文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 90 ポストモダンと無文字社会のメンタリティ

ポストモダンという時代においてマジョリティを占める心の機能は“感覚”で、それは無文字社会においても同じだった。だから、両者には親和性があると思うのですが、この点をもう少し考えてみます。

神話、民話、童話などを総称して、このブログでは“物語”と呼んできましたが、そういうものは、今でも沢山あります。マンガやファンタジー小説、それに映画ではハリーポッターとかアナと雪の女王などがヒットしました。無文字社会における“呪術”については、現在でも誕生月別、血液型別、星座別などの占いが盛んです。ファッションについても、最近はコスプレなどと言って、突拍子もない格好をした若者がいますが、これも未開部族の戦士などと、どこか似ています。

その程度のことであれば、気に留めるまでもないかも知れません。しかし、このブログのNo. 15にも記載したのですが、マレー人においては“アモク状態”と呼ばれ、イワム族では“アムック”と呼ばれるケースがある。「かれは、休みなく飛び跳ね、武器を取り、狂ったように走り出し、出会った人々に見境なしになぐりかかっては殺してしまう」と報告されています。これって、現代の通り魔殺人に似ていないでしょうか。そして、殺人犯は決まって、「人を殺してみたかった」「誰でもよかった」などと言います。日本で最初に通り魔殺人が発生した時には、マスコミも大騒ぎしたような記憶があります。しかし、最近では、決して珍しいことではなくなったような気がするのです。アメリカでも、銃の乱射事件が後を絶ちません。感覚を頼りに生きている人間に、共通した現象ではないかと思うのです。最早、殺人事件の被害者ですら、交換可能な時代になった。

また、モラルも低下しているように思います。宗教国家の時代にあっては、共同体が個人に目を光らせていた。近代思想の時代にあっては、ロジックによって正しいことと、そうでないことを判断していた。それが、“感覚”に依存する社会になり、人々を制御する心の機能というものが、麻痺し始めている。最近になってようやく、人々はそのことに気づき始めたように思うのです。セクハラ、パワハラはいけないことだ、と教育を始めた。もちろん、教育するのは良いことだと思いますが、どこまで効果があるのか疑問でもあります。

今、世界的にうつ病が蔓延しているそうですが、これも“感覚”に依存する人々のメンタリティと無関係ではないと思います。

このように考えますと、現代を生きる我々には、自らの身を守るリスクマネジメントが必要だと思います。

無文字社会の文化を順に考えて行きますと、“呪術”の次は“祭祀”ということになります。それは熱狂的で、最終的にはトランス状態にまで至っていた。そんな文化が、現在もあるでしょうか。確かに、今日でもライブハウスやコンサートホールが沢山あって、人々は熱狂しているようにも見えます。しかし、トランス状態にまでは至らない。コンサートが終れば、人々は翌日の学校や仕事のことを思い出し、青白い顔をして家路を急ぐ。

ここまで来てやっと、ポストモダン無文字社会の相違点が見えてきました。現代に生きる我々は、地球が回っていることを知っている。雷や地震があっても、何故それらの自然現象が発生するのか、そのメカニズムを知っている。だから、トランス状態になる必要はないんです。音楽に熱狂すると言っても、それはエンターテインメントとして楽しんでいるに過ぎず、どこか冷めているんだと思うのです。全存在を掛けて三日三晩踊り続け、トランス状態になって精霊の声を聴く必要があった未開人と現代人の違いがここにあるように思うのです。

このように考えますと、同じ“感覚”に依拠してはいるものの、ポストモダンのメンタリティというのは、かつて人類が経験したことのない、まったく新しい心理状態であると言えそうです。だとすれば、ポストモダンの人々が無文字社会のメンタリティを希求したとしても、そこに救いはないことになります。