文化認識論

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No. 28 ジョン・レノンが見た夢(その3)

1964年2月7日、ビートルズは初のアメリカ・ツアーに出発します。アメリカでも既にレコードがヒットしており、ツアーは大成功を収めます。同年4月には、ビルボードアメリカの音楽業界誌)のヒットチャートで、1位から5位までをビートルズの曲が独占したというのですから、もうこの時点で、ビートルズの一人勝ちとなった訳です。デビューしてから1年半、ジョンはまだ24歳だったんですね。

その後のビートルズのアルバムを発売ベースで振り返ってみます。

1964年7月10日 “ハード・デイズ・ナイト” (3枚目)
1964年12月4日 “ビートルズ・フォー・セール” (4枚目)
1965年8月6日  “ヘルプ!” (5枚目)
1965年12月3日 “ラバー・ソウル” (6枚目)

どれも素晴らしいアルバムです。

異論もあるでしょうけれども、私としては、デビューから“ラバー・ソウル”までをビートルズの一つの時代として考えることができると思います。言わば、ビートルズの“アイドル時代”とでも言いましょうか。曲はポピュラーで、歌詞はラヴ・ソング主体。ファンも若い女性が大半だった。彼らは猛烈に働いた。曲を作り、レコーディングに明け暮れ、ライヴもこなした。映画まで作っている。彼らは有名になり、金を稼いだ。音楽的なことを言えば、この時期のリーダーは明らかにジョンだった。だから、彼が疲れたとしても不思議はありません。後年ジョンは、「僕はみんなが遊んでいる時、ビートルズで24時間働いていたんだ」と発言していますが、まったくその通りですね。

作詞作曲まで自らこなし、コーラスが綺麗なアイドル・グループ。まあ、それだけでも大変なことではありますが、ビートルズの真骨頂は、そこからステージを上げた所にあるのではないでしょうか。

変化の兆しは、既に“ラバー・ソウル”に見られます。例えば、ジョンが歌う“ノルウェイの森”の歌詞には、ドラッグの影響が感じられます。「彼女は僕にどこかに座るように言った。僕は辺りを見回したが、どこにも椅子はなかった」。何とも不思議な歌詞です。また、この曲でジョージはインド楽器のシタールを弾いています。それだけで十分新しい試みではありますが、私には、ギターのパートをシタールで弾いただけのように聞こえます。

更に大きな変化は、次作の“リボルバー”に現れます。

1966年8月5日 “リボルバー” (7枚目)

このアルバムは、ジョージの歌う“タックスマン”(税務署の職員)から始まります。何にでも税金を掛けようとする彼らを皮肉る内容で、ラヴ・ソングとは無縁です。4曲目にもジョージの“ラヴ・ユー・トゥ”という曲が入っていますが、この曲の録音にはビートルズの他のメンバーは参加していないようです。ジョージはシタールを、タブラはインド人が演奏しているようです。これは、完全にインド音楽のように聞こえます。ただ、それをそれなりにビートルズのナンバーとしてやり切ってしまうところが、ジョージの凄いところですね。7曲目にはジョンの“シー・セッド・シー・セッド”という曲がありますが、これはジョンがLSDでラリッている時に作ったものだと言われています。当時、ジョンはLSDを食べるように服用していたそうで、一緒にトリップしていた俳優のピーター・フォンダがジョンの耳元で「死が何か知っている」と囁き続けたそうです。その時のことがこの曲の歌詞の元になっている。しかし、嫌な話ですね。想像すると、ぞっとします。

リボルバー”を締め括るのもジョンの歌です。“トゥモロー・ネバー・ノウズ”という曲で、ジョンのボーカルは意図的に歪めて録音されています。私はこの曲を“ジョンの前衛芸術宣言”だと解釈しています。

やはり、アルバム“ラバー・ソウル”と“リボルバー”の間には、大変な違いがある。では、何が彼らを変えたのでしょうか。ジョージを変えたのは、インド音楽だったのでしょう。しかし、4人全員に影響を及ぼしたのはドラッグだった。これはたまたまビートルズがそうだったということではなく、何千年、もしくは1万年以上も続く人類とドラッグの関係がここに顕在化したということだと思うのです。

トランスを求めて踊り続けた初期型の祭祀。これに伴い開花した音楽。既にその時代から存在していた人類とドラッグの関係は、そう簡単には切れないのかも知れません。