文化認識論

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No. 53 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その2)

ジャクソンは1912年1月28日、5人兄弟の末っ子として生まれました。一家は当時、ワイオミング州に暮らしていましたが、同年11月、カリフォルニア州のサンディエゴへ移住します。

ジャクソンの父は、野菜農園を営んでいましたが、ことごとく失敗したそうです。一方母親は、美術に強い情熱を持っていたそうで、やがてジャクソンの兄たちも美術に惹かれていきます。

1927年、ジャクソンはサンディエゴのリバーサイド高校に入学しますが、翌年3月、士官との口論が原因で、退校処分を受けてしまいます。1928年の夏、ポロック家はサンディエゴから、ロサンゼルスへ移住します。ジャクソンはここで手工芸高等学校に入学しますが、後に体育教育に反発し、停学処分を受けてしまいます。隊列を組んで行進する時間があったら、もっと有益な教育をしろというのがジャクソンの主張だったようです。どうやら、反抗精神が旺盛な少年だったようです。

1929年と言うと、ジャクソンが17歳頃のことですが、世界恐慌が勃発します。大変な時代を生きていたのが分かります。

1930年の秋、ジャクソンは、既にニューヨークに居を構えていた二人の兄を頼って、移住します。そして、美術学校に入学します。当時のジャクソンは、他の青年同様、芸術を目指したいという野心を持ちながら、他方では自分にそんな才能があるのか、確信を持てずに悩んでいたようです。

1933年、経済不況の影響もあってか、ジャクソンは美術学校を退学します。そして、極貧生活が始まります。週給10ドルで学校の管理人を務めたり、時給1ドル75セントで石切り工の職についたりしたそうです。いつも腹を空かせ、十分な暖房費も払えず、ニューヨークの寒い冬に耐えていたことでしょう。これは私の想像ですが、寒さに耐えるため、安くてアルコール度数の高いテキーラのような酒を飲んでいたのではないでしょうか。

1935年、恐慌の吹き荒れる中、政府が雇用対策として始めた壁画事業によって、ジャクソンは幸運にも職を得ることができます。決められた期間内に、壁画を作成して提出するという仕事だったそうです。

ついにジャクソンは、強度のアルコール中毒になってしまいます。1937年には、治療のため数か月間に渡り精神科に通院します。但し、この時の医師は、ユング派ではありません。翌1938年には、アルコール中毒を治療するため、1か月程、入院したそうです。この時の医師も、ユング派ではなかったそうです。そして、第二次世界大戦が始まった1939年、ジャクソンはユング派の医師を訪ね、精神分析による治療を受け始めます。この治療は、翌1940年の夏まで続けられたそうです。それでも治らず、1941年の春から1943年まで、今度は別のユング派の医師の下で、治療を続けます。その際、ジャクソンは“精神分析用デッサン”を描いては、分析医に提出していたと言われています。

そんな経緯もあって、ジャクソン自身も神話とかユングの心理学を勉強していたようです。後年ジャクソンは「長い間、私はユンギアン(ユング派)であった」と告白しています。

1942年、30歳の時ですが、ジャクソンはピカソの影響を感じさせる大作を作成しています。ちなみに、1944年のインタビューに答え、ジャクソンは「尊敬しているのはピカソとミロである」と述べています。

1943年、ジャクソンの貧困生活は、まだ続いています。彼は創作の傍ら、ネクタイの図案画作成、美術館の守衛などの仕事に就いています。同年、ジャクソンは個展を開き、初めてポアリングという手法を取り入れた絵画を発表しました。

ポアリングというのは、“撒き注ぐ”という意味です。キャンバスを床に置き、上から絵の具を滴らせるようにして描く手法を意味しています。ジャクソンは、この手法をナバホ・インディアンの砂絵から着想したようです。砂絵は、以前このブログ(No. 15)でも紹介しましたが、病気の治療を目的とした呪術で、様々な色の砂を上から地面に落として描く絵画のことです。夜が明ける前にはかき消してしまうのが、インディアンの風習です。インディアンは色の着いた砂を上から落とした。ジャクソンは砂の代わりに絵の具や塗料をキャンバスの上に滴らせた訳です。ジャクソンがこの手法を用いたことによって、砂絵が有名になったのだろうと思います。