文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

"れいわ新選組"に内在する古代のメンタリティ

きっと、狩猟・採集を生業としていた古代人は、現代人よりも幸せだったに違いありません。彼らは、食料となる動植物を追い求めて、移動を繰り返していました。守るべき資産など、ほとんどなかったのです。新たに発見した植物は、まず、食べてみる。山があれば、登ってみる。彼らの暮らしは、チャレンジに充ちていたはずです。

 

奪い合う資産がないから、彼らは平和に暮らしていた。狩猟で得られた獲物の肉は、集団の中で平等に分配された。そうでなければ、女子供が生きていけません。仮に、平等に分配しない集団があったとしても、そのような集団は、淘汰されたはずです。

 

そんな古代の集団の中に、序列というものは、ほとんど存在しなかったものと思います。例えば、イノシシやシカを狩る時には、共同作業が必要です。その作業は、その集団の構成員が共に生きていくために必要な作業だったのです。すなわち、彼らは運命を共にする“仲間たち”の集団だった。

 

集団だからと言って、理不尽な戒律のようなものは存在しなかった。移動を繰り返しているうちに、はぐれてしまう者もいたでしょう。年頃になった女性たちは、近親相関を回避するために、他の集団にプレゼントされたり、交換されたりしていました。すなわち、古代人が形成していた集団のメンバーは、フレキシブルに入れ替わっていたのです。そのように、絶えずメンバーが入れ替わる集団においては、厳しい序列制度というものは維持されません。

 

チャレンジングで、平和で、平等で、仲間意識に溢れていた古代人の暮らしは、人間が農耕・牧畜生活を始めた時に、失われてしまった。定住し、移動することを止めた人びとの意識は、内向的になったはずです。農耕作業においては、決して、宝くじに当たるような幸運に恵まれることはありません。豊作と言っても、それはアベレージの2割増しか、せいぜい3割増しの収穫が得られるに過ぎない。他方、台風などの自然災害、農作物に関する病気などによって、1年分の収穫が失われてしまうリスクは、常につきまといます。よそ者は、農作物を盗むかも知れない。動物だって、畑を荒らすに違いない。集団の構成員は固定化され、すなわち、序列によって統率されるようになる。息苦しく、排他的で、懐疑に充ちた防御的な暮らしが始まる。現代社会が抱える諸問題のルーツが、ここにあるのではないでしょうか。

 

ところで、古代人に特徴的なメンタリティは、“融即律”です。例えば、無文字社会に生きるある村長が、「我々の先祖は、バナナである」と発言した。このブログに度々登場するバナナ村長です。(過去の記事で、このバナナ村長はイワム族であると記載してしまいましたが、これは私の記憶違いでした。どの部族かは分かりません。バナナ村長はレヴィ=ストロースの「野生の思考」に登場します。)

 

融即律の特徴は、合理的な思考において決して結びつくことのない複数の概念が結合される、という点にあります。自分たちの祖先という概念と、バナナという概念は、通常結び付くことはない。当然ですね。

 

しかし、バナナ村長はこれら2つの概念を結合しているのです。このような心理的な動きは、時間の経過と共に、退化してきたのではないでしょうか。科学が進歩し、教育が充実して行くに従い、例えば、人間の祖先はサルであって、バナナではないという知識が共有化されて来た訳です。

 

融即律は、直観と言い換えても良いと思います。そして、現代においても、前衛芸術家を創作に向かわせる原動力となっている。例えば、ジョン・レノンは、各国の大統領や首相に対しドングリを送り、平和を訴えた。ドングリと世界平和。これも融即律だと思います。

 

そのような心の働きが、実は、山本太郎さんを突き動かしているのではないか。理不尽な法案の採決が行われた時、太郎さんは数珠を持って葬儀のような振る舞いをした。理不尽な法案と葬儀。ちょっと、普通では結びつきません。

 

「この国に足りないのは、金と愛だ!」

 

これは、街頭演説会における太郎さんの発言です。うまいことを言うものだなあと感心してしまいます。ただ、太郎さんの口からは、こういう言葉がポンポンと飛び出してくる。

 

「あなたを助けたいんです。どうしてかって? あなたを助けるとは、私を助けることなんです!」

 

こういう太郎さんの言葉に、聴衆はどんどん惹きつけられていく訳ですが、論理的に考えますと、ちょっと飛躍がある。「あなた」と「私」が混同されている。しかし、この混同は支持者の側にも伝染している。支持者のツイッターを見ますと、次々に、「太郎」を名乗る人たちが現われている。ポコポン太郎、まゆみん太郎、ラーラ太郎など多くの太郎さんがおられますが、MMT太郎と名乗っている人もいました。(きっと、経済にお詳しい方に違いない!)皆、太郎さんに強く共感を覚え、「私」と「太郎さん」を積極的に混同しているのだと思います。

 

こういう例は、他にもあって、少し前に“I am Kenji”というのがあったのは、ご記憶されているでしょうか。後藤健二さんというジャーナリストがイスラム国の捕虜になった。テロリストたちは、健二さんを殺そうとした。それに反対するメッセージとして、世界中で“I am Kenji”と書いた紙を持って撮影した自らの写真を、人びとがSNS上に拡散したんです。

 

更に古い話になりますと“星とレゲエの島”という小説がある。これは、私の兄の山川健一が書いたものです。レゲエミュージシャンのことをラスタマンと言うようですが、彼らは、“You and I”と言うところを“I and I”と言うらしい。ここにも、明らかに混同がある訳ですが、これらの混同は“融即律”であって、ここにこそ、論理では測れない大切な人類のメンタリティがあるのではないか。そして、そのようなメンタリティを体現しているのが、“れいわ新選組”なのだろうと思うのです。

 

今日までに発表されている候補者を一覧にしてみます。(敬称略)

 

山本太郎
蓮池徹・・・・(元)東電社員
安冨歩・・・・女性装の東大教授
木村英子・・・全国公的介護保障要求者組合・書記長 (他)

 

太郎さんは、この国に暮らす全ての人々のために戦っていますが、とりわけロス・ジェネ世代を救済するために政策を発表しています。

 

蓮池さんは、原発被害者を救済するために、東電と戦っています。

 

安冨さんは、息苦しさを感じている全ての人々のために、身を挺して戦っています。また、特別会計の闇をあばこうとして殺害された石井紘基氏の遺志を継ぐと発言しています。この人、ガチです。馬に乗って皇居を一周したいなどと言っていますが、これも典型的な融即律だと思います。

 

木村さんは、ご自身と同じような環境にある身体障害者の方々のために、行政と戦ってこられた方です。応援しましょう!

 

結局、農耕・牧畜を生業として、宗教などの中間集団を形成した“中世”という時代があって、この時代のメンタリティが、伝統的な“右派”を形成している。このメンタリティは、変化を望まず、視野は狭い。

 

長い間、上記の“右派”に対抗してきたのが、近代思想に基づく“左派”だと思います。しかし、日本には市民革命によって政権を倒した歴史、経験がなく、左派はほとんど右派に勝利することがない。

 

思えば、論理派を自認する私ではありますが、論理で人を感動させることはできません。人を感動させ、突き動かすのは、やはり“融即律”ではないか。最近、そんな風に思います。そして、この古代のメンタリティこそが、息苦しい現代社会を突破していく原動力になるのではないでしょうか。

 

「この国に足りないのは、金と愛だ!」

 

けだし名言。

反グローバリズム!

前回の記事を掲載してから、わずか数日しかたっていませんが、選挙前ということもあって、世の中では様々な変化がありました。本日、6月26日をもって国会は閉幕し、参院選の日程も決まったようです。

 

公示・・・・7月4日
投開票・・・7月21日

 

衆院の解散がないということは、10月の消費税増税は確定したものと思われます。複数の経済評論家が、日本経済の危機を憂いています。日本経済は、更なるデフレの深みに嵌ってしまいそうです。

 

“れいわ新選組”の寄付金は、2億円を超え、太郎さんと蓮池さん以外の候補者も、既に決まったそうです。そして明日(27日)、発表記者会見が予定されています。楽しみで仕方がありません!

 

ところで、このブログでは「国債発行に基づく政府の日銀に対する債務は、返済する必要がない」と述べてきましたが、この認識に間違いはなさそうです。MMTに関する左派の経済学者、松尾匡(ただす)氏が主催している薔薇マークキャンペーンのプロモーションビデオがあって、その中でもこれは「事実上の永久債であって返済する必要はない」と明確に述べられています。7分12秒のビデオで、MMTの要点が良くまとめられています。是非、視聴されることをお勧め致します。(松尾匡氏は、太郎さんのお師匠さんのような方です。)

 

#薔薇マークキャンペーン プロモーションビデオ
https://kusuyama43.amebaownd.com/posts/5820027


さて、私の検討結果からすれば、私たち日本人は、アメリカと大企業によって支配されている。ここでは、大企業による支配について考えてみます。

 

大企業 → 経団連 → 自民党
大企業 → 連 合 → 立憲民主党、国民民主党
大企業 → マスメディア → 国民

 

このように考えますと、私たちは自民党に投票しても、立憲民主党に投票しても、結局、大企業の支配から逃れることはできない。そして、愚民政策を推進しているテレビを見ると馬鹿になるし、大企業が販売している商品の情報ばかりが刷り込まれる。

 

但し、大企業にも良い側面があります。大企業は、大量生産によって低価格な商品を我々に提供している。豊富な資金力を背景に、新商品を開発している。私たちが日常的に、当たり前のように使用している便利な商品の多くは、大企業が開発したものです。更に、多くの雇用を生み出しているという事実もあります。

 

してみると、大企業と言っても、良し悪しがあるに違いない。この点、損益計算書をベースに少し考えてみましょう。

 

これは会計年度ごとに作成が義務付けられている財務諸表の一種ですが、1年間の企業活動を端的に示すものだと言えます。

 

一番上に、売上高という大きな数字があります。そこから、企業が支払った原材料費だとか、人件費などが差し引かれていきます。そして、税引き前(税金を支払う前)の利益、すなわち経常利益が算出され、更に、税引き後の利益、すなわち純利益が算出されます。この純利益については、どう処分するかの原案が策定され、株主総会の議決を経て、配当金として支払われたりする訳です。簡単に言えば、企業活動というのは、こういう風になっている。

 

してみると、上記の各項目から、企業にとっての利害関係人が見えて来ます。この利害関係人のことを、一般に“ステークホルダー”と呼びます。

 

売上高・・・・顧客
原材料費・・・取引先
人件費・・・・従業員
税金・・・・・国家
配当金・・・・株主

 

地域社会や地球環境をステークホルダーに加える例もありますが、ここでは省略します。また、通常、国家はステークホルダーに含まれませんが、重要な意味があるので、ここでは含めて検討します。

 

すなわち、上の一覧の右側に記した各ステークホルダーと良好な関係を構築している企業は、良い企業だということになります。顧客に良い商品を提供し、取引先とは公正な関係を構築し、従業員には適正な賃金を支払い・・・ということになります。

 

皆様の大企業に対するイメージは、いかがでしょうか。昔は、善良な大企業があったという話を良く聞きます。松下幸之助の松下電機だとか、本田宗一郎のホンダ技研などが、その例として挙げられます。

 

しかし、最近、そういう話はあまり聞きません。何故か。それは、株主が外国人になったからではないか。そういう前提で考えてみると、腑に落ちるところがあるのです。外資系企業と言っても良いと思います。

 

外資系企業の場合も、顧客は大切にします。そうでなければ、売上高を確保できません。しかし、原材料費とはコストそのもので、取引先との関係などは、重視しません。実際、カルロス・ゴーンが日本にやって来て、最初に手を付けたのは、部品購入費の削減でした。次に、外資系であれば人件費も削減対象となります。更に、税金(法人税)などは、ビタ一文払いたいとは思っていない。なにしろ、外国人なので、日本国に税金を納めたいと思うインセンティブがない訳です。そして、配当金。外国人株主は、ひたすらこれを求めている。投資しているのだから、そのリターンを求めるのは当然だ、ということになります。

 

株主が日本人であれば、取引先や従業員に対して、多少なりともシンパシーを感じるはずです。しかし、外国人にはそれがない。ただ、利益を上げて、自分たちは配当金を受領したいと思っている。これが、グローバリズムのカラクリではないでしょうか。(外国人株主を責めている訳ではありません。仮に私が外国企業の大株主であれば、同じように考えるのではないか。)

 

実際、外国人株主が増加するにつれ、労働者の実質賃金は低下し、法人税収も低下し、株式配当は増加している。こんなことで、日本経済が良くなるはずがありません。

 

更に言えば、グローバリズムと民主主義は両立しないという問題もあります。いくら日本の国会で法律を作っても、グローバル企業は世界を舞台に活動している訳で、その活動全般を日本法で拘束することができない。どうしても日本法では、制限できない部分が出てくる。例えば、タックスヘイブンペーパーカンパニーを作って節税するケースなどがこれに当たります。いくら日本に労働法があっても、海外の日本人勤務者には適用されないのではないでしょうか。グローバリズムの側に立つか、民主主義の側に立つか。私は民主主義の方を選びます。

太郎さんの仁義なき戦い

一昨日(6月19日)、新宿西口で開催された山本太郎さんの街頭演説会、凄い人出だったようです。そして、またまた、太郎節が炸裂したんです。その部分だけをピックアップした動画もあります。私は勝手に、文字起こしをしてみました。

 

経団連の中心にいるような、執行部たちが、あまりにも腐り過ぎてないかって話なんですよ。おそろく、連合も腐っているでしょうけれども。(苦笑)消費税10%にしろなんて労働組合あるかよ!(聴衆・・・そうだあ! 拍手!)何のための労働組合だよって話ですよ。言って行きますね。連合のことも、今からは。もう仁義なき戦い、始まってますよ。はっきり言って。喧嘩上等ですよ。それが嫌なんだったら野党一つになれよってことですよ。消費税5%でまとまって戦わんと、これ変えられないじゃないですか。その圧力を掛けるために1人で旗振ってんですよ。でもいいですよ。ある時期が来てからは、徹底的にやりますから。

 

今ネットの中で流れているんです。どうして予算委員会がこれだけ長期間に渡って何か月も開かれていないのか。その理由は何なんだって質問を広島で受けました。それに対して私は、その理由は野党第一党のせいだってことを言いました。だって、自民党側と折衝するの、野党第一党なんだから。筆頭間協議ですよ。筆頭間協議。それに対して、どうして、しっかりつっぱねないのっていう話なんですよ。それだけのこと。私は質問に対して、立憲民主党ですよって答えを言ったんです。それに対して、どうして野党を叩くんだっていう話なんです。違うよ。立憲民主党の支持者がお尻叩けばいいじゃないかって。何をユルユルやってるんだって話ですよ。次で参議院に捩れを作るっていう気迫がないんやったら、どうして政治やってるんですかって話ですよ。いつやるんですかって。次の選挙は、その次の選挙の地固めなんですって、いい加減にしてくれますか、ですよ。何年苦しんだら、その苦しみから解放されるんだって話ですよ。希望を見せてくれってことですよ。それを見せられるのが政治だろって。与党側に見せられたこの地獄みたいな景色を変えられる、一緒にやろうって、変えてみせるって、私たちがやればこんなに生活が良くなるよっていう旗を振って、皆に希望を持たせて、それで一緒に力を集めて変えていくっていうのが野党の仕事だろうって。万年野党でいるつもりかって話ですよ!(聴衆・・・そうだあ! 拍手!)」

 

私はリアルタイムでツイキャスを見ていたのですが、この箇所では思わず「そうだあ!」と叫んでしまいました。

 

ちょっと、解説致します。前段の部分は、連合に対する批判ですね。連合というのは労働組合ですが、最近の連合幹部の言動と、私の個人的な経験を重ね合わせて考えますと、これは企業側の意向を忖度し、賃金や労働条件を低く抑えようとする「御用組合」だと思います。太郎さんも指摘していますが、最近、連合の幹部は「消費税を予定通り10%に上げる」よう自民党に陳情しています。どうして労働組合が企業側になるかと言えば、それは労組の役員に関する人事権を企業の人事部が掌握しているからだろうと思います。こういうパターンですと、企業側の利益を誘導する労組の役員というのは、出世コースに乗ります。

 

そして、連合が支持して来たのが、(旧)民主党です。今で言えば、立憲民主党(以下「立憲」)と国民民主党(以下、「国民」)ということになります。連合はこれらの政党に政治献金を行い、選挙ともなればポスター張りなどで協力しているものと思われます。最近は、市民と野党の共闘などと言って、前述の2党に加え、共産党社民党なども仲良くやっていますので、結果、連合を批判する人というのは、いない訳です。別の言い方をしますと、連合を批判するのは、野党勢力の中でタブー視されている。

 

太郎さんはそこに切り込んだので、事情を分かっている人たちから喝采を浴びた訳です。私自身、若い頃には同盟系の労組にヒドイ目に合わされた経験があります。現役時代、決して口にすることのできなかったタブーを太郎さんが言ってくれた。溜飲が下がるとは、正にこのことです。また、連合に対する批判を含めて、同じ野党だろうが戦うぞ、という意味で、太郎さんは「仁義なき戦い」という言葉を使ったのです。

 

太郎さんの演説の後段部分は、立憲に矛先が向けられています。こちらも、若干補足させていただきます。(旧)民主党の勢力は、前述の通り、立憲と国民に分かれており、両党は内輪もめをしています。立憲の方が優勢です。国民の最近の政党支持率は、0.6%~1%程度なのです。そこで、今度の参院選の結果次第で、国民は消滅する可能性がある。立憲民主党の幹部は、そう見ている。そこで立憲の幹部は、今度の7月の選挙で、まず国民を潰し、その後の選挙で自由にやろうと考えているという見方がある訳です。太郎さんは、立憲のこのような態度を批判している。

 

そこで、「今は、野党が協力して安倍政権を倒すべきだ。野党間の批判は、慎むべきだ」という意見について考えてみましょう。

 

このような場合私は、「達成すべき目標は何か」と考えてみます。それは言うまでもなく、現在不足しているマネーストックを増やし、景気を回復させることです。そして、そのための手段として、消費税廃止や“れいわ新選組”が掲げているその他の政策がある。

 

他方、このまま野党が共闘して、仮に、政権を取った場合はどうでしょうか。

 

権力の構造は、こうなっています。

 

大企業 → 経団連 → 自民党 ・・・緊縮財政、増税路線
大企業 → 連 合 → 立憲  ・・・緊縮財政、増税路線

 

自民党も立憲も緊縮財政、増税路線です。してみると、このまま野党が共闘して、立憲主導で勝利を収めたとしても、本来の目的である「反緊縮、財政出動」路線(マネーストックを増やす)にはなりません。すなわち、目標は達成されないことになります。

 

してみると、ここは「喧嘩上等」という太郎さんの判断が正しいことになる。

 

そして、昨日(6月20日)、立憲が記者会見を開き、同党の経済政策が発表されました。この様子は、同党のHPから動画を見ることができます。これを見た最初の印象は、暗い、ということです。記者会見なのか、お通夜なのか、分からない。結論から言えば、立憲の立場は消費税据え置き(8%)ということでした。

 

目前に参院選を控え、記者の方々に政策をアピールできる貴重な場です。例えば、パワポを使って様々な指標を説明しながら、「だから、わが党はこう考えるんだ」と熱弁を振るうべき場だと思うのですが、そういうことは一切ありませんでした。

 

結局、立憲は自民党の批判はできますが、経団連や連合、そしてその先にある大企業と戦うことはできないのです。(旧)民主党時代の政策も踏襲しようとしている。手かせ足かせが多すぎて、まともな経済政策を作ることができない。

 

連合との関係を清算しない限り、立憲は、日本国民のための経済政策を策定することができないのではないでしょうか。

今、この国で起きていること

先月、駅前にあった「串揚げ屋」が閉店してしまいました。とても美味しかったのと、いつ行っても満席ということはなかったので、私はしばしば通って、時には昼間からビールを飲んでいたのです。そういうお客は少ないということもあって、店員さんも私の顔は覚えてくれていたようです。

 

ある日、お店でビールを飲んでいると女性の店員さんがやって来て、言いました。

 

「実は、今週いっぱいで、閉店することになりました。今まで、本当に有難うございます。お客様には、いつも美味しそうに召し上がっていただいて、私たちの励みになりました」

 

突然のことだったので、どう返答して良いか分からず、私はこう尋ねたのです。

 

「するとこの先、このお店はどうなるの?」

 

「私たちには、分かりません」

 

私は、余計なことを聞いてしまったのです。少し動揺したせいもあって、私は、生ビールをもう一杯注文したのでした。

 

「いつもより、一杯多いですね。有難うございます」

 

にっこり笑って、店員さんはそう言ったのでした。彼女は、私が飲むビールの杯数まで憶えてくれていたんですね。そう思うと、妙に悲しくなってしまった。

 

その「串揚げ屋」さんが何故、繁盛しなかったのか、理由は明らかでした。ランチが千円だったのです。今の日本人にとって、ランチ千円は高過ぎるのだろうと思います。それとなく周辺のお店を見てみると、どこも850円以下なんです。

 

昨年の末頃には、アメリカン・ステーキのお店も閉店してしまったのです。ステーキだから、決して安くはない。しかし、和牛と違って、びっくりする程高くはないのです。それでも、今の日本人にとって、ステーキは高級品なのでしょう。この時は、勘定を済ませて店の外に出た私を女性の店員さんが追いかけて来て、閉店する旨を知らせてくれたのでした。彼女は、その後の就職先が決まっていないと言って、不安気な表情をしていました。

 

幸い私には、千円のランチや、たまにはアメリカン・ステーキを食べる位の経済力があります。しかし、それらのお店が無くなってしまっては、元も子もありません。すなわち私は、私一人だけで幸せになることはできない。社会全体が幸せにならなければ、そこに生きる個人の幸福も実現しない。いい年になって、そういう当たり前のことを実感している次第です。

 

但し、私たちは、世界中の人々と共に幸福になることは困難だと思います。例えば、北朝鮮の一般国民は、現在、大変な労苦に直面している。しかし、私たち日本人が彼らの幸福に貢献することは、極めて困難です。仮に彼らの幸福を願うのであれば、現在の独裁体制を打破する必要があります。では、そのために戦争をするのか。それはできません。人道的な観点から、恵まれない国々に援助をすることは大切です。しかし、そういう例外的な事項を除いて、まず私たちが考えるべきことは、日本国民の幸福ではないでしょうか。

 

滑ったり転んだりしながら、このブログでは様々なことを検討してまいりましたが、どうやら、人間が幸福になるためのモデルのようなものを提示できそうです。

 

まず、人間には「知りたい」、「認識したい」という本能に近い欲求がある。そして、かかる認識に基づいて、自律的に思考する必要がある。更に、この思考は、一つ所に留まることなく変化し、更新されていく必要がある。私はそう考えるので、この自由を制限する宗教とイデオロギーには、賛成できない。

 

そして個人は、セクハラ、パワハラ、DVなどが蔓延する集団ではなく、開放系の中間集団を構成すべきだ。その一例として、次の写真を掲載させていただきます。山本太郎さんはいつも「自分には、ほぼ肖像権はありません」と言っているので、著作権上の問題はないと思います?! それにしても、凄い人だかりです。

 

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 山本太郎事務所 ツイッターより 2019年6月16日 広島パルコ前にて

 

そして、自律的に思考する個人が、立憲主義、民主主義に基づく国家を形成する。国民はバカなので、民主主義は成り立たないという意見もあるようですが、そう結論づけるのは、まだ早い。

 

自律的に思考する個人 - 開放系の中間集団 - 民主国家

 

ところで、私が何故“れいわ新選組”に注目しているかと言えば、それは、滅多に起こらない社会現象だと思うからです。人間の歴史というのは、とてつもなく悲惨な出来事があって、その後に動く。例えば、欧州では宗教戦争という血で血を洗うような出来事があった。何しろ、殺し合いの末、ドイツの人口は3分の1に減ってしまったのです。このように悲惨な出来事があって、トマス・ホッブズジョン・ロックという思想家が生まれた。そして、彼らの思想を受けて、フランス革命が起こり、アメリカの独立戦争へとつながる。

 

日本で言えば、2011年に東日本大震災が起こり、津波で多くの人が流された。そして、福島原発の事故が続いた。これは、原発3基が同時にメルトダウンするという、人類史上、例を見ない出来事で、人々の不安を掻き立てた。これらの悲惨な出来事に触発されたのが、太郎さんなんですね。そういう関係にある。

 

そして、偉大な政治家というのは、エリート層からは生まれにくいという事情もある。東大を卒業して、財務官僚になっているような人たちは、序列のことばかりを考えるようになる。むしろ、太郎さんのような不良少年だった人間が、大きな仕事をするんです。

 

最後は、人間力だと思います。例えば、経済の専門家がMMTについて理路整然と語ったとしても、誰も感動はしない。太郎さんよりも経済に詳しい学者など、掃いて捨てる程いるに違いありません。しかし、彼らには、大衆に寄り添う優しさや、聴衆の心を揺さぶる情熱を持ち合わせてはいない。

 

このように考えますと、“れいわ新選組”という社会現象は、上に記したような諸条件が充足された結果、発生したものだと言える。これは、控えめに言って百年に一度あるかないか、そういう現象だと思うのです。

 

僭越ながら、日本人の皆様に申し上げたい。今、私たちは、そういう歴史的な現象を眼前に見るチャンスに恵まれているのです。“れいわ新選組”を支持するかどうかは別として、今、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、それは見ておいた方が良いと思います。

 

追記)太郎さん、今日は新宿ですね。

人が進化系の文化に参加するまで

藤井聡氏は、アメリカでMMTを提唱したステファニー・ケルトン教授を招聘し、7月16日に東京で国際シンポジウムを開催するそうです。なかなか、やりますね。詳細は、「令和ピボットニュース」というサイトにて。

 

マンガの「私立Z学園の憂鬱」が、刊行されるそうです。作者の方は印税を「あしなが基金」に寄付されるそうです。やはり、世の中にはお金より大切なことがある。

 

さて、近頃、漠然と「認識せよ」、「文化に参加せよ」といったことを考えて参りましたが、一応、その考えに決着が着いたように思いますので、以下に報告させていただきます。

 

大切な何かを認識して、文化に参加するまでの概念モデルです。

 

1. 記号
  人間は、五感を通じて“記号”を認識する。

 

2. 情報
  “記号”は単独で、若しくは複数が組み合わさって、“情報”を構成する。

 

3. 知識
  “情報”が記憶されると、それは“知識”となる。

 

4. 観察
  人は日々の生活を通じて、若しくは経験を通して、自分が持っている“知識”を

  更新していく。

 

5. 疑問
  時として人は、驚くべき事実を発見する。その事実は、その人が保有し、更新

  して来た知識とは異なり、又は知識の範囲を超えるものであって、人は“疑問”を

  持つ。

 

6. 思考
  人は、疑問を解決しようとして“思考”する。

 

7. 原理の発見
  思考の結果、運が良ければ、人は新たな“原理”を発見する。“原理”とは、複数の

  事例に共通して現われる傾向のことである。

 

8. 思想
  発見した“原理”に準拠すれば、近未来を予測することが可能となる。すると、

  進むべき方向が見えてくる。そして、どちらの方向に進むべきなのか、物事

  はどうあるべきなのかという意見が生まれる。この意見が、すなわち“思想”

  である。

 

9. 表現
  思想を持った人は、これを“表現”し、誰かに伝えようとする。

 

10. 進化系の文化に参加する
  “表現”された“思想”は、時として人々の共感を呼び、文化的なムーヴメントを

  引き起こす。これは、新たな仮説や発明に基づくものであって、文化の進化に

  寄与しようとするものであり、退行や現状維持を企図する“退行系の文化”では

  ない。

 

 項目だけ、列挙してみます。

 

1. 記号
2. 情報
3. 知識
4. 観察
5. 疑問(驚くべき事実の発見)
6. 思考
7. 原理の発見
8. 思想
9. 表現
10. 進化系の文化に参加する

 

上に記した概念モデルは、ある意味、人がとても幸福になるパターンだと思います。一生懸命考えたって、原理を発見できるとは限りません。思想を表現したからと言って、誰かがそれに共感する保証もありません。

 

別の見方をしますと、学校で教えてくれるのは、3番の“知識”までではないか。疑問があれば、それに答えるのが教育でもあります。すると、そこで完結してしまうメンタリティというものを想定することができる。例えば、東大卒のエリート官僚は、その先の“疑問”に進む必要がない。むしろ、“疑問”を持つことは、自らのキャリアにとってマイナスとなる。逆に、情報弱者と呼ばれるインターネットに接続できない人たちも、そこで止まってしまうのではないか。知識があって、それを更新はする。しかし、自ら疑問を持つに至る程の情報に接していない。ネトウヨと呼ばれる人たちも、同じだと思います。彼らはネット環境に順応し、ある程度、経済的に恵まれていて、社会の現状に対し疑問を持つ必要がないのではないか。但し、文化には参加したいという強烈な欲求を持っていて、飽きもせずヤフーのコメント欄に書き込みをしている。そう考えますと、疑問を持たず現状維持を希求する人びとというのも、実は、あまり幸せではないような気がします。貧乏人のやっかみかも知れませんが・・・。

 

他方、上記のステップをフルコースで疾走中の人もいる。例えば、立憲民主党から立候補予定のおしどりマコさん。彼女にとっての「驚くべき事実」とは、福島第一原発の事故だった。そこから彼女の“思考”が始まり、彼女は“原理を発見”する。そして彼女は、被害者救済を徹底すべきだ、原発を再稼働してはならないという“思想”を持つに至り、政治の世界に参加しようとしている。大変だとは思いますが、私のロジックからすれば、マコさん、結構幸せなのではないか。

 

れいわ新選組を立ち上げた山本太郎さんも同じです。私などは、わずかばかりの寄付をさせていただき、幸せのお裾分けに預かったりしている。

 

世間では、夫婦で老後に2千万円の貯蓄が必要だと金融庁が発表し、大騒ぎになっていますが、違和感を禁じ得ません。まず、金融庁は2千万円の他に家のリフォーム費用等が必要になると言っているのであって、それらを合計すると不足額は3,660万円になります。更に、検討のモデルとされる夫婦は恵まれた経済環境にあって、夫は厚生年金に加入している。国民年金に加入されている方々は、更に不足額が膨らみます。嫌な話ばかりで恐縮ですが、年金の支給額は「マクロ経済スライド」によって、今後、減額されそうですし、経団連は「最早、終身雇用は無理」と言い出し、退職金の額も減少している。

 

最早、日本の社会、経済システムは成り立たない所まで来ている。日本という国家は、今、存亡の危機に晒されている。消費税を廃止する位では、収拾がつかない。私は、そう思いますけれども。

二重構造

前回、「開放系の中間集団」というタイトルで記事を書きましたが、この問題がどうも気になります。ここら辺に閉塞感漂う現代社会の打開策があるのではないか。

 

中高年のケースを含めて、現在、“ひきこもり”の問題が再度、クローズアップされていますが、これだけ中間集団が疲弊して来ると、引きこもりたいと思う人が増えるのは当然の帰結だと思います。要は、既存の中間集団とは関わりたくないということです。

 

しかし、人間にはいくつか本能のようなものがある。それは食欲だったり、性欲だったりする訳ですが、これらの身体的な本能とは別に、もう少しメンタルな部分での強い特性があると思うのです。一つには、何かを知りたい、認識したいという欲求。例えば、山があったら登ってみたいと思う。島が見えれば、行ってみたいと思う。そういう根源的で知的な欲求というものを人間は持っている。人は常に、自分がどういう場所にいるのか、認識しようとしている。そこは、安全な場所なのか、それとも交差点の真ん中なのか。このような事柄を認識するということは、それは生存確率にすら影響する訳で、本能の一種であると言っても過言ではない。

 

もう一つ。それは、文化に参加したいと希望するという特性です。文化とは空気のようなものではありますが、人は文化に対し、積極的に関与したいと望んでいる。太古の時代から、祭りがあればそこに参加し、何か人が作り出した物があれば、模倣して、同じようなものを作ってみる。こちらもその歴史の長さに鑑みれば、人間の持つ根源的な欲求だと言える。

 

何を隠そう、私がこのブログをやっている理由も、そこにある。何かを認識したいと思って、本を読み、YouTubeを見たりしながら、記事を書いている。そして、文化に参加することを願って、記事をブログに掲載し続けている訳です。経済活動とは、無縁です。このブログをやったからと言って、1円の収入もありません。しかし、カネ儲けが目的ではないから、それだけ純粋だとも言えるような気がします。

 

YouTubeとかツイキャスなどで、山本太郎さんの動画を拝見しておりますと、画面の右側にチャットが表示される場合があります。それはもう沢山の人が、書き込んで来る。そして、結構皆さん、必死に何かを伝えようとされている。書き込みが殺到すると、文章は順繰りに上の方へ移動し、あっと言う間に見えなくなってしまう。それでも、多くの人がそこに参加しようとしている。皆、文化に参加しようとしている。私には、そう見えます。

 

つまり、何かを認識しようとすること、文化に参加しようとすること、この二つの知的な欲求は、身体的な本能と肩を並べるほど、人間にとっては強い欲求だと言えるのではないか。他にもあるかも知れません。もう少し、考えてみます。

 

それにしても、日本の政治状況が、ここまで複雑だとは思ってもみませんでした。そこには、歴史的な経緯があり、MMTなどの新しい理論があり、心理学が絡み、嘘がある。

 

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源頼朝伝説 注)本文とは関係ありません。

 

最近、ネットで読んだ記事に驚くべきものがありました。日本の病院では、なかなかポックリとは死なせてもらえません。体のあちこちにチューブを差し込まれ、薬漬けにされるケースだってある。これにも理由があって、死にそうな老人というのは、医師と製薬会社にとっては利益の源泉だというのです。仮に医療過誤があったとしても、医師の側は「寿命です」と言えば訴訟リスクを回避できる。医療費は保険で処理できるので、取りっぱぐれもない。だから、日本の病院はなかなか死なせてくれない。そして、このシステムを維持するために、日本医師会や製薬会社は自民党に政治献金を行っている、というのです。本当かどうかは分かりませんが、Wikipediaによれば、日本医師連盟自民党を支持しています。私は、できればポックリと逝きたいのですが・・・。

 

小泉元首相が、最近は脱原発を主張している。流石に現役総理時代の悪行を反省しているのか、と思っていたのですが、別の見方もあるようです。すなわち、脱原発に舵を切った場合、廃炉ビジネスが生まれる。自然エネルギーの開発にも同様のことが言えます。その利権を狙っているのではないか、という説がネット上では囁かれています。本当のことは、本人に尋ねてみないと分かりませんが。

 

疑い始めるとキリがないのですが、憲法改正問題も浮上してくる。私の読みとしては、自民党の本音は憲法問題を重視しておらず、ただ、保守票を確保するためのポーズで憲法改正を主張しているだけだ、というものです。しかし、ネット上では、その先の徴兵制復活を目指しているという見方もあるようです。こちらも真実は分かりませんが、確かにその可能性を否定し切ることはできないように思えて来ます。

 

どうやら私は、「お人好し」に過ぎていたのではないか。

 

そこで、前回の記事で言及致しました、「連合」についてもネットで調べてみました。連合とは、経団連の“労働部”であると主張する記事もありました。むしろ、ネットの世界で連合は、経団連とほぼ同一に語られている。表向きは労働組合ですが、事実上、大企業の利益を目指している。だから、消費税の増税自民党に頼み込んだりする訳ですね。

 

私としては、旧同盟系の労組は国民民主党を支持し、旧総評系の労組が立憲民主党を支持していて、2つには違いがあると思っていたのです。しかし、主として官公庁の労組だった総評系ではありますが、国鉄は民営化されJRとなった訳だし、総評系が支持していた社会党も、今はありません。してみると、旧同盟系と旧総評系との間に、昔ほどの相違点は存在しないのではないか。だとすると、現在の国民民主党立憲民主党の間にも、大した違いはないことになります。(両党とも、連合と政策協定を結んでいます。)

 

そのような仮説を前提に、国会中継や政策を見てみますと、腑に落ちる所が少なくありません。日本の政治というのは、どうやらアメリカによる軍事と経済に関わる支配と、大企業による経済的な支配という2重構造になっているのではないか。図にしてみましょう。

 

アメリカによる支配(軍事面、経済面)
 → 自民党
 → 官僚組織

 

大企業による支配(経済面)
 → 経団連 → 自民党
 → 連合  → 立憲民主党 国民民主党
 → マスメディア → 国民

 

上記の仮説に従えば、立憲民主党や国民民主党は、自民党とは戦っても、その上にある経団連に象徴される大企業の悪口は言わない。大企業にとって都合の悪いことは、主張しない。具体的には、例えば「法人税増税せよ」とは言わない。「消費税を減税せよ」とも言わない。これらの事柄を正面切って主張しているのは、れいわ新選組共産党ではないでしょうか。そのように考えますと、共産党という政党、迫害と弾圧に耐え、よく今日まで頑張ってきたものだと感心してしまいます。私は、共産主義には反対ですが・・・。

開放系の中間集団

驚くべきニュースがありました。5月31日に時事通信社が配信した記事です。「消費増税の着実実施を=連合が自民に要請」というものです。記事によれば、同日、連合の相原事務局長が、自民党の岸田政調会長に対し、今年10月に予定されている消費税増税の着実な実施を求めた、ということです。連合が係る事項を要請した理由は、社会保障の持続可能性を重視する立場から、とのこと。

 

ちょっと待って欲しい。前回税率を上げた際は、増税分のわずか16%しか社会保障の充実には充てられなかったのではないか。残る84%の大半は、国の借金の返済に使われたのではなかったか。そもそも連合とは、労働者の権利を守るのがその使命ではないのか。そうであれば、本来、連合が主張すべき事項は、消費税の減税と法人税増税ではないのか。連合は、テーブルの下でケイ団連と手を握っているのではないか。そう疑わざるを得ません。

 

そして、立憲民主党と国民民主党は2018年11月30日に、連合と政策協定を結んでいる。ということは、両党とも、緊縮財政、増税派であるとみなさざるを得ません。私は、国民民主党には最初から期待していなかったので腹も立ちませんが、「立憲よ、お前もか!」と言いたくなってしまいます。更に、本年5月29日には市民連合が仲介する形で、野党5党派の間で政策協定が取り交わされていますが、ここには消費税増税派の野田佳彦氏も加わっている。すなわち、今年10月の増税には反対するが、少し景気が上向けば増税しても良いということなのでしょうか。

 

この点共産党の幹部は、今年10月の増税には反対で、その先は5%への減税、更には消費税廃止を目指すと述べています。

 

“れいわ新選組”が立ち上がって、一番困っているのは、立憲民主党ではないでしょうか。そもそも、同党の支持者というのは、比較的政治に関心のある層だった。しかし、山本太郎さんの街頭演説会などによって、消費税と法人税の関連など、実態が明らかになりつつある。MMTに関する論議も活発化している。一部の情報によりますと、立憲の内部からも消費税は廃止すべきであるという意見が出始めている。しかし、立憲の幹部は一向にMMTに関する論議に応じる様子がない。

 

今年の参院選に向けて、各党は政策を発表しつつある。しかし、立憲民主党は“立憲ビジョン2019”として発表するとは言っているものの、未だ、それは公表されていない。同党のホームページを見る限り、具体的な経済政策というのは、ほとんど皆無に等しい。どうしたいのか、ということは述べられていますが、どのように実現するのか、その“How”がないのです。

 

私の立憲民主党に対する最終的な評価は、同党の経済政策が発表されるまで、留保することにします。期待はせずに、それを待つことにしましょう。ただ、1億2千万人の国民を乗せた日本丸が沈没しそうだという危機的な状況にあるのに、野党第一党の主要政策が「選択的夫婦別姓制」というのはあり得ないと思いますが、いかがでしょうか。

 

さて、このブログでは、個人と国家との中間に位置する集団を“中間集団”と呼んでいます。私の記憶では、この言葉は憲法学において使用されているものです。思えば、世の中の不正や人権侵害の多くは、この“中間集団”という位相において発生している。列挙してみます。

 

・家庭・・・DV
・学校・・・イジメ
・地域別集団・・・村八分など
・職業別集団・・・新規参入障壁/カルテル
・会社・・・セクハラ、パワハラ
・労組・・・政治活動の強制
・省庁・・・省益を優先し国益を損なう
・宗教団体・・・思想的迫害、経済的収奪
・民族団体・・・ヘイトスピーチ

 

もちろん、世の中には個人の犯罪や、国家犯罪としての戦争ということもあります。しかし、上の一覧を見るといかがでしょうか。中間集団に属すると、ろくでもないことが起こる。現代社会において、中間集団が弱体化されてきた理由の1つが、ここにある。

 

更に困ったことには、個人が国家という位相の集団に参加するには、やはり中間集団の存在が欠かせないということです。例えば、テクノロジーがもっと発達すれば、国民がPCやスマホを使って瞬時に投票できるようになるかも知れません。しかし、YesかNoかを決定するだけで、政治が動く訳ではありません。やはり、そこには論議が必要になる。そして、全ての国民があらゆる論議に参加することは不可能です。すると、自分と同じような考え方をしている人間の集団を支持することによって、政治に参加するのが良かろうということになります。政党政治ですね。但し、この政党政治というものは、政治家だけで成り立つものではありません。そこには、当然、支持者の存在が不可欠となる。政治家と支持者を一つの集団として考えた場合、これを政治集団と呼ぶことにしましょう。

 

政治家 + 支持者 = 政治集団

 

この政治集団をどのように運営すべきか、どうあるべきなのか。そこにイジメやセクハラがあってはならないし、思想や良心の自由も確保されるべきです。しかし、そんな中間集団というものは、存在し得るのか。

 

アメリカには、昔、黒人教会というものがあった。これはかなり自由な集団だったと思うのですが、社会学的に言えば、これは特段の目的を持たない集団(ゲマインシャフト)だったと思います。では、目的を持つ集団(ゲゼルシャフト)でありながら、自由で平等な中間集団というものは存在したでしょうか。私は、実例を知りません。

 

しかし、今、その可能性を探っているのが、“れいわ新選組”という政治集団ではないかという気がします。“れいわ新選組”には、誰でも参加できます。寄付をすれば、それはもうりっぱな支持者ということになります。お金がなくても、ボランティアとして登録できる。もっと言えば、心の中で応援するだけでも良い。そして、脱退するのも自由です。気が変わったら、別の政党に投票すればいい。“開放系”とでも言いましょうか、出入り自由なんですね。ここら辺は、宗教政党とは、全く異なる。平等か、という問題もありますが、太郎さんの街頭演説会を見ますと、老若男女、様々な人びとが聞き入っている。時折、拍手をしたりする。手を挙げれば、誰でも発言のチャンスがある。かなり、平等だと思います。

 

ただ、私のような年代になりますと、いろいろなことを考えてしまうのも事実です。今はまだ、小さな集団です。政治家は太郎さんと蓮池透さんしかいません。しかし、徐々に人数が増えて来ると、政治家の間で序列を付ける必要が出て来るに違いありません。その時に至ってもなお、自由と平等を確保することができるのか。そこが課題ではないでしょうか。

 

いずれに致しましても、“れいわ新選組”というのは、壮大な社会実験だと思います。