文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 108 遊びとは何か(その8)/戦時中の遊び

江戸時代からスゴロク、カルタなどはありましたが、明治になるとトランプやビリヤードが普及したようです。神戸市の統計によると、大正5年(1916)の市内の遊技場は、次の構成となっていたそうです。(出典:日本遊戯思想史、以下「文献1」)

 

空気銃射的場・・・・・・5

球投げ場  ・・・・・・4

大弓および楊弓場・・・・1

玉突場   ・・・・・14

魚釣場   ・・・・・・1

碁席および将棋会所・・・0

 

球投げ場というのは、何か、的に向かってボールのようなものを投げていたのでしょうか。また、楊弓というのは、遊び用の小さな弓のことのようです。詳細は分かりませんが、当時の雰囲気が伝わってきますね。また、最近はあまり見かけなくなりましたが、当時、ビリヤードの人気の高かったことが分かります。

 

一方、日本は50年戦争とも呼ばれる、過酷な時代に突入します。主要な戦争を列記してみましょう。

 

日清戦争     1894~1895 (明治27年~明治28年)

日露戦争     1904~1905 (明治37年~明治38年)

第一次世界大戦  1914~1918 (大正3年~大正7年)

日中戦争     1937~1945 (昭和12年~昭和20年)

第二次世界大戦  1939~1945 (昭和14年~昭和20年)

 

こう並べてみますと、日本は51年の間に大きな戦争を5回も経験したことが分かります。そして戦争は、遊びという庶民や子供たちのささやかな楽しみまで、奪っていったようです。「文献1」には、次のように記されています。「戦意高揚のため軍国美談や軍神を創作することであった。文部省検定の教科書にこれらを載せて児童に学ばせ、小学唱歌として軍国美談や軍神を讃える歌を唱わせた」。

 

私の世代では、上記引用のうち、まず、“軍神”という言葉の意味が分からない。広辞苑で調べてみますと「すぐれた武勲をたてて戦死した軍人を神にたとえた語」とあります。なるほど、こういうりっぱな軍人さんがいて、こういう活躍をしたという話をつくっては、子供たちに教えていたということですね。

 

同じく「文献1」によれば、日本で最初の麻雀同好会というのは、大正7年(1918)に誕生したそうです。そして、神戸市における麻雀クラブの数は、昭和6年(1931)が最高の245軒を記録していますが、昭和15年(1940)には、わずか18軒まで減少しています。この急減には日中戦争が影響しているようで、麻雀は「亡国遊戯」と呼ばれ、在日中国人と共に政府や軍部から弾圧を受けたのが原因だったようです。

 

1940年になると、日本国政府は、高価な遊戯具をぜいたく品として、その製造販売を禁止しました。次に、遊技場の営業時間を短縮させ、大衆娯楽雑誌の販売も禁止したようです。更に、「街頭の酔客、特に昼間から玉突き、麻雀に耽る学生」は、取締りの対象とされたようです。更には、10戸を一つの単位とする隣組を組織し、家庭内における娯楽についても、これを監視する体制を作ったのです。隣組の目的は、住民相互の監視であって、酒の密造、不倫、花札、麻雀などが発見されると憲兵に通報されたそうです。

 

ここまでは、政府や軍部による遊びに対する弾圧なのですが、更に、遊びは軍部の意向を助長する側に回ってしまうのです。例えば昭和16年のことですが、家庭で遊ばれていた「小倉百人一首」に代わって「愛国百人一首」なるものが推奨された。そして、「愛国百人一首」は、隣組を通じて、半ば強制的に購入させられたそうです。購入を拒否すると、反戦思想の持主であると疑われたそうです。しかし、「文献1」の著者は、次のように述べています。「愛国百人一首ほど為政者の遊びに関する無知と無理解を露呈したものはほかにない。国民が要望しない遊びを押しつけても成功するはずはなかった。軍国主義とはこのような狂気であった」。

 

やがて政府は「ぜいたくは敵だ」というスローガンを掲げると共に、「浪費や遊興が時局に逆行した行為であると共に利敵行為である」と主張し始める。

 

軍国主義は更に暴走し、子供用の遊具として、ピストル、機関銃、迫撃砲、戦闘機、装甲車などが作られた。人気のあった紙芝居も軍国主義に沿った内容のものになった。子供向けの雑誌には、軍事小説なるものが掲載された。「文献1」には、次の記述があります。「学校で天皇のために死ぬことを教えられ、家に帰っても見るもの、読むもの、遊ぶもの全部、軍国主義であった」。

 

昭和17年当時、徴兵の年齢は20歳からだったそうですが、14歳になると陸軍と海軍に志願できる制度になっていました。そして、政府は子供たちにこう呼びかけたそうです。「少年よ来れ、そして選ばれた戦士になれ」「少年諸君よ空にいこう」。やがて、戦争が激化し、少年兵の「志願者」の数が、学校ごとに割り当てられたそうです。但し、中には親の反対を押し切るか、または親に内緒で志願した子供もいたそうです。昭和17年(1942)、ミッドウェー海戦で死亡した兵士の、志願した時点での年齢について、次の記録が残っています。

 

14歳で志願 ・・・ 8

15歳で志願 ・・・ 39

16歳で志願 ・・・158

 

愛国百人一首も、軍事小説も、そんなものは“遊び”ではありませんね。残念ながら、50年戦争と呼ばれる時代には、“遊び”は政府や軍部によって禁止された。“遊び”の歴史を考えますと、この時期は空白期間であったと言えます。

 

(参考文献)

文献1: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014