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文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 11 物語における”別れ”とは何か(その2)

遠野物語」に掲載されている“大津波”では、経験がほぼそのままの形で語られていました。今回は、もう少し物語としての脚色がなされている“鶴の恩返し”を取り上げてみたいと思います。

有名な話ですが、簡単にあら筋を振り返ってみましょう。

ある雪の日、おじいさんが通りかかると一羽のツルが猟師の仕掛けた罠にかかっていました。可哀そうに思ったおじいさんは、このツルを逃がしてやります。その晩、おじいさんの家に、美しい娘がやって来て「道に迷ったので、一晩泊めて欲しい」と言います。なかなか雪は降り止まず、娘は数日、老夫婦の家に滞在します。そして、「あなた方の娘にしてください」と願い出ます。老夫婦は、喜んで承諾します。やがて娘は「布を織りたいが、絶対に中を覗かないで」と言って、美しい反物を織りあげます。おじいさんはこれを町で売り、大金を手にします。そんなことを繰り返すと、徐々に娘は痩せ細り、やつれていきます。ある日、老夫婦は娘が織物をしている部屋を覗いてしまいます。そこに娘の姿はなく、一羽のツルが自らの羽毛を抜いては、それを織り込みながら反物を織っていたのです。既に大半の羽毛が抜かれていています。ツルは、自分は以前助けてもらったツルであることを告白します。そして、正体を見られてしまったからには去らねばならないことを告げ、老夫婦に見送られながら、空へと帰って行きます。

この物語にもいくつかのバージョンがあります。“鶴女房”というタイトルの物語は、上記のシナリオとほとんど同じなのですが、老夫婦の代わりに青年が登場し、娘と結婚します。多分、こちらがオリジナルではないでしょうか。性的な要素を取り除くために、青年を老夫婦に変更し、タイトルも“鶴の恩返し”としたのではないでしょうか。

何とも切ない話ですが、この物語は童話の傑作だと思います。

さて、この物語でもツルとの“別れ”が語られます。私はどうしても、そこに死の匂いをかぎ取ってしまうのです。ツルの羽毛は、ほとんど抜かれていたのです。そんな鳥が、どうして生き続けることができるでしょうか。そして、老夫婦が見守る中、ツルは空へ帰っていく。このシーンは、葬送のイメージと重なってしまいます。“大津波”と同様に、ここにも愛する者の死を乗り越えようとする人々の心の動きが秘められているように思うのです。

“別れ”を題材にした物語をもう一つ見てみましょう。

竹取物語では、更に脚色が進みます。言い換えれば、語り手の想像力が増大し、大仕掛けの舞台装置が用意されます。ラスト・シーンでかぐや姫は、しばしこの世との別れを惜しみますが、天の羽衣を着せられると“もの思い”がなくなり、使者と共に淡々と月の都へと帰っていきます。この“もの思い”とは、感情のことでしょうか。感情を失って、かぐや姫は静かに去っていく。様々な解釈が成り立つのでしょうが、私はこのシーンにもかぐや姫の死の暗示を感じ取ってしまうのです。かぐや姫は死んで、その魂が天に昇る。そうは解釈できないでしょうか。ここにも、死を乗り越えようとする人々の願いがある。

ところで、「遠野物語」には、様々な想像上の生き物が登場します。例えば河童ですが、その由来は間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿である、とする説もあるようです。江戸時代には、間引きは頻繁に行われていたそうで、子供の死体が河原に転がっていたりする。それを見た子供が心配しないように「あれは河童の死骸だよ」と親が言っていた、ということでしょうか。そう言えば、深沢七郎の小説(楢山節考)に姥捨て山の話がありましたね。

同じく「遠野物語」には、“座敷わらし”が登場します。“座敷わらし”が住むと、その家は繁栄すると言われています。さて、この“座敷わらし”の由来についてですが、「人柱として家の土台に男女の子供を埋め、その霊をその家の主(ぬし)にしたこと」であるとする説もあるようです。

上記の説の当否は別として、いずれにせよ、現代に生きる私たちのロマンチシズムなど吹き飛ばすような過酷な現実が、物語の背景にあったのではないかと思うのです。そして、人々は物語を通して、死と向き合っていたのではないでしょうか。

蛇足とはなりますが、“大津波”はアニミズムそのもので、“鶴の恩返し”はある程度抽象化され物語となり、“竹取物語”において、物語が文学に変容したとも言えるように思います。