文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 33 ジョン・レノンが見た夢(その8)

ジョンとヨーコが行なった“ベッド・イン”には、何とも言えない違和感があります。その理由には、“2項対立”があるように思うのです。まず、彼らは“ベッド・イン”という極めて私的な行為をメディアに公開した。ここに最初の違和感があります。言わばプライバシーと公共性と言いましょうか、その対立がある。次に、彼らの行動はアートとしてのパフォーマンスであったのか、若しくは政治活動だったのかという問題もあります。ヨーコの前衛芸術に関する経歴からすれば、「これはアートだった」と言うのが自然のような気もしますが、反面、彼らは明確にベトナム戦争に反対する意志を示しています。すなわち、個人的なアートと政治という極めて社会的な事項が対立しているのです。更に付け加えるのであれば、彼らが結婚直後であるという現実と、“ベッド・イン”という意図的に作り出された虚構との対立もある。このようにどこまで行っても2つの事項が対立しているから、なかなかその意味が分かりづらいのではないでしょうか。

しかし、この“ベッド・イン”を読み解く方法として、私は、文化人類学が参考になると思うのです。結論から言えば、ジョンとヨーコは、自らの精神を様々な社会的制約から解放していった帰結として、“未開人の心”を獲得するに至った。そして「表面的には違っているもののあいだに共通性や同質性を見出すような思考方法」(文献1)である”未開人の心”が、“ベッド・イン”を一つの祭祀として敢行させたのだと思います。

まず、「融即律」という概念があります。「融即とは、原初の人間がもっていた心性のことである。(中略)その心性にとって、一と多、同と異などの対立は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない」とされています。

次に、民俗学者である折口信夫は、人間には類似点を直観するような「類化性能」と、咄嗟に差異点を感ずるような「別化性能」があると述べています。また折口は、「別化性能」に基づいて世界を分類整序する現代人には、もはや「類化性能」によって組み立てられた世界は理解できなくなってしまっている、とも述べています。

すなわち、ジョンとヨーコは「類化性能」によって直観された事項を社会的な秩序とは無関係にホテルの一室に放り込んで“ベッド・イン”を敢行したのだと思うのです。そして、様々な要素を調和させるために、“ベッド・イン”はあたかも太古の祭祀に通じるような色彩を帯びたのだと思います。彼らが希求していた、ベッドに象徴される愛と性、アートと世界平和などの要素を統合し、彼らを含めた人類の救済を目的として、“ベッド・イン”が行われたのだと思うのです。従って、“ベッド・イン”は世界平和、すなわち人類の救済を目的とすると同時に、ジョンとヨーコの個人的な救済をも目的としていた。これは彼らにとって、矛盾することではなかった。もし、ジョンとヨーコに「世界に平和が訪れなければ、あなた自身も幸せになれないとお考えですか?」と尋ねることができたとすれば、その答えは「イエス」だろうと思います。彼らの心の中で、人類の幸福と、個人の幸福とに区別はない。

“未開人の心”などと言うと、あたかも私がジョンとヨーコを馬鹿にしているような印象があるかも知れませんが、決してそんなことはありません。彼らの勇気と行動力には敬服しています。また、現代人である彼らが何故“未開人の心”を獲得できたのか、という問題もあります。ドラッグの影響があったかも知れません。当時の時代背景も影響していたでしょう。しかし、最も大きな要素としては、彼らが天才だった、彼らが本物のアーティストだったということではないでしょうか。

(参考文献)
文献1: 文化人類学放送大学/内堀基光・奥野克己 編/2014