読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 99 このブログ、平時のモードに戻します。

すっかり朝鮮半島情勢に振り回されてしまいましたが、問題は長期化すると思われますので、このブログは平時のモードに戻すことにします。

 

また、いくつかの検討課題が中途半端な状態になっていたように思いますので、今回は、それらの問題に決着をつけたいと思います。

 

まず、朝鮮半島情勢の緊迫化に伴い、政治について言及しましたが、私の考えは次の通りです。結局、人間社会というのは、「敵と味方を識別して、集団で闘うシステム」からなかなか脱却できないでいる。また、敵と味方を識別するのは、民族、宗教、イデオロギーの3つではないか。何とかそれらを乗り越えることはできないのか。そこで登場したのが、民主主義だと思うのです。民主主義は、人間集団の結束を求めない。そうではなくて、個人に自律的な思考を促し、政治家は選挙で選ぶのが良いと考えている。私たち日本人にとっては当たり前の話かも知れませんが、守り続ける努力が必要だと思うのです。民主主義が前提としているのは、ポピュリズムに陥らない個人の見識と、選挙における投票行動だと思います。よって、最低限、そこだけは守りましょうと、そう申し上げたいのです。現在の日本の状況を考えますと、宗教やイデオロギーに依存している政党は少なくないと思います。むしろ、その方が多い。しかし、右でも左でもない、新たな価値観を模索しようという動きもない訳ではありません。

 

次に、ディタッチメントという言葉によって象徴されるポストモダンのメンタリティについてですが、世界的に見ると、これは一部の先進国の、比較的裕福で、高学歴の人々に共通した心理状態ではないかと思います。村上春樹の小説は世界的に売れているので、そういうメンタリティを持った人たちというのは、決して少なくない。しかし、この傾向は長く続かないように思います。一つには、2001年に米国で発生した同時多発テロ。もう一つは、2011年に日本で発生した東日本大震災とそれに続く福島第一原発の事故。ディタッチメントだ、関与しないんだと言っても、否が応でも巻き込まれてしまう。

 

また、グローバリズムの終焉ということも申し上げましたが、これは現在、時代が大きく変わろうとしていることを意味していると思うのです。グローバリズムによって、様々な文化が相対化された。例えば、ある地域では誰もが信じて疑わないローカルルールというものがあった。それがグローバリズムによって、そうではないんだ、世界的にはこちらのルールが正しいんだ、という論議が巻き起こる。そして、無数の慣習や法律などが比較検討の対象となったのだと思います。しかし、アンチ・グローバリズムの動きが出てきて、ローカルルールの方がいいんだと主張する人たちが出て来る。その典型が、イスラム国ではないかと思います。これは回顧主義であって、過去に戻ろうとしているんですね。そんな動きを含めて、では何が正しいのか、分かりづらい時代になっていくのだろうと思います。一度生まれた文化というのは、なかなか消滅しない。そこで、古代、中世、近代、現代の各メンタリティというものが、交錯し始めている。そんな時代になったような気がします。今回の北朝鮮の問題にしても、米国のグローバリズムと、北朝鮮民族主義が激しくぶつかっている。もちろん、米国の方に理があるようには思いますが、では、どうして核兵器を持って良い国と、そうではない国があるのでしょうか。これって、ちょっと答えにくい質問ではないでしょうか。現代という時代が終わるとして、その次の時代を何というのか分かりませんが、便宜上、“ポスト現代”とでも言いましょう。ポスト現代は、多様性とリスクの時代になるような気がします。人類が未だかつて経験したことがない程多様で、多様であるが故にリスクに晒される時代。そう思うのです。そして、最大のリスクとは、核兵器であり、原子力発電所ではないかと思います。

 

また、エンターテインメントについても言及しました。情報量というのはタテ(時間)とヨコ(地理的範囲)に拡大を続ける一方です。よって、昔のビートルズのように、誰もが夢中になるムーブメントというのは起こりづらい。また、情報量の拡大と共に、文化はますます細分化されている。例えば、本屋に行って、1冊の本を買う。しかし、その本を読んでいる人というのは、昔に比べれば非常に少ないと思うのです。それは、人々が本を読まなくなったということもあるかも知れませんが、それ以上に本の種類が飛躍的に増加したことが原因となっている。例えば、あなたがあるバンドのファンになる。世間から見れば、もうそれだけで、あなたはオタクと呼ばれるかも知れない。そういう時代だと思うのです。しかし、近代的な意味での芸術というものがほとんど生み出されず、哲学や思想というものが成り立ちにくい現在において、私たちはどうすれば良いのか。そこで私は、オタクと呼ばれようがどうしようが、手の届く何かとの関係性を保ちながら、“遊ぶ”しかないように思うのです。多くの文化は、“遊び”の中から生まれたのですから。