文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 70 小川国夫/葦の言葉(その4)

私の所属していた文芸サークルが主催した小川氏の講演の原題は、「物の威力」というものでしたが、「永遠の生命」と改題され、講演集「葦の言葉」の巻頭に掲載されました。当然、当時も読みましたが、正直に言いますと、良く分からなかった。それが、今回、読み返してみると、良く分かるんです。

これから、小川氏の講演内容とそれに対する私の解釈を記してみますが、そのためには“集合的無意識”とか“直観”という言葉を用いることになります。これらの言葉の意味につきましては、主としてこのブログのNo. 57 ~ No. 61に掲載致しました“心のメカニズム”というシリーズに記載しております。まだお読みでない方は、ご参照いただけますと幸いです。

なお、小川氏の講演録には、パラグラフ毎に“小見出し”が付されています。まず、講演要旨と“小見出し”を記載し、続いて私のコメントを記すことに致します。

〇 講演要旨/食物と言葉、物質と霊
戦争の原因には、食物を生み出す源泉である土地の問題が絡んでいる。しかし、キリストは物の所有を否定する考え方を説いた。この教えは実現不可能であって、不条理だけれども、人間にとって必要なものである。つまり、物がそれだけ強い力をもって人間をしばっているということ。

日本の歴史に徴してみると、お百姓の水争いというものがある。渇水の時、人は地霊を発明し、神に頼む。宗教の源には、そういうことがある。その根っこには生産形態が関わっている。そこには心と物の関わり方がある。そういう地霊とか呪術への執着は、容易なことでは否定できない。

コメント: 原題の“物の威力”というのは、上記の通り、土地や水などの“モノ”について、その重要性を説こうとしたものと思われます。呪術については、このブログでも検討済みですが、小川氏の言う通り、私もこれを否定することはできないと思います。

〇 講演要旨/桜と早乙女、蝉丸の歌
ある民俗学者によれば、桜の“サ”はコメを意味する。そして、“クラ”というのは置き場所を意味する。よって、サクラとは、コメの置き場所という意味である。実証することは困難だが、かつて、米倉の傍らに桜の木を植える習慣があった。そして、桜の咲き具合によって、秋の収穫量を占っていた。桜という花を日本人ほど美しい花だとして慕う民族はない。「私どもが一つのものを美しいか、醜いかということを決める、ごく自然と思われる感情が湧いてくるのさえも、私ども個人的な判断ではない、先祖から一つの感情の流れといいますか、そういうものを受け継いでいるんで、それをほとんど本能的な、私どもの美に対する反応であるというふうに受け取っているんじゃないか、そういう問題を感じます」。

早乙女という苗字の<早>は、米を意味している。そして、乙女というのは娘のことで、早乙女というのは、飢餓への恐れがつのった時の、地霊に捧げた娘さんだったこともあるのではないか。この種のことは、世界共通であって、私どもの文学に強い力を及ぼしているに違いないと、最近感じる。

「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関」という蝉丸の歌がある。この「これやこの」という言葉の意味については、地霊や呪術と同じように言霊を信じていた時代に、言葉を発するはじめに、祈りとしての、あるいはお祓いとしての言葉を使っていたのではないか。その痕跡が、「これやこの」ではないか。このように、一語の起源をたずねてゆけば、そこには、優に一つの歴史がある。あるいは、いくつもの物語が含まれている。

コメント: 日本人が何故、かくも桜を愛しているのか、興味深い説明がなされています。しかし、これは“集合的無意識”そのもののことではないでしょうか。日本人に固有の集合的無意識があって、それが私たちに桜を愛させている。そうだとすれば、集合的無意識というものは、相当強い力を持っていることになります。なお、春の桜の咲き具合と、秋の収穫量を関連づけて考えるというのは、文化人類学が説明しているところの“類化性能”と呼ばれる未開人の心の働き(No. 33)だと思います。こういうことが、今回は、面白いように良く理解できました。

〇 講演要旨/ボードレールの言葉、永遠の生命
「想像力とは、哲学的方法の外にあって、事物の奥底の秘密な関係、対応、類似を認識する、神聖ともいうべき能力である」とボードレールは述べている。想像力は、決して論理では分からないものを突きとめる。そのことを「哲学的方法の外にある」と言っている。桜と豊作を結びつける感情は、私どもの民族感情をさかのぼっていけば、いわれがあったと想像できるし、そういうことが、桜に限らず沢山ある。私どもは、想像力を簡単に直感というふうに呼んでいる。

ドストエフスキーの小説「悪霊」において、スタブローギン(主人公)がキリーロフに「永遠の生命を信じるか」と尋ねる。これは、キリスト教の洗礼を受けるときに牧師に尋ねられる言葉でもある。無神論者となったキリーロフは、現世の永遠の生命を信じる、と答える。埴谷雄高の言葉を借りれば、「意識の総転覆」というものが、文学者の内面にはある。

コメント: これは正に、文学の世界から見た“直観”に他ならないと思います。まさか、あの時の講演で、小川氏は“集合的無意識”と“直観”について述べていたのです。このブログでも、この問題を縷々検討した来た訳ですが、なんという符号でしょうか。ユングならずとも、シンクロニシティではないかと疑いたくなってしまいます。