文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 22 宗教の定義

誤解を避けるためには、主要な言葉の定義を明確にすることが大切だと言っておきながら、このブログでは未だに“宗教”とは何か、定義を定めていません。怠けていた訳ではありませんが、これがなかなか難しい問題なのです。

例えばリチャード・ドーキンスは、「仏教儒教のような他の宗教についてはいっさい気にしないつもりである。実際には、そうしたものは宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある」と述べています。(文献1)しかし、私にはどうもしっくりこないのです。だって、仏教も宗教だと思いませんか?

そして、シャーマニズムまでは分かってきたので、それとの比較で宗教を定義することが可能ではないかと考えました。すなわち、霊魂と精霊に働きかけるシャーマニズムに対し、宗教は神を信仰の対象とする、と言えないだろうかと思った訳です。しかし、宗教であるはずの仏教は、神を必要としていない。

確かに仏教にも、神の概念はあるようです。帝釈天とか、弁財天など、末尾に「天」のつく神様がいます。しかし、彼らは元来インドの神様であって、日本における仏教にとって、必要不可欠な存在であるとは言えないと思います。また、一部の宗派(密教)では「宇宙の法則そのものを体現した仏」として、“大日如来”という概念を持っています。これは、キリスト教における神の概念に近いような気がします。しかし、日本の仏教界全体として言えば、やはりその信仰の対象はゴータマ・ブッダ(お釈迦様)ではないでしょうか。そもそも、煩悩から脱却して悟りの境地に至ることを目的とする仏教に、神の概念は不要なのだろうと思います。

“神”がいなくても、宗教は成立する。

では、誰を信仰の対象とするのか。人間だ、と思ったのです。キリスト教では、イエス・キリスト仏教ではブッダ、そして神道では天皇陛下ということになります。ただ、人間を信仰の対象とすると言っても、そのための理由が必要です。シャーマンに資格が必要だったのと同じで、信仰の対象となるためには、それなりの理由が必要な訳です。そこで、神という概念を持ってきて、その特定の人間に資格を付与する。例えば、キリストは神の子であると説明されています。普通の人間ではない。だから、キリストを生んだマリアは処女のまま懐胎したことになっているのでしょう。処女のままキリストを懐胎し、その旨を天使が伝えに来る。これは、新約聖書にそう書かれています。では、神道の場合はどうでしょうか。皇室の祖先は、神様だった。これは古事記にそう書かれています。だから、天皇陛下を信仰の対象とする、ということになります。キリストの例と、良く似ていますね。

仏教の場合はと言うと、ブッダを神格化するための神という概念はない訳です。そこで、様々な物語が必要となってきます。例えば、ブッダは生まれた途端に「天上天下唯我独尊」と言ったとか、そういう物語が沢山あるんですね。

最近、聖徳太子に関する記載が、教科書から消えるというニュースがありました。その理由は、聖徳太子という人物は実在したけれども、どこからどこまでが彼の実績なのか、判然としない、ということのようです。聖徳太子というスーパースターを作り出すために、後世の人たちが、なんでもかんでも彼の実績にしてしまった。また、聖徳太子は同時に十人の話を聞くことができたという逸話もありますね。キリストやブッダに関しても、同じことが言えるのだろうと思います。彼らが死んで、相当の期間が経過した後、後世の人たちが物語を作って彼らを神格化したであろうことは、否めません。

では、宗教の定義についてですが、まず、イギリス人の作った定義を紹介致しましょう。

「宗教とは、感情に働きかけ、人々を結束させる信念と実践のシステムである。そのなかで、社会は祈りと供犠によって超自然的存在と暗黙の交渉をし、指示を受ける。神の懲罰を怖れる人々はその指示にしたがい、自己の利益より全体の利益を重んじる。」(文献2)

次に、私の案を以下に記します。

「宗教とは、象徴的な人物を信仰の対象とし、祭祀を司り、信者に結束を促す社会的なシステムである。」

(参考文献)
文献1: 神は妄想である(宗教との決別)/リチャード・ドーキンス早川書房/2007
文献2: 宗教を生み出す本能/ジェームス・D・ワトソン/NTT出版/2011