文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 41 恐るべき感覚の世界

少し前の記事でボブ・ディランノーベル賞受賞について述べましたが、どうやらディラン本人は未だ沈黙しているようですね。これに対し、ノーベル賞選考委員会のメンバーが「ディランは傲慢だ」と言ったそうですが、やはり、今回の授賞には無理があったように思います。そんなことをする位なら、ジョン・レノンノーベル平和賞を授与すべきではないでしょうか。死んだ人にはあげられない、ということかも知れませんけれども・・・。まあそれは別として、気になったのは、ディランのことを「ロック界のレジェンド」みたいな言い方で称賛しているメディアの動向です。ディランって、ロックだったんですか? フォークソングですよね、彼は。エレキギターを持って歌えば、何でもロックになるかと言えば、そんなことはない。ロックミュージックの本質は、ドラムとベースが叩き出すビート、ギターのリフ、そしてシャウトする唱法にあるというのが私の持論で、私はディランの音楽にそれらを感じたことはありません。

ところで、皆様は、ピコ太郎のPPAPはご存知でしょうか。You Tubeで大ヒットしているあれのことです。こういうのを見ると、私などは「恐ろしいな」と感じてしまいます。そこに感情はない。ロジックもない。メッセージもない。意味すらないのです。あるのはただ、感覚だけです。こういうのが流行し続けると、確実に失われていくものがある。かつて、リオタールという人が「ポストモダンとは大きな物語の終焉」であると述べたそうですが、最早、大衆文化もポストモダンの時代になったのだなあと思います。“大きな物語”という言葉の厳密な意味は知りませんが、例えば、ドストエフスキーの長編小説には、それがあった。かつてのロックミュージックにもそれがあった。ちょっと前の流行歌でさえ、3分位の長さはあった。しかしPPAPは、1分で完結する。今の時代、3分でも長過ぎるのでしょうか。そう言えば、コンピュータ・ゲームもテンポが早いですよね。世の中、そういう傾向がどんどん強くなって行くと、一体、どうなってしまうのでしょうか。そう思うと、「恐い」と思ってしまうのです。

ただ、そういう傾向は、昔からありました。“感覚だけ”という意味では、昔、ドイツにクラフトワークというバンドがあって、「我々はロボットである」と歌いながら、パフォーマンスを繰り広げる。もちろん、何の意味もありません。そんなことを思い出しながら、ふと、「ユングの性格分析」(文献1)を手に取ってみると、面白いことが書いてありました。ちょっと、引用してみます。

「現代は固苦しい思考や、誠実な感情などははやらない。そんなものは古めかしい社会秩序やおセンチな感傷の世界であって、もっとドライで、瞬間的な心の機能がもてはやされる」。

「世の中は、もっと刹那的で、感覚に直結する快楽的な生き方や、その場の直観だけで勝負するひらめき型の時代である」。

「感覚と直観には、男女の差が特に見られない。そこで現代は、別に男女平等を叫ばなくても、若い人たちは少なくとも心理的な面では、男女の差などほとんど感じていないであろう。(中略)モノセックスの時代と言えよう」。

これって、ちょっと凄くないですか。何が凄いと言って、この本、28年前に出版されているんです。でも、2016年の今読んでも、私などは感心してしまいます。なるほど、その通りだなあ、と。多分、これは30年後に誰か大人が読んだら、やっぱり感心するのではないかと思いますね。そうしてみると、一つの仮説に行き当たります。すなわち、人間というのは、若いうちは感覚、直観に優れている。しかし、それだけでは生きていけない。そのため、人間の心は人生経験を積むことによって、感情、思考という機能を獲得していくのではないか、ということです。

(参考文献)
文献1: ユングの性格分析/秋山さと子講談社現代新書/1988