文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

日米貿易協定 2段階方式の仕組み

日米貿易協定の国会審議等を巡り、ツイッター上で様々な論議が展開されています。私自身、大変不安を感じておりますので、少し、概略を調べてみました。取り急ぎ、その結果を報告致します。

 

まずご理解いただきたいのは、日米貿易協定というのは、かなり大きな話なので、1つの契約書にサインをしておしまい、ということではなく、段階を追っていくつかの書類にサインがなされるということです。まず、日米共同声明につきましては、ハーバー・ビジネス・オンラインに掲載されていました。

 

日米共同声明(ハーバー・ビジネス・オンライン)
https://www.cas.go.jp/jp/tpp/ffr/pdf/190925_TPP_statement.pdf

 

・2019年9月25日 日米共同声明
 署名者: 安部総理、トランプ大統領
 目 的: 日米貿易協定と日米デジタル貿易協定の締結。両国内の承認手続の実施。
      その後、関税や他の貿易上の制約、サービス貿易や投資に係る障壁、
      その他の課題について交渉を開始する意図を確認する。

 

次に、2つの貿易協定については、外務省のホームページに掲載されていました。

 

外務省 HP
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ila/et/page23_002886_00001.html

 

・2019年10月7日 日本国とアメリカ合衆国との間の貿易協定(“日米貿易協定”)
 署名者: 杉山駐米大使 ライト・ハイザー通商代表
 目 的: 日米間における物品貿易の促進。市場アクセスの改善。
 品 目: 牛肉、豚肉、ヨーグルト、チーズ、オレンジなど。(日本が譲歩)
 効 力: 両国において、国内法上の手続を完了した後に効力発生。(9条)

 

・2019年10月7日 日米デジタル貿易協定
 署名者: 杉山駐米大使 ライト・ハイザー通商代表
 目 的: デジタル貿易の促進
 効 力: 両国において、国内法上の手続を完了した後に効力発生。(22条)

 

そして、本件に関する今後の日本の国会審議予定は、次の通りとなっています。

 

2019年11月15日: 衆議院外務委員会で採決
2019年11月19日: 衆議院本会議で採決

 

ポイントをまとめてみましょう。まず、日米共同声明に署名がなされた訳ですが、この中で両国は、今後2段階に分けて貿易に関する協議を進めていくことが確認されています。第1段階は、物品貿易とデジタル貿易が対象で、日本側は主に農産品(特に牛肉、豚肉)に関して譲歩することになります。第2段階は、「関税や他の貿易上の制約、サービス貿易や投資に係る障壁、その他の課題」が検討の対象となる訳で、これは広範なFTA(Free Trade Agreement)となるはずです。

 

現在国会で審議されているのは、第1段階ということです。憲法61条に、条約の締結に関する国会承認については衆議院の議決が優先する旨、定められていますので、実質、今月の19日に衆議院本会議で可決されれば、第1段階については、最終的に発効することになります。(厳密に言えば、アメリカ側の国内手続も必要となります。)現在、国会前で農業関係団体の方々が座り込み等の抗議活動を行っておられます。

 

上記の第1段階の日米貿易協定につきましては、大別しますと、3つの問題があります。まず、米国産の牛肉、豚肉が安全なのか、という問題です。牛肉につきましては、過去にBSEの問題もありました。私としては、どうも不安で仕方がありません。できれば、和牛を食べたいと思っています。2番目の問題としては、食料安全保障上の問題です。アメリカに対する依存度が高まれば、今後一層、日本はアメリカに従属せざるを得ない状況に追い込まれます。3番目としては、日本の畜産業が損害を被るということです。結局、日本は自動車や自動車部品について、高い関税を掛けるぞ、とアメリカから脅されている。そこで政府は、自動車を守って畜産業を売った、という構図にあるのではないか。但し、自動車や自動車部品について高い関税を掛けることはしない、という確約をアメリカから得ている訳ではない。

 

なお、日米デジタル貿易協定につきましては、世界中で確固たるルールが決まっていない現時点において、アメリカとしてはポチである日本と協定を締結することによって、今後の世界的なルール作りにおける主導権を確保したい、という思惑があったようです。この協定ですが、利益を得るのはGAFAGoogle, Amazon, Facebook, Apple)ということになりそうです。

 

なお、国会における審議日程について、合意したのは、自民、立憲、国民の3党です。立憲と国民は野党でありながら、体を張ってまで日本の畜産業を守ろうという気概はないように思います。やはり、対米従属左翼ということです。

 

それにしても、「桜を見る会」にばかり注目が集まる中、こうして日本の畜産業が売られて行く。残念でなりません。しかし、更に深刻な問題は、第2段階にあります。最悪、日本の国民皆保険制度が、破壊される怖れがある。そうなると、例えば盲腸の手術をするだけで、700万円必要になると言われている。それが嫌なら、個人で保険に入れということですが、その保険料は月額5万円程度になる。3人家族なら、月額15万円。とても払える額ではない。いずれにせよ、今後、国民による監視が必要だと思います。日本にも政治の季節がやって来る。そんな予感がします。

反グローバリズムのススメ

日本の政治はとても複雑です。1つには、敗戦という歴史的な背景がある。更に、権力を持っている者が愚民化政策を進め、巧妙な支配システムを構築している。平気で嘘を付く政治家は、枚挙にいとまがない。最近、「嘘つきは東京オリンピックの始まり」と言うそうです。

 

とても複雑なので、若い人に興味を持てと言っても、ちょっと無理があるかも知れません。また、情報源がテレビと新聞だけの人や、仕事で多忙な人に対しても、これを理解しろと言うのは酷かも知れません。かく言う私も、一度は立憲民主党を支持するという過ちを犯しており、偉そうなことは言えませんが、若くも忙しくもないので、簡単に見解をまとめてみることにします。(現在、私は“れいわ新選組”を支持しています。)

 

かつて、日本は封建制だった。お殿様や天皇陛下を敬う社会だった。この体制がいい、伝統を重んじようと思う人たちがいる。この人たちを、右翼と呼びましょう。これに対して、労働者の権利を主張し、富の配分を公平に行うべきだ、という社会主義的な考えを主張する人たちが現われる。この人たちを左翼と呼びましょう。かつては、これらの右翼と左翼が激しく対立するという構図にあった訳です。

 

そこで、第2次世界大戦での敗戦を迎える。アメリカの進駐軍がやって来る。当初、アメリカは、日本に存在する右翼も左翼も、その双方を認めなかった。右翼の肩を持つと、日本が再びアメリカに戦争を仕掛けるかも知れない。かと言って、日本が共産主義に傾倒するのも困る。アメリカが考えたのは、未来永劫、日本を弱体化することだった。そこで、敗戦の翌年、1946年に日本国憲法が公布される。戦後の混乱期にあった日本において、この憲法がどのように受け止められたのか、私は知りません。しかし、この憲法国民主権基本的人権の尊重などを謳っていたことから、これは革命的な価値観の転換を招いたであろうことは確かだと思います。そして、9条に定められた平和主義。解釈改憲によって、今日における意味合いは随分と変容していますが、基本的には無抵抗主義を標榜する、世界にも類を見ない平和憲法だった訳です。これは素晴らしいということで、左翼の人たちは憲法を高く評価した。

 

ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発する。するとアメリカは、地政学上の日本の重要性に気付いた。ソ連や中国などの共産国に対し、その防波堤となる役割を日本に負わせようと考えた。そこでアメリカは、日本の右翼の肩を持つようになった。そして、アメリカにおべっかを使い、尻尾を振る人々が現れる。ここら辺が、難しい。

 

本来の右翼を「真正右翼」としましょう。これに対して、アメリカに尻尾を振る右翼については、エセ右翼、親米右翼、経済右翼などと呼ばれることがありますが、ここでは「対米従属右翼」と言っておきましょう。

 

A 真正右翼・・・三島由紀夫一水会など。
B 対米従属右翼・・・岸信介安倍晋三自民党清和会など。

 

一方、戦後の左翼運動というのは、主に労働運動という形を取ったのだと思います。労働者の権利を守れということで、労働組合がその担い手となった。しかし、企業側の懐柔工作があって、企業の業績に資することを目的とする労働組合が登場する。このような組合は、御用組合と呼ばれた。この流れを汲むのが、労組の団体である連合であり、政党では立憲民主党、国民民主党だと思います。便宜上、ここでは、「対米従属左翼」と呼びましょう。

 

C 対米従属左翼・・・連合、立憲民主党、国民民主党

 

言うまでもなく、BとCは対米従属という点では一致している訳で、双方の親和性は高いことになります。実際、立憲民主党の枝野代表は、結党後、渡米しCSISとの面談を行っています。関連記事のリンクを貼っておきましょう。

https://cdp-japan.jp/news/20180914_0871

 

ちなみにCSISというのは、民間のシンクタンクですが、アメリカ政府に対して、影響力を持っている。そして、CSISの開催するセミナーで講演をすると、CSISのお墨付きが与えられると言われています。麻生財務大臣が日本の水道を民営化するとぶち上げたのがこれですね。

 

私は、日本国憲法は大変素晴らしいと思っています。しかし、そこには隠されたメッセージがあることも事実です。すなわち、アメリカは永久に日本を貧困化させようと考えていたということです。すなわち、憲法9条との関係で財政法という法律も制定され、日本は勝手に国債を発行して、国の発展を図ってはならない、という足かせが嵌められたのです。勢い、憲法を守れと主張して来た左翼は、緊縮財政を主張する。この緊縮左派の人たちというのは、現在、ほぼ、対米従属左翼と連動しているように見えます。

 

そこで、今までにはなかったカテゴリーで、すなわち「反緊縮左派」というポジションで出てきたのが、れいわ新選組だと思います。反緊縮、反グローバリズム、対米自立を主張するのがれいわ新選組で、このような国政政党は、他にないと思います。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

A 真正右翼・・・三島由紀夫一水会など。
B 対米従属右翼・・・岸信介安倍晋三自民党清和会など。
C 対米従属左翼・・・(緊縮左派)連合、立憲民主党、国民民主党
D 反緊縮左派・・・れいわ新選組

 

ここまで来ますと、ほぼ、右左の対立関係は弱まってきます。むしろ、アメリカに象徴されるグローバリズム反グローバリズムの戦いになって来る。そこで、AとDが接近し、BとCが近づく。YouTubeで「兵頭正俊の状況の交差点」という番組を運営されている兵頭氏によれば、結局のところ、次の対立関係に集約されるということです。私も、この区分に賛成です。

 

グローバリズム売国・・・・B+C
反グローバリズム/愛国・・・A+D

 

グローバリズムというのは、新自由主義と近い概念だと思いますが、郵政の民営化、TPP、種子法の廃止、水道民営化等々、国境を越えて多国籍企業が儲かる仕組みな訳で、結果として日本国内の資産が、海外に流出する。日本の資産を海外に流出させるという意味で、売国につながる訳です。現在、国会で審議中の日米FTAが最後のトドメになりそうで、私としては大変心配しています。

文化認識論(その12) 心の中身

<認識方法の変遷>
1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

※ 1番から4番までの認識方法を総称して、「芸術的認識」又は「芸術的認識方法」と呼びます。

 

ある程度の規模の会社に入りますと、大体、“部”という規模の組織がある。人事部、経理部、製造部、営業部などがその例です。これが横方向の記号分解だと思います。そして、各部のトップには部長がいて、その下に次長、課長、係長、平社員という区分がなされている。これが縦方向の序列による分解です。

 

更に各従業員は、性別、年齢、学歴、職歴などの記号によって分解され、会社に認識される。正に現代の社会は、学校から会社に至るまで、記号分解によって成り立っているように思います。すると、序列に対する依存という心理状態が生まれる。前々回の記事では、少し屈折した事例を挙げましたが、どこの会社にも自分の役職を笠に着て、威張っている人というのは、少なくありません。仕事上の実力のない人、本当は自信のない人に限って、威張り散らかすんですね。これがパワハラにつながる。親会社や銀行、又は役所などから天下って来る人もいます。こういう人は、その会社の業界特性を知らず、社内の人脈もない。勢い、序列依存に陥り易い。

 

序列に依存するようになりますと、自分のポストに固執するようになります。ポストを守るために、上司にはおべっかを使います。そして、部下に追い越されては困るので、自分におべっかを使う人を重用することになります。こうして会社にはイエスマンとヒラメが繁殖するのです。

 

序列依存に陥った人は、あくまでも自分のポスト、役職にこだわりますので、なかなか引退しません。そのような人のために、大企業では相談役とか、顧問という名誉職を用意せざるを得ないのです。老害です。政治家にも同じような人は沢山います。とにかく、引退してくれない。ちなみに、麻生財務大臣は79歳で、自民党の二階幹事長は80歳です。一度しかない人生なのに、他にすることはないのでしょうか?

 

最近、右派の論客、藤井聡氏がやっている雑誌、クライテリオンで“安部晋三「器」論”という特集があました。「器」とは、中身がないという意味です。私は左派ですが、この意見には賛成です。安部総理は、空っぽだと思います。また、セクシー発言で一躍スポットライトを浴びた小泉進次郎氏についても、空っぽで、頭を振るとカラカラ音がするとかしないとか。そういうことがネットで話題になっています。日本人は空っぽになった、ということも言われるようになって来ました。

 

日米FTAが国会で承認されると、日本の国民健康保険が破壊され、医療が崩壊する。そうなると、例えば盲腸の手術を受けた場合の費用が、800万円を超えるのではないかというようなことも言われています。日本の関税権は奪われ、為替条項によって国債すら自由には発行できなくなる危険性がある。そうなると、MMTに基づく積極財政政策を採ることができなくなり、日本人は貧困の奈落へと突き落とされるのではないか。

 

衆議院での憲法審査会が開催されたようです。これはもう、憲法が危ない。自民党がゴリ押しした場合、国会が憲法改正の発議を行い、国民投票まで持っていかれる。すると、メディアが改憲を煽るCMをバンバン流して、空っぽな国民が改憲案に賛成する。自民党改憲案には、緊急事態条項が含まれている。災害時などにこれが発動されると、三権は全て政府が握ることとなり、日本の民主主義は終わる。

 

こういう危機的な状況にある訳ですが、多くの国民はラグビーだとか、ハロウィンに熱狂し、大手のメディアはこれらの問題に対し、沈黙しているように見えます。これは確かに、空っぽになったとしか言いようがありません。

 

しかし・・・と私は思う訳です。空っぽになったと言って批判をするだけなら、誰でもできる。では、人間の心が本来持っているべき事柄とは何なのか。それを説明した上での批判でなければ、説得力がない。そこで、冒頭の「認識方法の変遷」と記した一覧に移ることになります。

 

まず、芸術的認識方法について考えますと、ここには明らかに認識しようとする対象がある。動物がいる。植物がある。そして、人間を包み込む大自然がある。かつて、人間はそれらの対象との間に強い関係性を築いていたと思います。加えて、それらの対象を認識しようとした結果、膨大な量の芸術作品が生み出された。芸術作品は、それらを鑑賞する私たちの心にも入り込んで来る。

 

加えて、無文字社会の人々は、シャーマンを見ていたのではないか。この点は、次回の原稿に記すことにします。

 

また、特に近代の小説や映画について考えますと、そこには“感情移入”という現象が生じます。自分があたかも登場人物になったような気持ちになる。そして、登場人物の境遇を嘆いて、涙を流したりする。この作用が、人間の想像力を育んで来たことに異存はないでしょう。

 

そして、論理的思考になる訳ですが、これはいくつかの現象を観察して、そこに共通する原理を発見するところに本質がある。原理を発見できれば、近未来を予測することができるようになります。こういう条件下でこういうことをすると、こういう結果になるに違いない。では、望ましい結果を導くためには、今、どうすべきか、ということを考える訳です。その典型は、法律ではないでしょうか。現代の日本において、法律を作るのは国会で、その国会議員を選ぶのが選挙です。すなわち、この論理的思考を突き詰めて行きますと、必然的に政治的な主張に帰結する。

 

少し整理をしてみましょう。

 

認識の対象・・・動物、植物、自然

認識するための介在者、介在物・・・シャーマン、芸術作品

認識するための心的機能・・・想像力、論理的思考力

 

言うまでもなく、特に都市部におきましては、自然が失われてしまいました。野生の動物に接する機会も少なくなってしまいました。従って、何万年もの間、人間が認識しようと試みてきた、その対象が現代社会においては、極端に衰退していると言えます。これでは、人間の心が空っぽになるのも、当然の成り行きかと思います。

 

次に、芸術を生み出す創作活動や、私たちが芸術作品に触れる機会は、どうでしょうか。こちらも減少しています。暗記中心の教育によって、子供たちの感性や想像力が育まれるはずがありません。

 

論理的思考力は、どうでしょうか。親は子供を虐待し、政治家は有権者にメロンやカニを配り、ウグイス嬢には法規制を上回る額を支払い、ブラックバイトやブラック企業が蔓延しています。現代の日本人には、何が正しいことで、何が間違ったことなのか、その判断を下す能力さえも無くなってしまった。

 

結局、本来認識すべき対象が失われ、人間の認識を補助する介在物(芸術作品)などが生み出されにくくなり、想像力は減退し、何が正しいことなのか判断できなくなった。人々の認識方法は、記号分解に異存し、そこから序列依存というメンタリティが生まれる。これが、“空っぽ”と呼ばれる現代日本人の心の中身ではないでしょうか。

 

ここで、余談を一つ。四谷怪談というのがあって、昭和の子供たちは震え上がったものです。“お岩さん”という幽霊が登場する話です。これを解釈しますと、“お岩さん”は、死者を代理している。

 

人間 - お岩さん - 死者

 

すなわち、人々は“お岩さん”を通じて、死者とは何か、想像していたことになります。時間が流れ、“オバケのQ太郎”という漫画が出てくる。オバQは、可愛らしいキャラクターですが、何者かと言うと、一応、オバケであるということになっている。更に時間が経過しますと、今度は“ドラえもん”が出てくる。これは、未来からやって来たネコ型ロボットという設定になっている。

 

元来、人間は記号を通じて、何らかの対象を認識しようとしてきた訳で、“お岩さん”の場合はその原理が当てはまります。

 

人間 - 記号(お岩さん) - 対象(死者)

 

ところが“ドラえもん”になると、記号の先に記号しかない。

 

人間 - 記号(ドラえもん) - 記号(ネコ型ロボット)

 

どこまで行っても記号しかない。そういう時代になったように思います。

文化認識論(その11) 芸術的認識と記号分解

<認識方法の変遷>
1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

 

毎回、「1番から4番までの認識方法」と述べるのは、煩雑です。そこで、これを指して言う良い言葉はないだろうか、と考えた訳です。「想像的認識」という言葉も考えたのですが、1番には「想像」という要素が記載されていない。そこで「芸術的認識」又は「芸術的認識方法」という言葉を考案しました。1番から4番までの認識方法は、これを発展させて行きますと、いずれの項目も「芸術」に結びつくからです。復習しますと、芸術的認識、芸術的認識方法とは、無文字社会の人々が行っていた認識方法を意味します。何だか、どんどん複雑になって行き、恐縮です。

 

ところで、子供たちの遊びについて考えますと、実は、この芸術的認識方法を用いて、外界を認識しようとしているのではないかと思えて来ます。例えば、女の子が好きなママゴトというのは、親の真似です。絵を描くのが好きな子供も、少なくありません。

 

ちなみに私は千葉県で育ったのですが、当時はまだ自然に恵まれていました。自転車に乗って20分も走ると、カブト虫が採れたりする。採ってきたカブト虫をカゴに入れて飼うことになります。母親にもらったスイカの皮だとか、キュウリの切れ端などをやると、カブト虫がそれにしがみついて、果汁を吸うのです。それを見た時、私は本当に嬉しかったのを覚えています。この現象は、介在原理で説明できます。

 

私 - スイカの皮 - カブト虫

 

子供たちの遊びというのは、一見、無意味に思えますが、実は、この芸術的認識方法によって、彼らなりに学んでいるのではないでしょうか。

 

芸術的認識の反対概念として、記号分解という現代人の認識方法を考えることができます。そもそも「分解」というのは広辞苑によれば、「一体をなすものを個々の要素に分けること」とあります。例えば、世の中に存在する物質を分解していくと、元素という単位に行き着く。これらに記号を付して、人間は物質を認識しています。うろ覚えですが、窒素はNで炭素はCとか、水はH2Oということになる訳です。これは素晴らしい。水は水素の粒子2つと酸素の粒子1つで出来上がっている。良くこんなことが分かったものだと感心してしまいます。このように記号を用いて、何かを分解し、認識する。これが、記号分解という認識方法です。元素に分解して、元素記号を付して認識する。私はこの事例に何の異議もありません。

 

では、“時間”はどうでしょうか? 時間というのは、連綿と続いている訳で、これを分割することなど不可能ですが、現代人は年月日に分けて、これを認識している。時計を見れば、分単位、秒単位で現在時刻を認識することができる。しかし、“時間”とは何か。これを説明できる人は少ないのではないでしょうか。私にも、それはうまく説明できません。従って、記号分解に関するこの事例について、私は、疑問であると言わざるを得ないのです。

 

次に、“色彩”はどうでしょうか。色彩というのも本当は多種多様なはずですが、例えば、「これは茶色だ」などと、現代人は勝手に決めつけて認識している。茶色の絵の具に黄色の絵の具を混ぜるとオレンジ色になる訳ですが、本当は、茶色とオレンジ色の間にも、無数の色彩が存在する。従って、記号による名称を付して色彩を正確に認識することは、ほぼ、不可能だと思います。“音”も同じです。音も多種多様で、無数の音素が存在する。無数に存在する音素の中から、日本語であればアイウエオなどの音素を抽出して言語化している訳ですが、その言語によって馬のいななきを表現することはできない。楽譜によって、表現できることも限られていますね。このように連綿とつながっている事柄を、記号によって分解したところで、本当のことは認識できないのではないでしょうか。

 

日本は、今年IWOを脱退するまで、調査捕鯨を行って来ました。これは建前上、クジラの生態などを調査する目的で行われてきた訳です。クジラを殺して解体し、例えば胃袋の中を見ると、クジラが何を食べているのか分かる。心臓や肺など、他の臓器も調査の対象になるでしょう。しかしこれに対して、そんなことをしても重要なことは分からない、という反対意見があります。例えば、南氷洋のどこかでオキアミが大量に発生すると、何故か、そこにクジラが集まって来る。オキアミの群れを発見した最初のクジラが、実は、他のクジラを呼び寄せているのではないか。そもそも、2次元の地上であれば、人と人が出会うことは容易だ。しかし、真っ暗な3次元の海の中で、どうやってクジラの雄と雌は出会っているのだろう。このようにクジラの生態は、未だに謎に包まれている訳です。そして、これらの謎がクジラの魅力を高めている訳ですが、いくらクジラを解体してみても、これらの謎を解くことはできない。生きているクジラの行動なり生態を観察することによってしか、すなわちクジラを分解せずに、総体として、ありのままのクジラを観察することによってしか、クジラが秘めている謎を解くことはできない。

 

このように記号分解という認識方法は、ある意味、科学的ですが、欠陥もある。世の中には分解できない事柄(色彩や音)があるし、分解しては返って分からなくなってしまうことがある。分解した途端に、掌から砂が零れ落ちるように、重要な何かを秘めている部分が見えなくなってしまう。そういう本質的な欠陥を持っている。それが、記号分解という認識方法だと思うのです。

 

反対に、芸術的認識方法はどうでしょうか。例えば、アイヌの人々が美しい鶴を観察する。その動きを真似てみる。そして、“鶴の舞”という踊りができあがる。このプロセスにおいて、零れ落ちていく要素というものは、多分、存在しない。アイヌの人々は、鶴の総体を見ているのであって、それを分解しているのではないと思うのです。

 

思えば、芸術というのは、そういうものではないか。つまり、記号によっては表わしえない何か、それを表現するのが芸術であると。ジミ・ヘンドリックスの音楽は、音符にできない。ピカソジャクソン・ポロックの絵画を、何らかの別の方法で説明することはできない。小説は、文字という記号そのものによって成り立っているものの、そこに表現される何かを、別の記号に置き換えることはできない。

 

ところで、この記号分解という認識方法によって、人間を認識できるか、という問題があります。もちろん、答えはNOですね。しかし、大人は様々な記号によって、子供たちを分解し、認識しようとする。元来、彼らは芸術的認識方法を用いて遊んでいるのに、大人は彼らを学校に縛り付け、学科毎にテストを受けさせ採点し、評価する。

 

私は学校が嫌いでしたが、その理由がよく分かりました。

 

文化認識論(その10) “序列依存”という心の貧困

<認識方法の変遷>
1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

 

古い書物の代表例として、聖書があります。聖書において、天地を創造した神という概念が作られた。そして、神に仕える聖職者が生まれる。聖職者は、より神に近い者の序列が上、ということになる。このような考え方に異議を申し立てたのが、マルティン・ルターだった。

 

中世のヨーロッパにおいては、軍事力と経済力を持つ王様が権力を持っていた。しかし、本当は同じ人間なのに何故、王様は偉いのか、という問題が生じた。そこで、王様の権利は神が授けたものだという「王権神授説」が誕生する。これを真っ向から否定したのが、ジョン・ロックだった。

 

仏教の源流であるヒンドゥー教において、カースト制が生まれ、人間はその職業によって序列が分けられた。現在、インドの法律でこれは禁止されていますが、実社会においては、根強く残っている。このカースト制を正当化するために、輪廻転生という考え方が採用された。すなわち、現世におけるカーストを全うした者は、来世において、より上位のカーストに生まれ変わることができる。これが輪廻転生という考え方が生まれた起源だと言われています。その結果、インドにおいては圧倒的な序列社会が今日まで続いている訳で、これがレイプなどの犯罪を助長している訳です。

 

日本の士農工商も同じですね。

 

ところで、一昨日(10月28日)、“れいわ新選組”の山本太郎さんの大分における街頭記者会見において、ちょっとした事件が起こりました。まず、素性不明のおじさんが登場する。このおじさん、太郎さんに対し、イチャモンを付け始めるんですね。太郎さんに対し、偽善者、所詮はタレント、大学教授でもないくせにこんなところで何をやっている。概ね、そんな言葉を吐いて、最後はマイクを地面に叩き付け、立ち去った。

 

対する太郎さんは、「さっきの人だって、本当は裕福じゃないやん。裕福じゃない者同士、なんで石を投げあわなきゃならないの」 と言って号泣してしまった。本当は貧しい者同士、弱い者同士だからこそ、連帯すべきだ。本当は、そんなおじさんにこそ、太郎さんは分かって欲しかったに違いありません。

 

ツイッター上では様々な情報や意見が飛び交っています。その場にいた人の話によると、このおじさん、最後はスタッフの人に謝って、その場を立ち去ったそうです。やり場のない憤りを感じていて、それを太郎さんにぶつけてしまったのではないか、という同情の声も聞かれます。

 

山本太郎 偽善者と呼ばれて」 れいわ新選組 大分
https://www.youtube.com/watch?v=pQw8_gmK_C4

 

弱者が弱者を叩く。貧者が貧者を批判する。何故、こういうことが起こるのか。私には、思い当たる節があるのです。

 

まず、時の権力者は、市民に対し何かを諦めさせようとする。それはもう無数の方法や理屈がある。先に述べたカースト制と輪廻転生などは典型だと思いますが、その他にも性別、家柄、貧富など、市民を諦めさせる屁理屈というのは、無数にある。最近では、シングル・マザーだとか、生産性ということまで言われている。

 

序列の典型的な例で、学歴があります。大企業ですと、高卒だとなかなか管理職にはなれない。高卒の人は、自分は高卒だから管理職になれないのだ、という諦めが生じます。これは同時に、自分にとってのイクスキューズ(言い訳)にもなる。自分は頑張っているし実力もあるが、高卒だから出世できないのだ、それは仕方のないことだ、と認識する。序列以外の認識方法を持っている人であれば、例えば芸術に夢中になっているとか、論理的な思考のできる人であれば、事情が変わってくる可能性がある。しかし、それらの認識方法を持っていなければ、これはもう序列に頼って認識する以外にない。これが“序列依存”だと思う訳です。

 

しかし、このイクスキューズが効かなくなる場合がある。例えば、太郎さんは高校中退なので、一応、中卒ということになる。序列依存に陥っている高卒の人からしてみると、これは面白くない。自分は高卒で、甘んじて厳しい現実を受け入れている。それはやむを得ないことだ、と考えている。しかし、中卒の太郎さんは落選中とは言え最近まで国会議員で、街頭記者会見を開けば沢山の人々が集まる。スポットライトを浴びて、マクロ経済について熱弁を振るう。中卒の太郎さんにそういうことができるのであれば、高卒の自分にだってできる可能性があることになる。自分は高卒だから仕方がないんだ、というイクスキューズが成り立たなくなる。これは面白くない、という心理になる。

 

ポイントをまとめてみましょう。まず、時の権力者が、一般の市民に屁理屈をこねて何かを諦めさせようとする。それによって、市民は何かを諦める。と同時に、その諦めが自分にとってのイクスキューズになる。このイクスキューズが否定された場合、その市民は激怒する。こういうパターンだと思います。

 

私がこういうことを考えるに至ったのには、いくつかきっかけがありました。

 

行きつけと言える程、通った訳ではありませんが、ある漁師町に寿司屋がある。そこの大将は、高校を卒業すると同時に、東京の寿司屋へ修行に出た。昔のことなので、それは厳しい修行だったに違いありません。店の掃除やシャリの焚き方とか、そういう作業から始めたものと思われます。2~3年もそんな作業を繰り返した後、やっと親方が少しずつ寿司の握り方を教えてくれる。大将の修行は、5年程続いた。やっと親方のお許しが出て、暖簾分けに至る。大将は故郷の漁師町に戻り、寿司屋を開業した。同じ漁師町で育った女性と結婚し、早くも50年が過ぎた。

 

その寿司屋のカウンターに座っておりますと、ある日、大将が激怒したという話を女将さんから聞いたのです。どういうことかと言うと、最近、寿司職人を養成する学校が出来たらしい。そこでは3か月程度、みっちりと技術を教わる。そして、その寿司職人養成学校の卒業生がやっている寿司店が、ミシュランガイドに掲載されたというのです。これは、大将が怒るのも無理はない。

 

ちなみにこの大将、山本太郎さんが大嫌いなのだそうです。私は、重ねて2度、その理由を尋ねましたが、大将はその理由を答えてはくれませんでした。

 

そう言えば、こんな話もあります。私は学卒で、幸い学歴コンプレックスとは無縁に過ごしていました。やがて、私の元勤務先会社は業績が振るわず、外資に買収されたのです。外資系となると、どうも出世していくのは院卒なんですね。大体、4年制の大学を出た後にアメリカの大学院へ2年程留学する。そういう暗黙のルールがある。そこで私がコンプレックスを感じたかと言うと、そんなことは全くなかった。長い間、私はマイルス・デイビスジミ・ヘンドリックスゴッホを尊敬してきた訳です。マイルスやジミ・ヘンに比べれば、アメリカの大学院を卒業していようが、そんなものは何でもない。

 

共産主義者であれば、時の権力者に何を言われても諦めるな、と言うかも知れない。しかし、ある程度の諦めは、止むを得ないのではないかと思います。私も、多くの夢や希望を諦めてきました。しかし、序列に依存するというのは、いかにも寂しい。そうならないためには、心を豊かにしておく必要がある。そして、心を豊かに保つには芸術と言いますか、冒頭の一覧に記しました1番から4番までの認識方法、これを習得しておいた方が良いと思うのです。

文化認識論(その9) 関係性と想像力

前回の原稿の末尾に掲載しました一覧を、以下に再掲致します。

 

1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

 

アイヌの人々を含め、無文字社会における認識方法は、1番から4番ということになります。

 

1番から3番までのパターンでは、まず、人間が何らかの対象に興味を持つところから始まる。動物に興味を持って、その真似をする。植物に興味を持って、自分たちとの関係性を発想する。介在者や介在物を措定して、自分と対象との関係を認識する、といった具合です。この認識をしようとする者と対象との関係性は、多分、3番の“介在原理”において、そのピークを迎える。4番の物語的思考になると、物語の中に話者や聞き手は登場しません。よって、物語的思考において、関係性は衰退していると言えます。

 

次に、想像力ですが、こちらは2番の融即律から始まって、4番の物語的思考において、そのピークを迎える。アイヌユーカラやその他の神話におきましては、現実に発生した出来事にヒントを得ているものも少なくないとは思いますが、その世界では動物が言葉を話したり、カムイが登場したりする訳で、構成要素の多くは人間の想像力に依拠しているものと思われます。5番の論理的思考になりますと、未だ想像力に頼る部分はありますが、その範囲は現実世界の枠組みの中に限定されると思います。換言すれば、論理的思考において、想像力に頼る部分は減少している。

 

このように考えますと、上の一覧から、いくつかのことが分かってきます。

 

第1に、人間の認識方法は、まず、身近な対象に興味を持つ所から始まって、それは多分、3番の“介在原理”においてピークを迎え、その後、衰退して行く。

 

第2に、かつて人間は想像力に頼って認識していたものの、そのピークは多分、4番の物語的思考においてピークを迎え、その後、衰退していく。

 

第3に、人間が認識しようとする対象の範囲は、とても身近な所から始まって、4番の物語的思考において普遍化され、以後、拡大の一途を辿る。

 

第4に、現代人の認識方法は、記号に依拠しており、あらゆる事象が記号化され、記号によって分割されている。このような事態を私は、“記号分解”と呼んでいる訳ですが、この認識方法においては、自分と対象との関係性は希薄になる。更に記号分解という認識方法においては、多くの場合、想像力を必要としない。すなわち、現代人が失ったのは、関係性と想像力である。

 

第5に、1番の“真似る”から4番の“物語的思考”までの中に、芸術の起源と本質が含まれている。

 

真似る → ダンス、音楽、ファッション
融即律 → これは「直観」として、芸術を支える重要な心理的機能として理解されている。
介在原理 → 介在物は、その後の彫刻や絵画となる。
物語的思考 → 文学

 

上記4つの認識方法が、芸術の本質である。芸術の本質とは、近代以降、記号分解に対するアンチテーゼとして顕現する。換言すれば、近代以降の前衛芸術は、反文明、反権力という様相を呈する。

 

第6に、1番の“真似る”から4番の“物語的思考”までの中に現代人の心を癒すヒーリング効果が内在する。この点は、以下のYouTube番組をご紹介させていただきます。河合隼雄氏は、言わずと知れたユング派心理学の日本における第一人者です。

 

世界 心の旅 河合隼雄 「アメリカ 大地に響く癒しの笛」
https://www.youtube.com/watch?v=yZu3GVxmzN8

 

ちなみに、番組中のナバホ・インディアンが治療の為に用いる砂絵は、近代前衛絵画、ジャクソン・ポロックに多大な影響を及ぼしたと言われています。

 

どうやら私が永年追い求めて来た古代人のメンタリティだとか、芸術の本質だとか、現代人が抱える課題など、記述することができたように思います。今夜は、一人で祝杯をあげることにしましょう!

文化認識論(その8) 認識方法の変遷

思えば、文字を持たない文化なり信仰においては、どうすべきか、どうあるべきか、ということに関する主張、すなわち教義は存在しないのではないでしょうか。シャーマニズムやアフリカのヴードゥー、日本古来の神道修験道も同じだと思います。教義というのは、これらの信仰者たちにとっては、興味の対象外だった。彼らの関心は、ひたすら動物や自然に同化していくことだったのだろうと思います。

 

文字が発明されると、いくつかのムーブメントが起こる。口頭で伝承されて来た神話や民話を文字にして、記録しようとする。これが、後の文学につながる。聖書が作られる。しかし、旧約聖書が書かれるずっと以前に、法律ができていたようです。古くはハンムラビ法典というのがあります。目には目を、っていう奴ですね。しかし、これが現代の法律につながっている訳ではない。紀元前8世紀頃にローマ法と呼ばれるものが生まれ、こちらが今日の法律に影響を及ぼしている。すなわち、文字が宗教上の教義や法律を生んだのだろうということです。

 

ところで、人間の歴史、文化の歴史というのは、“認識”の歴史でもあると思うのです。例えば、山中で道に迷った。道が左右に分かれている。どちらへ進めば帰路につけるか、正しく認識していさえすれば、人間は正しい行動を取るはずです。人間は、常に何らかの願望を持っていて、その願望を叶えるために現実と直面している訳ですが、あらゆる場面で物事を正しく認識できていれば、その願望を実現するために適切な選択をすることが可能なはずです。行動や判断の前に認識がある。よって、認識が文化の本質ではないかと思う訳です。

 

そこで、このブログでは「認識するとはどういうことか」、種々検討してきた訳ですが、まとめてみたいと思います。歴史的な時間の流れに従って、列挙してみましょう。

 

1. 真似る
2. 融即律
3. 介在原理
4. 物語的思考
5. 論理的思考
6. 記号分解

 

個々の項目については既に述べておりますが、そのポイントを新たな視点を含めて、以下に述べてみることにします。

 

1. 真似る


人間は、自分が嫌悪している物事や、自分が侮蔑している対象の真似をすることはありません。やはり、真似るからにはその対象に対する憧れや、尊敬の気持ちがある。従って古代の人々は、自分たちが好意を持っている対象の真似をしたはずです。まず、動物の鳴き声や動きを観察する。そして、自らの身体を使って、その真似をする。

 

また、このブログでは人間が五感で感じる全ての信号を記号であると定義してきましたが、人間が作り出す記号を“人工記号”とし、自然界に由来する記号を“自然記号”として、区別する必要があるように思います。すなわち、動物の鳴き声というのは自然記号で、それは人工記号である言語や楽譜によって、表現することができない。しかし、例えばオレナ・ウータイは馬のいななきを物の見事に再現している。してみると、動物の真似をするということは、人工記号に依拠しない行為だと言えます。

 

昔、ソシュールという言語学者が、話し言葉を分解していくと最後は“音素”という構成要素に辿り着くと言いました。そしてこの音素は、言語によって使われる範囲が異なるということです。例えば、日本人には英語のアールとエルの区別がつきにくい。これは日本語にそのような音素が使われていないからなんです。フランス人は「ハヒフヘホ」が苦手だという話を聞いたこともあります。

 

動物の鳴き声には往々にして、我々が使用している言語には含まれない音素が使われている。だから、言語感覚に基づいていては、動物の鳴き声を真似ることが困難なのです。

 

すなわち真似るという行為は、対象をよく観察し、人工記号に依拠することなく、人間がその身体を使用して、人間が憧れる対象との関係性を構築し、認識する、ということだと思います。これは最も古い、基本的な認識方法ではないでしょうか。この真似るという行為は、多分、言語の発生よりも古い。むしろ、この真似るという行為、認識方法が、言語を生んだのではないかとさえ、思われます。(例えば、赤ちゃん言葉では、犬をワンワンと呼ぶなど。)

 

2.融即律


この言葉は、歴史主義的文化人類学者のレヴィ・ブリュルという人が作ったそうです。その意味は、「別個のものを同一化して結合してしまう心性の原理」であるといわれます。(参考:Wikipedia)「我々の祖先はバナナである」と述べたバナナ村長の話は、このブログでは繰り返し述べてきました。ところが、最近、河合隼雄氏が北米のインディアンを訪ねるという番組を見ておりましたら、インディアンの部族の中には「自分たちの祖先はトウモロコシである」と考えている部族のいることが紹介されていました。バナナ村長は、村民に対しバナナを食べることを禁じましたが、こちらのモロコシ村長のいる部族では、トウモロコシをほとんど主食のように食べているそうです。この話になると、どうも私は冗談めかしてしまうのですが、当のご本人たちにしてみれば、バナナなりトウモロコシに強烈な思い入れがあったのではないか。なんとか、自分たちと関連づけて認識したい。しかし、バナナもトウモロコシも植物なので、動かない。真似をすることができない。そこで、自分たちの祖先であると位置づけることによって、関係性を構築し、認識しているのではないか。すなわち、自分たちにとって、重要な意味を持つ何かに対し、想像力を働かせて関係性を構築することによって、認識する。これが融即律だと思われます。融即律も想像力に依拠するもので、人工記号には依存しません。

 

3. 介在原理


シャーマニズムについて検討していくと、様々な場面で介在者、介在物が登場する。例えば部落の人々がいて、その代表者がシャーマンである。シャーマンは精霊やカムイに祈りを捧げる。精霊やカムイは動物や自然を代理している。

 

部落の人々 - シャーマン - 精霊・カムイ - 動物・自然

 

この場合、シャーマンは部落の人々と精霊・カムイを介在し、精霊・カムイはシャーマンと動物・自然の間を介在する。

 

Jaw Harpは、人間と自然の間を介在し、子守歌は赤ん坊の覚醒している状態と睡眠状態を介在する。

 

介在者、介在物を通じて、対象と同化するのが介在原理であって、ここでは人工記号の一種である言葉が役割を果たすことになります。但し、文字はまだ登場しない。

 

4.物語的思考


アイヌの物語にこういうのがあります。若い嫁が熊に襲われる。これは悪い熊のカムイの仕業だと思われる。そこで、儀式を行い、他のカムイたちに働きかけ、悪いカムイに制裁を加えてもらう。悪いカムイは反省する。ここには、カムイという概念が登場する。そして、出来事の因果関係が語られる。この想像力に支えられた「概念+因果関係」というのが、物語的思考の基本的な構造だと思われます。口頭で伝承された物語なので、言葉は登場しますが、まだ、文字は登場しない。

 

5.論理的思考


A=B C=B よってA=C。論理的にこのような証明を行うのが演繹だと思いますが、現実の世界で、このような事例はほとんど起こりえない。要は、AもBもCも同じだと言っている訳で、そんなことは考えないでも分かる。

 

次に、数ある鳥の中で白鳥という鳥を抽出する。例えば、100羽の白鳥を観察し、全て白いことを確認した。よって、白鳥は白いと結論づける。これが帰納ですが、これも当たり前で、そんなことは見れば分かる。(この例では、オーストラリア大陸において黒い白鳥、すなわちブラック・スワンが発見されたそうです。)

 

それよりも、現実社会において頻繁に採用される論理的思考方法というのは、パースが提唱したアブダクションだと思います。まず、驚くべき事実がある。ある仮説を立てて、その仮説が正しいとすれば、その驚くべき事実を説明できる場合、その仮説は正しいこととなる。私の思考方法というのも、大半はこれだと思います。ところが、このアブダクションには、仮説を立てるための想像力というものが必要になる。その点、科学的ではないという批判があるかも知れません。しかし、人間の認識能力には限度がある訳で、仮説を立てずして、立証できることなど、むしろそちらの方が少ないのではないか。

 

論理的思考の代表例として、法律というものがあります。以下に日本の民法709条を引用します。

 

「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」

 

法律を作る人というのは、まず、人間の社会を観察している。そして、具体的に発生した事例を分析し、そこから例えば故意だとか過失という概念を抽出する。そして、因果関係を認定し、判断を下す訳です。この条文の中に、人間の想像力が介在する余地はありません。しかし、現実に発生する事例というのは千差万別であって、上記の条文だけで判断できるケースというのは、少ない訳です。そこで、裁判になる。すると裁判官が原告、被告双方の言い分を聞いて、最後は裁判官の持った印象で判決を下す訳です。これを自由心象主義と言いますが、結局、最後は裁判官の、人間の想像力に依拠している訳です。

 

この論理的思考は、文字に支えられています。人間社会をよく観察し、そこから概念を抽出し、因果関係を認定する。但し、基底には人間の想像力がある。

 

長い間、私はこの“論理的思考”が人類の到達した最上位にある認識方法だと思って来ました。しかし、どうも現実社会はそうなっていない。例えば、哲学の最高峰とも言われたヘーゲルは、「フランス革命によって理想的な国家が誕生する」と考えていたようですが、現実にはそうならなかった。また、その後、マルクス共産主義を唱えましたが、その欠陥も指摘されるようになった。マルクス主義の正しかった点と誤りだった点については、近年、経済学者の松尾匡氏が著書の中で詳細に説明しています。

 

そもそも日本において論理的思考が支配的だった時代というのは、存在しなかったと思われますが、世界的に見た場合、上記のヘーゲルマルクスの敗北が大きかったのではないでしょうか。

 

また、立憲主義や民主主義ということを考えますと、人権という概念に行き着く。更に理由を考えますと、平等という概念に帰着します。人間には何故、人権があるのか。それは、皆、平等だからだ、という訳です。しかし、では何故平等なのかということを考えた場合、人間の反対概念としての神を措定して、「神の下に平等」だということになる。では、キリスト教的な創造主としての神を措定しない場合、何故、人間は平等であるべきなのか、その点を説明できるでしょうか。このようなことを考えますと、“論理的思考”にも限界があるように感じるのです。

 

6.記号分解


これも私の造語ですが、つまるところ、人々はひたすら記号を作り、物事を分解して認識しようとする時代になったということです。

 

かつて、アイヌの人々が営んでいたであろう呪術的仮装舞踊劇。この呪術的な要素は、医学、物理学、化学などに分解されていった。かつてアイヌの人々が着ていた民族衣装には、美しい紋様が描かれていた訳ですが、そのような衣装を着るということは、着ている人がアイヌ民族であるということを意味していた。一方、私がユニクロで買ったシャツには、ストライプの模様があったりする。しかし、このストライプには何の意味もない訳です。現代人が着る衣装には、それを着ている人の性別だとか、お店の店員さんのユニフォームだとか、その程度の意味しかない。アイヌの人々の踊りというのは、それが鶴を意味していたりする訳ですが、現代の踊りにはほとんど意味がない。せいぜいがセックスアピール程度のことだと思います。音楽にしても、アイヌの人々にとってのユーカラは、彼らの認識と直結する意味を持っていた訳ですが、現代の音楽には意味がない。そればかりか、記号によってジャンル分けが進み、結局のところ人々の暮らしから、音楽は遠ざかってしまった。“劇”という要素にはストーリーが含まれますが、これは文学的な意味合いを持っている。しかし、文学の世界もポストモダンなどと言って、結局は空っぽになってしまった。

 

スポーツ大会が花盛りですが、これも記号によってAチームとBチームが戦って、勝敗を決める。それだけのことで、私たちの認識に貢献することなど、何もないのです。そこには、想像力さえ要求されない。

 

オリンピックにおいては、選手が競った結果を金銀銅という記号によって評価する。それだけのことですが、厄介なのは背後に政治と利権が絡むことです。

 

自然科学のみならず、私たちの文化さえもが記号によって分解され、総合的な事柄、本質的な意味が何なのか、誰にも分からなくなってしまった。学者たちは自らの専門分野、これをタコツボと言いますが、そこに潜り込んで外に出てこなくなった。タコツボ学者は、「それは私の専門外だ」と言い、セクシーな環境大臣は福島の汚染水問題を「所管外だ」と述べる。現代人は、認識しようとして記号化を進め、結果として、何も認識できなくなってしまった。

 

この記号分解という世界において要求されるのは、記憶力と人工記号だけだと思います。

 

では、各項目とその構成要素を一覧にしてみます。

 

1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

 

上の一覧をじっと見ておりますと、何か、感じませんか? 私たち現代人が失ったもの、それは想像力と関係性ではないでしょうか。