文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(はじめに)

今回より、新たなシリーズ原稿として「文化認識論」を始めることにしました。このブログでは、「文化とは何か」ということを考え続けて来た訳ですが、どうも人間は文化を動かす原動力のようなものを持っている。それは“知的な本能”とも呼べるようなもので、その主たるものが“知りたい”という欲求ではないか。この欲求を発展的に解釈すると“認識”という言葉に行き当たる。物事の背後に潜む本質を知ること。それが“認識”するということです。

 

例えば、現在、香港では民主化を希求するデモが続いています。デモを鎮圧しようとする警察の暴力によって、既に数名の市民の命が奪われています。詳細は、ジャーナリストである田中龍作氏のツイッターに動画を含めた情報が掲載されています。このまま行くと香港は中国の支配下に置かれてしまう。すると、自由も人権も、すなわち民主主義が奪われてしまう。そういう危機感から、香港の市民は命がけでデモに参加しているのです。香港の人々にとっては、命を掛けてでも守るべきもの、それが民主主義なのです。

 

他方、日本はどうかと言うと、一応、外形上の民主主義は守られています。しかし、先の参院選投票率は約49%だった。すなわち2人に1人の人が投票にすら行かなかった。この点、最近では「学習性無力感」ということが言われています。すなわち、世の中を良くしたいと思って何度も選挙には行ったが、政治は一向に良くならない。そういう経験から無力感に陥って、選挙に行かなくなるという説です。確かに、そういう人も中にはいるでしょうが、私はそれが主たる原因ではないと思うのです。むしろ、日本の人々は複雑化した現代の政治を認識できなくなった。どの候補者や政党に投票すべきか分からない。だから、選挙に行かない。これが主原因ではないでしょうか。

 

かつて、日本の自殺者は3万人を超えていました。それが、最近は2万人強にまで減少している。本当にそうでしょうか。どうも統計上の手法が変わって、最近は、遺書が発見されない限り、自殺とは認定されないようです。遺書のない死亡者は、変死者として扱われる。ネットには、実際の自殺者数は約11万人だという説が掲載されています。いずれにせよ、統計上でも、自殺未遂をした人数は50万人を超えている。1億2千万人の国民がいて、そのうち50万人以上の人々が毎年、自殺を試みている。人類史上、こんな国は現代日本の他には存在しなかったのではないでしょうか。人間が自殺しようとする理由は様々であり、健康上の理由や経済上の理由なども少なくないと思います。それにしても、何故、そんなに多くの人々が死のうとするのか。私にはその理由を説明できません。すなわち、認識できていないのです。

 

人間が持つ根源的な知的欲求としては、“認識する”ということの他に、“文化に参加する”ということもあります。踊りの輪があれば、そこに加わってみたいと思う人もいるでしょう。何か、楽器を演奏したいと思ったり、SNSに記事や写真を投稿したり。私がこのブログをやっているのも、この“文化に参加したい”という欲求に基づくものです。

 

してみると、健康を維持し、経済的に安定し、大切な何かを認識し、文化に参加できれば、自殺者も減るのではないか、などと思ったりする訳です。このことを学者に尋ねてみたいものです。しかし、大半の学者はこう答えるでしょう。

 

「それは私の専門分野ではありません」

 

専門化が進み、総合性が失われつつある。それが問題だ、という説もあるようです。例えば、〇〇心理学というのは、40以上もの種類があるようです。犯罪心理学、児童心理学、社会心理学 等々。科学的に立証し、専門分野に関することをひたすら研究するのが学問であるならば、私は反アカデミズムの側に立ちたいと思います。想像すること。そちらの方が余程、大切ではないでしょうか。

 

ちなみに、文化というのは曖昧でその範囲も広いため、学問の研究対象にはなり得ないと言われています。すなわち、文化そのものを研究の対象とする学問は、存在しません。(文化人類学という学問は存在しますが、これは歴史的な観点を排するというレヴィ=ストロースの発想に毒されており、私はこの立場に反対しています。)私が自らを「文化論者」と名乗っているのは、私が勝手にそう言っているだけで、社会的に通用する呼称ではありません。最近は、「文化の語り部」というのはどうかなあ、などと思っておりますが・・・。

 

ところで、科学的な発見には2種類あって、第1類型は「〇〇となっていることの発見」で、地動説などがこれに当たる。第2類型としては、「何故、そうなっているかの発見」で、万有引力の法則などがこれに当たる。しかし、私が考えている分野においては、更にその先で、「では、どうすれば良いのか」という3番目の類型を措定する必要がある。例えば、投票先が決まらなければ、選挙にも行けない訳です。例えば、自殺する理由について体系的な説明ができたとしても、今、正に自ら命を絶とうとしている人にとっては、何の役にも立ちません。「結局さあ、人生ってのは大変なワケよ~」ということが結論となっている小説があったとしたら、あなたは読みたいと思うでしょうか。

 

このような観点から、先にこのブログに掲載いたしました「文化領域論」について考えますと、文化の領域について以下の5つであると主張したものの、「〇〇となっていることの発見」の域を脱し得なかったように思います。

 

・記号系
・身体系
・想像系
物質系
・競争系

 

上記の分類については、ユングやパースの影響を受けていますが、多分に私のオリジナルな分類で、今から振り返っても、有益だと思えるのです。そこで、これらの文化論を土台としながら、そこに認識論を加味して、第3類型の水準を目指してみたい。そして、この(文化論 + 認識論)を一言で表現し、「文化認識論」というタイトルを考案したものです。実際の内容からすると、固すぎるなあという印象は拭えないのですが、結局、これ以上のタイトルは思いつきませんでした。ブログのタイトルも、近日中に「文化認識論」へと変更する予定です。

 

また、私が書きたいと思う事項は、上記の他に時事に関する事項があります。文化認識論については(その〇〇)という連番を振り、時事に関する事項にはこれを振らず、掲載することに致します。

 

では、宜しくお願い致します。

新説 音楽の3要素

中学生の頃、音楽の3要素というものを習いました。すなわち・・・

 

1. メロディー
2. 和音
3. リズム

 

しかし、上記の考え方は穢れたヨーロッパ文化の押し売りでしかない、と思うのです。本質を覆い隠した、虚言であると私は思います。上記の3項目とは、すなわち譜面に表現し得る見せかけの要素でしかありません。

 

本当に大切な音楽の要素とは、譜面になど、書き写せるものではありません。音楽の3要素とは、次の通りではないか。

 

1. リズム
2. 音色
3. ミュージシャンのファッション

 

例えば、オレナ・ウータイの奏でるJaw Harpやアイヌ民族ムックリが奏でる複雑な音色など、決して譜面にできるものではありません。

 

衝撃のミュージックビデオをご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=QRg_8NNPTD8


恐縮ながら、英語圏のミュージシャンではないようで、私は、彼らに関する情報を持ち合わせていません。ただ、このビデオ、再生回数が1千4百万回を超えています。行き詰まった現代において、古代のイメージの回復を志向している人というのは、意外にも多いのかも知れません。私もその1人なのです。

 

ところで、お気づきでしょうか。上記の音楽において、和音の進行というものは、存在しません。そう言えば、アフリカ音楽や1970年代のマイルス・デイビスの演奏にも、和音の進行は存在しなかった。

 

どうやら、私には新しい何かが見えて来たように思います。このブログ、10月の初旬には再開できそうです。

ロシアの女性シャーマン

動物の鳴き声や動作を真似たのが、音楽や踊りの起源である。例えば、今も静岡県には子供たちが鹿の格好をして踊る“鹿踊り”があり、アイヌ文化には“水鳥の踊り”や“鶴の舞い”がある。これは私が立てた仮説だが、以下の動画を見て、確信に変わりつつある。世界は広い!

 

オレナ・ウウタイ ロシアの女性シャーマン
https://www.youtube.com/watch?v=cBnFhT7aSPM

 

因みに、彼女が口に咥えて演奏しているのは、Jaw Harpと呼ばれる金属製の楽器だが、アイヌの伝統楽器であるムックリと良く似ている。音色も音を出す原理も近似している。但し、ムックリは竹製だ。

 

あまりの迫力に、思わずブログを更新してしまいました。

残暑お見舞い申し上げます。

被災地の皆様には、衷心よりお見舞い申し上げます。また、終わらぬ暑さに辟易されている皆様には、残暑お見舞い申し上げます。

 

さて、このブログですが休止してから40日が経過致しました。未だ整理のつかない課題が多く、ブログを再開できる段階にはありませんが、私の問題意識なり、検討の途中経過などを報告させていただきます。

 

まず、日韓関係について。この問題には、複雑な背景があるようです。南北朝鮮の問題、アメリカの意向なども影響しているように思えます。私の読みは、次のようなものです。まず、韓国がGSOMIAを破棄したことに対して、アメリカが怒っている。そこで、アメリカが日本政府に嫌韓ムードを醸成するように指示した。この指示に従って、日本政府とメディアが嫌韓ムードを煽っている。それに乗せられてしまう日本国民というのも、いかがなものかと思う訳です。他国を尊重できない人は、自分の国をも尊重することができない、と私は思っています。そんな事を考えていると、次の動画に出会いました。2分程度の短い動画ですので、是非、ご覧ください。

 

韓国人女性のフリーハグ
https://www.youtube.com/watch?v=Ob6QediH92w

 

私の感情は揺さぶられ、泣けて来ました。あまりに、素晴らしい。そして、少し時間を置いてから、この動画について考えてみたのです。この動画は、政治と芸術の関係性を端的に証明しているのではないか。大昔から、人間は様々な困難に直面してきた。そして、それらの困難に向き合った時、誰かが前衛芸術を生み出して来たのではないか。そうやって、人間は困難を克服してきたに違いない。前衛芸術とは、未だ完成した様式を持たない。だから、それは時として、人々に違和感をもたらす。しかし、前衛芸術は人々に新たな選択肢を示し、価値観を提示するのだろうと思います。そして、固定概念に固執しない、フレキシブルな心を持った人だけが、前衛芸術を理解することができる。

 

1. ジョンとヨーコのベッドイン
2. “れいわ新選組”安冨さんの馬選挙
3. 韓国人女性のフリーハグ

 

これらの事例は、いずれも前衛芸術だと思います。

 

このように政治と芸術とは、密接な関係性を持っている。政治と経済は、不可分の関係にある。芸術と経済とも関係している。例えば、中世や近代のアートは、現代の工業デザインに影響を及ぼしている訳です。実は、全てがつながっているのではないか。それを現代人は、政治学、経済学、芸術論などと分類して考えるから、本当に大切なことが見えて来ない。

 

話は変わります。

 

このブログでは、無文字社会の例として、パプアニューギニアのイワム族、アフリカのマサイ族、北米のプエブロ・インディアン、ナバホ・インディアンなどについて言及して来ました。それは、彼らの持つ文化やメンタリティに私自身が強く惹かれて来たからです。しかし、残念ながら、彼らに関する情報は少ない。

 

ところが、もっと身近で、豊富な情報量を持つ無文字社会の文化があった。アイヌ文化です。

 

かつて、アイヌ民族の女性で、知里幸恵さんという方がおられた。彼女は、子供の頃から夜な夜な、おばあさんからアイヌの民話を聞かされて育った。そして、類まれなる才能と努力の結果、日本語もマスターしたのでした。ある日、彼女の噂を聞き付けた言語学者金田一京介氏が、北海道にいた彼女の元を尋ねる。東京に帰った金田一氏は、彼女にノート数冊を送り、アイヌの民話に関し、左側にはアイヌ語をローマ字で記し、右側に日本語訳を記すという作業を依頼する。やがて、金田一氏は、彼女を東京の自宅に呼び寄せる。金田一氏の自宅で下宿生活を始めた幸恵さんは、金田一氏の期待を上回る出来で、作業を完成させたのです。その成果は、「アイヌ神謡集」として結実する。「アイヌ神謡集」の最終校正を終えた幸恵さんは、持病の心臓発作に見舞われ、金田一氏の自宅で死去されたそうです。享年19才。

 

例えば、YouTubeでもアイヌの民話に接することができます。

 

アイヌ絵本 「和人になった兄」
https://www.youtube.com/watch?v=on5UuLy1dMI

 

現在も多くの方々が、アイヌ文化の保存に努めておられます。それは、もちろん大切なことです。しかし、それと同時に、現代に生きる日本人としては、アイヌの文化から何を学ぶべきなのか、それを解明することも重要ではないか。

 

自称“文化論者”である私としては、そんなことを思いあぐねている訳です。

休止のお知らせ

● 昨日の街頭記者会見
昨日(8月1日)、新宿で山本太郎さんの街頭記者会見がありましたが、私はこれを見て驚いてしまいました。最初の質問者が自ら言うには、中卒で、刺青をしていて、デリヘル譲を送迎する車の運転手をしていたとか。そして、彼が叫ぶ。「皆、泣きながら仕事してるんだ!」確かに想像を絶する環境にある。こういう人たちからも消費税をむしり取っていいのか。消費税は撤廃すべきだと、改めて感じ入った次第です。

 

● 認識論から見た“れいわ新選組
人間は、どのようなステップで世界を認識するのか。まず、親に教えられる。やがて、学校へ行き教育を受ける。受動的にテレビを見たり、新聞を読んだりする。そこで、完結してしまう人もいる。しかし、主体的に情報を得ようとする人もいる。具体的には、読書とネットがその手段となるでしょう。

 

・家庭教育
・学校教育
・マスメディア
・主体的情報取得(読書、ネット)

 

しかし、人が世界を認識する手段は、もう一つある。“経験”です。実は、これが大きいのではないでしょうか。上に記したデリヘル譲の送迎をしていた男性、強烈な経験だったはずです。それが、「泣きながら仕事をしているんだ!」という言葉につながる。彼は、それを直接経験しているから、彼の認識は確固たるものとなっている。

 

戦後の日本には、戦争を“経験”している人たちが少なからずいた。その経験は、家庭教育などの場を通じて、子供に伝えられたに違いありません。戦争というのは、日本国民全体に共通する“経験”だった訳ですが、その経験者は急速に減少している。反対に、現在の日本においては、“貧困”という過酷な“経験”に直面している人たちが増えている。しかし、貧困というのは、個別的だと思うのです。貧困には、様々な態様があるので、なかなか社会問題として把握しづらい。そのような個別の“経験”にスポットライトを当てたのが、“れいわ新選組”だという見方もできるように思います。

 

● お勧めYouTube動画
「2019参院選後の日本 民意を読む」(3) 白井聡 京都精華大学専任講師
2019.07.31  1:37:54
https://www.youtube.com/watch?v=nDrkCwWg4KA

 

コメント・・・57分経過時点で紹介される若者の話には、驚きました。また、反共主義を唱える連合主流派と、連合主流派に従属している立憲民主党、国民民主が、共産党と手を組めるはずがない。つまり、市民連合が主導してきた野党共闘というは、所詮夢物語で、実現可能性がないのではないか。

 

連合(反共主義) - 立憲民主・国民民主 -×- 共産党

 

● “れいわ新選組”から教わったこと
“れいわ新選組”をきっかけに、このブログでは政治、経済について検討することになりました。特に、このブログでMMTだとかマクロ経済について取り上げるとは、思ってもみないことでした。結果、私の国家観も鍛えられたように思います。

 

しかし、私が“れいわ新選組”から教わった最も重要なことは、大衆を愛するというメンタリティです。一般大衆というのは、勉強もせず、視野は狭く、自分勝手だ。え~い、世の中、どうなったって構いやしない! 良くないとは分かっていても、私は、そういうメンタリティを持っていました。しかし、太郎さんの演説を聞き続けるうちに、「大衆とは、愛すべき存在だ」という心境に変わってきたのです。

 

例えば、太郎さんがこう言う。
「皆さん、この国で一番偉いのは、誰か知っていますか?」
すると、女性の声が聞こえる。
「私たち!」

 

それはそうなんですが、そこまで大きな声で言わなくても、と思ったものです。それは、当たり前のことなのですから。

 

別の日、太郎さんがこう言う。
社会保障費が、4兆円も削減されているんですよ」
「ふざけるなア~!!!」
そう叫んでいる、私がいた。

 

「私たち!」と叫んだ女性と私の間に、どれだけの違いがあるのか。結局、私自身、愚かな大衆の一人に過ぎない。そして、太郎さんの演説に聞き入り、大声で反応している人たちというのは愛すべき人たちなんだと、そう思えるのです。

 

このブログでは、横光利一の「時間」という小説を取り上げたことがありますが、この作家も、同じようなことを考えていたのかも知れません。そして、あのカントも。

 

● 政治と芸術
学者というのは、自分の専門分野を決めて、そこから出て来ようとしない傾向にある。政治学者は、経済を語ろうとしない。同様に、経済学者は政治を語ろうとしない。専門が違うと言えばそうなのですが、それでは現在の“山本太郎現象”を分析することはできない。もっと、総合的に検討すべきだと思います。

 

その点、学者でない私は、自由に物事を考えることができる。例えば、政治と芸術。人間は、動物に触発されて芸術を生み出した。それは次第に集団化され、シャーマニズムに至る。これが政治の原点ではないでしょうか。シャーマニズムは様式化され宗教となり、宗教国家を形成する。ヨーロッパで、宗教を乗り越えようという試みがあり、近代国家が誕生する。

 

これらの流れは、ずっとつながっているに違いない。“れいわ新選組”の街頭演説会には、ミュージシャン、作家、映画監督、落語家などの文化人が参加したし、そこには熱狂があった。どこか、ロック・コンサートに似ている。つまり、政治と芸術というのは、つながっているに違いない。私はそう思っているのですが、そのようなことを体系的に説明した人というのは、いるのでしょうか?

 

● 休止のお知らせ
せっかく皆様にお読みいただいているのに残念ですが、お読みいただくに足る原稿を書くためには、私自身、知識を補充する必要があります。よって、このブログの更新は、しばらく休むことに致します。

 

暑い日が続きますが、何とか乗り切って行きましょう!

YouTubeのお勧め動画

今回は、私が参考にしているYouTubeの動画を紹介致します。


▶ 「没落について」 中野剛志 グローバル資本主義を超えて
インターネットTV 超人大陸 27:50  2018年10月13日

(ロックイン)
https://www.youtube.com/watch?v=OoduEx7tl2k

 

山川コメント・・・この国に希望はない。絶望から始めよう。


▶ 「日本の緊縮運動と反緊縮運動~グローバリズムを巡る日本の局地戦」
藤井聡氏 グローバル資本主義を超えて
インターネットTV 超人大陸 39:25  2018.11.24

(反緊縮 & 反グローバリズム
https://www.youtube.com/watch?v=MheM3X3HLPg

 

山川コメント・・・藤井氏は、チャンネル桜にも出演している典型的な右派。私は左派なので、藤井氏とは外交・安全保障政策などは一致しない。但し、藤井氏の経済政策には賛同している。番組中、藤井氏は「反緊縮&反グローバリズムのマスメディアや政党が存在しない」と発言している。但し、この番組の収録後に発足した”れいわ新選組”が掲げている政策は、正に「反緊縮&反グローバリズム」だと思います。また、藤井氏は「サヨク&緊縮」の人々にも言及しています。私は彼らを「緊縮左派」と呼んでいますが、昨今、緊縮左派の側から”れいわ新選組”に対する批判が出ており、腹立たしい限りです。

 

▶ 日本の未来を考える勉強会
よくわかるMMT(現代貨幣理論)解説 2019年4月22日
講師 中野剛志氏  1:01:14
https://www.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

 

山川コメント・・・MMTに関する分かり易い説明動画。


▶ 三橋TV第111回 絶望の向こう側のチャンスを 2019.07.08

(認識共同体、経路依存性)
https://www.youtube.com/watch?v=xZeGnPqYnH4

 

山川コメント・・・一度、動き始めた人間集団というのは、なかなかその進路を変更できない。これが「経路依存性」。選挙後に突然、党首が「生まれ変わった」と言って、改憲勢力との連携を模索するような国民民主党は論外としても、せめて立憲民主党には、「経路依存性」から脱却し、消費税減税に踏み込んでもらいたい。多分、無理でしょうけれども。また、野党共闘を推進して来た市民連合にも、同様のことが言える。従来の野党共闘では、結局、与党を倒すことはできなかった。新しい道を模索すべきだと思います。小沢一郎氏も同じ。2大政党制というのは、結局、無理な話だった。過去や現在を肯定する右派のメンタリティというのは、一つの政党(自民党)に集約される。他方、現状の変革を求める左派のメンタリティは、複数の方向性を指し示す。だから、左派(野党)というのは一つにまとまり難い。結局、小選挙区制というのは、右派(自民党)に有利な制度なのだと思います。ところで、国民民主と自由党の合併は、結局、何だったのですか? 小沢氏の弁明を聞いてみたいものです。

 

▶ 安冨歩の街頭演説 at 堺市役所前
2019.07.28公開(7/20収録) 49:21
https://www.youtube.com/watch?v=AikqxnCWjPg

 

山川コメント・・・政治と芸術が交錯する異空間。安冨氏は、見る側(学者)の人間から、見られる側の人間(アーティスト)に変容したのではないか。知性を極めた人間が、芸術に到達したのではないか。演説を進めていく過程において、安冨氏の意識レベルは低下する。安冨氏は、表層意識から無意識の領域に入り込み、やがて心の中に潜む小さな女の子が顔を出し、彼女が涙を流す。文化人類学的な見方をすると、このような心のあり方は、古代のシャーマニズムに似ている。だから、聴衆は癒されるのだ。興味は尽きない。

 

以 上

 

 

祝 太郎党首の誕生!

“れいわ新選組”を応援してこられた皆様、いかがお過ごしでしょうか?

 

選挙の終盤にかけて、「れいわ祭り2」が新橋で開催され、翌日「新宿センキョ」があり、現場におられた方々はもちろん、ネット中継でご覧になった方々も、随分と盛り上がったのではないでしょうか。投票日の直前には「不正選挙」が話題になり、マジックで記載した方が良い、いや、マジックでは消される可能性があるので鉛筆が良い、などという情報がネット上に溢れ返りました。これが日本の選挙かと思うと、情けない限りでした。

 

投票日を迎えた深夜0時、ネット上での情報は一斉にストップ。同日の夜8時から開票速報。太郎さんと支援者、それにメディアの関係者がホテルに集結し、明け方まで中継がありました。結果、舩後さんと木村さんが当選し、太郎さんは落選。

 

悲喜こもごものコメントがネット上に溢れ、しかし、それらも直ぐに収束した感があります。寄付金を集めろ、ボランティア登録をしろ、ポスターを貼れ、から始まって、ハガキを書け、ツイッターを埋め尽くせ、と矢継ぎ早に指示を飛ばして来た「山本太郎事務所」も、今やその声を潜め、何となく虚脱感に覆われているのは、私だけではないような気が致します。そして、落選し、議員宿舎を追われる太郎さんは、現在、引っ越し準備にてんてこ舞いのようです。

 

ここまでの活動を「れいわ新選組の第1章」だとすると、これは一体何だったのか。

 

事の発端を作ったのは、2大政党制を目指す小沢一郎氏でした。小沢氏は、今回の参院選をターゲットとして、まず、立憲民主党に歩み寄った。小沢氏と枝野氏は、私的な会食を重ねるまでの仲になった。しかし、小沢氏のオリーブの木構想に枝野氏は乗らなかった。しびれを切らした小沢氏は次善の策として、国民民主党に接近した。そして、両党の合併交渉が進展していた最中の4月10日、太郎さんは一人で“れいわ新選組”の旗揚げ記者会見に臨んだのでした。

 

この記者会見は、とてもユニークなものでした。4月1日に発表された令和という元号をひらがなで表記し、新選組とつなげる。太郎さんは、この記者会見で既に“れいわ新選組”の理念、政策、そして集まった寄付金の額に応じて、その後の活動の規模を決めていくという戦略まで発表しています。団体名、理念、政策、そして戦略に至るまで、どれも良く出来ている。少なくとも、私には出来過ぎのように思えました。これは周到な準備をしているに違いない。そればかりか、一流の学者などによって構成されるブレーンが背後に控えているに違いない。そう思ったものです。

 

しかし、候補者の選定段階に入りますと、必ずしも周到な準備がなされていなかったことが露呈して来ます。例えば、大西つねき氏によると、朝、れいわ新選組から電話が掛かって来て、その日の昼、大西氏は四谷の事務所で太郎さんと15分程度の面談を行う。その場で候補者として決定し、大西氏は直ちに選挙用の写真撮影に臨んだ。その日の夜、街頭記者会見の場で、大西氏が候補者として紹介された。候補者の選定作業が土壇場までもつれていたことは、他の候補者も異口同音に語っています。公示日になっても届出は遅れ、タスキも間に合わなかった。

 

結局、綿密な計画というものは存在せず、言葉は悪いですが、行き当たりばったりの出たとこ勝負だった訳です。更に、いつまでたっても私が想定していたブレーンは登場しませんでした。ブレーンなど、最初からいなかったのです。

 

太郎さんは街頭演説会において、自らの経歴のようなことはあまり話しません。しかし、聴衆とのやり取りなどがきっかけで、話が太郎さんの過去に及ぶこともあります。どうも、こういうことだったらしい。

 

2011年の3月11日に大震災と原発事故があり、太郎さんは政治問題に目覚め、反原発運動に傾倒していく。太郎さんは、兎に角動き回って、様々な人びとの意見を聞いて回った。この時期太郎さんは、あちこちの友人やら知人の家を泊まり歩いていた。言ってみれば、ホームレスだった。2013年に国会議員となり、議員宿舎への入居が決まる。この時太郎さんは、「家があるって、素晴らしい!」と感動する。これは、本人がそう言っています。

 

国会議員になった後も太郎さんは、年末になるとホームレスのための炊き出しに参加し続けた。年末になると役所が閉まるので、行政による福祉関係のサービスが停止する。だから、炊き出しを行うということのようです。これは私の想像ですが、多分、そういう場で、太郎さんはロスジェネ世代の人たちとか、ネットカフェに寝泊まりする人びとに出会ったのではないか。

 

福島の問題は福島の人たちの、沖縄の問題は沖縄の人たちの声を聴く。そして、障害者の抱える問題については、障害者の声を聴く。今回当選された木村英子さんを「私にとっては、先生みたいな人」と言っていましたが、これは誇張でも何でもなく、太郎さんの本音なのだろうと思います。

 

このように太郎さんは、徹底して、大衆の、特に大衆の中でも困難に直面している人々の声を聴き続けて来た。それが太郎さんの自信の源泉になっているのではないか。だから国会において、一流大学出身の与党議員や官僚を相手にしても、「自分の方が現場を知っている、当事者を知っている」という自負があるのではないでしょうか。

 

もう一つ、太郎さんの成長の軌跡を示す話があります。太郎さんは、反原発から始めた。しかし、辻説法をしていても、原発の話だと聴衆が関心を示さない。原発の話よりも、働き方、労働問題の方が、聴衆の喰いつきの良いことに気付く。地域にもよるでしょうが、多くの聴衆にとっては、原発問題よりも、日々の仕事に関する話題の方が身近です。更に、辻説法を続けていくと、労働問題よりも、お金の問題に聴衆が関心を持っていることに気付く。今から2年程前だと思いますが、このことに気付いた太郎さんは、松尾匡先生の著作に接し、MMTに出会う。こうして、現在の“れいわ新選組”の経済政策が練り上げられて来た訳です。

 

太郎さんの肌感覚は、国会という現場が持つ背後の構造をも照射したのだと思います。そこに働く議員たちの心理と、その背後にある事情を解き明かしていく。自民党の若手議員だって、本当は楽しくないはずだ。本当は国家国民のために仕事をしたがっているに違いない。返す刀で、野党議員の怠慢にも太郎さんの観察眼は及ぶ。

 

他の野党は、自民党とその議員を批判しますが、太郎さんの批判の矛先は、更にその奥にあるシステムに向かっている。確かに、先日の“れいわ祭り2”だったでしょうか、「小泉、竹中とんでもない!」という大合唱がありましたが、これにしても、どこか笑えるような余地がある。

 

仮に現在の自民党議員を蹴落としたとしても、その後には、同じような自民党議員が出てくるに違いありません。金太郎飴と同じことです。従って、本当の改革を行うためには、自民党やその議員たちが従っている思考原理、政治的なシステム自体を変えなくてはならない。そのためには、相手の立場に立って考えてみる必要がある。他の野党議員も、そのことに気付いてもらいたいものです。

 

結局、太郎さんという政治家を育てたのは、困難に直面している日本の大衆なんですね。そういう人たちの声を沢山聴いて来たから、太郎さんは自信に溢れている。そうでなければ、4億円もの寄付なんて、集められるものではありません。そして、そういう太郎さんだからこそ、日本の大衆は太郎さんの言葉に共感するのだと思います。私も含めて。

 

頭の固い人たちは、未だに太郎さんを左翼だとか、保守だとか、左派ポピュリズムだとか言う訳ですが、そんなことは太郎さんにはまるで関係がないのです。太郎さんの思考原理というのは、“みんなに忖度”なんです。

 

以上が、私が見た“れいわ新選組第1章”の本質です。

 

結果、舩後さんと木村さんが当選し、太郎さんは落選した訳ですが、上記のように考えますと、この結果は、大成功だったと思います。何しろ、政党要件までクリアしたのですから。

 

なお、次の衆院選には、少し間があります。次は、出たとこ勝負ではなく、もう少し綿密な計画を練っていただきたいものだと思っています。