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文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 39 ノーベル文学賞、ボブ・ディランの受賞について思う

ボブ・ディランの受賞が決まりましたが、私としては、ちょっと残念な気がしています。特段、ディランに恨みがある訳ではありませんし、村上春樹の熱烈なファンという訳でもありませんが・・・。

従来の小説というのは、個人の主体性を前提として、個人と他者、社会や自然との関わり方などを描いてきたように思います。そして、そのテーマは戦争、犯罪、核などに及んで来ました。言ってみれば、小説が人間について考える手段として機能し、そこにはメッセージがあったと思うのです。定義が曖昧なので、あまり好きな言葉ではないのですが、便宜上、この時代の小説を“モダン”と呼びましょう。

しかし、昨今では医学や人類学が人間とは何か、その謎に迫り始めた訳です。遺伝子の影響なども解明されてきて、人間の主体性自体が揺らぎ始めてしまった。例えば、人間の体というのは遺伝子を運ぶための運搬具に過ぎない、などという見解まであります。(リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子)すなわち、文学以外の分野で、人間の解体が始まった。そうなってくると“モダン”の小説というものは、成立しにくくなります。そこで“モダン”に対するアンチテーゼとしての“ポスト・モダン”の小説が登場します。私は、村上春樹の最近の作品は読んでいないのですが、同氏の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」などは、“ポスト・モダン”だと思いますね。

しかし、それでは“ポスト・モダン”がバラ色かと言えば、事はそう単純でもない。“ポスト・モダン”の小説には、メッセージがない。社会との関わりがない。結局、それって何なの? ・・・となってしまう。

そんな風に思っていたので、今回のノーベル賞受賞作は“モダン”なのか“ポスト・モダン”なのか、興味があったのですが、結果はディランだった。このことは、現代における小説という表現方法の困難性を示す、一つの出来事ではないかと思うのです。