文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 26 ジョン・レノンが見た夢(その1)

このブログのNo. 24で少し触れたこともあり、どうもジョン・レノンのことが気になって仕方がありません。しかし、なかなかその実像が見えにくい。皮肉好きな不良少年だった彼が、やがてイマジンを歌うまでになる。そこに、どんな物語があったのか、少し彼の足跡を追ってみたいと思うのです。

最初にジョンに関する私の印象を少し、述べさせていただきます。

まず、ジョンには、前衛芸術家としての素質があった。これは、彼がヨーコと出会う前からのことです。例えば、アルバム“リボルバー”に収められている“トゥモロー・ネバー・ノウズ”という曲では、家庭用のテープレコーダーを使ってジョンの声は歪められているし、歌詞には抽象的なものが多い。

一方、ジョンには幼児性がある。子供がそのまま大人になってしまったような所がある訳です。例えば、アルバム“ジョンの魂”(原題:Plastic Ono Band)の最後では“My mummy is dead. So much pain”と歌っています。大体、普通の人であれば、それなりの年になれば、親離れをする訳です。しかしジョンは、いくつになっても母親から独立できなかった。ヨーコは、ジョンの母親代わりだったようにも思えます。

では、ジョンの足跡を追ってみましょう。

1940年10月9日、ジョンはイングランド北西部に位置するリバプールという港町で生まれました。ジョンが幼い頃、両親は別居し、ジョンはミミ叔母さんの元で育てられます。ジョンの母親はジュリアという名前で、ジョンは同名の歌をホワイト・アルバムに録音しています。ジュリアは、ジョンが17歳の時に交通事故で亡くなったそうです。ここら辺の経緯が、ジョンの幼児性の原因になっているのかも知れません。

1957年、17歳のジョンは、初めてバンドを組みます。バンドはメンバーチェンジを繰り返し、ビートルズと名乗り始めたのが1960年なので、ジョンが二十歳の時だったことになります。ビートルズは、同年から翌1961年にかけて、ドイツのハンブルグへ遠征し、ライブ活動に明け暮れたようです。この時の経験が、色々な意味で、ビートルズのメンバーを鍛えたと言われています。

1957年の後半から1958年にかけて、ジョンは美術学校に通っていました。後年、ジョンは素朴な絵を描いていますが、原点はこの美術学校にあったのかも知れません。バンド活動に明け暮れていたジョンが、真面目に美術学校へ通っていたとは思えませんが、ジョンはこの時の同級生であるシンシアと、1962年8月23日に結婚しています。

1962年10月5日、ビートルズは“ラヴ・ミー・ドゥ”で、シングル・レコードのデビューを果たします。従って、ジョンの下積み生活は、ほぼ5年だったことが分かります。

ビートルズは、アイドルグループとしてデビューした訳で、当時、ジョンが結婚していることはオフレコにされたそうです。しかし、デビューの直前に結婚するとは、なんともジョンらしいエピソードですね。

1963年1月11日、ビートルズはセカンド・シングル“プリーズ、プリーズ・ミー”を発売します。イギリスでは、このシングルでビートルズ人気に火がつきます。ビートルズは、その1か月後の1963年2月11日、約10時間で同名のアルバム“プリーズ、プリーズ・ミー”を録音したそうです。このアルバムなどを聞くと、ビートルズの音楽的なルーツがどこにあったのか分かります。あのビートルズでさえ、最初からオリジナリティーがあった訳ではないのです。彼らの音楽は、アメリカの黒人音楽をベースにしていた。一つには、チャック・ベリーのロックンロール。もう一つが、“モータウン・サウンド”と呼ばれるもので、簡単に言えば、メロディーが綺麗な黒人のポップスなのです。スモーキー・ロビンソンなどが有名ですね。“モータウン・サウンド”は、You Tubeで聞くことができます。

ただ、アメリカの黒人音楽と言っても、それはあくまでもロックンロールとポップスな訳で、ブルースは含まれていません。この点が、ブルースに傾倒したローリング・ストーンズエリック・クラプトンとの違いだと思います。

ところで、アルバム“プリーズ、プリーズ・ミー”で特筆すべきは、最後に収められている“ツイスト・アンド・シャウト”なんです。これはビートルズのオリジナルではありませんが、兎に角、ジョンのボーカルが凄い! 次第にジョンの声が掠れていく。圧巻としか言いようがありません。ジョンのシャウト唱法は、デビューの時点で、既に完成されていたんですね。