文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 239 憲法の声(その6) 衝撃のホッブズ

 

ルターやカルヴァンについて検討したことは、決して無駄ではなかったようです。当時の時代環境について知ることができたし、加えてこれから述べるホッブズの偉大さを噛みしめることができると思うからです。そして私は、このブログでホッブズについてご紹介できることを、とても光栄に思っています。

 

トマス・ホッブズは、マームズベリーという街で生まれた。(当時イギリスは、イングランドアイルランドスコットランドに分裂していたものと思われますが、事情は複雑なようです。マームズベリーはロンドンの西側に位置するので、イングランドだと思われます。)ホッブズの生まれた年は、ルターと比べて105年、カルヴァンとは僅か79年しか違わない。

 

マルティン・ルター(1483~1546)
ジャン・カルヴァン(1509~1564)
・トマス・ホッブズ(1588~1679)

 

ホッブズの人生も波乱に満ちたものでした。神聖ローマ帝国を中心にカトリックプロテスタントが争った30年戦争と呼ばれる史上最大の宗教戦争のさなか、ホッブズは自国における革命の気配を察知し、1640年にフランスへ亡命します。実際、1642年、母国イングランドで王党派と議会派の武力闘争が始まる。これが、50万人の死傷者を出したと言われる清教徒革命(ピューリタン革命)です。そして1651年、63才のホッブズは亡命先のフランスで、その代表作“リヴァイアサン”を執筆し、“リヴァイアサン”はロンドンで出版される。(フランスで書かれたものがイングランドで出版された訳ですが、ホッブズは“リヴァイアサン”を英語で執筆したのではないでしょうか。)同年、フランスにおいて、無神論者として異端視されたホッブズは、再び身の危険を感じ、ひそかに清教徒革命の終わったイングランド(ロンドンだと思われます)へ帰国する。言ってみれば、清教徒革命の間、ホッブズはフランスで過ごしたことになります。参考までに、年表を添付します。

 

ホッブズ年表>
1588  ホッブズ誕生
1618  30年戦争(~1648)。主に神聖ローマ帝国を舞台として繰り広げられたカ

   トリックとプロテスタントの戦争。後に、ヨーロッパ各地を巻き込む。約575

   万人が死亡。
1640  ホッブズ、フランスへ亡命
1642  清教徒革命(~1649)
1649  国王チャールズ1世が処刑される(議会派が勝利)。
1651  フランスにてリヴァイアサンの執筆。イングランドにて“リヴァイアサン”出版。

    ホッブズイングランドへ帰国。
1660  チャールズ2世を迎えて、王政復古
1666  宗教界、大学、王党右翼によるホッブズ非難が強まる。
   チャールズ2世は、ホッブズに対し、政治的、宗教的著作を禁じる。
1668  “リヴァイアサン”のラテン語版、出版。
1669  “リヴァイアサン”のオランダ語版、出版。
1679  ホッブズ死去。享年91才。
1688  名誉革命イングランド国教会プロテスタント)が国教化される。
    カトリックの敗北。“権利の章典”により、国王の権限が制限される。

 

※ なお、清教徒革命の時期については、文献等によって、その記載が異なります。
文献6では、1640年~1660年(王政復古を含む)とされており、文献10では、1642年~1648年とされています。Wikipediaは広義と狭義とに分け、狭義では1642年~1649年とされています。ここでは、チャールズ1世が処刑された1649年までとするWikipediaの記載に従いました。

 

さて、“リヴァイアサン”という言葉の意味ですが、これは旧約聖書ヨブ記に出て来る海の怪獣を意味しています。聖書の中で“リヴァイアサン”は、人間の力を超えた極めて強い動物として描かれますが、神によって倒されてしまいます。人間以上、神未満ということです。ホッブズはこの怪獣のイメージに、彼が考える理想的な強い国家像をなぞらえたのだろうと思います。

 

リヴァイアサン”は4分冊になっており、岩波文庫で読むことができます。今回は、その第一分冊から論点を抽出してみます。

 

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上の写真は、“リヴァイアサン”の姿です。国家を代表する王が描かれています。しかし、王の体を良く見ると、そこには無数の個人が描かれている。これがホッブズの国家観を表わしているのです。

 

さて、“リヴァイアサン”は以下の通り4部構成となっています。


第1部: 人間について
第2部: コモン・ウェルスについて
第3部: キリスト教のコモン・ウェルスについて
第4部: 暗黒の王国

 

まず、この第1部において「人間について」というテーマを取り上げていることに驚かされます。そもそも、私には“リヴァイアサン”は国家論が中心であろうというイメージがあったので、その内容は社会学政治学的なものだろうと思っていたのです。この点、ホッブズは、次のように述べています。

 

“あるひとりの人間の諸思考と諸情念が、他のひとりの人間の諸思考と諸情念に類似しているために、だれでも自分のなかをみつめて、自分が思考し判断し推理し希望し恐怖し等々するときに、何をするか、それはどういう根拠によってかを、考察するならば、かれはそうすることによって同様なばあいにおける他のすべての人々の諸思考と諸情念がどういうものであるかを、読み、知るであろう”。

 

国家は人間の集団だ。従って、その最小構成単位である個人について検討すれば、国家が持つ傾向などについて、予め知ることができるだろう、ということです。

 

そして、第1部の第1章は「感覚について」というタイトルになっている。更にホッブズは、感覚とは人間の五感によって感知されるシステムのことで、概ね、次のような構成であると説明している。

 

     ――― 性質/Quality      ―――
    |                   |
人 ―――――― 表象/Representation  ―――――― 対象/Object
    |                   |
     ――― 現われ/Appearance   ―――

 

この図を見ますと、どこかで同じような話を聞いたことがある。上の図の性質、表象、現われという部分を“記号”という言葉に置き換えますと、これは記号学のパース(1839~1914)が考えていたことに良く似ている。ましてや、“対象”という言葉は、私が“記号原理”と称して述べてきた説と同じだ。まあ、私の説はともかくとして、ホッブズとパースはつながっているのだろうか? これは私の個人的な驚きである訳ですが、良く考えてみると、両者は繋がっていることに気付かされる。外界にある何か、すなわち“対象”を人間はどのように認識するのか、という論議を“認識論”と呼んでいいと思います。こういう若干、広い見方をしますと、記号学も認識論の一種である。すると、ホッブズからパースまで、一直線で繋がるのです。

 

ホッブズ → ロック → ルソー → カント → ヘーゲル → パース

 

Wikipediaを見ますと“認識論”とは、存在論ないし形而上学とならぶ哲学の主要な一部門である、とのこと。してみると、私がこのブログで繰り返し述べて来た記号だとか、記号原理という問題は、哲学の主要なテーマであったことが分かる。恥ずかしながら、知りませんでした。なお、パースの記号学は現代においても、注目を集めています。それは、人間の認識方法について、人口知能の専門家が勉強し始めているからなんです。多分、上に記したラインは、現代社会の問題にも直結しているに違いない。

 

ちなみに、ルソーからカントへの繋がりについて、私は直接的な情報を持っていなかったのですが、最近、分かったのです。すなわち、カントは当初、偉いのは学者だけで、無知な民衆を馬鹿にしていた。いかにも、ありそうな話ですね。しかし、ある時カントはルソーの「エミール」という文献に出会う。そして、長く伸びた鼻をへし折られ、自らを恥じたというのです。カントはルソーから、全ての人間を尊敬すべきことを学んだ。ちなみに、殺風景だったカントの書斎を飾っていたのは、唯一、ルソーの肖像画だったそうです。

 

話がなかなか前に進みませんが、ホッブズの思想について、引き続き検討していきます。

 

文献6: ホッブズ/田中浩/清水書院/2006
文献7: 抑止力としての憲法樋口陽一岩波書店/2017
文献8: 法とは何か 法思想史入門/長谷部恭男/河出ブックス/2015
文献9: カルヴァン/渡辺信夫/清水書院/1968
文献10: 暴力の人類史(上)/スティーブン・ピンカー青土社/2015
文献11: リヴァイアサン(1巻~4巻)/ホッブズ岩波文庫/1954

No. 238 憲法の声(その5) カオスとしての宗教戦争

前回の原稿で、権力には3種類あると書きました。その呼称なんですが、最後に“権力”という言葉を加えた方が分かり易いのではないかと思い直しました。変更させていただきます。

 

規範制定力 → 規範制定権力
軍事力 → 軍事的権力
経済力 → 経済的権力

 

神聖ローマ帝国は、かつてローマ教皇を頂点とする権力組織が上記3つの権力を統制し、機能していたのだろうと思います。規範制定権力は、ローマ教皇カトリックの教義が支配し、軍事的権力は皇帝が掌握し、経済的権力は未発達の段階にあったものの、徴税システムが機能していたに違いない。すなわち、ローマ教会が3つの権力の全てを掌握していた。

 

しかし、十字軍の遠征(1095~1291)があり、カトリック勢力としては聖地エルサレムの奪還に失敗し、皇帝の権威は低下した。反面、ヨーロッパと中東を結ぶ交易が始まり、その中心地としてローマは経済的な発展を遂げた。幾人もの大富豪が生まれ、彼らは芸術家のパトロンになった。生活費の心配をする必要のなかった芸術家たちは創作活動に専念し、14世紀のイタリアにおいて、ルネッサンス文化が開花する。これは主に、美術界において多大な成果をもたらした。人間回帰を標榜するルネッサンスとは、別の言い方をするとカトリックの厳しい戒律に対する反発でもあった。このような経緯の中で、ローマ教会が持っていた規範制定権力と経済的権力の双方が低下していった。

 

16世紀の南ドイツ地方は、銀や銅などの鉱物の産地だった。これらの鉱物は東方諸国へ輸出された。その利権と販売ルートを手に入れたヤコブ=フッカーという商人は、巨万の富を手にした。他方、皇帝は相変わらず軍事的権力を握ってはいたものの、戦費が膨らむなどして、財政的には窮乏していた。そこで、富商フッガーは皇帝や諸侯に高利で金を貸し、経済的権力を持ち始めた。ちなみに、皇帝カール5世は、7人の選帝侯たちの選挙によって選出されたのですが、この際、巨額の裏金を選帝侯たちに支払ったと言われています。そして、その裏金を工面したのが、富商フッガーだった。こういう背景があって、贖宥状の事件が勃発したようです。

 

さて、本題の“宗教戦争”に移りましょう。ルターやカルヴァンに関する文献の多くは、キリスト者が著作している。すなわち、もう信じ切ってしまっているので、ルターやカルヴァンは素晴らしい、神様を信じよう、というスタンスなんですね。そういう著者の方々を批判するつもりはありませんが、私にはもっと客観的な情報が必要です。しかし、本屋へ行ってもこの時代について説明している文献というのは、なかなか見つからない。それには理由があるのだと思います。つまり、ヨーロッパ人はこの恥辱にまみれた時代のことを思い出したくない。それについて語ることはタブー視されている。そういう事情があるのではないか。しかし、ふと思い立って、手元にあった“暴力の人類史”(文献10)を開いてみると、そこにかなり生々しい記述を見つけることができました。

 

“1520年から1648年にかけてヨーロッパで戦われた多くの宗教戦争が、きわめて陰惨で残酷かつ長いものだったことは驚くに値しない。これらの戦争は単に宗教だけではなく、領土や権力をめぐる争いでもあったが、宗教上の違いが激しい感情をいっそうかき立てたことは間違いない。”

 

そして、文献10は軍事歴史学者のクインシー・ライトの説として、宗教戦争には以下のものが含まれる、と説明しています。

 

カンブレー同盟戦争(1508~1516)
・カール5世によるメキシコ、ペルー、フランス、オスマン帝国との戦争(1521~1552)
ユグノー戦争(1562~1594)
オランダ独立戦争(1568~1648)
エリザベス1世によるアイルランドスコットランド、スペインとの戦争(1586~1603)
・30年戦争(1618~1648)
清教徒革命(1642~1648)

 

その犠牲者について、同じく文献10は次のように述べています。

 

・30年戦争で今日のドイツの大部分は荒廃し、人口はほぼ3分の1に減った。死者数は約575万人と推定されている。(3人のうち2人が死んだということでしょうか!?)
清教徒革命の死傷者数は、約50万人。

 

しかし、戦争や革命とは別の殺人も頻繁に繰り返されていた。魔女狩りです。文献10によれば、旧約聖書出エジプト記22章18節に「魔法使いの女は、これを生かしておいてはならない」という記述がある。これが根拠となって、15世紀から17世紀にかけて、フランスとドイツで魔女狩りの嵐が吹き荒れたとのこと。6万人~10万人が処刑されたそうです。犠牲者の85%は、女性だった。まず、拷問が行われ、その後火炙りの刑に処せられる。当時の人々は信じていたようですが、人間が箒に乗って空を飛ぶはずがない!

 

人権侵害という意味では、奴隷制の問題もありました。同じく文献10から、引用させていただきます。

 

“旧約・新約聖書奴隷制を支持し、プラトンアリストテレスはそれを文明社会に欠かせない自然な制度として正当化している。”

 

中世のヨーロッパにおいて、奴隷制農奴制や小作制度へと移行する場合もあったそうです。

 

ルターは「ユダヤ人と彼らの嘘について」と題するパンフレットの中で、次のように主張したそうです。「まず、彼らの礼拝所や学校に火を放ち・・・彼らの家も同じように燃やし・・・彼らをこの国から永遠に追放するのだ」。そして、再洗礼派の人々に対し、ルターは「死刑にすべきだ」と宣言した。

 

またカルヴァンは、三位一体説(神とイエス聖霊が一体であるとする説)を批判した神学者ミシェル・セルヴェを火炙りの刑に処したとのこと。この点、カルヴァンに好意的な文献9は、若干の反論を加えています。すなわち、異教徒がやって来たことをカルヴァンは当局に告発しただけで、火炙りの刑に処するべきだとは主張していない。但し、告発を受けた異教徒が死刑になることをカルヴァンは知っていた。

 

随分と昔の話なので、何が真実なのか、それを推し量ることは困難です。しかし、ルターやカルヴァンは、異教徒に対する弾圧、殺戮、魔女狩り奴隷制などを支持していたものと思われます。長い目で見ると、カトリック教会が支配していた権力構造が崩れ始め、そういう社会的な環境にあって、ルターとカルヴァンが引き金を引いた。そこで、宗教戦争という暴力とカオスの時代が到来した。そういうことでは、ないでしょうか。

 

日本が大戦中に繰り広げたアジアにおける殺戮行為について思い出したくないのと同様に、ヨーロッパ人は宗教戦争の時代を忘れたがっているのではないか。日本人が“敗戦”という事実を“終戦”と呼び代えたように、ヨーロッパ人は“宗教戦争”を“宗教改革”と呼び代えているのではないでしょうか。

 

私の気力はすっかり失せてしまったのですが、カルヴァンについて、簡単に記しておきましょう。彼はフランスで生まれ、神学などを勉強します。あまり行動的な性格ではなかったようですが、ある日、回心する。そして、自己を滅却し、神に仕えることのみに価値を見いだす。ルターの影響もあって、カルヴァンは行動し始める。フランス当局からの弾圧を怖れたカルヴァンは、ジュネーブへ行く。そこで、教会のガバナンスを確立する。すなわち、教会の規律を策定し、賛美歌を推奨し、教育を推奨し、聖職者の結婚を是認した。このような立場を取る宗派はプロテスタントと呼ばれ、キリスト教においてカトリックに次ぐ宗派となる。プロテスタントには、ルター派、バプテスト派、メソジスト派、改革派、会衆派、ピューリタンなどがある。

 

近代立憲主義や民主主義の起源ということを考えますと、それはルターやカルヴァンではない。起源と呼ぶに相応しい思想家は、もう少し後になって、すなわちピューリタン革命の時代に、イギリスで生まれたホッブズだと言えるのではないでしょうか。

 

文献3: ルター/小牧治・泉谷周三郎/清水書院/1970
文献4: プロテスタントの歴史(改訳)/エミール=G・レオナール/白水社/1968
文献5: 宗教改革と現代の信仰/倉松功/日本キリスト教団出版局/2017
文献9: カルヴァン/渡辺信夫/清水書院/1968
文献10: 暴力の人類史(上)/スティーブン・ピンカー青土社/2015

No. 237 憲法の声(その4) 神聖ローマ帝国における権力の構造

 

注文していたカルヴァンに関する本(文献9)を読んでおりましたら、面白い記述がありました。

 

ルターが火を付けた宗教戦争は、ヨーロッパ各地に飛び火して行く。しかし、当時は現代に比べると国家という枠組みが明確ではなかった。そこで、カトリック勢力とルター派が争う訳ですが、その勝敗というのは、国家単位というよりは地域単位で決していく。同じフランスでも、どこそこの街はカトリックが勝ち、隣の街はルター派が勝つ、という具合だったようです。

 

ルター派と言っても、どこまでルターの考え方が浸透していたのかは分かりません。インテリだったルターは、多くの原稿を書き、本を出版しましたが、社会の底辺にあった農民たちは、ルターが主張した聖書第一主義(福音主義)というよりは、自分たちの地位や経済的な水準の向上を目指していた。便宜上、ここでは総合してルター派と記します。

 

ルター派の闘争は、次第に過激になっていく。そして、標的とされたのはカトリックの教会だった。14世紀のイタリアに端を発したルネッサンスの影響もあって、当時のカトリック教会には豪華な絵画や彫刻が沢山あった。教会の建物自体にも彫刻が施されていた訳ですが、ルター派はそれらを片っ端から破壊した。そもそも、ルター派の主張というのは、神の言葉は聖書に書いてあるのであって、それを人間が勝手に解釈するのはけしからんという点にあった訳で、ルターは同じ観点で、当時の宗教画などは人間による勝手な解釈だと考えたのでした。

 

また、ルター派カトリック教会が行っていた儀式(サクラメント)についても、批判しました。言ってみれば、これらは呪術のようなものであって、排除すべきだ、ということだったのです。私も、それら儀式の本質は、呪術にあると考えます。何かを願い、物に働きかける。それが呪術の本質だと思うのですが、してみると儀式という文化自体、その本質は呪術にある。(日本古来の神道など、呪術そのものだと思います。)

 

ルター派は、美術品を破壊しはしたものの、教会の建物までは壊さなかった。すると、ガランとした建物だけが残された。これは寂しい。なんとか、人々の心を引き付ける工夫が必要だ、ということになった。そこで、ルターは「賛美歌を歌おう」と提案した。当初、歌詞は聖書から持って来て、そこにメロディーを付けることで、賛美歌が成立した。しかし、それでは曲数が足りないということで、なんとルターは、自ら賛美歌の作詞、作曲を行ったそうです。カトリック教会でも賛美歌は歌われていたようですが、儀式を重んじていたカトリックは、ルター派ほどには賛美歌に力を入れていなかったそうです。

 

こういう話に触れると、私は想像せざるを得ないのです。すなわち、プロテスタントのヨーロッパ人が、やがて海を渡りアメリカ大陸に移住する。アメリカでも同じように教会を作り、賛美歌を歌った。この賛美歌が後にゴスペルと呼ばれるようになり、モータウンサンドに発展する。一方、アフリカ大陸からアメリカ大陸へ奴隷として連れて来られた黒人は、まず、労働歌を歌い始める。労働歌にギターの伴奏を加え、ブルースが生まれる。ブルースを8ビートに変えたのがチャック・ベリーで、これがロックンロールとなる。ロックンロールとモータウンサウンドを融合させ、ビートルズが生まれた! 仮説ではありますが、多分、そのような経緯ではないでしょうか。従って、全てのビートルズファンは、マルティン・ルターに感謝すべきなのです!

 

話を戻しましょう。ルターは、世俗的な(宗教以外の)世界と、信仰の世界とを分けて考えた。更に、儀式(呪術)を批判し、賛美歌を奨励した。これらの事象をどのように考えれば良いでしょうか。文化論者である私には、整理できます。次の図をご覧ください。

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なお、ここでは“権力”に注目したいのです。本稿(憲法の声)では、後にモンテスキュー三権分立についても検討する予定です。加えて、権力分立というのは憲法を考える上で、とても重要な要素となります。

 

権力には、3種類ある。それが現時点における、私の意見です。まず、軍事力(競争系)。軍事力を持つ者が、権力者である。この点、反論はないと思います。次に、経済力(物質系)。結局、金を持っている者が強いのだ、と考える人も現代の日本では少なくないように感じます。よって、これについても、異論は少ないと思います。しかし、権力にはもう一つある。人々の心を支配し、統制する力。目には見えにくいこの力によって、人々の考え方や行動が決定される。英語にはマインド・コントロールという言葉がありますが、これに相当する適当な日本語は、見つかりません。例えば、宗教上の戒律は、これに該当すると思います。現代の法律もこれに該当するでしょう。ルールと言っても良い。戒律、法律、ルールを定める権力というのは、確実に存在する。そして、あらゆる権力の中で、一番強いのがこれではないでしょうか。便宜上、この権力を“規範制定力”と呼ぶことにします。

 

文献9: カルヴァン/渡辺信夫/清水書院/1968

進捗状況のご報告(その2)

非公式原稿とは言え、前回の原稿において、私は2つのミスを犯してしまいました。これは、訂正してお詫び申し上げるしかありません。

 

1つ目のミスは、ホッブスの表記ですが、正しくは最後の“ス”が“ズ”と濁る。ホッブズが正しい。2つ目のミスは、少し前提について説明する必要があります。

 

まず、トマス・ホッブズですが、大変誤解され易い人だったようで、主権者(国家権力)には抵抗すべきではない、と主張した。ここからホッブズは絶対主義者であるという解釈が生まれ、それがカール・シュミット(1888~1985)を経てナチズムにつながった。この解釈は、日本では第二次世界大戦の敗戦時まで続いた。

 

ホッブズ → シュミット → ナチズム

 

他方、上記の理解は誤りであって、ホッブズは人間の自由、平等、平和を説き、後に確立される近代民主主義の基礎を築いた。そして、ホッブズの正当な後継者は、ロックであり、ルソーである、とする説があります。文献6と文献8はこの立場を明確に支持しており、文献7はこの説を前提としているように読めます。

 

ホッブズ → ロック → ルソー

 

当然、ナチズムを支えたシュミットを支持する訳にはいきませんが、前回の原稿で私が引用させていただいた以下の箇所は、シュミットの文章を樋口氏が引用したのであって、樋口氏の言葉ではないことが分かりました。お詫びして訂正させていただきます。

 

“主権を「その権力の頂点に達」するところまで導いたホッブズこそ「神学の世紀たる16世紀から形而上学の世紀たる17世紀への推移」「西欧合理主義の英雄時代」の中心に座を占める先達だったのである。” → シュミットが書いた文章

 

なお、文献6におきましては、日本国憲法へ多大な影響を与えた近代自然主義思想の創設者として、ホッブズ、ロック、ルソーの3名を強調しています。また文献8は、ホッブズ、ロック、ルソー、カントの4名を取り上げています。少なくとも両文献に共通するホッブズ、ロック、ルソーが、キーパーソンであることに間違いはなさそうです。つきましては、今後、このブログで取り上げる予定として、ルソーは追加する必要がある。更に、三権分立を説いたモンテスキューも加える必要があろうということで、この2人をリストに加えることにしました。

 

マルティン・ルター(1483~1546)
ジャン・カルヴァン(1509~1564)
・トマス・ホッブズ(1588~1679)
ジョン・ロック(1632~1704)
モンテスキュー(1689~1755)
ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)

 

ルソーまで行くと、その後は歴史的出来事として、アメリカの独立戦争フランス革命へとつながっていくことになります。

 

(参考文献)
文献6: ホッブズ/田中浩/清水書院/2006
文献7: 抑止力としての憲法樋口陽一岩波書店/2017
文献8: 法とは何か 法思想史入門/長谷部恭男/河出ブックス/2015

 

思想史からすれば、ルソーの後に来るのは、ドイツ観念論と呼ばれるカントと、それに続くヘーゲルということになりそうです。このブログを以前からお読みいただいている方はご記憶にあるかも知れませんが、私にとってカントは鬼門なのです。それは、気負って「純粋理性批判」を読もうとして、挫折した経験があるからです。「哲学中辞典」なるものまで購入して解読しようと挑戦したのですが、とにかく難しい。何を言っているのか分からない。分かりもしないのに、苦痛に耐えて読み続けることに意味はない。そう思ったのでした。

 

しかし文献6では、カントとヘーゲルを批判している。ポイントとなる箇所を引用します。

 

“カントやヘーゲルのような「偉大な哲学者」たちも、ホッブズ、ロック、ルソー的な近代自然法の原理を真に理解することができなかったのである。そして、そのことこそ、第二帝政滅亡後にヴァイマル共和国が創設されたにもかかわらず、その近代化が果たされず、ヒトラー独裁国家を生み出した原因であった、と思われる。”

 

加えて、文献8においても、カントは批判されています。まずカントは、何かを行動する際の判断基準として、誰もが同じ行動を取った場合に、その行動はどう評価されるか、ということを考えるべきだ、と主張した。例えば、誰もが嘘をついたとしたら、社会は混乱する。よって、嘘をついてはいけない。しかし、現実には様々な場面で、無数の選択肢がある訳で、どの選択肢をチョイスすべきなのか、ということにカントの考え方は対応していない。更に、何か行動を起こす際に、いちいちそんなことを考えてはいられないはずだ。なるほど、カントも間違うことがある。そう思うと、ちょっとカントにも親近感が沸いてくるのです。

 

哲学史に聳える最高峰」。私が持っている「純粋理性批判」の帯には、そう書かれています。私には手の届かない峰の頂に、カントがいる。そう思ってきたのですが、意外とそうでもないのかも知れない。基礎的な知識もなく、いきなりカントを読んだから、分からなくて当然だったのではないか。もしかすると、上に列記したルターからルソーに至る6人の思想家たちを勉強した後であれば、私にも、理解できるのではないか。そんな気もしてきました。なお、文献6や文献8は、カントの記した一部の著作を批判しているのであって、カント哲学そのものを批判している訳ではないと思います。

 

例えばカントは「人間性というねじ曲がった素材から完全にまっすぐなものを作り出すことはできない」(文献8)と述べたそうですが、これは私がこのブログで述べた「全ての国家と思想家は、発展途上である」という主張に似ていないでしょうか?

 

私は文化領域論の中で、「経験がメンタリティを生み、メンタリティが文化を誕生させる」と述べましたが、この前段は哲学上の“経験主義”に似ている。これは「全ての認識の源泉は経験にある」とする立場です。カント以前に、そういう考え方があった。そこでカントは、経験に基づくんじゃ普遍性がないしそんな認識は信用できない、と考えたに違いない。そして、経験やその他のバイアスを排除した認識によって構築される理性というものを考えた。その理性をカントは「純粋理性」と呼んだのではないか。

 

そんなことを考えながら、あらためて「純粋理性批判」の頁をめくってみると、前回よりは何となく分かるんですね。少なくとも、分かるような気になってくる。興味は尽きませんが、カントはちょっとペンディングにしておこうと思います。

 

話はルターに戻ります。結局、ルターの功績はどうだったのか。日本国憲法に照らして考えてみます。まず、政教分離については、明確に主張しました。よって、これは「〇」です。政教分離というのは、権力分立でもある。但し、ルターは権力分立の制度論にまでは至っていない。よって「△」。平等という概念について、宗教の世界においては「万人祭司」ということを明確に主張したのですが、世俗(宗教以外)の世界における職業については「神の配剤」だから文句を言うな、と主張した。よって、これは「△」。

 

政教分離・・・〇
権力分立・・・△
平 等・・・・△

 

「そんな簡単なものではない!」と学者の方からはお叱りを受けそうですが、どう考えても、上のように記すと分かり易い。表記方法はもう少し考えるとして、何か、早見表のようなものは作れないだろうか。そんなことも考えています。

 

そう言えば、憲法学者という職業の方々についても、考えてみました。憲法学にも学閥があって、東大が強いそうです。例えば、樋口氏、長谷部氏なども東大を卒業されています。彼らは18才頃東大に入って、以後、40年以上の長きに渡って憲法の研究をされている。英語の他にドイツ語やフランス語もマスターされている。日本語に翻訳されていない文献は、原書にあたる。それどころか、専門書の翻訳も手掛けている。研究成果は学会で発表し、多くの文献を公刊されている。それはもう、とても立派なことだと思うのです。そこで、尊敬の念を込めて“先生”という敬称を付けさせていただいたのです。

 

他方私はと言うと、人に自慢できるような経歴は何もありません。約37年間の長きに渡ってサラリーマンをし、地面を這いつくばるような人生経験を積んでまいりました。では、憲法学者と私とどちらが偉いのかと考える訳ですが、それは平等なのではないかと。学者の方々の憲法に関する研究のご努力とその成果には、当然、敬意を持っています。しかし、私も一生懸命に生きてきた訳で、例えば、ロック・ミュージックの歴史やジョン・レノンに関する知識であれば、そこいらの憲法学者に負けることはない。無神論者である私は、神の下に皆平等だと主張するつもりはありません。そうではなくて、法の下に皆、平等だと思うのです。その証拠に、憲法14条1項にこう書いてあります。

 

「すべて国民は、法の下に平等であって・・・(以下略)」

 

最後になりますが、本稿(憲法の声)を書き進めるに当たっては、思想家や出来事の先後関係を把握しておく必要があります。よって、年表を作りながら作業を進めるのが便利だと思います。「憲法年表」と称して、作り始めたものがありますので、以下に添付しておきます。これは今後、アップデートする予定です。なお、ユングやパースが記載されているのは、私の個人的な興味からで、憲法に関係はありません。今後、例えばジョン・レノンの生年月日が追記されるかも知れません!

 

<憲法年表>

1215.06.19   イギリスにおいて、マグナカルタが制定される。

1473.02.19   ニコラウス・コペルニクス誕生(~1543.05.24)
       1510年、同人誌にて地動説を公表

1483.11.10   マルティン・ルター誕生(~1546.02.18)

1509.07.10   ジャン・カルヴァン誕生(~1564.05.27)

1517.10.31   宗教改革 ルター 95か条の提題

1588.04.05   トマス・ホッブズ誕生(~1679.12.04)

1632.08.29   ジョン・ロック誕生(~1704.10.28)

1642      清教徒革命(ピューリタン革命 ~1649)

1643.01.04   アイザック・ニュートン誕生(~1727.03.31)

1651      ホッブズが「リヴァイアサン」を出版

1688      名誉革命

1689.01.18   モンテスキュー誕生(~1755.02.10)

1712.06.28   ジャン=ジャック・ルソー誕生(~1778.07.02)

1724.04.22   イマヌエル・カント誕生(~1804.02.12)

1748      モンテスキューが「法の精神」を出版し、三権分立を提唱。

1762      ルソー 社会契約論が公刊される。

1770.08.27   フリードリヒ・ヘーゲル誕生(~1831.11.14)

1776.07.04   アメリカ独立宣言

1787.09.17   アメリカ合衆国憲法 作成

1788      アメリカ合衆国憲法 発効(世界最古の成文憲法

1789.02.26   フランス 人権宣言採択

1839.09.10   チャールズ・サンダース・パース誕生(~1914.04.19)

1859.11.24   ダーウィンが「種の起源」を発表

1864.04.21   マックス・ヴェーバー誕生(~1920.06.14 享年56才)

1874     (明治7年)自由民権運動

1875.07.26   C. G. ユング誕生(~1961.06.06)

1889.02.11   (明治22年大日本帝国憲法 公布

1890.11.29   (明治23年大日本帝国憲法 施行

1914.07.28   第一次世界大戦 勃発

1917      ロシア革命

1918.11.11   第一次世界大戦 終結

1919.06.28   ヴェルサイユ条約締結

1919.08.11   ドイツがヴァイマル(ワイマール)憲法を制定。(公布、施行は14日)

1920.01.10   国際連盟 発足

1933.03.23   ドイツが全権委任法を制定。ヒトラー率いる政府に無制限の立法権付与。

1939.09.01   第二次世界大戦 勃発

1945.04.30   ヒトラー自殺

1945.05.09   ドイツ国防軍降伏

1945.08.06   広島へ原爆投下

1945.08.09   長崎へ原爆投下

1945.07.26   (昭和20年)ポツダム宣言

1945.08.14   (昭和20年)日本がポツダム宣言を受諾
       第2次世界大戦終結

1945.10.24   国際連合 設立

1946.11.03   (昭和21年) 日本国憲法 公布

1947.05.03   (昭和22年) 日本国憲法 施行

1950.06.25   (昭和25年) 朝鮮戦争勃発

1950.08.10   (昭和25年) 警察予備隊 設置

1951.09.08   (昭和26年) 日米安全保障条約締結

1952.10.15   (昭和27年) 警察予備隊を保安隊へ改組

1954.07.01   (昭和29年) 自衛隊設立

1994.04.06   ルワンダ ジェノサイド

2015.09.17   (平成27年) 平和安全法制(戦争法) 制定。

2016.03.29   (平成28年) 平和安全法制(戦争法) 施行。

以 上

進捗状況のご報告

前回の原稿で、プロテスタントの起源までは理解できたと思うのですが、複数の文献によりますと、プロテスタンティズムを体系的に確立したのは、ルターではなく、ジャン・カルヴァンだということです。ルターが残した最大の功績は、現代の言葉で言えば政教分離ということだと思いますが、それを発展させてプロテスタンティズムが完成した。その過程で宗教戦争がヨーロッパ全土に広がる。そして、カトリックに留まる国と、プロテスタントへ移行する国とに分かれる。そういうプロセスにおいて、カルヴァンが何をどう考えたのか。私としては、どうしてもここは押さえておきたい。何しろ、後年マックス・ヴェーバーは、資本主義の原点はプロテスタンティズムにある、と主張している。しかし、適当な文献が見つからない。やっとの思いで、昨日、本屋に注文したところ、取り寄せには10日程かかるというのです。

 

ブログの更新をどうするかという問題は、別途考えるとして、やむを得ず、私は次のステップ、すなわちホッブスの検討に着手することにしました。

 

プロテスタントが台頭し、1642年にイギリスでピューリタン革命が起こる。そして1688年の名誉革命を経て、イングランドに世界初の近代国家が誕生した。(文献6)正にその頃、トマス・ホッブスが登場する。ホッブスについて憲法学会の重鎮、樋口陽一先生は、次のように述べておられます。

 

“主権を「その権力の頂点に達」するところまで導いたホッブスこそ「神学の世紀たる16世紀から形而上学の世紀たる17世紀への推移」「西欧合理主義の英雄時代」の中心に座を占める先達だったのである。”

 

私の言葉で言えば、カルヴァンまでが宗教者、すなわち“物語的思考”で、ホッブスからが“論理的思考”ということになりそうです。従って、ホッブスは、極めて重要な人物ということになります。

 

更に、ホッブスの考え方を進化させ、体系化したのが同じくイギリス人のジョン・ロック。どうやら、ここら辺までは間違いなさそうです。ちょっと、列記してみましょう。

 

マルティン・ルター(1483~1546)
ジャン・カルヴァン(1509~1564)
・トマス・ホッブス(1588~1679)
ジョン・ロック(1632~1704)

 

ところで、ルターは人間の社会を2つの領域に分けて考えた。しかし、“領域”と言われると、私も黙ってはいられません。文化領域論の立場から、やはり人間が生きている世界の領域は、5つあると言いたくなります。

 

文化領域論では、主に文化とかメンタリティを対象に考えた訳ですが、宗教や政治の世界も、やはり5つの領域に区分できる、というのが私の説です。

 

まず、競争して勝敗を決し序列をつける“競争系”は、武力、軍事力という言葉に置き換えることができる。“物質系”は、経済力。記号系は、情報。共感を求める“身体系”は、誰かの意見に共感するだけで、自ら何かを発想したり発明したりすることはない。大衆と言っても良いと思いますが、民主主義との関連で言えば、ポピュリズムという言葉が近いと思います。問題は、“想像系”です。“想像系”とは、人間が想像力を働かせ、時間の流れに従って物語を生み出し、因果関係を考え、やがて原理を発見し、仮説を立てる。こうなっているのではないか、こうすればきっとうまくいくはずだ、という具合に考える。してみると、宗教上の教義も近代的な思想も、仮説であるという共通点を持っている。更に、この仮説は、個々人の内心に直接働きかけるという特質がある。未だ実証されたことのない仮説であって、人々の内心に働きかける、という点だけを取り上げれば、ルターの福音主義マルクス主義も、同じ地平で捉えることができる。そしてこの仮説は、“法”という形式をもって社会の中に、そして私たちの眼前に現れるのだと思います。

 

本稿を推し進めていくと、やがてこの問題に行き当たるのだろうと、今は、漠然と思っています。ちなみに、思想家たちは、以下の著作を記しています。

 

1640年 「法の原理」  ホッブス
1748年 「法の精神」  モンテスキュー
1822年 「法の哲学」  ヘーゲル

 

ただ、人間の社会や政治に関して、これがベストだという仮説は、未だに発見されていない。従って、全ての思想家、全ての国家は、発展途上にあると思うのです。

 

(参考文献)
文献1: 新 もう一度読む 山川世界史/「世界の歴史」編集委員会山川出版社/2017
文献2: 新・どうなっている!? 日本国憲法(第3版)/播磨信義 他/法律文化社/2016
文献3: ルター/小牧治・泉谷周三郎/清水書院/1970
文献4: プロテスタントの歴史(改訳)/エミール=G・レオナール/白水社/1968
文献5: 宗教改革と現代の信仰/倉松功/日本キリスト教団出版局/2017
文献6: ホッブス/田中浩/清水書院/2006
文献7: 抑止力としての憲法樋口陽一岩波書店/2017

No. 236 憲法の声(その3) そして宗教改革が始まる

 

<1517年10月31日 95か条の提題>
ローマ教皇の許可を得てアルブレヒト選帝侯が販売していた贖宥状(しょくゆうじょう)に反発したルターが、95か条の提題(以下「提題」という)をヴィッテンベルクにある教会の扉に掲示した。これが筆写によって各地に伝えられ、大学を中心として普及していった。(文献3, 初版1970年)これが一般的な理解だと思いますが、異なる説明もあります。“提題”は教会の扉に掲示されたのではなく、ルターは自らの上司に当たる司教に書状を添えて送っただけである。その後ルターの教説は、当時普及し始めたイラスト入りの活版印刷物として大量に配布され、普及していった。(文献1, 初版2017年) 但し、どちらの説も“提題”のオリジナルはドイツ語ではなく、学術用のラテン語で記述されていた説明しています。してみると、ラテン語で記述され教会の扉に掲示された“提題”を書き写すというのは、ちょっと不自然に感じます。よって後者の説の方が、より事実に近いのではないでしょうか。“提題”はその後、ルター自身によって、若しくは第三者によってドイツ語に翻訳され、出版された。そんなところではないでしょうか。ちなみに前説を述べている文献3の初版は1970年。後説を述べている文献1の初版は2017年です。47年間も違うのです。やはり、歴史学も進歩しているに違いありません。なお、この時ルターは34才。若いのに、思い切ったことをしたものです。

 

さて、“提題”の中味は、神学上の論点をまとめたものでした。ルターは“提題”をベースとして、神学上の論議が行われることを期待していたのです。そして、“提題”を受領したルターの上司は、これをローマ教会に転送しますが、結局、ローマ教会がルターの要請に応じることはありませんでした。

 

<1520年6月15日 破門威嚇の大教書>
ローマ教皇は、ルターに対し破門を威嚇する大教書を公布した。これは、もしルターがローマ教会に服従しなかった場合、制裁を加えるという威嚇を通知するものだった。

 

<1520年 ルターが「宗教改革」の三大文書を出版>
  8月・・・キリスト教界の改善に関して、ドイツのキリスト者貴族に与える書
10月・・・教会のバビロン幽囚
11月・・・キリスト者の自由

 

<1520年12月10日 ルターが破門威嚇の大教書を焼き捨てる。>
広場に大学教授や学生たちが集まる。そこで、ルターは自らの立場を宣言した上で、ローマ教皇から受領した「破門威嚇の大教書」を燃え盛る薪の中に投じた。特に若い学生たちは、ルターの毅然とした態度に感激した。

 

<1521年1月3日 破門状>
ローマ教会はルターに対し、破門状を発した。

 

<1524年6月~ 農民戦争>
ドイツ西南地域においては、荘園の解体が進み、農民の生活は比較的向上していたが、農民層は彼らの不明確な地位に不満を持っていた。そしてルターの主張にも刺激され、農民戦争が勃発する。1525年の春、農民たちは「キリスト者同盟」を結成した。彼らは、彼らの主張を正当化するために聖書の言葉を引用するなどして取りまとめた「12か条の要求」を公表した。農民たち(キリスト者同盟)の行動は激化し、城、教会、修道院などに火を放つと共に、略奪や放火を繰り返した。この暴動はまたたくうちに各地へ波及した。1525年5月、暴動が鎮圧されかかっていた正にその時、ルターは「農民の殺人・強盗団に抗して」と題した著書を発表した。農民側(キリスト者同盟)はルターに精神的な指導者となることを望んでいたにも関わらず、ルターはその著書の中で「愛する諸侯(貴族)よ、(中略)なしうるものは誰でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。」と主張した。農民側の落胆がいかほどのものであったか、想像に難くない。この農民戦争において虐殺された農民は、10万人に及んだ。農民戦争が終わった後も、農民たちはローマ教会に反感を持ち続けたが、最早、ルターに対する信頼も地に落ちたのである。同時に、ルターも深く傷ついた。歴史家は、この農民戦争とルターの関係を、“悲劇”と呼ぶ。

 

この問題を、もう少し考えてみたいと思います。ルターは、農民戦争の動向を見誤ったのではないか、という研究者もいるようです。すなわち、このままでは農民側が戦争に勝利し、教会が無くなってしまうという危機感を持った。そうかも知れません。但し、ここでも2つの領域に分けるというルターの考え方の本質に従って、分析してみた方が良さそうです。後年この2つの領域は、教会と国家とも呼ばれるようになります。

 

私的領域・・・霊的階級・・・・霊的統治・・・・・教会
公的領域・・・世俗的階級・・・この世の統治・・・国家

 

ルターは上記2つの領域は、交わらない方が良いと考えていた。まず、国家の側から教会の領域への侵害という例を考えます。これは、何よりも聖書の言葉に従って信仰を持とうとしたルターにとっては、許しがたいことだった。ルターが贖宥状の販売に激しく異議を申し立てたのは、この例だったように思います。本来、神聖であるべき信仰の世界に、金銭という穢れた要素が持ち込まれた。罪を意識し、罰を求める。それがルターの想定した理想だった。しかし、贖宥状を購入することによって、人々は罰から免除されてしまう。それでは、ルターが理想としていた信仰は成立しない。そういう関係にあった。だから、ルターはローマ教会から破門されても、怖れることはなかった。

 

農民戦争の場合は、贖宥状とは反対の事例だった。すなわち、教会の側から、国家の領域への侵害だとルターは考えたに違いありません。農民たちは聖書の言葉を用いて、自分たちの主張を正当化しようとした。ルターには、これが許せなかったのだろうと思います。国家の領域においては、神の配剤によって職業というものが決められている。従って、人々はその本分を全うするべきだ。そういう国家という領域に神の言葉、すなわち聖書の言葉を持ち込むとは何事か、とルターは考えたのだろうと思います。

 

上記の考え方に違和感を覚えるのは、多分、私だけではないと思うのです。ここにルターの限界があった。すなわち、ルターは教会の領域においては、万人祭司論を展開し、霊的階級を撤廃しようとした。言わば、民主主義的な思想を確立しようとした。他方、国家の領域においては、世俗的な階級を否定し得るロジックを確立できなかった。すなわち、ルターにおける民主主義というのは、50点なんです。ただ、今から500年も前にそういう考え方を発想したところに、ルターの偉大さがある。

 

<1526年6月 カール5世の譲歩>
農民たちの支持を失っても、ルターの考え方は死ななかった。それどころか、聖書に帰れという福音主義は、各地に広まった。そして、フランスやトルコとの争いに翻弄されていた世俗的最高権威にあった皇帝カール5世は、教会のあり方については各領主(諸侯)の裁量に任せることとした。

 

<1529年6月 プロテスタントの由来>
フランスやトルコとの戦いに勝利した皇帝カール5世は、教会のあり方について各領主に与えていた裁量権を撤回した。生粋のカトリックだったカール5世は、「ルター派の地方ではカトリックに対し宗教的自由を与えるが、カトリック派の地方ではルター派に宗教的自由を与えない」ことを国会で決議した。これに反発した福音主義を標榜する5人の諸侯と14の都市は、「2つの宗教を認めることはできない」として「抗議書」を提出した。「抗議書」の中で諸侯たちは、「すべて神の言葉に反するものには同意できないので、このことを神の前で抗議し証明しなければならない」と述べた。この抗議という言葉が、後のプロテスタント(抗議する者)の由来となった。

 

(参考文献)
文献1: 新 もう一度読む 山川世界史/「世界の歴史」編集委員会山川出版社/2017
文献2: 新・どうなっている!? 日本国憲法(第3版)/播磨信義 他/法律文化社/2016
文献3: ルター/小牧治・泉谷周三郎/清水書院/1970
文献4: プロテスタントの歴史(改訳)/エミール=G・レオナール/白水社/1968
文献5: 宗教改革と現代の信仰/倉松功/日本キリスト教団出版局/2017

No. 235 憲法の声(その2) マルティン・ルターの信仰

 

2.マルティン・ルターの信仰

 

宗教改革と言えば堕落したカトリックに対し、ルターが反旗を翻した所から始まった。そうお考えの方が多いのではないでしょうか。そう説明している文献もありますが、実際にはそう簡単なものではなかった。その説明をする前に、まずは彼が何を考えていたのか、そちらから入りたいと思います。何を考えていたか、それは一般に“思想”と呼ばれるものですが、ルターの場合“信仰”と言った方が相応しい。彼は、純粋な宗教家だったのです。

 

「ルターはこの世が悪魔や魔女にみちた世界であることをかたく信じており、生涯この信仰からぬけでることはなかった」そうです。(文献3)無理もありません。そういう時代だったのです。既にアメリカ大陸は発見されていたものの(1492年)、コペルニクスが同人誌において地動説を発表した1510年、ルターは27才でした。その後ルターは、コペルニクスの地動説は聖書と矛盾するとして、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べたそうです。現代人の我々からしてみると、おかしいのはどっちだ、と言いたくもなります。そんなルターは本当に偉大な人物だったのか、という疑問も沸いて来そうですが、それでもルターは偉大だった、と私は思うのです。

 

まず、ルターの人間観から。ルターは次のように述べたそうです。「外見的に義(ただ)しく見える人もその心の中では罪をおかしている。というのは、たとえ人が外見的に良い行いをしたとしても、それは罰へのおそれからか、利益とか名誉などを欲して行なっているのであって、けっして自発的に喜んで行なっているのではないからである。つまり、外見的に義(ただ)しくみえる人は絶えずよい行ないをなすけれども、その心のなかには悪いものへの“むさぼりの心”と熱望とがみちているのである」(文献3) この考え方は、そもそもアダムとイブがリンゴの実を食べた時から人間は罪深い存在となったとするキリスト教の“原罪”の考え方に通ずるところがあるように思います。深い問題ではありますが、ここでは後世の法律との違いのみを指摘しておきます。すなわち、宗教は人の心の内面にまで立ち入る。他方、法律はそこまで立ち入らない。例えば、ある人が殺人を犯そうと思ったとしても、法律がその人を罰することはありません。

 

では、罪深い人間はどうすべきなのか。神に赦しを求めるしかない。それが、信仰である。但し、原罪を背負った人間は、生きている間、そこから逃れることはできない。故に、生涯を通じて、自らの罪を自覚し、罰を求め、神に赦しを請う。すなわち、信仰を持ち続けなければならない。では、信仰とは何か。それは神の言葉に従うことである。そして、神の言葉が記載されているのは、聖書をおいて他には存在しない。概ね、このような経緯で、ルターは聖書中心主義に至ります。このように聖書を尊重する考え方を“福音主義”と言います。

 

罪深い人間 → 神に赦しを求める → 信仰 → 神の言葉 → 聖書

 

上記のように考えたルターとしては、ローマ教会(カトリック)のやり方が許せなかった。一つには、ローマ教会における聖職者の階級問題がある。当時ローマ教会には、概ね、次の階級が設けられていた。

 

1. 教皇
2. 司教
3. 祭司
4. 修道士

 

そして、教会へ行くと祭司などが、説教を述べる。まず、ルターにはこれが許せなかった。「人間の分際で、勝手に何を述べているのだ!」と思った訳です。神の言葉である聖書の説明なり教育をすることは大切だ。しかし、人間である祭司などが自分の意見を述べるのはけしからん、とルターは考えた。

 

霊的階級については、絶対的な神の前で、人間を区別すべきではない。司祭も平信徒も同じ人間だ。そこでルターは、「教会法によって聖職者の自由、身体、生命、財産、名誉が高く位置づけられ、自由であるのに、一般信徒は霊的にはよきキリスト者ではなく、身体、生命、財産などは自由ではないかのような扱いである。その差別は、人間の法や捏造による」と言って、抗議した。(文献5) そして、ルターは「万人祭司論」を展開する。すなわち、洗礼を受けたキリスト者には、皆、祭司の資格があるとルターは主張した。

 

ルターは絶対的な神を想定した。そして、神から見れば、罪深く愚かな人間たちは、皆、同じだ。神の前では、平等なんだ、と考えた。この「平等」という概念を一応、論理的に主張した初めての人間。それが、ルターなのではないかと思います。

 

二つ目としては、ローマ教会が取り仕切っていた儀式について、ルターは反発した。この儀式は“秘跡”とか“サクラメント”と呼ばれています。ローマ教会においては、晩餐、洗礼、悔い改め、聖信礼、結婚、聖職授任式、臨終塗油の7種類の秘跡が認められていた。聖書中心主義のルターとしては、このような儀式が我慢ならなかった。ルターとしては、神は絶対であり、人間の側から神に働きかけるような儀式は行うべきではないと考えたのです。(但し、ルターは晩餐と洗礼だけは認めた。)

 

ここまでならば、ルターがその名を後世に残すことはなかったかも知れません。ルターの真骨頂は、ここから先なのです。ルターは、ローマ教会を批判するロジックとして、上に記した教会の聖職者としての階級(以下「霊的階級」といいます)とは別に、世俗的階級というものを考えたのです。

 

霊的階級・・・・教皇、司教、祭、修道士
世俗的階級・・・諸侯、君主、手工業者、農民

 

更にルターは、宗教上の「霊的統治」と、世俗的な「この世の統治」を分けて考えたのです。そして、教会は「霊的統治」に専念すべきであって、「この世の統治」に口をだすべきではないと主張した。すなわちルターは、「権力を背景にした政治的世界に、キリストの名を持ち出すことは、人間の神化、相対的なものの絶対化とも言うべき悪魔的状況を作り出す」(文献5)と考えたのでした。

 

そして、「この世の統治」については、それぞれの職業なり立場というものは、神が決めたことなので、各人、率先してその権威に服するべきだと考えたのでした。ここら辺が、ルターの限界でもあります。「この世の統治」においても、人間は皆、平等であるべきだ、と主張してもらいたいところですが、ルターも発展途上の人間だった訳です。多分、ルターの関心は「霊的統治」に集中していて、「この世の統治」にはあまり興味がなかったのではないでしょうか。

 

ところで、ここまで書きますと、憲法論とのつながりが見えて来ます。憲法学の言う「私的領域」と「公的領域」という考え方の起源が、ルターにあることが分かります。

 

私的領域・・・霊的階級・・・・霊的統治
公的領域・・・世俗的階級・・・この世の統治

 

このように見て来ますと、「平等」という概念のみならず、政教分離、信教の自由、ひいては欧米人の個人主義なども、その起源はルターにあるような気がします。

 

(参考文献)
文献1: 新 もう一度読む 山川世界史/「世界の歴史」編集委員会山川出版社/2017
文献2: 新・どうなっている!? 日本国憲法(第3版)/播磨信義 他/法律文化社/2016
文献3: ルター/小牧治・泉谷周三郎/清水書院/1970
文献4: プロテスタントの歴史(改訳)/エミール=G・レオナール/白水社/1968
文献5: 宗教改革と現代の信仰/倉松功/日本キリスト教団出版局/2017