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文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 37 ジョン・レノンが見た夢(その12)

ラヴ&ピースのムーブメントは、ベトナム戦争に反対することを目的としていました。そして、1973年、ニクソン大統領がベトナム戦争の終結を宣言すると、目的を失ったラヴ&ピースも急速に衰退していったんですね。そしてメディアはジョンをラヴ&ピースのドン・キホーテなどと言って、揶揄し始めたようです。一方、当時のロック・シーンに目を向けますと、レッド・ツェッペリンが全盛期を迎えています。つまり、ビートルズもジョンも、急速に過去のものとなりつつあった。そんな中で、ヨーコから家を追い出されたジョンにできることと言えば、自分の原点であるロックンロールに帰る以外になかった。この頃のジョンは、本当に良く頑張ったと思います。アルバム“ロックンロール”には、だから孤高の輝きがあると思います。そんなことを考えながら、アルバム最後の曲“ジャスト・ビコーズ”を聞くと泣けてきます。しかし、この頃のジョンに唯一の救いがあったとすれば、それは彼を支えた22~23歳のメイ・パンだったのではないでしょうか。アルバム“ロックンロール”のジャケットにも、彼女の名前が記されています。役割としては、Production Coordinator and Mother Superiorと記されています。多分、ジョンとスタジオ・ミュージシャンたちの食事の世話などをしていたのではないでしょうか。

さて、話を元に戻しましょう。エルトン・ジョンの協力を得て録音した“真夜中を突っ走れ”という曲は、ジョンの予想に反して、ヒットチャートの1位を獲得します。喜んだエルトンは、早速、彼のコンサートにジョンを出演させる準備に着手します。エルトンはジョンに“イマジン”を歌って欲しかったそうですが、ジョンは断ります。エルトンのコンサートで自分が目立ち過ぎるのは良くない、と思ったそうです。

1974年11月28日にニューヨークのマジソン・スクエアー・ガーデンで開催されたエルトンのコンサートで、ジョンは“真夜中を突っ走れ”他2曲に参加しています。そして、観客席にはヨーコがいた。エルトンはジョンには内緒で、ヨーコを招待していたのです。

ヨーコはステージで歌うジョンを見て、何故か、可哀想だと思ったそうです。そして、コンサート終了後、楽屋にジョンを尋ねる。こうして、二人は1年1か月ぶりの再会を果たし、ヨーコはジョンの帰宅を許したのです。ちなみに、ジョンがヨーコから離れて暮らしていたこの期間は、“失われた週末”(Lost Weekend)と呼ばれています。

ある日ジョンは、メイに「家に帰れることになった」とだけ、告げたそうです。残酷な話ですね。後年メイは、「ジョンは私のことを本当に愛していると言っていたわ」と述べています。彼女の言葉に、嘘はないと思います。他に頼る人もいない時期だったし、ジョンのことだから、きっとそう言っていたのでしょう。しかし、当時のジョンを知るある人は、メイとのことは「便宜上の関係」でしかなく、ジョンが本当に愛していたのはヨーコだった、と述べています。

メイの気持ちを考えると、やり切れません。しかし、誰でも人生には色んなことがある。そして、一時期、普通の人では決して経験することのできない濃密な時間を過ごすことは、決して悪いことではない。まして、彼女はその時間をジョン・レノンと共に過ごしたのですから。

さて、1975年1月、ジョンはヨーコの住むニューヨークのダコタ・ハウスに戻ります。間もなくヨーコは妊娠し、同年10月9日、ショーン・レノンが生まれます。そして話し合いの結果、ヨーコが仕事をこなし、ジョンが子供の面倒をみることになります。1976年4月、ジョンは旧友リンゴ・スターのレコーディングでピアノを弾いたのを最後に、以後4年間音楽活動から離れます。

1980年8月4日、ジョンとヨーコはスタジオに入ります。同年11月17日に二人のアルバム“ダブル・ファンタジー”が発売されます。そして、同年12月8日、ダコタ・ハウスの前で、ジョンは凶弾に倒れ死亡します。享年40歳。