読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 92 ポストモダンよ、さようなら!

昨日、アメリカの原子力空母、カールビンソンとその一団が朝鮮半島に向けて出発したというニュースがありました。その後、北朝鮮がこれに強く反発しているという情報もあります。小心者の私は、このニュースが気になって仕方がありません。アメリカがシリアへミサイルを発射したということもありますが、距離的にシリアは遠い。しかし、北朝鮮となると話は別です。とにかく、近い! 何かが起これば、日本にミサイルが飛んで来る可能性がある。

アメリカが保有する最新型のミサイルで、北朝鮮の核施設をピンポイントで攻撃し、それで紛争が終結すれば良いのですが、どうもそうはいかない。北朝鮮は一部の軍事施設を地下に隠し持っているようですし、ミサイルの発射台も移動式のものを開発している。従って、軍事衝突が起こった場合、それが長期化し、全面戦争に発展する危険がある。

北朝鮮のミサイル技術がこれ以上発達すると、核弾頭を搭載したミサイルがアメリカ本土に届いてしまう。アメリカにとって、これはもう他人事ではなくなっている。それに、カールビンソンまで展開して、成果なしでは済まされないような気がします。例えば、カールビンソンが引き上げた直後に北朝鮮が核実験でも行なおうものなら、これはもうトランプ大統領のメンツが丸潰れということになります。アメリカは用意周到な国なので、そのような事態が生ずるとは、考えられません。結果、アメリカの側に譲歩の余地は少ない、と言えます。

一方、北朝鮮側は、国家の維持、発展というよりは、金正恩個人が生き延びることを目的としているような気がします。仮にアメリカの軍事的脅威に屈した場合、北朝鮮国内での統率が乱れ、金正恩が失脚するリスクが生ずる。そうしてみると、北朝鮮の側にも、譲歩の余地は少ない。加えて、中国は北朝鮮に対する影響力を失いつつある。

私は、専門家でも預言者でもないので、今後どうなるのかは分かりませんし、無責任な発言は控えたいと思うのですが、状況が相当、切迫していることに間違いはなさそうです。

では上記の現実に、私という個人はどう対処すれば良いのか。そう思うのですが、どうも私に関与できることは、何もない。私どころか、日本政府ですら、重要な意思決定に関与できる可能性は低い。多分、日本政府は軍事衝突が勃発した場合、韓国内の日本人をどう救出するか、北朝鮮から難民がやって来た場合にどう対処するか、既にシミュレーションは実施済みでしょう。しかし、決定的な意思決定について、その権限を持っているのは、トランプ大統領と金正恩の二人だけなのかも知れません。しかし、その決定には、私たち日本人の誰もが多大な影響を受ける。

このような時に、ポストモダンだとか、ディタッチメント(detachment/分離、無関心)などと言ってはいられないような気がします。

確かに、現実は遠のいてしまったと思うのです。カールビンソンって、私の想像を絶する程、巨大なんでしょうけれども、現実に、それが北朝鮮近海を目指して、今も北上を続けている。そこから戦闘機が飛び立ち、またはミサイルが発射される可能性がある。このように遠くに感じられる現実を認識するには、どうすれば良いのでしょうか。それは、想像してみる以外にないと思うのです。想像力を回復し、遠ざかってしまった現実を引き戻す努力が必要なのではないでしょうか。

随分前のことですが、こんなことがありました。

その晩、私は都内でお酒を飲んで、電車で帰宅する途中でした。降車駅の手前に踏み切りがあって、先頭車両がそこに差し掛かる辺りで、列車は急ブレーキを掛け、続いてガタンという衝撃がありました。ここまで言えば、何が起こったのか、大概の方は想像がつくのではないでしょうか。

降車駅はすぐそこにあるのですが、列車はなかなか動きません。暑い最中のことだったように記憶しています。エアコンも止まり、誰かが窓を開けました。多くの人たちは、黙りこくっていましたが、談笑している人たちもいました。時折、むせかえる社内に笑い声が響いていました。20分程停車した後、やっと列車は動き始めました。丁度踏切を通過する時、私はいたたまれない気持ちになりました。列車の床の鉄板一枚を隔てたその場所で起こったことを想像していたからです。しかし、その瞬間にも談笑は止まらないんです。笑っている人たちがいたんです。

翌日の朝刊の地方欄に、小さな記事が載りました。踏切近辺で、飛び込み自殺があったとのこと。亡くなられた方は、確か、30代の男性だったように記憶しております。

今日、インターネットでこのような記事を見つけました。「福島第一原発事故などの影響で、福島県から避難した児童生徒へのいじめは、2016年度だけで129件にのぼる」とのことです。

ディタッチメント(無関心)というメンタリティが、人々の想像力を低下させているのであれば、私たちはそろそろ、そのようなメンタリティを卒業すべき時期に来ていると思うのです。