文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 224 第14章: 原理の発見(その1)

この「文化領域論」も、いよいよ最終的な段階に入りました。本章におきましては、未だ検討が不十分であると感じておりました「想像系」について、記載することに致します。

 

さて、記号学のパースは、科学的な発見には2種類あると述べています。1つ目は「○○であることの発見」です。これは、「自然界はこうなっている」ということの発見だそうです。例えば、地動説。回っているのは、地球の方だ、という事実、現象に関する発見です。便宜上、ここでは「現象の発見」と呼ぶことにしましょう。

 

2番目の類型は、「何故、そうなっているのか」という発見です。例えば、万有引力の法則があります。ニュートンは、何故、リンゴは地球の中心を目掛けて落下するのか、その理由、原理を発見した訳です。ここでは、「原理の発見」と呼ぶことにしましょう。

 

地動説も万有引力の法則も、科学上は、大変重要で画期的な発見です。しかし、この2つの間には、大きな違いがある。現象の発見というのは、観測によって成し遂げられる。一方、原理の発見は、もっと複雑な思考のステップを必要とするに違いない。加えて、原理が分かれば、その原理は他の事例にも当てはまるので、汎用性がある。実際、ニュートンは地球が引力を持っていることのみならず、太陽や月など、あらゆる星が引力を持っていることを発見した。

 

このような観点から、文化論の立場で、現象の発見から原理の発見に至る4つのステップと、それが思想として成立する過程について、検討を進めてみます。

 

1.現象の発見

 

文化的な現象を調査してきたのは、民俗学文化人類学です。この分野の学者たちは、フィールドワーク(現地調査)を旨とし、ひたすら現象の発見に努めてきた。その努力には、脱帽します。衣食住の全てにおいて不便な環境にあって、時には現地の伝染病に罹患しながら、彼らは無文字社会の人々と生活を共にしてきた。しかし、元来、文化人類学にはもっと大きな可能性なり役割があるはずなのに、彼らは研究の成果を体系化できていない。

 

理由は2つあります。まず、言語学者ソシュールが、通時態と共時態ということを言い出した。

 

通時態・・・時間の流れに従って、歴史的な観点から検討すること。

共時態・・・時間の流れを無視して、現在、どうなっているのか、検討すること。

 

そして、ソシュールは、例えばある地方の言葉が別の地方に伝播して発音がどう変わったとか、そういう通時態の検討には意味がないので、共時態のみで考えるべきだと主張し、言語の恣意性と線状性という原理を見いだした。

 

これにヒントを得たレヴィ=ストロースが、同じ手法を文化人類学に持ち込んだのです。この時から、文化人類学は、通時態による検討を止めてしまった。これでは、因果関係が分からない。文化というものを体系的に理解することができない。私は、放送大学における「文化人類学」の講座を視聴しましたが、未だに通時態は否定されているように思います。同講座は、「人類にはいろいろな文化があることを学びましょう」と言って始まります。そして、いろいろな文化が紹介されるのですが、体系的な説明はほとんどないのです。

 

もうひとつ。それは、文化人類学の学者が、フィールドワークに固執し過ぎたこと。前述の通り、そこには大変なご苦労がある。そして、フィールドワークで成果を挙げた学者には「俺は、こんなに苦労したんだ。苦労していない人間は黙ってろ」というやっかみ半分の意識があるのではないか。彼らは、フィールドワークを経験していない者を「安楽椅子の哲学者」と呼び、揶揄しています。しかし、フィールドワークで知ることができるのは、「現象」であって、それを体系的に理解するには、それこそ「安楽椅子に腰かけて、ひたすら黙考する哲学者」が必要ではないか。例えば、パースのように!

 

私は、共時態で現象を観察するのが悪い、と言っている訳ではありません。共時態と通時態の双方で観察すべきだと思うのです。ひたすらフィールドワークを積んで、英語で論文を書き、学会で発表する。それが世界的な現状なのだろうと思いますが、そろそろレヴィ=ストロースの呪縛から、身を解き放つべきだと思います。

 

2.想像

 

現象を発見した後、人間はどうするか。それは、言葉を用いて想像するのだと思います。サスペンス・ドラマを例に考えてみましょう。まず、遺体が発見される。これが現象です。そして、主人公の想像、推理が始まる。大体、推理される事項というのは、犯人は誰か、犯行動機は何か、凶器は何か、この3点ではないでしょうか。ただ、ここで重要なのは、時系列に事実を並べるということではないでしょうか。まず、犯行動機がある。そして、犯行に関する準備行為があって、犯行に至る。この順番を正しく推理しなければ、真犯人を特定することができません。すなわち、サスペンスというのは、因果関係の世界なんです。それは、時間の経過と共に解明される。因果関係というのは、通時態で物事を見ないと、理解できない。この想像する、時間の流れに従って因果関係を考えるという作用は、神話や小説でも同じですね。

 

「かつて、人は火を持っていなかった。それは、トキイロコンドルのものだった。それを人が盗んだのだ。そして、今、我々は火を持っている。」

 

こういう神話におきましても、時間の流れと因果関係というものが説明されています。私が、物語的思考と呼んできた思考方法が、これです。

 

神話は、やがて宗教の経典となり、その他の物語や小説の原型となった。神話を原型とする点に鑑みれば、宗教と小説というのは、相性がいい。かつての文学者の中に宗教を信仰している人が多かったのには、そういう理由があると思います。

 

神話や小説の利点は、人間の無意識に触れることができる点にあります。人間が、その認識の及ぶ世界、すなわち環世界を構築するのにも役に立ちます。すなわち、神話や小説には、人を癒す効果がある。ただ、神話や小説によって、人間は原理を発見するには至らない。そのためには、もう少し段階を経る必要がある。

 

この章、続く

No. 223 第13章: ポピュラー音楽の潮流(その3)

 

5.プリンス

 

考えれば考える程、前回の原稿に記しました“黒人教会”というのは、優れた社会システムだと思うのです。男でも女でも、大人も子供も、参加できる。学歴だとか会社における役職など、そこでは何の意味も持たない。おまけに、悪魔や魔術に関する楽しい話まで聞ける。現在の日本にそのような、あたかもセイフティー・ネットとして機能している共同体というものは、存在しないように思います。

 

さて、1980年にレッド・ツェッペリンが解散した訳ですが、遡ること2年、1978年にプリンス(1958-2016)という黒人のミュージシャンがデビューしています。プリンスは、大変才能に恵まれたミュージシャンで、自ら作詞、作曲を行い、歌い、踊り、加えてギター、ベース、ピアノ、ドラムを演奏できた。それもただ演奏できるというレベルではなく、いずれの楽器も超一流のレベルで、操ることができたのです。天才と言って良いかも知れません。しかし、ステージアクションは、どことなくミック・ジャガーに似ていた。踊りは、マイケル・ジャクソンに似ている。そして、ギターワークは、ジミ・ヘンドリックスにそっくりでした。(本人はジミ・ヘンドリックスよりもサンタナの影響を受けたと述べたそうです。)

 

聴衆としては、彼が一体何者なのか、なかなか理解できない。ちょっと、薄気味悪い感じすらしたのだと思います。彼がどのような音楽を目指しているのか、そのバックグラウンドは何か、そういうことが分からない。そのため、デビューはしたものの、すぐには売れなかった。デビュー直後、プリンスはストーンズの前座を務めたのですが、聴衆からのブーイングが酷かった。プリンスが演奏していると、キャベツなど、様々なゴミのような物がステージに投げ込まれたそうです。見かねたミック・ジャガーがステージに上がり、「お前たちには、プリンスの新しさが分からないのか!」と言ったそうです。そしてミックは、プリンスの肩を抱いて、バックステージに連れて行ったとか。デビッド・ボウイは、プリンスが楽屋のトイレで一人泣いているのを見たそうです。アメリカの聴衆というのは、気に入らないミュージシャンには厳しい。

 

そんなプリンスですが、デビューから2年程すると、徐々に売れ始めた。そして、1984年に発表したパープル・レインでブレイクした。これはCDと映画の双方が発売されました。1987年の年末に開かれたプリンスのコンサートには、マイルス・デイビスが特別参加しています。この画像をYouTubeで発見した時は、本当に驚きでした。かつてジミ・ヘンドリックスとの共演を夢見ていたマイルスは、プリンスの背後にジミの面影を見ていたのではないか。またマイルスは、常にポピュラリティということを重視していた。若者に受け入れられる音楽を目指していた。それは、彼の遺作がラップ系ミュージシャンとの共作だったことからしても明らかです。

 

当時、プリンスはPrince & The Revolutionと名乗って活動していましたが、この頃のライブ映像を見ますと、ロックが飽きられてしまった理由が分かる。記号密度のレベルが全然違うんです。ツェッペリンと比較してみましょう。

 

ツェッペリンのライブにおいて、ステージに上がるのは白人のメンバー4人だけです。彼らの服装は、あまり派手ではない。彼らは踊らない。長い曲だと、ジミ―・ペイジのギターソロが延々20分位続く。

 

一方、Prince & The Revolutionのライブでは、20人位がステージ上に上がる。ダンサーまでいる。プリンスも踊るし、楽器の演奏者までステップを踏む。メンバーには白人や黒人、その他の人種が含まれている。全員が個性的で派手なファッションに身を包んでいる。プリンスのギターソロは短い。短時間にカッコいいフレーズをキメるんですね。そして、踊りを挟むと、今度はピアノやベースを演奏する。そしてまた、踊る。視覚的な刺激が強い。こういうのが流行ってしまうと、ツェッペリンのステージが地味に思えてくる。より強い刺激を求める聴衆から、ツェッペリンは飽きられてしまった。それが自然の成り行きだったのではないか。

 

そして、プリンスの音楽を良く聞いてみると、あらゆる要素が含まれていることが分かります。例えば、彼のギターはロック系だし、ホーンセクション(サックスやトランペット)はジャズ系だし、コーラスや踊りはゴスペル系。そしてパーカッションは、ラテン系です。

 

すなわち、プリンスの音楽において、それまでのポピュラー音楽のあらゆる要素が融合した。別の見方をすれば、以後、ジャンルを融合させることによって、新たな音楽を生み出すことが困難となった。事、ここにおいて極まってしまったのではないか。

 

プリンスが子供の頃、黒人教会に行っていたかどうかは分かりません。ただ彼は、“エホバの証人”の信者だったと言われています。輸血を拒否するので有名な、新興宗教です。

 

6.音楽進化の原理

 

まず、ルーツとなる音楽がある。それは、アフリカ音楽だったり、そのリズムだったり、ブルースだったりする訳です。このルーツ・ミュージックには長い歴史がある。そして、その起源を遡って行くと、音楽を演奏せずにはいられない、踊らずにはいられない、強い衝動があるのだろうと思います。そういうメンタリティというのは、高度な教育を受け、科学的な知識を持つ人には、理解しにくいものではないでしょうか。悪魔や魔術の存在を信じ、ドラッグによって混沌とした意識状態になる。そういうメンタリティだけが、音楽へと向かう強い衝動を持ち得るのではないか。

 

ひょんなことから、ルーツ音楽が伝播する。それは人や物の移動によって、引き起こされる。そして、優れたミュージシャンによって、他のジャンルとの融合が図られる。こういうステップを踏んで、ポピュラー音楽は進化してきたのだと思います。そして、融合に至るプロセスは、プリンスにおいて完結した。それが言い過ぎだとするならば、1980年代において完結した、と言ってもいい。

 

では、現在は、どういう状況にあるのか。一つには、アマチュアのテクニックが格段に向上した。例えば、ベースを例にとってみますと、かつては神業で誰にも真似できないと思われていたベーシストがいます。ジャコ・パストリアスとかマーカス・ミラーなどがそうですね。しかし、現在、YouTubeを見ますと、彼らの演奏をコピーしている若者の画像が沢山アップされています。女の子がやおらベースを持って、ジャコのフレーズを披露している。その理由は、テクノロジーの進歩にある。プロの演奏を一定範囲に区切って、繰り返し聞くことができる。自分の楽器の音も合わせて聞くことができる。しかも、演奏スピードを半分にして再生することだってできる。こういう文明の利器が、例えば“ギター・トレーナー”として、比較的安価で購入できる。だから、難しいプロのフレーズを、素人がコピーできるようになったんです。こういう時代になりますと、プロの神業というのも、ちょっとありがたみが薄れてきます。

 

音楽というのは、比較的純粋な記号の世界ですから、これはコンピューターと相性がいい。例えば、コンピューターのプログラミングによって、容易にドラム演奏を再現することができます。既に、作曲用のソフトというものもある。もう少し進歩すると、誰でも作曲できるようになる。想像するに、こんな具合ではないでしょうか。

 

PC・・・ジャンルは、どうしますか?
人間・・・ロックがいいな。
PC・・・分かりました。8ビートですね。こんな感じでいかがですか。(デモ演奏が流れる)
人間・・・いいね。
PC・・・次はコード進行ですね。最初の和音は、どうしますか。
人間・・・Cでいいよ。
PC・・・分かりました。では、次に使える和音は、Am、F、Gなどがありますが、いかがしましょうか。
人間・・・ちょっと分からないな。
PC・・・では、ビートルズ風はいかがですか。
人間・・・いいね。
PC・・・(データーベースに直結し、ビートルズのパターンを確認する。)お勧めは、Amです。

 

こんな風に、新たな曲が生まれる日がやって来るに違いない。作詞の方も、人口知能が担当するでしょう。既に、人口知能は小説を書くレベルに達しています。

 

そのうち、ダンスロボットなるものが、誕生するに違いありません。人間の代わりに、ロボットがダンスをして、それを人間が見て楽しむ。冗談のようですが、既に“初音ミク”というバーチャルのアイドルが生まれています。

No. 222 第13章: ポピュラー音楽の潮流(その2)

 

3.ジャズ

 

1900年代に、ジャズはニューオーリンズで生まれた。白人の楽団が、壊れた楽器を廃棄したところ、黒人たちがこれを拾って遊び始めた。やがて、見かねた白人が、黒人たちに楽譜の読み方を教えたとも言われています。

 

ニューオーリンズのジャズは、例えば「聖者の行進」のように、明るく楽しい音楽だった。ニューオーリンズには、巨大な売春街があって、多くの人々が集まっていた。当時、売春宿のことをjassと言っていたようで、これが後のjazzの語源になったと言われています。

 

西洋のクラッシックと呼ばれる音楽には、ほとんどリズムがないので、音楽の進行を統率するために、指揮者が必要だった。何故、このような音楽が生まれたのか、私には不思議でなりません。ただ、使用する楽器には特徴がある。クラッシック音楽において、頻繁に使用されるバイオリンやチェロなどは、弓で弾きます。すると、音の立ち上がりが、曖昧になる。これらの楽器は、明らかにリズムを主体とする音楽には適しません。リズムに合わせて、いきなりバンと音を出すには、何かを叩く、弾く、そういう楽器が適しています。

 

当初、黒人たちは白人がやっていた音楽を真似したのだろうと思います。そして、自分たちが得意とするリズムをそこに融合させた。この瞬間、ヨーロッパの和音に関する文化と、アフリカのリズムが、アメリカ大陸で出会ったことになります。

 

黒人たちは、急速に楽譜や和音に関する知識を身に付けていった。ところが、売春禁止法なるものが、ニューオーリンズで施行された。売春宿は廃業し、それを目当てにしていた人々は、街を訪れなくなった。困ったジャズ・ミュージシャンたちは、楽器を持って、アメリカの各地に散って行ったそうです。結果としてこの出来事が、全米にジャズという音楽を流行させるきっかけになったと言われています。

 

1940年代になると、トップクラスのジャズ・ミュージシャンたちは、和音の進行に合わせて、管楽器を猛スピードで吹きまくるという技術を確立していました。それはもう、神業と言える。このようなスタイルで演奏する音楽はビバップと呼ばれ、モダンジャズの基礎をなしたのです。サックスのチャーリー・パーカーと、トランペットのディジー・ガレスピーが有名です。

 

そこへ、後年、ジャズ史を築くマイルス・デイビス(1926-1991)が絡んでくる。イリノイ州生まれのマイルスは、歯科医の息子で、経済的には大変恵まれた環境で育ったそうです。そして、プロのミュージシャンを目指したマイルスは、ニューヨークにある名門ジュリアード音楽院に入学します。しかし、マイルスはビバップに惹かれていた。昼間は、ジュリアードで講義を受け、夜はジャズ・クラブへチャーリー・パーカーの音楽を聞きに行った。すぐにマイルスはチャーリー・パーカーの弟子となり、ジュリアード音楽院は中退してしまいます。

 

チャーリー・パーカーがマイルスを弟子として認めたのには、2つの理由がありそうです。一つには、以前共演していたディジー・ガレスピーのテクニックは既に完成しており、同じバンドで演奏すると自分が目立たない。一方、未熟なマイルスと共演すると、自分のテクニックが輝いて見える。二つ目の理由は、マイルスの元へ実家から送られてくる仕送りだった、と言われています。ドラッグ漬けになり、女好きだったチャーリーには、お金がいくらあっても足りなかった。そして、チャーリーの影響で、マイルスまでドラッグ漬けになってしまったのでした。

 

マイルスは、結局、ビバップの技術を完全には習得できなかった。また、チャーリーの元にいてはドラッグで死んでしまう。そこで傷心のマイルスは、チャーリーの元を去るのですが、彼には逆転の発想があった。熱狂的なビバップとは反対に、クールな音楽を目指したのでした。そして、“クールの誕生”というアルバムを発表するのですが、これが当たった。ビバップに飽きていた聴衆は、一気にマイルスを支持する側に回ったものと思われます。やがてマイルスは、“’Round About Midnight”というアルバムを制作します。これもビバップとは正反対の発想だったのです。すなわち、ビバップのように楽器を吹きまくっていると、一つの音を伸ばすことができない。ビバップには、ロングトーンというものが存在しなかった。そこでマイルスは、音楽にロングトーンを持ち込んだのです。ロングトーンは単純なようであって、実はそうではない。そこには、音の深さや味わいがある。かすれた音がひっそりと消えていく。マイルスがこの作品を発表した時から、ジャズには、都会で、孤独な男が、夜に聞く音楽、というイメージが定着したと言われています。

 

その後もマイルスは幾多の困難を乗り越え、快進撃を続けますが、1960年代の後半に、最大の危機を迎えます。ライバルは、ロックだった。大して演奏もうまくない白人の子供たちが、音楽シーンを席巻した。当然、ジャズのレコードは売れなくなった。

 

当時のジャズは、客が酒を飲みながら、又は食事をしながら聞く音楽だった。しかし、ロックのコンサートでは、大勢の観客がミュージシャンに注目し、真剣に聞き入っていた。後年マイルスは、それが羨ましかった、と述べています。また、ロックを聞きながらマイルスは、「俺ならもっとうまくやれる」と思ったそうです。

 

そしてマイルスは、ロックを批判するどころか、ジャズとロックの融合を目指し始めた。電気楽器を採用し、ロックのようにリズムを強調し始めた。そして、BGMだったジャズを芸術の域に高めたのでした。

 

ただ、昔からのファンからは、批判の声も上がった。マイルスが何をしているのか、それを理解できる人は少なかった。一方、ロック世代の若者は、マイルスの新しい音楽を無条件に受け入れたのでした。誰もがマイルスに注目し、マイルスの動向について、人々は意見を戦わせるようになった。マイルスの動向が、すなわち次の音楽シーンの動向となる。誰もが、そう思うようになった。

 

1972年、マイルスは“On The Corner”という作品を発表する。これは、リズムが強調された、と言うよりは、ほとんどリズムだけの作品でした。誰もがとまどった。「マイルスは一体、何処へ行ってしまったんだろう? 俺たちの音楽は、一体どうなってしまうのか?」そういう不安にかられたファンが多かったものと思います。私も、その一人でした。しかし、最近、YouTubeでアフリカ音楽を聞いていてふと思ったのでした。「この音楽、いつか聞いたことがある!」 そう、リズムだらけのアフリカ音楽、それはマイルスの“On The Corner”に似ていたのです。当時のマイルスは、アフリカ音楽への回帰を目指していたのかも知れません。

 

1991年にマイルスが死ぬと、ジャズは進化の歩みを止めてしまった。

 

4.ゴスペル

 

ポピュラー音楽を語るためには欠かせないもう一つの系譜が、ゴスペルです。

 

多少、想像も含めて記載します。奴隷制が廃止された後も、白人の黒人に対する弾圧は続いた。経済的な弾圧もあれば、社会制度的な弾圧もあった。黒人は、白人と同じバスには乗れない。同じプールには入れない。だから、未だにアメリカ黒人の水泳選手というのは、ほとんどいない。こういう有形無形の弾圧の中に、宗教的な弾圧というものがあった。キリスト教徒である白人は、黒人にもキリスト教を信仰するように圧力を掛けた。しかし、自分たちと同じ教会に黒人を入れることは嫌がった。そこで、黒人教会なるものが誕生する。

 

黒人教会の建物にも十字架が掛けられている。白人から詰問された場合、黒人は「ここはキリスト教の教会です。真面目にキリスト教の布教に努めています」と答える。白人としては、それ以上、踏み込めない。

 

極度の貧困で、聖書を買う金がない。場合によっては、教育を受けていないため、字を読めない者だっている。牧師にしたって、その教育レベルは怪しい。黒人教会とは、そういう環境下にあったのではないか。では、黒人教会でどういうことが行われていたのか。牧師が説教をする。聖書の一節などを読み上げる。その調子は徐々に高揚する。すると、頃合いを見計らって、楽器が合いの手を入れる。次第に、信者たちも興奮してくる。そこで、歌い出す。あたかも牧師がリードシンガーで、信者たちはコーラス隊と化す。この歌が、ゴスペルの起源となる。

 

しかし現実は、もっと多様だったと思います。1年程前でしょうか。地上波のテレビで見たのですが、黒人教会に超能力を持つ少女が登場する。彼女が手をかざすと、歩けなかった人が、突然、歩き出す。すなわち、黒人教会においては、過去、様々な原始宗教的な儀式が行われてきたのではないか。そこには、預言者や呪術師が登場し、悪魔祓いの儀式が執り行われ、白人が邪教と蔑視するような原始宗教的な信仰が、根を張っていたのではないか。そして、そういう信仰が、黒人の音楽に対する情熱なり、原動力となってきたのではないか。

 

そう言えば、ブルースの歌詞にも悪魔は、頻繁に登場するし(Me And The Devil Blues / Robert Johnsonなど)、ジミ・ヘンドリックスは魔術やヴ―ドゥ教に興味を持っていた。やはり、原始宗教なり古代のメンタリティが、芸術を生み出すのではないか。

 

そもそもキリスト教は、熱狂することを禁じてきました。熱狂すると幻覚などを見て、それが神だと錯覚され、新たな宗教が生まれてしまうからです。しかし、黒人が生み出す文化は、熱狂するとこから始まる。黒人教会においても、牧師の説教から始まり、楽器が加わり、コーラスへとつながる。コーラスによって感情が高揚すると、自然発生的に、彼らは踊り始めたのではないか。

 

労働歌は、あくまでも働きながら歌うもので、踊ることはできない。ジャズは、楽器を演奏するものなので、これも踊りとは結び付きにくい。ところが、コーラスをしている人というのは、特段の制約がない。歌いながら踊ったとしても、不思議はありません。

 

ゴスペルは、1960年代のモータウンサウンドにつながり、その後のソウルだとか、ファンクになる。1970年代になると、ディスコブームをけん引した。(ディスコとは、黒人教会の現代版ではないでしょうか。)ダイアナ・ロスティナ・ターナー、最近ではホイットニー・ヒューストンなど、優れた歌唱力を持つ女性歌手は、この系統のミュージシャンだと思います。子供の頃から黒人教会で、喉を鍛えていたのではないでしょうか。

 

ところで、ゴスペル系の踊りながら歌うミュージシャンや彼らの音楽には、知性というものが感じられません。例えば、ジェームス・ブラウンのヒット曲に“セックスマシーン”というのがありますが、あきれてしまいます。「お前、何も考えてないだろう。少しは本でも読め!」と言いたくなってしまいます。(当時、ディスコで踊っていた日本の若者たちも、同じレベルだと思いますが。)

 

ただ、知性を要求することのできない黒人教会がその起源にあると考えれば、腹も立ちません。黒人教会とは、あらゆる面で社会から疎外されていた黒人たちが作り出した、共同体だった。そこには、様々な人間がやって来た。読み書きのできない人だって沢山いたに違いない。そういう人たちを含め、全ての人々を受け入れることによって、黒人教会という場所が成立していたのではないでしょうか。

No. 221 第13章: ポピュラー音楽の潮流(その1)

 

文化は伝播し、融合することによって進化しますが、それがどのようなステップによるのか。この点を考えるには、音楽、特に人々の人気をビビッドに反映するポピュラー音楽を中心に考えると、分かり易いと思うのです。

 

この分野においては、世界中で、日々無数の新人がデビューし、そして消えていく。そこに働いているのは、記号原理だと思います。すなわち、まず記号鮮度という問題がある。人々はひたすら新しい刺激を求めている。そして、記号強度。すなわち、人々はより強い刺激を求めている。そんな世界には、どんな歴史があったのか。そして、ポピュラー音楽は、どんな地点に到達したのか。

 

世界には様々な音楽が存在しますが、本稿では主としてアフリカ音楽、ブルース、ジャズ、ゴスペルの4種を取り上げます。これで、傾向と概ねの歴史を把握することができそうだと思っております。

 

1.アフリカ音楽

 

前にも少し書きましたが、YouTubeにはアフリカの音楽が沢山アップされています。その中で最もシンプルなものは、打楽器のみによる演奏です。多く使用されているのは、ジャンベと呼ばれるもので、木製の樽のような胴体にヤギの皮を張ったものです。ラテン楽器のコンガとよく似ています。これを足の間に挟み、皮の表面を手で叩く。しかし動画によっては、倒れている木の断面を叩いている人もいました。これは楽器と呼べませんが、人間が物を使って音を出すという意味では、最も原始的な方法ではないでしょうか。これが、アフリカ音楽の起源だと思います。

 

もう少し複雑なものとしては、リズムに合わせて人々が踊る、というものがあります。ちょっとした広場や路上に集まって、人々が直径10メートル程の円を作る。我こそはと思う者が円の中心に登場し、激しい踊りを披露する。踊り手は、次々に交代される。これはちょっと、楽しそうです。これが2番目の類型ですが、まだ、歌はありません。

 

リズムに合わせて路上で歌っている動画は確認できていませんが、音源としては、打楽器に合わせて歌うという類型が存在します。歌というのは、音階と歌詞によって構成されますが、この音階というのは、打楽器のみによっても表現され得るのではないかと思います。すなわち、それぞれの打楽器が醸し出す音には音程がある訳で、複数の打楽器を順番に鳴らせば、音階を奏でることが可能となる。例えば木琴という楽器がありますが、これは打楽器によって音階を奏でるものです。歌詞の内容は私には理解できませんが、多分、シンプルなものでしょう。

 

第1類型・・・リズムのみ
第2類型・・・リズム + 踊り
第3類型・・・リズム + 踊り + 歌

 

すなわち、私の見立てとしてはまずリズムがあって、それに合わせて踊る人が現われ、その後、歌が生まれた、ということです。なお、注目すべき点は、アフリカ音楽においては和音が存在しない、若しくは和音が強調されない、ということです。

 

YouTubeでも、現代のテクノロジーによって録音されたアフリカ音楽を聞くができます。人によっては退屈だと感じるかも知れません。しかし、私は素晴らしいと思います。もし、聞かれたことがなければ、1度、試してみることをお勧めします。「アフリカ音楽」で検索すれば、無数の動画がヒットするはずです。

 

2.ブルース

 

アフリカに住んでいた無数の黒人が、奴隷としてアメリカに連行された。それはもう、筆舌に尽くしがたい悲惨な行為だった。たいした食料も与えられず、アフリカから船でアメリカに連れていかれた。途中、病気になった者は、生きたまま海に捨てられた。運よくアメリカに辿り着いたとしても、そこには非情な白人がいて、過酷な労働を強いられた。背中がミミズ腫れでデコボコになる程、鞭で打たれた。

 

余談ですが、アメイジング・グレースという有名な曲があります。これを作詞したのは、イギリス人のジョン・ニュートンという人だそうですが、彼は、奴隷船を運営し、巨額の富を築いたそうです。後年、そのことを悔悟し、牧師になった。そして、罪深いことをしたのに許してくれた神に感謝し、その気持ちを歌詞に込めたということです。随分、自分勝手な人ではないか。神が許してくれたと何故、そう考えるのか。私は、そう思いますけれども。

 

さて、奴隷として働かされていた黒人たちは、やがて労働歌を歌うようになる。一般には、綿花を摘む作業だと言われていますが、労働歌というのは、もっと過酷な力仕事を強要された時に誕生するのではないか。

 

どんな労働を強いられていたのかという問題はおくとして、いずれにしても、この労働歌にギターで伴奏を付け、それがブルースになった。

 

録音が残っている初期のブルースマンとしては、ロバート・ジョンソン(1911-1938)を挙げることができます。Love in Vainという曲があって、この曲はこんな歌詞で始まります。

 

Well, I followed her up to the station
With a suitcase in my hand

 

つまり、男が女と別れる。男が女のスーツケースを持って、駅まで送る。そういう場面なんですが、これを現代の日本の状況に当てはめて想像すると、全く意味が分からない。当時のアメリカで鉄道に乗るということは、相当な長距離を移動することを意味しており、かつ、乗車賃だって高額だったはずです。すなわち、これはもう今生の別れ、もう彼女とは一生のお別れだ、ということです。

 

ちなみに、この曲は、ストーンズがそのアルバムLet It Bleedの中でカバーしています。ロバート・ジョンソンは、その他、エリック・クラプトンジョニー・ウィンターにも影響を与えています。

 

ロバート・ジョンソンはギター1本で歌っていましたが、やがてブルースもバンドで演奏されるようになる。そこで、マディ・ウォーターズ(1913-1983)が登場する。彼の代表曲に、I just want to make it love to you というのがあります。日本語では「恋をしようよ」などと訳されることがあるようですが、make loveという用語がありますので、直訳としては「俺はお前を抱きたいだけなんだ」ということになります。

 

これなども、随分、下品な歌詞だなと思われてしまいそうですが、実は、違うのです。歌詞は、次のように続いていきます。

 

俺は、お前を奴隷にしたい訳ではない。
俺は、お前に服を洗って欲しい訳ではない。
俺は、お前の金が欲しい訳ではない。
俺は、お前に料理をして欲しい訳ではない。
俺は、ただお前を抱きたいだけなんだ。

 

当時、既に奴隷制は廃止されていました。そして、黒人女性には、白人の家の家政婦の仕事があった。なんとか食べていける。一方、黒人の男はと言うと、まったく仕事がない。そこで、彼らが生きていく術としては、女のヒモになるしかなかった。当時の黒人男性としては、女に捨てられる、女に逃げられるというのは、すなわち死活問題だった訳です。そういう時代に、この歌は生まれた。俺は、金や生活のためにお前を必要としているのではない。お前のヒモになりたい訳ではない。俺は、お前を本当に愛しているんだ、という意味なんです。とても純粋なラブソングなんですね。

 

ブルースマンたちは、純粋な彼らの気持ちを歌に託した。時代背景を含めて考えますと、そこには普遍性があると思います。

 

やがて、ギターの奏法はブルースと同じで、リズムをアップテンポにしたロックンロールが誕生する。その始祖は、チャック・ベリー(1926-2017)だと言われています。

 

レコードを通じて、これらアメリカの黒人音楽にイギリスの若者が共感した。そして、1962年にビートルズ(1962-1970)とローリング・ストーンズ(1962-活動中)がデビューを果たす。

 

1969年にウッドストックでフェスティバルが開催され、ロックは絶頂期を迎えた。しかし、その後、衰退期に入る。1970年にビートルズが解散する。人によって評価は異なりますが、私の意見としては、ストーンズの絶頂期は、ギタリストのミック・テイラーがいた時期までなんです。そして、ミック・テイラーは、1974年にストーンズを脱退したのです。

 

1975年を迎えると、既にビートルズは無く、ストーンズも絶頂期は過ぎた。すると、ロックファン最後の砦としては、レッド・ツェッペリン(1968-1980)しかなくなった。だから私などは、ツェッペリンには頑張って欲しいと、それはもう心の底から願っていたのでした。しかし、後期になるとバンドのリーダーで、ギタリストのジミ―・ペイジがドラッグで体調を崩した。そこで、他のメンバーが中心となって、いくつかの作品が作られた。しかし、それらは明らかにジミ―・ペイジの、すなわちツェッペリン本来のサウンドとは異なっていた。そこへもってきて、1980年にバンドのドラマーであるボンゾことジョン・ボーナムが急死し、ツェッペリンは燃え尽きるように解散した。

 

そして、私の愛したロックミュージックは、音楽シーンの中心から転げ落ちたのでした。

 

この章、続く

No. 220 第12章: 原始宗教と経典を持つ宗教

 

特に、狩猟採集を生業としていた時代(古代)と、農耕・牧畜を生業としていた時代(中世)の文化を語る上で、宗教の問題を避けて通る訳にはいきません。これらの時代において宗教は、いくつかの文化領域に関連を持たせ、それらの進化を促してきた経緯があります。

 

大きな問題ではありますが、身体系、想像系、物質系などの文化領域に分けて考えれば、検討することが容易になります。更に、人間が文字を発明する以前の、すなわち古代の宗教と、人間が文字を発明し聖書などの経典を作成した後の、すなわち中世の宗教とに分けて考えますと、本質的な事柄が見えてくるように思うのです。ここでは便宜上、古代の宗教を“原始宗教”、中世の経典を持つ宗教を略して“経典宗教”と呼ぶことにします。

 

原始宗教・・・文字を持たない、古代の宗教。

経典宗教・・・文字を持ち、経典を拠り所とする中世の宗教。

 

簡単に、原始宗教の生い立ちを考えてみます。まず、自然界の原理を理解していなかった古代人は、畏怖心を持った。自然災害、疫病、そして死人などを怖れた。これがアニミズムです。そして、自分たちには理解できない、若しくは自分たちではコントロールできない超越的な力を持った何者かが存在するに違いないと考えた。この超越的な存在は、ある時は自分たちに幸運をもたらし、ある時は災厄をもたらす存在だった。すなわち、原始宗教の時代において、幸運をもたらす神という概念と、災厄をもたらす悪魔という概念は、未だ分かれていなかったのではないか。ただ、その超越的な存在は、古代人にとって畏怖の対象だった訳で、神よりは悪魔に近かったのだろうと思います。この神であり、悪魔でもある超越的な存在を、便宜上、“悪魔”と呼ぶことにします。

 

そして古代人は、悪魔の怒りを鎮めるために、歌い、踊った。また、悪魔の力を利用する手段として、“呪術”という手段を考案した。但し、悪魔という抽象概念を理解することは、現実には難しい。そこで、古代人は原始芸術を生み出した。悪魔とは、きっとこんな姿形をしているに違いない。それらは絵画であり、彫刻だった。更に、悪魔と自分たちの関係を理解するために、多くの物語が作られ、口頭で伝承された。また、絵画、彫刻、物語におけるモチーフとして、動物が大きな役割を果たしたであろうことは、想像に難くない。

 

魔よけという呪術を目的として作成されるものに、例えば、神社には狛犬(こまいぬ)という彫刻がある。沖縄には、シーサーがある。シンガポールのマーライアンも、起源は同じではないでしょうか。

 

原始宗教の本質は、“自力救済”にある。何しろ、信仰の対象は悪魔、良く言ったとしても“気まぐれな神様”な訳で、自分たちの側から働き掛けないとご利益は、期待できない。またこの段階では、普遍的な善悪の概念は存在していなかったものと思われます。未だ貨幣は存在せず、経済は原始共産制だったことにも留意が必要かと思います。原始共産制なので、競争系の“序列”も存在していなかったものと思われます。では、一覧にしてみましょう。

 

<原始宗教>
文 字・・・無し
身体系・・・歌、踊り
想像系・・・アニミズム、融即律
物質系・・・原始芸術、呪術、象徴
競争系・・・無し
対 象・・・悪魔(気まぐれな神様)
救 済・・・自力救済
経 済・・・原始共産制

 

善も悪もない時代ですから、例えば、食人という風習を持っていた部族もあったことでしょう。しかし彼らに言わせれば、動物の肉は食べて良いのに、何故、人間の肉を食べてはいけないのか、ということになりそうです。原始宗教について、批判する人がいるかも知れません。しかし私は、素朴で、純粋で、ひた向きに生きようとしていた古代人のメンタリティを否定する気にはなれません。それどころか、ユングゴーギャンのように、もしかすると現代的な課題を解決するヒントが、この時代の文化に秘められているのではないか、と考えています。

 

次に、経典宗教について、考えてみます。

 

文字を持ち始めた人間は、経典なるものを作る。キリスト教で言えば、聖書。仏教においては、お経などを記した膨大な書物があります。これらが、経典です。

 

身体系で言えば、無造作に歌い、踊っていたものが、様式を持ち始めたはずです。そしてその様式が、儀式となる。想像系の世界で言えば、口頭で伝承されていた物語が、書物に代わる。奇想天外な発想をベースにしていた“融即律”という思考方法が、物語的思考に変容する。天地創造の物語が語られ、イエス様はこうおっしゃったとか、お釈迦様はこういう人生を送られたということが、思考のベースになる。ただ、文字によって記録されたということが、問題を引き起こしたのではないか。ここに書かれていることだけが真実だ、と考えた人たちは、フレキシビリティを失った。元来文化とは、人気投票のようなもので、多くの人が支持したものは伝承され、生き残っていく。そうでないものは、失われる。ところが、この経典宗教は、そういう文化の進化プロセスを否定することになった。経典に固執するから、進化しない。進化を拒絶したのが、経典宗教の本質ではないでしょうか。

 

元来、人間というものは、過去の人物を過大評価したり、勝手に物語を作ったりして、英雄を作り出すのが好きです。例えば、聖徳太子という人物が実在したことは間違いなさそうでも、どこからどこまでが彼の功績なのか、判然としないことが近年の研究で明らかになった。そのため、聖徳太子は教科書から消えた。してみると、イエス様やお釈迦様が、本当にそういうことをおっしゃったのか、疑問もないとは言えません。

 

また、論理的に言えば、実験や観測によって立証されないことは、仮説に過ぎません。従って、経典に書かれていることも、仮説に過ぎない。仮説であれば、本来的には「これは仮説です。もしかすると、他の宗教の説明の方が正しいかも知れません。または将来、この仮説を上回る仮説が出てくるかも知れません」と説明すべきところです。しかし、経典宗教というのは、「うちの宗教が言っていることだけが真実であって、他の宗教は間違いだ」と主張する。

 

次に、無数の芸術家を輩出した原始宗教とは違って、経典宗教の時代になると様式が重んじられ、伝統文化が開花することになる。本当の芸術というのは、何をどう表現するか、その全てを芸術家個人が自由に判断するものだと思います。しかし、文字が生まれ、紙が生まれ、記録されるようになると、文化の伝承は容易になり、結果として、様式が尊重されるようになる。流派というものが認識され、お師匠さんについて習うようになる。これが、伝統文化だと思います。これは、明らかにゴッホや、ピカソや、ジャクソン・ポロックなど、本物の芸術家が行ったこととは違う。伝統文化が生み出すのは、芸術ではなく、それは宝物に過ぎない。

 

原始宗教の時代には、漠然と“超越的な存在”として認識されていたものが分化し、神が誕生する。神が悪魔から分化した、と言った方が正確かも知れません。悪魔と違って神様は、自分たちに幸運だけをもたらしてくれる。そこで人々は、どうお願いしようか、という課題に直面する訳ですが、その専門家が登場するんですね。こうやってお願いすればいいんですとか、私があなたに代わってお願いしてあげましょう、ということになる。但し、貨幣経済の社会において、タダで、という訳にはいかなくなります。

 

また、神という存在が認識されたことによって、神という存在に近い者の序列が上で、そうでない者が下、という価値観が生まれる。正に、競争系のメンタリティの起源は、経典宗教にあるのではないか。

 

また、簡単に序列を上がってしまうと、他の人から嫉妬される。これを回避するために、修行が行われる。厳しい修行を乗り越えた人が、序列の階段を上がっていくという仕組みになります。しかし、冷静に考えてみれば、修行によって分かることとは、一体、何なのか。こういうことを尋ねますと、例えば「それは修行を積んだ者にしか分からない」という答えが返ってくる。そこを何とか教えてもらえませんかとお願いすると、例えば「無の境地である」と言われる。

 

原始宗教がその基本的な構造として持っていた呪術が自力救済であったのに対し、神という概念(それに類するものを含む)を持つ経典宗教は、他力本願だと言えるのではないでしょうか。仏教の禅宗は自力本願だと言われているようですが、本当かどうか、私には分かりません。また、自ら思考することが許されるのは上層部だけで、一般庶民は信じていれば救われると教えられるのではないでしょうか。私は、自分の頭で考えたいと思いますが。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

<経典宗教>
文 字・・・有り
身体系・・・儀式
想像系・・・物語的思考
物質系・・・伝統文化
競争系・・・神を頂点とする序列社会
対 象・・・神(お釈迦様など、類する者を含む)
救 済・・・他力本願
経 済・・・貨幣経済

 

文化論の立場から言いますと、経典宗教は文化の進化にブレーキを掛けている。課題だらけの現代においては、早く経典宗教を卒業し、次のステップに進むべきではないか、と思います。但し、アニミズムや呪術によって構成される原始宗教について、私はそのメンタリティを肯定しています。

ガボンの木彫り人形

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ゴーギャンに影響を与えたと言われているペルーの古代陶器。石ころやブロンズ像。そんなものに興味を持ち始めた私は、何とか、触れることのできる物を手元に置いておきたい。そう切に願うようになったのでした。

 

すると、毎日のようにクルマで走っている道すがら、マライカ・バザールという店が気になり始めた。看板には「エスニック雑貨」とあり、店頭には衣類が並んでいる。一体、何の店なのかよく分からない。でも、気になるので覗いてみたのです。店内には、無数の雑貨類が並んでいて、まるでおもちゃ箱のような印象でした。

 

例えば、象をあしらった小物がある。タグを見ると、GODと書いてある。これはインドの神様ですね。やはり、宗教の起源は動物信仰にあった、などと思いながら進んで行くと、階段に出くわす。一瞬、階上は事務所になっているのだろうかと思ったのですが、そうでもなさそうです。探検をするような気分で登って行くと、階段の途中にも様々な木彫り細工が置かれている。それらに圧倒されながらも2階へ到着すると、階下同様、沢山の雑貨類が無造作に置かれている。その一角で見つけたのが、上の写真の木彫りです。見た瞬間、私は「原始芸術だ」と思ったのです。

 

不思議な顔つき。雑な作り。くるぶしから下の巨大さ。この点は、ゴーギャンの作品「かぐわしき大地」と似ている。極端な省略と、大胆なデフォルメ。とても文明人に作れるものではない。もっと洗練された伝統工芸品は、他にも沢山あったのですが、私の興味を引き付けたのは、これだったのです。ちなみに、値段は6900円でした。

 

店員さんに原産地を調べてもらったのですが、分からない。本社に問い合わせてくれると言うので、お願いしました。

 

持ち帰って、部屋のテーブルに置いてみる。ちょっと、不気味な感じもします。呪術に使われる人形ではないのか、などと思ったりもします。やはり、芸術と宗教の起源は同じなのでしょうか。

 

木彫り人形と同じポーズを取ってみたのですが、それは不可能であることが分かる。肘の屈折の仕方が逆なんですね。そんな風に、人間の腕は曲がらない。また、人形の頭の上に大きな笠のようなものがあるのですが、これが何か、分からない。パーカーのフードのような気もしますが、それにしては大きすぎる。髪の毛が逆立っているのか。それとも、部族に固有の飾りを模しているのか。(分かる人がおられたら、是非、教えてください。)

 

夕方、お店に電話をすると、運よく先ほど対応してくれた店員さんが出てくれました。
「分かりました! ガボンです!」
彼女はちょっと高揚した声で、そう言います。
ザボン?」
ガボンです! ガボンのクール族が作ったそうです。品数が少なくて、ほとんで出回っていないそうです。」

 

ほとんど、出回っていない。それはそうだろう。21世紀の日本で、こんな人形を買う人なんて、そうはいない。電話を切ってから、そう思ったのでした。かく言う私は、購入したのですが・・・。

 

ガボンという国、皆様はご存知だったでしょうか。ネットで調べてみると、確かにアフリカにそういう国があります。象、ゴリラ、チンパンジーなどが生息しているそうです。クール族に関する記載は見つかりませんでしたが、ガボンには40もの民族が居住しているとのことです。それにしても、この人形、一体、どんな人が作ったのでしょうか。

 

見慣れてくると、少しかわいい感じがしてきました。

 

(この人形ですが、クール族のシャーマンに違いない。今では、そう思っています。古代人の社会には、そういう人がいたはずです。民族のために、祈りを捧げる。シャーマンは、民俗のリーダーだったはずです。呪術師、と言っても良いと思いますが。 追記 2021年1月13日)

 

No. 219 第11章: 現在事実、記号、そして情報(その3)

 

思うに法律学というのは、過去の事実を見ている。例えば、殺人という事実が発生する。そんなことをしてはいけないということで、法律が作られ、殺人罪が規定される。かつて、そんな罪人はみんな死刑にしてしまえ、という考え方もあったのでしょうが、殺人事件と言っても様々なケースがある訳で、例えば不治の病に苦しんでいる家族を安楽死させるような事例もある。想像力を発揮して、こういう場合まで死刑に処するのはかわいそうだ、と考える。そして現代社会においては、裁判所が量刑を決める。そもそも裁判というのは、過去の事実を対象としている。民事でも刑事でも、ある出来事があって、そこに登場する人物の行為が吟味される。だから、法律家には想像力なり、論理的な思考力というものが要求される。そして、法律の世界というのは、“静的”だと言えます。

 

では、現在事実に直面する“動的”な分野は何か、と考える訳ですが、それは経済ではないでしょうか。株価や為替レートは刻々と変化し、経済はグローバル化し、科学技術の進歩によって生み出された新商品も、政治や軍事に関する動向も、経済は全てを飲み込んで行く。現在の経済界においては、情報が重要であり、膨大な量の記号が情報を構成し、そして消費されていく。

 

ここに“情報の時代”と呼ばれる現代の、そして現代人の課題があるのではないか。すなわち、経済の規模は拡大し、複雑化し、人間の認識能力を超えてしまったのではないか。

 

いくつか、例を挙げて考えてみましょう。まず、シンギュラリティ。以前、このブログでも取り上げましたが(No. 168~No. 169)、これは人工知能に関する技術の進歩に伴い、将来、人口知能の能力が人間の能力を超えるのではないか、そういう技術的特異点がやって来る、という予測のことです。私としては、人間の心というのは複雑で非合理なものであるから、ロボットが心を持つようなことはない、と考えています。しかし、人口知能やロボットが人間に代わって仕事をする、人間の仕事が激減する、という事態は起こり得ると思うのです。例えば、人間が優秀なロボットを作る。そして、そのロボットが、人間の手を借りずに更に優秀なロボットを作り出す。そういうことも、起こり得るのではないでしょうか。すると、そのロボットが何故、そんなことができるのか、どういうロジックになっているのか、最早、人間には理解できない。SF映画のような事態が、現実になる日がやって来る。既に、ディープラーニングという手法によって、人口知能は、自ら学習する能力を獲得している。現実は、もうそこまで来ています。

 

次の事例として取り上げたいのが、ベーシックインカム。シンギュラリティが起こって、人間の仕事が激減すると、失業者が社会に溢れかえり、消費が低迷する。すると、経済が回らなくなり、企業も倒産する。それでは困るので、国民に一律、最低限の生活を維持できる程度の金額を分配しよう。これがベーシックインカムという制度です。働かなくてもお金がもらえる。現役時代の私であれば、これはもろ手を挙げて賛成したでしょう。しかし実際には、そんなに甘いものではない。フィンランドで実験的に導入されたようですが、その際の支給額は、日本円換算で月額6万8千円だったそうです。

 

ベーシックインカムが導入された場合、いわゆる失業保険はなくなる。年金もなくなる。では、国民保険は? 制度設計にもよるのでしょうが、これはもう、疑問だらけです。しかし、ベーシックインカムは、小池百合子氏が希望の党を立ち上げた時の公約になっていましたし、現在も国民民主党では、この制度を検討しています。

 

ネット記事の中には、シンギュラリティに伴う大量失業時代が5年後には始まる、とするものもあります。他方、現在、団塊の世代が一斉に引退しており、人手不足は今後、一層深刻化するという意見もあります。どちらの意見が正しいのか、私には分かりません。

 

3番目の事例として、プライマリーバランス基礎的財政収支)。まず、日本は借金大国で、子や孫の代まで借金を先送りしてはいけない、だから増税が必要なのだ、という説があります。この説は、安倍政権や財務省が唱えています。この話は良く聞きますし、私も、最近まで信じていました。しかし、異論もあるようです。すなわち、日本は借金大国ではないし、現時点で増税すべきではない、とするものです。リクツはこうです。まず、日本国政府には税収がありますが、毎年、それでは賄い切れない額の支出をしている。不足額は国債を発行し、金融市場(銀行、証券会社、個人投資家など)から調達している。しかし現実には、政府が発行した国債の大半は、直ちに日銀が市場から買い取っている。(これを買いオペという)その額は、450兆円まで膨らんでいる。すなわち、政府の赤字は1000兆円程度あるが、その半分程度の債権者(貸主)は日銀なのである。そして、日銀の筆頭株主は政府であり、言わば政府が親会社、日銀は子会社という関係にある。従って、政府は日銀にこの借金を返済する必要がないし、政府と日銀を連結決算すれば、全体として政府は、すなわち日本国の財政は、極めて健全な状態にある。

 

いかがでしょうか? 私も最初は半信半疑でしたが、聞けば聞くほどこちらの説、すなわち日本の財政は健全で増税の必要はない、という説の方が正しいように思えてきました。

 

シンギュラリティ、ベーシックインカムプライマリーバランスと、3つの例を挙げましたが、これらの事項について認識し、自らの意見を持っている人というのは、何パーセント位おられるでしょうか? これらにグローバル経済の現況などを含めて考えますと、実は、ほとんどの人が理解していないのではないか? (もちろん、私も理解できていません。)

 

私たちの祖先である原人は、200万年前に道具を使い始め、180万年前には火を使いこなすようになりました。そして、20万年前にアフリカでホモサピエンスが誕生し、7万年前には、複雑な文法を持つ言語が発明された。これら文化の歴史を通じ、人々は現実世界を認識しようと努め、自然や物に働き掛けてきた。そして人類は、無限に拡張を続ける情報ネットワークやグローバル経済という世界を構築した。しかしその規模は、遂に人間の認識能力を凌駕してしまった。人間は自然界の原理を理解したものの、皮肉にも人間自らが作り出した世界の原理を見失ってしまった。これが、現代という時代における本質的な課題ではないでしょうか。

 

経済学者は、科学を理解できない。科学者は法律を知らない。法律家は、芸術に興味を持たない。芸術家は・・・という具合で、現代社会の全てを理解している人というのは、存在しない。そういう時代になった。別の言い方をしますと、現代人というのは、全員が何らかの形で疎外されている。

 

すると、どういうことが起こるのか。一つには、昔に戻ろう、という人たちが出てくる。戦前の国家に戻そうというのが、日本会議の人たちだと思います。いやいや、もっと昔の神の世界に戻そうと考えたのが、イスラム国の人たち。

 

こんな訳の分からない世界に生きるのは嫌だ、もう余分な情報はいらない、と考えた人たちは、引きこもりになり、ニートになる。最近、引きこもっていた青年たちが、過疎の村で集団生活を始めたという例もあるそうですが、これは一応、理にかなっている。

 

3番目の類型として、閉鎖系の世界に浸ろうというのがある。私が、このブログで何度か主張してきたのは、このパターンなんですね。すなわち、自らの認識の及ぶ世界を“環世界”と言いますが、もう何が何だか分からない世界のことは置いておいて、環世界を築け、情報を遮断して閉鎖系の世界で生きよう、という立場です。少年たちが特定のサッカーチームに夢中になったり、少女たちが特定のアイドルグループに興味を持ったりするのも、実は、彼らなりに環世界を築こうとしているのではないか。このように考えますと、彼らに好奇心の射程距離を伸ばせ、と言うのは酷なような気もしてきます。

 

心理学上、リミット・セッティングという言葉があります。“境界線を作る”ということです。例えば、ユング派の治療で用いられている箱庭療法。これは箱という器によって、境界が設定されている。絵画であれば、キャンバスによって、絵の中と外の境界が設定されている。それでも飽き足らず、キャンバスを額縁に入れて、境界を強調する場合もある。野球やサッカーのスタジアムというのは、その建物が外界との境界になっている。相撲には土俵があり、プロレスにはリングがある。全て、リミット・セッティングではないか。すなわち、境界を設けて、外界とは区別される狭い空間を作り出すことによって、人間が認識しやすいようにしている。そして認識できれば、人は安心する。

 

この章、終り