文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 76 村上春樹の「少し前の作品」を読む(その1)

インターネットのニュースを見ていたら、気になる記事が2つありました。1つは、村上春樹の新作「騎士団長殺し」が本日発売されたとのこと。たまたま、このブログで村上春樹の作品を取り上げようと思っていた矢先に、新作が発表された訳です。ここでこれから取り上げようとしている作品は、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」なので、「なんだ、最新作ではないのか」とがっかりされる方がおられるかも知れません。但し、私としては、少しラッキーだった側面もあります。作品を批評するには、作品の中味に触れない訳にいきません。最新作だと、そのネタバラシのようなことになってしまうのが、気になるところです。しかし、前作になったということで、遠慮なく論評させていただくつもりです。気になったもう一つの記事は、1歳4か月の女児が、悪霊払いとも言われていますが、実質的には虐待によって、死亡したという記事です。21世紀の日本でも、実は、そういうことが起こるんですね。

さて、このブログでは既に横光利一武田泰淳の小説を取り上げていますが、どちらも結構昔の人なんですね。ここらで、現代の小説についてもやってみたいという気持ちから、今回は、村上春樹の作品を解体、いや読解してみようと思った訳です。但し、これがなかなか手強い。村上作品というのは、結構、スラスラ読める。難しい漢字もあまり出て来ない。しかし、読み終わった後で、「これって、一体何?」という違和感と言うか、虚しさのようなものを感じる。ハルキストと呼ばれる熱烈なファンが多いのは事実ですが、一方、アンチ村上春樹という人も少なからずいるようです。このような現象の理由も、少し考えてみたいと思っています。

もう一つ。現在の日本では、「作家論」が中心であって、「作品論」は少ないように感じています。作家論とは、作品のみならず、その作者の私生活などを含めて、研究の対象とするものです。現代文学理論という本(文献1)には、このような記載があります。

「文学研究の主流は、『実証主義的文学研究』といわれるものであった。研究の中心は、何よりも作者の伝記的事実に関心を集め、実生活の細部を探り出すことであった。伝記的情報を蓄積すれば作家の本質をつかむことができると考え、作品の意味は、作家の伝記的事実の中で解き明かされたのである」。

私は、上記のような考え方には、賛成しかねるんです。例えば、人種差別が行われていた時代のアメリカでは、優れた芸術作品があっても、その作者が黒人だった場合、その作品は黙殺されたのではないでしょうか。私は、黒人のミュージシャン、マイルス・デイビスを尊敬していることもあって、つい、そのようなことを考えてしまうのです。また、仮に取るに足らないような、平凡で、つまらない人生を送っている人がいたとして、しかし、その人が芸術的に優れた作品を作ったとします。その作品は、正当に評価されるべきではないでしょうか。折り合いのつかない現実、実生活というものがあって、自由を体現できるのは、作品の中だけだ、という人も少なくない。このような場合を念頭に置くと、私としては、作者と作品というのは、基本的には、分けて考えるべきだと思うのです。しかしそのためには、作品を評価する手法が確立される必要があります。そういうことができないだろうか、というのも、この原稿の隠れたテーマである訳です。

私のように考えたかどうか分かりませんが、文献によれば、前述の「実証主義的文学研究」の次に、「作品論」が登場します。

「作家の時代の次に到来したのは、作品そのものへの注目の時代であった。1950年代にアメリカを中心に確立する『新批評』(ニュー・クリティシズム)である。作者から切り離された作品は、独立性を勝ち得ることにより、その自律性が声高に宣言される。作者の伝記的事実をはじめ、あらゆる作品外の情報は切り捨てられ、一つの閉じた世界としてテクストが精読された」。(文献1)

なるほど、そうだなあと思う訳ですが、文献1によれば、ニュー・クリティシズムの後に「読者の時代」というのが到来したそうです。

「読者とは、文学作品を読み次世代へバトン・タッチするだけの受動的な役割を担っている者ではない。読者とは、何よりも能動的存在であり、読む行為により、積極的に文学作品の具体化に関わっているのである。文学作品とは、それ自体で成立する客体ではなく、読者の読みにより、初めて姿を現わす何かなのである」。

こうなってくると、私にもちょっと分かりません。とりあえず、私の立場は、「作家論」ではなく、「作品論」であるということにしておきましょう。

(参考文献)
文献1: 現代文学理論/土田知則 他/新曜社