文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 19 宗教と幻覚

シャーマニズムと宗教は、区別して考えるべきだと思うのです。結論から言えば、シャーマニズム無文字社会にその起源がある。そのため、信仰の対象である霊魂や精霊などを裏付ける厳密な物語は存在しません。

一方、宗教は文字の普及と共に発生したものと思われます。その起源はいつ頃かと言うと、ティグリス・ユーフラテス川下流域に居住していたシュメール人に関する記述が見つかりました。「王や神官などの支配階級が形成され、農民の中から特殊な技能を持つ者もあらわれ、職業も分化されていきます。このような多くの人々を包摂する社会が「都市国家」といわれ、それが紀元前3000年ころたくさん誕生したのです。(中略)文字を作った「神官」たちは、技術だけではなく、「神」も作りました」。(文献1)

従って、宗教の発生は、今から5千年程前、ということになりますね。では、その構成要素について、キリスト教を例に見てみましょう。

キリスト教の場合には、まず、神、宇宙、生命などの仕組みについて、旧約聖書が説明しています。このような物語を一般に“創世神話”と言います。しかし、“神”と言っても、誰も会ったことはない訳で、具体的なイメージが沸きません。そこで、神の言葉を人間に伝える仲介者が必要となります。イエス・キリストがその役割を果たしてきました。そして、イエスの言葉は新約聖書に詳述されています。その中で、人は何をすべきか、何をすべきではないか、という教義が語られます。

どうやらキリスト教では、かなり厳密な体系が出来上がっているようです。そんなキリスト教が頭を悩ませたのは、トランス状態を目指す初期型の祭祀だった。彼らは熱狂の果てに、神々と交信してしまう。これを放置すると、様々な神が新たに誕生してしまう訳です。一神教であるキリスト教としては困る。「初期キリスト教徒の共同体が教会という制度になるにしたがい、あらゆる形態の熱狂が・・・攻撃対象となった。(中略)ほかの体系化された宗教同様、キリスト教も、舞踏、音楽、トランスをどれくらい許すかという戦略を立てなければならなくなった。もし、信者に多くの自由を与えれば、みずから神と交信できると思いこみ、司祭を邪魔者と見なすようになるかもしれない。が、もし教会が舞踏と音楽をまとめて禁じれば、司祭は信者の心を動かすことができず、人々は別の宗教(中略)に移ってしまうかも知れない。」(文献2)

ところで、宗教に苦行はつきものですが、「摂る食事の量を極端に減らしたり、ほとんど眠らないで何日も過ごしたり、飲まず食わずで何日間も山中や砂漠を歩き続けたりする苦痛の体験を通り抜ける」と、脳が自らエンドルフィンというアヘン類似物質を分泌し、悦楽が訪れるというのです。(文献3)インターネットで調べてみますと、このエンドルフィンという物質は、いわゆる“ランナーズ・ハイ”を引き起こし、セックスをした場合にも分泌されるようです。そうしてみると、仏教用語で“法悦”というのがありますが、これもエンドルフィンが分泌される状態のことなのでしょうか。

そう言えば「文献4」に奇妙な挿絵があって「苦行によって幻覚を見ようとする例。北米の先住民マンダン族の儀式で、戦士たちは、みずからの肉体を貫く串につないだ革紐で吊るされてから、気絶するまで回転させられることで、幻覚を見ようとした」との記述があります。

更に、真言宗の教典に「男女の愛欲さえも菩薩の境地だと説く」「理趣経」というのがあるそうですが、これもエンドルフィンの分泌を法悦と勘違いしているのではないかと、疑いたくなってきます。本来の法悦とは、厳しい修行を経た後に宗教上の真実に到達して得られる悦びのことであったはずです。もし、それがエンドルフィンという脳内物質が分泌されて得られる快楽であったとするならば、そもそも、苦行を積んだからと言って、悟りは開けないのではないでしょうか。

(参考文献)
文献1: 2時間でわかるマクニールの「世界史」/関 真興/KADOKAWA/2016
文献2: 宗教を生み出す本能/ジェームス・D・ワトソン/NTT出版/2011
文献3: 芸術人類学/中沢新一みすず書房/2006
文献4: 人類はどこから来て、どこへ行くのか/エドワード・O・ウィルソン/科学同人/2013

(文化の積み木)
言葉 + アニミズム + 物語 + 呪術 + 祭祀 + シャーマニズム + 宗教