文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 83 プレモダンのメンタリティ(その2)

No. 83

<プレモダンのメンタリティ(その2)>

プレモダンについては、やはり、2つの時代区分に分けて考えた方が良いかも知れません。

無文字社会の時代
・宗教国家の時代

双方の時代には、共通点もあります。人々の個性や自由は、尊重されなかった。しかし、これらを区分すると、例えば村上春樹の作品世界がよりクリアに見えてくる!

前回のシリーズで取り上げました村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(以下「本件作品」といいます)には、宗教国家のメンタリティというのは登場しないんです。例えば登場人物が突然悟りを開くとか、特攻隊精神を鼓舞するとか、そういう話はまったく出て来ない。本件作品に登場するのは、呪術師とか悪霊ですが、これらは皆、無文字社会のメンタリティなんですね。また、本件作品にはいくつか、登場人物が現実世界と夢の世界を混同する場面が描かれています。例えば、多崎つくるは白根柚木とセックスをする夢を見ますが、その後、「白根柚木をレイプしたのは僕かも知れない」というようなことを発言しています。完全に、夢と現実を混同している。しかし、このようなことは、無文字社会であるパプアニューギニアのイワム族では、実際に起こるんです。「あの男が夢の中で、俺の農作物を盗んだ。だから、あいつを逮捕してくれ」とイワム族の男が白人の保安官に陳情したという話は、以前、このブログに記載した通りです。

そもそも、夢というものは、何らかの意味を孕んでいる場合もあるし、そうでない場合もある。本件作品に登場する多崎つくるの夢も、同じかも知れません。意味のある場合と、意味を推察することができない場合があるように思います。村上春樹は、意味のある夢だけを抽出しないで、意味という概念を捨て、夢そのものを作品内に持ち込んでいるのかも知れません。

ところで、村上春樹の作品においては、登場人物がいとも簡単にセックスをするんですね。このことに違和感を覚える人も少なくないと思うのです。現代日本の現実というものは、そう単純ではない。しかし、前述のイワム族の社会では、同じようなことが起こるんです。

数十年前の話ではありますが、イワム族の男女が偶然、森の中で出会った。すると女性がこう言ったそうです。「あなたは男、私は女。私はOKよ」。それで、2人はセックスをした。随分、簡単ですよね。現代なら、まずメルアドか何かを交換するところから始まる訳ですが、当時、そんなものはない。メールを打とうにも、そもそも文字がない。すると、こういうことが起こるのでしょうか。

しかし、これって村上春樹の世界に通じてないでしょうか? 本件作品においても、大学生の多崎つくるは、アルバイト先で知り合った女性と、簡単に肉体関係を持ったことになっています。やがて、彼女が結婚するため、2人は別れる。彼女は、婚約していたんですね。そして、こう言うんです。「とても良い人なのよ」。こういう関係と、前述のイワム族の話と、どこか似ているように思うのです。共通しているのは、そこに至るまでのプロセスが簡単であること。また、セックスに関して、道徳的、心理的な規制というものが働いていない、ということでしょうか。

モダンの時代に生きながら、モダンを否定し、宗教国家のメンタリティを目指したのが三島由紀夫だとすると、ポストモダンの時代に生きながら、モダンを否定し、無文字社会のメンタリティを訴求しているのが村上春樹だと言えそうです。