文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 116 文化の現在(その2)

文化の構造図を眺めていますと、左側に記載した項目、すなわち遊び、大衆文化、前衛芸術は、どれも自由なんです。他方、右側に記載した伝統文化と法律というものは、どうもその反対で、束縛されるイメージが強い。

 

思うに、古代人は比較的自由で平等な暮らしをしていた訳ですが、それが農耕、定住を始めると、経済的に価値のある富というものが出現し、その分配をどうするかという問題が生じた。そこで、権力者が出現し、国家が誕生する。すると、それまでの慣習と、宗教的な規範が融合して、初期の法律というものができる。そこから、人間が秩序を求める傾向というのは加速し、近代に突入した。近代において、そのような秩序に異議を唱えたのは、前衛芸術家だったと思います。一方、政治の世界では社会主義思想というものが誕生する。しかし、これも集団の利益を尊重するものであって、既存の秩序に置き換わる新たな秩序たりえなかったのではないでしょうか。

 

そのような経緯で、どこか息苦しい現代という時代に至ったのではないかと思います。現代に生きる私たちは、自由でしょうか? 私たちは未だに宗教的な規範と、法律の双方に束縛されている。だから、息苦しいのではないか。そうしてみると、ポストモダンのメンタリティがディタッチメント(関与しないこと)と言われるのも、無理はない。息苦しい、束縛されている、ではいっそ現実社会というものと距離を取ってしまおう。そういう流れではないでしょうか。

 

世界的な規模で見ますと、現在も宗教上の規範と、法律の双方が激しく対立しています。インドの法律は、カースト制度を禁じている。しかし、カースト制度はそう簡単にはなくなりません。

 

アメリカでは、キリスト教徒の団体が人工中絶を全面的に禁止する法律の制定を求めています。この法律が成立すると、例えばレイプ被害にあって妊娠してしまった人までも、中絶できなくなってしまう。これは、過干渉の典型ではないか。(さて、干渉し過ぎるということを、“過干渉”と表現したのですが、この言葉は広辞苑には載っていません。もし、私の造語であれば、ご容赦ください。)人工中絶には反対だというキリスト教の人々は、そう考えるのであれば、自分たちがそうすればいいだけの話であって、何も、他の人まで拘束する必要はないと思うのです。しかし、往々にして、人間はある秩序の中で生きていると、それが価値観となり、他の人にも同じ価値観を共有するよう求めてしまう。

 

数日前の新聞に載っていたのですが、イスラエルLGBT性的少数者)の解放を主張する大規模なデモがあったそうです。イスラエルは当然ユダヤ教で、確か、国民の85%がその信者となっている。そして、ユダヤ教は同性愛を禁じているそうです。この場合は、宗教上の規範が、人々に干渉し過ぎていると思うのです。

 

このように、現代におきましては、様々な人々が現存する秩序に対し、異議を述べ始めていると思うのです。

 

大体、人間社会の秩序というのは、人間を区別するところから始まるんですね。学校の運動会でもそうですね。「男と女に分かれて、背の低い者から順に並べ!」。これが区別だと思うのです。しかし、区別は、やがて差別となる。そういうことに、現代人はほとほと嫌気が差している。

 

まず、男女の区別。日本では、日本国憲法によって女性の参政権が認められたと思うのですが、なかなか実態は、男女同権とはいかない。そこで、男女雇用期間均等法ができたりする。

 

私が学生だった時分には、日本の刑法に尊属殺人という規定がありました。尊属というのは、自分よりも上の世代、すなわち両親だとか、祖父母のことです。その反対が、卑属ということになります。そして、卑属が、すなわち子供や孫が、親や祖父母を殺害した場合には、尊属が卑属を殺害した場合よりも刑罰が重くなる可能性があった。これは憲法に反するということを教わった記憶があります。気になって調べてみたところ、現在では、かかる刑法は是正されています。しかし、卑属という言葉自体、これは蔑視ではないか。腹立たしい限りですが、つい最近まで、日本の法律ですら宗教的な価値観と融合していたんですね。

 

肌の色、目の色などに基づく、人種差別というのもあります。もう、そういうのはいい加減勘弁してくれ、というのが現代人のメンタリティではないかと思います。

 

ところで、皆様は、官尊民卑という言葉をご存じでしょうか。字の通り、官僚が偉くて、民間は卑しいという考え方です。そういう、風習が日本には残っていないでしょうか。その起源について、面白い話があります。江戸時代にまで遡るのですが、当時は下級武士が幕府や藩の運営に関わる仕事をしていた。そして、明治維新を迎える訳ですが、それらの下級武士の組織が、官僚制に移行したというのです。これは、小室直樹さんという方の説です。官僚制になっても、元々、自分たちは武士だった。士農工商のトップに位置付けられていた。だから、偉いんだということになる訳です。このような価値観、現代では通用しませんね。

 

そもそも、政治家や役人と言うのは、国民が税金を支払って、その運用を委託するという関係にあります。従って、その税金がどのように使われているのか、政治家や役人は国民に説明する責任がある訳です。そこで、2001年に情報公開法が施行されたのです。テレビのニュースなどで、よく真っ黒に塗りつぶされた資料を野党の人が持っている場面が放映されますが、この黒塗りの資料というのは、情報公開法に基づいて、お役所が公開したものなんですね。私はそれでも、法律がないよりは、あった方が数段良いと思います。

 

何故、こんな話をするかと言えば、現在、加計学園に関する文科省の対応が問題視されているからなのです。今日まで、政治家の賄賂や口利き、役人の天下りなどの問題は無数にありましたが、役所の仕事の仕方自体が政治問題となったケースは、あまりないように思います。結論がどうなるかは分かりませんが、この件なども、長い目で見ると、官尊民卑という古い秩序、価値観を変える重要な出来事となるかも知れません。