 

次に、絵画。中世のヨーロッパには、宮廷や金持ちをお得意様とする画家が存在した。彼らの主な仕事は、王女様や奥様の肖像画を描くことだった。そこには暗黙のルールがあって、それは、実際のモデルよりも美しく描くということだった。やがて、この仕事は無くなった。写真という技術が誕生したからである。

 

絵画の歴史も、「過去の作り話」としての宗教画というものがある。キリストが生まれるシーンや、マリア様が天使から受胎を告知されるシーンである。その後、「過去の事実」として、戦争や革命など、歴史的な場面を描くものが登場する。やがて、写実的に自然や人物などの現実を描くものが登場したのではないか。

 

時代によっても異なるとは思いますが、人間は、時間と空間から成り立つこの世界とは何か、そのことを考え続けたきたのだと思います。過去の時間については、歴史学文化人類学などが、徐々に明らかにしている。空間については、例えば地球は丸くて太陽を中心に回っているとか、ビッグバンによって宇宙が誕生したとか、そういう所まで分かってきた。では、疑問が解消したかと言えば、そうではない。現代人には、次の問いが課せられたのではないか。

 

私たちが生きているこの世界で、今、何が起こっているのか?

 

この問いに応えるのは、難しい。言うまでもなく、その答えは刻々と変化するからです。昨日の正解が、今日も正解であるとは限らない。むしろ、問い続けても、答えは永久に見つからない。だから、現代人は正解を探して、情報を求め続けている。

 

この章、続く

No. 217 第11章: 現在事実、記号、そして情報(その1)

 

文化領域論につきましては、当初から目次を公表し、第10章までは目次通りに掲載してまいりました。しかし、目次を作成してからそれなりの時間が経過し、私の心変わりも生じております。悩ましい所ではありますが、当初の目次通りに進めるより、少しでも充実した原稿を掲載することの方が大切ではないかと思い、少し変更して記載してみることにしました。

 

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いきなり脱線して恐縮です。上の写真にある石は、実は、昨日拾ったものです。近所のコンビニへ行く道すがら、見つけたのです。手に取ってみると、その複雑な形に魅力を感じ、持ち帰りました。工夫して、石を立てかけてみました。それだけだと寂しいので、木彫りの象を置いてみました。写真のタイトルとしては、「象が立ち去る」というのはどうでしょうか。岩陰から象が現われ、そして立ち去っていく。そんなイメージです。何をしているんだ、という気がしないでもありませんが、どうやら私は古代人のメンタリティを獲得したようで、ささやかな写真ではありますが、こんなことでもしているとちょっと楽しいのです。

 

さて、終戦記念日の時期になりますと、人生の諸先輩方が、戦時中の話を語ります。中には、想像を絶するような極限状況が語られる場合もあります。そうか、それは大変だったなあ、絶対に戦争を繰り返してはいけないなあ、と思います。しかし、それだけではなく、ちょっとした違和感を覚える場合もあります。何か語り手が、戦争を知らない私のような人間よりも優位に立っている。そんな気配を感じてしまうのです。それと同時に、先輩諸氏の話は、「物語的思考」だなあと思うのです。彼らは明らかに、「過去」について語っている。そしてその時、自分がどう感じたか、何を思っていたか、ということを語る。しかし、そこで語られていることが事実なのかどうか、それは分からない。何か、意図的に消去されている事柄もあるだろうし、ちょっと付け加えられている事もあるのではないか。そもそも、「物語的思考」というのは、そういうものだろうと思います。

 

戦争体験とは異なりますが、典型的な例としては、昔の偉人がこうおっしゃった、というパターンもあります。「昔、お釈迦様はこうおっしゃった」という具合です。だから、それが真実なんだという主張になる訳ですが、論理的には飛躍がある。その飛躍の部分は「お釈迦様ほど偉い人がおっしゃったのだから、間違いはない」ということで、説明を回避している。こういう話が得意なのは、宗教家と文学者ではないでしょうか。論理的に考えた場合、彼らの話というのは、はなはだ分かりづらい。

 

「物語的思考」というのは、経験から導かれているのではないか。これって、漢方薬に似ていると思うのです。経験的にこういう痛みには、この草が効くということを人間は知っている。そして、何故効くのかは分からないが、人々は今でも漢方薬を使っている。それと同じで、「物語的思考」というのは人間の経験の積み重ねがあって、論理的に何故そういう結論が導かれるのか説明はできないが、経験的にそうであることを知っている。そういうものではないでしょうか。

 

それはそれで、貴重な人間の知恵だと思います。しかし、反面、「物語的思考」は危険性を孕んでいる。作家で、今は出家されている瀬戸内寂聴さんが少し前に死刑制度について語ったことがあります。当初、彼女は「死刑のような野蛮なことをするのは馬鹿者だ」というようなことをおっしゃった。すると直ちに、犯罪被害者の遺族らから反論が巻き起こった。被害者感情を何と心得るか、ということです。そして、寂聴さんは「大馬鹿者は、私だった」と言って謝罪したのです。このような問題について語る際には、当然、法律論の基礎程度は心得ておかなければならない。法律とは、すなわち「論理的思考」のことです。

 

多分、年寄りの昔話や「物語的思考」には辟易する、という人は少なくない。経験とは、あくまでも個人的なものだと思うのです。同じ戦争体験でも、そこで経験された事柄というのは、十人十色のはずです。家を焼かれてしまった人もいれば、家族を失った人もいる。そのことを語り、聞き手に何かを伝えるためには、経験を対象化し、普遍的な原則のようなものを導く必要がある。加えて、昨今のように変化の激しい時代になると、過去の経験が役に立ちづらくなっている。

 

では、現代という時代は、どういう時代なのか。ネットで、こんな時代区分を唱えている人がいました。

 

狩猟の時代
農耕の時代
工業の時代
情報の時代

 

この時代区分は、概ね、私の認識に合致します。そして、現代は「情報の時代」ということになります。

 

情報とは何かと考えますと、その根源は「過去の経験」ではなく、「現在の事実」だと思うのです。最近で言えば、「ボランティアのおじさんが、迷子を発見した」という事実があった。まず、事実があって、それが記号化される。すなわち、文字で表現され、画像で表現され、音声で表現される。これらの記号の集積が、情報です。そして、ここでも記号原理が働く訳です。密度と鮮度の高い記号、情報が求められる。1日前の情報ですら、その価値は失われる。人々はひたすら、最新の情報を追い求める。

 

「過去の経験」から「現在の事実」へ。私たちは今、そういう世界に生きている。

 

この章、続く

No. 216 第10章: 文化総論(その2)

 

3.言葉と手

 

以前、記号系、競争系、身体系の3領域は、人間以外の動物にも共通するものだ、と述べました。すなわち、動物も記号を通じて外界を認識し、マウンティングを行い帰属集団の中で序列闘争を繰り広げ(競争系)、互いに毛繕いをするなどして親和的な関係(身体系)を築いている。

 

では、想像系と物質系は、何故、人間に固有のものなのか。

 

その理由は、人間が2足歩行を始めたことによるのではないか。かつてアフリカの森林にサルが住んでいた。やがて、地球の気候変動によって、森林は枯れ、サバンナが現れる。地面に降り立ったサルは、2足歩行を始めた。立ち上がったことによって、サルの気道は拡張され、様々な音声を発するのに適した体になった。そして、言葉を話し始めたサルが、人間になる。

 

人間は、言葉によって様々な概念を作り出し、外界を認識するようになった。そのシステムは、“昨日”という日を思い出す記憶という機能と、“明日”という日を想像する力を生み出したに違いない。そして、“想像系”という文化とメンタリティが誕生した。

 

また、2足歩行によって、歩くという行動から解放された手が、物を触り始める。果実をもぎ取る。物を持ち上げる。運ぶ。そういうことが可能となり、やがて、人間は物に働き掛けることを覚える。そして、“物質系”の文化とメンタリティが創出された。

 

このように考えますと、想像系と物質系が人間に固有であることの理由が分かる。言葉を話し、両手で物を加工できるのは、人間だけです。

 

ところで、仮にネアンデルタール人が現代に生きていたとして、彼がヒゲを剃り、スーツを着てニューヨークの地下鉄に乗ったとする。それでも、彼がネアンデルタール人であることに気付く人はいないだろう、と言われています。また、人間の脳の大きさというのは、昔から変わらないそうです。すなわち、仮に5万年前のホモサピエンスの赤ん坊が現代に生まれたとしても、その赤ん坊は、立派に現代社会に適応する。逆もまた真なりで、現代の赤ん坊が5万年前の社会にタイムスリップしたとしても、その赤ん坊は立派な古代人として、古代社会に順応するに違いありません。すなわち、人間を身体と文化に分けて考えた場合、古代人も現代人も身体に変わりはない。脳の大きさでさえ、同じだ。古代と現代とで何が違うかと言えば、それは文化的な蓄積が違うだけだ、ということです。

 

すなわち、現代人は生まれてからわずか20年程度の間に、何万年という人類文化の蓄積を学ばなければならない。そして、特に想像系と物質系の文化なりメンタリティというものは、学ぶ必要がある。

 

4.対立関係

 

上記のように考えますと、記号系、競争系、身体系の3つは、人間の本能的なレベルに属するもので、これは簡単にはなくならない。他方、想像系と物質系は、正に、人間が人間であるために必要な文化であり、メンタリティであることが分かる。こちらも、そう簡単にはなくならない。ということは、人間の社会というのは、ほぼ永遠に対立関係を克服できないことになります。

 

そもそも、競争系という領域においては、人々はひたすら序列闘争を繰り広げている。物質系の内部においても、対立関係の例は枚挙にいとまがありません。例えば自動車の駆動方式にしても、以前は、ガソリン車とディーゼル車が対立していました。しかし、電気自動車が登場し、更に燃料電池なるものが現われ、今はこの2つが対立している。ガソリンと電気を組み合わせたハイブリッドという中間的なものもある。

 

加えて、領域間の対立も激しい。例えば、競争系のメンタリティは、「韓国よりも日本の方が、序列が上だ」と思って、韓国を蔑み、ヘイトスピーチを展開する。ところが、共感を求める身体系のメンタリティの人々は、序列なぞということは考えない。ぺ・ヨンジュン氏ら韓流スターに憧れ、韓流ドラマに涙する。Kポップに夢中になる男たちだって、少なくはない。

 

競争系のメンタリティは、多様性に反対し、LGBTには生産性がないなどと妄言を吐き、夫婦別姓にも反対する。他方、想像系のメンタリティは多様性と人権を尊重する。今日においても、宗教と科学が反目し、資本主義と共産主義が対立している。

 

これらの対立は、アウフヘーベンによって解消(総合)されたりしないのではないか。仮に一つの対立関係が解消されたとしても、そのことが契機となり、新たな対立関係が生まれる。そもそも人類は、2足歩行を始めた時点で、対立関係を抱えて生きていく宿命を背負ったのではないか。ただ、この対立という図式が、人類にエネルギーを投入してきたことも、否定はできない。勝ちたい、負けたくないという気持ちとか、自分の考えの方が正しいはずだ、彼らは間違っているという信念が、人類を行動にかり立ててきた。そういう側面もあると思います。

 

この章、終り