文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 75 雑感とブログタイトル変更のお知らせ

武田泰淳の「ひかりごけ」には、人肉喰い(カニバリズム)に対する強烈な嫌悪感という集団の無意識を背景として、全人格が否定される個人(船長)が描かれていました。今どきそんなことはない、と思われる方もおられるでしょうか。確かに、最近はカニバリズムについての話は聞かなくなりました。しかし、出来事の本質は、今でも変わらないと思うのです。例えば、最近こんな話がありました。福島から避難してきた子供が、避難先の学校でイジメを受けているというのです。放射能に対する恐怖感という集団の無意識があって、想像力の不足した人たちが、特定の個人を攻撃する。性的なマイノリティーの人たちを最近ではLGBTと言うようですが、これらの人たちも差別を受けている。アイヌ民族の人々も、未だに差別を受けていると感じています。本質的には、皆、同じメカニズムが働いていると思うのです。

ひかりごけ」という作品は、武田泰淳という作家の直観が、集団の無意識を真っ向から否定した作品であると言えます。

少し戻って、小川国夫の「葦の言葉」では、ドストエフスキーの小説、「悪霊」に登場するキリーロフという人物が、ロシア人にとっては肉体化している観念である聖人譚に従って自殺する、ということが述べられていました。ここでは、集団の無意識がキリーロフの直観を支配していた。

このように、人間の直観と集団の無意識の間に存在する緊張関係というものが、浮かび上がってきたように思います。

こうしてみますと、このブログで扱ってきた私の文化論、芸術論は、No. 57に掲載致しました“芸術を生み出す心のメカニズム Version 3”というチャート図に集約されますが、一応、完成したように思います。

多少の充実感と共に、何だ、そういうことだったのか、という虚脱感もあります。文化とか芸術と言っても、それで天国へ行けたり、人間の存在理由が分かったりすることはありません。そして、このブログをどうするかということを思案した訳です。まとめの記事を書いて、終わりにするという選択肢もあります。しかし、それでは7か月も掛けてこのブログを書き、ニヒリズムに到達して終わることになってしまいます。(ニヒリズムは、到達点ではなく、出発点であるべきだ、というのが私の持論でした。)

そこで、ブログタイトルを変更して、もう少し続けてみることにしました。新たなブログタイトルは、「文化で遊ぶ」というものを予定しています。

「遊ぶ」という言葉は、少し不謹慎に聞こえるかも知れません。しかし、いい加減に遊ぶという意味ではありません。文化によって人間の存在理由が分かったりするようなことはないけれども、それでも人間には文化が必要なんだ、それで遊ぶのが人間なんだ、という気持ちを込めて、このタイトルにしたいと思うのです。

今後の記事の掲載予定ですが、当面、文学のフィールドで記事を掲載していきたいと思っています。但し、今後はもう少し肩の力を抜いて、やっていこうかなとも思っています。